2013年07月

2013年07月04日

湊かなえ『高校入試』を読む

 湊さんの本は、少し縁あって知り合いの学生さんたちがよく読むので、いちおう出たら全部買って読み、部屋においておくことにしています。

 小学生のころルパン・シリーズでカッコいいルパンや若き日の彼が心惑わされる美しい女性の敵役に自分でそれが何なのかわからないまま強く惹かれて繰り返し読んだり、そのあとはシャーロック・ホームズのシリーズを読んだり、みな絵入りの物語本だったと思いますが、大人の本が読めるようになってからは、母が熱烈な推理小説ファンで、療養生活の名残もあってたっぷり時間があったために、あらゆる種類の推理小説を読みふけっていたのに、というか、それゆえに遠ざかったというべきか、私自身はほとんどまったくと言っていいほど推理小説を読まなくなって今日にいたったので、ポーやクリスティーやエラリー・クィーンのような幾つかの古典は別として、まったく良い読者ではありません。

 若い人で熱心に薦めてくれる人がいたので、辻村深月さんを読んだり、作家さんとちょっとしたご縁があったので有栖川有栖さんは最近どんなのを書いていらっしゃるのかな、と手にとったり、ということはあっても、出版される端から買って読んでみるのはこの湊さんと、作品自体が好きな東野圭吾さんだけ。

 今回の湊さんの作品は、最近ちょっと変わってきたかな、と思っていた広がりをいったん本来の推理小説らしい推理小説に収束させて、その表現様式にずいぶん工夫をこらした作品になっています。舞台はその地域の伝統ある名門県立高校で、12人の教師や同窓会長、生徒やその兄弟の卒業生など、事件に関わる、あるいは事件に巻き込まれる人たちが、その渦中から、異なる視点で事件の発生から終結まで、時間経過に添って自分たちの遭遇する事態とそれぞれの思いを語っていく形で、そのめまぐるしく交代する語りと語りの間に、事件を起こしている「犯人」(たち)がリアルタイムでウェブサイトに投稿している言葉が、その投稿時刻を添えて掲げられて、これがちょうど映画「終着駅」で繰り返し映される駅の大時計のように、登場人物たちの生きる事件の時を刻んでいきます。

 最初は誰が誰やら人間関係がよくわからないまま、視点が次々交代するので、めまぐるしくて、ちょっと読むのつらいなぁ、と思いますが、そこは作者がちゃんと最初に「人物相関図」をつけてくれているので、最初のうちはそれを見返しながら飲み込んでいくと、だんだんそれぞれのキャラや関係が見えてきて、ひととおり飲み込んだころに事件らしい事件が発生します。でもまだ、それがどういう意味を持っているのかは謎です。

 この作品では華々しい?殺人も流血もありません。しかし現実の社会で発生して問題になった携帯でのリアルタイムの入試情報漏れや、少子化で高校も大学も全入時代とか言われながら親や世間の意識は簡単に変わらず、少数のエリート校崇拝・学校イメージの格差はますます大きくなり、子どもたちがますますきつい状態に追い詰められ、学校現場でそうした状況に対して教師たちはなすすべもない、といった現在の教育機関の惨憺たる現状が、ある種の誇張とパロディ化でデフォルメされてはいても、舞台の構造や背景にうまく取り込まれ、「犯人」(たち)が何を目的に、どんなことをしようとしたのか、を、法律に触れる犯罪の領域とはまた違ったそれぞれの意図と行動の交錯する姿として描き、そうしたそれぞれの意図と行動が何かということ自体が謎であり、それが次第に明らかになっていく過程を作品として成り立たせています。

(この作品を読んだ日の朝日新聞朝刊に「大阪の高校入試 なぜ採点ミス多発?」という見出しの、かなり大きなスペースをさいた記事が出て、なんというタイミング、と思いました。)

 その表現形式をみるとずいぶん手の込んだ、技巧的な作品に思えるけれど、この作品に古典的な推理小説の、ある明確な意図を持った犯人が、ある犯罪を犯すという見慣れたパターンとは少々異なっています。
 
 事件の発生に関わった人たちは、それぞれ異なる意図とそれぞれの受け止め方による行動をとるので、それらが交錯して結果的に読者の前に展開されるような「事件」がこのような形で生じている、という具合です。たしかにその行動の中には法に触れるものもあり、その意図の中に犯意と言えば言えるようなものがないとは言えないけれど、それは登場人物たちの意図や行動の総体からみれば、ごく一部で、しかもそれが法に触れる「犯罪」を構成するかどうかは何ら重要ではありません。

 登場人物たちのそれぞれ少しずつずれている意図や行動のベクトルがどの方向に向き、どこへ収束しているのかと考えてみると、年齢的にみたとき、いまの世の中でいちばんきつい位置に置かれているかもしれない中学生たち思春期前期の若い子たちが、家庭で、あるいは地域で、世間で、また自分たちどうしの関係の中で、どんなきつい、きわどい位置に、どんな状況で立たされているか、そして彼らが全身全霊で向き合わされ、また自ら向き合おうとする入試のような制度そのものが、どんなに根拠のないものであるかというところに収斂していくのではないか、ということが、最後まで読んでいくと自然に感じられるようになっています。

 そうした社会的制度の無根拠性というものが、誇張され、パロディ化された教師たち、親たちの愚劣さ、滑稽さとして表現され、たかが受験番号の書き忘れや、名前のすり替えや、答案が一枚多い少ないといった形式的な側面、それに好きだ嫌いだ恋だ嫉妬だ、親だ子だ、といった感情にも左右されかねない、他愛ない偶発性に支えられているものでしかないこと、しかもその無根拠なものが、なぜか一人の人生を左右したり、ときに死に追いやるものであること、そういういまの世の中、いたるところに存在する不条理に、この事件に加担した登場人物たちの決して一つとは言えない異なるいくつもの思いと行動が、もしそのベクトルを延長してみるなら、収斂していくのではないでしょうか。

 この作品は、犯人がいてその犯意にもとづいて法律に反するある犯罪が行われ、その犯人が誰で、その動機はいかに、と問う古典的な推理小説の構造を借りて、その犯人さがし、動機さがしを作品の構造として成り立たせていることには間違いないけれど、それで読者が犯人に行きつけばゴールかと言えばそうではなくて、そのとき同時に、上に述べたような今の世の中のある種の制度や人々の思い込みの無根拠性やそれに全身でぶつかって深く傷つく思春期の若者たちの姿に、読者は導かれることになるような気がします。

 湊さんという作家は、とても努力家で、新しい作品ごとに「推理小説」の概念を拡張し、変えようとして、推理ファン向けの推理小説としての仕掛け自体を楽しむだけに終わらないところがあるようです。

 今回も冒頭に書いたように、一見とても古典的な種も仕掛けもある推理小説らしい推理小説に収束したのかな、と思ったのですが、その仕掛けの内部に、推理小説の概念を拡張する仕掛けがほどこされているんだな、ということに気づかされました。



 
 



saysei at 19:32|PermalinkComments(1)

2013年07月02日

チェ・ドンフン監督『十人の泥棒たち』

 2時間半飽きさせず、映画ってこんなに面白かったんだ、と思わせてくれる、韓流のメチャ面白いB級エンターテインメント。

 はじめは、な、な、なんじゃこりゃ、「オーシャン11」のパロディかいな、と思ったり、「ミッション・インポシブル」の女性版かいな、と思ったりしながら、その「真似し」のアジア的図々しさ、ダサさに半ばあきれながらも、「猟奇的な彼女」のチョン・ジヒョンのお色気や、「太陽を抱く月」のキム・スヒョンの初々しさに気をとられ、はたまた「冬のソナタ」でユジンの母をやっていたキム・ヘスクなんかがこんなところで出ているんだ、なんて気をとられ、快調なテンポに乗っけられていくうち、作戦失敗でキム・ヘスクらが死んだり、つかまったり、傷ついて逃亡したりで、あとはもう締めくくりだけかな、と思っていたら、そこがアジア映画のしぶとさ本領発揮で、ここからが本当のみどころで、終わったと思うとどっこい、まだまだ続く、これからが面白いよ、と続いていく。

 とりわけキム・ユンソクが中国人マフィアから戦闘しながら逃走するアクションシーンは、ちょっと日本映画では実現できそうもない迫力。ハリウッド的なやたらドカンドカン、金かけて爆薬いっぱい使ったとか、高級車や飛行機まで燃やしました、というようなのともまた違って、ひたすらこう役者の危険きわまりない(としか思えない)なんぼ命があっても足りんのちゃうか、と思えるような地べたを這い、壁をよじのぼり、ビルの谷を跳ぶ、等身大の人間の肉体の躍動するアクションシーンは惚れ惚れします。

 こういうものすごいアクション・シーンって本筋とはほとんど関係なくて(笑)、なんならなくてもストーリーは成り立つんだけれど、でもこの種のB級エンターテインメントにはなくてはならない、これこそが映画の核心なんでしょうね。ほんと、これだけでも映画館の大画面でわざわざ見に行く価値あります。

 でもそれだけではないところが、この十数年か二十年くらいの間のアジア映画、とくに韓流映画で、主役のキム・ユウソクが実にいい味を出しています。彼が演じるマカオ・パクと、キム・ヘスが演じるペプシとの関係がこの話の軸になっていることが最初から伏線はあるけれど、だんだん見る者に分かってきます。それにつれて、最初はなんかお頭みたいに偉そうにしてるわりには風采の上がらないチンケなおっさんに見えていたキム・ユウソクが、実に大きくて深い味わいを持った男として見えてくるから不思議。キム・ヘスも、チョン・ジヒョンとはまた別の大人の女の魅力で見せています。

 後ろのあんちゃんたちが、この映画をみていて、笑ったり、おっ、とか、おうっとか思わず声を出して反応するんですね。昔ありましたよね、映画館へいって、白馬の騎士みたいなのが、helpシーンで登場すると、会場から拍手が起きたり・・・ニューシネマパラダイスの世界ですね。笑ったり泣いたり怒ったり・・・ほんとに久しぶりに家の中で家族と見ているように素直な観客の反応を感じました。

 それもこれも含めて、すぐれた作品であるとかないとか、って次元ではなくて、心から、久しぶりに映画ってものを堪能させてくれたな、という気がしました。

saysei at 02:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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