2013年05月
2013年05月24日
2013年05月18日
百田尚樹『永遠の0』
しばらく前から書店で、本屋大賞を受賞した『海賊と呼ばれた男』が平積みになっているのを横目でみながら、さびしい財布と相談すると、これ2冊買うのはちょっとなぁ、と思っていたので、文庫で同じ著者の文壇デビュー作が出ているのをみつけて買ってみました。
『永延の0(ゼロ)』・・・第二次大戦当時、少なくともある時期まで世界トップレベルの技術を誇った零式戦闘機、いわゆる「零戦」のゼロです。でも零戦の技術のおはなしではありません。
書店で最初の数ページを読んで、いつものように、これは最後のページまで退屈せずに読めそうだな、と見当をつけました。実際、期待どおりというか、それをはるかに超える面白さと感動を与えてくれる作品で、こいつはむしろ若い世代に読んでほしいな、と心から感じました。
実は私の父方の叔父が戦車に乗っていた軍人(少尉)で、ちょうど戦争一色の時代、批判的な情報が一切遮断された中で成人した、文字通り戦争まっただなかの世代の一人で、本土決戦の心づもりでいたのが敗戦になって郷里に戻り、戻ったときからおそらく死ぬつもりで一冊のノートに自分の生涯と遺言を認め、書き終えると、そこから始まった戦後という時代を拒否し、「われ蟻となって国を守らん」という言葉を残して自決しました。
むろん私はまだ幼児で、何もおぼえていないはずですが、一度だけ村の墓に深い穴が掘られ、その底に棺におさめられた遺体があって、村人たちが穴の周囲で弔いの儀式をしていたことだけ、その遺体の妙に白い印象とともに、はっきりと覚えています。のちに両親にそれを話して、まだあのころ土葬なんかしていたの?あれは叔父さんだったの?と訊いたことがあります。
いつのことかも明瞭でないので、両親も返事に困っていましたが、しかしあのころ村で誰かが死んで私が連れて行かれて一緒にそれを見ているなんてのは叔父の死んだとき以外に考えられない、とのことでした。
彼は敗戦と同時に自決したのではなく、そのあと2年以上、郷里で両親とともに田畑を耕して暮らし、そのあいだに遺書となるノートを書き続けていました。私の父を含む二人の兄が外地(海外)にいたため、二人とも生きて帰らないかもしれないと思い、千葉・稲毛の戦車隊にいて敗戦後いちはやく郷里に帰ってきた自分が、その場合には両親の老後をみなくてはならない、と考えたらしく、遺書にその旨の記述がありました。
しかし、私の父が外地で生まれた子(私)やその前に写真相手に結婚して父のいる大陸まで行っていた母ともども敗戦翌年に帰国し、さらに激戦のビルマ戦線に行って、とうてい生きては帰れまいと思われていた長兄までがうんと遅れて(たしか2年前後たってから)帰ってきたために、これでもう自分が親の面倒をみなくてもよい、と心をきめて、いったんは滅んだと考えた国に殉じるという行動を選んだようです。
高校生のころその遺書を読んで、私は「戦争で亡くなった」と曖昧に聴いていたその叔父の死にいたる事情をはじめてつぶさに知ることになり、衝撃を受けました。と同時に、いくつもの疑問がわいてきました。たとえば、そこまで凝り固まった軍国青年で、死のうとして帰郷しながら、2年前後も生きていたのは、ほんとうに両親の老後をみるため、ということだったのだろうか。2年も生きていてその間ずっと死ぬ覚悟と緊張を持続できるのだろうか。彼は一時、職につこうとしたこともあり、死をためらっていたこともあったのではないだろうか。生きていた最後の2年前後のあいだ、毎日かれはどのような気持ちで、どんなふうに過ごしていたのだろうか・・・等々。
いつか叔父のことも、彼が死ぬにいたった背景についてもよく調べて、自分なりに得心のいくある種の「答」を手にしたいと思って、当時はまだ存命だった祖父母や親戚に話を聞いたり、あまり語りたがらない両親に話をきいたりしてノートに書き留め、資料を集め、いくぶんかは文学少年だったせいで、小説の形にできたら、と一部を書いてみたりといったことを断続的に続けていたこともありました。
作家になる夢のほうはとうに捨てて、その後は仕事の傍ら、自己慰安のように時折り雑文を書いてすごすだけで、叔父のことは忘れはしなかったけれど、正面から向き合う力量が自分にないことも痛感していたので、彼のことはそのままお蔵入りになっていました。
こんな事情があって、ずいぶん以前に高城のぶ子さんの『燃える塔』という、特攻隊員を描いた小説を読んだとき、さすがにプロになる人は違うな、文章もうまいし、フィクションとしての戦略があるな、という印象を持ちました。あとで彼女のお父様が特攻隊員の生き残りだったと知りましたが、作品はベタな私小説とは違って、香り高い、作家としての工夫のあるすぐれた作品でした。
若い私にとっても、叔父のことをただ過去の物語として書くのではなく、いま自分が生きているこの戦後の社会と二重写しにして表現したい、という思いがあったので、どんな視点と語り口で書くのかが大きな課題としていつも頭の中にあり、高城のぶ子さんのこの作品は、そういう可能性の一つを鮮やかに示してくれているのを感じたのです。
たまたま芥川賞だったか何かを彼女の作品がとったので、偶然私の目に触れたのですが、その後はとくにそういう作品をさがしてまわったわけでもなく、単に戦争記録物のようものを読みたいとは思わなかったので、客観的な資料は集めても、小説として似通ったものに行き当たることはありませんでした。
それが、今回たまたま手に取った『永遠の0』が私が考えていたような問題意識とテーマで書かれた作品だったので、ほんとうに身を入れて浸りきるようにして読了しました。
これは高城のぶ子さんの作品が芥川賞向きだとすれば、たしかに直木賞向きのエンターテインメント的要素というか、「読み物」として抜群に読み応えのある、楽しませてくれる作品ですが、その楽しませ方は感動の涙を誘うような種類のもので、書き手の人間を見る眼差し、時代の変化を見る眼差しに信頼感を覚え、深い共感とともに読み進むことができるような類のものでした。
たしかに、姉、弟が祖父の足跡をたどって、次々に祖父を知る生き残りの戦争世代を訪ね、次第に祖父の実像を明らかにして、祖父の人間像と彼が生きた時代を哀切の思いをこめて再現してみせると同時に、自らのルーツにたどりつく(そこに一種のドンデン返しに似たサプライズも用意されてエンターテインメントしても実によくできています)、という作品の構えは、私のような素人が考えていたものと変わらない、この種のテーマを扱うときの定石的な方法だし、したがって次々に生き残りの話を聞きに行くことで展開される構成も単純です。
そして、徐々に祖父の実像を知るにつれて過去の特攻隊や軍人にたいするものの見方を修正していき、内的に成長していく語り手でもある「ぼく」のカウンターパートともいえ、この小説の描く宮部少尉や作品自体が圧倒的な力で否定している、姉の恋人高山の、特攻隊員はテロリストと同じだという論理も人物像も薄っぺらすぎて、かえって現実感に乏しい(こんな男に「ぼく」の姉が一時的にせよ結婚を思うほど惹かれるものかな?なんていう疑問を生じるほど)し、逆に宮部少尉はともすれば定型的に理想化されすぎている、というような瑕疵もあるように思います。
けれども、それらを忘れさせてくれるほど、描かれる戦争中の数々のエピソードは生き生きとしていて、その中で浮かび上がってくる宮部少尉の姿も、戦闘機乗りとしての技量は超人的だけれど、血も肉もあり、迷いもし苦しみもする何よりも熱い心を持った一個の人間として鮮やかに浮かびあがってきます。
多くの人命を使い捨ての道具として死に追いやって、なんら責任をとらずに戦後を生き延びた司令部や軍の幹部たちへの実名を名指ししての糾弾の言葉は作者が生身で乗り出してくるような怒りを感じさせる迫力を持っています。
彼らは昨今の日本の政治家や電力会社の幹部たちにそのまま重なって見えてくるところがありました。
今日の朝日新聞の「プロメテウスの罠」に乗っていた、被害者との和解を実質的に拒み、実に姑息ないやがらせや遅延策を講じる東京電力の姿勢を読んだり、高速増殖炉の件で安全を保証するための最低限の義務さえまったく果たそうとせずに危険はないとうそぶいていた、本来なら腹を切っても地域住民におわびしなければならないはずの、今回退職した理事長の姿勢、それに原発を再稼働させなければ電力不足と大幅な値上げだと市民を脅迫しつづけて、まるで原発以外の方策をつゆほども検討する気もないらしい関西電力の社長のような連中を見ていると、この日本で権力を持っている連中は第二次大戦のときもいまも、世代は変わっても何一つその権力にあぐらをかいた無責任さは変わってないんだな、と痛感させられます。
ゼロ戦の戦闘機乗りを描いた作品だからといって、もういまはありえない過去のできごとについての物語、などではありません。いま私たちの目の前で起きていること、その陰で大きな力を実に姑息なやり方で振るっている権力者たちと、それに抵抗する小さな、しかし人間としてははるかに大きな存在をめぐるなまなましい物語として、いま現在に重ねながら読むことのできる優れた作品だと思います。
若い人にぜひ読んで、と薦めたい一冊です。
2013年05月11日
cherbourg
あのメロディーが聞こえてくるだけで、若いころにこの映画をみた人は泣けてくるに違いありません。
le parapluies de cherbourg -
若い頃は恋はしてもメロドラマは嫌いで、およそ恋愛映画らしいものはみな敬遠して見ることがなかったのに、いまごろそんなのばかり見たくなるのも不思議。
ひとむかし前に録画して見ずにストックしていたDVDから拾っては、仕事用のパソコンのDVDドライブに入れて、なにげなく見始めると、ついのめり込んでしまいます。
ラストシーンの素晴らしさ。メロドラマもここまできっちり描かれると深く感情移入して人生の奥行きを感じさせられるような気がします。
アニエス・ヴァルダの「幸福」も良かったけれど、この作品もあらためてすばらしかったな、と思います。
le parapluies de cherbourg -
若い頃は恋はしてもメロドラマは嫌いで、およそ恋愛映画らしいものはみな敬遠して見ることがなかったのに、いまごろそんなのばかり見たくなるのも不思議。
ひとむかし前に録画して見ずにストックしていたDVDから拾っては、仕事用のパソコンのDVDドライブに入れて、なにげなく見始めると、ついのめり込んでしまいます。
ラストシーンの素晴らしさ。メロドラマもここまできっちり描かれると深く感情移入して人生の奥行きを感じさせられるような気がします。
アニエス・ヴァルダの「幸福」も良かったけれど、この作品もあらためてすばらしかったな、と思います。
saysei at 00:54|Permalink│Comments(0)│