2015年05月

2015年05月03日

チームラボ

 今朝の日経新聞のコラム「春秋」にチームラボの展示会のことが載っている。親子連れで会場が溢れかえり、あまりの人気に会期を2ヶ月延長したという。

遊園地


 2月に東京へ出張した折に、科学未来館で開催されていたチームラボの企画展に運良く遭遇して見ていたので、そのワクワクするような楽しさはよくわかる。 いまはお台場で開催中らしい。

絵を描く

 これは2月の科学未来館で撮った写真だが、映像が映される大きな壁面のスクリーンの前で、子供たちが競い合うように絵を描いている。

スキャン

 自分の描いた絵をスタッフに渡すとスキャナーで取り込んでくれる。これは色鮮やかな烏賊のようだ。

画面

 ほんの1分か2分か待っていると、もう大画面の中の水中を、そいつが泳ぎだす。ちゃんと脚を伸ばしたり縮めたりゆらゆらさせながら、身体を傾け、ゆったりと、また突然速度を速めて画面を斜めに横切って行ったりする。
子供たちにとってはほんとうに魔法のような、そして自分が魔法使いになって紙に描いた生き物が、たちどころに生命を獲得して泳ぎ始めるような驚き、不思議、ワクワク感があることは言うまでもない。

若冲

 漢字が降りてきたと思うと水墨の鳥になって飛んでいく、水墨動画とでもいうような作品にも感心したが、若冲の大作を満艦飾で大型動画に再現したこの作品の華やかさには目を奪われた。

 美術の概念がデジタル技術で真に飛躍的に拡張されていくのを、いま目の当たりにしているんだ、と思わずにはいられなかった。これまでもむろん沢山のデジタルアートの試みは積み重ねられ、ほんの少しはそういった作品にも接してきたけれど、それらはテクノロジーが鼻についたり、アート臭さが鼻についたり、いずれにせよ両者がしっくりと溶け合って新しい何かが生まれたんだな、という得心はいかなかった。

 チームラボの登場で、はじめてそれを理屈でなく体感できた。なによりも子供たちが肌でそれを感じている。


 しかし、きょう読んだコラムで新たに知ったのは、作品のことではなくて、このチームラボが「プログラマーやデザイナーなど350人が集まる」会社で、「管理職はいない。賞与は社長も社員も均等。」という面白い組織だということ。

 「採用基準に『オタクであること』とある」のだそうだ。卒業制作で選抜したり、素人工作展に社員が足を運んで出品している学生らと友人になってから採用につなげたりしているという。そして、才能はあるが書類や面接での自己PRは苦手という内気な才人を見つけ出し、仲間にくわえる、と。

 この記事で啓蒙されたのは、スーザン・ケイン著「内向型人間の時代」によれば、外向型のイメージが強い米国の経営者も、実は無口で思慮深い内向型が多いそうだ。そして、記事はつづける。「一般には決断が速くて雄弁な人は仕事もできると思われがちだが、こうした人が仕切る集団は変化や危機に弱いそうだ。」と。

 日頃、企業アンケートなどで圧倒的多数の企業が、重視する採用基準の筆頭に挙げるのが「コミュニケーション力」で・・・というようなことを学生さんに喋っている自分を省みたとき、ふと、俺も最初この職場へ来て、何かの役割で大勢の新入生を前に喋らされたときに、口下手、話ベタな自分を正当化していると目の前の学生さんたちは思っているかもしれないな、などと思いながら、こんなことを喋ったのを思い出した。

 「コミュニケーション力をつけてもらうことが学科の目標の一つにもなっているので、こんなことをいうのはまずいかもしれませんが、私個人としては幾分疑問に感じていることがあります。コミュニケーションというと、なにか言いたいことを相手にわかるような情報に仕立てて伝え、できるだけ多くの情報が正確に伝わればよろしい、と。基本的にそういう観点に立っているんじゃないかと思います。

 「でもわたしたち人間は、必ずしもそういう存在じゃないですよね。みなさんも自分の日常的な経験を思い返せばすぐわかると思うけれど、言葉を外へ押し出せば胸のうちにはその反作用で、言葉にならないなにかが残る。そっちのほうがほんとうはずっと大切なものだ、ってことがあるんじゃないでしょうか。

 「そんな沈黙がなければ、あるいはそんな沈黙があり得ることが理解できなかったら、いくら情報を言葉や様々なかっこいいメディアに乗せて伝えたからって、それほど意味があるでしょうか。

 「みなさんの中には、引っ込み思案でどうも人と接するのが苦手だ、っていう方があるでしょう。実は私もこんな仕事をしながらそうなんですが、小さいころからおしゃべりが苦手な赤面症の子でした。こんなにおしゃべりになってしまったのは仕事で仕方なくやっているうちに慣れてしまったというだけです。だから未だに全然上手く喋れないし、授業も下手くそです。いまにすぐわかると思うけど(笑)。

 「でも居直るようですけど、ただうまくしゃべれるようになれば、書けるようになればいい、というふうには私は思いません。情報メディアを教える学科なのにへんなこという人だな、と思うかもしれないけれど、もし思い当たることがあれば、みなさんの胸のうちにもきっとあるだろうそんな沈黙の種みたいなものを、大切に育てていってもらえばいいのではないかと思います。

 ・・・ろくに教育の経験もない「新米の老教師」のくせに、エラソウにそんな意味のことをおしゃべりしたことがあったのを思い出した。もう10年以上前のことだと思うが、この記憶はほの暗い水の底のようなところに沈んでいて、半ばほろ苦い悔恨のような感情を伴わずには浮かび上がってこれない。

 自慢じゃないけど人に評価されるようなことは何もしてこなかったけれど、自分は自分という生き方をささやかな楽しみとして歳を重ねていく中で、いつのころからか、子供の頃宝物にしていた「匂いガラス」のかけらや、ガラス工場の屑ガラスの山から拾ってきた美しい色の、巨きなビー玉のように、ひそかにこの掌に握りしめていたものが、またいつの間にか指の間から砂がもれていくように、歳月とともに少しずつ少しずつ失われていくことに気づかずにいられないからだ。

 いくつになろうと、初心に戻れないことはないよな、と記事を読んで思い、もう一度そんな場所に立って、若い人たちに残りのわずかな時間を向き合っていければと思った。

 

saysei at 23:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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