2012年09月
2012年09月13日
「るろうに剣心」
俳優ではやっぱり主役の佐藤健の起用が成功の原因でしょう。「龍馬伝」の人斬り以蔵がすごく良かった。龍馬伝が後半にさしかかるころ、「この若いのは目がいいね。すぐ出ずっぱりになるよ」とうちで言っていたら、あっという間にほんとうにそうなってしまいました。今回も改心しているもののやっぱり人斬り。よほど人斬りが似合うのか(笑) 。まぁそういう目力があるうえに、成宮クンがそうだったように、ちょっと影のあるところがたまらない魅力なんでしょう。原作漫画の剣心とそっくりだしね(笑)
キャストではわが出身高校の後輩(笑)である敵役の吉川晃司、存在感がありましたね。恩師があの人の答案まだ持ってるって言ってましたけど(笑)、うちの高校のOBでは一番の有名人じゃないかな。あ、同期の弘中惇一郎弁護士も薬害エイズの安部英やらロス疑惑の三浦和義やら民主党の小沢一郎やら厚生省の村木厚子さんやらの弁護ですっかり有名になってしまったけれど。いや閑話休題。
佐藤健も武井咲も出て来るだけで香り立つような、いま旬の俳優・女優で、こういう人が使えるのは大友啓史監督も監督冥利に尽きるでしょう。
漫画が原作というより、映画そのものが漫画といえば漫画で、セリフがみな現代語のうえにやたらとゴザル、ゴザルとだけはくっつけて言うので閉口したけれど、いまの若い人にはあれでいいのでしょう。漫画では現代だろうが明治だろうが江戸時代だろうが、セリフはいまの若者言葉がうけるんだから、エンターテインメントならええじゃないか、ええじゃないか、わっしょい、わっしょい、うるさいこと言わずに一緒におみこし担いで楽しむべし。
殺陣は韓国映画や中国映画の殺陣や拳法?やら、ワイヤーアクション、昔ながらのコマ落としやらCGやら、おそらくはありったけの技法のごった煮で、実にスピード感溢れる映像を作っています。これがこの映画の私などの世代にとっての取り柄か。でも私のような老人がかぶりつきの席で見ていると、何が何だか分からんうちに相手が倒れている(笑)
あれくらいスピードがないといまの若い人にはカッタルイのかもしれません。
しかしスピーディーなのは殺陣を含むアクションシーンだけで、あとは旧来の日本映画並みのカッタルさ。いくら漫画が原作でも、漫画は30巻近い長尺で、扱う年月もはるかに長いのでしょう。映画はその100分の1くらいのコンパクトさとシンプルな力を備えていていいはずだし、もたもたした演技をさせずに、もっともっとテンションの高い映像がとれるはずでしょうに。チャンバラとセリフだけ現代で、人間ドラマの基調は東映チャンバラ全盛時代のまんま、というのはちぐはぐで仕方がありません。
それに、いまどきの映画らしく、この中には沈黙の画面というのがみつけにくい。エエモンもワルモンも、まぁぺらぺらとよく喋る。もう少し喋らずにいてくれると、ちょっとは凄味がきかせられるだろうにな、なんて思いながら観ていました。その中で、佐藤健のちょいとはにかんだような、戸惑ったようにみえる表情で言葉を飲み込むようなところが、この映画の中での「沈黙」の部分にあたり、そこはなかなかいい感じでした。
芸達者な香川照之も今回ばかりは漫画を演じていましたね。蒼井優も良かった。ほんとに芸達者で脇を固めた映画ですね。
それにしても若い人がこれだけ頑張っているんだから、脚本家や演出家はもっと頑張らんとあかんね。体張って頑張ってる若い才能がもったいないし、気の毒な気がします。監督さん、もっといい映画を作ってあげてくださいな。
「最強のふたり」
原題が”Intouchables” という、2011年のフランス映画。
これは非の打ちどころのない、完璧な映画。すばらしい。
フランス映画をどれほど長く見ていないことか。だってつまらないんだもの(笑)。アンチロマンが文学史に残るかどうか知ったこっちゃないけど、なにせ面白くも何ともないのと同じで、気取ったフランス映画のどこがおもしろいのか分からない。
古典をお勉強のために仕方なく見るって感じで、新しいフランス映画なんてとんとご無沙汰でしたが、この映画を観て、正直、フランスでもまだこんな映画が創れるんだ、と思いました。
もともとこちらにとって、映画は楽しみで見るものでしかないので、ハリウッド映画の攻勢を嫌い、ときに権力的に排除して、日本で言えば面白くも何ともない「アート臭い」自主制作映画に補助金を出して地方にまで設置した国立の映画センターなんかでつくらせるのを文化政策だと考えているような国に、昔ならいざ知らず面白い映画がつくれるものかよ、という偏見がなくもなかったけれど、今回は脱帽。
そんなわけで、監督・脚本ともにエリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュの二人の名が記されているのも、どういう事情か、どういう人なのかまるで知りませんが、脚本にしろ演出にしろ、ものすごくよく練られていて隙がないことだけはわかります。
こんな脚本が日本で出て来るようになるのはいつのことかしら。西川さんなんか期待していたのだけど、新作の噂なんか見てると、なんだかあっちへいっちゃったよ、って感じだし、「ゆれる」は別として、もう前回の「ディア・ドクター」あたりからそうだったし。いや、閑話休題。
この映画のキャスト、フランソワ・クリュゼ、オマール・シーって何者?いやフランソワ・クリュゼの顔はどこかで観たことあるぞ。でもオマール・シーの方は全然知らない。ウェブで調べたらなんとコメディアンなんだそうな。まぁ北野武だって、海外じゃ最初はコメディアンって紹介されたろうし、驚くことはないんだろうけど。ほかの脇役たちもフランス映画見てないせいかまったく知りませなんだ。
ところがこの映画、主役の二人はむろんのこと、脇役がまたすばらしい。イヴォンヌ役の女優さん、アンヌ・ル・ニって何者?この人がほんとうにいいですね。こういう姿かたちをしてこういう顔をしていて(笑)、これだけの演技の出来る女優さんって日本で思いつきません。秘書役のオドレイ・フルーロも良かった。
この両名脇役を従えて、主役の二人がまた圧倒的な演技。フランソワ・クリュゼはフランスでも良く知られた名優らしいから無理ないんでしょうけど、あの表情の演技、目の色の演技にはほとほと感心しました。なにせ首から下は動かないんだから(笑)
ラストの二人の表情の素晴らしいこと。ほんとうに泣けてきましたよ。
だけど身体障碍者と介護者のやりとりという見方をすれば、ここまで踏み込んでみせる映画、日本ではつくれないんじゃないか、と思わずにはいられませんでした。オマール・シー演じるドリスが身体障害の動作をある意味で茶化すような真似をしたり、グサッとくるようなセリフを言ったりします。ああいう部分だけをコンテクストを無視して取り出してああだこうだ言うような人が日本には一杯出てきそうな気がして。
そういうのをぶっとばして、いや全部包括しきって、いや包括したからこそ可能となるような、対等な男二人、人間二人の友情を描ききって、ぐいぐい見る者を引き込んで、人間の素晴らしさを、希望を感じさせてくれるような映画。
ある意味でシリアスな主題にまっこうから挑んで、しかもこれほどユーモア、いやフランス流のエスプリがきいた、楽しめる作品はめったにないでしょう。しかも、後味が良い。いや後味が最高!
最初から、面接の場面なんか本当にうまく構成していて楽しめるし、フィリップの親戚たちが集まる音楽会でのエピソードも素晴らしい。フィリップの愛好するクラシック音楽とドリスの「オススメ」の音楽がまったく対等に対峙し、ドリスの素晴らしいダンスに誘われて思わず人々が踊りだすところなんか、いつまでも心に残るシーンです。
フィリップの娘の彼氏をおどしつけて、彼氏が彼女のところへ毎日クロワッサンを届ける、あんな枝葉のエピソードも、作品を豊かな、ゆとりをもったものにする上で実によく生きています。
ここにはドリスの複雑な家庭を通して貧困もフィリップのような大金持ちの苦痛も描かれています。フィリップの心象風景を通して人間の幸、不幸とは何かも、彼の障害とその彼に接する人々の接し方を通じて、人間とは何か、人と人との関わりとは、絆とは何か、というまっとうな問いを正面から受け止めている制作者らの志が伝わってきます。
無知でほとんどチンピラ同然だった、盗みの前科さえある失業男ドリスを、大金持ちで身障者のフィリップなぜ自分の介護人として雇いつづけるのか、訊かれて彼は答えます。ドリスだけが自分を対等に扱うからだ、と。
身障者を対等に扱う、ということは口では易しいが、実際にはドリス以外の誰にもできませんでした。社会福祉や介護のプロも、実践家も理論家も、みんなだめでした。それが人間としてまっさらなドリスだからできた。けれども対等であるということは、ここまで厳しいものなのだということにこの映画を見る者は気付くでしょう。
観客はドリスの言動をハラハラしながら見守るうちにぐいぐい引き込まれ、二人が友情を育んでいくプロセスにつきあうことになります。それは時にいばらの道であり、いつ踏み外してしまうか分からない綱渡りのような細く長い道であって、二人の男たちはそんな道を大胆に、また細心に、手をたずさえて歩き、完全な信頼に支えられた友情を育んでいきます。
それは実に楽しく、またスリリングなプロセスであり、私たちが今の時代にほとんど失われてしまったかのように考えたがる人間のすばらしさや、友情のすばらしさについて希望をもたらしてくれる過程でもあるような気がします。
2012年09月10日
「奈良美智:君や僕にちょっと似ている」展 感想
9日は横浜へ出て、横浜美術館で開催中の「奈良美智:君や僕にちょっと似ている」展を見てきた。
奈良美智ファンにはコタエられない個展で、例のちょっとイケズそうな目をした女の子や涙目の彼女、怒り狂った彼女等々の大小の絵やデッサン、比較的大きな塑像も、作家のアトリエを再現してみせた展示も見られて飽きない。
ただ、私自身は前に東北は青森県立美術館でシャガールの舞台緞帳を見に行ったときに美術館の入り口にあったでっかい「青森犬」や幾つかの奈良美智作品を見せる展覧会と、これに提携して弘前で開催中だったかなり大きな規模の奈良美智展を見ていて、そちらのほうの印象が非常に強い。
たしかgrafとの共同作業で構築した展覧会だったと思うけれど、非常に大規模なインスタレーションと一体の展示で、奈良美智の現在と過去をたどる旅にふさわしい強烈なインパクトをもつ企画だった。
どうしてもそれと比較してしまうのだが、今回は奈良美智がまるでルーブルかオルセーのような殿堂型美術館におとなしく収まってしまった。正直、ちっとも面白くない。
だいたいこの美術館の権威主義的な建築空間、展示空間も気に入らないのだが、その四角い箱の中にとじこめて、いかにもギャラリーでございという白壁に奈良美智の絵を麗々しく掛けて、どこからあのイケズそうな女の子のイケズぶりが伝わってくるだろう?
作品が大衆的に評価され、作家の名が広く知れわたり、これだけの観客を集められるようになったことはめでたいことではないか。
そう思うけれども、これは違うだろう、という気がした。
かつて同じデュシャンを展示するのに、空間も金も抜群にたくさんもっている(であろう)国立国際美術館の大々的な開館記念デュシャン展よりも、滋賀県立近代美術館が開いた比較的小規模なトリックアート展だったかの一部に展示されたデュシャン作品の展示のほうが、はるかに良かったのを思い出すが、今回も、作品は展示の仕方によってかくも違って見えるものか、と思わずにはいられなかった。
作曲家と演奏家の関係ほどには、美術作家とその作品を展示する学芸員の関係は強くはないかもしれない。演奏家が作曲家に対して持つような自由を「単に展示するだけ」の学芸員が持てるはずはないだろうから。しかし、時にはそう言いたくなるほど、展示の仕方がその作品たちを生かしも殺しもし、作家を生かしも殺しもする、ということを感じることがある。
むろん私たちが見に行くのは作品そのものだが、それは「できるだけ手を加えずにギャラリーの白い壁面に掛けて並べるだけ」であることによって干渉を受けないとは限らない。つまり展示する側のそうした意図(があるとして)を裏切って、その不干渉の意図自体が干渉を結果として生み出すことがあるのだと思う。
そして、むしろそのような不干渉による干渉を積極的に排除することによってしか、作品への無用の干渉を遮断することはできない、と考えるほうがまっとうだと思う。
作品それ自体と向き合ってもらうために、劇場は内部空間(壁面)を黒く塗り、ギャラリーは白く塗る。それが定石だけれども、その定石は絶対ではない。いやむしろ近代以降に成立したきわめて浅い歴史的に形成された定石に過ぎない。
横浜美術館は建物自体が、そのような近代的な思想の権化みたいな設計思想で出来上がっているような空間だ。いまさら建築そのものは大きくいじれないにしても、展示空間そのものは単なる「いれもの」ではないはずで、キュレーター次第でどのようにも可変的に作家と作品に対応したプロデュースが可能なのではないか。
今回の横浜美術館での奈良美智展は、この作家と作品を生かしているとは、とても思えない。
けれども、作家と作品と美術館のために、こうして驚くほど大勢の鑑賞者が訪れることを、こうした文化施設が苦労してきた姿を長年かたわらで見てきた者としては素直に喜びたい気持ちも私には強い。
売店にはイケズ少女グッズを買い込んでレジに並ぶ客で、ミュージアムショップの内部も特設のレジも行列ができていた。これだけ客が入れば、行政の歳出削減のあおりを受けて無理な努力を強いられて、活動停止に追い込まれるほど予算カットされるようなこともないだろう。めでたいことだ。
展覧会の中身よりもむしろ展示の仕方に関心が行ってしまうのは、私の長年の前職からくる職業病みたいなものだが、作品についても疑問はある。
乱暴なことを言えば、この作家は最初に出逢った時の印象ひとつで、もう十分だったのではないか、という気がする。あのイケズそうな、そこがまた可愛くもあり、描かれて生命を持つ所以でもある独特の目鼻、おでこ(これはうちの孫そっくりなのだけれど・・(笑))、一目見てその独創性、この作家ならではの個性を主張しているあの少女のどの絵でもいい、最初に見た一枚の絵のインパクトで、もう十分だったのではないか。
私は展示場に並ぶ数々の少女像を見ながら、とくに「FUTABA」と題された、少女が双葉を手にたたずむ絵と類似の絵を見たときに、孫が好きな「どのくま?」という絵本の熊の絵を思い出した。
なるほどどの熊もそれぞれ少しずつ個性を持った熊の姿だけれど、熊は熊だ。この絵本そのものは、その熊どうしのわずかな差異をこそ楽しめるように描かれている。そしてその差異は最初からそれぞれの熊に備わったもので、強い特色をもった共通の熊の像があって、そこにアレンジを加えているというふうには見えない。
でも奈良美智の少女はどうだろう?あのイケズ少女は印象が強すぎてまさしく一人の少女の個性としてしか成立しないイメージだと思う。どんなに差異をつくしても、あの一人の少女に回帰してしまう。一人と出会えば十分だというのはそういうことだ。
これが作家にとって何を意味するかと言えば、自己回帰ではないかと思う。いくらこの延長線上に拡張しつづけても、不断に自己回帰してしまう。過去の自分を繰り返し模倣することにはならないか。
作家の苦労も知らぬ素人の見当違いであればうれしいけれど、その場ではそんなことを思いながら、ますます大勢の来館者が訪れる美術館をあとにした。
「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」展 感想
東京1泊旅行の目的の一つは長男にもらった切符で、Noda Map 公演「エッグ」を観ることだったけれど、もう一つは、東京都現代美術館で開催中の衣装デザイン展「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」を見ることだった。
これも企画に携わったパートナーの友人から入場券をいただいたのがきっかけだ。私たち夫婦は若いころから住んでいる京都が好きで、うちでのんびりしているのが好きな無精者なので、めったにこういうことで遠出をすることもないのだけれど、行けば行ったで楽しく、いい刺激にもなるので、せめて年に1度や2度は東京サ行かないとなぁ、などと言っている田舎者だ。こうしてチケットをくださるかたがあると不精な私たちでも、せっかくだから行ってみよう、と好奇心が動き出す。
今回は着いた日の午後に東京駅へ荷物を預けて、すぐに丸の内側から出ているバスに乗って美術館へ直行した。おかげで、いつも使う地下鉄と違って、東京の下町からおそらくは材木屋が並んでいただろう(いまもあるが)木場への街の風景の移り行きをつぶさに眺めながら行くことができた。バスもいいものだ。
美術館では同時に庵野秀明特撮博物館の展示というのをやっていて、こちらは若い人の大変な行列ができている。やっぱりアニメは強いねぇ、でもフィギュアを見て面白いのかね、とそういうのにまるで興味のない老人らしい感想をつぶやきながら、われわれは入場者が圧倒的に少ないほうのファッション展のほうへ。
入ってすぐの展示がなかなか面白い。コムデギャルソンの山本耀司の“黒”づくめのファッションが交互に並べてある。学芸員の仕切りでは「陰翳礼讃」。
すでに街にあふれ、日常となり、ファッション史の古典になって、パリでデビューしたころに「黒いぼろ」と呼ばれたそうだけれど、いま改めてみれば、解説のチラシにいう「多彩な色が溢れる当時のファッションに対するアンチテーゼ」としての意味はすでになくなり、その「アンチ」を敢えて露出するような「ぼろ」がもう単なる「ぼろ」にしか見えない部分はあるけれど、それでもこのシンプルなモノトーンの衣服たちが今も見る者を撃つ強さを持っているのは、「アンチ」のせいではなく、たしかに「陰翳礼讃」のわれわれの風土に根付いた美意識につらなるところがあるからだろう。
次の「平面性」はそのコムデギャルソンや三宅一生を含めて、日本人デザイナーの作品の衣服がヨーロッパ流の身体に合わせた立体的なフォルムを持たない平面を基本に据えていることを、易しく絵解きしてみせてくれる展示。ここも次のフロアも含めて、今回の展示はいうなればとても教育的配慮が行き届いていて、私のようにファッションのことにまるで無知な人間にはほんとうに親切な展示になっている。
日本の伝統的な着物の切り貼りでできていることは誰もが知っているけれども、衣服に限らず、この「立体」を基本に据えるか「平面」を基本に据えるかというデザインの根源的なスタンスの違いは色々なところに見られて、ジャンル横断的な文化論の面白いテーマだと以前から思っていた。
遠近法を駆使したヨーロッパ絵画と浮世絵の違いは誰もが知っているし、たとえば私が幾らか携わってきた劇場の建築計画の分野でも、歌舞伎小屋の広い間口、浅い奥行きに対して、オペラハウスの狭い間口に深い奥行きは、そこで演じられる実演芸術のありようをも大きく規定している。
一般の人にはあまり知られていないかもしれないけれど、私が何十年か前に瀬戸内海資料館を訪れた時に見た船の製法の展示にもその立体と平面の違いを感じて面白く思ったことがある。
ヨーロッパの船は、まず竜骨をはじめ骨組みをしっかり立体的に造って、そこへ船底やら側面やらの船体を造っていき、世界につながる広い海に出ていくのに耐えられる頑丈さを備えている。
これに対して昔の和船は、波静かな内海や沿岸を行くのに耐えれば十分であったのだろうが、最初から平面的な板を張り合わせてつくるダンボールの箱みたいなもので、強い波に当たればたちまち何枚かのバラバラの板になってしまいそうだし、座礁でもすれば、それこそ木端微塵になりそうなものだ。
ただ、釘一本使わずに板と板、角材と角材をぴたりと組み合わせて、一滴の水も漏れない見事な構造物をつくる職人技には舌を巻くようなところがある。
瀬戸内海資料館で、ドイツの船と和船の製造法と構造を比較した展示を見た時にはそんなふうに立体と平面というのが、ものを作る人間の基本的な精神のありようの違いにまでつながる根深い相異らしい、ということを強く感じさせられた。
今回のファッション展は衣服の造形意識の差異を通して、その相異を分かり易く見せてくれている。それはなぜ日本人デザイナーがヨーロッパの衣服デザインの世界に衝撃を与えることができたか、ということへの答にもなっている、というふうに。
このフロアでも陰翳礼讃のフロアと同様、私自身の目はコムデギャルソンの糸をたどっている。それほど川久保玲の印象は突出しているように思われた。
身体に合わせて衣服を構成していくヨーロッパ流の立体的な造形に対して、布を平面で断って自由に組み合わせていくその平面的な造形の鮮やかな革新性が、この展示では丁寧にわかりやすく示されている。
最初のフロアで交互に展示されていた山本耀司は、こうして並べてみるともちろん誰にでも明らかな同時代性は感じられるけれども、彼の場合はやっぱり衣服のフォルムというのが基礎にあって、そこから根っこが切れていないのが今みるとよく分かるような気がする。
川久保玲の革命は最初からそこから切れていて、平面的な布一枚をひっさげて登場するような徹底性にあったのだということが、こうして並べてみると私のような素人にも分かるような気がした。
次の「伝統と革新」でも、多様な素材を駆使したデザイナーたちの十人十色の衣服が並んで楽しめる。それぞれ面白いけれど、ここでは自然、三宅一生のデザインに目が行く。
最後の「日常にひそむ物語」はマンガやアニメなどサブカルチャーの影響をくぐったポップな衣服デザインが展示されている。様式が壊れ、形も色も素材も良く言えば自由に、悪く言えば好き勝手に拡散して、どこか既視感に襲われる複製人工物のように、そこここの道端に唐突に置かれている。
このフロアで一番目を引いたのは、申し訳ないけれど、展示台のそこかしこに貼り付けられた、アニメ作家加藤久仁夫の原画だった。もともと孫のおつきあいで繰り返し見た「つみきのいえ」や「或る旅人の日記」のファンなので。
はて、これでもって「日本ファッションの未来性」が見えたのだろうか?と疑問を覚えながら展示場を後にした。
こちらが古いのかもしれないけれど、この展覧会を見た見物人の気持ちは、コムデギャルソンや三宅一生のような時代を先端で切り拓く感性と才能を持った、すでに古典となった日本人デザイナーが活躍した古き良き時代に対する、「あの時代はすごかったんだなぁ」という懐旧の念に近い。
実はこの美術館を訪れたあとと翌日、孫や嫁のお土産に手ごろなものはないかと、池袋や渋谷の複数の百貨店や新しくできたファッションビルの類を足早にみて回ったのだけれど、いずれも、これだけ沢山の商品がありながら、なんでこんなつまらないデザインの衣服しかないんだ?と二人で愚痴を言い合わなければならないほど、これという商品に出逢えなかった。
さんざん歩いて、どうにかパートナーが子供用のちょっとしたTシャツと、ママ向きのストール(これはかなり気に入って即座に決断)を見つけることができた。
そのとき思ったのは、形も色も素材も妙にゴテゴテした、悪趣味な装飾過剰のデザインが時代の流行なのかということ。それは東京都現代美術館でみた最後のフロアに展示された衣服たちとどこか似通っている。
或いはモノトーンのシンプルなデザインへの「アンチ」なのかもしれないけれど、これがいまの時代の肯定する百人百様の多様性で、「日本ファッションの未来」であるなら、がっかりだ。
Noda Map 「エッグ」雑感
Noda Map の公演「エッグ」を、東京芸術劇場プレイハウスで観た。長男が行けなくなったからと切符をくれて、パートナーと。800席を超える、演劇用にはやや大きめの劇場だけれど見たところ満席。前売りは完売らしい。ほとんど2か月近い公演でこの規模の劇場を満席にできるのは、ストレートプレイでは野田や蜷川くらいではないのかしら、と思いながら席に着く。ありがたいことにE-9,10(中央列5列目下手端)という見やすい席で、かぶりつきだね、などと言いながら観る。
そうでなくても話題を集める野田秀樹の作・演出・出演に、妻夫木聡、深津絵里、さらには仲村トオルが共演し、橋爪功をはじめ芸達者が脇を固め、椎名林檎が音楽を担当して深津絵里が歌う、と話題満載だから、完売満員御礼も当然か。
Nodamapやチケット販売のぴあのWeb上の前宣伝をみていると、これまで誰も見たことも聞いたこともないスポーツが登場し、そのスポーツをめぐってドラマが展開する、かのような印象を抱かされる。とくに誰かがリンクして紹介していたぴあのページの動画では、真ん中に立っている深津絵里の周囲を妻夫木や仲村が半裸のアスリートが円を描いて走る、なかなか美しい印象的な映像で、ポスターやチラシの絵柄も、あたかも同じ動きの一瞬を切り取ったスチールをデザイン化したもののように見えるために、見るまでは本当にスポーツが前面に出て来る劇なんだと思っていた。
むろん野田秀樹のことだから、内藤裕敬の南河内万歳的な体育会系的演出はしないだろうとは思ったけれど、これほど「スポーツ」が後景に引っ込んだ作品だとは思わなかった。
いや、もちろん前宣伝どおり、誰も見たことも聞いたこともない「エッグ」なるスポーツが登場する。登場人物にかわるがわる説明されても、一回観ただけではこの「スポーツ」、なんだかよく分からないけれども、わかるのは私たちが良く知っている普通の競技スポーツと同様に勝ち負けを競い合う競技スポーツであり、そこに表の戦略も裏の戦略もあり、観客の熱狂があり、オリンピックのようにナショナルなものに回収されていくような共同的な心情があり、選手個人の心情と倫理のきしみがあり、というふうなものは全てこの「エッグ」にもあって、そのありふれたスポーツの条件を備えたスポーツに、日本が中国を始めとするアジアで犯した戦争犯罪のテーマが網のように被せられ、第二次大戦下における旧関東軍のいわゆる七三一部隊が行ったとされる細菌戦に備えた人体実験のイメージが重ねられている。
前宣伝にミスリードされたおかげで、こういう展開はまったく予想もしていなかったので、はじめは野田自身や大倉孝二などの巧みな演技による喜劇的な展開に声上げて笑いながら観ていたが、一貫して喜劇調のやりとりが繰り広げられているのに、こちらはぐいぐい引き込まれて笑えなくなってきた。ほかの観客も同じだと見えて固唾を呑んで見入る感じになってくる。
長男によれば「The Bee」のときもstanding ovationが起こるかと思って立ち上がろうとしたら周囲の観客はシーンと静まり返って固まっていて、融けるまでしばらく時間がかかったということだ。なにしろ人質合戦で犯人と互いに家族の身体を切り刻みあって自滅していくという、純然たるブラックユーモア的なきつい展開だから無理もなかったかもしれない。
今回はそういうきつさは、「スポーツ」のオモテの喜劇仕立てのおかげで、ラスト近くまであからさまにはならなかったので、観客席には終演とともに盛大な拍手が起きたけれども、むろんstanding ovation が起きるような性質の拍手ではない。オリンピックで金メダルをとった選手に対するような熱狂的なコールや拍手が起きていたら、それこそブラックユーモアになってしまうような質の公演だった。
私のように前宣伝のイメージでミスリードされるような他愛ない素人観客にとって、はじめのうち「いま現在」だと思ってみている舞台が、玉葱の皮を剥くように、時間の皮を剥かれると東京オリンピックの1960年へ、さらに戦前のオリンピックへとさかのぼり、舞台の上の人物が生きてものいう人物であるかと思えば、亡霊であったりもする。そして「エッグ」というスポーツの話はいつの間にか細菌戦に備えた人体実験につながる、人胚による細菌培養を思わせる生化学的な実験の話に重なって、ポジとネガが絶えず反転しながら進行する、その目まぐるしく入れ替わり、重なり合い、前後するその重層性が、この作品に厚みを与え、見ごたえのある作品にしていることは疑いがない。こんなに理屈っぽい芝居にしなきゃいけないのかね、と半畳を入れたくなるのを多少遠慮して言うとすれば、だけれど。
そういう舞台を可能にしている要因はいろいろ指摘することができる。役者たちの熱演は有名な芸達者をそろえた話題性に恥じない。妻夫木は何をやっても妻夫木聡だし、中村トオルも頑張っていたけれども、自然体で喜劇的な展開を支えていく上で決定的な役割を果たしていたのは大倉孝二。
橋爪功はあれだけ出ずっぱりでセリフを詰め込まれたら、あの歳では(といっても実は歳なんか知らないのだけれど)大変だったろうけれど、さすが、よく頑張っていた。
椎名林檎の音楽はとてもすばらしかったし、深津絵里もぴったりで(というか音楽のほうがぴったりというべきなのか)、とてもよかった。もともと好きな女優だけれど。
それに、舞台美術、大道具が、これは当然演出が冴えている、ということと合わせてだけれども、素晴らしかった。観客はサーッとカーテンを引くように下手から上手へ幕が引かれ、再び下手側から舞台が現われるたびに新しい光景を見る。半透明のビニールシート一枚でたちまちホロコーストのガス室が現われる。
ラストで登場人物が看護婦姿で身を乗り出して乗っている沢山のロッカールームが下手から上手へ引かれていくシーンは壮観で、妻夫木が一人一人に触れるたびに、その人物のその後の運命が語られる。
ああいうシーンは舞台ならではで、舞台を見慣れない私などは感嘆することしきりだった。
が、この作品を私たちの親の世代が犯した日本の歴史的な戦争犯罪と、それに対する私たち現在の日本人の姿勢を撃つものだとみれば、私には割り切れないものが残る。先に書いたように、もともとこの作品がこういう方向へ引っ張っていかれるとは予想もしていなかったので、そういう意味では新鮮で見応えもあったけれど、顧みてもしこれが、そのような作品であるなら、その思想的な観点なり構えなりに、なにかいまの自分をゆさぶるものがあるか、と言えば、残念ながら無い。
野田ももちろん私と同様戦後世代で、第二次大戦の経験はないのだけれど、ここに見るような主題への向き合い方というのは、私たちの世代までのものだという気がする。同世代的な[実際には同世代ではないけれども]感覚をわかる、という気がする一方で、これはある意味ですでに古い、古典的な理念で、いま演るなら、こうじゃないだろう、という違和感も覚える。
舞台の表現そのものには[私が舞台を見慣れない、ということも大いにあるだろうから、舞台を見慣れた人ならわからないけれど]新しさを感じるけれども、理念には新しさも刺激も感じない。理屈っぽいと書いたけれど、その理屈そのものには少しも感心しない。
いま思えば、前宣伝どおり、この作品はせっかくなら「スポーツ」をもっと徹底して前面に出すべきだったのではないか、という気がする。飲み物に異物を入れるとか入れないとか、陰謀めいたやりとりなど要らない。まったく「健全」で非の打ちどころのないスポーツ、心身ともに「健康」で「前向き」で「明るさ」一杯輝いていて、「感動的」で、誰もが肯定し、それこそ熱狂的なstanding ovationで応じるほかないような「スポーツ」。
肯定も否定もまだ中途半端だという不満を残す。肯定が徹底されるなら、それが半世紀前だけではなく、いまも、そしておそらくは未来までも、そのまますっぽりとナショナルなものに捉えられていく背理にまで行き着き、われわれ「現在の」観客を撃つ否定が胸の底まで届くものになり得たのではないか。
太宰治の『右大臣実朝』に「アカルサハ ホロビノ姿デアロウカ、人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」という良く知られたセリフがある。もしも野田が「スポーツ」をそんな誰もが文句のつけようのない、「健全な身体に健全な心が宿る」ようなものとして舞台の前景に押し出したなら、オリンピックでメダルをとる日本人選手に熱狂的な声援を送ってきた私たちの胸を深く穿ったのではないか、という気がする。