2013年04月
2013年04月20日
東野圭吾『夢幻花』と変化朝顔
東野圭吾の新刊『夢幻花』は変化朝顔をめぐる話なので、いままでのものより一層興味を持って読みました。
十数年前に国立歴史民俗博物館が朝顔展を開いたとき、江戸時代から伝わる伝統の変化朝顔を咲かせて見せただけでなく、種子を配ったら、業者も含めて長蛇の列ができた(当然でしょうが)といったことがありました。
そのときにいただいた種子を庭の花壇や植木鉢に撒いたところ、見たこともない不思議な形の変化朝顔がたくさん咲いて、ひと夏を楽しませてくれました。いまの大輪の朝顔に比べて一つ一つの花はむしろ地味ですが、花弁が浅く、あるいは深く切れ込んだ花や、車の上に台座がついて噴水のように雌蕊雄蕊を突き出しているのや、最初から縮れっぱなしの花弁や、めったに見ないような深い青の美しい花等々・・・
次の年もぜひ咲かせたい、とたくさん種をとって念を入れて半分に分けて、次の年も撒いたのですが、どちらも一輪も芽を出しませんでした。撒き方がまずかったのか、もともとそういうものだったのか、研究的に調べたわけではないので、私にはわからないままですが、とても残念でした。
そんな変化朝顔のいくつかを見ていたので、もともと好きで長編はほぼ全部読んでいる東野さんの新作のカバーに朝顔の絵が描いてあって、帯に変化朝顔をめぐる話とうかがえる言葉があったので、躊躇なく買って、すぐ読んでしまいました。作者が何年もかけて苦労して書いた作品を2,3時間で読んでしまって、もったいない気もしますが、一気に読めるだけ面白いということでもあります。
推理小説ですから中身には触れないことにしますが、この作家の作品のいつもの持ち味である、登場人物の一人一人を見る作者の温かな目が感じられるという点は今回もまったく満足すべき出来栄えで、後味良く満足感をもって読み終えることができるし、展開が面白くて次へ次へと早くページをめくりたくなること請け合いです。
私自身は推理小説好きではないので、大して重視していない推理小説としてどうか、という観点からも、犯人が意外だったり、面白くできているのではないでしょうか。
そして、主人公の蒼太が負の遺産を引きうけるラストページは本当に良かった。最初は蒼太がなぜこういう設定なのか、単に貧乏くじをひいて、ちょっと拗ねた位置にある若者というだけのことかと思って読み進めてきたけれど、ストーリーの核心と結びついて最後にこう来たか!と、作家の企みに感心しました。
就活の合間の気晴らしに、ワクワクする面白さと、後味の良い温かい気持ちが味わえるエンターテインメントの一冊としておすすめです。
冒頭の変化朝顔(小形切咲)の本当の色はこちら。冒頭の花の色は読んだこの本の中身に合わせたジョークです。m(_ _)m
2013年04月13日
春の庭~村上春樹『・・多崎つくる・・』再想
団地の共同庭はいま桜が満開。しかも色んな種類が競って咲いています。きょうは青空、つっかけを履いて庭へ出るたけでどこよりもすばらしいお花見が楽しめます。これも園芸好きの方が丹精込めて手入れしてくださっているおかげです。
わが家の猫の額ほどの庭にもいろいろな花が咲きはじめ、冬枯れの淋しかった庭に春の色が溢れるようです。
桜の花の下で、昨日読んだ『・・多崎つくる・・・』のことを反芻していました。
いくつかひっかかるところがあったからでしょう。まず、’つくる’が4人の友人から突然拒絶されるところで、普通はこういう場合、’つくる’はなぜなのか理由を知ろうとするだろうな、ということ、また友人たちも、もし本当にそれほど仲のいい友人なら、なにかあっても誤解じゃないかと確認をとるだろうな、と感じました。
作品の設定はその意味で不自然だと思ったので、どう不自然でないように導いていくのかな、と興味を持ちました。ひょっとすると『1Q84』みたいにシュールな世界へ入り込んでいくのかな、と思っていましたが、この作品は『ノルウェーの森』タイプで、そういうことにはなりませんでした。
とすると、こういう設定で4人が突然拒絶するとすれば、こういうことしかなさそうだ、というおおまかな予想が立ちました。理由を問う’つくる’に友人の一人が、自分が一番よく知っているんじゃないのか、と答える場面があるので、この4人の誰かに対して’つくる’が、なにか一般には倫理的に許されないようなこと、たぶん人間性にもとるようなかなりきつい行為(肉体的なものも言葉や沈黙などによる精神的な「行為」も含めて)があったか、そう信じられる理由があったのだろう、ということです。
そして、その相手についても、それまでの展開から予想はつきました。
結果的にそれは当たっていましたが、でも、納得はしませんでした。それなら心を許しあった友人たちはどんなことがあっても自分で確認だけは採るだろう、本人に対して直接問いただすだろうし、そうでなければ間接的にでも、と思いました。
もちろん、彼を信じてないわけではなかった、と登場人物たち≒作者は弁明し、それにも拘わらず、切り捨てないわけにはいかなかったのだ、それほど大変な状況だったのだ、と答えます。そこまで聞いても読者としては納得はできません。シロを救うことと、いや本当はあなたのこと信じてるんだけどね、いまはシロが大変だからあなたには距離をとっておいてほしいのよ、と言うこととは両立するはずです。’つくる’は離れた場所にいるのでもあるのですから。
そこまではどうしたって不自然で、いろいろ言い訳されても、納得できないのです。
けれども、最後の最後に、クロが自分の気持ちを話し、自分が’つくる’に打ち明けなかったのは、シロのためではなくて、自分が自分の気持ちを断ち切りたかったからかもしれない、と言ったときに、はじめて、弱いけれども、それなら納得してもいいか、と思えました。
でも、それはアオとアカにはあてはまりません。それはないだろう、というのはいまでもちょっと思います。
しかしまぁ、作者のモチーフは一貫していて、語り口がうまいので、どんどん引き込まれて読んでいきます。納得のいく解は得られないけれど、推理小説ではないのですから、謎とその解答が符合していればいい、というものでもありません。
もともと’つくる’の視点から描くから謎が謎なのであって、ほかの友人の視点から、あるいは神のごとき全知全能の作者≒語り手となって語られれば、謎の無い透明なお話になるはずです。
’つくる’の側からみれば、心を許しあった友人から不条理にもある日突然まったく理由も告げられずに自分だけが拒絶され、永久追放される。普通に考えると彼の新しい恋人が言うように、なぜ彼は必死になってその理由を見つけようとしないのか分からない。でもそこは最終的に作者が謎にみあった答えを与えるかどうかとは無関係に、作中の’つくる’にとっては必然性があるように描かれていて、そこは説得力がないわけではありません。
つまり突き放して言えば、’つくる’はこういう不条理を引き寄せる資質を持っているように見えます。彼の側から言えば、それは自分が引き寄せてしまう宿命のようなもので、避けようがない、引きうけるしかないもの、と感じられるでしょう。
それは自分は無実無罪であるのに強いられる不条理という怒りに満ちた受け止め方ではなくて、自分にははかりしれないけれど、自分のせいかもしれないな、おそらく自分のせいでもあるのだろうな、と半ば未知の部分を引きうけながら、避けようもなく引き受けるしかない宿命のように受け止められています。
彼にとっていつも人生はそのようなものとして訪れる。心をゆるし愛する人たちとまじわり、この上ないハッピーなときを過ごしていると、突然なんの前触れもなくそんな時間が断ち切られる。愛する人、愛してくれたはずの人は何も告げずに去っていき、なにもかもが失われてしまう。生きていることの意味はそれがそんな形で失われてはじめて自分に明かされる。自分はそれによって深く傷つき、生死の境をさまようような地獄を味わい、魂の抜けた人のように地を彷徨って辛うじて生き延びる。
こういう人生との出会い方というのは’つくる’という人間の基本的な資質に骨がらみのものだという気がします。おそらく作者の資質の核心的な部分を分け合っているところなのでしょう。
このような不条理な宿命としての人生のありようなり、人との出会い方というのは、この作品でも主旋律になっていて、灰田と’つくる’との、あるいは灰田の語る父親の、メインリームからは傍流にみえるエピソードは、主題を反復することでこの主旋律を強調すると同時に、いわば理屈で解説する形になっていると思います。
でも、ここでは終わらない。ようやく傷口がふさがったと思う頃に、その傷口を開くように過去が’つくる’の前に立ち上がってきます。この物語の場合は新しい恋人に励まされて、’つくる’が遍歴の旅に出かける。そのプロセスが深い傷を負った’つくる’の自己回復の物語ともなっています。
そしてかつての友人たちと会い、そこで明かされる言葉を聞くことによって、あの友人たちとの決定的な別れが、決して宿命でもなんでもなく、或いは愛する人とごく自然に平凡に結ばれて幸せな家庭を築き、平穏に生き得たかもしれなかった岐路にただお互いに立っていたにすぎないこと、そしてお互いに深く理解しあっていると思っていたけれども、相手をも自分をもまるで理解などしてはいなかったのであったということ、そのためにいつも自分の腕の中に抱けるほどそばにいて自分を求めていた、自分にとってかけがえのない人もまた、スルリと幸運がすり抜けていくように去って行ったのであること、そしてそのようなありえた人生をいくら思ってみても、決して取り返しがつかないことを深い哀しみとともに彼は悟ったのだと思います。
人生はいつも彼にとってこのように訪れる。気づいたときにはもう決して戻ってこないし、取り返しがつかない。そんな人生への深い哀しみがこの物語の基調音になっています。
’つくる’は自分だけがのけ者にされ、自分だけが深く傷ついて死の淵をさまようまでに追い詰められたと考えていたけれど、地獄を味わったのは彼だけではなかった。
彼を追放した友人たちの一人一人がみな深く傷つき、苦しんできた。誰のせいでもなく、誰が悪いわけでもない。クロは自分の気持ちに気づかなかった’つくる’を、ずっとそばにいてサインを送っていたのにあなたが馬鹿だっただけなのよ、という意味のことを言う。
たしかに’つくる’は自分がイケメンでもてることにも気づかず、人の愛情にも気づかない、そういう意味では少し鈍感なところのある人物として描かれています。それは自己評価の厳しさからきていて、自分だけが友人たちの中で個性もなく提供できるもののない、いてもいなくてもいい、ただ器にすぎない存在だと自己認識しているようなところにあらわれています。
そこに名前にカラー(色)がない、というのをひっかけてあるのもこの作者らしいユーモラスな仕掛けで、面白い。
でも、それは物語上のつじつま合わせで、この物語の一番の核心を’つくる’という登場人物のそういうキャラクターに還元して何かが理解できるわけでもないでしょう。
むしろ彼らが高校生の仲良しグループのときに、互いにとことん深く理解しあった仲間のように思っていた時、実は何一つ理解しあってなどいなかった、分かっていたなんて全然錯覚にすぎなかったのは、彼らが愚かであったからでもなければ、’つくる’に鈍いところがあったからでもない。そんな個人の性格や資質に還元できるようなことは本質的な理由ではなかった。
この物語が語っているのは、彼らはすばらしく聡明で、すばらしく鋭敏な若者たちであったということ。その彼等が、自分たちの総力を挙げて最善と考え感じる道を、自分を地獄へ追いやるような深い傷を負いながらそれぞれにえらび、歩んできた。そこにどんな悪意もない、逃避もない、責められるべき怯懦も不実もない。けれども、というよりそれゆえに、ちょうど見えない壁で囲まれた中で必死で動き回っている人のように、その世界の外側に立って各々の動きを見るような視点を誰も持つことなどできない。見えない壁は善意であるかもしれないし、誰かへの愛情であるかもしれない。ひとつの気高い善意はべつの意味では高い壁であり、ひとつの深い愛はもうひとつの高い壁になる。
こうして考えれば、彼等だけでなく、私たちも含めて、人はみなそのようにしか生きられないのではないか。私たちが分かりあうために人と自分との間に置く言葉が振る舞いが、透明性を消し去り、それがどう受けとめられるかをもはや私たちは本当には知りえない。
私たちはあるときまったく分かり合っていなかったこと、通じてはいなかったことを知り、愕然とする。深く傷つく。なにか決定的なことが起きたのだ。そこには理由がなければならない。原因がなければならない。でも理由といい原因といい、謎といい、すべてはその決定的な瞬間が作り出した錯覚にすぎない。人間はもともとそういう存在なのだ。そう言いたければ、それが私たちの宿命なのだ。
そこで私たちは迂回して生き延びる。いつか傷は癒えるだろう。自己回復のための遍歴の末に私たちは自分の過去と向き合う。
そこで謎の解答は与えられるのか。
そこで明らかになるのは、謎なんてなかったということだ。犯人はいなかった。自分もまたほかの誰も犯人なんかじゃなかった。誰のせいでもなかった。私たちは一人一人がみなまったく途方もない錯誤の中にいたのだ。そしてそれは不可避なことだった。決定的なできごと、など何もなかった。原因も理由もなかった。ただ自分たちの熱い思いが、愛情や友情や善意や嫉妬や尊敬や自己認識が、それぞれに光と熱を放ち、交錯しあった。あなたがある人を見ていればあなたには私があなたを見ていることは見えない。それだけのことだと言ってもいい。
そうして愛する人を失った。こうもありえたのに、それを妨げるものなど何もなかったのに、そうはならなかった。そのときには気づくことができなかったから。そしてそのときに気づくことは、いつも人間にとってほとんど許されていない。気づかないこと、分かり合えないこと、すれ違ってしまうこと、それが人間にとっては不可避なのだ。
そしてときを経て過去に向き合うとき、すべてが明らかになる。それは時を置いて眺めるから明らかになるので、みずからそのなかにいるときには、決して明らかにはならないのだ。
明らかになったときにはいつもすでに手遅れだ。なにもかもが壊れてしまって、もう二度と元に戻ることもなく、やり直すこともできない。だれもが新しい時の中を生きているからだ。新しい友人たちと、家族と関わりながら。
「色」が登場人物の呼称になっていて、タイトルから、物理的な本のカバーデザインまで、一貫して重要な要素になっていますし、確かにそこに’つくる’という登場人物自身が意味づけをし、また作者自身も人物の性格造型や相互の関係を規定していくアイテムにしているところはあるのでしょう。
こういうところがハルキファンにはこたえられず、またまた記号論的解釈の類がたんと積み重ねられるのだろうと思いますが、私自身はこういうのは作者のそういう読者向けのサービス精神というのか、ユーモア精神の発露ていどに思って楽しんで読んでいくだけです。
この種の「癖」はどんな本格的な作家にもあって、そういう「癖」の部分の「解読」に一生を費やす人もあるので、それはそれぞれの読者の自由というものですし、「癖」もまたその作家の一面には違いないけれど、癖があなたそのものだと言われて戸惑うのは本人では?という気がしなくもありません。
この作品は『ノルウェーの森』がベタな作品であったように、最初から最後までベタな作品で、正直、村上春樹の作品の中では、私たちを思いもかけない世界へ連れて行ってくれるようなところがありません。
『ノルウェーの森』はまだしも、デビューのころの短編に原形のある話が本格的な作家としての力量で長編に展開されて、あぁ、そうだったのか、と読者が未知であった’過去’に連れて行ってくれるワクワク感があったのだけれど、『・・多崎つくる・・』では少なくとも私の場合、読んでいていつか来た道のような既視感をおぼえて仕方がありませんでした。
村上春樹の新刊
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、梅田の駅の書店で買って、きょうは電車の中でも病院の待合室でもたっぷり楽しめた。
この作品は村上春樹の過去の長編作品の中では『ノルウェーの森』の系列なのだろう。『1Q84』のようなシュールな世界はここにはなく、地を彷徨う若者たちの姿が平易な話体で綴られている。
私たち自身の若いころを振り返れば、そっくりのモデルがみつかりそうなほど、等身大の若者たち、そんな心を寄せ合った5人の若者たちが、ある無残な出来事をきっかけに深い傷を負ってそれぞれの人生へ踏み出していく、言ってみれば枠組みはどこにでもある青春の物語だ。
これを、主人公の時が止まってしまった瞬間をめぐって回顧される物語、ひとつの謎とそれを解き明かす過程として設定し、それを、深い傷を負わされたと思い、また実際その傷の深さで死の縁を彷徨いもした若者が、実は自分を切り捨てた仲間たちもまた自分以上に深い傷を負っていたことを知る過程に、さらには彼の自己回復を遂げていく過程に重ねて展開していく、その巧みな語り口に、若者たちの痛みを自分の痛みのように感じながら引き込まれていく。
会話はあいかわらずうまいなぁと感心する。灰田と多崎つくるとの会話など舌を巻く。ほんとうに二人の性格や知性をうまく会話で表現している。
多崎つくるの見る夢の描写などもこれまでの作品でみてきたこの作家の十八番だなぁと感心する。それが物語の中でもつ意味、これらの場面の置かれる作品の中での位置、そしてその描写に溢れる独特のエロティシズム。
『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』や『1Q84』のような作品もいいけれど、広く読まれ、多数売れるのは『ノルウェーの森』やこの作品のほうなのかもしれないな、という気がする。
この作品は村上春樹の過去の長編作品の中では『ノルウェーの森』の系列なのだろう。『1Q84』のようなシュールな世界はここにはなく、地を彷徨う若者たちの姿が平易な話体で綴られている。
私たち自身の若いころを振り返れば、そっくりのモデルがみつかりそうなほど、等身大の若者たち、そんな心を寄せ合った5人の若者たちが、ある無残な出来事をきっかけに深い傷を負ってそれぞれの人生へ踏み出していく、言ってみれば枠組みはどこにでもある青春の物語だ。
これを、主人公の時が止まってしまった瞬間をめぐって回顧される物語、ひとつの謎とそれを解き明かす過程として設定し、それを、深い傷を負わされたと思い、また実際その傷の深さで死の縁を彷徨いもした若者が、実は自分を切り捨てた仲間たちもまた自分以上に深い傷を負っていたことを知る過程に、さらには彼の自己回復を遂げていく過程に重ねて展開していく、その巧みな語り口に、若者たちの痛みを自分の痛みのように感じながら引き込まれていく。
会話はあいかわらずうまいなぁと感心する。灰田と多崎つくるとの会話など舌を巻く。ほんとうに二人の性格や知性をうまく会話で表現している。
多崎つくるの見る夢の描写などもこれまでの作品でみてきたこの作家の十八番だなぁと感心する。それが物語の中でもつ意味、これらの場面の置かれる作品の中での位置、そしてその描写に溢れる独特のエロティシズム。
『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』や『1Q84』のような作品もいいけれど、広く読まれ、多数売れるのは『ノルウェーの森』やこの作品のほうなのかもしれないな、という気がする。