2015年08月
2015年08月30日
スナップショット(1)桑原武夫
私は過去に25年ほど文化関連の調査研究や文化政策の提案、文化施設の構想、計画、まちつくり、文化イベントなどを行うシンクタンクに勤めていたので、仕事柄、おおぜいの文化人、有識者と触れ合う機会を持った。もともと文化人嫌いの私が皮肉なことに失業状態を脱するために、助け舟を出してくれた友人の誘いでそんな職場で働くことになり、不精者ゆえほかの仕事に移ることもせずに、四半世紀も居着いてしまったのだ。
いま晩年になってその次の職場も去ろうというときになり、近頃やけに自分の知っていた文化人、有識者の死亡記事に出遭うな、と感じている。考えてみれば当然で、こちらが30代はじめのころ、すでに40代、50代の若さで優秀な彼らは功なり名遂げてその専門以外の余力を私などが関わっていたような文化政策の提案などに提供していたわけだから、生きていても80代、90代にさしかかる年齢のはずだ。
当時は若気の至りで、そういう「チャラチャラした文化人」の類が大嫌いだったけれども、顧みれば、みなそれぞれの分野で一家をなし、さらに余力でも様々なアイディアを提供する力をもった優秀な人たちだったのだと思う。
あるとき、自分がそんな仕事をする中で遭遇し、それなりの印象を形作った人たちを数え上げてみたら、優に百人を超えていた。私には彼らの仕事や思想を論じる力量も、また気力もないが、自分がすれ違いざまに抱いた印象を書き留めるくらいのことはできる。
ただ駄文を書く事が好きなだけの私人として、彼らに出会ったときの印象を書き留めてみるのも、彼らを書物によってであれ、直接にであれ、知る人には面白い点もあるだろう。
また、彼らをよく知っている人が書くものとは違った面が垣間見えるかもしれない。
そう思って、順不同で思いつくひとからぼちぼぼちと書いてみようと思う。いわば、文字でとらえたスナップショットだ。
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桑原さんと一対一で向き合うはめになったのは、前職のシンクタンク研究員となって、まだ日の浅い新米の頃だった。
国土庁が下河辺さんのもとで三全総の旗を振って威勢の良かったころに、有識者を呼んでお役人方がお勉強させてもらう、といった趣旨の会議を立ち上げていた。その事務側の裏方をわが社でやっていたので、人脈の広い文化人だった所長や元所長のつてをたどり、講師を依頼して東京まで行ってもらったり、会議のお膳立てをするのが担当の私の役目だった。
桑原さんには、彼と親しい元所長が声をかけてくれたはずだが、細かいことは私が企画書を持って説明に行き、ちゃんと引き受けてもらってくるという役回りだった。
事前に電話で都合を訪ねたとき、彼は忙しい上に、国土庁という役所と肌合いが合わないらしく、嫌がる様子で、いついつどこそこで講演をするから、そのあとなら少しは時間がとれるけど、というようなことを言って無愛想に電話を切った。
私は自分の勤務先がいつも「お知恵を拝借」している文化人、有識者の類が、学生時代からなんとなく好きではなかった。いまではお世話になった彼らに対してこういう言い方をするのはほんとうに申し訳ないと思うけれど、正直に書くとすれば、まことに若気のいたりで、当時はそんな印象を持っていたことは事実だ。
それはテレビへ出てきていい加減な(と当時は思えた)ことを喋り散らしたり、マスメディアで書き散らしたりしている文化人一般への、必ずしも根拠のない、漠然とした侮蔑感に近いもので、つねにある種の反発をおぼえる存在でしかなかった。
失業時代が2年目、3年目となって友人の誘いで、皮肉にもそういう文化人が出入りし、その虚名のもとで成立するような、文化専門のシンクタンクに雇われることになり、それまでほとんど見向きもしなかった彼らの著作にも、初めてまともに触れることになった。
しかし、桑原武夫はその点で例外だった。高校のときだったか、教科書にもたしか登場していたし、物議をかもした『第二芸術論』やベストセラーだった『文学入門』も読んでいた。
前者については面白くはあったけれども、散文批評の原理でそのまま俳句を評すること自体に方法的誤謬があることは高校生のレベルでも直観的に見抜くことはできた。もちろん、ではなぜたった十七文字の俳句と何百万語を費やす物語とが対等に文学的価値として扱えるのか、と詰問されれば答えるすべもなかったが・・・。
後者については、肝心の論のほうは何が書いてあったか忘れてしまったが、一般読者との座談のような記事の部分があって、その冒頭に、文学の話をみなさんとするにあたって、『パルムの僧院』のようなものを取り上げると専門家の自分とあなたがた一般読者との力量差が大きくて対話になりにくいから、あえて自分もみなさんと同じレベルで議論できるように『アンナ・カレーニナ』を取り上げて話し合いたい、という意味の発言があって、おう、なかなか言うじゃないか、でもフェアだな、と良い印象を覚えたことを記憶している。その議論の中身もなかなか面白くて啓蒙された。
『赤と黒』や短編くらいは読んでいたけれど、『パルムの僧院』の方はタイトルだけで先入観を持って敬遠していたので、彼の発言を読んでから読み、その面白さに熱中してその後この作品だけは若い頃から今日に至るまで何度も読み返すことになり、いまでも学生さんに薦める小説作品のベストワンはこれになっているのも、桑原武夫が与えてくれた縁であるのも不思議な気がする。
しかし、このときはまだ桑原さんに親しみなど感じてはいなかった。私がはじめて一人で向き合う最初の大物文化人だった。初対面の人に会ってものを頼むのはもともと不得手なうえ、相手が関西でも大物の文化人というのは嫌なシチュエーションだった。こちらはそういう人との付き合い方も知らない。
私は言われたとおり、文化講演会の会場へ、講演が終わる頃に出かけた。そうして講演を終わって出てきた彼をつかまえて所属と名を告げて、依頼の向きを簡単に告げた。
事前に耳に入っていたせいで、彼は困った顔をしながらも、「ほんとうは断りたかったが、あんたが直接会いに来て待っていたから、話を聞かんならんな」というようなことを言って、喫茶店でもいくか、と歩き出した。
彼と一緒にこの講演会の講師をしていたのが作家の井上ひさしで、帰り際に桑原さんのところへ来て、「先生、お世話になりました」と深々と頭を下げた。とてもきまじめな印象だった。
桑原さんも大先生の風情で挨拶を受けると、一言二言、気さくに声をかけ、井上ひさしは「はい、はい!」と大先生の前で固くなった生徒のように応じていた。
少し歩いて桑原さんの行きつけらしい喫茶店に入ると、店員は彼をよく知っている様子で敬意をこめた挨拶をして迎え入れた。客はほとんどいなかった。席へつくと、私は企画書を出して説明をはじめた。まだほんの少し説明したところで、ざっと目を通した桑原さんは、せっかちな様子で、「この文章は誰が書いたんですか?」と言う。
「私ですが・・」
「下手な文章だねぇ」
「・・・」
内容を理解させる前にしょっぱなからやられてしまった。一言もない。仕事も「食うために」半ばいやいややっているから、ありきたりの趣意書の文章で、まるでお役所の紋切り型のような文章だ。
桑原さんは、案の定、「お役人が書いたのかと思った」、とか、「言葉は書いてあっても、何も意味しない曖昧な言葉ばかりだ」というようなことを言っていたが、「まぁ、いい、それで?」と先を促されて、私は一通り説明した。
「この話は気が進まないな。ぼくは大体三全総の地方定住圏とかああいう考え方は好きじゃないんですよ。」・・・そのあと持論を聞かされたが、よくは覚えていない。とにかく流行りの三全総の考え方には明快に否定的だった。
文学論をかじった以外に私は何も知らなかったが、この人はヨーロッパ直輸入の近代主義に骨の髄まで浸った人で、三全総のような田舎者の考えそうな土臭い思想とはまるで相容れない根っからの都会っ子らしい、とそのときに気づいた。
これはダメかもしれないな、とは思ったけれど、自分の初仕事のようなものだったから、こちらも少し粘って、批判してもらうのは全然構わないから、いまおっしゃったような持論を勉強会の席で披露してもらいたい、というふうなことを言ったと思う。
彼は渋い表情ではあったけれども、たぶん彼と親しい元所長が頼んでくれたときから、彼の頼みなら引き受けないわけにはいかないな、とは思ってくれていたのだろう。最後はわかった、という了解をもらい、払いを済ませると喫茶店を出た。
歩きながら、仕事の依頼以外にどんなことをしゃべっていいかもわからず、ただ並んで都心のほうへ黙々と歩いていただけの不器用な私に、彼は気さくに「入社してどれくらいになるの?」というようなことを訊ねて、私が喋るきっかけをくれた。
「これから××君と○○で待ち合わせしているんだ。」と彼は元所長と会うことになっているのだと言う。何のことはない、これは出来レースで、元所長と親しい桑原さんとで、新米社員である私をちょいと試してみた、というわけだったのだろう。
しばらく喋って、ちょっと途切れたときに、不意に桑原さんは前を向いたまま歩きながら言った。「ところで、謝金はなんぼや?」
「あっ!」と思った。
忘れていたわけではない、謝金は上に相談して旅費別で5万円と指示されてきていた。けれども、言いそびれたのだ。
私がその会社に関わる以前からずっと関わってきた人で、その種のことは熟知しているはずだった。そしてほかの同様の文化人への依頼のとき、金銭のことは何も言わずに依頼して、なんでもないことのように承諾する人たちをそばでみてきた。
そのために、その種の文化人の中でも大物だったこの人に、ビジネスライクに謝金のことを告げるのがためらわれた。
言ってみれば、高尚な?文化の話をこういう大物文化人に対して依頼しているときに、金銭のことを口にするのはなんだか失礼なことのようでもあり、あるいは、なんだかハシタナイことのように感じていたのだと思う。
お金のことを言っていいのかな、いつ言えばいいのだろう、とずっとひっかかりながら、こういうときどうすべきか先輩に聞いてこなかったのを悔やんでいた。そして、言わずに引き受けてもらえたことに内心安堵し、当日封筒に入れて渡せばすむ、それでいいのだろう、と思っていた。
だから痛いところを突かれたわけだ。
「5万円です・・・税込みで・・・」慌てて答えた。
彼は私を見て・・・彼は背が高かったので、見下ろすような形で並んで歩いている私を見て、優しく言った。
「それは先に言わなあかん。5万円やからやらへんことはないけどな。」
そうしてニンマリ笑って見せた。
私はこの会社で四半世紀の間、百人を優に超える人たちに何百回となく謝金を払ってきたが、そうした人たちにものを頼むときは、趣旨を言った直後に、いささか露骨に謝金をアナウンスするようにしてきた。それはすべて、このときに桑原さんから言われて恥じ入った体験からスタートしている。
彼を国土庁の会議に連れ出したのは、まことに不適任で、彼にはほんとうに気の毒だった。もっと彼のこの種の事柄に対する考え方を事前によく調べて知っていれば、決して国土庁の三全総推進の助言みたいなことを求められた会議に彼を引っ張り出すことはしなかっただろう。
彼は新米の私に優しく接し、内容的な議論には及ぼうとはしなかった。しかし、もしこちらに気骨があって議論を吹っかければ、喜んで対等な姿勢で応じてくれただろうし、こちらが優秀なら、或いはムキになって議論してくれたことだろう。
私が一瞬でも触れ合ってそういうスタンスを感じた文化人は、前職の間にすれ違った百を超える文化人の中で、私と年の近い若い人を除けば、梅原猛と山崎正和だけである。彼らのことはまた別の機会に触れることになるだろう。
梅棹忠夫とそのサロンが健在だったころ、梅棹さんの口から桑原さんのことを聞いたことが一度だけある。
「桑原さんという人はすごい人や。だれもあの人にはかなわん。」
梅棹さんはいつもの断定口調でそう言った。なにがすごいのかはその場で酒を飲んでいる誰にもわからない。
「祇園へ行って、ちゃんと横に座った芸妓を遊ばしよる。芸妓に芸さして見るだけなら誰でもできる。あの人は芸妓と丁々発止対等に遊べるんや。あれには敵わん。」
妙なところで感心するもんだな、と思ったけれど、そういうものか、と納得するしかなかった。梅棹さんも京都の老舗のぼんのはずで、そういう場所には通い慣れている?のではないかと思うけれども、桑原さんの遊び方、いや遊ばせ方には「敵わない」のだそうだ。
たしかに可愛いだけの舞妓とちがって、長年厳しい修業を積んで芸を身につけてきた芸妓は、歌舞伎役者にも政治家にも芸人にも一流の人間に日常的に直に触れて、われわれ無教養な貧乏人とはレベルもラベルも違う常識というか教養というかを身につけていたりするのだろう。
耳学問といえども毎日第一級の人物と接して10年も年季をかければ、なみの学者で敵う者がないほどの特殊な器量を身につけるというのも分からないわけではない。それに三味線やら箏やら前近代の音曲や能の要素も含んだ井上流の舞踊のような教養は頭ではなくて、身体で徹底して身につけているわけだ。
そういう芸妓と丁々発止渡り合える大物は桑原さん以外にない、というのも分からなくはない。何度が仕事の接待で東京の人を祇園へ連れて行ったことがあるが、ちょっと年季のはいった芸妓さんと会話を交わす段になるとたちまち彼らの田舎者ぶりが露わになってしまって無惨な思いをしたことがある。
桑原さんへの評価はたくさん聞いたけれど、梅棹さんのが一番面白かった。学者としての彼はまったく私などの視野の外だが、私にとっての桑原さんは、合理主義者で、まるで権威主義的なところのない気さくな、というかズケズケっと入ってくる人柄で、こちらが確認の電話をする前に、むこうからいついつは国土庁でしたね、と電話をかけてきてこちらが恐縮するような事務的なことも淡々とやってのけるような人だった。
あるとき大学の大講義室で講演されたときに仕事を離れて聞きにいくと、「私も歳をとって人気がなくなりまして」と最初に学生たちを笑わせ、テーマが何であったかも忘れてしまったが、彼が嚆矢となって確立してきたフランス革命などの共同研究スタイルを自賛する中で、私が愛読し、またようやく学生たちのあいだにカリスマ的な敬愛を集めるようになっていた吉本隆明に触れて、「山へ登るには、吉本君のように単独登山もいいでしょうが、それだけが唯一のやり方ではない。登山隊を組織して未踏の高峰をめざす試みもまたいいものですよ」というようなことを言っていたのを印象深くおぼえている。
晩年はどんな大学でもとどまりえたろうし、彼のようなビッグネームならお名前だけでも、と学長にでも据えるなど、擦り寄ってくる大学は当然ありえたと思う。けれど、彼は京都市の社会教育施設の長を引き受けて、静かな余生をすごしていたようだ。彼を知る者の中には、彼のような人を遇するにふさわしいやり方ではない、と憤る人もあったように聞いている。けれども私は一瞬すれ違っただけの印象として言わせてもらえば、彼はそんなことは意に介さなかったろうと思う。
彼がなくなってもうどのくらいになるだろうか。私のある友人が、桑原さんほど生前に大物扱いされながら、死後にきちんと評価する声を聞かない人も珍しい、と言ったことがある。桑原さんは弟子をつくらなかったようだ。
日本では学者も画壇の画家やお茶お花のお師匠などと同じように自分の弟子なるものをつくり、老後は、あるいは死後はその人たちが亡き先生を賞め上げる、という「うるわしい慣い」(笑)があるようだけれど、私の思い込みでなければ、骨の髄まで徹底した近代合理主義者だった桑原さんは、そういう「先生」にはなろうとしなかった。一瞬すれちがっただけの私だが、そんな桑原さんにはずっと好感を持ち、最初の出会いで叱ってくれたことにひそかに感謝してきた。
(第1回おわり)
2015年08月22日
ルーヴル美術館展、マグリット展
京都市美術館で開かれている二つの海外美術展に、パートナーと孫と3人で出かけました。岡崎公園もしばらくいかないうちにいろいろ様変わりしているようです。
午後もお昼どきは過ぎた時間なのに、うどんの山本の前にはずらっと長い行列。この近所のある趣味の教室に長年かようパートナーたちうるさいおばさまがたによれば、味はたいしたことないのに、雑誌でとりあげられたり一度評判になるとずっとこうなのだとか。炎天下にご苦労様です。
平安神宮前のいつも通っていた参道にあたる広い道はポールが立てられて侵入できなくなりました。不便この上なく、ぐるっと回って地下駐車場へ。エレベーターは地下1階土地上しか往復できず、地下2階には徒歩でアップダウン。お年寄りには大変です。私もそろそろお年寄りなので、ぶつぶつ。
地上へ出るとうだるような暑さ。ここはアスファルトの照り返しのせいか、格別暑い。美術館構内の角にあったほったて小屋みたいな食堂がなくなって、街路から美術館の威容がパッと見えるようになったのは良かった。もう少し緑があってもいいですね。そうすればこの照り返しの暑さも少しは視覚的に涼しくなるでしょうに。
まずは古典美のほうから。日本にこういうのが来ると、パリで見るときは駆け足で通り過ぎるような小品でも熱心に細部まで見ていくので、また違った’発見’もあります。
きょうのお目当てはフェルメールの「天文学者」ですが、土曜日だというのに案外来館者が多くはなく、フェルメールの絵の前もほとんど人がいなかったのでゆっくり眺めることができました。でもフェルメールはフェルメール。予想外ということもなく、科学が創った光の細密画のような絵を楽しんで、きょうの思わぬ収穫はコロー。「コローのアトリエ」はルーヴルにあったはずなのに気づかずに通り過ぎていたすてきな作品でした。「身づくろいをする若い娘」も同様。ほかにも一点ありました。
ミレーの「箕をふるう男」、ドラクロワの「鍛冶屋」、ルーベンスの「満月、鳥刺しのいる夜の風景」、も強い印象に残りました。
マグリットはとても広範な作品を集めていて、これだけ一度に見る機会はもう高齢の私にはないかもしれないな、と思われるいい機会にめぐまれました。特別好きな画家ではないけれど、シュールレアリスムに括られる画家はどれもそれぞれ面白く見ることができます。
画家本人の書き留めたり語ったりした理屈は無視して、純粋に色や形や線といった物質的な絵画の訴えてくるものを受け止めるだけで眺めていくと、「大家族」や「ピレネーの城」のような理屈抜きで訴えかけてくるおおらかなスケール感のある作品に心を動かされます。
そういえば「ピレネーの城」や「オルメイヤーの阿房宮」は孫にとっては「天空の城 ラピュタ」でした。
彼女が面白いと言って表紙にその絵のあるノートをお土産に買ったのは、「ゴルコンダ」。私にはわからない(笑)
今の時代のヴァーチャルとリアルの関係を示唆するような、と勝手に受け止めて私が面白く感じたのは、「人間の条件」という、ふさわしからぬタイトルのついたこんな絵でした。
2015年08月15日
又吉直樹『火花』
もちろんたった一回はじめて見ただけで、作品もまだ読まずに芥川賞を受賞した、というニュースだけ知って見たテレビ番組だから、先入観でそう感じただけかもしれない。
で、きょうは芦屋まで出かける用があったので、往復たっぷり時間があった車中で、人並みに作品を読んでみた。
ごく身近な先輩芸人とのやり取りを軸に展開するこの小説、作者の年季の入った芸人としての経験が、芸を理詰めで切っていくシャープな切り口やら、声の調子や吐息まで耳元に聞こえてきそうなくっきり描かれた人物像に存分に生かされているようで、語り手の徳永と神谷との丁々発止のやりとりはまさに火花の散るようなテンションの高さ、美しさで、実に面白い。
「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会に成り下がってしまわへんか?」
「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」
・・・ここらはまだ序の口でわかりやすい。このあと続く神谷の怒涛のような反転また反転していく漫才の方法論をめぐる理詰めの長口舌などは、設定どおり神谷の「早口」でやられたら、回転が遅い頭ではついていけそうもない。
徳永は神谷の否定の否定そのまた否定みたいに自身で悶え苦しんで転がってみせながら不意に起き上がって鋭い剣先をこちらに向けてくるようなこの語りを全部感じ、受け止め、理解し、その稀有の価値を評価するこれまた稀有の資質なり能力を備えているけれども、その否定の否定のそのまた否定にある僅かな狂い、ずれ、飛躍、誇張を感じ取ってもいて、その異和を孕みながらも絡み合い、火花を散らしあう蜜月時代を経て、やがて自分自身を見出して神谷と別れ自立の道をたどるまでを描いている。
神谷は非常に魅力的な人物。西部劇好きの私が連想するのは、ワイアット・アープと奇妙な友情を結んだドク・ホリデイ、パット・ギャレットと親友だったビリィ・ザ・キッド、映画ならワーロックのヘンリー・フォンダに対するアンソニー・クィン、ほんとうに頭のよかったのも、ほんとうに腕のよかったのも、ワイアットよりドク、パットよりビリィ、フォンダ演じるマーシャルよりクィン演じる、マムシの、と呼ばれたアウトローだろうと、私なら思う。この小説も含めて残された作品という作品は、まっとうな相棒のほうが頭がよくて腕もいいように描いているけれど。
西部劇のそんな全く異なる資質を持ちながら深い友情と互いの才能への敬意を持ちながら至近距離でときに火花を散らすような緊張関係を保ってきた相方が、ある意味でその才能ゆえに身も心も荒んで自滅していく姿をとらえる眼差しは限りなく優しく哀切さに満ちている。
「ほな、自分がテレビ出てやったらよろしいやん」・・あたりから始まる徳永が神谷に詰め寄る言葉の鋒は鋭い。<僕が言いたかったのは、こんなしょうもないことだっただろうか。>と例によって内省しながらではあっても、言葉の鋒はどんどん鋭く神谷に迫っていく。
「捨てたらあかんもん、絶対に捨てたくないから、ざるの網目細かくしてるんですよ。ほんなら、ざるに無駄なもん沢山入って来るかもしらんけど、こんなもん僕だって、いつでも捨てられるんですよ。捨てられることだけを誇らんといて下さいよ」
・・・この言葉は神谷にとどめをさしたろう。案の定、神谷はいう。
「徳永、すまんな」と神谷さんは小さな声で言った。
さらに徳永は追い討ちをかける。「あと、その髪型って僕の真似ですよね?・・・」云々。
もう十分だろう。神谷を殺したのはある意味で徳永だと思う。ドクを殺したのがある意味でワイアットであり、ビリィを殺したのが文字通りパットであり、クィン演じるマムシのアウトローを殺したのもまたヘンリー・フォンダ演じるマーシャルであったように、だ。
けれども、作者はもうひとひねりしている。西部劇がロマンチシズムとヒロイズムに満ちた男たちの友情の挽歌で終わるのと違って、最後にもう一度異形の神谷を登場させる。私たちはその姿に徳永と同様「笑う」ことはできないが、徳永のようにストレートのにpolitically correct な言葉をぶつけることもできない。そして西部劇で生き残ったほうの男が感じる哀感を覚えて死んでいった男への挽歌を唄うこともできない。
徳永のかわりにその異形に苦い笑みで応じながら、ただ痛切な哀感を覚えたとでもいうほかはない。
真樹という女性はささやかだけれど、読者の私にとっては、とても大切な救いだった。