2015年10月
2015年10月03日
中村文則『教団X』 ひとくち感想文
この作品の読後感を書くのはいまの立場ではやめといたほうがいいのかもしれない(笑)けれど、今の女子大生は絶対に567ページもある小説を読もうなんて気は起こさないでしょうから、まぁメモがわりにひとくち読後感を書いておこうと思います。
以前に有栖川有栖さんにゼミへ来てもらったとき、事前にゼミ生になにか最低1冊は読んでおくようにと、自分のもっている彼の作品を全部研究室へ持って行って、文庫本一冊買うお金も節約しようというゼミ生に貸せるようにして待機していたら、くる学生くる学生、ほとんどが本を全部机の上に並べて、しきりに身をかがめて横から本をながめているので、何をしてるの?と訊くと、「一番うすいやつを借りようと思って」(笑)
プルーストの「失われた時を求めて」はジョイスの「ユリシーズ」と並んで現代文学の地平を切り開いた作品だよ、というようなことを言って、後者は少々歯ごたえがありすぎると思うから、前者ならじっくり読めば、古典的な作品になじんだ人が読んでも楽しんで読めると思うよ、文庫本で出てるし・・・ただし、しつけのいいお坊ちゃんがうちにお客の集まる日に先に寝るように言われて2階の寝室のベッドに横たわって、いつものようにママが接吻をしにきてくれるのを、いつ来てくれるかと待っている、という描写で最初の50ページ分くらいかかるから・・・、なんていい加減なことを言うものだから、女子大生は、手にとろうともせずに「もういいです」(笑)
というわけで、この『教団X』 も、いまや本屋さんに平積みになっているところをみると、いま現在のベストセラーなんじゃないかと思いますが、どういう人が読んでいるんだろう?と気になるところです。企みがあって、なかなか面白かった『掏摸』以来、熱心なファンが付いているのかもしれませんね。
これを車中で読んでいくと、ちょうど女子大への通勤途上なので、3回目の乗り換えをして職場に近づくにつれて 、車中は女子大生が多くなり、中にはどこかで見たような人もいるような気がするし、いやまさかこれは読んでないよな、と思いはするものの、なんとなく表紙や背を見られるだけで後ろめたいような(笑)気になってきます。
それはまぁ「教団X」という怪しげなタイトルのせいもあるけれど、それよりも中身を立ち読みででも見た人がいたら、ちょっとやばいな、と(笑)。前半はもうほとんどポルノと紙一重の描写が何度も繰り返し出てきますから。まぁこういう読み方はもちろん邪道だけれど、男性なら若いときはそういう読み方もたんとするものですからね。
高校生のころ母の本棚に伊藤整訳の発禁本(裁判で当時は猥褻と判定された)の「チャタレイ夫人の恋人」 を拾い読みしたことを思い出しますが・・・あれは後に全部ちゃんと読んで名作であることを得心すると同時に、なんでこんなのが猥褻と判断されたのかな、という感じでした。夫婦愛じゃなくて不倫だからお堅い法曹関係者やPTAの証人なんかに憎まれたのかな、なんて思いました・・・。
さて本題。ひとくち読後感として、拾いたいところだけ言えば、この作品で一番良かったのは、ラストに近い沢渡の告白の中のナイラのエピソードの部分。
当然すぐにドストエフスキーの『悪霊』で削除された「スタヴローギンの告白」 を連想するし、作品の中でも登場人物がスタヴローギンに言及するなど、作者があの作品を意識して、いわばアジア的なスタヴローギンを創り出そうとしていることはたやすく見てとれます。そして、ドストエフスキーがあの告白の章を『悪霊』の中心的な章と考えていたのと同様に、『教団X』の作者もまたこの沢渡の告白の章をこの作品の中心と考えているだろうと思います。
率直に言って、前半のポルノチックな描写は川上宗薫や渡辺淳一のほうがもっとうまく描くぜ、と苦笑しながら読んだし、松尾の宇宙がどう、素粒子がどうというお喋りは、いつだったかニュースステーションの古館が別の番組で似たような自然科学の近年の知識の断片を組み合わせて「哲学」めいた駄弁を弄していたのを聞いたときと同様に、なんの意味もない他愛なお喋りでしかないと思いました。
科学的な知識や、思想を小説のような文学作品の中に取り込んだようなもので、私が読んでそう違和感を感じなかったのは、ポーの「ユリイカ」やクレジオの「物質的恍惚」、思想の言葉を比較的ナマで取り込んでとうとうと論じるようなのは、それよりずっと多くて、必ずしも失敗作ばかりでないのは承知していますが、日本語の作品ではあまりそういうのはお目にかかりません。埴谷雄高の「死霊」のような特異な例はあるけれど、あれも「小説」として読めるかどうか(笑)。平野啓一郎の「葬送」は若い作家のその種の作品の中では、とっても素直に楽しんで読めるいい小説でした。
昔、小松左京が梅棹忠夫やそのお友達の学者らがいるサロンのような場で、「わしらみたいな小説家は学問の消費者やから」と彼らしく学問を尊敬してまっせ、という目線から自らの仕事を卑下してみせたのを思い出しますが、だいたい作家が作品の中で先端的な自然科学の知識を取り込んで、登場人物なりの特異な自然観、世界観、人間観をその組み合わせででっち上げようとするときは、ちょっと見ていられない場合が多い。
それはちょうど、ずっと昔に、有村なんとかという、何ヶ国語かの外国語を、いかにもそれぞの国の言語であるかのように、抑揚やリズムだけその言語の特徴に似せて、デタラメな日本語でまるで本当にフランス語やドイツ語で喋っているかのように聴かせる「芸」が巧みなタレントがいましたが、作家の描く登場人物の宇宙物理や素粒子論なんてものは、有村某の「外国語」と似たようなものに見えてしまうところがあります。
もちろん有村はそのことに自覚的で、「芸」としてそれをやっているから楽しめますが、作家の物理学のほうは胃袋の中で未消化なままの食物を吐き出すのを見せられているようで、その登場人物の思想的な重さが感じられなくなってしまいます。
それに、いくら沢渡らが松尾から分かれた異株だとしても、人間を語るに素粒子がどうこうという語彙もそれを組み合わせた思想らしきものも似ていて、その似方が「似て非なるもの」として小さな差異ほど激しい近親憎悪を生む類の「違い」としてそこから何かが生まれてくるならまだしも、まるで作者が一人でしゃべりまくっているような印象しか持てないのは、この作品が思想劇になりきれない大きな原因のひとつでしょう。
古典的な文芸評論家なら、ひとりひとりの登場人物を描き分ける力がない、と片付けるかもしれませんが、もちろん古典的なリアリズムのように別段登場人物の性格や心理を描き分けることがこの作品の質を保証するわけではないけれど、スタヴローギンとキリーロフは、またシャートフは、生きた人間としても、また思想劇を担う一個の思想としても、同じ株から別れた異株であっても、非常にクリアに描き分けられています。
善と悪、聖と俗、禁欲と頽廃、苦痛と快楽の相剋とそれを追い詰めていく仕掛けは、まさに『悪霊』のスタヴローギンの二重人格的な構図そのものだし、スタヴローギンの凌辱した少女のエピソードをなぞってみせるかのようなナイラのエピソードはその核心でありすべての原形で、この作品の重心となってその世界を支えています。
しかし、ドストエフスキーにとっては、いやスタヴローギンにとっては、ここに外来思想としてのキリスト教があり、徹底的に人の心の内部まで踏み込んでくるその倫理があってこそ、彼の破戒があり、生命を賭して神に挑む戦いがあるので、彼の場合は西欧に留学してどっぷりとキリスト教世界に浸り、ロシア的な土壌を離れていわば肉体を失って思想的身体になってしまった彼は硬い自意識の殻の中で、自己矛盾としてその戦いに臨むしかありません。
これはもう最初から敗れて、自滅自死する他に結末は考えられないようなシチュエーションですが、こうした人物の造形は、当時のヨーロッパ世界、ヨーロッパ精神と、ロシア、ロシアの精神的風土、土壌との間で引き裂かれるロシア知識人の、ひいてはロシア民衆の現状と運命に根ざしていたからこそ、思想劇としての意味を持っていたのでしょう。それは漱石の三四郎(日本)と美禰子(西欧)が精神の世界地図の中での向き合いかたを象徴するものだったのと同様です。
キリスト教も近代的な自意識も欠き、曖昧模糊とした日本で、そもそも「神は死んだ」というニーチェ的なつぶやきや「すべては許される」という悟りのごとき言葉が、はたして意味を持つのかどうか。スタヴローギンからキリスト教や自意識の分裂をとってしまったら、なにが残るのか。私にはこの『教団X』の作者が、あるいは登場人物の沢渡が、そのことに自覚的であるようには見えず、有村某のような、しかし彼ほど自覚的でない模倣者のようにしか見えません。
しかしまぁ、よくこれだけの量を書きましたよね(笑)。私も最後の沢渡の告白を読んで、もう一度スタヴローギンの告白を読み返してみたくなりました。それで紙の色が変色した本棚の隅っこの『悪霊』を取り出して来て読んでみましたが、さすがにドスト氏の描写はすごいですね。彼の作品は思想小説なんて言われるけれど、思想と思想がひとつの作品の中でぶつかり合い、ほんものの思想劇を演じるためには、ひとつひとつの思想が一人の人物のように肉体として生きて動いていなければいけない。
ここでチホンのもとを訪れるスタヴローギンは、まさに思想の塊、思想の現実化、思想の肉体として、チホンのそれに向き合い、激突しているわけですが、その思想の分裂病的な自己矛盾が、彼の憎悪や嘲笑やうってかわった素直さ、率直さのうちに、そのまま肉体化されてそこに立ち、部屋の中をせっかちに動き回り、大げさな身振りや嘆息をしてみせていますね。まさに思想が生きて立って動き回っている。
いや、ドスト氏と比べてはいくらなんでも不公平でしょうから、このくらいに。大人の方には(笑)十分エンターテインメントとして楽しめる小説だと思いますので、うちのゼミ生や女子大生以外の方はどうぞ・・・(笑)
以前に有栖川有栖さんにゼミへ来てもらったとき、事前にゼミ生になにか最低1冊は読んでおくようにと、自分のもっている彼の作品を全部研究室へ持って行って、文庫本一冊買うお金も節約しようというゼミ生に貸せるようにして待機していたら、くる学生くる学生、ほとんどが本を全部机の上に並べて、しきりに身をかがめて横から本をながめているので、何をしてるの?と訊くと、「一番うすいやつを借りようと思って」(笑)
プルーストの「失われた時を求めて」はジョイスの「ユリシーズ」と並んで現代文学の地平を切り開いた作品だよ、というようなことを言って、後者は少々歯ごたえがありすぎると思うから、前者ならじっくり読めば、古典的な作品になじんだ人が読んでも楽しんで読めると思うよ、文庫本で出てるし・・・ただし、しつけのいいお坊ちゃんがうちにお客の集まる日に先に寝るように言われて2階の寝室のベッドに横たわって、いつものようにママが接吻をしにきてくれるのを、いつ来てくれるかと待っている、という描写で最初の50ページ分くらいかかるから・・・、なんていい加減なことを言うものだから、女子大生は、手にとろうともせずに「もういいです」(笑)
というわけで、この『教団X』 も、いまや本屋さんに平積みになっているところをみると、いま現在のベストセラーなんじゃないかと思いますが、どういう人が読んでいるんだろう?と気になるところです。企みがあって、なかなか面白かった『掏摸』以来、熱心なファンが付いているのかもしれませんね。
これを車中で読んでいくと、ちょうど女子大への通勤途上なので、3回目の乗り換えをして職場に近づくにつれて 、車中は女子大生が多くなり、中にはどこかで見たような人もいるような気がするし、いやまさかこれは読んでないよな、と思いはするものの、なんとなく表紙や背を見られるだけで後ろめたいような(笑)気になってきます。
それはまぁ「教団X」という怪しげなタイトルのせいもあるけれど、それよりも中身を立ち読みででも見た人がいたら、ちょっとやばいな、と(笑)。前半はもうほとんどポルノと紙一重の描写が何度も繰り返し出てきますから。まぁこういう読み方はもちろん邪道だけれど、男性なら若いときはそういう読み方もたんとするものですからね。
高校生のころ母の本棚に伊藤整訳の発禁本(裁判で当時は猥褻と判定された)の「チャタレイ夫人の恋人」 を拾い読みしたことを思い出しますが・・・あれは後に全部ちゃんと読んで名作であることを得心すると同時に、なんでこんなのが猥褻と判断されたのかな、という感じでした。夫婦愛じゃなくて不倫だからお堅い法曹関係者やPTAの証人なんかに憎まれたのかな、なんて思いました・・・。
さて本題。ひとくち読後感として、拾いたいところだけ言えば、この作品で一番良かったのは、ラストに近い沢渡の告白の中のナイラのエピソードの部分。
当然すぐにドストエフスキーの『悪霊』で削除された「スタヴローギンの告白」 を連想するし、作品の中でも登場人物がスタヴローギンに言及するなど、作者があの作品を意識して、いわばアジア的なスタヴローギンを創り出そうとしていることはたやすく見てとれます。そして、ドストエフスキーがあの告白の章を『悪霊』の中心的な章と考えていたのと同様に、『教団X』の作者もまたこの沢渡の告白の章をこの作品の中心と考えているだろうと思います。
率直に言って、前半のポルノチックな描写は川上宗薫や渡辺淳一のほうがもっとうまく描くぜ、と苦笑しながら読んだし、松尾の宇宙がどう、素粒子がどうというお喋りは、いつだったかニュースステーションの古館が別の番組で似たような自然科学の近年の知識の断片を組み合わせて「哲学」めいた駄弁を弄していたのを聞いたときと同様に、なんの意味もない他愛なお喋りでしかないと思いました。
科学的な知識や、思想を小説のような文学作品の中に取り込んだようなもので、私が読んでそう違和感を感じなかったのは、ポーの「ユリイカ」やクレジオの「物質的恍惚」、思想の言葉を比較的ナマで取り込んでとうとうと論じるようなのは、それよりずっと多くて、必ずしも失敗作ばかりでないのは承知していますが、日本語の作品ではあまりそういうのはお目にかかりません。埴谷雄高の「死霊」のような特異な例はあるけれど、あれも「小説」として読めるかどうか(笑)。平野啓一郎の「葬送」は若い作家のその種の作品の中では、とっても素直に楽しんで読めるいい小説でした。
昔、小松左京が梅棹忠夫やそのお友達の学者らがいるサロンのような場で、「わしらみたいな小説家は学問の消費者やから」と彼らしく学問を尊敬してまっせ、という目線から自らの仕事を卑下してみせたのを思い出しますが、だいたい作家が作品の中で先端的な自然科学の知識を取り込んで、登場人物なりの特異な自然観、世界観、人間観をその組み合わせででっち上げようとするときは、ちょっと見ていられない場合が多い。
それはちょうど、ずっと昔に、有村なんとかという、何ヶ国語かの外国語を、いかにもそれぞの国の言語であるかのように、抑揚やリズムだけその言語の特徴に似せて、デタラメな日本語でまるで本当にフランス語やドイツ語で喋っているかのように聴かせる「芸」が巧みなタレントがいましたが、作家の描く登場人物の宇宙物理や素粒子論なんてものは、有村某の「外国語」と似たようなものに見えてしまうところがあります。
もちろん有村はそのことに自覚的で、「芸」としてそれをやっているから楽しめますが、作家の物理学のほうは胃袋の中で未消化なままの食物を吐き出すのを見せられているようで、その登場人物の思想的な重さが感じられなくなってしまいます。
それに、いくら沢渡らが松尾から分かれた異株だとしても、人間を語るに素粒子がどうこうという語彙もそれを組み合わせた思想らしきものも似ていて、その似方が「似て非なるもの」として小さな差異ほど激しい近親憎悪を生む類の「違い」としてそこから何かが生まれてくるならまだしも、まるで作者が一人でしゃべりまくっているような印象しか持てないのは、この作品が思想劇になりきれない大きな原因のひとつでしょう。
古典的な文芸評論家なら、ひとりひとりの登場人物を描き分ける力がない、と片付けるかもしれませんが、もちろん古典的なリアリズムのように別段登場人物の性格や心理を描き分けることがこの作品の質を保証するわけではないけれど、スタヴローギンとキリーロフは、またシャートフは、生きた人間としても、また思想劇を担う一個の思想としても、同じ株から別れた異株であっても、非常にクリアに描き分けられています。
善と悪、聖と俗、禁欲と頽廃、苦痛と快楽の相剋とそれを追い詰めていく仕掛けは、まさに『悪霊』のスタヴローギンの二重人格的な構図そのものだし、スタヴローギンの凌辱した少女のエピソードをなぞってみせるかのようなナイラのエピソードはその核心でありすべての原形で、この作品の重心となってその世界を支えています。
しかし、ドストエフスキーにとっては、いやスタヴローギンにとっては、ここに外来思想としてのキリスト教があり、徹底的に人の心の内部まで踏み込んでくるその倫理があってこそ、彼の破戒があり、生命を賭して神に挑む戦いがあるので、彼の場合は西欧に留学してどっぷりとキリスト教世界に浸り、ロシア的な土壌を離れていわば肉体を失って思想的身体になってしまった彼は硬い自意識の殻の中で、自己矛盾としてその戦いに臨むしかありません。
これはもう最初から敗れて、自滅自死する他に結末は考えられないようなシチュエーションですが、こうした人物の造形は、当時のヨーロッパ世界、ヨーロッパ精神と、ロシア、ロシアの精神的風土、土壌との間で引き裂かれるロシア知識人の、ひいてはロシア民衆の現状と運命に根ざしていたからこそ、思想劇としての意味を持っていたのでしょう。それは漱石の三四郎(日本)と美禰子(西欧)が精神の世界地図の中での向き合いかたを象徴するものだったのと同様です。
キリスト教も近代的な自意識も欠き、曖昧模糊とした日本で、そもそも「神は死んだ」というニーチェ的なつぶやきや「すべては許される」という悟りのごとき言葉が、はたして意味を持つのかどうか。スタヴローギンからキリスト教や自意識の分裂をとってしまったら、なにが残るのか。私にはこの『教団X』の作者が、あるいは登場人物の沢渡が、そのことに自覚的であるようには見えず、有村某のような、しかし彼ほど自覚的でない模倣者のようにしか見えません。
しかしまぁ、よくこれだけの量を書きましたよね(笑)。私も最後の沢渡の告白を読んで、もう一度スタヴローギンの告白を読み返してみたくなりました。それで紙の色が変色した本棚の隅っこの『悪霊』を取り出して来て読んでみましたが、さすがにドスト氏の描写はすごいですね。彼の作品は思想小説なんて言われるけれど、思想と思想がひとつの作品の中でぶつかり合い、ほんものの思想劇を演じるためには、ひとつひとつの思想が一人の人物のように肉体として生きて動いていなければいけない。
ここでチホンのもとを訪れるスタヴローギンは、まさに思想の塊、思想の現実化、思想の肉体として、チホンのそれに向き合い、激突しているわけですが、その思想の分裂病的な自己矛盾が、彼の憎悪や嘲笑やうってかわった素直さ、率直さのうちに、そのまま肉体化されてそこに立ち、部屋の中をせっかちに動き回り、大げさな身振りや嘆息をしてみせていますね。まさに思想が生きて立って動き回っている。
いや、ドスト氏と比べてはいくらなんでも不公平でしょうから、このくらいに。大人の方には(笑)十分エンターテインメントとして楽しめる小説だと思いますので、うちのゼミ生や女子大生以外の方はどうぞ・・・(笑)