2011年12月

2011年12月30日

一倉宏『人生を3つの単語で表すとしたら』

 学生さんの一人が、卒論に一倉宏論を書く、というので、今手に入る彼の著作『人生を3つの単語を表すとしたら』、と『ことばになりたい』を読んでみました。

 2冊の中では前者が圧倒的にいいと思いました。中でも、「好きだった理由」、「きょうも「5963」」、「ひらがなでかいてみる」。

 「好きだった理由」は、何度も結婚披露パーティに出て聞いた、夫婦がうまくやる秘訣みたいなことをいう無数のつまらないスピーチの中で唯一胸に響いた、友人の恩師の短いスピーチのことを書いたもの。

 好きだった理由を思い出せるということ。と彼は言った。

 これが心の片隅に残っていて彼女(この文章のいわば語り手として仮構された女性)は思う。自分は夫と結婚して5年になるが、仲良くやっている。

  冷めきったわけじゃなし、いまも好きだしと思いつつ、
  ほんとうに思いだせるのかというと、内心あれっととまどう。
  それは両手で包んだホタルのような頼りなさで、でもたしかに
  そこにあって、ちいさく光って、私を安心させる。そんなこのごろ。


 この「両手で包んだホタルのような頼りなさ」という表現がとてもいい。

 そして「きょうも「5963」」。数字を見てごろ合わせで読み、ちょっとした縁起かつぎ、そんな体験は日常的にいつも私たちに親しい。大勢のなんでもない消費者である読者にわかりやすく、作者が一つの日常的な風景として距離をおいて眺められるように仮構された、語り手としての女性が書きつけた詩(のような広告コピー)が、そんな何気ない日常の光景を拾い上げます。

 その繊細さ。日常の細部、なんでもない主婦のなんでもない日常のほんの一コマを軽やかに掬い取る、そんな作者の言葉の特長を、心の動きを、この作品はとてもよく、典型的に示していると思います。

 「ひらがなでかいてみる」は、ちょっとしたいさかいで恋人かそれに近い存在に少し理不尽なことを言ってしまって、「きみが いいかえさずに かえったあとで」思うこと。そんな誰もが経験するささいなできごとと、それによって心にさざ波が立つ瞬間を掬い取って、語り手の悔いを、自分が彼女に語った小難しい言葉を「ひらがなで ひらいてみる」心の動きで巧みに表現しています。

 作者自身が「詩」とは呼ばずにいるこれらの表現は、セレクトショップの新聞広告やポスターのために書かれた風変わりな広告のコピーであったそうです。やさしい言葉で書かれているけれど、そこに表現された感性、そこにとらえられた光景とそれをとらえる眼差しは平凡ではありません。
 

saysei at 00:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年12月29日

山田詠美『ジェントルマン』

 山田詠美は文藝賞をうけた作品から始まって、学生がそれで卒論を書いた『ぼくは勉強ができない』、それに私が読んだ範囲では一番良かった『風味絶佳』まで、いくつかの作品を読んで力量がわかっているので、書店で『ジェントルマン』が平積みになっているのをみて迷うことなく買って読みました。

 が、今回は私にはどうも苦手な作品の部類だったようです。最初はなんだこれは、なんで山田詠美がこんな馬鹿みたいな高校生の凡庸な目線でどうしようもない文体で書くんだよ、という退屈極まりない印象で、だけどそれはきっとこのままで終わるはずはない、何かの仕掛けに違いない、と思って我慢して読んでいくと、20ページといくらか読んだところで、漱太郎が四十路のオバサン先生を凌辱する場面が出てきてガラッと景色が変わってきます。

 ああ、やっぱりね、とは思いましたが、その後もあまり面白くない。というより、私にはあんまりなじみのない世界なので(笑)、登場人物の誰にも寄り添って読んでいくことができず、ふ~ん、という感じでとにかく読み進んで、最後はやっちゃった、というひどく凡庸なドラマのラストみたいで、正直がっかり。

 山田詠美ってこういう作家だっけ、と前の作品読んでからもう何年もたっていたので、感覚を思い出すことができなくて、なんだか次の作品を手に取る気が薄れてしまいました。『風味絶佳』はいつでも読み返せるように手近にいつもおいてあるってのに・・・

 考えてみると、私はこの小説の中の夢生のような性の感覚に疎くて、その手の作品にうまく感情移入できないんじゃないかという気がしてきました。三島由紀夫でもその手の感覚が前面に出てくる作品はだめだったし。映画でも名作とか言われて、あれを見なきゃ、とか言われても、やっぱりどうも苦手で・・・

 偏見があるわけじゃないつもりだし、「n個の性」ってとても魅力的な考え方だなと思うことは思うのですが、こういう感性で触れるような映画だの小説だのということになると苦手で・・・

 これはやっぱり「作られた感性」なんでしょうかね。

 でもそういうのに過敏でも敏感でもなくて・・・ずっと以前のことだけれど、パリに住む日本人女性に通訳をつとめてもらって、国立のよく知られたミュージアムの関係者に次々にインタビューしたときのことです。
 
 施設の周辺のビルの中に分散して存在したオフィスの一つを訪ねたときに、お目当ての男性の担当者のそばにもう一人の男性が座っていて、二人ともニコニコいい笑顔でこちらに応対してくれて、親切に質問にも答えてくれた。

 でもそのもう一人の人は名前は紹介してくれたけれど、なんでその人がそこにいるのか、どういう人なのかもよくわからなくて、なんだか妙な感じで、でも何が妙なのかもわからなくて、それでもまあインタビューを終えて外に出ると、通訳をしてくれた女性がちょっと意味ありげに笑って、「・・・でしたね」と小声でささやく。よく聞こえなくて「え?」と二度聞き直すと、「あの二人、××ですよ」という。

 そのとき、自分の中でなにか妙な雰囲気だな、と感じていた疑問形のモヤモヤがスッと消えて、あ、なんだ、そうなんだ、と妙に納得できたのを覚えています。

 それがわかったからって、どうってこともないのだけれど、国立の施設を管理するかなり重要なポジションの人がそういう関係で、真昼間からああやって一つのオフィスにいて、来客にもいつも二人で応対して、ニコニコしながらくっついている、ってのがどうもわからない、とフランスという国のそのへんの感覚に不思議な印象を覚えたのでした。

 だけど、若いとき一所懸命読み解こうとした『言葉と物』のフーコーのような偉大な人にせよ、数多くの著名な知識人や俳優たちにせよ、「n個の性」を生きた人は数多くて、たぶん日本だってよくは見えないけれど数は少なくはないのでしょう。

 そう考えると、私はひょっとすると、この領域の世界の少なくとも半分を知らず、わからないまま小説を読んだり映画を見たりしていて、なにかこう全然見当違いの見方をしているんじゃないか、と空恐ろしい気がします。

 そしてもし「n個の性」ということにこの世の性の真実があるとすれば、逆にその中のたった一つの女性という性に執着してきた(?)自分がひどく偏った、頑なな感性の持ち主にも思え、なぜそうなったのかは、はたしてかつてのボーヴォワール女史の言ったような「作られた性」の裏返しに過ぎないのかどうか、気になるところです。

 



saysei at 23:54|PermalinkComments(0)

宮部みゆき『名もなき毒』

 宮部みゆきには膨大な数のファンがありそうだし、熱狂的なファンにも会ったことがあります。でも私は一つ二つ読んでこの人は私の波長には合わないんだな、と思って敬遠していました。この人の作品は時代物のほうが軽やかで洒脱なところがあって面白いんじゃないか、と勝手に思っていました。

 一つは忘れてしまったけれど、いまもなんとなく作品の雰囲気をおぼえているのは『模倣犯』です。分厚い本でしたが、書店に平積みというより山積みになっているのが片っ端から売れている感じでした。私もつられて読んだおぼえがあります。

 たしかに力作で、とことん書き込んであり、じっくり読める作品でしたが、なんというか生真面目すぎるような印象で、エンターテインメントとして読むなら、もっと軽い明るい作品が読みたいな、というふうなことを感じたように記憶しています。私の中でエンターテインメントといわゆる純文学とがそういう腑分けになっているのでしょう。

 そういえば社会派と銘打たれるようなエンターテインメント小説はほとんど読んだことがないことに気づきます。古くは松本清張のような人の作品とか、いまでは高村薫さんのような人の作品でしょうか。もちろんそう挙げる限りは何冊かは読んで、あぁ、こういう傾向の作品なんだ、と感じたから敬遠するようになってしまったわけですが。

 どうせそういう傾向の作品を読むのなら、例えば平野啓一郎の『決壊』のような作品を読むほうが面白いと思ってしまうし、古い作品になってしまうけれど横光利一の『機械』とか『時間』みたいな作品の現代版みたいなのがないかな、というふうな探し方になってしまいます。

 でも今回たまたま駅の本屋で平積みされていた文庫本で手にとった宮部みゆきの『名もなき毒』は面白く読めました。しばらく忙しくて車中でも仕事の関連のものばかり読んだりしていたので、休みに入ったら読むぞ!と思っていて、仕事からいちおう解放された日の夕方、帰りの電車で読むために手にとったのがこの本だったので、砂漠の砂に水がしみこむようにすーっと入ってきて楽しく読めました。

 その点、細部がしっかり書き込んであるし、ただの犯人さがしの単線的な推理劇や犯罪ものを読むのと違って、夫婦や職場の人間関係の中で一人の平凡な男が思わぬことに巻き込まれ、ああ考えこう考えして動いていく日常の中の小さな非日常を通して、磨りガラスの向こうに事件の全容が見えてくるようなこの作品、そんなこちら側の日常のほうが面白い。事件そのものはどうということもない(いや殺人ですから現実に起きれば大変な事件ですが)し、その犯罪の原因だの背景だの犯人の心理学的考察だの、そういうのは全然といっていいほど描かれてはいないし、むしろ事件をきっかけにして、それに振り回される、私たちや私たちの身の回りにいくらでもいるごく普通の人間がよく描けているところが面白いという作品になっています。

 それでもやっぱりインパクトがあるのは、原田というとんでもないアルバイトの女の子で、こういうキャラクターには(ここまで極端ではないにせよ)お目にかかったことがあって、ひどくリアリティーがあります。そして、こういうのがいまでは「普通」の人間なんだという、死の近い、もと警察官の私立探偵北見という存在もなかなか印象的でした。

 

saysei at 23:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

森田芳光監督

 年末恒例の今年逝去した有名人一覧のような新聞記事を見ていると、小松左京さんのように作品についてはまったく良い読者ではなかったけれど、かつての勤務先の取締役などしていただいていた関係で、結構身近に接してきた人もあれば、森田芳光監督のように御本人に会ったことは一度もないけれど、作品は自分でも繰り返し見て、若い人にも勧めてきたような人もあるけれど、世間の狭い自分でも知った人かなり多いことに気づきました。こちらも長く生きているとそういうことになってくるのでしょう。

 中でも森田芳光監督の早すぎる死は直接面識のない一ファンとしてとても残念に思いました。新聞や雑誌で監督の死に触れた記事を見ると、「家族ゲーム」を代表作のように取り上げて書いたものが多くて、それはそれで当然という気もするけれど、「(ハル)」を挙げた人が少ないのが意外でした。私の見た狭い範囲では映画評論家の白井佳夫さんだけじゃなかったでしょうか。

 たしかに「家族ゲーム」のあの一列に並ぶ食卓は絵柄として強烈なインパクトがあって、当時からすでに問題だった家族崩壊のイメージをまざまざと見せつけるような力がありましたが、私は「(ハル)」のほうが好きだし、ただ好きというだけでなくて、いまのインターネット社会で起きることを、パソコン通信の世界でのバーチャルなつながりと現実のつながりとのかかわりを対比させながら、的確に予見するような作品だと思って高く評価してきました。

 それに、ドラマとして、作品としてこれが森田芳光さんの作品の中で一番できがいいんじゃないか、とさえ思っています。キャスティングも素敵で、深津絵里も内野聖陽も戸田菜穂も実に生き生きと演じていました。

 あの作品がその年のグランプリをとらなかったのは、たまたま草刈民代というルール違反スレスレみたいな変化球を使った「Shall we dance ?」とかちあう不運な年にめぐりあわせたからで、そうでなければ各賞を総なめにしてもよかったと思います。

 若い人でまだ「(ハル)」を見ていない人がいたら、ぜひぜひご覧ください。

saysei at 22:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年12月04日

「小川の辺」にやすらぐ

 先日祇園会館で「マイ・バック・ページ」を見たとき、2本立てでもう一本、「小川の辺」を見ました。今日はその感想です。

 先に印象を言えば、藤沢周平原作のこの映画、東映の全盛時代の時代劇映画を彷彿とさせる、心安らぐ映画でした。

 最初、東山紀之演じる戌井朔之助が藩の重臣から妹田鶴が嫁いだ義弟佐久間森衛(二人で脱藩している)を討つよう命ぜられるシーンで、東山紀之の口舌が全然侍らしくなくて、なんだか現代風に軽いので、これは相当ひどいんじゃないか、と心配しましたが、東山はなかなか好演していて、姿かたちもいいし、殺陣もダンサーの資質のせいでしょうか、なかなか美しい。

 昔の人気俳優でいうと、東千代之介タイプでしょうかね、東山紀之は。

 もっとも、佐久間を討つために若党新蔵を伴い江戸へ向かう道中のシーンになると、突如どこやらで聞き覚えがあるようななつかしい東映時代劇の音楽が・・・(笑)

 わぁーっ、これだけはやめて!と耳を覆いたくなってしまったけれど、それもご愛嬌。そうだったなぁ、東映の時代劇でこういう道中の場面が出てくると、こういうのんびりした音楽が出てきたよなぁ、と妙に懐かしかった。いまの若い人がこの映画見て、この場面でこういう音楽が聞こえたら、どんな反応をするんでしょうね。

 実にのんびりしたテンポで道中のエピソードを見せていきます。このゆっくりしたテンポも昔の時代劇そのままです。

 いや音楽だけではありません。幼いころの小川の辺での、朔之助、田鶴、新蔵の三人の思い出シーンの繰り返しの使い方も、朔之助が出立してあとに残された父と妻が花が咲くのを楽しみにしている侘助の使い方も、そのほか細かいエピソードの使い方、みな昔からどこかで見慣れてきた時代劇のパターンを踏襲しています。

 つまりこれはみんな「型」をふまえている。いや、型が悪いのではありません。昔から歌舞伎だって型が生命で、その型をどう演じるかが問われたわけで、型どおりであること、型をふまえていることが、即マイナスというわけではありません。むしろ安心してみていることができます。
 
 妹田鶴役の菊地凜子はとても存在感があり、型の古典的な時代劇の中に、そのいかつい顔、迫力のある表情、鋭い動きなどによって、型を突破するような存在感を示しています。

 古典的で型どおりではあるけれど、脚本が丁寧に書かれているな、ということがはっきり分かるような映画でした。このごろ安易に売れるマンガを原作に作ったいい加減な脚本がけっこう多いようですが、やっぱり脚本がきちんとしている映画は安心してみることができます。

 へんなリアリズムもなく、サディスティックな残酷さもなく、予定調和的で、甘いといえば甘いでしょうが、後味の悪さがない映画です。

 

saysei at 23:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
記事検索
月別アーカイブ