2012年11月

2012年11月25日

南河内万歳一座「お馬鹿屋敷」

 先日久しぶりに南河内万歳一座の『お馬鹿屋敷』を観に、大阪のシアトリカル應典院へ行きました。毎年知らせをもらうと学生さんに、行きたい人いないかな?と声をかけるのですが、以前はときたま二人、三人と手をあげて、じゃ一緒に行こう、と誘い出していたのですが、ここ数年はまるでそういうのに関心を持つ学生さんがなくて、淋しい想いをしていました。

 今回は3人が手を挙げてくれて、身銭を切ってでも観に行きたいというので、喜んでお供することに。
 
 今回は内藤裕敬さんの作・演出、舞台にも登場というので、久しぶりに彼の変わらない姿を見て、また変わらない作風をみてなんとなくホッとしました。観客層が演劇は学生演劇からそのまま引きずって高齢化していると言われますが、一緒に行った学生さんが言うには、思ったより若い人が多かった、とのこと。劇団員にも若い人が加わったとあとで舞台紹介していたので、少しずつでも関心を持った人が入ってつながっていくのを嬉しく思いました。

 さて作品ですが、まるごと夢の世界にも思える奇妙な時間と空間の中で、どこを走っているとも、どこへ行くとも知れない列車に乗り合わせ、お化け屋敷ともおバカ屋敷ともみえる、バカバカしくもあり、心底こわいようにも思える宿に連れてこられて出られなくなった大勢のそれぞれ事情をかかえた男女の交わす、丁々発止の会話に言葉遊びを楽しみ、「体育会系」の面目躍如のドタバタに笑い、いささか理屈っぽいこの世界のありようや自分とはなにかをめぐる果てしなく循環する登場人物の自問にふと胸を衝かれたりしながら、退屈しない時間が過ぎていきました。自由席でかぶりつきの席でしたしね。

 体育会系と言われ、また内藤さん自身が自分で、そう言われていると言っていたけれど、彼は演劇がなによりもまず言語の劇だということから出発して、そこに根拠を置いて舞台を作っていることは明白で、それは良くも悪しくも彼のつくる舞台を性格づけていると思います。

 劇場を出た学生さんたちから口々に、面白かったけど分からへん、解説してください、とせがまれました。もちろん、私だって解説なんてできやしないよ、あれは舞台をみてそこに出てくる人たちに感情移入したり変な人だと思ったり反発したりしながら、それが何だか自分たちの周りにいる人と似てるなあとか、周りで起きていることとどこかで通じているようだなぁとか、なんだか薄気味悪いなとか、どこかで自分が感じている不安や焦りなんかと響きあうところがあるなあとか、けっこう楽しく毎日過ごしている中で、ふと立ち止まったときにこのまま自分がどこへ行くんだろうとか感じることがあれば、それはあの人と同じなんじゃないかとか、そんな風に「感じれば」いいことで、なにか国語の教科書の文章の意味をたどるようにたった一つの正解を得なくてもいいんじゃないか、ってなことを言ってごまかしましたが。

 私は演劇を観る経験が乏しいので、たまにこうして内藤さんや野田さんや蜷川さんの舞台を見て一番感心するのは、言語の劇を舞台という空間に転換するその仕方です。演劇にかかわる人なら当たり前だろうし、その能力がなければもちろん劇作家も演出家にもなれないでしょう。今回の大道具の使い方などは、彼らにとっては手慣れたごく常套的なものだったかもしれないけれど、なるほどなぁと感心しながら見ていました。

 あれは「大胸騒ぎ」のときでしたか、洗濯物干しのロープにいっぱいに広げて干した真っ白なシーツを実にうまく使ってハッとするような鮮やかな空間を作り出して、それをまた実に見事に転換していた。私は二次元人間で、サッカーのピッチに立って上から全体を立体視して動くとか、小学生の得意な、展開した二次元図形から組み立てて立体を作る場合の出来上がりをイメージするというのが不得意なので、ある形の空間をトランスフォーマーじゃないけど、がちゃがちゃやって、鮮やかに全然違った空間に転換する、というのを目の当たりにすると心から感心してしまいます。

 それに比べると、今回も以前もずっと彼の作品ではそうだけれど、少々理屈っぽいせりふが織り交ぜられるのにはいつも軽い違和感を覚えます。それは野田マップをみたときも、ほかに数少ないけれどいくつかの現代の舞台をみたときに、けっこういつも感じることです。

 それは言葉遊びの軽い丁々発止の中でシャープな異化効果を発揮している面もあるけれど、あれはできれば全部舞台上の目に見える空間や登場人物の所作に転換されるべきものなんじゃないか、などと考えてしまいます。
 むろん登場人物のせりふもその「目に見える舞台」上の要素だからそういう意味では、何が悪い?ってなものですが、私にはときどきそれが登場人物のせりふではなくて、脚本をじかに読んでいるというか、舞台の上に見ているような気がして、登場人物を通してそこへ到達するのじゃなくて、はじめに言葉ありき、みたいに言葉がじかに見えてしまうような気がするのです。

 私が見た南河内万歳一座の公演の中で一番印象に残っている登場人物のせりふは、これも自分が多少関わりをもったせいかもしれないけれど、たぶん「大胸騒ぎ」の中で踏切の向こうにこちらを向いて立っている青年が長い独白をするところで、学生さんたちの言い方で言うと、さっぱりわからない意味不明の言葉だけれど、とても響きの美しい、リリックな一節でした。

 脚本で呼んだのでは、ずいぶん昔の作品だけれど「唇に聴いてみる」に感心した覚えがあって、比較的最近案内してもらった彼の作品の連続上演の機会に上演されたのに、こちらの都合で観に行けずに残念な思いがしました。いつかまた再演されたらぜひ見たいけれど、言語の劇としての性格が明らかな舞台でも、舞台としては全然違った印象を受けるかもしれません。それもまた楽しみです。

 

saysei at 21:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年11月07日

湊かなえ『母性』

 湊さんの作品は未読の『白ゆき姫殺人事件』以外の長編作はたぶん全部読んでいると思うけれど、われながらあまりいい読者ではないと思います。ただ作家の出身校のつながりと、学生さんたちが映画の原作とかベストセラー作家ということでわりあい読んでいるので、ひととおりは読んでみよう、という感じで読んできました。

 今回もあまりいい感想が書けそうもありません。いわゆるジャンル小説としての「推理小説」にとらわれずに、「推理」を外した「小説」を書こうとされたのかもしれませんし、いや自分の考える「推理小説」はこの程度には広いものなんだ、ということかもしれません。たしかに「推理」を外して読むことのできる小説でした。

 ただ、湊さん、なぜか今回はことさらに肩に力が入りすぎていないかしら、という印象を持ちました。私はここに描かれたような母親も、その語り口も苦手で、交互に語る娘のキャラや語り口のほうにずっと親近感をおぼえました。

 母親の口から語られる娘はかなり歪んだ像になっているけれど、冷静に読んでいくと、この娘さんはどこにでもいるごく普通の感性と考え方の持ち主で、どこもおかしなところはなくて、まっとうです。むしろ作者が無理に自殺(自殺未遂)に追い込もうとするのが不自然に思えます。

 私のこれまで経験してきた母娘にも、しばしば、母親が、「わが子ながら何を考えているか分からない娘」とぼやいたり、「自分の娘だけどこうも違うかと思うほど自分とは性格がちがう」とつぶやいていた人は少なくありません。血のつながりがあっても、遺伝子交配の不思議なのか、育ち方の違いによるのか、赤の他人と言ってもいい別の人格なので、当然と言えば当然かもしれません。

 冷静に読めばこの作品の母娘もそういう母娘であって、この作品で設定されたような祖母をめぐる特殊な事情がなければ、ごくありふれた、キャラの異なる母娘に違いありません。お互い別の人格だから当然と思えばいいのだけれど、血のつながった母娘であるがゆえに、根っこでつながっていると思うから、逆に他人なら当たり前の齟齬が大きな違和感をひきおこします。

 そういう普遍的な母娘のありようをたんたんとどこにでもある母娘の日常生活の情景として描いてくれたら、いい作品になったろうな、というないものねだりをしたくなります。

 一種の拡張推理小説的な作品であることを求められたせいか、物語の出発点に雪崩に伴う火事で祖母を失うという異常な出来事を設定したために、どこにでもあるありふれた母娘の齟齬はその異常な出来事を結び付けられ、その事件のフィルターを通して母性のありようが問われるところまで追いつめられます。

 そういう追い詰め方をすることで、作者は推理小説から「推理」を外し、あるいは自分なりの「拡張推理小説」への脱皮を試みられたのかもしれません。

 ただ、あまり良い読者と言えない私の僻目でみると、その追い詰め方は必然性に乏しく、本来描かれるべきありふれた母娘の齟齬を内在的に追い詰めて「母性」への問いにまで追いつめていくのではなく、そのありふれた母娘のありようをその外部へ追い詰めていって、ありふれた日常の内部にではなく、外に、つまり雪崩と火事の夜という非日常性へと追い詰めて、そこに「答え」を見出しているように見えます。

 その分、この作品は作者自身が思っているかもしれない以上に、「推理」小説以外のなにものでもない作品となってしまったのだろうと思います。そして、そんな非日常的な事件など取っ払ってしまって、ありふれた母娘の理由のわからない齟齬の源を内在的にたどっていけば、作者がもともと訪ねようとした「母性」の劇の普遍性にたどりついたかもしれないのにな、とないものねだりをしてしまいます。

saysei at 00:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2012年11月06日

アルゴ

 新聞、雑誌の映画評がどれも絶賛しているので、これは見ないわけには、とパートナーと見に行きました。

 殺しも銃撃もないのに恐ろしい緊迫感に目の離せない展開でした。映画を娯楽と心得て映画館へ足を運ぶ当方としては、たしかに優れた映画ではあるけれど、ちょっと怖すぎ。しかも実話と言いますから、手放しで「面白かったぁ~!」と喜ぶにはちょっと複雑な思いもあります。

 捕まれば残虐なやり方で殺されるかもしれない、大使館を脱出した国務省の職員たち6人がイラン国内に取り残され、CIAの描いた映画ロケの一隊と偽って脱出させるという荒唐無稽ともいえるような計画を成功に導くという話で、当然アメリカ側、救出劇を演出する側から描かれています。

 これをイランの国民が見れば、あまりいい気分のものではないでしょう。当時イラン国民が選んだ政権をアメリカは自国の利益に反するために謀略で倒したうえ、無理やり傀儡政権を立て、その国王のもとでさんざん国民を踏みにじって批判勢力には残虐な殺戮や拷問を繰り返してきたわけで、それがイラン革命でとうとうひっくり返され、国王はアメリカへ亡命。それを引き渡せというイラン国民が応じないアメリカ政府に抗議し、大使館占拠に及びます。

 当時の新聞を見た記憶がありますが、日本の新聞でも、そのアメリカ大使館がCIAのスパイの巣窟だったことが機器類など処分しきれずに残された証拠であからさまにされたことが報じられていました。

 母親を、赤ん坊を、息子や夫を残虐なやり方で殺されたりしていた民衆の怒りが、その張本人をずっと支えてきたアメリカ政府に向かうのは当然といえば当然で、それに加担していたCIAはイラン民衆の敵でしかなかったでしょう。

 だからこの映画はそのイラン民衆の敵が、さんざん悪事を働いてきた連中に加担してきた大使館勤務の逃げ遅れた職員を国外に逃がすCIAの「快挙」を描くというものには違いないので、もし自分がイラン国民だったらどんな気持ちで見るだろう、と思わずにはいられないところがあります。

 ただ、この映画に救いがあるのは、必ずしもそれはスタローンの「ランボー」シリーズのようなランボーな愛国映画ではなくて、パーレビ傀儡政権やそれを支えてきたアメリカ政府への批判的な観点を最初にいちおう示して、その点ではある種の公平な視点をもって、ただ6人のアメリカ人の人命を救った、という話として描こうとしている、ということは公平性のために言っておく必要があるでしょう。

 大状況における正義・不正義と、ひとりひとりの個別の人命の尊さを守ることになるか捨てることになるかという小情況における選択や判断とは、そうストレートに符合しません。だからこの映画をイデオロギー的に切って捨てるような見方はとりません。映画としてはよくできた映画だと思います。

 そして、主役を演じたアフレックは「アルマゲドン」の若き宇宙飛行士の時から見ると、本当に見違えるほどよくなって、成熟したいい俳優になったと感心しました。旬の俳優ですね。或る意味でアメリカ映画らしくない、淡々とした描き方で、脚本がいいのだろうな、と思いましたし、演出、キャスティング、ひとりひとりの演技、みなよかった。

 ジョン・グッドマンなんかもほんとにいいなぁ、と思ってみていました。

 イランにはキアロスタミやマフマルバフ父娘などのような優れた映画監督もあり、いい作品を作っています。本当は彼等ほどの力量のある人のつくる、イラン革命の真実を内側から描くような映画も見たいと思いますが、イスラムのもとでは反米映画ではなく自国の政府も返す刀で斬って捨てるような政治的な要素のある、かつ優れた作品が見られるのはまだかなり先のことになるのでしょう。前に反米的なイランの戦争映画を見たことがあったけど、これは映画としてはひどかった。

 まぁ日本映画の実情を顧みればよそのことなど言える状態ではないにしても。

saysei at 10:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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