2012年02月

2012年02月25日

「ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」(ヴィム・ヴェンダース監督)

Pina Bausch

 ヴィム・ヴェンダース監督が3Dで撮ったドキュメンタリー「ピナ・バウシュ  踊り続けるいのち」を観てきました。

 終わったとき拍手したくなるほど、素敵な映画でした。ダンスを映画で見るっていうのもどうかな、と思い、また3Dというのも今まで見た映画は3Dでござい、ってな技術優先的な見せ方の映画のような気がして、正直、危惧しながら見に行ったのですが、まったくの杞憂でした。

 実は今回も記録されているピナの「フル・ムーン」は前に舞台で見ているのですが、そのときは確かあまりピンとこなかった。たしか外国人のダンサーが日本語でしゃべったりして、とても不自然な印象で違和感があったり、ピナ固有の「ベタ」さに抽象度が中途半端なんじゃないかと思えて落胆して帰ってきたような記憶がありました。

 でも今回ヴェンダースの映像に捉えられたダンスは、どれ一つとっても文句なしにピナの振り付けによる、身体表現の無限の可能性が凝縮されたエッセンスで、映像としてもほんとうに美しい。

 あの不愉快なメガネをかけていても、映画を見ているあいだは全く意識せずに済んだし、映像そのものも、3Dというものを「技術」としてこれみよがしに意識させるようなことが全くありませんでした。

 「カフェ・ミュラー」は初めて見る作品でしたが、恐ろしいほどのテンションの高さ。奥行きのある空間にたくさんの椅子を配して、それをダンサーの動きにしたがって次々に撥ね退けていく、あの振り付けは天才的ですが、今回その真髄が3D映像で見事にとらえられていると思います。

 また、屋外で踊るダンサーの姿をとらえたヴェンダースの映像はどれも素晴らしい躍動感、開放感、同時代性に満ちて素敵でした。これは単なる「ダンスの記録映画」では生まれなかった映像でしょう。

 昨夕の新聞で、映画評論の人が、映画としてみたときに焦点が拡散したきらいがある、という意味のことを書いていましたが、私は必ずしもそうは思いませんでした。

 たしかに撮影リハーサルを2日後にひかえてピナが急逝し、一時は制作そのものの放棄も考えられた映画で、物理的な「中心の不在」は事実ですが、この映画にはコレオグラファーとしての見えないピナがちゃんと中心にあって、私には少しも「拡散」しているようには見えませんでした。

 これは別にピナの伝記的な映画でもなく、ヴッパダール舞踏団を描いた作品でもなく、まぎれもないピナの振り付けによるダンスそのもの、身体表現に捧げられた映画であり、振り付け師としてのピナへのオマージュだとしか思えないので、伝記的な要素とか舞踏団の描写とかが異なるベクトルで混在して拡散しているというふうには全然見えなかったのです。

 付け加えると、音楽がまた秀逸でした。冒頭から音楽と一体の身体表現の魅力に引き込まれて、そのままぐいぐいともっていかれて、104分(らしい)という上映時間は本当に短く感じられます。

 ピナの振り付けによる身体表現は、私流の言い方をするとそんなに高い抽象度をもった種類の身体表現ではなくて、うまく言えないけれど、「ベタな」ダンス。人間の感情、喜怒哀楽をそれが含むノイズも含めてストレートに表現する「ベタな」身体表現だと思えます。その強く深い感情表現が魅力の核心だということを今回感動とともに実感できたような気がします。

 一つ一つのタイトルをつけられた作品の総体としてのテーマがたとえ分かりにくくても、ダンサーの身体表現そのものが、私たち観る者が苦しみや悲しみを身体に刻まれた「痛み」の記憶として、あるいは喜びを身体の「躍動」の、怒りを身体の「震え」の記憶として蓄えてきた、これら身体の記憶を呼び覚まし、解き放ってくれます。

 それほど、一人一人のダンサーの身体表現は明確に、直截に、喜怒哀楽を顕わして私たちの身体的な記憶の殻を突き破ってくれます。

 この変哲もない人間の五体で表現しなければならない身体芸術は素人が考えると不自由なものではないかと思ってしまいそうだけれど、こんな映像を見ると、本当に同じように何の変哲もない生物学的な「ヒト」の形態を授かった存在とは思えないほど多様で豊かな表現の可能性が眼前に弾けるので、その先に無限の広がりを感じることができます。

 こうした身体表現に言葉はいらない、とよくダンスにかかわる人が言うのですが、私が面白いと思ったのは、パンフレットでヴッパタール舞踏団員だったダンサー瀬山亜津咲さんや哲学者・舞踊評論家の貫成人氏が書いている、ピナが作品制作の際にダンサーに1作あたり100にも及ぶ質問をぶつけ、そのつどダンサーは考え抜いて答えていかなくてはならないという作品の作り方です。

 こうして言語を媒介にしてダンサーを追い詰め、ぎりぎりのところで交換不能な身体表現のありようを見出していくことで作品を作り上げていく、というその方法です。ことばをろくに考えもしないで身体表現、身体表現という人は多いけれど、この人はやっぱり中途半端な人じゃないな、というのが、このエピソードからもうかがえるように感じました。

 舞踏団のダンサーがピナを語る映像にもヴェンダースならではのものがありました。ダンサーたちの表情をうつす映像と、彼らの語る言葉は同時だけれど別に(言葉はナレーションとして)入れられています。そして、何も語らないままのダンサーもいます。これがとてもよく効いています。

 ダンサーたちは幼いころからの信じられないほど長い歳月をかけたトレーニングで鍛え抜かれた身体を持っていて、ピナの要求に応えていると思うけれど、それこそ世界中のいろんな国や地域出身のいろんな民族のダンサーです。

 その高度に洗練された身体の動きに、素人目にもそれぞれの出身地域の身体表現の特色、身体の動かし方の微妙な特色が映し出されてくるように思えるのも、脇道の楽しみの一つです。
 
 
 

 



saysei at 23:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
記事検索
月別アーカイブ