2011年06月

2011年06月12日

東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』

 雑誌に連載されたときに、たまたまそのうちの一冊を手にとって、おや、この批評家は小説も書くのか、と思って読んでみました・・・いや正確に言うと、「読もうと努力した」ことがあったというべきでしょう(笑)。

 そのときは、書いてある言葉さっぱり分からず、若くして批評家として名を成した人が、いまごろになって、なんでこんなペダンチックな似非物理学的用語?を傍点付きで書かなきゃいけないようなSFなど書くんだろう?としか思わなかったのです。

 たまたま先日サッパツ屋の帰りに洛北高校前の本屋に寄ったときに、あれが一冊の本になっているのをみつけ、ぱっと中のほうを開いてみると、登場人物がふつーの小説みたいに会話をかわす部分もあるらしい(笑)ことがわかって、もういっぺん最初から読んでみようと思った次第。

 今回少し無理して読み通して、まず思ったことは、この作者はなんて欲張りなんだろう、ということでありました。

 ここにはフィリップ・ディック的な理屈っぽい本格SF?風の多重世界みたいなものもあれば、スティーブン・キング的な阿鼻叫喚の光景もあり、ドストエフスキー的な過去を背負った人物とその贖罪のような要素があり、そういった固有名への言及もあからさまです。

 「量子脳計算機科学」だの「エヴェレット=クリプキ=シェン変換」だのが分かるようなアタマのいい読者は、どこやらの小難しい批評家の文章の中で習い覚えたそういう既知の情報をみつけてニンマリしたりして喜ぶのかな。

 そのほか、メディア社会への批評っぽい言葉の切れ端もあり、今ふうの新興宗教への色目使いもあり、家族~親子夫婦~の傷つけあう関係も絆を回復しようとする願望も、多重人格もリアルとバーチャルも、なにもかもここに放り込まれている。

 これらがまた「郵便的不安」のほうの著者らしく「量子脳計算機科学的」だか何だか知らないけれど、こっちだかあっちだかよくわからないワンダーランド的ネットワーク世界に置かれて行ったり来たり(笑)。

 現役作家の村上春樹への言及も度々で、ハードボイルド・ワンダーランドじゃない、「世界の終わり」に生きる、というラストのメッセージにいたるまで、登場人物の倫理~この世界に生きる姿勢~が示されるような大事なところで登場します。

 そして、村上春樹の主人公が立ち止まり、分身の一方が別れを告げて踏み入り、他方が引き返す岐路で、そういう姿勢を拒否して、この二律背反的な構造を突き破っていくようなところがあります。

 どうやら、村上春樹の作り出した世界の構造を借りて、そいつを批評するような仕掛けになっているとみえます。

 ときにはそれが「みんな主人公の夢の中のできごとでした!」とか、「主人公の妄想のせいでした!」と「種明かし」されて、「なんだよ!」と腹を立てたり、落胆させられたりするのかと思うと、その夢や妄想の向こうにまた扉が現れ、そいつを突き破っていくとまた・・・と、次々スピード感にのって走っていきます。

 その疾走感がこの小説のエンターテインメントとしての源泉かもしれません。

 最初雑誌の一冊を手にとって投げ出したように、この種のぺダンティズムを詰め込んだ作品が、その要素を散漫に配置していたら、馬鹿馬鹿しくてとても読めないに違いありません。

 そんなのにつきあって、ああでもない、こうでもない、と「解釈」して頭の中で無数の注釈つきで読むのを楽しむような御仁は、よほど暇で小難しい言語パズルを解くのがお好きなインテリさんに限られるはずです。

 批評文の愛読者があちらで読んだキーワードをこちらで見出して喜ぶような他愛のない読み方しかできない「作品」なら、小説にはならないでしょう。

 しかし、この作品を投げ出さずに読むとすれば、その魅力はさきのスピード感にあるような気がします。あれこれの要素が巧みに配置されて、その間を予測できない動きで疾走し、幾重もの扉を次々にどんでん返し風に開いていくようなところがあります。

 う~ん、でも、この小説、うちの若い人たちは一人も読みそうにないなぁ。

 これは古典的な例でいうと、いまでは私の周囲の若い人は誰一人知らないかもしれないけれど、高橋和巳の作品のような、男性の亜インテリ向けエンターテインメントなんだろうなあ、と思いながら読みました。

 むろん観念的にせよ、あのように泥臭い世界ではなく、洗練され、バーチャル化され、作者にならっていえば「量子××化」されてはいるけれども・・・

 それにしても、東京の人はどうしてこう情報化みたいなことを、どんどん抽象化してネットのほう、ウェッブのほう、あちらの世界のほうへ行ってしまうような「汎××的」イメージでしか描けないのでしょうね。
 
 そういえば、アニメ攻殻機動隊やイノセンスもそういうのだったなぁ。肉体をなくして意識がネットワークそのものと化してしてまう。つまりあっちへ行ってしまう。

 そうなれば、人間が意識を作り出しているのか意識が人間をつくりだしているのか分からなくなるのは当然でしょうね。そしてその関係が相互的なら、どっちがリアルかバーチャルかは確定できないし、そんな問いが無意味になってしまう。

 関西弁の哲学で坂村健さんの「ユビキタス」に藤本憲一さんが京料理をもじって「ユビキドス」(湯引きどす)を対置していたのを思い出します。

 情報化の意味は「汎」による均一化で時と場所が無意味になるなんてことじゃなくて、まさにその時、その場所でなくてはならない情報の生成・発信を可能とするところにある、と。

 情報化で、むしろ時と場所の意味はますます重要になるんだ、と書いていた(勝手で乱暴な「引用」ですから、きっと間違いだらけでしょうが・・・笑)のを思い出した次第です。

 私も東浩紀さんのこの「ユビキタス小説」を読んで、それよりもやっぱり「ユビキドス小説」を読みたい、と思いました。

saysei at 00:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年06月11日

東野圭吾『真夏の方程式』

 ふだん推理小説を読む習慣のない私にとっての例外は東野圭吾の作品。

 推理小説としてよく考えられていて面白い、ということはもちろんあるけれど、それだけなら私の場合は読まない。

 でも東野圭吾の作品は、それだけではなくて、読みやすくて、作者の登場人物に対する眼差しが温かいのが何より好きだ。それは作者の人間に対する温かい眼差しといってもいい。

 犯罪にはつねに背景があり、人を追い詰めていく状況があり、追い詰められていく人間の思いがある。そのことに読者が自然に気づき、想像力をかきたてられ、深く感じ入るように、物語はあくまでも人間の心と行動に寄り添って具体的に展開される。

 人間は嘘をつく、というところまでは、どんな推理小説でも語っている。けれども、その嘘の裏に、幾重にも重い真実が張り付いている、ということを、理屈ではなく読者に心に響くように納得させる手腕と想像力の射程は、エンターテインメントとしての推理小説の域を超える。

 しかも、その語り口のうまさは抜群だ。ここには小難しい理屈もぺダンチックな知識のてんこ盛りも無い。これは推理小説なんだから少々文体があらっぽくたっていいんだ、というような甘えとは無縁だ。

 ほんとうに自然言語、という感じの、読みやすい明晰な日常語によって、実に生き生きと豊かにストーリーが語られていく。

 今回は湯川博士と内海薫との絡みの場面はほとんどなくて、その面白さは味わえないけれど、並行して展開される内海ー草薙らの東京での捜査と、現地での湯川の周辺の動きの描写とが、非常に巧みに呼応してクライマックスへ向かっていく構成はたっぷり楽しませてくれる。

 冒頭から置かれている少年の視点も、全編にわたって、とてもよく効いている。

 これまでの東野作品の中でも、私が最も好きな部類の作品として、若い人たちにもおすすめ。
 
 

saysei at 23:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2011年06月06日

窪 美澄 『ふがいない僕は空を見た』

 肺炎になってから、回復が遅々たるありさまだったこともあり、車中でも採点したりレポートを読まなければおっつかない日がつづいて、小説から遠ざかっていたので、久しぶりに手にとった。

 本屋の店員さんたちが投票して決めるらしい本屋大賞で2位だとかの触れ込みだったので(1位の人のは別の本を読んでいたので)、どんなのかな、と思って読み出した。

 はじめのうちは、これはちょっとミスチョイスだったかな、と思った。それに、隣や前にほかの乗客がいてこの本を開いていると、前に読んだ人がみて、あぁ、あれを読んでるな、と思われるといやだな、と人目を気にしながら(笑)読んでいた。

 セックス描写もいろいろあるけれど、文学的に昇華されていないと、人前で読むのはしんどい。エンターテインメントの一種と割り切ればいいのだろうけれど、それは車窓を通してさんさんと降り注ぐ陽光がまぶしい車中で読むにはどう考えてもふさわしくない。

 けれどもたまたま鞄に1冊しか入れてこなかったので、おしまいまで読むことにした。

 これは長編としての結構をもっているように見えない、短編の輪をつないだような作品なのだけれど、どんどん雰囲気が変わってきて、終わりのほうはなんというか非常に密度の濃い、上質の短編が読めたような印象を覚えた。

 とりわけ最後の「花粉・受粉」が秀逸で、これがなければ正直、とりあげようとも思わなかったけれど、ここへきて、ミスチョイスだったかも、という危惧は完全に消えてしまった。

 世間的に言えばもう「負け組」もいいところで、息子もひどいことになっているひとりの母親で、助産婦として懸命に生きる泥まみれというか血まみれというか、そういいう女性の姿が、ここへきて深い輝きをみせる。

 同時に息子の卓也も、とてもいい感じになってくる。脇役の「みっちゃん」が抜群にいい。リウ先生もとっても味がある。この産院で赤ん坊を産む母親までがいい。

 はじめとあとの印象がこれほど違う作品は珍しいのではないか。

saysei at 22:19|PermalinkComments(1)TrackBack(0)
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