2011年03月
2011年03月10日
湊かなえ『花の鎖』
人気作家の最新作。職場にちょっとした縁があり、学生たちの間に憧れもあって、部屋に置いておくと誰彼となくもって行って読んでいるようなので、新刊が出れば必ず買って読んでいる。
ただ、もともと推理小説好きという読者ではないので、少し辛いところがある。日本語として読みにくい文体ではないし、話の中身は糸がほぐれてみれば単純なので、わかりにくい小説ではないけれど、作者の書き方のせいでずいぶん読みにくかった。
各章ごとに、3人の異なる語り手の視点で語られる。こういう手法では時間的には同じ時間帯を生きている異なる登場人物それぞれの視点で一つの事件が内在的に語られて、それらが全体として一つの客観的な事件の様相を浮き上がらせるとか、異なる視点で描かれてきた経緯の糸が一つに結びついて全貌があきらかになる、といったスタイルが一般的だろう。
はじめ視点がかわるのを、そんなふうに読んでいくと、何が起きているのかがわからなくて、多少イライラする。
この3人の生きている時間帯~世代~がまったく異なるところから来ているということが分かるのは、だいぶあとのことだ。
これも推理小説の一種だろうから、ネタバレになるようなことは書かないようにしたいけれど、この書き方は形式的技法としては整然としてよく計算されたものだと思うけれど、読者が作品を読んでいく内的な体験としては、自然にその設定が頭に入ってこない。どこかひどく人工的で無理をしているようで、あまり心地よいものではない。
自然な時間をたどるように「現在」の物語が進行し、その登場人物の記憶に、或いは語り手が振り返る先に、過去が、また大過去が見えてくる、というふうであってなぜいけないのかな、そのほうがずっと自然に心にしみる書き方ができるのにな、と思わないでもない。
もしそんな「自然な」プロットで構成されていたら、この物語は登場人物たちのあいだの葛藤やそれぞれの喜怒哀楽にもっと深い錘を下ろすことができたはずだと思えるような中身を持っているのだけれど、そちらへ向かうべきエネルギーが、形式的なプロットの構成のほうに費やされているような気がしてならない。
とくに殺人事件が起きるわけでもなく、通常の犯罪と言えるようなものが起きるわけでもないので、必ずしも作者はこれを推理小説として書く必要はなかったのではないか、というふうにも言えば言えそうだ。
それでも、ストーリー展開のところどころを伏字にして作者や登場人物の一部には分かっている情報を読者と或る語り手に対しては伏せ、次第にそれを明かして最後に一切を明らかにすれば、一篇の「推理小説」ができあがるのだろうか?
これは、私の、この作者に対する、というよりは、「推理小説」というもの一般に対する疑問、というか一種の不信のようなものなのかもしれない。作者は全知全能で、ゴールをちゃんと知っている。でも、そこに至る道筋をスリリングにするために、ところどころで読者を、登場人物を迷わせる迷路を設け、与えられるべき情報を伏せ、読者をサスペンス状態に置く。そういうものが「推理小説」なのか?
そして、そんな仕掛けの多彩さを、新工夫を競うのが、「推理小説」としての価値評価なのだろうか?これが推理小説音痴の私の疑問。
ただ、この作者の面白いところは、そういう形式的な仕掛けにエネルギーを注ぎながら、きっとそういうことよりも、人と人とがかかわりあうときの人間性の酷薄さのようなものに引き寄せられるところがあるのだろうな、と思える点だ。
それはデビュー作「告白」以来変わらない持ち味のようで、この作品でも、陽介の和弥への感情、美雪の陽介への感情、紗月の希美子への感情等々、いたるところに、あの人間性の暗がりが垣間見え、酷薄な負の感情が見え隠れしている。
いや、そんな負の感情は誰もが持ち合わせているものだろうけれど、そのことに何か意味があるかのようにアクセントを感じさせ、露出させるところが、この作者固有の問題だという気がする。
ただ、もともと推理小説好きという読者ではないので、少し辛いところがある。日本語として読みにくい文体ではないし、話の中身は糸がほぐれてみれば単純なので、わかりにくい小説ではないけれど、作者の書き方のせいでずいぶん読みにくかった。
各章ごとに、3人の異なる語り手の視点で語られる。こういう手法では時間的には同じ時間帯を生きている異なる登場人物それぞれの視点で一つの事件が内在的に語られて、それらが全体として一つの客観的な事件の様相を浮き上がらせるとか、異なる視点で描かれてきた経緯の糸が一つに結びついて全貌があきらかになる、といったスタイルが一般的だろう。
はじめ視点がかわるのを、そんなふうに読んでいくと、何が起きているのかがわからなくて、多少イライラする。
この3人の生きている時間帯~世代~がまったく異なるところから来ているということが分かるのは、だいぶあとのことだ。
これも推理小説の一種だろうから、ネタバレになるようなことは書かないようにしたいけれど、この書き方は形式的技法としては整然としてよく計算されたものだと思うけれど、読者が作品を読んでいく内的な体験としては、自然にその設定が頭に入ってこない。どこかひどく人工的で無理をしているようで、あまり心地よいものではない。
自然な時間をたどるように「現在」の物語が進行し、その登場人物の記憶に、或いは語り手が振り返る先に、過去が、また大過去が見えてくる、というふうであってなぜいけないのかな、そのほうがずっと自然に心にしみる書き方ができるのにな、と思わないでもない。
もしそんな「自然な」プロットで構成されていたら、この物語は登場人物たちのあいだの葛藤やそれぞれの喜怒哀楽にもっと深い錘を下ろすことができたはずだと思えるような中身を持っているのだけれど、そちらへ向かうべきエネルギーが、形式的なプロットの構成のほうに費やされているような気がしてならない。
とくに殺人事件が起きるわけでもなく、通常の犯罪と言えるようなものが起きるわけでもないので、必ずしも作者はこれを推理小説として書く必要はなかったのではないか、というふうにも言えば言えそうだ。
それでも、ストーリー展開のところどころを伏字にして作者や登場人物の一部には分かっている情報を読者と或る語り手に対しては伏せ、次第にそれを明かして最後に一切を明らかにすれば、一篇の「推理小説」ができあがるのだろうか?
これは、私の、この作者に対する、というよりは、「推理小説」というもの一般に対する疑問、というか一種の不信のようなものなのかもしれない。作者は全知全能で、ゴールをちゃんと知っている。でも、そこに至る道筋をスリリングにするために、ところどころで読者を、登場人物を迷わせる迷路を設け、与えられるべき情報を伏せ、読者をサスペンス状態に置く。そういうものが「推理小説」なのか?
そして、そんな仕掛けの多彩さを、新工夫を競うのが、「推理小説」としての価値評価なのだろうか?これが推理小説音痴の私の疑問。
ただ、この作者の面白いところは、そういう形式的な仕掛けにエネルギーを注ぎながら、きっとそういうことよりも、人と人とがかかわりあうときの人間性の酷薄さのようなものに引き寄せられるところがあるのだろうな、と思える点だ。
それはデビュー作「告白」以来変わらない持ち味のようで、この作品でも、陽介の和弥への感情、美雪の陽介への感情、紗月の希美子への感情等々、いたるところに、あの人間性の暗がりが垣間見え、酷薄な負の感情が見え隠れしている。
いや、そんな負の感情は誰もが持ち合わせているものだろうけれど、そのことに何か意味があるかのようにアクセントを感じさせ、露出させるところが、この作者固有の問題だという気がする。
2011年03月09日
D.カークパトリック『フェイスブック』
いま本屋に山積みされている本の一つ、『フェイスブック』を読んでみた。500ページほどの大冊だけれど、面白くて一気に読めた。
その一因は、あきらかに主人公である「フェイスブック」の創設者にして、当初から今にいたるまで絶対的な権力を掌握してきた、マーク・ザッカーバーグの、これはシンデレラ・ボーイとしての出世物語として面白さにある。
ハーバード大学の寮のどこにでもいそうなやんちゃな学生たちの間で生まれた、ごく内輪の、つまり大学ローカルな、いかにも学生が思いついて作りそうなつまらないソフトウェアから出発して、それが学生たちのニーズにフィットし、たちまち学内を制覇すると、他の大学をも次々に侵蝕して、やがて学生という範疇を超えて一般へ、ビジネス利用へと広がって世界中で5億人もの利用者を獲得していく、彼ら自身の予想をも超える激烈な成長の過程が、その中心にいるザッカーバーグと、当初から彼のパートナーで、その後様々な運命をたどる創立メンバーや、後に加わって重要な役割を果たす人物、さらにはこの成長企業をまるごと買い取ろうと接触を試みる既成の大企業の大物経営者たちなどとの人間ドラマとして、生き生きと描き出されている。
きっと、『昔話の形態学』のウラジーミル・プロップが抽出してみせた古今東西の物語を構成する要素などと照合してみたら、現代のオトギバナシとして典型的な要素を持っているに違いない。いまの世の中にもこういうことがあるんだな、と思わせるほど、それは現実離れした、オトギバナシの世界のできごとのような典型的な成功譚であり、出世物語だ。
このオトギバナシの面白さの核心には、ザッカーバーグの人柄がある。そこに描かれている彼はほとんどビジネスマンではなくて、この世にあるかどうかもわからない宝ものを必ずあると信じ、その至宝を求めて放浪の旅に出る理想家膚の探検家のようなものだ。
彼は、繰り返し襲い掛かる苦難に立ち向かいながら、同志たちとともに戦い、ときに動揺する同志たちに対して断固として当初の志を貫く、動かない定点の役割を果たし、北極星のように同志たちを導いて、ついに宝物を見つけ出すに至る、ドラゴン・クエストのようなゲームの世界の主人公といったほうがいい。
けれども、これはフィクションではなくて、現実に起きたことなのだ。だから、この本の面白さのもう一つの側面は、言うまでもなく、彼が巻き込まれる(あるいは自ら引き起こす)一つ一つの波乱の中で、彼がどんな現実的困難に直面し、それをどんな姿勢、どんな具体的な処方によって、道を切り開いて行ったか、というビジネス上の判断の的確さ、その時々の状況と、それが強いる岐路と、そこで彼や彼のパートナーたちが採ろうとする選択肢、等々が、一種の優れたビジネス戦記として、たぶんビジネスに関心のあるすべての読者にとって同時代的な経営学のケーススタディ的なテキストとして読まれる可能性にあるだろう。
この両方がうまく組み合わされて、稀に見る面白い読み物になっている。
私にはヤフーが150億ドル(1兆5千億円)の値をつけた企業の絶対権力を持つザッカーバーグの、学生時代から一貫した超理想主義的なキャラクターがとても興味深かった。彼は利益よりも利用者の伸びに関心があり、それはフェイスブックが世界的な企業となっても変わらず、企業としてはシェリル・サンドバーグが来てから広告を軸とした収益構造を確立したとはいえ、サンドバーグ自身は終始、広告への関心が希薄だった、というのが面白い。
どうやら彼は本気で、事実にもとづく情報の開放性、透明性を保障することが人々の平和、社会の改善への道だと信じているらしい。フェイスブックにおける数々の躓きも、彼のこの理想主義的な思いが先走った結果と思われる点がいくつも見出される。
最初、フェイスブックはハーバード大学の学生間で、自分が履修しようと思う講義をどの学生が受けているかを知りたい、という学生の欲求や、こうしたメディアの発展の裏の世界での推進力としてしばしば言及されるセクシャルな動機付け(セックスパートナーを見つける手段としての「ボーク」)などによって受ける。そうした欲求は、実名主義と写真の投稿によってこのシステムの用意する世界で解き放たれ、フェイスブックは爆発的に普及していく。
すでにこの初期の段階から、私(たち)は首をかしげたくなる。フェイスブックに実名で写真を投稿する学生たちは、そうした個人情報を公開することに不安はなかったのだろうか、と。むろん、ハーバード大学というエリート校内部の閉鎖的なシステムとして用いられ、しかも利用者が個々に公開相手を限定する設定は可能だ、としてもだ。
実際、後に「ニュースフィールド」の機能を付け加えて、友人たちに自分のプライベートな行動の一部始終が伝えられるようになったとき、ユーザーたちからかなり大きな反発が起きる。これはその後も様々な機能が付け加わるたびに繰り返されるプライバシーとフェイスブックのシステムの原理との基本的な矛盾が露呈したものだと思う。
ザッカーバーグ自身は前述のような理想主義的な「情報透明」の世界を思い描いているために、まだ世界のユーザーのほうがそうした事態になれていないだけで、当面は情報公開を個々に制御し得る歯止め措置を講じることによって、長期的には正面突破できる、と考えているようだ。
その点は読んでいてかなり大きな疑問として残った。私自身はフェイスブックを使っていないし、いまのシステムがどこまでそうした歯止め措置が整備されているか詳しくはないから評価できない。ただ、この本で少しずつ紹介されている個人情報の不本意な流出によるトラブルの事例を垣間見るだけでも、それは少数例として看過できない深刻な問題であるように思われる。
むろん5億人による天文学的数字になるだろう情報のやり取りの中で、そうした問題は統計的比率としては無視しえるほど僅かな生起確率であるのかもしれないが、そうした「事故」に遭遇するユーザーにとっては致命的な深手を負うようなものである可能性が小さくないと思われるからだ。
フェイスブックを解説した別の本によれば、日本でもフェイスブックというシステムの性格について論議があったようだ。発祥地の米国では、フェイスブックは親しい友人の範囲の間での情報共有に使われていて、それは他のSNSとは異質だ、という意見に対して、それは事実認識として誤っていると反駁している人もあるようだ。
カークパトリックのこの本を読む限りでは、当初は大学内の親しい友人間での情報共有という性格が強かったかもしれないが、様々な機能拡張を繰り返し、ユーザーを爆発的に広げていく過程で、そのつど情報公開の範囲を制御する機能を付加してはいるけれども、決してそれはもはや「親しい友人の間での情報共有に限定した使い方がされている」とは言い得ないし、システムとしてもそういう使い方が保障されていない、つまり個人情報の遺漏、プライバシー侵害という問題は、いまもフェイスブックにつきまとうカインの額の烙印のようなものである可能性が高い、と感じざるを得ない。
日本でもここ半年くらいの間にバタバタとフェイスブックの概説書のようなものが何冊も出版され、フェイスブックの成長する過程を描いたすぐれた映画も公開されて、急激に注目を集めるようになってきた。
こうしたことに反応の早い学生たちに訊いてみると、すでにユーザーとして利用しているらしい。けれども、使い方としてはやはりかなり慎重で、見知らぬ人から友人登録の許諾を求められても、原則として拒絶する姿勢をとっているようなので、彼らの間でユーザーが指数関数的に増加していく兆候はいまのところはみられない。
ただ、しばらく海外にいたOGなどは平気で見知らぬ人からの要請を受け入れているために、短期間で数百人の友人登録が入っているとのことで、両者の使い方はずいぶん違ったものになるだろう。
今後日本でどれだけ普及し、どんな使い方がされていくのか、興味深いところではあるけれども、こういうシステムというのは、ツイッターにしてもそうだけれど、自分が使ってみないと、ほんとうのところ内在的な評価ができない。
使う上で、ほかの人に迷惑がかかるようなリスクがあるなら、それぞれの立場上、利用は避けたほうがいい、というようなこともあるのではないか。新しいメディアに関心はあっても、そのへんは私自身にとっても考えどころで、とりあえずは古いメディアで、古めかしい遣り方で独り言をつぶやいている程度にとどめておくのが無難かも、などど考えています。
いずれにせよ、なかなか刺激的な本でした。メディアに関心のある方はぜひ読まれるといいでしょう。
その一因は、あきらかに主人公である「フェイスブック」の創設者にして、当初から今にいたるまで絶対的な権力を掌握してきた、マーク・ザッカーバーグの、これはシンデレラ・ボーイとしての出世物語として面白さにある。
ハーバード大学の寮のどこにでもいそうなやんちゃな学生たちの間で生まれた、ごく内輪の、つまり大学ローカルな、いかにも学生が思いついて作りそうなつまらないソフトウェアから出発して、それが学生たちのニーズにフィットし、たちまち学内を制覇すると、他の大学をも次々に侵蝕して、やがて学生という範疇を超えて一般へ、ビジネス利用へと広がって世界中で5億人もの利用者を獲得していく、彼ら自身の予想をも超える激烈な成長の過程が、その中心にいるザッカーバーグと、当初から彼のパートナーで、その後様々な運命をたどる創立メンバーや、後に加わって重要な役割を果たす人物、さらにはこの成長企業をまるごと買い取ろうと接触を試みる既成の大企業の大物経営者たちなどとの人間ドラマとして、生き生きと描き出されている。
きっと、『昔話の形態学』のウラジーミル・プロップが抽出してみせた古今東西の物語を構成する要素などと照合してみたら、現代のオトギバナシとして典型的な要素を持っているに違いない。いまの世の中にもこういうことがあるんだな、と思わせるほど、それは現実離れした、オトギバナシの世界のできごとのような典型的な成功譚であり、出世物語だ。
このオトギバナシの面白さの核心には、ザッカーバーグの人柄がある。そこに描かれている彼はほとんどビジネスマンではなくて、この世にあるかどうかもわからない宝ものを必ずあると信じ、その至宝を求めて放浪の旅に出る理想家膚の探検家のようなものだ。
彼は、繰り返し襲い掛かる苦難に立ち向かいながら、同志たちとともに戦い、ときに動揺する同志たちに対して断固として当初の志を貫く、動かない定点の役割を果たし、北極星のように同志たちを導いて、ついに宝物を見つけ出すに至る、ドラゴン・クエストのようなゲームの世界の主人公といったほうがいい。
けれども、これはフィクションではなくて、現実に起きたことなのだ。だから、この本の面白さのもう一つの側面は、言うまでもなく、彼が巻き込まれる(あるいは自ら引き起こす)一つ一つの波乱の中で、彼がどんな現実的困難に直面し、それをどんな姿勢、どんな具体的な処方によって、道を切り開いて行ったか、というビジネス上の判断の的確さ、その時々の状況と、それが強いる岐路と、そこで彼や彼のパートナーたちが採ろうとする選択肢、等々が、一種の優れたビジネス戦記として、たぶんビジネスに関心のあるすべての読者にとって同時代的な経営学のケーススタディ的なテキストとして読まれる可能性にあるだろう。
この両方がうまく組み合わされて、稀に見る面白い読み物になっている。
私にはヤフーが150億ドル(1兆5千億円)の値をつけた企業の絶対権力を持つザッカーバーグの、学生時代から一貫した超理想主義的なキャラクターがとても興味深かった。彼は利益よりも利用者の伸びに関心があり、それはフェイスブックが世界的な企業となっても変わらず、企業としてはシェリル・サンドバーグが来てから広告を軸とした収益構造を確立したとはいえ、サンドバーグ自身は終始、広告への関心が希薄だった、というのが面白い。
どうやら彼は本気で、事実にもとづく情報の開放性、透明性を保障することが人々の平和、社会の改善への道だと信じているらしい。フェイスブックにおける数々の躓きも、彼のこの理想主義的な思いが先走った結果と思われる点がいくつも見出される。
最初、フェイスブックはハーバード大学の学生間で、自分が履修しようと思う講義をどの学生が受けているかを知りたい、という学生の欲求や、こうしたメディアの発展の裏の世界での推進力としてしばしば言及されるセクシャルな動機付け(セックスパートナーを見つける手段としての「ボーク」)などによって受ける。そうした欲求は、実名主義と写真の投稿によってこのシステムの用意する世界で解き放たれ、フェイスブックは爆発的に普及していく。
すでにこの初期の段階から、私(たち)は首をかしげたくなる。フェイスブックに実名で写真を投稿する学生たちは、そうした個人情報を公開することに不安はなかったのだろうか、と。むろん、ハーバード大学というエリート校内部の閉鎖的なシステムとして用いられ、しかも利用者が個々に公開相手を限定する設定は可能だ、としてもだ。
実際、後に「ニュースフィールド」の機能を付け加えて、友人たちに自分のプライベートな行動の一部始終が伝えられるようになったとき、ユーザーたちからかなり大きな反発が起きる。これはその後も様々な機能が付け加わるたびに繰り返されるプライバシーとフェイスブックのシステムの原理との基本的な矛盾が露呈したものだと思う。
ザッカーバーグ自身は前述のような理想主義的な「情報透明」の世界を思い描いているために、まだ世界のユーザーのほうがそうした事態になれていないだけで、当面は情報公開を個々に制御し得る歯止め措置を講じることによって、長期的には正面突破できる、と考えているようだ。
その点は読んでいてかなり大きな疑問として残った。私自身はフェイスブックを使っていないし、いまのシステムがどこまでそうした歯止め措置が整備されているか詳しくはないから評価できない。ただ、この本で少しずつ紹介されている個人情報の不本意な流出によるトラブルの事例を垣間見るだけでも、それは少数例として看過できない深刻な問題であるように思われる。
むろん5億人による天文学的数字になるだろう情報のやり取りの中で、そうした問題は統計的比率としては無視しえるほど僅かな生起確率であるのかもしれないが、そうした「事故」に遭遇するユーザーにとっては致命的な深手を負うようなものである可能性が小さくないと思われるからだ。
フェイスブックを解説した別の本によれば、日本でもフェイスブックというシステムの性格について論議があったようだ。発祥地の米国では、フェイスブックは親しい友人の範囲の間での情報共有に使われていて、それは他のSNSとは異質だ、という意見に対して、それは事実認識として誤っていると反駁している人もあるようだ。
カークパトリックのこの本を読む限りでは、当初は大学内の親しい友人間での情報共有という性格が強かったかもしれないが、様々な機能拡張を繰り返し、ユーザーを爆発的に広げていく過程で、そのつど情報公開の範囲を制御する機能を付加してはいるけれども、決してそれはもはや「親しい友人の間での情報共有に限定した使い方がされている」とは言い得ないし、システムとしてもそういう使い方が保障されていない、つまり個人情報の遺漏、プライバシー侵害という問題は、いまもフェイスブックにつきまとうカインの額の烙印のようなものである可能性が高い、と感じざるを得ない。
日本でもここ半年くらいの間にバタバタとフェイスブックの概説書のようなものが何冊も出版され、フェイスブックの成長する過程を描いたすぐれた映画も公開されて、急激に注目を集めるようになってきた。
こうしたことに反応の早い学生たちに訊いてみると、すでにユーザーとして利用しているらしい。けれども、使い方としてはやはりかなり慎重で、見知らぬ人から友人登録の許諾を求められても、原則として拒絶する姿勢をとっているようなので、彼らの間でユーザーが指数関数的に増加していく兆候はいまのところはみられない。
ただ、しばらく海外にいたOGなどは平気で見知らぬ人からの要請を受け入れているために、短期間で数百人の友人登録が入っているとのことで、両者の使い方はずいぶん違ったものになるだろう。
今後日本でどれだけ普及し、どんな使い方がされていくのか、興味深いところではあるけれども、こういうシステムというのは、ツイッターにしてもそうだけれど、自分が使ってみないと、ほんとうのところ内在的な評価ができない。
使う上で、ほかの人に迷惑がかかるようなリスクがあるなら、それぞれの立場上、利用は避けたほうがいい、というようなこともあるのではないか。新しいメディアに関心はあっても、そのへんは私自身にとっても考えどころで、とりあえずは古いメディアで、古めかしい遣り方で独り言をつぶやいている程度にとどめておくのが無難かも、などど考えています。
いずれにせよ、なかなか刺激的な本でした。メディアに関心のある方はぜひ読まれるといいでしょう。
2011年03月08日
東野圭吾『麒麟の翼』
東野圭吾の最新作にして「最高傑作」という帯を見ると、値段にちょっと眉をひそめながらも、最近は単行本もほとんどこれくらいの値段はするからなぁ・・とため息をつきながら、買わずにはいられず、買って読み始めると一気に読んでしまわずにいられないのが東野圭吾。
というわけで、佐藤泰志の『海炭市叙景』のほうは1週間くらいかけて、一話ずつ舌なめずりするように味わいながら読んだけれど、東野圭吾の『麒麟の翼』のほうは一気に読んでしまった。あぁ勿体無い・・・
それに、麒麟のほうは推理小説だから、ここで最新刊のネタばらしをするわけにもいきません。
「最高傑作」だったかって?う~ん、それは何とも・・・。好みから言えば私は作品としての出来がどうこうというのを脇へおいといても、『白夜行』のように作者が熱くなって書いてるのが分かるようなのが好きなので(友人からは、若くて美しい悪魔のような女性が登場するのがいいんだろう?と半畳を入れられそうだけど)、推理小説としてはずっと上出来なのだろう『容疑者Xの献身』のようなのよりもそっちを上にしてしまうので、まったくアンフェアな読者であります。
今回の場合もストーリーの展開の仕方は非常にスムーズで、どこにも種も仕掛けもないかのようにみえて、見事に思っても見ない方向に導かれる意外性やそれを語る語り口の見事さというのは、いつもの東野圭吾さんらしい腕の冴えだし、そうした作品群の中でも、力んだところのない、非常に完成度の高い作品と言えば言えるのかもしれません。
推理仕掛けがどうのこうのといよりも、加賀恭一郎はじめ、登場人物の人間性をしっかり描いて、それぞれの振る舞いかた、言葉にも、それぞれの人物の思いがあり、さらに背後にはその人物の背負う状況がある、というのが的確に、納得できるように描いているのは、いつもの東野圭吾作品とかわらずに優れた特質です。その作者のまなざしが温かいことにも好感が持てます。これがあるから、ほかに推理小説を読まない私も彼の作品は新刊が出るとつい買ってしまうのですが。
ただ、推理小説としての展開が、たとえば『容疑者Xの献身』のように、読者にとっての(あるいはそれを推理するヒーローにとっての)意外性が、その作品の一つのメインフレームのうちに収まっていれば、とてもおさまりがよくて、しっくりと納得できるのですが、さてそのフレームが二つあって、こっちと思っていたらあっちだった、という構成になると、さてどうでしょうか。
私の感じ方は、肩透かし、というのに幾分近いです。ある犯罪について犯人を追って色々情報が小出しにされて推理していく、事件の全貌が徐々に明らかにされ、あやしい人物が複数出てくる。最初は情報が乏しかったり、間違った情報で誤った推理をしたりして、次々に犯人とおぼしき人を挙げては、その推理が破綻していく。そして最後に意外な真犯人にたどり着く。(これが私のいう「おさまりのいい」フレーム一つのオーソドックスな推理小説デス)
或いはそういうパターンを破ったんだよ、という事なのかもしれません。推理小説を原則読まない私にはそのへんのことはよくわからないので、ほんとうに作者にしてやられたなぁ、という意外性よりも、少し肩透かしをくったように感じたのは、私の感じかたのほうに無いものねだりがあるのかもしれませんが・・・。
でも魅力的なタイトルですね。読んでみればなんでもないけれど、本屋で手にとったのは、素敵なタイトルに惹かれたというところもありました。
というわけで、佐藤泰志の『海炭市叙景』のほうは1週間くらいかけて、一話ずつ舌なめずりするように味わいながら読んだけれど、東野圭吾の『麒麟の翼』のほうは一気に読んでしまった。あぁ勿体無い・・・
それに、麒麟のほうは推理小説だから、ここで最新刊のネタばらしをするわけにもいきません。
「最高傑作」だったかって?う~ん、それは何とも・・・。好みから言えば私は作品としての出来がどうこうというのを脇へおいといても、『白夜行』のように作者が熱くなって書いてるのが分かるようなのが好きなので(友人からは、若くて美しい悪魔のような女性が登場するのがいいんだろう?と半畳を入れられそうだけど)、推理小説としてはずっと上出来なのだろう『容疑者Xの献身』のようなのよりもそっちを上にしてしまうので、まったくアンフェアな読者であります。
今回の場合もストーリーの展開の仕方は非常にスムーズで、どこにも種も仕掛けもないかのようにみえて、見事に思っても見ない方向に導かれる意外性やそれを語る語り口の見事さというのは、いつもの東野圭吾さんらしい腕の冴えだし、そうした作品群の中でも、力んだところのない、非常に完成度の高い作品と言えば言えるのかもしれません。
推理仕掛けがどうのこうのといよりも、加賀恭一郎はじめ、登場人物の人間性をしっかり描いて、それぞれの振る舞いかた、言葉にも、それぞれの人物の思いがあり、さらに背後にはその人物の背負う状況がある、というのが的確に、納得できるように描いているのは、いつもの東野圭吾作品とかわらずに優れた特質です。その作者のまなざしが温かいことにも好感が持てます。これがあるから、ほかに推理小説を読まない私も彼の作品は新刊が出るとつい買ってしまうのですが。
ただ、推理小説としての展開が、たとえば『容疑者Xの献身』のように、読者にとっての(あるいはそれを推理するヒーローにとっての)意外性が、その作品の一つのメインフレームのうちに収まっていれば、とてもおさまりがよくて、しっくりと納得できるのですが、さてそのフレームが二つあって、こっちと思っていたらあっちだった、という構成になると、さてどうでしょうか。
私の感じ方は、肩透かし、というのに幾分近いです。ある犯罪について犯人を追って色々情報が小出しにされて推理していく、事件の全貌が徐々に明らかにされ、あやしい人物が複数出てくる。最初は情報が乏しかったり、間違った情報で誤った推理をしたりして、次々に犯人とおぼしき人を挙げては、その推理が破綻していく。そして最後に意外な真犯人にたどり着く。(これが私のいう「おさまりのいい」フレーム一つのオーソドックスな推理小説デス)
或いはそういうパターンを破ったんだよ、という事なのかもしれません。推理小説を原則読まない私にはそのへんのことはよくわからないので、ほんとうに作者にしてやられたなぁ、という意外性よりも、少し肩透かしをくったように感じたのは、私の感じかたのほうに無いものねだりがあるのかもしれませんが・・・。
でも魅力的なタイトルですね。読んでみればなんでもないけれど、本屋で手にとったのは、素敵なタイトルに惹かれたというところもありました。
佐藤泰志『海炭市叙景』
久しぶりにいい小説を読んだ。1991年に出たものらしいけれど、この連環的な手法による作品を原作にした映画に対する好意的な幾つかの新聞の映画評を見て、この作品を知った。
ロープウェイの駅でひたすら兄の下山を待つ女(「第一章 物語のはじまった崖~1.まだ若い廃墟」)、家庭に深刻な問題を抱えるプロパン配達の男、(4.裂けた爪)、クスリに手を出しているらしい同じ部屋の弟分のことを気遣いながら家族のもとへ帰っていく、わけありの男(6.夜の中の夜)、祖母が働いていた路地裏の夜の女たちのたむろする酒場でちょっとした騒ぎで男が追い出されるシーンに遭遇する若い男(8.裸足)、がらんとした産業道路をほろ酔いで車を運転し、速度違反で覆面パトカーにつかまって、俺の金で買った酒を飲んで何が悪いと開き直って暴れる職業訓練校の年長の男(第二章 物語は何も語らず~1.まっとうな男)、等々。
みな作者のつくった仮構の都市「海炭市」という寒々とした土地の寒々しい色やわびしい匂いを身に深々と湛えて、もうこれ以上先へ進むこともできなければ退くこともできない、いまあるようにしかありえないかのような、ぎりぎりのところで生きている男女だ。
酔っ払いが何人かすれ違った。彼らは肩を組み、歌を唄っていたり、ガードレールに身を乗り出して、吐こうとしたりしていた。腕を組み、男の胸に顔を埋めている女もいた。どんなことでも愉しみ、それが許される夜だった。この俺も、と幸郎は思った。心は海炭市には、すでになかった。店にもなかった。あの八年間にもなかった。そしてすでに、幸郎は幸郎ですらなかった。自分がかつて、首都の郊外の飯場で、ある男の頭を、鉈で、一撃のもとにかち割ったことなどずっと忘れてきた。おびただしい血しぶき。ずっしりした、手ごたえ。とても簡単だった。あんなに、あっけないとは思わなかった。ただの酒の上での口論がひくにひけなくなったのだ。それだけだ。血しぶきをあげたのは幸郎のほうだったかもしれないのだ。息子が六歳の時だった。遠い昔だ。(「夜の中の夜」)
この街ならどこにでもいそうな、わけありの男の過去が、ほんの一瞬深い裂け目を覗かせながら、でもこんなふうに淡々と語られていく。
何ひとつわかるものはない。あの時も、何故口論になったのか、いまだにわからない。もしかしたら、自分が本当は何者かもわからないのかもしれない。
けれども、やはり彼はそんなことを考えて歩いていたわけではない。息子と女房に会いたいと思い、夜の中、そしてもうひとつ彼の内にある、自分すら気づいていない夜の中を、二重に歩いていた。それだけだった。(同前、ラスト)
そう、ここではなにごともが「それだけだった」かのように語られていく。外の世界でなら誰もが大騒ぎしそうなことが、淡々と「それだけだった」ように語られていく。たしかに一人一人は、このような地方都市にならどこにでもいそうな男女だし、彼らが語る言葉も振舞いも、どこにでもありそうな、どこにも新奇なところのないものだ。ここには近代小説の得意とする際立つ個性、といったものは見られない。強いて言えば、もっと生理的な特徴とか、性癖とか、気性のようなものしかない。けれどそれが持つ強度、それが発するインパクトは、曖昧な近代的個性よりも強い。
そのありふれてみえる一人一人の男女の背負っているものは、まさにこの土地でそのような状況にあるその男なり女なりが背負うほかはない、固有名詞のような業とでもいうほかはないものだ。そんな業を背負ってぎりぎりのところで生きている男女を淡々とした語り口で語っていくと、一人一人の個性といったものではなくて、彼らを染め上げている土地の色や匂いが感じられてくるような気がしてくる。
彼らを「海炭市叙景」として描きたかった作者の意図と方法はそんなところで体感できる。古代の歌謡が叙景を媒介することによって共同的な感性を表現したように、作者はこれらの人物たちの淡々とした「叙景」によって、日本の疲弊した地方の典型であるようなこの寒々とした土地に暮らす人々の共同的な感性に寄り添った表現を成就したのだろう。
語り口が淡々としている分、読後感は切なく、この寒々とした「荒地」のような風景を生きる、顧みられることのない男女への切々とした愛惜の情が伝わってくる。
まだ20歳のころに愛読した井上光晴の短編を思い出しながら読んだ。
ロープウェイの駅でひたすら兄の下山を待つ女(「第一章 物語のはじまった崖~1.まだ若い廃墟」)、家庭に深刻な問題を抱えるプロパン配達の男、(4.裂けた爪)、クスリに手を出しているらしい同じ部屋の弟分のことを気遣いながら家族のもとへ帰っていく、わけありの男(6.夜の中の夜)、祖母が働いていた路地裏の夜の女たちのたむろする酒場でちょっとした騒ぎで男が追い出されるシーンに遭遇する若い男(8.裸足)、がらんとした産業道路をほろ酔いで車を運転し、速度違反で覆面パトカーにつかまって、俺の金で買った酒を飲んで何が悪いと開き直って暴れる職業訓練校の年長の男(第二章 物語は何も語らず~1.まっとうな男)、等々。
みな作者のつくった仮構の都市「海炭市」という寒々とした土地の寒々しい色やわびしい匂いを身に深々と湛えて、もうこれ以上先へ進むこともできなければ退くこともできない、いまあるようにしかありえないかのような、ぎりぎりのところで生きている男女だ。
酔っ払いが何人かすれ違った。彼らは肩を組み、歌を唄っていたり、ガードレールに身を乗り出して、吐こうとしたりしていた。腕を組み、男の胸に顔を埋めている女もいた。どんなことでも愉しみ、それが許される夜だった。この俺も、と幸郎は思った。心は海炭市には、すでになかった。店にもなかった。あの八年間にもなかった。そしてすでに、幸郎は幸郎ですらなかった。自分がかつて、首都の郊外の飯場で、ある男の頭を、鉈で、一撃のもとにかち割ったことなどずっと忘れてきた。おびただしい血しぶき。ずっしりした、手ごたえ。とても簡単だった。あんなに、あっけないとは思わなかった。ただの酒の上での口論がひくにひけなくなったのだ。それだけだ。血しぶきをあげたのは幸郎のほうだったかもしれないのだ。息子が六歳の時だった。遠い昔だ。(「夜の中の夜」)
この街ならどこにでもいそうな、わけありの男の過去が、ほんの一瞬深い裂け目を覗かせながら、でもこんなふうに淡々と語られていく。
何ひとつわかるものはない。あの時も、何故口論になったのか、いまだにわからない。もしかしたら、自分が本当は何者かもわからないのかもしれない。
けれども、やはり彼はそんなことを考えて歩いていたわけではない。息子と女房に会いたいと思い、夜の中、そしてもうひとつ彼の内にある、自分すら気づいていない夜の中を、二重に歩いていた。それだけだった。(同前、ラスト)
そう、ここではなにごともが「それだけだった」かのように語られていく。外の世界でなら誰もが大騒ぎしそうなことが、淡々と「それだけだった」ように語られていく。たしかに一人一人は、このような地方都市にならどこにでもいそうな男女だし、彼らが語る言葉も振舞いも、どこにでもありそうな、どこにも新奇なところのないものだ。ここには近代小説の得意とする際立つ個性、といったものは見られない。強いて言えば、もっと生理的な特徴とか、性癖とか、気性のようなものしかない。けれどそれが持つ強度、それが発するインパクトは、曖昧な近代的個性よりも強い。
そのありふれてみえる一人一人の男女の背負っているものは、まさにこの土地でそのような状況にあるその男なり女なりが背負うほかはない、固有名詞のような業とでもいうほかはないものだ。そんな業を背負ってぎりぎりのところで生きている男女を淡々とした語り口で語っていくと、一人一人の個性といったものではなくて、彼らを染め上げている土地の色や匂いが感じられてくるような気がしてくる。
彼らを「海炭市叙景」として描きたかった作者の意図と方法はそんなところで体感できる。古代の歌謡が叙景を媒介することによって共同的な感性を表現したように、作者はこれらの人物たちの淡々とした「叙景」によって、日本の疲弊した地方の典型であるようなこの寒々とした土地に暮らす人々の共同的な感性に寄り添った表現を成就したのだろう。
語り口が淡々としている分、読後感は切なく、この寒々とした「荒地」のような風景を生きる、顧みられることのない男女への切々とした愛惜の情が伝わってくる。
まだ20歳のころに愛読した井上光晴の短編を思い出しながら読んだ。
2011年03月04日
石井裕也監督「川の底からこんにちは」
「川の底からこんにちは」の石井監督は、いま活躍している日本の若手映画監督の中でも一番若い世代で、マスメディアで一番よく取り上げられているようなので、DVDが出たのを機会に初めてその作品に接した。
これが始めての商業映画らしいが、キャストもそれにふさわしく主演はこれも若手女優で一番元気がよさそうな満島ひかり、それを芸達者な脇役が固めていて、堂々たるものだ。なにより満島ひかりが体当たりの演技でぶつかっていて、これにモーレツなおばさんたちのパワーがプラスされて、ストーリーの核心が開き直りときているから、怖いものなしだ。(笑)
女性はみんな「女狐」(作品中のセリフ)で毒をたっぷり持っているけれど、男はみんなヤサオトコだけれどどこか木枯紋次郎みたいに枯れている。まぁいまの時代の気分をコミカルにシニカルに映し出しているということだろう。
途中、少々だれるところはあるし、勝手に面白がっているところはあるけれども、監督の才能は明らかだろう。
この映画を見ながら、これまでいくつかの各種の映画フェスティバルなどの新人賞の類をとったような映画を見たことを思い返し、それにしても、若い映画監督が世に出るためには、ある種の戦略が必要なのだろうかな、とふと思った。
この監督にもそれはある。コミカルな視点というのは、それだけでひとつ身をずらして構える戦略的な姿勢だろう。
そうではなく、ごくオーソドックスな映画を撮って、それがまっすぐに評価されて大きくなっていく、ということは難しいことなのかな、と思う。そういう作り手がじっくりと自分の作品を育てて出てくるといいな。早撃ちマックのように矢継ぎ早に作らなくていいから(笑)
小説では世界的に著名な作家になってしまったから、いまとなっては言うのも気恥ずかしいが、村上春樹がいい作家だな、と思ってきたのは、作品が大きくなっていく長い歳月の歩みに、そんな正当性(へんな言い方かもしれないが)を感じていたからという気がする。
自分の力量に応じたスケールを守りながら、奇をてらわず、斜に構えず、いつも正面から、でもユーモア(コミカルではなくて)を、つまり優しさを失わないで、向き合うべきものに向き合ってきた。
そういえば、村上春樹はなぜ芥川賞が与えられなかったか、というような本が出ていた(笑)。彼にはそういう意味の戦略はなかった。一人の作家として進化していくための彼自身の戦略はあったかもしれないけれど。
小説の世界でも映画の世界でも、いまでは、新しい才能をいち早く見出し、消費しようとする仕掛けがいたるところにある。それが小さな芽を大きく育て、早期栽培のように早々と豊かな実をつけるのを援けることも、「経済原則」が成り立つ程度には事実なのだろう。
特典映像で、俳優たちが「監督の性格が悪い」と(愛情をこめて)言うのが印象的だった。満島ひかりはその監督と結婚する(した?)そうだ。彼女はこの作品の中ではまさに髪振り乱して役の人物になりきっているけれど、特典映像でインタビューに答える彼女は、本当に女優というのは綺麗なんだな、と感心させられるほど綺麗で魅力的だ。
これが始めての商業映画らしいが、キャストもそれにふさわしく主演はこれも若手女優で一番元気がよさそうな満島ひかり、それを芸達者な脇役が固めていて、堂々たるものだ。なにより満島ひかりが体当たりの演技でぶつかっていて、これにモーレツなおばさんたちのパワーがプラスされて、ストーリーの核心が開き直りときているから、怖いものなしだ。(笑)
女性はみんな「女狐」(作品中のセリフ)で毒をたっぷり持っているけれど、男はみんなヤサオトコだけれどどこか木枯紋次郎みたいに枯れている。まぁいまの時代の気分をコミカルにシニカルに映し出しているということだろう。
途中、少々だれるところはあるし、勝手に面白がっているところはあるけれども、監督の才能は明らかだろう。
この映画を見ながら、これまでいくつかの各種の映画フェスティバルなどの新人賞の類をとったような映画を見たことを思い返し、それにしても、若い映画監督が世に出るためには、ある種の戦略が必要なのだろうかな、とふと思った。
この監督にもそれはある。コミカルな視点というのは、それだけでひとつ身をずらして構える戦略的な姿勢だろう。
そうではなく、ごくオーソドックスな映画を撮って、それがまっすぐに評価されて大きくなっていく、ということは難しいことなのかな、と思う。そういう作り手がじっくりと自分の作品を育てて出てくるといいな。早撃ちマックのように矢継ぎ早に作らなくていいから(笑)
小説では世界的に著名な作家になってしまったから、いまとなっては言うのも気恥ずかしいが、村上春樹がいい作家だな、と思ってきたのは、作品が大きくなっていく長い歳月の歩みに、そんな正当性(へんな言い方かもしれないが)を感じていたからという気がする。
自分の力量に応じたスケールを守りながら、奇をてらわず、斜に構えず、いつも正面から、でもユーモア(コミカルではなくて)を、つまり優しさを失わないで、向き合うべきものに向き合ってきた。
そういえば、村上春樹はなぜ芥川賞が与えられなかったか、というような本が出ていた(笑)。彼にはそういう意味の戦略はなかった。一人の作家として進化していくための彼自身の戦略はあったかもしれないけれど。
小説の世界でも映画の世界でも、いまでは、新しい才能をいち早く見出し、消費しようとする仕掛けがいたるところにある。それが小さな芽を大きく育て、早期栽培のように早々と豊かな実をつけるのを援けることも、「経済原則」が成り立つ程度には事実なのだろう。
特典映像で、俳優たちが「監督の性格が悪い」と(愛情をこめて)言うのが印象的だった。満島ひかりはその監督と結婚する(した?)そうだ。彼女はこの作品の中ではまさに髪振り乱して役の人物になりきっているけれど、特典映像でインタビューに答える彼女は、本当に女優というのは綺麗なんだな、と感心させられるほど綺麗で魅力的だ。