2010年11月
2010年11月20日
村上龍「歌うクジラ」
こんなに読むのに時間がかかった小説は近頃珍しい。
上巻375ページ、下巻357ページ、たしかに長いけれど、読むのは遅いほうではないから、長いのでも、たいていは車中(通勤で1日4時間半ある)で2~3日あれば読める。
でもこの小説はほとんど3週間近くカバンの中で自宅と職場の間を何度も往復した。
小説だから書いてある日本語が分からないわけではない。別に論文のように難しい言葉で書いてあるわけでもない。
けれども読み進めるのにものすごい抵抗感があって、何度か中断し、投げ出そうとした。それでも投げ出さなかったのは、やっぱり「限りなく透明に近いブルー」や「コインロッカー・ベイビーズ」の村上龍の作品だったからだろう。
作品が面白くない、というわけではないし、テンションの低い退屈で冗長な作品というのでもない。けれども、言葉が、いちいち読み手の神経を逆撫でするような棘やら毒素やらを含んでいて、快適に読み進めることに抗うようなところがある。
作者は読者にこの作品を快適なテンポで読み進めさせたくないんじゃないかと疑いたくなるような言語で書かれている。それは変形され、助詞なんかが滅茶苦茶になった「日本語」で会話するような部分があるというようなことではない。
「半島を出よ」も一種のシミュレーション小説だったけれど、あれは「戦後の平和ボケした日本人よ、国際社会の現実はこうだぞ!」みたいな保守派が喜びそうな、ありえるもう一つの現実をシミュレートしてみせたような作品だった。
アメリカにオカマを***たような日本人を描いた(かのようにも読める)「限りなく透明に近いブルー」に生理的嫌悪感をぶつけるような全否定をした江藤淳と、「半島を出よ」の村上龍はぐるっと回り舞台が回って重なってしまったかのような錯覚を覚えて、こんな作品、書いちゃってどうすんだろう?と思ったけれど・・・
今回の作品はSF的日本の未来はこうなるシミュレーションといったところで、強引に架空の世界をつくりあげている。その世界の特徴はSFでおなじみのサイバーパンク的な未来図で、かつてのSFがエレクトロニクス技術を単純に延長したドライで能天気な未来図だったのに対して、いまふうらしくバイオテクノロジーの延長上に想像力を馳せた、ウェットで生臭い血や体液の臭いのするような世界だ。
それもまともな赤い血というより(それもいやというほど登場するけれど)切ったら青い血がどろりと出てきそうな、太陽のもとでの色という色を反転したような世界だ。
ひとことでいうと、気分の悪い、吐き気を催すような世界で、この物質的なベースの上に、「棲み分け」の完了した倒錯的な「理想社会」の、これまた吐き気を催すような様相が主人公の目を通して描かれる。それは百何十歳といった「老人」の幼児姦のような性的倒錯の日常化したような世界でもある。
ドラマはこの異様な「棲み分け」の世界の境界を越境して主人公が移動することで生じる。彼がそこで見るものが、読み手の神経を逆撫でし、ささくれだたせる。それはたぶん主人公の覚える戦慄に見合っているのだろう。
ここで作家が試みているのは、「半島を出よ」のときのように、私たちが何の疑いもなく浸りきっている日常性に、北朝鮮の特殊工作部隊のような非日常性を実体化した想像力の弾丸を撃ち込むことで、日常性の虚構性なり無根拠さを暴くといったところから、その非日常性のほうが日常性に侵食して食い尽くしてしまい、作品の描く日常性そのものが全部非日常性に転化してしまった世界を描き出すことのようにみえる。
主人公が見るもの、出会うもの、その光景も、小道具も、すべていま私たちの身の回りに存在する日常の中のあれこれとは違っていて、むしろそれらはこの物語の要素に置き換えられることを禁じられているようだ。
だから、語り手は、主人公が見るもの、出会うもの、その光景も、小道具も、すべて新たに作り出さねばならないし、それにあらたに命名しなければならず、さらにそれが何なのかは読み手には分からないから、いちいち説明しなければならない。
この「説明しなければならない」ことが、この小説を、とても読みにくいものにしている。何か新しい要素が登場すると、それがドラマの一要素として動き出し、ある効果を及ぼす前に、そrがいかなるものであるかを、いまの読み手である私たちに語り手は説明しなければならない。
これはやむをえないこととはいえ、読み手にとっても、カッタルイことで、作品のテンションを下げずにはおかない。ドラマが展開していく快適なテンポはいたるところでこの種の「説明」によって妨げられる。
SFではよくあることで、タイムマシーンがどういうものであるかを足踏みして説明しなくては、登場人物たちはタイムマシーンに乗ってその先へ進むことができない。けれど、それは小説の読者からみれば、カッタルイだけでなく、なんだか子供っぽい、こっけいなものにさえ見えることがある。
へんてこな日本語で喋る部分なども、語り手がそれを説明していても、なんだか滑稽に思えたりする。
小説として、別に読みやすくないから、というので評価しないというわけではないけれども、この抵抗感のうちには、作者が意図的に読み手の日常を撃つという肯定的な意味合いばかりではなく、こうした作品の成り立ちそのものの矛盾という意味合いが含まれていて、決して作品として成功しているとは思わない。
ただ、これだけの紙数を費やして、私たちの身近な世界から要素を置換することをみずからに禁じながら、そういう現実世界を反転させたような、まるで異質な世界、一つ一つのこまごまとした要素からして一から想像力で作り出していかなくてはならない、反転した世界を強引にでっち上げるという力技を見せてもらった、という意味では、感心もさせられるし、こういう説明につぐ説明のような作品をよくまぁ作者自身が退屈せずに書き続けられたものだ、と感心させられる。
ただ、血みどろの惨劇風の光景が展開するところやラストのヨシマツとの対決の場面などになると、さすがに登場人物たちが生きて血のかよう存在のように「説明」を超えていくので、通常の小説としてそこそこの読み応えを感じながら読んでいくことができた。
でもしんどかった!(笑)
上巻375ページ、下巻357ページ、たしかに長いけれど、読むのは遅いほうではないから、長いのでも、たいていは車中(通勤で1日4時間半ある)で2~3日あれば読める。
でもこの小説はほとんど3週間近くカバンの中で自宅と職場の間を何度も往復した。
小説だから書いてある日本語が分からないわけではない。別に論文のように難しい言葉で書いてあるわけでもない。
けれども読み進めるのにものすごい抵抗感があって、何度か中断し、投げ出そうとした。それでも投げ出さなかったのは、やっぱり「限りなく透明に近いブルー」や「コインロッカー・ベイビーズ」の村上龍の作品だったからだろう。
作品が面白くない、というわけではないし、テンションの低い退屈で冗長な作品というのでもない。けれども、言葉が、いちいち読み手の神経を逆撫でするような棘やら毒素やらを含んでいて、快適に読み進めることに抗うようなところがある。
作者は読者にこの作品を快適なテンポで読み進めさせたくないんじゃないかと疑いたくなるような言語で書かれている。それは変形され、助詞なんかが滅茶苦茶になった「日本語」で会話するような部分があるというようなことではない。
「半島を出よ」も一種のシミュレーション小説だったけれど、あれは「戦後の平和ボケした日本人よ、国際社会の現実はこうだぞ!」みたいな保守派が喜びそうな、ありえるもう一つの現実をシミュレートしてみせたような作品だった。
アメリカにオカマを***たような日本人を描いた(かのようにも読める)「限りなく透明に近いブルー」に生理的嫌悪感をぶつけるような全否定をした江藤淳と、「半島を出よ」の村上龍はぐるっと回り舞台が回って重なってしまったかのような錯覚を覚えて、こんな作品、書いちゃってどうすんだろう?と思ったけれど・・・
今回の作品はSF的日本の未来はこうなるシミュレーションといったところで、強引に架空の世界をつくりあげている。その世界の特徴はSFでおなじみのサイバーパンク的な未来図で、かつてのSFがエレクトロニクス技術を単純に延長したドライで能天気な未来図だったのに対して、いまふうらしくバイオテクノロジーの延長上に想像力を馳せた、ウェットで生臭い血や体液の臭いのするような世界だ。
それもまともな赤い血というより(それもいやというほど登場するけれど)切ったら青い血がどろりと出てきそうな、太陽のもとでの色という色を反転したような世界だ。
ひとことでいうと、気分の悪い、吐き気を催すような世界で、この物質的なベースの上に、「棲み分け」の完了した倒錯的な「理想社会」の、これまた吐き気を催すような様相が主人公の目を通して描かれる。それは百何十歳といった「老人」の幼児姦のような性的倒錯の日常化したような世界でもある。
ドラマはこの異様な「棲み分け」の世界の境界を越境して主人公が移動することで生じる。彼がそこで見るものが、読み手の神経を逆撫でし、ささくれだたせる。それはたぶん主人公の覚える戦慄に見合っているのだろう。
ここで作家が試みているのは、「半島を出よ」のときのように、私たちが何の疑いもなく浸りきっている日常性に、北朝鮮の特殊工作部隊のような非日常性を実体化した想像力の弾丸を撃ち込むことで、日常性の虚構性なり無根拠さを暴くといったところから、その非日常性のほうが日常性に侵食して食い尽くしてしまい、作品の描く日常性そのものが全部非日常性に転化してしまった世界を描き出すことのようにみえる。
主人公が見るもの、出会うもの、その光景も、小道具も、すべていま私たちの身の回りに存在する日常の中のあれこれとは違っていて、むしろそれらはこの物語の要素に置き換えられることを禁じられているようだ。
だから、語り手は、主人公が見るもの、出会うもの、その光景も、小道具も、すべて新たに作り出さねばならないし、それにあらたに命名しなければならず、さらにそれが何なのかは読み手には分からないから、いちいち説明しなければならない。
この「説明しなければならない」ことが、この小説を、とても読みにくいものにしている。何か新しい要素が登場すると、それがドラマの一要素として動き出し、ある効果を及ぼす前に、そrがいかなるものであるかを、いまの読み手である私たちに語り手は説明しなければならない。
これはやむをえないこととはいえ、読み手にとっても、カッタルイことで、作品のテンションを下げずにはおかない。ドラマが展開していく快適なテンポはいたるところでこの種の「説明」によって妨げられる。
SFではよくあることで、タイムマシーンがどういうものであるかを足踏みして説明しなくては、登場人物たちはタイムマシーンに乗ってその先へ進むことができない。けれど、それは小説の読者からみれば、カッタルイだけでなく、なんだか子供っぽい、こっけいなものにさえ見えることがある。
へんてこな日本語で喋る部分なども、語り手がそれを説明していても、なんだか滑稽に思えたりする。
小説として、別に読みやすくないから、というので評価しないというわけではないけれども、この抵抗感のうちには、作者が意図的に読み手の日常を撃つという肯定的な意味合いばかりではなく、こうした作品の成り立ちそのものの矛盾という意味合いが含まれていて、決して作品として成功しているとは思わない。
ただ、これだけの紙数を費やして、私たちの身近な世界から要素を置換することをみずからに禁じながら、そういう現実世界を反転させたような、まるで異質な世界、一つ一つのこまごまとした要素からして一から想像力で作り出していかなくてはならない、反転した世界を強引にでっち上げるという力技を見せてもらった、という意味では、感心もさせられるし、こういう説明につぐ説明のような作品をよくまぁ作者自身が退屈せずに書き続けられたものだ、と感心させられる。
ただ、血みどろの惨劇風の光景が展開するところやラストのヨシマツとの対決の場面などになると、さすがに登場人物たちが生きて血のかよう存在のように「説明」を超えていくので、通常の小説としてそこそこの読み応えを感じながら読んでいくことができた。
でもしんどかった!(笑)
2010年11月09日
「マザーウォーター」(松本佳奈監督)
わが団地でロケが行われ、ご近所のおうちや孫といつも遊んでいる公園やらよく知った方が飼っているワン公やらが映っている映画だというので、パートナーに手を引かれて見に行きました。
途中あやうく眠りに落ちてしまいそうでしたが、何とか我慢しておしまいまで観ました。でもほんと、しんどかった。正直、退屈で死にそうでした!(笑)
なぜこんなにもったいぶらないといけないのかな、というのが最初の印象です。
登場人物のほとんどが、まるで「人生の教師」であるかのように、もったいぶったご託宣をノタマイます。あの頭でっかちなおしゃべりは何なんでしょう?
そのどれもが、誰だってそんなことは百も承知で、でも誰もそんなこともったいぶって口にしたりしないで、もっともっとはるかに深い生活思想を生きているんだよ、と言いたくなるような、他愛のないご託宣です。
スタッフの誰も、登場人物たちのあの鼻持ちならない科白の臭みに気づかなかったんでしょうか?ほかの映画では優れた俳優さんもいるのに、撮影中に「こんな鼻持ちならない科白はとても言えません」って言って帰ってしまった人は一人もいなかったのでしょうか(笑)。
監督は今回の方とは違ったかと思いますが、「かもめ食堂」のときは、まだこんなにひどくはなかったと思うのですが、スタッフがよほど頭デッカチになってしまっているんだろうな、と思わずにはいられませんでした。
要は押し付けがましいのです。
シンプルライフだかスローライフだか美意識だか知らないけれど、そんなのが生活感などまるでない人たちの科白やふるまいように、青い血管が浮き出るみたいにグロテスクに浮いて出ているのを見せ付けられるのは、いい気分ではありません。
いい歳をした婆さんがイタリア製の何万もする靴を履いてお洒落を気取ったり、サンドイッチやら饅頭やら食べるのにフィンランドの白樺製のカップを使ったり、ウィスキーしか飲ませない気まぐれバーをやってることがそんなに立派なことなのかな。
あの女優さんたちはほんとに自分の赤ちゃんを抱いて育てたことがあるのかな?抱き方をみていて疑問に思ったのですが。(むろん、まだ独身の女優さんもいるのでしょうけれど。)少なくともこの映画の中では、どの俳優さんもまるで生活感を失っています。
そういう鼻持ちならない奇麗事の理念だけの世界をつくりたかったのなら、「成功」していると言うべきなのかもしれません。ラストもわざとらしくて、どうしてこう小ざかしく頭で作ってしまうんだろう、と思ってしまいました。
私たちの住む京都をロケ地にしていても、京都とは縁もゆかりもない映画です。強いて言えば、東京人のみた、生活抜きの抽象的な「京都」という空疎な理念しか見当たりません。唯一の例外は、もたいまさこが筍を買った八百屋のおばさんですね(笑)。あれは本当にそこらの八百屋のおばさんじゃなかったのかな。あとは幼児も含めて全部だめです。
キャストはいまどきの日本映画の中では、錚々たるメンバーということになるのでしょう。でも、作品そのものが、かれらの資質や才能を裏切ってしまいます。
これは誰のせいか私にはよくわかりませんが、きっとシナリオがよくないんだろうな、とは思いました。かなりひどいと思います。
あと、些細なことで言えば、豆腐屋のまえに座って登場人物たちが豆腐に醤油をたらして食べるのですが、市川実日子という女優さんのそう小さくもない手ですくったあの豆腐一丁、みんなすっかり食べるんですかね?なんぼなんでも大きすぎるでしょう。(笑)
この映画の唯一の取り柄は、加瀬亮がパクつくカツサンドが、実に美味そうに見えたことでした。彼はサンドの真ん中からがぶっとかぶりついていました。
これは名の知れたフードコーディネーターのおかげでしょうね。
映画館を出てから、無性にカツサンドが食べたくなり、三条まで歩いてイノダでビフカツサンドを食べました。あのシーンには、映画館を出たらカツサンドを食べろという刷り込みのサブリミナル効果があったようで、それが私たちが実感できたこの映画の唯一の「力」でありました。
きょうは辛口漫談映画評で、オソマツ m(_ _)m
途中あやうく眠りに落ちてしまいそうでしたが、何とか我慢しておしまいまで観ました。でもほんと、しんどかった。正直、退屈で死にそうでした!(笑)
なぜこんなにもったいぶらないといけないのかな、というのが最初の印象です。
登場人物のほとんどが、まるで「人生の教師」であるかのように、もったいぶったご託宣をノタマイます。あの頭でっかちなおしゃべりは何なんでしょう?
そのどれもが、誰だってそんなことは百も承知で、でも誰もそんなこともったいぶって口にしたりしないで、もっともっとはるかに深い生活思想を生きているんだよ、と言いたくなるような、他愛のないご託宣です。
スタッフの誰も、登場人物たちのあの鼻持ちならない科白の臭みに気づかなかったんでしょうか?ほかの映画では優れた俳優さんもいるのに、撮影中に「こんな鼻持ちならない科白はとても言えません」って言って帰ってしまった人は一人もいなかったのでしょうか(笑)。
監督は今回の方とは違ったかと思いますが、「かもめ食堂」のときは、まだこんなにひどくはなかったと思うのですが、スタッフがよほど頭デッカチになってしまっているんだろうな、と思わずにはいられませんでした。
要は押し付けがましいのです。
シンプルライフだかスローライフだか美意識だか知らないけれど、そんなのが生活感などまるでない人たちの科白やふるまいように、青い血管が浮き出るみたいにグロテスクに浮いて出ているのを見せ付けられるのは、いい気分ではありません。
いい歳をした婆さんがイタリア製の何万もする靴を履いてお洒落を気取ったり、サンドイッチやら饅頭やら食べるのにフィンランドの白樺製のカップを使ったり、ウィスキーしか飲ませない気まぐれバーをやってることがそんなに立派なことなのかな。
あの女優さんたちはほんとに自分の赤ちゃんを抱いて育てたことがあるのかな?抱き方をみていて疑問に思ったのですが。(むろん、まだ独身の女優さんもいるのでしょうけれど。)少なくともこの映画の中では、どの俳優さんもまるで生活感を失っています。
そういう鼻持ちならない奇麗事の理念だけの世界をつくりたかったのなら、「成功」していると言うべきなのかもしれません。ラストもわざとらしくて、どうしてこう小ざかしく頭で作ってしまうんだろう、と思ってしまいました。
私たちの住む京都をロケ地にしていても、京都とは縁もゆかりもない映画です。強いて言えば、東京人のみた、生活抜きの抽象的な「京都」という空疎な理念しか見当たりません。唯一の例外は、もたいまさこが筍を買った八百屋のおばさんですね(笑)。あれは本当にそこらの八百屋のおばさんじゃなかったのかな。あとは幼児も含めて全部だめです。
キャストはいまどきの日本映画の中では、錚々たるメンバーということになるのでしょう。でも、作品そのものが、かれらの資質や才能を裏切ってしまいます。
これは誰のせいか私にはよくわかりませんが、きっとシナリオがよくないんだろうな、とは思いました。かなりひどいと思います。
あと、些細なことで言えば、豆腐屋のまえに座って登場人物たちが豆腐に醤油をたらして食べるのですが、市川実日子という女優さんのそう小さくもない手ですくったあの豆腐一丁、みんなすっかり食べるんですかね?なんぼなんでも大きすぎるでしょう。(笑)
この映画の唯一の取り柄は、加瀬亮がパクつくカツサンドが、実に美味そうに見えたことでした。彼はサンドの真ん中からがぶっとかぶりついていました。
これは名の知れたフードコーディネーターのおかげでしょうね。
映画館を出てから、無性にカツサンドが食べたくなり、三条まで歩いてイノダでビフカツサンドを食べました。あのシーンには、映画館を出たらカツサンドを食べろという刷り込みのサブリミナル効果があったようで、それが私たちが実感できたこの映画の唯一の「力」でありました。
きょうは辛口漫談映画評で、オソマツ m(_ _)m
2010年11月04日
町田康 『人間小唄』
今日は親鸞の降誕祭とかで、両親の月参りに来てもらっているお寺から案内があって、嵯峨のお寺へ行ってきました。
まったく信仰のない身ながら、社会的慣習に従って葬式仏教のお世話になっていて、月参り一回休んでもらう代わりに、この種の催しには寸志をもって出かけるのです。
寺が義母の家の近くなので、曾孫の顔を見たがる義母のところへ孫とパートナーを運んで私は人身御供で寺でお経を聞くという次第で、まぁ実益?を兼ねているわけです。
読経を聞いていて居眠りしそうなので、手元の簡略版の経典の意味をたどっていると、それなりに退屈しのぎができます。中3のころの漢文の授業を思い出したりして。
でもふと思ったのは、お経を読んだり聞いたりするとき、だれもこんな意味なんて考えねえよな、と。
ならばお経のかわりにア~ウ~でもアイウエオでもアーベーセーでもいいんじゃないでしょうか。なんか意味がありそうなほうが有難みがあるってんなら、「いろはうた」なんか、「色は匂へど散りぬるを・・・」ってちゃんと歌になっるし、いいかも。
いずれにせよ、読み手と聞き手の双方が有難い、と思っていれば、アーベーセーでもアイウエオでも、不都合はなさそうです。
要はそこに書いてある言葉の意味なんて、どうでもいいわけで、お経と名前のついた有難い言葉らしきものを称えることに意味があるのでしょう。
だけど、法然さんや親鸞さんの時代にこんなこと言い出すってのは、そりゃ大変なことだったでしょうね。(そんなこと言ってねぇよ、って坊さんから文句でるかもしれないけど・・・笑)
これはもう、言葉ってものの意味を全部剥奪してしまうことだし、修行の「行」の意味も全部剥奪しちゃうことでしょうから。
あとに何が残るの?、って考えると、たぶん、それが法然さんや親鸞さんに言わせりゃ「信」ってことだったんでしょうね。
要は信じるか信じないか、信じなきゃハイそれまでよ、ってところまで仏教を解体しちゃったんだから、そりゃ明恵みたいな教養人が怒るのは当たり前ですね。
いまふうに言えば、教養なんて全部無意味よ、ってなことで、学的向上心も、「知の技法」も、薀蓄も、行も、みんな捨てちまいな、そんなもの何の価値もないんだからよ、って言うんでしょう?
で、無知を、何も持たないことを、いやいや極悪人さえも、あるがままに肯定するってことじゃないかな。極楽往生が最高の理想なら、そんなのがみんな極楽往生できますよ、ってんだから、いまあるマイナス、全部肯定しちゃうよ、ってことになりません?
つまり深くまるごと時代を肯定してしまう。知識人ってのは小ざかしい否定が大好きな連中だから、学やら知やらの世界では、天地がひっくりかえるほど「反時代的」にみえただろうけれど、根本的にこれはその時代の人間のありようをまるごと、それでいいんだよ、と肯定することじゃないのかな。
それにしても、乱世につぐ乱世、まっとうな信仰なんて失われているだろう時代に、イロハだろうがアロハだろうが、お経らしきものを称えりゃいい、っていうんなら、経を称えるってことにどんな意味があるんだろ?って考えると、う~ん、逆にもうどんな「意味」のある言葉を吐こうと手遅れで、「信」なんかどこにもないぜ、ってときに、それでもそいつを何とかして呼び起こそうとする儀式のようなもんじゃないか、って思えてきました。
招魂の儀式みたいなものかな。お経って、ただ音として聴いていると、そう悪くないんですね。ある種の快感もあります。読んでる坊さんなんか、完全に自分の朗々たる声に酔いしれてるもんね(笑)。
いや、こんなこと思ったのは、昨日読んだ町田康の『人間小唄』の連想かもしれません。お経みたいなもんで、ところどころ分かるけど、おおかたはアイウエオでもイロハでもアーベーセーでもいいような小説です(笑)。
もちろん69ページあたりの「俺」が糺田をいじるシーンなんかは、のりにのってきて、暴力シーンに立ち会う未無が「乱暴はやめて」のかわりに「乱暴はやって」と叫んだりすると、思わず噴き出したり、いろいろ楽しめます。
でもまぁ、太宰流のイタコのドンドコドンはこの作家の得意技で、もう『告白』*のときに極致まで堪能させてもらってるから、驚きません。
(うちの学生さん、これは湊かなえさんとは無関係よ。町田康さんのほうの『告白』よ。湊さんには悪いけど、こっちのほうが、はるかに面白いから一度読んでみ)
この作品はそのあとのなんだったか忘れたけれど、意味不明の領域へ突っ込んでいった作品の延長線上にあって、もう言葉の「意味」なんかどうでもよろしい、意味なんか構成しようとする「行」にも意味はないよ、と。
ただ読んでいくと解放感をおぼえませんか?と。そういえばテンポがよくて、なんか「カイカ~ンッ」(セーラー服で機関銃ぶっ放す薬師丸ひろ子ふうに)みたいなの感じません?
こういう招魂の儀式みたいなのは、言葉の「意味」を通じて、論理やら知性やらうるさいもんに訴える近代の「小説」ってやつとはちょっと異質な気がしますが、どうでしょう?「物語」でもなくって、やっぱりこれは「唄」なんでしょうね。
まったく信仰のない身ながら、社会的慣習に従って葬式仏教のお世話になっていて、月参り一回休んでもらう代わりに、この種の催しには寸志をもって出かけるのです。
寺が義母の家の近くなので、曾孫の顔を見たがる義母のところへ孫とパートナーを運んで私は人身御供で寺でお経を聞くという次第で、まぁ実益?を兼ねているわけです。
読経を聞いていて居眠りしそうなので、手元の簡略版の経典の意味をたどっていると、それなりに退屈しのぎができます。中3のころの漢文の授業を思い出したりして。
でもふと思ったのは、お経を読んだり聞いたりするとき、だれもこんな意味なんて考えねえよな、と。
ならばお経のかわりにア~ウ~でもアイウエオでもアーベーセーでもいいんじゃないでしょうか。なんか意味がありそうなほうが有難みがあるってんなら、「いろはうた」なんか、「色は匂へど散りぬるを・・・」ってちゃんと歌になっるし、いいかも。
いずれにせよ、読み手と聞き手の双方が有難い、と思っていれば、アーベーセーでもアイウエオでも、不都合はなさそうです。
要はそこに書いてある言葉の意味なんて、どうでもいいわけで、お経と名前のついた有難い言葉らしきものを称えることに意味があるのでしょう。
だけど、法然さんや親鸞さんの時代にこんなこと言い出すってのは、そりゃ大変なことだったでしょうね。(そんなこと言ってねぇよ、って坊さんから文句でるかもしれないけど・・・笑)
これはもう、言葉ってものの意味を全部剥奪してしまうことだし、修行の「行」の意味も全部剥奪しちゃうことでしょうから。
あとに何が残るの?、って考えると、たぶん、それが法然さんや親鸞さんに言わせりゃ「信」ってことだったんでしょうね。
要は信じるか信じないか、信じなきゃハイそれまでよ、ってところまで仏教を解体しちゃったんだから、そりゃ明恵みたいな教養人が怒るのは当たり前ですね。
いまふうに言えば、教養なんて全部無意味よ、ってなことで、学的向上心も、「知の技法」も、薀蓄も、行も、みんな捨てちまいな、そんなもの何の価値もないんだからよ、って言うんでしょう?
で、無知を、何も持たないことを、いやいや極悪人さえも、あるがままに肯定するってことじゃないかな。極楽往生が最高の理想なら、そんなのがみんな極楽往生できますよ、ってんだから、いまあるマイナス、全部肯定しちゃうよ、ってことになりません?
つまり深くまるごと時代を肯定してしまう。知識人ってのは小ざかしい否定が大好きな連中だから、学やら知やらの世界では、天地がひっくりかえるほど「反時代的」にみえただろうけれど、根本的にこれはその時代の人間のありようをまるごと、それでいいんだよ、と肯定することじゃないのかな。
それにしても、乱世につぐ乱世、まっとうな信仰なんて失われているだろう時代に、イロハだろうがアロハだろうが、お経らしきものを称えりゃいい、っていうんなら、経を称えるってことにどんな意味があるんだろ?って考えると、う~ん、逆にもうどんな「意味」のある言葉を吐こうと手遅れで、「信」なんかどこにもないぜ、ってときに、それでもそいつを何とかして呼び起こそうとする儀式のようなもんじゃないか、って思えてきました。
招魂の儀式みたいなものかな。お経って、ただ音として聴いていると、そう悪くないんですね。ある種の快感もあります。読んでる坊さんなんか、完全に自分の朗々たる声に酔いしれてるもんね(笑)。
いや、こんなこと思ったのは、昨日読んだ町田康の『人間小唄』の連想かもしれません。お経みたいなもんで、ところどころ分かるけど、おおかたはアイウエオでもイロハでもアーベーセーでもいいような小説です(笑)。
もちろん69ページあたりの「俺」が糺田をいじるシーンなんかは、のりにのってきて、暴力シーンに立ち会う未無が「乱暴はやめて」のかわりに「乱暴はやって」と叫んだりすると、思わず噴き出したり、いろいろ楽しめます。
でもまぁ、太宰流のイタコのドンドコドンはこの作家の得意技で、もう『告白』*のときに極致まで堪能させてもらってるから、驚きません。
(うちの学生さん、これは湊かなえさんとは無関係よ。町田康さんのほうの『告白』よ。湊さんには悪いけど、こっちのほうが、はるかに面白いから一度読んでみ)
この作品はそのあとのなんだったか忘れたけれど、意味不明の領域へ突っ込んでいった作品の延長線上にあって、もう言葉の「意味」なんかどうでもよろしい、意味なんか構成しようとする「行」にも意味はないよ、と。
ただ読んでいくと解放感をおぼえませんか?と。そういえばテンポがよくて、なんか「カイカ~ンッ」(セーラー服で機関銃ぶっ放す薬師丸ひろ子ふうに)みたいなの感じません?
こういう招魂の儀式みたいなのは、言葉の「意味」を通じて、論理やら知性やらうるさいもんに訴える近代の「小説」ってやつとはちょっと異質な気がしますが、どうでしょう?「物語」でもなくって、やっぱりこれは「唄」なんでしょうね。