2011年04月
2011年04月07日
津島佑子『黄金の夢の歌』
読み始めると面白くて、あっという間に読んでしまった。昨今の日本文学では珍しい悠然たる語り口で、それがここに描かれるキルギスの雄大な牧地の風景とよく合っていて、しばらく現実を忘れてこちらも無知な旅人としてキルギスを旅しているような気分でいられる。
そのたびは空間的に雄大であるばかりか、優に2000年ばかりの時をさかのぼり、神話の世界を飛翔し、ときに神話的人物の内部に入り込んで語りだす、まことに融通無碍な語り口で、読者も風になってキルギスの大地を、地上から天上へまた現在からはるか歴史の彼方へ、神話時代へと軽々と飛翔するかのような不思議な気分にさせてくれる。
これは日本にいるキルギスの留学生をはじめ、何人かの旅の道連れたちと実際に日本人にはなじみの薄い、でも高校の世界史のテキストで何行ずつか触れられた西域史に登場して、どこか聞き覚えのある名の土地を、その記憶をたどるようにして旅している、旅行記とも旅のエッセイといってもいい仕掛けのもとに書かれている作品なのだけれど、そういう土地を旅して、通訳を通して知る土地の名、ものの名、英雄たちの名等々に想像力を刺激されて神話的世界にまで広がる夢を際限もなく繰り広げていくといった趣がある。
触発するモノや言葉が、土地の名であったり、りんごや羊や狼であったり黄金であったり、塔であったり、アレクサンダー大王であったり、この地方に触れた古典的な書物の断片的な一節であったり、色々であるけれども、それらに言葉が当たって虹色の光を放つように、「わたし」のあるいは「あなた」の思いが自在に広がっていく。
その自由に浮遊し、浮揚する輝く塵のような言葉の放射が、神話的英雄たちの夢にまで届き、ほとんどその夢を共有するかのように響き合い、かさっていく。作中繰り返し聞こえてくる、トット、トット、タン、トという響きがそうして読者にも聞こえてくる。
他方で、リアルな描写の部分では、旅の道連れたちのちょっとした振る舞いや言葉の調子に、またこちらに関心をもちながら決して近寄ろうとしない子供たちがノウサギのように隠れては寄ってくる描写など、さりげないところに作家の巧みな表現が楽しめる。
描かれた土地や遊牧民の歴史については、こちら無教養なので、ここに登場する各地の部族や国の興亡についても、歴史の場面についても、そういえば半世紀ばかり前に、そんな地名を聞いたことがあったなぁ、とかすかな記憶に残るばかりで、ほとんどなにも実態のある知識を持ち合わせていないけれど、読み終えるとそのとてつもなく広大な土地を悠然と空飛ぶ鳥のように旅し、時間的にもはるかな過去へさかのぼって旅したような大らかな気分になっている。
津島佑子の作品を読むのはほんとうに久しぶりで、以前に手にした作品には同じ作者の分身ではあっても、日本の日常的な現実の泥沼に自意識を備えた自立志向の知的な女性が足をとられながら懸命に抗うように生きている、男性としては幾分息の詰まるようなリアリズム系列の作品であったような印象が残っていて、どちらかといえば敬遠していたい気分だった。
今回の作品はそんなかつての印象や先入観を払拭してくれるような、さわやかで温かみの感じられる幻想的な広がりのある作品世界を楽しませてくれた。
2011年04月04日
ムラーリ・K・タルリ 「明日、君がいない」
監督が19歳という若さで、カンヌ映画祭で、DVDに収録された特典ビデオに見るように上映直後に長時間のstanding ovationを受けた作品。
ずいぶん以前に新聞の映画評で見ていたのに長いあいだ見る機会がなかったのを今回DVDで見ることができた。
アメリカの高校で起きた乱射事件をクールに描いたガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」のタッチに似た作品だと思った。監督のインタビューで、ガス・ヴァン・サントが絶賛の電話をかけてきた、というようなことを言っていたが、共鳴するところがあるのだろう。
「エレファント」と違って、ここでは銃の乱射も「if」のような反乱も起きないけれど、そういった爆発が起こるまでに蓄積され極度に内圧の高い状況が淡々と描かれている。
オーストラリアのハイスクールが舞台で、登場するのは性にあけっぴろげないかにも欧米風の若者たちで、一昔、二昔前なら、学園物のラブロマンスでも描けそうな舞台装置なのだけれど、この作品では登場人物の誰一人とっても薄い皮膜ひとつめくれば、血が噴出さない者はいないほど、重荷を背負い、深く傷つき、また傷つけあい、孤独で、追い詰められている。
そこにはもう「if」のような連帯して「反乱」にいたるような共同性はどこにも見当たらないし、「エレファント」のように外向きに噴出するほどのエネルギーも欠けていて、それでも若さゆえに辛うじて残っている一人一人のエネルギーは、ひたすら自傷的に、自分の崩壊へと内向きに作用するほかないようだ。
一日の時間の描き方、カラーで展開されるメインストーリーにさしはさまれるモノクロのインタビューに答えるスタイルでの登場人物たちの独白から成る構成がとても効果的だし、映像は美しい。アップを多用した表情の演技も、追い詰められていく若者たちの内的な風景をよく映し出している。
ポール・ニザンの「ぼくは二十歳だった、それが人生で一番美しい年齢などとは誰にも言わせない。」という言葉を思い出す。かつてはその言葉を逆説的に矛盾に満ちた青春を表現するかのように受け止めたこともあったけれど、この作品に描かれるような「青春」をもつこの時代は、もう誰もそんな誤読さえする余地がなくなってしまった。
ヘンリー・ハサウェイ「勇気ある追跡(True Grit)」 1969
ヘンリー・ハサウェイ監督でジョン・ウェインが ルースターを演じた旧作。
原題はいま評判のリメイク版と同じ「True Grit」だが、こちらは日本で公開されたとき、邦題が「勇気ある追跡」となっている。
やはりジョン・ウェインを使った男っぽい映画「アラスカ魂」や、GREENSLEEVES の主題歌が印象的な「西部開拓史」や、マックィーンの「ネバダ・スミス」のヘンリー・ハサウェイが、年取って太ったジョン・ウェインをヒーローに使ったジョン・ウェインのためのB級西部劇。ジョン・ウェインは、もう馬にまたがるのも、よいしょっ、という感じだし、重そうで馬が可哀相だ。
ストーリーは父を殺された娘が仇討ちをするのを酒飲みで片目の図体の大きな西部の荒くれだが心優しい老いの入り口にある連邦保安官と若い「男前」のテキサスレンジャーというキャラの異なる二人の男が張り合いながら援ける、というもので、予想どおり娘が決定的な局面で足手まといになるが、一旦敵の指示どおり去るかにみえた二人が戻ってきて悪漢をやっつける、という典型的に月並みなB級西部劇。ジョン・ウェインのルースター・コグバーンと張り合うレンジャー、ラ・ビーフ役のグレン・キャンベルは作品の中では二枚目と言われているけれど、どうみてもそうは見えないし、ヒロインも個性的ではあっても美女というわけにはいかない。落ち目のスター俳優だけが看板のB級西部劇の条件を満たしている。
少し変わったところは、最後にヒロインがガラガラヘビの穴に落ちて咬まれ、危ないところを二人の男が助けるが、ラ・ビーフのほうは死んでしまい、ルースターは馬を乗りつぶして少女を助ける、というラストの展開だろうか。
配役でちょっと良かったのは、敵の親玉であるネッド・ペッパーを演じたロバート・デュバルか。根っからの悪漢には見えず、時代の成り行きでそうやく役回りになってしまった、という人間的なところが感じられて良かった。この人は渋い脇役として色んな映画でお馴染みのベテランだ。
李相日「悪人」〈映画)
原作者が監督の李と共に脚本を書いて映画化した作品。原作も良かったが、映画も負けず劣らず良かった。
脚本に無駄がなくて、あの長編を実にうまく映像化している。原作で丁寧に細部が描かれる一人一人の日常とその中での思いが、芸達者な俳優の演技で伝わってくる。出演者はどれもそれぞれの役柄をみごとに演じている。深津絵里は乾いた心に水が染み入るように男を受け入れていく女をほんとうにみごとに演じているし、妻夫木聡も不幸な家庭環境の中で祖母に育てられてきた朴訥で無口な青年というあまり似合いそうにもないキャラクターをよく演じていたし(この配役は意外だった)、柄本明、樹木希林らのベテランが脇をしっかり固めて存在感を示し、いま勢いのある満島ひかりや岡田将生が期待どおりだった。
原作を映画の前に読んだのだが、映画のチラシをちらっと見てしまったために、どう振り払おうとしても、読んでいて光代に深津絵里の顔がぴったり重なって、それ以外に考えられなくなってしまった。見たときはストーリーも知らなかったのだけれど、最初から光代を演じるのは深津絵里以外にないと思い込んで読んでいたし、実際にそのとおり、この人にしかできないような表情の演技が見られた。
原作で私が気に入っていた「・・・でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」というセリフはなかったけれども、ラストに至る運びの中で十分それは伝わってきた。ラストの光代と二人のシーンでみせる祐一の明るいアップの表情は印象的だった。総じてカメラが良かった。烏賊の目玉から入っていく映像はぞくっとした。
吉田修一『悪人』
2006年の3月から翌年1月まで朝日新聞に連載され、2007年の4月に単行本で出た作品で、420ページの分厚い単行本を買ったものの、小説は原則として通勤車中でしか読まないことにしていたので、どうしても分厚くて重いこの種の力作は文庫本のある古典でもないとなかなかカバンに入れていく気にならなくて、4年ほど「ツンドク」(積読)ということになっていた。
「ハル」以来、演技がうまくて好きな女優さんの一人である深津絵里が演じて映画化され、評判も良かったけれど、これも見逃して、今回DVDが出たので、先に原作を読んでおこうと思って、分厚くて重いのは我慢してカバンに入れた。
読み始めると、読みやすくて面白いので、重さを苦にする間もなく、一気に読んでしまった。純文学にしてエンターテインメント、といったところか。物語が一人の語りによって客観描写されるのでなく、順繰りに複数の登場人物の視点に寄り添って語られるために、何が起きたのかが当初はなかなか掴みにくい。各登場人物の日常に、語り手の視点が登場人物の視点とからみあって踏み込んでいくところで、一人一人の人物の日常性とそれを生きる人物像がリアリティをもって浮かび上がってくるけれども、その男がほんとうに殺したのかどうか、実際には何があったのか、彼はどうしようとしているのか、この作品の軸になるストーリーがなかなかクリアにならない。
そこに一種の推理小説的なサスペンス(文字通り読者が宙吊り状態にされる)が生じていて、先へ先へ読み進むことになる。ただ、その推理小説的ストーリーの軸だけみれば、終わってみればごく単純な、平凡といっていいような出来事の顛末であって、それを語ってもこの作品を語ることにはなりそうにもない。その意味ではこの作品は平凡なエンターテインメントにすぎない。
むしろ、そのような世の中にごくありふれた事件をなぞるようなストーリー(つまりは状況)の中にはめこまれた祐一、光代、増尾が、さらには殺された佳乃の父親である佳男や妻里子、さらには祖母房枝が、あるいは佳乃の友達沙里や眞子が、互いのやり取りの中でどんなことを思い、どう振舞うか、その一つ一つの細部に、平凡なようでいて平凡でないものがある。読者が読みながら、従ってまた作者が書きながら発見していく人間の心理の動きや思いもよらない振る舞いがある。そこのところがエンターテインメントに終わらないこの作品の価値を決めている。
佳乃はなぜ殺されなければならなかったのか。祐一はなぜ殺さなければならなかったのか。平凡なOLにすぎない光代はなぜ殺人者とわかってからも祐一と行動を共にするのか。娘を殺された佳男はなぜ、手は下さずとも実質的には娘を殺したも同然の増尾を追い詰めながら決定的な瞬間に凶器となるはずのスパナを捨てて立ち去るのか。そして何よりも、祐一はなぜ最後にこの作品のような振る舞いに及び、虚偽の証言をするのか。この作品を書いている作者にも、最初から登場人物たちのこういうものの考え方や振舞い方が分かってはいなかったのではないか。書いていくうちに彼らはそれぞれの振舞い方を見出して、結果的にこのように振舞ったのだ、と思える。そこに作者の発見があり、私たち読者を引き寄せ、先へ先へ読み進ませる力の源があるようだ。
この作品の登場人物の中で、そういう発見の乏しい、一番平凡な人物は増尾ではないかと思う。彼は、いまでは私たちの中にいくらでも見られる、こういう基本的に弱い人間、ええかっこしいのこずるい人間の一人で、ある種の典型的な人物像で、先日新聞をみていたら、読者の感想で一番嫌いな人物像の上のほうにきていて、増尾こそがタイトルの「悪人」だというようなことが書いてあった。それはたしかにそうかもしれないが、逆にこういう人物ならそこらじゅうにあふれていて、つまりは私たちの住む世界ではごく平凡な人物ということも言える。そして、考えてみると先程挙げたような主要人物を除く人々というのは、多かれ少なかれそういうごくありふれた世間の人々にほかならないことに気付く。
佳男が怒りをぶつけようとした増尾やその仲間たちも、殺された佳乃を含む仲良し三人組で眞子だけがある種の違和感をおぼえていた佳乃や沙里も、また孫の佳乃が出会い系サイトを通じてふしだらなことをしていたという世間の目に対して、あるいは悪質商法で脅しをかけてくる男たちに対して、腹をくくって立ち向かおうとする祖母房枝の戦おうとしている相手も、みな考えてみればいま私たちのまわりにいくらでも居るようなありふれた連中だ。逆にこれら多数の人物たちがギリシャ劇のコーラスのように背後にあって、その中でさきの主要登場人物たちだけが異分子としてくっきり浮かび上がってくる。
終わってみると、これら事件に関わりを持ち、ありえないような体験をする特異な登場人物たちこそが、リアリティをもった人間らしい人間としての像を結び、その背後に海のように広範に存在する、彼らを忌避し、排除し、惧れ、遠ざけようとしている、私たちの中にいくらでもあるごく普通の人々のほうが、得たいの知れない「悪人」に見えてくる。それは増尾だけではない。
「・・・でもさ、どっちも被害者にはなれんたい」とつぶやく祐一の姿は、昔々見た映画「汚れた顔の天使」のジェームズ・キャグニーに重なって見えた。