2015年09月
2015年09月27日
スナップショット⑤ 田村隆一
前の職場(シンクタンク)にいたときのこと。ある日突然、詩人の田村隆一が職場へやってきました。
まだ職場が河原町御池の信用金庫支店の上の階にあったころのこと。市役所の斜交い向かいで交差点に面して建っており、祇園祭の山鉾巡行のときは山鉾が方向を変える辻回しをほぼ真上から見、その山鉾が御池通りを西へゆっくりと去っていくのを眺めることができる絶好の場所でした。
職場には仕事の性質上、株仲間と呼ばれるわずかずつの株を持ってもらっている株主で実際的には必要なときにお金より知恵の方を借りることが目的の文化人、有識者がよく出入りしていましたが、詩人というのはいなかったし、田村さんとは縁もゆかりもなかったはずです。
しかし、もちろんよく知られた詩人で私も彼の詩は読んでいたし、なによりも愛読していた吉本さんが通った今氏乙治塾のたしか先輩でもあったことで親しみを感じていたので、この突然の来訪は驚きであると同時に嬉しく、仕事を放り出して私も喜んでお相手をしたのです。
「ここへ来たら旨い酒が飲める、ということだけ覚えていたんだ」と開口一番、彼は言い、めったに飲む機会もなく飾り物になっていた応接間のブランデーだったかウィスキーだったかをうまそうに飲みはじめます。だれかわが社に出入りする文化人につれられて一度か二度来たことがあるらしく、うちでは夜のアイディア会議の席などでは酒を酌み交わしながら気軽なサロンの雰囲気でやっていたので、それに味をしめたというわけです。
それにしても、よく覚えていましたね、と私の同僚が驚いて言ったものですが、田村さんは、酒飲みの嗅覚だよ、旨い酒のあるところは、ちゃんと覚えている、というようなことを言って笑っていました。
一目見て、この人はその詩から伺えるとおり、すごく頭の切れるシャープな印象の人だな、と思ったのと同時に、その容貌・容姿に触れて、きっと若いころは女性にモテモテにもてた人だったろうな、と思いました。
もちろん、私が遭遇したときは、もうシワシワのお爺ちゃんだったけれど、でもとってもダンディな紳士の面影は失せていませんでした。少しアル中気味の感じではあったけれど(笑)。
その日も男子の学生が2人ついていて、「いまから大学で講演をしなきゃいけないから、見張り役でついてきているんだ。」と言いながら、結構グラスをあけて、お守りの学生さんが心配そうな表情でいつもうそろそろと声をかければいいかと伺っている様子でした。
彼は饒舌でしたが、何を喋ったかは記憶力の悪い私はほとんど覚えていません。ただ、「さっきまで阿部昭と一緒だったんだ」というので、「それは残念、一緒に来て下さればよかったのに」と私が応じ、「いまの作家の中では阿部さんが一番好きです」と言うと、彼は居住まいを正すように「彼はほんものの散文家ですよ」と言いました。
そのあと「ほんものの詩人はここに居るがね」とは言わなかった(笑)。私がこの彼の言葉だけを覚えているのは、それまで好々爺のように笑顔で洋酒を飲みながら機嫌よく軽口を叩いていた彼が、阿部さんへのこの評言だけは、妙に生真面目に、若い私に教え諭すように、自分の文学的評価の本心で断定する、というように言い切ったからで、そのころ阿部さんの小説を片っ端から全部読んでいた私にはとても嬉しい評価だったせいでしょう。
実際の時間にすればほんの20分か30分のことだったでしょうが、彼はお守役の学生を気遣うように、これで一息ついた、というようなことを言って立ち上がり、大学での講演に戻って行きました。ただそれだけの出会い、たった一度きりの遭遇でしたが、私には彼のダンディな姿がいまも強く印象に残っています。
2015年09月10日
スナップショット(4) 濱谷 浩
会った瞬間に、この人は無頼派だと直観できるような人が希にあるけれど、私の知る狭い範囲の著名人の中では、唯一、濱谷さんがまさにそういう人だった。実際、彼は1915年生まれで、1913年生まれの織田作之助など無頼派と同じ時代に生まれ、生きてきた人だった。大正、昭和初期の自由で華やいだデカダンな雰囲気を、持って生まれた体臭のように身にまとっている感じがした。
若い頃の被写体としての彼自身は、細面で白皙の美青年、繊細な印象の、いまでいうイケメン。私が会ったのは目尻も眉も垂れ、こけた頬から口の周りにかけて何本もの深い皺が寄った能面の翁のような表情の、人懐っこそうな老人だったが、若いときの表情に備わっている品の良さはそのままで、無頼の中に品の良さを失わない無頼派の面目をうかがわせてくれていた。
私の前職のシンクタンクで滋賀県の広報誌をつくることになり、所長をはじめとする編集委員たちが検討した結果、ありきたりの行政の広報誌ではなく、海外からの賓客に土産として持ち帰ってもらえるような価値のある、そして滋賀県の良さを伝えられるようなもの、ということで、写真家に滋賀県全域をまわってもらって、その四季の風景を写真に定着してもらい、これを各国語版でつくろう、ということになった。
その写真家として、濱谷浩さんに白羽の矢が立ったわけだ。
濱谷さんに付き添う担当スタッフは、私の勤務先の滋賀県在住者がつとめた。彼は金融機関に勤務していた堅物の顔をもつ一方で、心根は仏文出身の軟派で濱谷さんのもてなし役にはピッタリだった。
濱谷さんは撮影のために月に一度くらい東京から京都へやってきて泊まり、翌日は担当者の車で滋賀県内をめぐって撮影する。彼が来るとすぐにわかるのは、ほかの人のように入口で受付の女性に名乗ったりせずに、陽気に喋りながら担当者のいる奥までズケズケと入ってきて実に騒々しく、場の雰囲気がパッと華やぐからでもあった。
濱谷さんが京都へ来るときは、一夜、宴の席を設けるのが礼儀とわが社では心得て、あのころは定期的に濱谷さんを囲む宴をどこやらでやっていたような気がする。
宴会の中での濱谷さんは、実に生き生きしていた。陽気な酔い方で、じきに踊りだす。こちらが接待しているはずなのだけれど、彼は、さあ、さあ、と周囲を巻き込んで、座を陽気な宴の場に一人で盛り上げてくれる。
そんな時に彼が見せる、ある種の「とことんいく」感じが、アブナイ匂いを発散して、並のサラリーマン根性では付き合えないな、という印象だった。
肝心の撮影のほうも、たしかひと月に一度くらいは訪れて、2日がかりくらいで、琵琶湖の周囲を行ったり来たり回ったりして、彼がこれと目星をつけた風景を撮りためていったようだ。
しかし、ちょうど桜の季節に、ちょっとした事件が起きた。
満開の桜を撮ろうと計画した濱谷さんは、桜が見頃になったら時を違えず知らせるようにと担当者に指示して待っていた。彼は東京に住んでいたから、撮影の数日前には知らせて、いついつ行く、と段取りを決めて来る。
ところが、ちょうど滋賀県の桜の満開のあたりが、週末土日か連休のときにかかったらしい。うちの担当者は、休日はきっちり休みたい人だった。いや私もそうだったけれど(笑)。で、一日くらい延びたからって大丈夫だろう、と思ったのかどうか、彼が気づいたときにはもう桜は散り始めていたらしい。
慌てて濱谷さんに電話したが、濱谷さんが飛んできたときには、すでに滋賀県の主だった桜名所の桜は満開の時期をすぎて散っていたようだ。
四季折々の風景を撮影して滋賀の一年を写真で表現するのだから、タイミングを逸してしまえば、濱谷さんが、その季節を象徴すると考える被写体を撮り逃がすことになり、もう一年待ってあらためて撮影するか、次善の被写体で代用するしかない。濱谷さんのような芸術家に後者はありえない。
担当者はえらいことになった、と青ざめたろうが、結果はわれわれ傍で見ているものがハァーッ、と心から感心するようなものになった。
濱谷さんはもはや満開の桜が撮れないと分かると、彦根城で散った桜が城の堀を埋め尽くして悠然と流れる様を撮ったのだ。その写真はほんとうに美しく、また桜は満開に咲いているときよりも、束の間咲いて散っていくこの姿にこそ桜の美学があると感じさせてくれるような見事なものだった。
そして、この写真は濱谷浩写真集と言って良い滋賀県広報誌の表紙を美しく飾ることになった。
ほかにも彼の撮った写真の中には感心するようなものがいくつもあった。
記憶にあるそのひとつは、湖と青空をバックに少し岸から湖のほうへ入ったところに立つ鳥居を撮ったもので、もちろんこの鳥居は年中動かずにそこに立っているから、湖岸道路に面した場所でもあり、それまでに何度も車で前を通っていたが、濱谷さんはまったく無関心で、無視していたらしい。
ところが、あるとき前を通りかかると、突然濱谷さんが、「停めろ!」と大声を出してカメラを構えて車を降りた。見ると朱い鳥居の背後から、青空を背景に真っ白な入道雲が立ち上がって、空に伸びていた。その一瞬を、彼は見逃さなかったのだ。
濱谷さんがこのとき撮った写真で展覧会も行われ、四季折々の滋賀の風景をみごとにとらえた写真集は、PR臭くない感動的な滋賀の永久保存版的広報誌として好評を博し、県を訪れた海外からの多くの来賓の手に渡され、素晴らしい土産として喜ばれたようだ。
一般に定価をつけて販売される書籍ではなかったから、ごく少数の人にしか知られなかったかもしれないが、私はこの写真集は濱谷さんの写真集としても非常にすぐれた作品集のひとつだと思うし、全国の都道府県、市町村の広報誌の中では歴代ベストワンに違いない、と信じている。
2015年09月08日
スナップショット(3) 鶴見俊輔
鶴見さんの話を直接間近に聞いたのは、大学にはいったばかりの年だったでしょう。彼が私がいた大学へ講演に来たので、雑誌「思想の科学」に拠って、非常に平易な言葉で哲学を語る知識人として、またベトナム戦争に反対している進歩的知識人として知っていた彼の話を聞いてみたいと思ったのです。
ただ、私の場合、彼へのアクセスはちょっと普通の文科系の学生と違い、理科系にいたので、理論物理学者の武谷三男を通して、武谷さんのことを評価していた鶴見さんの名を記憶にとどめていたのです。
もう著名な文化人だった鶴見さんの講演会場は満員だったように記憶しています。彼は背が低く、いたずらっ子がそのままおじさんになったような丸顔に、メガネの向こうにはクリクリよく動く目。
あのころはやや小太りだったように思いますが、大学教授といったエラソウな雰囲気がまったくなくて、人懐っこそうな目をして、喋りながらあちこち精力的な印象で動き回り、不特定多数に講演するというよりも、そばにいる誰かれなくつかまえては、こうでしょ?こうなんだな、などと直接声をかけるような調子で、手ぶらで話し続けたのです。
講演内容は記憶力の弱い私は例によって何も覚えていないけれど、二つだけ強く印象に残っていることがあります。
一つは、彼が講演の中で何度も何度も「ヨシモトリュウメイ」という名を肯定的に口にしたことです。私はまだ吉本さんを読んだこともなかったので、「リュウメイ」が「隆明」だとも知らず、へんな名前だな、号なのかな、などと思いながら聴いていました。
ただ、鶴見さんがその「リュウメイ」という人の書いたものを非常に高く評価していることだけはよくわかり、一度読んでみよう、と思ったのでした。私が吉本さんの著作を読み始めたのは、このとき鶴見さんに「紹介」してもらったのがきっかけでした。
もうひとつは、鶴見さんは、このとき講演に来た私がいた大学に、鶴見さんにとっては最初の大学教員としての仕事で赴任したことがあったそうで、そのときのエピソードを話してくれたのです。
英語の原書購読みたいなことをしていて、彼は米国で育った人ですから、「全然準備などしないで教場へ出て、学生に読ませていたところ、先をちょっとみたらひとつ自分にわからない単語があった。困ったな、と思っていたら、あてられて訳していた学生は難なくスラスラと訳してしまった。それでこの大学の学生はできるんだな、というのがぼくの最初の印象でしたね」、というのが鶴見さんのそのときの聴衆であった私たちへの社交辞令でした。
で、その話にはオチがあって、「その優秀な学生というのが、多田道太郎だったんですね」、とのことで、なぁんだ・・・と。多田道太郎のことは教科書に出てきたのだったか、複製芸術論かなにかですでに知っていたので、そりゃそうだよな、学生の時からやっぱり優秀だったんだな、などと思ったのでした。
生意気だった学生の私たちは、その後まもなく、ベトナム戦争反対をクラスで著名集めに駅頭に立ったりして東京までデモに出かけたりといったことにのめり込んでいくのですが、そういう運動にシンパシーを表明しているような進歩的文化人に対しては今思えば理不尽なほど敬意を欠いており、むしろ彼らよりもずっとラディカルな吉本さんや埴谷雄高のような思想家をずっと高く評価していました。
率直に言えば、社会党や共産党に距離を置きながらそういった党派的な活動にシンパシーを感じているような同伴的進歩的文化人をひどく軽蔑していたといっていいでしょう。そういう進歩的文化人の中では、鶴見さんはちょっと特別で、この人はちょっと違う、と思って、書いたものも比較的よく読み、時には彼が教えていた同志社大学へ出かけてもぐりの学生として受講したこともあります。
私の聞いた授業は新聞学だったと思いますが、彼は浅間山の火口への飛び降り自殺がはやった昔のできごとを取り上げて、その現象へのメディアの影響について、やっぱり何も持たずに手ぶらで、学生の間を歩き回りながら、身振り手振りで精力的な「講義」をしていました。
彼は自分でも大人しい学者だの研究者だのとは思っておらず、晩年にいたるまで、自分は狂人なんだ、というようなことを言い続けていたと思うし、決して足して二で割って中道を行くような中途半端な進歩的知識人ではなくて、誰に対しても気取りのない一見穏やかな笑顔や、あの明晰で易しい表現の合間に、ときおり眼光するどい表情が覗くように見えたのは、狂気を噛み砕いて丸めた、いつ破裂するかもしれない得体の知れないものが彼の中に潜んでいたからかもしれません。
私は彼には深入りしなかったけれど、彼に「紹介」してもらった「リュウメイ」のほうには自分なりに深入りしてきたので、雑誌などでの鶴見―吉本対談は、たしか重要なものは私の知る限り2度だけだったと思うけれど、穏やかなやり取りの中に、ラディカルな吉本さんの思想と鶴見さんの市民主義の思想が、ともに日本にはじめて根付きかけたほんものの思想として相互に試されるような実に厳しい対談だと感じながら読んだ記憶があります。
しかし、晩年の鶴見さんの書いたものや、彼の後輩世代の文化人が彼の話を聴いてまとめたような本を読んでみると、私が最初に強い印象を受けたときのように瑞々しい鶴見さんの「リュウメイ」への評価はまったく影を潜めているようです。口幅ったい言い方になるけれども、読めていない。あの鶴見さんにしてこれか、と立ち読みしながら残念に感じたことでした。
つい先ごろ鶴見さんの訃報に接し、わずかな一方的な接点ではあったけれど、鶴見さんには吉本さんを「紹介」してもらったことが、私にとっては何よりの恩ということになります。もちろん『共同研究
転向』の埴谷雄高論に感心し、あの実に分かりやすい言葉で書かれた小さな哲学・論理学用語辞典にずいぶんお世話になったことは、いわば中身の話で、すれちがった瞬間にパチリとある角度から遺影をとどめるだけの、このスナップショットにはなじまないので、名を挙げて感謝するにとどめ、ご冥福をお祈りします。
2015年09月06日
スナップショット(2) 湯川秀樹
今の若い人はどうかわからないけれど、私たちが小・中・高校とすごす間、湯川さんは科学の世界に憧れる子供たちにとって、憧れの的でした。なにしろ日本初のノーベル賞受賞者です。そして敗戦で打ちひしがれた国民に、日本人だって世界第一級の仕事ができるんだ、という希望を与えてくれた人でもあったから、単に科学の世界だけでなく、国民全体のヒーローでもあったと思います。
ですから高校が進学校で間違ってであれ理科系などへ進むと、どうしてもこの先生が憧れの的になります。理科系へ行くなら物理、物理を専攻するなら理論物理、理論物理なら素粒子論と、まぁ単純極まりないけれど、地方の受験校のごく視野の狭い凡庸な高校生の考えることなんてそんなものでした。いま流行りの生物系はまだその面白さも一般には知られていなかったと思います。
大学でも教養部から3回生の専門課程へあがる各学科への分属のとき、学科説明に来た植物学の先生が「うちは人気がないけれども、いま人気のない学問が将来は花咲くこともあるんですから」とユーモアのつもりなのでしょうが、なんだか卑屈にも聞こえるようなことを言って学生を誘っていたのを記憶しています。実際は彼の予言どおりになったわけですが・・・。その彼が植物分類学というそれこそ地味な、でも非常に大切な基礎的な学問の、おそらく日本で最も優れた学者の一人だったんだ、ということを知るのはかなり後のことです。
案の定、分属の季節には物理学科を希望する学生がいちばん多いのは多かったけれど、その頃になると私のように、とっくに自分の能力を覚ってあきらめたり、教養部の自由な2年間のうちに視野が広がるにつれて別に面白いことを見つける学生も多くて、まずまず落ち着くべきところへ落ち着いていくのでした。
大学にはいった年に履修した「物理学概論」(正確な科目名かどうか自信はありませんが)は湯川さんではなくて田村松平さんという、湯川さんの先輩だという白髪にメガネのちょっと怖そうな先生でした。彼の書いた(湯川さんとの共著)『物理学通論』というのが教科書ですが、これは読んでもさっぱりわからない(笑)。いや、テキストだけではなくて、彼の講義を聴いても私にはさっぱりわからない(笑)。でも試験のときは監督の事務員に「ちょっと教室を出てやってくれませんか」などと言って追い出し、学生に「まぁちょっと横の人のを見るくらいはいいかな。あとでちゃんとやって考えておくことが大事だから」などと半ば公然とカンニングを認めてくれる、私のような劣等生にはありがたい先生でした。
あとでできるやつに聞いたら、最初からテンソルとか難解な数学を駆使して講義していたそうで、高校を出たばかりの学生にわかるわけはないのだとか。私にはそういう事態さえ呑み込めてなかったので、これはもうひたすら自分の頭が悪いと思うしかありません(笑)。
おまけに自主勉強というので、クラスの10人ばかりで勉強会をやって、テキストに当時評判だった朝永振一郎さんの『量子力学Ⅰ』を使おう、ということで読書会的な勉強会を開いたのですが、私は予習しても、最初に出てくる式がなぜこうなるのかがさっぱりわかりません。わからないまま勉強会に出ると、その会を組織したS君が、前の黒板になにも見ないでサラサラッと何行にもわたる式を書いて、「これ導くのにちょっと苦労しましたよ」とにっこり。
聞くと彼は高校時代にこのテキストを全部読んでしまったんだそうです。あ、これはダメだ(笑)と思いましたね。素粒子論なんてやるのはこういうやつなんだろうな、って。
もともと数学や物理が得意なわけでもなくて、むしろ短時間でテスト問題を解くなんてのは大の不得意な私。じっくり考えりゃ解ける、なんてのじゃお話にならないんだな、と思い知らされるような感じでした。
高校時代にも頭の回転の早いやつがいて、いま彼は原子力のなんとか研究所なんてので働いているようですが、大学へ来て会ったSは彼を数段上回るような印象でした。
ついでに書いておくと、それから一気に半世紀跳びますが(笑)、私はきっとS君は素粒子論物理をやってすぐれた研究者になるだろうな、と思っていましたが、その後彼は就職していろんなところを転々として、もともとの志の道を歩めませんでした。
でもそれは私とは違って、彼の気移りのせいではなくて、彼の置かれた家庭環境や彼の出身地の恐ろしく保守的な風土に根ざした不幸な事情のせいで、農村を離れて無一文から辛うじてささやかな生活基盤をつくった都市の小市民のつましいながらも自由な核家族の箱入りみたいな恵まれた環境で育ってきた私には想像を絶するような苛烈な環境が強いた道行であったことを、つい最近になって彼の告白によって知りました。半世紀前の日本にはまだそんなことが、そこかしこにあったのです。
それはともかく、私が湯川さんの講義を受けたのは分属で生物系の学科へ上がってからのことです。教養部で自由を謳歌して遊んでばかりいる学生だったので、少し単位が足りないなぁ、というので、どうせなら高校時代のあこがれだった湯川さんの授業を一度は受けに行ってみようと思ったのです。
入学直後から文科系や教養科目的な授業は多くて1ヶ月に1回受ける程度で、ひどいのは半期に1回だけ受けて、あとは下宿で本を読んでいるか、好きなことをしているか、せっかく京都に出てきたんだからと寺社仏閣庭園史跡の類を(うまくいけば「おともだち」と)片っ端からめぐったり、友人と遊び歩いていて出席しなかった(出欠をとるような野暮な教師は、語学以外は一人か二人しかいませんでしたし)ので、広い教室での授業を受けるのは久しぶりでした。
湯川さんは何度も写真で見ていた通りの、おでこの広い哲人みたいな風貌の人で、きっと前頭葉がものすごく発達しているんだろうなぁ、なんて思いましたが、学生の方は見ずに、幾分うつむき加減に、ぼそぼそと独り言のように講義していました。階段教室で私たちが上から見下ろす感じだったから、よけいそう見えたのかもしれません。
内容はおよそ物理学を講じているとは思えない話で、どうも老荘思想で自然をどうとらえているか、というような哲学的な話でした。
もちろん彼の物理学の基礎にそういう自然観についての深い考察があることは本を読んで知っていたので、驚きはしなかったのですが、教養部ではなくて、学部の専門科目で悠然とそういう話をされているのを知って、さすがだなと思いました。
たしか退官される前の年くらいのことで、私たちが彼のこういう授業を受けた最後の学年かもしれません。
授業とは別の機会に、湯川さんを間近に見たのは、ハイゼンベルクが来たときでした。不確定性原理で一般にまで知られる世界的な物理学者でしたから、専門家のミーティング以外に一般向けの講演会が学内で開かれると、英語での講演なのに、物理学などチンプンカンプンという学生や学外の一般の人たちまでどっと押し寄せ、たしか当時法経何番教室と呼んでいたようなマスプロ授業をやる大教室での講演になりました。
講演は英語だったはずですが、そのあと質問タイムになると、英語での質問者もあったけれど、日本語の質問にも対応するように湯川さんは通訳をつとめる形でハイゼンベルクと壇上に並び、質問に対応していました。
でも通訳というよりは自分も質疑に答える、というふうで、中には、物理的世界に対する自分の「哲学的」な解釈を長々と述べて、ちょっとどうかと思うような質問に立つ人もいて、湯川さんは苦笑しながら、ほんのちょっと、こんな質問なんですけどね、というふうにひとことふたことハイゼンベルクに話しかけると、彼が答える前に自分で結構厳しいめの対応をしているのが印象的でした。
それでも、この世界的な物理学者2人は、一般向け講演として異例なくらい質問タイムをたっぷりとって、立ったままで丁寧に答えていました。ハイゼンベルクも、もう功成り名遂げた晩年の穏やかな老学者という感じで、写真で親しんだいかにも頭の切れる理論物理学者という印象は薄れ、ずっとにこやかに聴衆に応じる好々爺の印象で、傍らの湯川さんのほうがまだ枯れない、生真面目でこわい先生という印象でした。
ところで、3回生のときの成績は、学生一人ひとりが成績簿にあたる小冊子をもらって、そこへ自分が受講している講義や演習、実験などの担当教官のところを回って、授業名と先生のハンコをもらい、成績評価を記入してもらう、という原始的な方法で処理されていました。評価は、昔ながらの優、良、可です。不可とわかっているところへはいかない(笑)。でもスレスレ「可」か、あるいは不可か、と思うような先生のところへ行くのはやっぱり足が重い。
湯川さんの授業は1回受けたきりだから(笑)、どうもこれで貰いにいくのはなぁ、と少々後ろめたい。試験のときはまぁ論述式に「何々について論ぜよ」ですから、1回受けた授業の印象から、このようなことを講じておられたのであろう、とめいっぱい想像力を働かせて(笑)とにかく答案用紙を文字で埋めてしまう。
しかし、さすがに研究室で湯川さんに直接会って、単位ください、っていうのは図々しいかも、と思いながら、蛮勇を振るってドアをノックすると、美しい助手らしき女性が出てきて、先生にいただいてきますから、しばらくあちらでお待ちください、と告げ、私の成績簿を持って行きました。いやだなぁ、ああいう人が持って行って、不可です、って帰ってこられてもなぁ(笑)と、私も若かったので、それなりに見栄があって、できればなんとかならんか、と期待しました。
だいぶ時間がかかったので、きっと湯川さんはその場で答案を見て採点してるんだろうな、と思いましたが、やがて彼女が戻ってきて、ハイ、と成績表冊子を返してくれました。
でも、そのとき、なんだかちょっといたずらっぽい、意味ありげな含み笑いをしているように感じたのは私の気のせいだったかどうか。とても綺麗な方だったので、ちっとも嫌味じゃなかったけれど、きっと湯川さんが私の答案をその場で見て、「この答案で単位よこせって来てるの?」なんて笑いながら記入したんじゃないかな、とふと思ったのでした。
で、中も見ずに、ありがとうございました、と早々に学生のたまり場だった教室へ引き上げ、そっと開いてみると、なんと「良」をつけてくれていたのでした!あの記念すべき湯川さんの単位のついた成績表は、どこへ行ったのかな・・・(笑)