2011年10月

2011年10月24日

百田尚樹『プリズム』

あけび


 「プリズム」というのは、描かれた世界をうまく表現するいいタイトルだな、と読んでいる途中で思いました。
 
 しかし、そう思った時には、同時にこの作品を最初から読んでいったときにはあった、次に何が起きるのだろう、それは何を意味するのだろう、というワクワク感が消えてしまい、結末も予測ができました。

 物語は、主人公の女性梅田聡子が、家庭教師派遣センターから派遣されて世田谷の豪邸に赴くところから始まります。
 
 家庭教師が子供を教えるために他人の家に初めてはいっていく、という設定は、小説ではこの種のパターンはありふれているのかもしれませんが、読者が主人公の目を通して、はじめて新しい世界へ分けっていく、ワクワク感を共有する、という意味で、巧みな設定だと思います。

 自分の日常生活とは異質な未知の世界を、はじめて世界に触れるような純なまなざしで見たり、おそるおそる触れたりし、未知の人と出会い、好奇心を抱いたり、不安になったり、ちょっと冒険してみたり、そういう心の状態を主人公と共有しながら読者は未知の世界へ分け入るワクワク感を楽しめます。そこにスリルもサスペンスも魅力的な謎もあります。

 しかし、「解離性同一性障害」、いわゆる多重人格、というのが登場してくると同時に、そういうワクワク感が失われてしまいます。むろん、それが本当にそうなのか、とか、そういう複数の人格と対応していく主人公の気持ちの揺れというのが物語を進行させていくのではありますが、そこに絞られてしまうと、ゴールもそこに至る選択肢も、その先現れるであろう障害物も分かったうえで楽しむゲームのようなものになってしまうような気がします。

 これはこの小説の「多重人格」に限らず、例えば「記憶喪失」のようなものが作品のゆくえを左右する重要な設定として登場すると、とたんに白けてしまうようなところがあります。

 どんな「異常」も「『異常』という異常でないもの」になってしまいます。つまり小説や映画の世界での手垢のついた常套手段に堕してしまいます。

 実際にはその種の小説というのは少ないのかもしれませんが、この種の設定は二度やれば種が割れてしまう手品のようなもので、二度も三度も鮮やかな方法として使えるようなものではないと思います。

 それはなにも、その種の精神病理が現実にはそう頻繁に出現するものではないから、というのではありません。

 たとえば、犯罪小説でも、犯人が精神異常者でした、というような作品は、私はあまり読みたくありません。別にそういう設定が不謹慎であるとか、倫理的に好ましくないなどと、空想の世界と現実の倫理とを取り違えて言うのではなくて、純然たる空想の世界として、そんな種明かしをされたとたんに白けてしまうのです。

 犯人がごく普通の、というと少し変ですが、残虐性を持っていようが、狡知にたけていようが、私たちの誰もが、ひょっとしたらそうなりえたかもしれない、普通の人間で、それが犯罪を犯すから、なぜそういう風になったのか、という問いが成り立つし、その経緯を描くかどうかは作品次第ですが、あからさまに描こうと描くまいと、そういう問いが作品の中になければ、犯人像というのは奥行きのないうすっぺらなものでしかないでしょう。

 それを「精神異常者でした」、とか「記憶喪失で」、とやってしまうと、そういう問い自体が成立しない。いや問わなくて済む。これらの設定をしてしまった時点で、あって当然の問いを遮断してしまうわけです。それがその作品にとって必然性があって、どうしてもそうでなければならなかった、といういことなら仕方がないけれど、たいていの場合はこういうのが出てくると、安直だなぁと思って、そこでもう白けてしまうところがあります。

 そのあとに、主人公がどういうふうに各人格と接して、どう戸惑い、どう変化していくか、というのを、いくら細密にフォローしていても、そのやりかたには既視感がぬぐえません。

 そして、同時に結末はこうなるだろう、というのもほぼ正確に予測できます。あとはそのパターンの中で、個々の人格とのやり取りの細部を楽しむだけで、読者にとっての現在進行形の読む楽しみの大半がすでに奪われてしまっているような気がします。

 多重人格についての小説をはじめて読む人にとっては、聡子が夫と交わす会話や、精神科医と交わす会話に興味をおぼえるかもしれません。むろん私にとってもこの種の病について知らなかったことがたくさん書かれていて、へぇそうなんだ、という啓蒙される楽しさというのはあります。

 でもそれは小説としてのこの作品を味わうということとは別のことでしょう。作者も、解離性同一性障害についての薀蓄を披露して読者の知的好奇心を満足させることが作品を書く目的だったわけではないでしょう。

 そこが一番ひっかかったところで、そういう薀蓄以外に何か読んでハッとさせられるようなこと、人間性についてなにかあらたに気づかされるようなこと、そんなふうな表現ができるのか、と言葉の芸そのものを味わうような楽しさ、といったものは率直に言って残念ながら、私にはありませんでした。

 でも読みやすくて、筆力があって、最初のワクワク感は本物だし、ある意味でパターン化された枠組みを持っているけれど、つまり通俗的ではあるけれど、それだけに、その強固な通俗の枠組みが効いて、一種の悲劇的な恋愛小説として楽しめる作品であることはたしかです。



 

 

saysei at 00:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年10月20日

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

ミケランジェロ「夜」


 「それはまるで冬の匂いのような光りかただった。」

 「後ろからみつめる三束さんの背中は、やはりうっすらと白く輝いてみえ、わたしはそれをみながら、まるで冬から届けられた、おおきな葉書みたいだと思った。」

 「三束さんを愛しています。そう言ってしまうとしたまぶたと目のすきまが膨らむようにみるみるうちに涙があふれ、頬を流れてあごにたまり、それからたくさんの粒になって夜のなかへ落ちていった。瞬きもせず、何かから逃れるように、わたしから逃れるように、涙は夜を目指す生きもののようにわたしの頬を這い、あとからあとから流れて行った。」

 「ピアノの旋律は目にみえない粒子とまざりあって風になり、髪や肌をそっとなで、私の体はそのやわらかな中央をそっときりひらいていった。


 具体的な形象をもつイメージを喚び起こすわけではないけれど、意味としては透明で幽かな、優しい光の、荒涼で寒々とした孤独なこころにもたらされた幽かな希望、包容力に富んだ頼りがいのある広い背中の、あるいはずっと自分で気づくことさえない孤独な夜の闇にあった思いが、突然眩めく光の世界にあふれ出て、どまどい、自分の姿を恥じるように散っていく涙・・・等々の対象を的確に強化する意味喩にあたるものを拾ってみました。

 この作品を読む楽しみは、物語を追うことだけではなく、こんな地の言葉の内包する魅力にもあると思います。おおかたはまるで素っ気ないほどシンプルな日常語で語られる冬子の一人称の語りですが、彼女が切ない想いを抱くにいたる三束さんとのシーンになると、その高揚する心を映すかのように、この種の意味喩が現れます。

 そういう場面は、聖などと言葉を交わす日常的な世界から浮き上がった、メルヘンチックな異空間のようにも感じられます。まるで足長おじさんの正体を知らずにあれこれ思い描いてみせる少女の空想の世界のようです。

 それは三束さんという、冬子の目を通してしか描かれないために、私たちにもどんな人かがよくわからない中年の男性のこの作品の中でのありようによるものでもあるでしょうが、同時に冬子が囲い込んで大切にしている彼女だけの特別な世界の性格なのだとも言えるでしょう。

 冬子と三束さんのいささか現実離れした会話とその雰囲気は、当初は偶然に出会った歳の離れた男女が徐々に近づいていくとき、敬語の距離につまづいているだけの姿にも思え、いつどうその距離が消えるのか、というところで物語が進行するのだろうと思って読んでいくのですが、そうではなくて、この普通より一オクターブ高い現実離れした会話とその雰囲気はずっとそのまま続きます。

 そうすると、次には、三束さんが物理の先生で、物理のことばかり考えている変わり者で、世の中のことのは疎く、人間関係に不器用で、当然男女関係にもウブで幼児のように純な心の持ち主だから、こういう会話になるのかしら、と思って読むことになります。たしかに研究一筋の科学者で人ズレしていない学者と普通の常識的な人間とが交わす浮世離れした会話の面白さのようなものも、冬子と三束さんとの会話にはあるからです。

 でも、結局それも違いました。冬子の語りで作品が成り立っているので、最後の最後までわからないのですが、ラストでそれはわかります。

 ここに書いたようなメルヘンチックなシーンにしろ、彼女の思いにしろ、本来だともう一人の主要登場人物である聖の吐く辛辣な言葉にまったく耐えられないはずです。
 
 「楽なのが好きなんじゃないの?他人にはあんまりかかわらないで、自分だけで完結する方法っていうか。そういうのが好きなんでしょ」
 「要するに、我が身が可愛いのよ。・・・・(中略)・・・・何もしないで、自分だけで完結して生きていれば、少なくとも自分だえは無傷でいれるでしょ?あなたはそういうのが好きなんじゃないの?」

 そう迫る聖に辛うじて冬子は「それは、楽なの?」と珍しく反問し、不同意の意思を見せます。しかし、聖の言葉のほうがはるかに力強いのです。

 「どうなの?」と聖は言った。「それはあなたのほうがよくわかるんじゃないの?わたしはそういう人間ではないし、そういう人間と違って、ちゃんと生きるための対価を払ってる実感があるもの」
 「知ってるとは思うけど、そういう人たちが傷つかないで安全な場所でひっそりと生きてられるのは、ほかのところで傷つくのを引きうけて動いている誰かがいるからなのよ」

 冬子が陰湿な同僚のいじめに遭っていた(ただし本人は必ずしもそのことで深く傷ついて会社をやめようと積極的に考えていたわけではないが)職場から、フリーの校閲者になる上で影に日向に力になり、生計を立てていくうえで決定的な働きをしてくれた聖の言葉は、冬子の抗弁など本来は吹っ飛ばしてしまう迫力を持っています。

 この冬子と聖の劇的な会話はまだまだ続くのですが、その果てに、

 「・・・・・・みんながみんな、あなたの常識で動いてるって思わないでほしい」

 ついに冬子はこんなセリフを吐いて、自分でも「しずかに驚」きます。たしかに聖が冬子と三束さんの関係を性的欲望の抑圧された欺瞞的表現というふうな身も蓋もない解釈で決めつけるようなところには、「みんながみんな、あなたの常識で動いてるって思わないでほしい」という抗弁も納得できなくはありません。

 しかし、この種の個々には正当な抗弁も、冬子のありようをトータルにみたときには、傷つくことを恐れ、自分の傷にしか関心がなく、殻に閉じこもってハリネズミのように針を逆立てて他者を拒み、自分を支えてくれる他者の存在に気づかない身勝手な女でしかない、とみなされても仕方がないでしょう。

 太宰治の「駈込み訴え」のユダはイエスの行う「奇跡」を全部陰で支えています。イエスを裏切って訴え出たユダがイエスを告発する言葉は大変迫力があって、そのリアリズムから見ればイエスはある意味で冬子のように自分がそうしていられるのはユタのおかげなのに、それをありがたいとも思わず、自分だけが大事で、勝手なことをしている「お坊ちゃん」にみえます。

 けれども、「駈込み訴え」の読者には、イエスの信仰が、あるいは民衆への思いが、ユダの言葉に拮抗してそれを超えていくものであることが直観できます。作中でイエスを告発するユダもまたそのことに気づいています。

 漱石の「明暗」における津田と小林の関係もそういう意味では同型でしょうか。

 いずれの場合も自分こそが地面に足のついた地道でまっとうな考え方をしている、と考えるほうは、とてもよく似ていて、攻めの言葉も同じ型を踏まえているようです。

 人間関係のパターンとしても個々のキャラクター造形としても、紋切型といっていいでしょう。

 しかし、それに対置されるイエスなり、津田なりの側の言い分というのは、ユダなり小林なりの繰り出す言葉に対抗したカウンターパンチにはなっていません。ユダや小林の言葉に対して、彼らは自ら、自身の言葉を対置することができないのです。むしろ言葉のレベルでは、ユダ或いは小林の言うとおりであって、それはそれで受け止めるしかないのです。カエサルのものはカエサルに、です。

 だからといって、イエスなり津田なりがユダや小林の言い分を肯定しているわけではありません。同じ言葉の議論としては対置すべき有効は言葉を持つことができないのですが、彼らの存在そのものがカウンターウェイトになっています。

 イエスなり津田なりがユダ或いは小林の言葉に対置するのは、次元の異なる言葉、あるいは理念、彼ら自身のふるまい方で示される或る精神のようなものです。イエスの場合は、神のものは神へ、ということでしょうか。

 冬子の場合も、彼女が抗弁する言葉は、訥々とした反射的な言葉の切れ端でしかなく、とうてい聖の雄弁な攻めに敵うものではありません。言葉や理屈では誰でも聖のほうに軍配を上げるでしょう。

 三束さんのことも、いわば冬子の欠如が生み出した幻想(ロマン)であり、逃避先にすぎない、そのロマンを完膚なきまで粉砕する聖の言葉は小気味よいほど的確です。

 冬子こそわたしたち読者が心を添わせて読むべき主人公であるにもかかわらず、「あなたをみると、いらいらするのよ」という聖の言葉のほうに同調してしまいそうになるのです。

 冬子はこの聖の言葉を聞いた瞬間に、「すべてのちからをつかって、三束さんのことを思い出そうと」します。ほかのすべての人にとって何の価値もなくても、自分にとってかけがえのないささやかな三束との交感を抱きしめて、その絶対的な価値で聖の言葉に対抗しようとします。

 むろん聖の側からみれば、冬子は他者を遮断した自分だけの甘い空想の世界に逃げ込み、閉じこもろうとしているだけのことでしょう。客観的にわたしたちの目からみても、この部分だけ読めばそう読めて当然だと思います。

 しかし、どこかで聖の言葉のカウンターになる錘が用意されていなければ、この作品は自分で殻に閉じこもって他者を拒絶しているだけなのに自分が被害者のつもりの身勝手な自己愛の化け物みたいな女性を、作者がそうと気づくこともなく肯定的に、社会批判のつもりで描いた底の浅い作品になってしまうでしょう。

 それなら冬子という女は、自分に甘くて、他者には意地悪な見方をする、ひねこびた、いやな女でしかありません。

 では何がカウンターウェイトかと言えば、冬子の心身の不調のような生理にそれが描かれているのではないでしょうか。

 突拍子もない受け取り方のようですが、冬子の言葉はとうてい聖に太刀打ちできません。言葉で対抗できず、まして行動としては最初から聖の敵ではありません。彼女が自分の意志でおこなうポジティブな行動といえば、三束さんと会ったり散歩したりすることくらいです。

 一人称で語る冬子の、その語りを読んで、そこに明示的に描かれている冬子の思いや言葉をいくらかき集めても、聖の言葉やその行動の重さ、強さ、現実の加担する迫力にはかないません。聖の言葉や行動が紋切型で、どこかで見たり聞いたりしたようなパターンでしかないことは、その先の問題で、そんな言葉や行動であっても、冬子の弱々しいカウンターなど吹っ飛ばしてしまうくらい迫力があります。

 けれども、そう言って冬子を否定してわだかまりが残るのは、実は冬子自身がそういう自分を自らの意志でどうこうできないからだろうと思います。

 彼女は、われわれなら普通さっさとやめてしまうだろう、いじめを受け続けている職場でも働きつづけてきました。無視され、相手にされていないことは承知していても、そういう境遇の意味をそれほど深刻に実感しているようには見えません。

 みんな示し合わせて行ってしまい、寒風の吹きすさぶ荒地に一人ぽつんと取り残されているような自分の姿を一個の実存として引きうけている、という風には見えない。ただ風景のようにそれを眺めて淡々と仕事をしているだけのようにみえます。

 だから冬子の語りの中に、彼女の存在の重みとして聖の語る言葉のカウンターウェイトになるような言葉や振る舞いは登場しようがないでしょう。

 しかし、彼女の体、彼女の生理は別で、冬子自身がそれを意識していようがいまいが、彼女がこの世界で受け止めているものを、この世界での彼女の位置を、否応なく表現してしまいます。

 この作品の三束さんとの出会いを描く最初の場面で、冬子が気分が悪くなって嘔吐するシーンであることは、その意味で暗示的です。冬子自身の口から、語りの言葉としてその意味が語られることはないけれど、身体と生理の反応そのものは、当然ながら、彼女の語りの中で読者にわかるように描かれていきます。

 身体生理の不調はいったん三束さんと交感が成立して、さらに振幅が大きくなります。いいときも、彼女の身体の反応はしっかり描かれています。さりげないシンプルな文章ですが、その中に冬子の身体生理の状態を表現するような言葉は案外少なくないのです。
 
 冬子のつぶやく言葉はふわふわ非現実をさまよう光の粒のようにたよりないものだけれど、彼女がそういう世界へ「逃げ込」んだり、そんな言葉を頼りに抗弁するときの、現実に対する違和感や他者に対する違和感は決して非現実的でもなければ頼りなくもありません。

 それは彼女の嘔吐感や偏頭痛と同じようにリアルで確実なもので、現実に対する違和のざらつく手触り感はちゃんと表現されています。

 身体の不調だけでなく、言葉にしても、その意味内容よりも、その訥々とした発語のありよう自体が、彼女がこの世界と、あるいは他者と向き合って受け止めざるを得ないもの、受け止めているものを表現していると考えなければ、いい気なものだ、というほかはないように思います。

 ここに、自分に閉じ籠って他者を拒んでいる女性がいるとします。他方に、その身勝手さを、世間の人間関係の常識に拠って紋切型ながら筋の通った否定しがたい言葉で攻め立てる女性がいたとします。
 攻められる前者は言葉も貧しく、自らの殻を破ろうともせず、後者の言うとおり、否定的にしか評価しようがないように思えます。

 しかしここで、実は前者は非常に繊細な女性で、現実の社会の中で傷ついて、鬱病を発症していたとしましょう。従って、いま後者と議論すればするだけ、相手の言葉や態度に傷ついて、いっそう言葉を発することができなくなり、いっそう自分の中へ逃げ込むよりほかにない。そしてそのことに後者は気づいていない・・・

 仮にこんな構図を思い浮かべてみると、前者と後者ではいずれが身勝手なのか。わたしたちはいずれを肯定し、いずれを否定すべきなのか。心の病であっても病人を持ってくるなんてずるい、と思われるでしょうか。いや医者公認の病気でなくてもいいですよ。いまやみんな病人みたいなものですから。

 もう一つ。さきほどから聖の人物造型はよくあるパターンで、その言葉も紋切型だと断ってきましたが、もちろんこの作品ではそう安易な紋切型ではなくて、よくここまで徹底して突っ込むよな、と感心させるほど、攻めの言葉はとことんいきます。それでもなお、その言葉は紋切型の範囲を出るものではなくて、そのことに聖自身が気づいています。

 「感情とか気持ちとか気分とか-----そういったもの全部が、どこからが自分のものでどこからが誰かのものなのか、わからなくなるときがよくあるの」
 「この『しょせん何かからの引用じゃないか、自前のものまんて、何もないんじゃないのか』っていうこの気持ちも、やっぱりどこかからの引用じゃないかっていうような気がしていて、まあなんかいろいろ、だめなのよ」

 そのために、「基本的に土台がぐらぐら」で、「誰かと深刻に関係をむすぶなんてことは不可能」だというのです。

 結局、まったく性格も生き方も対照的にみえる聖と冬子は、おなじ「すべて真夜中の恋人たち」だということでしょう。

 最初タイトルをみたとき、「すべて」というのがこんなところにくっつくのは変だなぁ、と思い、読みながらもずっとなぜ「すべて」なんだろう?という疑問が頭のすみっこから離れなかったのですが、この箇所と、最後に聖が猛烈に迫力のある言葉で冬子を「口撃」し、冬子がか弱いカウンターを繰り出した直後の場面で、二人とも泣いて「あなたのことをもっと知って、わたしはあなたの友達になりたい」と聖が冬子に言う場面を読んで、その意味が分かったような気がしました。

 聖の迫力のある言葉も厳しい世間を颯爽とわたるキャリアウーマン風の行動スタイルも、言ってみれば「すべて真夜中の恋人たち」としての弱さの裏返しとして身に着けた、借り物の鎧兜だったのでしょう。

 「真夜中」の闇と光とは、この作品全体(で描きたいこと)の暗喩となっています。物語の最後のページで、冬子は自分の内に一つの言葉を見出します。それが「すべて真夜中の恋人たち」。白紙のノートにこの言葉を書きつけ、眠りにつく彼女には、もう明日の光の訪れが確信できるのです。
 
 

saysei at 22:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年10月08日

湊かなえ『境遇』

貴船菊

 今朝通勤途上で必ず立ち寄る梅田の改札口を出たところにある書店に、この小説が平積みにされているのに気付いて、さっそく買って読み始めたら面白くて、帰りの車中と、夕食後のひとときで読み終えました。

 推理小説なので、内容については触れませんが、よく工夫された力作だと思います。私が嬉しかったのは、読んだ後味が悪くなかったことです。

 処女作「告白」以来、湊さんの作品には、少し辟易するような酷薄さがあります。もちろん作品と作家とは違うので、作品の中に描かれる酷薄さが作家の酷薄さだなんて思いませんが、私は比較的これが苦手でした。

 たまたま私が奉職する大学の卒業生でもあり、身近にいる学生さんたちが読む作家なので、これまで推理小説を読むことがほとんどなかった私も、出版されるごとに欠かさず読んできましたが、作品の世界に引き込まれはしても、いつも読み終えて幾分後味の悪さをひきずってしまうようなところがありました。

 けれども、前作あたりから、それが消えたとまでは言えないまでも、気にならなくなってきました。私はハッピーエンドが好きですが、なんでもかんでもハッピーエンドならいいと思っているわけではもちろんありません。絵空事には絵空事としてのリアリティも一貫性も必要で、そうでなければ作品の世界として成立しないでしょう。

 ちゃんと自立的な作品の世界として成立していて、ハッピーエンドで後味のいい作品だといいな、と前作を読んで今回の新しい作品を手にとったので、期待どおりでした。

 実際のところ、湊さんの作品の中に色濃くあった酷薄さというのを、どう考えればいいのか、私なりの答をまだ持っているわけではありません。もちろん人間には美しい面、優しい面、気高い面とプラスもあれば、醜い面、意地悪な面、卑小な面とマイナスもたくさんあります。どこからみても善人に見える人でも、業というほかないような根深い悪を宿しているかもしれません。
 
 そして作家が人間を描くとき、真・善・美に近い面よりも偽・悪・醜に近い面を描くほうが、より鋭く、深く人間性を掘り下げて描くことができるのかもしれません。
 
 ラスコーリニコフもスタヴローギンも普通の人々の世界でいえば「悪」を割り振られ、底深い闇を内にもつ人物でしょう。ただ、彼らはその闇の深さに匹敵する人間的な苦悩の重さを背負うことで、奥行きのある生きた人間としてのリアリティを持っているように思えます。

 漱石の「明暗」の中で世俗的で卑小な人物ともみえる役割を振られた小林なども、主人公の津田あたりに寄り添ってみれば卑小な人物にみえるかもしれませんが、その彼が津田の生き方や価値観にまっこうから異を唱えるかのような反撃をするシーンなど読むと、彼は彼の生活にしっかり根を下ろしてそこから物を言っていることがわかり、それは津田の生き方や価値観に対する強力なカウンターパンチであり、彼の存在そのものが、現実に根差した鋭利な批判でもあることが迫力をもって伝わってきます。

 こんな大家の古典をひきあいに出すのはアンフェアかもしれませんが、過去の湊さんの作品中のある種の酷薄さに違和感を覚えていた読者として、それはその人物の悪なら悪、意地悪さなら意地悪さ、酷薄さなら酷薄さが、もっと深く、もっと大きく、行間からその人物の背負いこんだ重さが伝わってくるなら、それは後味の悪い酷薄さではなくて、それはそれで納得のできる一人の人間の総体としての人間性として読めるものになるのではないか、という気がしたので、敢えて引き合いに出してみました。

 酷薄な登場人物と作者のキャラクターとがまったく関係のない別物であるのと同様に、酷薄な人物をそのように描き、造形することと、その人物を描く作者の手つきなり、視点の取り方というのとは、当然別物でしょう。酷薄な人物や状況を描きながら、それを描く作者の手つきが柔らかで、視点が高く、まなざしが温かい、ということはあり得るでしょう。

 今回の作品に登場する主役でもあり語り手でもある陽子と晴美は、別段酷薄なキャラクターではないけれど、そのときどきの他者への視線に、あるいは内的な独白の中に、従来の湊作品ではおなじみの酷薄なもの、人間性の劣性を感じさせるような荒れた手触りがなくはありませんが、そんな彼女たちにそそぐ作者の目は温かで、ほっとするところがあります。私はそんなところに安堵し、いい結末だったな、と余韻を楽しむことができました。 

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2011年10月07日

「帰ってきた江戸絵画」展

帰ってきた江戸絵画

 京都文化博物館で開催中の「帰ってきた江戸絵画」展は、非常に見ごたえがあります。

 ニューオリンズ在住の元眼科医でレーザーメスによる手術のパイオニアだったギッター博士(Dr.Gitter)のプライベートコレクションだそうですが、館内の解説にはたしか1960年代に来日してからはじめたコレクションとか書いてありました。そんなに新しくはじめたコレクションなのに、光琳派を軸とする名だたる江戸の絵師たちの大作が圧倒的なボリュームで集められています。

 まずその腕力に驚いてしまいます。ビデオで解説に出てくるキュレーターでもある奥さんは、ご亭主の審美眼を絶賛していましたが、たしかに卓越した眼科医ではあっても日本の絵についてはド素人だった人のコレクションとしては凄いと思います。でもどうしてこう外国人は伊藤若冲とか酒井抱一とか、いまならイラストレーターみたいな人が好きなんだろう、とちょっと不思議、ちょっと可笑しくて、神坂雪佳がアメリカでもてはやされたという解説など読むと、そういう審美性のちがいのようなもののほうに興味が湧いてきます。

 少し縁があって以前から少しほかの画家とは違った目で見ていた溪泉については、今回は一点遊郭を描いたのが出ていましたが、見るべきものがありませんでした。

 見に行って良かった、と思ったのは、長澤蘆雪と蕪村。蘆雪はきっとみんな挙げるにちがいない「月と竹図」も良かったけれど、「鵜飼図」には惹かれました。小品ですが、鵜飼の炊くかがり火の表現が実によかった。ところが、これが絵葉書はもちろん、図録にも見当たりません。この目に焼き付けてきた以外には、あとで思い出す手がかりもなくてとても残念でした。ウェッブでひとつくらい見当たらないかと探しましたが、それもなし。がっかりです。でも逆に、ほんものを見て絵葉書や図録を買ってみると、似ても似つかぬ印象で、がっかりすることも多いので、自分の心に焼きついた作品が一番いいのかもしれません。

 蕪村は「春景山水図」が何とも言えずほっこりするような愛すべき作品でした。

イノダ本店

 今日はこの二つでご機嫌。帰りはイノダ本店に寄って、コーヒーとサンドイッチで軽いお昼。ふだんは紅茶党ですが、イノダへくるとやっぱりミルク、砂糖入りのコーヒーをとります。

 かつてはさびれた小さな店と、修学旅行生向けの旅館なんかが並んでいるだけだった三条通りも、京都文化博物館ができてから、若い人向けのおしゃれな店がたくさん周囲に張り付いて、見違えるように明るくにぎやかな通りになりました。

重要文化財ビル

 レトロな建物にわけのわからない今風のショップなんかが入っているのも面白い。こういうダサさがいまはかえって面白く感じられます。
 もちろん、若い人向けのいわゆる「おしゃれ」なカフェ、レストラン、ブティック、雑貨屋、それにブランドもののバッグでも入りそうな高級めかした箱にケーキのようにパンを入れて売る店まで、今風のツルツル、テカテカのお店はたくさん並んでいます。
 
 でも、そういうのは東京のまねごとで、もともと京都では安っぽくみえますが、今全国にそういうものがあふれている時代には、かえってちっとも「おしゃれ」でなくなってきているように思います。

 むしろいまの時代は、ツルツル、テカテカと目が滑るようなスマートさがどこにでもあふれかえっているなかで、目がひっかかる「ダサさ」が、かえって新鮮です。

焼き魚定食

 どうです?この「ダサさ」(笑)・・・寺町にはいったところで、店の前に出してあるこの広告見本をみて、しまった、イノダじゃなくて、ここでこの「焼きサバ定食」をいただくべきだった、と後悔しました。

 そのすぐ近くのお店では、マツタケが出ていました。

 マツタケ

 マツタケはこの店先での目の保養だけで、今日のわが家の夕餉のメインディッシュは、1尾150円のイキのいい秋刀魚でした!



saysei at 02:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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