2012年10月

2012年10月18日

東野圭吾『禁断の魔術』

 待ってました、という感じで、出勤途上、書店でずらりと並んでいるのを見ると、ためらいもなく買って、直ちに読み始め、帰宅時には読み終えていました。

 どうしてこう東野さんの小説は読みやすくて、しかも読んでいて快適で読み終わっても後味がよいのでしょうね。本当にこちらがいささか憂鬱なことがあったり疲れていたりするときに気軽に手にとって、いつも楽しんで読めてほのぼの癒されるような気分になれるありがたいエンターテインメントです。

 前回のガリレオさんの『虚像の道化師』でしたか、少々インチキなマシンだのみなところが気に入らなくて、感想でイチャモンつけましたが、今回は「透視す(みとおす)」「猛射つ(うつ)」にまだ幾分同種のネタに頼るものはあるものの、作品としては前短編集より面白かったし、とりわけ2番目の「曲球る(まがる)」は誰にでもオススメ。

 犯人はすぐ挙がっちゃうし、推理小説と思って読む人はなぁ~んだ、と思うかもしれませんが、「推理小説」なんてジャンル小説の枠にこだわらなければ、エンターテインメント小説として本当に愛すべき佳品、いや絶品だと思います。

 伏線もよく効いているし、或る意味どんでん返し(読み手の予想もしない結末へ)もあるし、登場人物一人一人が良く描けていて、しかも人間を見る目が温かい、東野さんのどの小説にも共通する特長が最大限発揮されていて、結末がよくて後味も非常にいい。

 なにしろ名だたる帝都大学の物理がご専門のガリレオさんが狂言まわしですから、種も仕掛けも工学的な技術の応用にあって、これをもちまえの豊富な科学技術の知識と自然科学者としての経験、そして想像力、推理力、分析力などを武器に真相に迫っていくというのが基本になるので、そんなことほんまにできるんかいな、みたいな疑問が湧いて来たり、それはキャバレーの女の子にそんなの使いこなせるかしら、とか、使いこなせるとしてもなんだかリアリティがないなとか、いくらガリレオ先生のアドバイスがあっても高校生に毛の生えた程度の工員がいくら優秀でもそれはどうかなとか、あれこれケチをつけたくなる向きもあるでしょう。

 でもまぁ、もともと東野さんの「推理」小説の本領は、そういうネタの奇抜さにあるわけでもないでしょう。「本格推理小説」と言われるものは「本格小説」にはなれなさそうだけれど、東野さんの「非本格推理小説」は、そのまま「本格小説」として読めるところがすごいと思います。

saysei at 01:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

赤坂真理『東京プリズン』

 書店で著書をよく見かけてはいたけれど、今回初めて手にとった作家の小説です。

 帯に高橋源一郎が「少女は、先行する世代がやり残した宿題を、たったひとりで解こうとする。」と書いているのに惹かれて買ってきて読み始め、途中少々疲れたけれど、2,3日がかりで通勤車中全部使って(居眠りしているとき以外は)441ページを無事読み終えました。

 読み終わってまず思ったのは、高橋源一郎め、うまいこと言うなぁ、と(笑)。それ以上私もうまい言葉を思いつけません。

 そうだよなぁ、ほんとに俺たちがさぼっていたからこういう女の子が作中に登場することになったんだなぁ、とかなり忸怩たる思いがしたことは確かです。

 もちろん、戦争はおろか「戦後」も知らない少女が、私たちの世代がジョーシキと思って何も考えずにやり過ごしてきたことを、ひとつひとつ調べたり聞かされたりして、いちいち、ウソ~ッ!シンジラレナァ~イ(なんて軽薄な口調で喋る少女ではないですが)みたいに驚いてみせる描写に、なんだかカマトトぶった厭味な印象をもたないかというと、それはなくもないし、後半のハイライトであるディベートのところは、分かりやすいけれども、その分かりやすさが、パターン化された登場人物や議論の浅薄さによると思えてしまう等々、いろいろあげつらえば不満はいっぱいあります。

 それでもこの主人公マリが歴史を調べ、自分の知らなかった事実に驚いたりあきれたりするプロセスに、私などの世代がチクチクと痛いところをつかれるような、つまり自分たちがうすうすその問題に気づいてはいても触れようとせず、できれば触れずにいたほうが心地よいという程度の感覚でやりすごしてかさぶたが張ったところを剥がされて、あらためて後ろめたいような痛みを感じさせるようなところがあります。

 高橋源一郎的に言えば、私がやり残した宿題を娘が苦労しながらやっているのを、なんだか後ろめたい想いをしながら見ているような感じ、ということになるでしょうか。

 母親との間の確執というか齟齬とそれが解き放たれていくプロセスに、私たちが蓋をしてきたものと、その蓋をこじ開けようとするこの作品全体のありようが重ねられ、さらに主人公の生きる世界が現実のアメリカでのハードな学生生活と、彼女が見るそれ以上にハードな幻想の世界とが交錯し、重ねられる分、読みにくさはあるけれども、小説としてのリアリティは逆にそういう構造で支えられていて、読み応えがあります。

 ディベートのやりとりになると、そういう構造からやや逸脱して、議論そのもの、論理的な言葉そのものにリアリティを委ねようとしているところがあって、その器としてのそれぞれの人物の表情なり思想なり、ディベートの状況なり、といったものはどちらかといえば紋切型になってしまうのですが、では肝心の論理的な言葉のほうはどうかというと、それほどの切れ味も深みもないので~それはまだ未熟な学生の、たかだか授業の一環としてのディベートのことだから、と言えば言えるけれども、でも作者はそういうふうに描こうとはしていなくて、やはりここでの言葉に主人公の倫理をかけているところがあるので、そういう弁解はできないと思うのですが~物足りないところといえば物足りないところです。

 小説の中でこういう論理的な言葉、思想と思想をぶつけあうことにリアリティを委ねる方法というのは、そう簡単ではないようで、ドストエフスキーのような天才はべつとして、若い日本の作家でも平野啓一郎がショパンやドラクロワを描いて、そこのところを実に巧みにやってのけているのに感心したことがありますが、この小説のなかではそこは満たされませんでした。

 でも、そんなにこういう思想的な課題に切り込むような作風が得手な作家のようにも思えないし、そういう文体をもっているとも思えないのに、よくこれだけの力技をやりきったよなぁ、と読み終わって感心しました。そして、はい、ほんとに私は娘に宿題をやらせている親父のような後ろめたさを憶え、忸怩たる思いで読み終えたのでした。

saysei at 01:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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