2013年06月
2013年06月30日
キム・ギドク監督『嘆きのピエタ』は、褒められすぎ!
ホールを出て階下へ降りるエスカレータで、すぐ前にいた3人のオバサンたちの会話。
「・・・女に何か食べさしてたの、あれ何だったの?」
「ぼやけてよく分からなかった。ちゃんと見せるべきよね。」
「血が出てたでしょ?男の脚から・・・」
「意味不明でしょ」
「新聞はみんなすごくいい映画だって書いたから期待してたんだけど、そんなに良くなかったね」
「そうね、もうひとつだったわね」
「ごめんね、こんなのに連れてきちゃって・・・」
「いいのよ。どうせヒマにしてるんだから(笑)」
どうやら中の一人が、いい映画らしいからと、ほかの二人を誘って一緒に見に来たらしい。私は聴いていて、うんうん、オバサマたち、なかなか手厳しいじゃん、と思いつつ、幾分かはオバサマたちの感想に共感を覚えていました。
新聞で映画評論家(だと思います)はどれもこれも絶賛。ほとんど完璧な作品であるかのようにベタ褒め。こちらも半分はそれに乗っけられて初日から観に行ったのでした。
プロの映画評論家さんたちは、どうも異端とかちょっと変わったところのある作品(新人賞選考などでよく見られるように)を偏愛される傾向があるようで、韓流映画の異端児として世評の高いこの監督などは、ちょっとプロ好み、おたく好みの部類に入るのかもしれません。
映画祭でたくさん賞をもらいました、というような作品でも、見に行くと案外面白くもなんともないことが少なくありません。でもああ、こういう傾向のものが賞をとりやすいわけね、プロ好みなのね、とちょっと分かり易すぎて侮りたくなるような感想を持たざるを得ないことはよくあります。閑話休題。
この映画を観に行きたいと思ったあと半分の理由は、これまで見たキム・ギドクの作品、とりわけ『悪い男』がとても良かったので、彼の最新作はぜひ見たいと思っていたからです。
どの映画評も、枕詞のように、まずこの映画の前半の「すさまじい暴力」について触れていますし、私のパートナーなどはそう聞いただけで、「どんなに優れた映画でもそういうのはちょっと苦手」、と言ってついてこなかったのですが、今回の「暴力」は『悪い男』と比べても、また同じような言われ方をした別の監督ですが『息もつけない』と比べても、特別激しいというわけのものでもありません。
たしかに借金の取り立て屋が、金の返せない相手の手足を折ったり潰したりしてその保険金で返済させるという構造に一層の陰惨さがあることはあるけれど、こうした設定は後半の主人公の180度の転換、浄化をクリアにするために必須の条件で、その必然性を疑う余地はないし、少し妙な言い方をすれば、必要十分なだけの暴力しか登場しません。
ストーリーを書くとネタバレになってしまいそうで書けないのは、この作品が一種の推理劇のような構造を持っているからでしょう。監督自身がインタビューで語るところでは、最初は男が母親が死んだと確信し、女の復讐劇が完結する結末にする計画だったそうです。
もし、当初の予定どおり映画が作られていたら、それはちょっと上等な「火曜サスペンス劇場」になっていたでしょう。推理ドラマとして、少し手の込んだ、文字通りの復讐劇にしかならなかったでしょう。
そうしなかったのはさすが、キム・ギドク監督だと思います。この作品が「火曜サスペンス劇場」にならなかったのは、人間の愛憎に分け入る彼の一歩、二歩の踏み込みの深さ、確かさと、それを演じる役者たちの力量によるのだと思います。
実際、金の返せない相手の手を潰し、足を折って保険金で返済させようという、冷徹非情の取り立て屋ガンドを演じるイ・ジョンジンの頑健そうな体躯と無表情な演技、それにミソン役のチョ・ミンスがガンドを見るときの、あの何ともいわく言い難い表情の演技、最初はおずおず、いったん入り込むとイケ図々しく居座ってシャーシャーとしているあの態度(笑)、それにレイプシーンで泣き出すときなども、舌を巻くような熱演、名演です。この女優さんはほんとに上手いですね。
脇役も好き。ガンドに身障者にされた男フンチョルとその妻ミョンジャが、とてもいいのです。最後に何も知らずにトラックを出すミョンジャの何でもない表情がすごくいい。
ただ、<母親>を演じるチョ・ミンスの表情の演技は確かに見事なものですが、とてもキワドイものだと思いました。
何十年も前に読んだピーター・ブルックの『なにもない空間』という本の中に、こんな一節がありました。いかにも善良で貞淑で優しく美しい申し分のない女性であるかにみえる女が、実はとんでもない悪女であったことがのちになって明らかになる、というストーリーの舞台があるとき、それを演じる役者が前半はそのことを知らずに、心から善女を演じるほうがいい、と。
うろ覚えですから、まったく正確でないかもしれませんが・・・。役者が本当は自分が演じている善女は仮面で、実は腹黒い女で、あとで悪女の本性を表わすのだ、と知っていると、どうしても前半からそういう演技をしてしまって、リアリティが損なわれる。何も知らずに善女を演じきって、彼女自身も自分が悪女として立ち現れる瞬間を観客と驚きを共にして体験すべきなんだ、というようなことだったように記憶しています。
ミンスがガンドに接するときの表情がキワドイというのは、そういう意味においてです。いまよりも、ほんのちょっとだけミンスが「意識」すれば、たちまちこの作品は「火曜サスペンス劇場」になってしまいそうな気がしたのです。
ガンドの180度の変化、<母親>を受け入れていく変化は、それよりもさらに困難なところがあります。もともとそのような変化は、特別な奇跡によって瞬時に起きるのでなければ、幾重もの時間を必要とするはずだと思うのですが、私にはそのどちらも見つけることができませんでした。
あるのはただ性急にさしはさまれた一つ二つのエピソードだけで、ガンドは突如浄化され、無垢の少年のごとき表情に還るので、彼に痛めつけられた被害者の男でなくても、それはないだろう!と言いたくなるところがあります。
パンフレットの著名人の感想など読んでいると、こうした指摘は、寓話とリアリズムによる作品との区別も知らない揚げ足とりだ、とみなすような人もあるようです。もとより、キム・ギドク監督の映画はみな寓話的な作品だと言ってもいいでしょう。
『春夏秋冬 そして春』のように、最初から最後までこれは寓話でござい、というのをあからさまに宣言した作品もあれば、『悪い男』やこの『嘆きのピエタ』のように、一見リアリズム風の相貌を持った寓話もある、といった具合です。
いずれにしても現代の寓話であるといえばその通りで、その分、もともとこの監督はアタマで映画を撮る人、ずいぶん理屈っぽく映画をつくる人なんだと思います。
キム・ギドクのファンの中には『春夏秋冬 そして春』が最高の作品という人もいて、実際大きな賞をもらったりもしているようなのですが、私は好きではないし、つまらない作品だと思います。(ファンの皆さん、ごめんなさい。)
私は『悪い男』が彼の最高の作品で、2番目がこの『嘆きのピエタ』かな、と思っているところです。これらの作品には圧倒的な力があります。寓話の枠組みを突破する強さが感じられます。寓話の「喩」である人間たちが、人間としての喜怒哀楽の強さ、巨大な炎のように噴出する情の強さ、大きさによって、寓話の枠組をぶち抜いて、出てきてしまいます。それがキム・ギドク監督の作品の魅力です。
寓話というのは、イソップでもラ・フォンテーヌでも、それが意味するところ、寓意を聞いてみれば、分かりきったつまらない教訓話にすぎません。寓話が流布される共同体の常識としての倫理や人間関係を動物なり何なりに譬えて面白おかしく語っただけのものですから当然でしょう。
だからその寓意が面白くて私たちは寓話を楽しむわけではなくて、それを何かに譬えて「面白おかしく語った」ところに面白さを感じるのだろうと思います。ちょっとトートロージーになってしまいましたが・・・
だから、キム・ギドクの作品が寓話だから、寓話には寓話の文法があるので、リアリズム論で揚げ足をとったって無効なんだ、と言い方は、一見もっともに聞こえますが、そんなのは映画を寓話かリアリズムかなんて自分の頭の中にあるだけの区別を絶対視した戯言に過ぎないように私には思われます。
寓話的な作品だからその結構やディテールの破綻にハンディをつけてみてあげるべきだということにはならないでしょう。もっとも、最初に書いたオバサンたちの話に出てきた、ガンドがミソンに無理やり何か食べさせるシーンや、ガンドがミソンを受け入れてしばらくの展開などを除けば、この作品に、そうそう瑕疵があるわけではありません。
むしろディテールはとてもよく考えられ、丁寧に描かれています。前半のガンドが一軒一軒借金の取り立てにいくシーンも、ひとつひとつが非常に丁寧に描かれていて、これが後半の転回を際立たせています。最後の場面につながる若夫婦とのやりとりも伏線としてよく効いています。小道具のオレンジ色のセーターなどの使い方もうまいなぁ、と思いました。
寓話の生命はその寓意にあるのではなくて、それがいかに語られるかにあるのではないでしょうか。だからこそ細部がどのように展開されていくのか、それはどのような構成を持っていくのか、そこにリアリティがあるか(現実とどれだけ似ているか、という意味ではありません)が決定的に重要なので、それは寓話的な作品であろうとなかろうと、芸術作品なら何も変わるところはないのではないでしょうか。
寓話の本質が寓意だと考えるなら、この作品の寓意はすでにタイトル「嘆きのピエタ」に明らかであって、いまさら評論家諸氏に指摘されなくても、誰にでも分かりましょう。ここではみずからの愛憎を追い詰めていく<母親>ミソンがマリアで、みずから十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼり、十字架にかかって浄化され、マリアのその腕に抱かれる<人の子>ガンドがイエスであるという単純な喩の構造もまた自明のことでしょう。
ただ、この<母>と<子>の愛憎の物語が「現代の」寓話であることから、彼らを追い詰めるのはユダヤ教のラビたちでもサマリア人でもなく、またピラトのような政治権力やイエスを十字架に!と叫ぶ民衆でもなく、「かね」なのです。
現代の韓国に現われたイエス、ガンドは、マリア・ミソンに尋ねます。「金って何だ?」。
ミソンは答えます。「お金?すべての始まりで、終わりよ」、と。
圧倒的な力を持ったその<現実>の前で、人間の喜怒哀楽はあまりにも無力で、そのような感情に目覚めれば目覚めるほど追いつめられていくしかない。けれども、極限まで追い詰められた果てに、ガンドはこの世の一切の罪を一身に背負って、この世から投身します。
このときガンドは、この世の人々の一切の罪を負い、「すべての始まりで、終わり」の総体と拮抗して、現代の悪魔といわば無理心中を図るのです。その瞬間に彼もまた誰よりも深い愛憎で彼に結び付けられたミソンも、浄化される。その姿があの「嘆きのピエタ」なのでしょう。
こんなふうにお前を殺してぼろぼろにしてやりたい、と言っていたフンチョル、ミョンジャ夫妻のところへガンドが訪れ、早朝に野菜を積んだトラックを何も知らないミョンジャが走らせていく。まだ朝霧に包まれた幹線道路をゆっくりとすべるように走っていくミョンジャのトラックが一筋の濃い色の帯を引いている。それを静かに追うロングショットと哀調を帯びた音楽。ラストは掛け値なく美しい。
いろいろ書きましたが、キム・ギドク監督の昨品の中では好きな作品として記憶に残りそうです。プロの映画評論家さんたちの絶賛よりは、オバサマたちの感覚のほうを信用する私ですが。
2013年06月25日
ラージクマール・ヒラーニ監督 『きっと、うまくいく』
めちゃくちゃに面白い映画です。誰にでもお奨めします。今年一番の映画かもしれません。いや、同じ日付で「はじまりのみち」を日本映画では今年最高みたいに書いてしまったので(笑)、これは今年封切された洋画(インド映画も洋画?「非邦画」と言うべきか)で最高!と書けばいいでしょうか。いや、まだまだ観るつもりですから、なんぼでも面白い作品に出会えるのかもしれません。
それにしてもこんなに楽しい、元気づけられる映画は久しぶりです。インドを舞台にした『スラムドッグ&ミリオネア』も面白かったけれど、今回の『きっと、うまくいく』のほうがインド映画らしさたっぷりだし、私には中身もこちらのほうが面白かったです。
原題は”3 Idiots” なので、「三バカ大将」、ってところでしょうか。でも邦題、うまくつけたな、と思いました。作品の中でとても重要な役割を果たす、主人公が繰り返す言葉「Aal Izz Well」(アール・イーズ・ウェル)の翻訳ということらしいです。
内容は、平凡な言い方をすれば、3人の学生の友情を描く青春コメディで、学歴社会・格差社会への風刺をたっぷり盛り込んだ作品です。
コメディ映画の範疇に入って、もちろん何度も爆笑させられるけれど、中にシリアスな場面もあり、シリアスな問題がテーマの中にも場面の中にも違和感なくちゃんと埋め込まれていて、本当にすごいなぁと感心させられます。
そう、私がこの映画で一番ガーンとやられる気がしたのは、この映画の自由さのスケールの大きさです。
「踊るマハラジャ」のあの典型的なインド映画の歌と踊りは、たっぷりこの作品でも味わえます。それが何の違和感もないどころか、作品を盛り上げ、見ている私たちを巻き込んで踊り出したくなるほど、のりにのれる感じに盛り上げてくれます。なんと楽しい映画なのでしょう!
主役のアーミル・カーンは最初に登場したときから存在感のある、すばらしい俳優です。1965年生まれというから、結構な年齢のベテラン俳優さんらしいけれど、若い学生を難なく演じています。
三バカで競演する主役級のあとの二人、R・マーダビンも、シャルマン・ジョーシーも素晴らしい。紅一点のカリーナ・カプールもとても魅力的な女優さんです。敵役の学長さんもなかなかいい。彼が踊り出したりするところなんか最高!
こういう自由でスケールの大きい映画をみると、ハリウッド映画、ヨーロッパ映画、日本映画の秀作が、なにかカタブツの秀才のこしらえた人工的な構築物、といったふうにさえ見えてくるから不思議です。
とりわけ日本映画は、もちろん優れた作品は今も幾つも生み出されているに違いないし、ときおりその一つ二つに私なども触れる機会があるのですが、それでもなにかそれらの作品は才能のある映画作家とそれを支える一群の人たちが、そのトンガッた感性と才能で辛うじて作りだしたもの、という印象です。
すぐれた作品ほど、深ければ狭くとんがり、かっちりと隙のない武装をし、表面を磨き上げられた、閉じた球体のように完結した作品になるような気がします。
『きっと、うまくいく』に感じるのはそれとは正反対の、何でもかんでも放り込んだ鍋のように見た目も味も豊かで、開放感あふれる世界です。
映画って窮屈なもんじゃないな。もっともっと自由でいいんだ、何やったっていいんだ、そんな思いを強くします。
この映画は、でもそれだけではありません。宇宙飛行士用のペンのような小道具の使い方も含めて、いろんな伏線が全部生きるように、周到に作られていますし、ここぞ、というときにあの歌と踊りが登場するので、待ってました!と嬉しくなります。
テンポも上々で、次から次へと色んなことが起こって、171分という長尺でもまったく観客を飽きさせることがありません。
昔、劇場や実演芸術を調べるためにアジア諸国を巡ったとき思ったのは、アジアの国々の実演芸術はこの映画のように、どれも伝統的なものをちゃんと自分の体の中に残していて、その自分が圧倒的な力で浸潤してくる欧米文化とどう向き合うかという課題を自分に課しているようにみえ、その点私たち日本人はきれいさっぱり伝統を自分の体の中から追い出してしまったものだな、というふうなことでした。
もちろん国立劇場に歌舞伎を、国立文楽劇場に文楽をおさめ、それぞれ国家が天然記念物を保護するように大切に「守る」形で伝統文化を残してはきたわけですが、私たち平凡な庶民の一人一人の体の中に、そういう伝統文化が息づいているかと言えば、それはないでしょう。
でもこういう映画をみると、インドの人の体の中に、あの「踊るマハラジャ」の踊りや歌が、そっくり生きていることを実感せざるを得ません。
きっとそいつは、爆笑するときも、怒り心頭に発するときも、悲しみに打ちひしがれた時も、人を恋してのぼせあがったときも、ひょいと体からあふれ出てきて、自然にこの手足を動かし、この唇に歌わせるにちがいない、ということが、この映画を見ていて確信できるのです。
インドは毎年、世界一沢山の映画を生産しているそうです。そのほとんどはわが国で上映されることのないような、あの延々とインド的な音楽が流れ、それに合わせて踊り、歌う、インド庶民のエンターテインメントとして消費されていくだけの映画なのでしょう。
でも、その毎年毎年生み出されるおびただしい作品の山、私たちが目にしたこともないほど広大な映画の海の中からしか、この『きっと、うまくいく』のように伝統に根ざし、開放的で、自由で、途方もなくスケールの大きい、豊饒な作品が生まれることはないのだろう、と思わずにはいられません。
原恵一監督『はじまりのみち』
『はじまりのみち』は日本映画では、まだ年末まで半年あるけれど、今年ナンバーワンではないかと思えるようないい映画でした。
原恵一監督については『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!大人帝国の逆襲』や同じく『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』で孫と一緒に「予習」していたので、優れたクリエイターなのは分かっていたけれど、初めて撮った実写映画で、いきなりこれほど素晴らしい作品とは、色々前評判の高いのは知っていても、映画館に足を運ぶまで正直、思っていませんでした。やっぱり惚れるってのは強いな、と思いました。
これは木下恵介監督に惚れた同じ活動屋の魂が捉えた、映画人の一人の人間としての姿。ここに描かれているのは、優れた才能を持ちながら、それを生かすことのできない時代に苦悩し、自分を曲げず矜持を保ちつづける強さ、頑なさも、絶望に打ちひしがれ、涙する弱さも、病の母や家族に対する優しい愛も併せ持つ、一人の人間としての木下監督の姿です。
戦火から逃れて病の母をリアカーで17時間もかけて峠を越え、山道を運ぶプロセスを描くだけと言ってもいいほどシンプルなストーリーの中で、木下監督の深い家族愛も、映画人としての思いも、くっきりと浮かび上がり、感動とともに伝わってきます。
母親への木下監督の愛を中心とするこの一家の家族愛を描いた主要な側面でみると、これはいつの世にも美談として喧伝されそうなストーリーですが、加瀬亮が非常に硬い表情と演技で表現する主人公の頑なさが、孝行美談と言うより、常識的には殆ど無謀な、彼のある意味偏屈な性格のなせる業のように描かれることで、作品そのものは美談のほうへ収斂することなく、主人公の両義的な人間像のほうへ統合され、彼のおかれた映画人としての境遇や屈折した思いと重なって、リアリティのある人間像として観る者に迫ってきます。
山道を越えてやっとの思いで見つけた宿の前にリヤカーをとめ、母親を下ろす前に、彼が濡れ手ぬぐいで母親の顔や首についた泥を丁寧に拭く場面があります。そのときの田中裕子演じる母親の凛とした表情、彼女の泥を丁寧に丁寧に拭きとっていく加瀬亮演じる主人公の演技、そして、それを見守る兄、便利屋、そして宿の夫婦や娘たちが、ある意味、普通の孝行息子がするような行為の域をはるかに超えた、譬えてみれば深い信仰をもった人が毎日手を合わせるご本尊の汚れを丁寧に丁寧にぬぐうような主人公の行為に、ただ搏たれて、一種異様な光景を見、畏怖を覚える者のような表情をみせます。・・・その言葉を失った表情があのシーンを実に印象的なものにしています。
加瀬亮も田中裕子も、もともとうまい役者ですが、終始自然体にみえる実に自然な演技をみせているユースケ・サンタマリア、さらにはこの作品で意識的に硬いインテリ監督加瀬亮の演技の対照として、さらに主人公に精神的な再起のきっかけとなる重要な役割を自分では知らずに果たす「便利屋」の濱田岳の能天気で明るい演技が本当に輝いていました。
二人の水邊での会話のシーンは涙せずには見ることができませんでしたし、その直後に映される『陸軍』のラストシーンの田中絹代の表情の素晴らしさにも、映画の中で引用される映画をみて泣くのも可笑しなものだと思いながら、以前みたのにまた泣いていました。
でもきっと木下恵介監督もよく泣く監督だったのではないでしょうか。今回の映画に登場するその作品リストを見て思ったのは、そのことと、私が思っていたよりずっと多作な監督だったんだな、ということでした。
敗戦でこの映画に描かれたような鬱屈した状況から解き放たれ、堰を切ったように、思うがままに楽しく明るい映画を沢山撮りたかったのでしょう。私が見ているようなシリアスな作品はそれが一巡したころに作られたんだな、ということに気づきました。
山中、小津、成瀬、黒澤といった監督たちに比べてあまり関心を持ってこなかったこの監督の映画をもっと見ておきたいな、という気持ちにさせられました。
「予習」の一つとして、長い年月を経てみた『二十四の瞳』の印象は、ずいぶん以前とは違っていました。暗い印象はあったけれど、昔はもっと「情」オンリーの作品のような印象を持っていたからです。いい映画はどんなに歳月を経ても深い感動を与えてくれるし、見るたびに新しい経験をさせてくれます。
2013年06月22日
高橋源一郎『銀河鉄道の彼方に』
一方、彼が朝日新聞に書いていた、テーマを決めていくつかの文筆家の文を取り上げる評論の類は楽しみにして読んでいた。切り口がシャープだし共感もできた。
今回は「銀河鉄道」というタイトルに含まれる言葉と、563ページという本の分厚さを見て、小説だけれど、珍しく読んでみたくなった。
賢治の童話風の文体なので、563ページと言っても読むのに2日とかからず、職場までの電車の往復を2度繰り返すうちに楽しく読めた。
楽しく、と書いたけれども、面白おかしい楽しさというのとは違う。私たちが日常生活の中でふだんは意識もせずに接していたり、関わっていたりする人やモノやコトで、失われてはじめて、こんなに自分にとって大切なものだったのかと思うようなもの、愛おしいものが、次々に失われていく物語なのだから、楽しいとというと違う。限りなく哀切な物語、といってもいいと思う。
この作品をずっと読んでいると、自分がほんとうに果てしない宇宙の広がりと、果てしない時間の流れの中の、砂粒のひとつのように、その時空の広がりの中を彷徨っているような気分に侵されるようなところがある。
幼いころから、何億光年、などという途方もない宇宙の話など聞かされると、いまここにいる自分がちっぽけな、などというよりも、その「いま、ここ」さえも定めがたく、気の遠くなるような時空の広がりの中で、時間的にも空間的にもどこにいるのか分からず、ただどこにも「いま、ここ」の手がかりのない時空の闇の中を漂流しているような感覚に襲われ、そんな自分が妙に存在感のない希薄な存在になってしまうような感じ方をしたことは幾度かある。
それはそのつど、ほんのひと時のことだけれど、高橋の作品を読んでいると、そんな感覚が持続して、むしろ次第に自分を冒してくるような気がした。読者もまたいつのまにか銀河鉄道に乗って果てしない宇宙を旅していることになる。
愛おしいものが次々に消えていくシーンの限りない哀切さ、大切な人と交わす最後の言葉の諦念に裏打ちされた淡白さ、優しさ。この切なく、冷たい星々の光のように美しい、硬質の透明感はこの作家独特のものだ。「さようなら、ギャングたち」で<わたし>がおんぶしたキャラウェイと交わす言葉のように。
「こうやって、ここに座って、いまあなたとお話ししているのと、寸分違わないことを、前に話したことがあるような気になったのです」・・・幾度となく繰り返されるリフレーンの効果。
キースのアルジャーノンは薬理作用で超人的な知能を獲得するが、副作用でまた元の知的障害者に戻っていく。彼自身の記す日記によって淡々と描かれるその変貌する姿を私たちは哀切な眼差しで見る。
しかし私たちもまた、この果てしない時空を漂流する、孤独なアルジャーノンなのだろう・・・そんなことを、この高橋の近著を読みながら思った。