2010年06月
2010年06月26日
『ペンギン・ハイウェイ』(森見登美彦)
森見さんの新作を読んだ。これはとても面白かった。そして泣けた(笑)。
彼の作品は、友人でついこの前まで同僚(上司)だったTが、以前から面白いぞ、とご推薦だったけれど、私は読むことは読んだが、彼の面白がらせようという意図と手管が見え透いていて、わざとらしく大仰で、なじめなかった。
ところが、『宵山万華鏡』で様子が変わった。これは本当に可憐な、いい作品だった。正々堂々たる大作というのではないけれども、まさに愛すべき佳品だった。いまでも赤い金魚のような浴衣姿の少女たちが宵山の人の波に埋め尽くされた路地を駆け抜けていく姿が目に浮かぶようだ。
そして今回も一足先に読んだ友人Tが、「いままでのとまた全然傾向が違う」と言い、「村上春樹のまねしとるけどな」と言いつつも、ファンとして薦めてくれたので、湊かなえの『夜行観覧車』を読み終わるとすぐに読んでみた。
日常性の真っ只中にありえないものが登場し、この世界の法則性からはありえない事が起こり、なぞがなぞを呼び、主人公たちがそれを追及していくと、この世界の破れ目、あちらの世界との接点が垣間見える、そういう物語の結構やお膳立て、あるいは文体での人物の会話の「間(ま)」のようなものとか、そんなところに友人Tが同時代の有力な作家の影をみたのは、それなりに分からなくはないけれど、それは本質的なことではなくて、私自身は気にならなかった。
村上春樹の「この世界」と「あちらの世界」との構造は、倫理を孕んでいる。彼は私の考えでは漱石に匹敵する倫理的な作家だと思う。
でも森見のこの作品はそういうものではない。言ってみればこれは現代の「かぐや姫」であり、メルヘンであり、ファンタジーなのだと思う。それは『宵山万華鏡』と少しも変わらないし、まさにその延長上にある。
私たちが彼の作品を読んで感じる印象は、もちろん村上春樹の作品を読んで感じる印象とはまるで違ったものだ。
私はこの作品を読みながら、私が幼いころに好意をよせ、その未分化な愛と憧憬を優しく受け止めて、幼い感情がもどかしく覚醒し、成長していくのを見守りながら、最も美しい時期に去っていった10歳以上も年長の女性のことをずっと思い出していた。
この作品に描かれているのも、そんな現代のかぐや姫であり、いつかあちらの世界へ旅立つことを宿命づけられた理想の女性、憧憬の対象との出会いと別れだ。
なぜ宿命づけられているかといえば、この出会いと別れは、心身の成熟しきらない思春期に独特のものだからだ。それを未分化な愛と性が生み出す幻想としての憧憬や理想と言ってしまえば身も蓋もないかもしれない。
けれど、これは誰もが通ってきた道であり、出会いも、別れも、避けることのできないものだ。
ペンギン・ハイウェイの「海」は、村上春樹のこちらの世界とあちらの世界の接点にある二つの月とは違う。「海」はいわばアドレッセンスの未分化で無垢でウェットな溢れんばかりのセンチメントにほかならない。
だから、その世界を支える海が消滅するとき、私たちは感傷の涙を流し、現実に立ち返る。頁を閉じたとき、もうそこには、これが失われるなら世界が消えてしまうか自分が生きてはいられないとさえ思えた幻の片鱗も残ってはいない。あとには、二度と返ってはこないアドレッセンス固有の世界への、切ないばかりの愛惜の思いがあるばかりだ。
これは、頁を閉じても消えず、むしろ二つの月が見えるようになる(かもしれない・・笑)村上春樹の世界とは似てもにつかない世界だけれど、私はこちらも好きだし、今回の作品は『宵山万華鏡』とともに、若い人にお勧めしたい。
彼の作品は、友人でついこの前まで同僚(上司)だったTが、以前から面白いぞ、とご推薦だったけれど、私は読むことは読んだが、彼の面白がらせようという意図と手管が見え透いていて、わざとらしく大仰で、なじめなかった。
ところが、『宵山万華鏡』で様子が変わった。これは本当に可憐な、いい作品だった。正々堂々たる大作というのではないけれども、まさに愛すべき佳品だった。いまでも赤い金魚のような浴衣姿の少女たちが宵山の人の波に埋め尽くされた路地を駆け抜けていく姿が目に浮かぶようだ。
そして今回も一足先に読んだ友人Tが、「いままでのとまた全然傾向が違う」と言い、「村上春樹のまねしとるけどな」と言いつつも、ファンとして薦めてくれたので、湊かなえの『夜行観覧車』を読み終わるとすぐに読んでみた。
日常性の真っ只中にありえないものが登場し、この世界の法則性からはありえない事が起こり、なぞがなぞを呼び、主人公たちがそれを追及していくと、この世界の破れ目、あちらの世界との接点が垣間見える、そういう物語の結構やお膳立て、あるいは文体での人物の会話の「間(ま)」のようなものとか、そんなところに友人Tが同時代の有力な作家の影をみたのは、それなりに分からなくはないけれど、それは本質的なことではなくて、私自身は気にならなかった。
村上春樹の「この世界」と「あちらの世界」との構造は、倫理を孕んでいる。彼は私の考えでは漱石に匹敵する倫理的な作家だと思う。
でも森見のこの作品はそういうものではない。言ってみればこれは現代の「かぐや姫」であり、メルヘンであり、ファンタジーなのだと思う。それは『宵山万華鏡』と少しも変わらないし、まさにその延長上にある。
私たちが彼の作品を読んで感じる印象は、もちろん村上春樹の作品を読んで感じる印象とはまるで違ったものだ。
私はこの作品を読みながら、私が幼いころに好意をよせ、その未分化な愛と憧憬を優しく受け止めて、幼い感情がもどかしく覚醒し、成長していくのを見守りながら、最も美しい時期に去っていった10歳以上も年長の女性のことをずっと思い出していた。
この作品に描かれているのも、そんな現代のかぐや姫であり、いつかあちらの世界へ旅立つことを宿命づけられた理想の女性、憧憬の対象との出会いと別れだ。
なぜ宿命づけられているかといえば、この出会いと別れは、心身の成熟しきらない思春期に独特のものだからだ。それを未分化な愛と性が生み出す幻想としての憧憬や理想と言ってしまえば身も蓋もないかもしれない。
けれど、これは誰もが通ってきた道であり、出会いも、別れも、避けることのできないものだ。
ペンギン・ハイウェイの「海」は、村上春樹のこちらの世界とあちらの世界の接点にある二つの月とは違う。「海」はいわばアドレッセンスの未分化で無垢でウェットな溢れんばかりのセンチメントにほかならない。
だから、その世界を支える海が消滅するとき、私たちは感傷の涙を流し、現実に立ち返る。頁を閉じたとき、もうそこには、これが失われるなら世界が消えてしまうか自分が生きてはいられないとさえ思えた幻の片鱗も残ってはいない。あとには、二度と返ってはこないアドレッセンス固有の世界への、切ないばかりの愛惜の思いがあるばかりだ。
これは、頁を閉じても消えず、むしろ二つの月が見えるようになる(かもしれない・・笑)村上春樹の世界とは似てもにつかない世界だけれど、私はこちらも好きだし、今回の作品は『宵山万華鏡』とともに、若い人にお勧めしたい。
『夜行観覧車』(湊かなえ)
職場の本棚には、これまでに出版された(私の知らないものがあれば別だけれど)湊かなえの小説は全部単行本でそろえてある。
たまたま出身校ということで職場の売店にも積み上げてあるし、なにしろいま書店で一番派手に平積みしてあるような作家の作品群なので、ふだんめったに小説など読まない学生さんでも、「湊かなえさんの本ある?」と訪ねてきたりする。
彼女の作品が本屋大賞に選ばれて、全国の書店が販売に協力したことも大きな力だろうし、『告白』が映画化され、同時に文庫本化された相乗効果も大きいようだ。
それらは風俗現象にすぎないので、どちらかというと冷ややかに見守るといった気分で見ているけれど、ではそんなに読まれているのはどんな作品だろう?という関心は強いので、これまでも一通りはすべて読んできた。
その都度このブログで感想を書いてきたけれど、振り返ってみるとあまり好意的な感想を書いていない(苦笑)。
まだ若い新人なのだし、学生たちにとってもいわばアカデミックな「遠縁」くらいにあたる作家なのだし、書店で手にとるときは、今度はいい作品かもしれないし、そしたら、読め、読め、と学生さんたちにお勧めして、自分も贔屓にしたい気持ちはある。
けれど、読みおわると、いつも、う~ん・・・という微妙な気分になる。
どっちみち、ここまでベストセラー作家になって世間で評価を受けているのだから、私の応援などもとより不要だし(笑)、熱烈なファンには悪いけれど、読者極少ブログで率直な極私的感想を書き付けるくらいは許してもらいたい、とは思うけれど。
ただ、今回は、それほど一人の素直な読者として不満はなかった。
とくにいいな、と思ったところから言うと、これは好みの問題だけれど、今回のタイトルは嫌いじゃない。一件落着後のラストで、バイプレヤーの小島さと子が「マーくん」への手紙に、「あと、このあいだ知ったんだけど、さ来年、海の近くに観覧車ができるんですって。」と書いて登場するにすぎない観覧車だけれど、これを「夜行観覧車」としてタイトルにしたのは、うまいなぁ、と思う。
最後の2~3行。
「長年暮らしてきたところでも、一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら。」
この作品をここまで読んできて、この行を読むと、これまで一人称的な主観に入り込んで事件の内部を生きてきた読者は、自分の目がロングショットを撮るカメラのようにすっと引いていって、いままで自分がその間を行ったりきたりしていた幾つかの家庭の姿が、一軒一軒の家の形が見える程度の上空から、その家々の明かりを見下ろすような遠景としてみるような印象をもつ。
そして、帯で映画「告白」に主演した松たか子が書いているように、家々の明かりが、それぞれの傷ついたり傷つけあったりしてボロボロになりばらばらになりそうな家族のけなげな営み、それでも家族でありつづけている姿を、なにかいとおしいもののように眺めている自分に気づく。
つまり、ここまで読んできてこの一行を読むと、この「夜行観覧車」からの見え方の変化の中に、作者が作品を通じて伝えたかった主題が全部集約されているような気がしてくる。
これだけ言えば、もういいかな(笑)、と思う。そういうことを感じさせるというのは、大したものだと思う。
広い意味の推理小説でもあるのだし、人物が平板で、パターン化された人物しか出てこないとか、文体がどうとか、この国の文壇ではエンターテインメントとして別段欠点とは考えられていないことをあれこれ言っても詮無いことだろう。
それより、そのつど語り手の主観に入り込んで、ぐいぐい引っ張っていく、『告白』以来の方法は、もともとは異なる人物をしっかりと造形し、ブロックを積むように客観描写を積み重ねて堅固な構造を持った構築物をつくる力量の不足している新人作家が、単調ではあっても、若い作家ならではの鋭い感性や勢いを武器に、切実なモチーフを精一杯紙の上にぶつける方法であったと思うけれど(そしていまもそういう意味合いを感じはするけれども)、この作品では、それがあまり違和感なく、すでに作者独特の方法として定着しようとしているのを感じる。
もうモノローグの単調さや、人物が二人、三人になっても同じ人物が感じ考えしゃべっているような単調な印象は、あまり感じられない。作家として成熟ということなのだろう。
たまたま出身校ということで職場の売店にも積み上げてあるし、なにしろいま書店で一番派手に平積みしてあるような作家の作品群なので、ふだんめったに小説など読まない学生さんでも、「湊かなえさんの本ある?」と訪ねてきたりする。
彼女の作品が本屋大賞に選ばれて、全国の書店が販売に協力したことも大きな力だろうし、『告白』が映画化され、同時に文庫本化された相乗効果も大きいようだ。
それらは風俗現象にすぎないので、どちらかというと冷ややかに見守るといった気分で見ているけれど、ではそんなに読まれているのはどんな作品だろう?という関心は強いので、これまでも一通りはすべて読んできた。
その都度このブログで感想を書いてきたけれど、振り返ってみるとあまり好意的な感想を書いていない(苦笑)。
まだ若い新人なのだし、学生たちにとってもいわばアカデミックな「遠縁」くらいにあたる作家なのだし、書店で手にとるときは、今度はいい作品かもしれないし、そしたら、読め、読め、と学生さんたちにお勧めして、自分も贔屓にしたい気持ちはある。
けれど、読みおわると、いつも、う~ん・・・という微妙な気分になる。
どっちみち、ここまでベストセラー作家になって世間で評価を受けているのだから、私の応援などもとより不要だし(笑)、熱烈なファンには悪いけれど、読者極少ブログで率直な極私的感想を書き付けるくらいは許してもらいたい、とは思うけれど。
ただ、今回は、それほど一人の素直な読者として不満はなかった。
とくにいいな、と思ったところから言うと、これは好みの問題だけれど、今回のタイトルは嫌いじゃない。一件落着後のラストで、バイプレヤーの小島さと子が「マーくん」への手紙に、「あと、このあいだ知ったんだけど、さ来年、海の近くに観覧車ができるんですって。」と書いて登場するにすぎない観覧車だけれど、これを「夜行観覧車」としてタイトルにしたのは、うまいなぁ、と思う。
最後の2~3行。
「長年暮らしてきたところでも、一周まわって降りたときには、同じ景色が少し変わって見えるんじゃないかしら。」
この作品をここまで読んできて、この行を読むと、これまで一人称的な主観に入り込んで事件の内部を生きてきた読者は、自分の目がロングショットを撮るカメラのようにすっと引いていって、いままで自分がその間を行ったりきたりしていた幾つかの家庭の姿が、一軒一軒の家の形が見える程度の上空から、その家々の明かりを見下ろすような遠景としてみるような印象をもつ。
そして、帯で映画「告白」に主演した松たか子が書いているように、家々の明かりが、それぞれの傷ついたり傷つけあったりしてボロボロになりばらばらになりそうな家族のけなげな営み、それでも家族でありつづけている姿を、なにかいとおしいもののように眺めている自分に気づく。
つまり、ここまで読んできてこの一行を読むと、この「夜行観覧車」からの見え方の変化の中に、作者が作品を通じて伝えたかった主題が全部集約されているような気がしてくる。
これだけ言えば、もういいかな(笑)、と思う。そういうことを感じさせるというのは、大したものだと思う。
広い意味の推理小説でもあるのだし、人物が平板で、パターン化された人物しか出てこないとか、文体がどうとか、この国の文壇ではエンターテインメントとして別段欠点とは考えられていないことをあれこれ言っても詮無いことだろう。
それより、そのつど語り手の主観に入り込んで、ぐいぐい引っ張っていく、『告白』以来の方法は、もともとは異なる人物をしっかりと造形し、ブロックを積むように客観描写を積み重ねて堅固な構造を持った構築物をつくる力量の不足している新人作家が、単調ではあっても、若い作家ならではの鋭い感性や勢いを武器に、切実なモチーフを精一杯紙の上にぶつける方法であったと思うけれど(そしていまもそういう意味合いを感じはするけれども)、この作品では、それがあまり違和感なく、すでに作者独特の方法として定着しようとしているのを感じる。
もうモノローグの単調さや、人物が二人、三人になっても同じ人物が感じ考えしゃべっているような単調な印象は、あまり感じられない。作家として成熟ということなのだろう。
2010年06月06日
『下流の宴』(林真理子 著)
車中で読んでいても、途中で居眠りをすることが多くて、なかなか読めなかった。ようやく読み終える。
睡眠時間が短くて眠いせいもあったけれど、読んでいてしんどくなってくる小説。
難しいわけではない。いまどきどこにでもいるパターン化された人物が次々に登場し、パターン化された行動をとり、パターンかされた言葉をかわす、わかりよすぎるほどわかりよい中間小説だ。
なぜ読むのがしんどいかといえば、そこに何ひとつハッとさせられるような新鮮な視点も新鮮な感覚も新鮮な思考もみあたらず、ただ世の中にこういう人間がおり、こういう感じ方や考え方をする人間が居る、と週刊誌やテレビのワイド番組やゴマンとある中間小説が「上から目線」で取り上げて小馬鹿にしながら描写するような教育ママや無責任亭主やフリーターや芋姐ちゃんややセレブ気取りの女やサラブレッド気取りの種馬みたいな男たちが次々に出てきて、彼らにふさわしい浅はかなからみをくりひろげるだけだ。
こういう挿話をつなげていくなら、いまの世の中にそれこそゴマンとこんな人間はいるだろうし、こんなシーンはあるだろうし、積み木何十個かの組み合わせで幾百幾千の物語でも作れてしまうだろうな、という気がする。その積み木の組み合わせにプロの中間小説作家としての腕があるのだろうけれど、こういう登場人物のうちにほんとうの人間が描かれるはずだ、という錯覚があるだろうという一点で、この種の作品は決定的に私などが考えている文学から遠く隔たってしまう。
いわゆる純文学をかたくなに信奉する立場なら、これは文学ではない、と言い切るのかもしれないけれど、そう言い切ることを躊躇させるのは、その高みから見下す描写の中にひそむ誇張や、戯画化に、僅かな作者の批評性が含まれているからだ。
人物の設定とその動かし方がみせてくると、結果はすぐに想像がつくが、このような動かし方の中では案外予想がつかず、面白いのは誇張され、戯画化される人物に対する作者のまなざしを仮託された翔だろう。
自然、彼は一番誇張や戯画化の度合いが小さく、最初から最後まで自分の生き方、感じ方、考え方にブレがない。高揚もないが幻滅もない。最初から作者が世俗的な価値観だと考えているらしいものからみれば最低線のところに位置して、そこを動こうともしない。
誇張や戯画化の批評性というのは、この翔の位置から作者が設定した「世俗的な価値観」の仮構線上で生きる、それなりにバラエティをもった他の人物たちとの距離感によって生じている。
しかし、ここに作者の勘違いがある、と私などは思う。この作品を読むと、作者はきっと、この作品でいまの世の中にはびこる「世俗的な価値観」を適度な誇張とそこから生じる滑稽味も皮肉も交えて、小気味よく切ってみせた、と得意なのだろうな、と思えてしまう。
けれども、ほんとうはこの程度の翔の視点などで足許をすくわれるような人間なんてたかが知れている。ここに登場するような人物はみな作者の「世俗」の観念が作り上げた血の通わない木偶にすぎない。
それは、一見「自由」な翔の「最低線」自体が、作者の「上から目線」をカモフラージュするだけのつまらないフィクションに過ぎないためだ。
週刊誌のコラム子が「世俗の群像」を揶揄して悦に入るように、作者は翔の「下から目線」を借りて、自分の設定した上昇志向にとりつかれた「世俗」の群像を揶揄して悦に入っているようにみえる。
その得意顔の揶揄や皮肉は、いまの社会に生きる人々の喜怒哀楽の井戸の底には届きそうもない。作者は彼女が考える最低線よりも上にではなく、下に、現在の社会に生きる人々の喜怒哀楽の仮構線を設定すべきだったのだと思う。
睡眠時間が短くて眠いせいもあったけれど、読んでいてしんどくなってくる小説。
難しいわけではない。いまどきどこにでもいるパターン化された人物が次々に登場し、パターン化された行動をとり、パターンかされた言葉をかわす、わかりよすぎるほどわかりよい中間小説だ。
なぜ読むのがしんどいかといえば、そこに何ひとつハッとさせられるような新鮮な視点も新鮮な感覚も新鮮な思考もみあたらず、ただ世の中にこういう人間がおり、こういう感じ方や考え方をする人間が居る、と週刊誌やテレビのワイド番組やゴマンとある中間小説が「上から目線」で取り上げて小馬鹿にしながら描写するような教育ママや無責任亭主やフリーターや芋姐ちゃんややセレブ気取りの女やサラブレッド気取りの種馬みたいな男たちが次々に出てきて、彼らにふさわしい浅はかなからみをくりひろげるだけだ。
こういう挿話をつなげていくなら、いまの世の中にそれこそゴマンとこんな人間はいるだろうし、こんなシーンはあるだろうし、積み木何十個かの組み合わせで幾百幾千の物語でも作れてしまうだろうな、という気がする。その積み木の組み合わせにプロの中間小説作家としての腕があるのだろうけれど、こういう登場人物のうちにほんとうの人間が描かれるはずだ、という錯覚があるだろうという一点で、この種の作品は決定的に私などが考えている文学から遠く隔たってしまう。
いわゆる純文学をかたくなに信奉する立場なら、これは文学ではない、と言い切るのかもしれないけれど、そう言い切ることを躊躇させるのは、その高みから見下す描写の中にひそむ誇張や、戯画化に、僅かな作者の批評性が含まれているからだ。
人物の設定とその動かし方がみせてくると、結果はすぐに想像がつくが、このような動かし方の中では案外予想がつかず、面白いのは誇張され、戯画化される人物に対する作者のまなざしを仮託された翔だろう。
自然、彼は一番誇張や戯画化の度合いが小さく、最初から最後まで自分の生き方、感じ方、考え方にブレがない。高揚もないが幻滅もない。最初から作者が世俗的な価値観だと考えているらしいものからみれば最低線のところに位置して、そこを動こうともしない。
誇張や戯画化の批評性というのは、この翔の位置から作者が設定した「世俗的な価値観」の仮構線上で生きる、それなりにバラエティをもった他の人物たちとの距離感によって生じている。
しかし、ここに作者の勘違いがある、と私などは思う。この作品を読むと、作者はきっと、この作品でいまの世の中にはびこる「世俗的な価値観」を適度な誇張とそこから生じる滑稽味も皮肉も交えて、小気味よく切ってみせた、と得意なのだろうな、と思えてしまう。
けれども、ほんとうはこの程度の翔の視点などで足許をすくわれるような人間なんてたかが知れている。ここに登場するような人物はみな作者の「世俗」の観念が作り上げた血の通わない木偶にすぎない。
それは、一見「自由」な翔の「最低線」自体が、作者の「上から目線」をカモフラージュするだけのつまらないフィクションに過ぎないためだ。
週刊誌のコラム子が「世俗の群像」を揶揄して悦に入るように、作者は翔の「下から目線」を借りて、自分の設定した上昇志向にとりつかれた「世俗」の群像を揶揄して悦に入っているようにみえる。
その得意顔の揶揄や皮肉は、いまの社会に生きる人々の喜怒哀楽の井戸の底には届きそうもない。作者は彼女が考える最低線よりも上にではなく、下に、現在の社会に生きる人々の喜怒哀楽の仮構線を設定すべきだったのだと思う。