2010年12月
2010年12月16日
齋藤智裕『KAGEROU』について(追記)
昨日、猛烈な眠気の中で「KAGEROU」の印象を書いたので、読み返すと自分でも意味不明なことを書いているので(笑)追記です。ますます意味不明になるかもしれませんが(笑)
ドライな、というふうな言葉を使ったけれど、この小説は基本的にはウェットで、もっといえばセンチメンタルな作品です。
もう何に対しても希望が持てなくなって死を選んだ(いったん死のうとして邪魔されて、さらにもう一度自己確認を強いられて、やっぱり死を選ぶという二重に死を選ぶほどに、人生にまったく未練のなくなった)中年男(40歳)ヤスオが、たまたま知った臓器移植で自分がドナーとして心臓を与えることになるレシピエントの少女アカネと触れ合って、自分の気持ち、つまり死にたいという気持ちが強ければ強いほど、それは生きたいという気持ちと表裏一体のものだ、ということに気づく、それがまぁ愛のめざめと一緒に訪れるわけですね。愛というのかいまふうに「萌え」といおうか・・・
アカネとのかくれんぼのシーンなんか、メルヘンチックで、十代前半の女の子が空想する御伽噺のようにpuerileというのか、よく言えば無垢でセンチメンタルな現代の御伽噺といったところだと思います。
ドライというようなmisleadingな言い方をしたのは、少し正確に言い直すと、生と死というふうな普通なら重い材料を扱いながら、いま死のうとする(或いははいま死のうとしていた)人間なら当然抱え込んでいる(いた)だろうこの世の様々な重荷も自分の中の抑えがたい喜怒哀楽のドロドロした感情もきれいさっぱり切り捨てられて、近未来SF風の書割の中に描かれているために、ある種の「透明感」を持っている、というほどの意味です。
もちろん人生に絶望して一切がどうでもよくなった人間にとっては、あらゆるもの、こと、ひとが無意味というか、等距離というか、距離感がないので、その印象が妙に乾いた印象を与えるということはあるでしょう。
ふつう人間というのはいくら客観的に対象を見ようとしても、多かれ少なかれ自分の過去の経験や現在の気分をひきずっているから、機械のセンサーのように完全に受動的に対象を受け止めることはできません。
つまり、感情を対象のほうへ延ばしていって、純粋な感覚器官の感受と延長した感情とをミックスして対象を認知するわけですが、その感情が完璧なまでに死んでいる人間は、対象に延ばす感情の触手を欠いているから、視覚や聴覚は対象を受け止めていても、現実感をもって認知することができないでしょう。
でも、この作品のヤスオは、外観的なシチュエーションとしてはそういう人間として設定されているけれども、その内部(こころ)まではそういう人間として描かれていません。
自殺を邪魔する(あるいはあやうく死ぬところを助けられた)キョウヤとの会話も、相手や外界への関心を失わない、たっぷり感情を持った、どこにでもいるけっこう図太いおじさんの、軽いノリで突っ込みを入れたりギャグったりするような会話です。
こういうチグハグさというのは、最近まんがやそのテレビドラマ化などでよくお目にかかる近未来SF風のラブロマンス(もうしばらく前の番組なので忘れてしまったけれど、自分の彼女がロボットで、というような話)なんかと似ていて、外面的には日常生活の中にそういう近未来SF的要素を放り込んで、そのチグハグさの中にユーモアやちょっと新味がなくもない物語展開が生じる、というのを楽しめるというところがあります。
でも、リアリズムなら当然ひきずらざるをえない内面やその変化というような重石はきれいさっぱり切り捨て、登場人物たちはそういう前提には気づかないふりをして、あらたに生じる関係性の中でだけお話をすすめていく。
この単純化によって、ある種の透明感や軽みが生まれてきます。それ自体は良くも悪くもなく、作品の価値を左右するわけではありません。
たとえば、「時をかける少女」なんかは、ありえない奇想天外な話で、思春期の男女の淡い交感に焦点をしぼって、それ以外はリアリズム風の重石はきれいさっぱり切り捨てているけれども、この方法が思春期の少女の不安定な生理と心理をまるごと象徴するような世界を作り出すのに成功しています。(原作も、オリジナルの映画も、アニメ化された作品も、リメイク作品も、それぞれに良かった。)東野圭吾の「秘密」なんかもそうでしたね。
SFの世界は技術の発達のような特定の条件を延長するなり、あるいは(広い意味のSFの世界は)別段科学技術の発達とは限らず、「秘密」のように、どんなことであれ現実にはありえない或る仮定を置くことによって、そのベースの上に人間なり人間どうしの関係なりがどうなっていくかを描くので、その枠組みに入ってこない部分は簡略化したり、捨てたりするわけです。
そこに単純化が生じ、本来は完全な意味でのマルチメディア環境である現実の環境世界に比較すれば、すっきりして、ある種の透明感が生じます。ただ、それは表面的でうすっぺらな世界でもあります。
CGで描かれるヴァーチャルな世界が、どう綿密にマッピングしても、そこに入るとたちどころに非現実感を覚えるのはそういうことかと思います。
もちろん技術がどんどん発達していけば、そのへんは普通の人間には区別がつかなくなるのかもしれないけれど、そういう世界というのは、ちょうど映画「2001年宇宙の旅」のラストシーンに登場する部屋のように、やっぱり私たちの意識がマッピングした書割の世界にすぎないので、人間が人間である限り、私たちは現実の空間に居ることによってしか得られないものがあると、私は思います。
それはともかく、齋藤さんの作品は、いま挙げてきたような大層な作品にみられる透明感にまで手が届くような世界を作り出しているわけではないし、そんなことを狙いにしているわけでもないけれども、ある種の透明感の生じる理由を考えると、同じところに行き着くような気がします。
そして、この作品には確かにその種の透明感はあって、そこはこの作品のいいところだと思います。
また、この「近未来SF風」のシチュエーションをもっとつきつめてシャープにしていくと、「シュールな」という形容詞をつけたくなるような世界までいきつくのだろう、という気がしました。
そのときには、「近未来SF風」の書割の世界は、本物の「SF」を潜り抜けてジャンル小説を脱した作品になり、ギャグは文体から立ち上がってくる本物のユーモアになり、「萌え」のメルヘンはほんものの痛みを伴う愛と生死の物語として人生の深みへ降りていくことになるのでしょう。
齋藤智裕 『KAGEROU』
齋藤智裕が水嶋ヒロでなくても本屋でこの本を手にとって買ったか、と言われると、もちろん水嶋ヒロが小説を書いてポプラ社小説大賞を受賞して賞金2千万(だっけ?)を断った、ってな噂を聞かなければ、たぶん買わなかったし、読んでなかったでしょうね。
つまりは、完全なミーハーとして手にとり、購入し、読んだというわけです。この本はそういう意味で話題性があるから、私のところへ来る学生さんたちのかなりの数の人たちがきっと読みたがるに違いないから、私も読んでおかないと話になりませんから。
・・・というわけで、わざわざ俳優水嶋ヒロとしてでなく、齋藤智裕として書いた小説を読む読み方としては不純ですが、だからといってこの作品が多くのタレント本のようなつまらない作品であることを意味するわけではありません。
先入観なく読んで私は面白かったです。いや、ええしのボンで、高校のときからサッカーで全国大会に出るようなスポーツマンで、世間でいう一流大学を出て、超イケメンで、結婚の事情もその人間性を示したと評価され、全国の女性人気ナンバーワン(かどうかは正確には知らないけれどまぁ当たらずといえど遠からずでしょう)という人が、俳優を休業して、初めて書いた小説、というのだから、純文芸風のきまじめな作風ではないのかな、と想像していました。
少なくともこの人のは、読み手を小馬鹿にしたタレント本のような薄っぺらで小賢しい書きものではなくて、どこか生真面目な作品なんだろうな、と噂を聞いたときには思っていました。
けれど、読んでみるとそう生真面目でも薄っぺらでもない。扱っているテーマは生と死のような本来なら重たい性質のものだけれど、この作品ではそれはテーマというよりは素材だと考えればいいでしょう。
ひょっとすると読者の中には、「生とは何か、死とは何かを考えさせられる」なんて錯覚する人があるかもしれないけれど、そういう生だの死だのについての新しいテツガクがここにあるか、といえば、そんなものはない。この小説を読んだからといって、生や死を見つめる自分の目が変わった、というようなことは何もありません。
けれども、生と死をめぐって臓器移植の先端技術のようなものを媒介にして、全然メソメソ、ドロドロしたところのない、あっけらかんとしたゲーム感覚の物語を編んだところにこの作品の面白さがあります。ウェットな物語ではなく、からっと乾いたゲームにふさわしい、良い意味での軽みがあり、そこから立ち上ってくるユーモアもなかなかのものです。
こういうゲームを考えだすというのは、読者を意識した読者サービスの精神が旺盛なので、そのための仕掛けも丁寧に考えられています。その意味ではエンターテインメント性たっぷりの作品です。
人間の身体の端から端までモノとして有効活用できる。それを売ったり買ったり、生も死も物質化してドライな処理ができる。そんな世界を、この作品は人間性が破壊されたり喪失したりした悲惨な世界とはみなしていない。
むしろ人間も人形とたいして変わらないし、人間の世界はゲームの世界に似ていると考えられていると言ったほうがよさそうだ。もうすっかりそうなってしまったとき、人間は何によって生きるか、あるいは死ぬか。
それを眉間にしわ寄せて深刻に考えるふうを装う哲学者のようにではなく、あるがままのニュートラルなゲームの規則を提示し、動かしてみたらこうなるよね、というシミュレーションの世界。そう言うのが一番近いかな・・・
2010年12月06日
辻村深月の推理小説
学科の広報媒体に学生さんの一人が辻村深月の『名前探しの放課後』という作品の感想文を寄稿し、それが少々助手さんや委員を戸惑わせるものだったのだ。
署名入りの感想文のことだから、ここでとやかく言うのは差し控えるが、委員たちがこの寄稿について口を出したがらないだろうこと、できたら知らんふりをして逃げておきたいだろうこと(笑)は容易に察しがついた。
私は天邪鬼なので、そういうのになると、逆に仕事をほったらかしてでも付き合いたくなる(笑)。・・・というわけで、感想文の書き手が至高の作品のように思い入れて書いている「名前探しの放課後」をまず読み、次のこの作品の最後のほうで明かされる、関連するひとつ前の作品にあたる「ぼくのメジャースプーン」を読み、最後に同じ学園もので、この作家のデビュー作にあたる「冷たい校舎の時は止まる」を読んだ。最後の下巻を読み終わったのが、ようやく今夕のことだ。
デビュー作など文庫本で上下1000ページを超える長編で、もちろん推理小説だし、どんどん読み進めることはできるけれども、平生推理小説を愛好しているわけではない身には少し辛いところがあった。
とはいえ、学生さんの寄稿のことはさておいて、純粋に小説作品として読んで、結構面白く、楽しめたことも事実だ。同時に、寄稿した学生さんが、なぜ実人生と直結させるような倫理的な読み方をしたのかも、理解できるような気がした。
作品としてはあとで書かれた作品ほどよくまとまっていて推理小説作家としての力量を感じさせるように思った。
私が面白かったのは、「ぼくのメジャースプーン」の「ぼく」と「先生」との間で交わされる言葉のゲームをめぐる会話。その中で定義される、相手の力を縛る超能力の発揮される条件をめぐるやりとりがとても面白い。
エンターテインメント小説をほとんど読まないので、こういうのを描いた先例があるのかどうか詳らかにしないが、こういう素材を扱った推理小説というのはとてもユニークなのではないか。
それはデビュー作も同じで、閉ざされた時空に置かれた登場人物たちの誰かがすでに死んでいて、それが誰かが謎の核心をなす、という設定は、推理小説の結構としてとても独創的な気がした。
もっとも、その謎の答は後半から予想できたとおりだったし、最初からおかしい、と意識させられる榊についての絵解きは、なぁんだ、そりゃないだろうぜ、と最後に思わされるし、飛び降りたのが誰か、という点についても肩透かしをくわされたような気分は残る。
でも、そんなことはまぁどうでもいいだろう。辻村深月のファンなら、この3作のうちどれを採るかといえば、あらゆる欠陥にも関わらず、私はデビュー作「冷たい校舎の時は止まる」ではないかという気がした。処女作にすべてがある、とよく言われるけれど、辻村深月のこのデビュー作はまさにそれにふさわしい気がする。
この作品から、エンターテインメントの骨格である推理小説としての謎解きやホラー張りのコケ脅しを全部取っ払ってみよう。
すると、そこに姿を現わすのは思春期の恋愛や友情や家族との葛藤や自分自身との葛藤といったありふれたエピソードだ。
ただ、それが凡庸でないのは、作者がよく一人一人の登場人物の内側に入り込んで、その傷と痛みを自分の痛みのように共感し、その傷を深く抉り出すことに力量を発揮しているからだ。
恋愛を描くにしても友情を描くにしても、深い傷の痛みをくぐらずにはそれが成立しえないかのように、登場人物たちは互いに傷つけあうまいとして傷つき、また傷つけまいと細心の注意を払って触れ合い、作者もまた登場人物たちに細心の注意を払って触れようとする。
その過剰さ、そしてその過剰を扱う驚くほどの繊細さは、いかにも今様だ。
他者とのふれあい方、他者の世界と関わっていくその入り方が、「倫理的」なものを呼び起こすとすれば、この作者の作品が例の寄稿者のような若い読者の倫理的な読み方へ誘う入り口はそんなところにあるのだろう。
彼女たちにとって、登場人物の友人との関わり方はわがことのように思え、その深い心の傷はわが胸の傷のように思え、優しき友の言葉は現実の心酔する人の言葉のように聞こえるに違いない。
いったん書かれた作品は、作者の手を離れて客観的な対象として、読者の前に置かれ、それがどう受け止められるかは、もう作者にもどう多く見積もっても半分しか責任がとれない。あとは読み手とその読み手が置かれたこの社会の多様な場のありようにかかっている。
だから、どんな作品を至上のものと祀り上げるのも、どんな作家を至高の精神と崇めるのも、読者の自由(恣意)だし、少し意地悪な言い方をすれば、鰯の頭も信心から、ということになる。
それは誰にでもあることだし、多かれ少なかれ近視眼的であったり、視野狭窄に陥ることは、若さの特権でもある。いずれ例の寄稿者もほかの作家を手に取る日がくるだろう。アガサ・クリスティーを、エラリー・クィーンを、ヴァン・ダイクを楽しむ日がくるだろう。いつかそのとき、辻村深月に心酔した若き日の自分の感情の深さを、そのころの自分の生活や周囲の人との交情を懐かしく思い起こすだろう。