2012年04月

2012年04月19日

綿矢りさ『かわいそうだね?』

 綿矢りさの小説は、『インストール』、『蹴りたい背中』、『夢を与える』と読んで、『勝手にふるえてろ』はパスしているので、新刊で読むのは久しぶりです。

 2編収録のうち、書名になっている「かわいそうだね?」は、失業中で親とも折り合いが悪くて帰る場所のない「かわいそうな」元彼女アキヨとずるずる同棲している恋人隆大を許容してつきあっている語り手樹理惠が、最後にブッチギレで彼の部屋に乗り込んで一世一代の大暴れ。えーいっ!やっちまったぜ!「しゃーない。」と開き直るまでのお話。

 アメリカ育ちの隆大の考え方や振る舞いになんとか理解を示そうとしたり、それでも不安になって友人に相談してあきれられたり、鷹揚に許容しながら嫉妬に苦しんだり、煮え切らない樹理惠でずっと引っ張って、最後に一挙に鬱屈したものを解放してすっきり。いよーっ!待ってましたっ!と読者もカタルシスを覚えます。


 アメリカにいるときからの付き合いで、互いに理解しあい深い間柄だったアキヨをフリながら、別れもせず「かわいそう」だからと同棲させて、おまけに新しい彼女である樹理恵のことは愛しているから別れたくないという虫のいい男隆大も、その隆大にくっついて離れず、隆大が自分を振って樹理恵を恋人にしても、樹理恵なんて目に入らずに隆大を愛し続けているというアキヨも現実にはありそうもない変な男女だけれど、いまどきの世の中、案外そういう変な男女があっちにもこっちにも居るかもしれないな、と思わせてくれます。


 むかしむかし、結婚するまでは清らかでいなさい、と婚前交渉などもってのほかとされたのが、もはや婚前だの婚後だのどーでもよくなったのと同様、恋人がいるだのいないだの、別れただの別れていないだの、セックスしているかしていないかだの、そんな境目はどうでもよくなって、それぞれしたいようにして、こっちからあっちへ、あっちからこっちへ、行ったり来たり。

 え?と思うことはあっても、あ、そうなんだ、まっ、いっか!とパスしてしまう。そんな曖昧なありようが私たちの日常の関係に浸潤してきているってのを、こういう作品の世界にひたると実感しちゃいます。


 隆大とアキヨがアメリカ育ちだとか、あまりに不自然でないように仕掛けはしてあるけれど、本当はこういうものの感じ方、考え方、ふるまい方というのは、気付かないうちに、すでに私たちの内側に広がっているような気がします。そして、隆大のいう「かわいそう」のように、そういうありようを正当化し、一種の正義や倫理のように表現する手管も、私たちがすでに身に付けているのではないでしょうか。


 隆大やアキヨの言葉をきき、ふるまいをみて、そんな理屈が通るかよ、と思い、あきれたり苛立ったりする私たちは、実際にはもう半分くらい彼らと同じ人種になっているので、彼らを嗤うのは半分は自分を嗤うことになっている、というところまできているのではないか。

 ピノキオの世界でいうともう私たちの耳はロバの耳になりたちの尻にはロバの尻尾が生えているわけで、最後に「かわいそう」な人に手をさしのべる「いいひと」になることを拒み、恋人を切り捨てて「しゃーない!」という捨て台詞とともに、こういう世界をぶっ壊して出ていく樹理恵は、わがままな子供たちが望んでた「自由」や快楽を捨てて子供をロバに換えて売り飛ばす人さらいたちの城をぶっこわして脱出するピノキオたちと同じでしょう。(なぜ突然ピノキオが出て来るんだって?たまたまこの間久しぶりに孫とピノキオを見たから・・(笑))

 

 もうひとつの所収作品「亜美ちゃんは美人」は、幼いときから可愛くてモテモテ人気の亜美ちゃんになぜか好意をもたれて傍目には親友になってしまうけれど、内心は亜美のことを好きではなかった「さかきちゃん」の側から2人のつきあいはじめから、亜美に初めて好きな男性が出来て結婚を迎えるまでの関わりを描いた作品。

 

 作者のデビューは高校時代で、たしか京都の高校在学中に文藝賞をもらって、もちろん作品も良かったけれども、それに輪をかけて若くて美人だったので(というのは下世話な憶測にすぎませんが)マスメディアが大きく取り上げたのを覚えています。こんなに若く世に出て綺麗な人だし、きっとマスメディアをはじめ、いまの社会はよってたかってこういう人を消費し尽くしてしまうのだろうな、と思ったことも記憶に残っています。

 

 でもこの作者はその後、危惧したような消費のされ方はせずに、とても慎重に作品を発表してきたし、周りもきっとこの若い才能を大切に扱ってきたのでしょう。一時、書きづらくなって沈黙を余儀なくされてはいたようだけれど、今度の作品も悪くなかったし、大江健三郎賞を受賞して評価もされて、良かったな、と思います。

 

 で、そういういわゆる美人作家なので、こういう作品を読むとつい「さかきちゃん」の語る亜美ちゃんの姿に作者の姿を重ねてしまいます。あぁ、きれいな人というのは、こういう心理に陥るものなのかもしれないな、とか(笑)。

 

 この作品はずっと「さかきちゃん」の目で追っていくから、亜美ちゃんが何を考えているかは本当のところはずっとわからないので、さかきちゃんにとっては、いつでもどこでも超人気者で周囲の雰囲気を支配し、結局のところ周囲の人間関係をも支配することができる亜美ちゃんほどの女の子が、なぜ凡庸で非力な自分を特別扱いして親友とみなしてくれるのか、ずっと見えていないわけで、最後の最後に並み居る男どもに目もくれなかった亜美ちゃんが、亜美ちゃんを踏みつけにするような男に恋をする段になって、はじめてさかきちゃんにもかねてからの疑問への答がみつかります。

 

 もちろんそのとき読者も、なるほどね、と答をみつけるわけです。別に推理小説でも謎解きでもないけれど、親友としてつきあっているさかきちゃんの内心の疑問がこの作品の世界をサスペンドしつづけて、前へ進めていく原動力になっていることは確かだと思います。

 

 外から親友にみえるほどには亜美ちゃんが好きでもなく、ときにうっとおしいとさえ感じているさかきちゃんの心理はほかの登場人物にも見抜かれているし、その心の揺れもこの物語に起伏を与えてはいますが、それはまぁ美人の友達をもった、「それなりの」女性の、だれもが予想できるありふれた心理の揺れにすぎないので、やっぱり面白いのは、なんでこういう友達を親友として大事にしている亜美ちゃんのみえない心理のほうで、最後にそれがなかなかうまい方法で明かされて、それまでサスペンドされてきた謎がいっぺんに解けてなるほど、と思い、美人の心理ってそういうものかもしれないね、と思い、それを美人作家が書いているのを思い出して、もういっぺん、なるほどねと思う(笑)。

 

 冗談はさておき、作品としてはもちろん「かわいそうだね?」のほうがよかったけれど、どちらも楽しんで読めました。今度美人にお目にかかったら、崇志の路線でアプローチしてみよう(笑)。蹴飛ばされるかもしれないけど・・・



saysei at 16:09|PermalinkComments(0)

湊かなえ『サファイア』

 『告白』、『少女』、『贖罪』、『Nのために』、『夜行観覧車』、『往復書簡』、『花の鎖』、『境遇』と読んできて、最新の作品が短編集『サファイア』です。書名になった「サファイア」と「ガーネット」は一続きの作品としての関連を持っているけれど、あとはそれぞれ異なる作品です。ただ、いずれも宝石の名がタイトルにつけられいて、宝石をめぐる短編連作ということになるでしょう。

 それぞれの宝石に因む、趣向をこらした作品で、私には面白く読めました。広い意味の推理小説から出発した作家らしく、どの作品も語り手にとって、なぜ?と疑問を発したくなる謎があって、それが読み終えると解ける、という広い意味の推理小説の結構を備えているのも、また語り手や登場人物が少々変わった(常識はずれの)発想や行動をとったり、人の心を読むのにうがった見方をしたり、といった特徴を持つのも、この作家の作品ではおなじみかと思います。

 私には、太宰治が昔話をパロディ仕立てで語り直した『舌切り雀』を彷彿とさせる「ダイヤモンド」が面白かった。雀女との会話のテンポが小気味よい。「猫目石」、「ムーンストーン」、「サファイア」、「ガーネット」もそれぞれ工夫があって楽しめます。「ガーネット」に登場する復讐小説で一躍著名になった作家紺野マミにはいくぶんか『告白』という復讐小説で著名になった湊かなえ自身が投影されていて、そんな興味で読んでも面白い。



saysei at 00:11|PermalinkComments(2)
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