2010年03月
2010年03月24日
出町から上と下
出町から上と下とでは、かなり気温が違うのか、桜の開花時期も明らかに違うようです。
きょう街へ出るのに、雨の中、川端をバスに乗って通りました。高野から出町柳あたりまでは、まだほとんど開花はみられません。枝垂桜は早くて、出町の橋の向こうの枝垂れはもう満開のようです。
出町柳から先、南へ下がっていくと、もうかなりの枝に、ぽつぽつながら開いた花が見られ、中にはかなり開花している樹もあります。樹ごとにかなり差があるけれど、大雑把にいうと、出町の上と下とで大きなちがいがあるようです。
これは冬の雪が降る日に、出町より南はほとんど積もっていないのに、出町から上はどっと積もっていて、タクシーに乗っても「出町から上はもう無理」と断わられたりするのと同じ。
そんなに起伏があるわけでもない狭い市域の中で、南から北へ連続している地形の中でこれほどはっきりした違いがあるのも面白く感じられます。
きょう街へ出るのに、雨の中、川端をバスに乗って通りました。高野から出町柳あたりまでは、まだほとんど開花はみられません。枝垂桜は早くて、出町の橋の向こうの枝垂れはもう満開のようです。
出町柳から先、南へ下がっていくと、もうかなりの枝に、ぽつぽつながら開いた花が見られ、中にはかなり開花している樹もあります。樹ごとにかなり差があるけれど、大雑把にいうと、出町の上と下とで大きなちがいがあるようです。
これは冬の雪が降る日に、出町より南はほとんど積もっていないのに、出町から上はどっと積もっていて、タクシーに乗っても「出町から上はもう無理」と断わられたりするのと同じ。
そんなに起伏があるわけでもない狭い市域の中で、南から北へ連続している地形の中でこれほどはっきりした違いがあるのも面白く感じられます。
2010年03月19日
『近頃の若者はなぜダメなのか』(原田曜平)
こういうタイトルの本を見ると、商売柄、つい買って読む。でもたいていはいい加減なもので、落胆する。
今回は落胆しなかった。面白い。それはひとえに、著者が教育者などではなく、大手広告代理店(の研究所)に勤務するサラリーマンで、若者研究の一環として、「延べ1000人以上、約7年をかけて、47都道府県すべてをまわり」、若者に直接インタビューをして集めた一次情報をベースにして書いているためだろう。
家族のことひとつ知らないのに親友、というのも、彼らがコミュニケーションで重視しているのはわれわれ世代が重視するそういった「基礎情報」ではなく、「相手がジャニーズの追っかけをしている『追っかけキャラ』であること」「相手が神経質で几帳面な『A型キャラ』であること」など、会話が盛り上がりやすい「キャラ情報」だからだ、というふうな指摘、「毎週、毎月会う友達ではなく、2、3ヶ月に1回会う友人がたくさんいる」という人間関係、いくつもの帰属集団をかけもちでまわる多忙な日常など、実際に若い人とつきあっていて日ごろ感じていることが、ここでは非常に的確にとらえられている。
われわれも教育の公的な場では、若い人にコミュニケーション力を養う、などと言っているけれど、本当はコミュニケーションが下手なのはこちらのほうで、かれら若い人たちは素のままでコミュニケーションの達人だということも、この本を読めば納得できる。同じ言葉で別のことを指しているとしても、だ。
その時、その場のTPOに応じて、自分のキャラを使い分けて、繊細高度なコミュニケーションのとれる若者たちの姿も実に的確に、具体的な体験的エピソードによって描き出されている。
だれかがそんなことを言っていたけれど、高齢者相手の介護の現場などで、昔なら真心をこめた誠心誠意の献身が美徳として求められたかもしれないけれど、むしろそのときその場で必要な限りにおいて自分を献身的な介護者キャラとして、嘘でも表面だけでもいい、あくまで優しくにこやかに振舞って、相手を心地よくさせるコミュニケーションがとれるような軽みこそ、現代の若者たちの強みなのかもしれない。
この一冊の中で、いちばん印象にのこる言葉は、著者がシンポジウムのパネリストとして協力を求めた女子高生のひとこと。
「相手からメールの返信がこないだけで、嫌われたんじゃないかとか。メアド変更の知らせがきたから、まだ友達と思われているんだとか。ケータイを持つことは、常時ポケットにむき出しの刃物を入れている気分です」
この箇所を読んだとき、「ケータイとは何か」という問いに対する答として、「それは常時ポケットにむき出しの刃物を入れていることなんだ」という言葉が、まさに腑に落ちる、という感じで自分の中にストンと落ちる気がした。
ケータイについては、色んな学者や文化人があれこれ詮索して、色んなことを言っているけれど、結局のところケータイって何?という問いに、こちらを納得させてくれるようなものにはいままで出会わなかった。
そこへこの女子高生のひとことが、前後の解釈的な文脈を抜きに、それ自体ひとり歩きして私の中へ落ちてきた。理屈ではない。まさに腑に落ちるとしか言いようのない形で。
そうか、彼女たちはいつもポケットにむき出しのナイフを入れているんだ・・・。
少なくとも私は今後、彼女たちがケータイを取り出すとき、この言葉を連想せずに見ることはできないだろうと思う。
今回は落胆しなかった。面白い。それはひとえに、著者が教育者などではなく、大手広告代理店(の研究所)に勤務するサラリーマンで、若者研究の一環として、「延べ1000人以上、約7年をかけて、47都道府県すべてをまわり」、若者に直接インタビューをして集めた一次情報をベースにして書いているためだろう。
家族のことひとつ知らないのに親友、というのも、彼らがコミュニケーションで重視しているのはわれわれ世代が重視するそういった「基礎情報」ではなく、「相手がジャニーズの追っかけをしている『追っかけキャラ』であること」「相手が神経質で几帳面な『A型キャラ』であること」など、会話が盛り上がりやすい「キャラ情報」だからだ、というふうな指摘、「毎週、毎月会う友達ではなく、2、3ヶ月に1回会う友人がたくさんいる」という人間関係、いくつもの帰属集団をかけもちでまわる多忙な日常など、実際に若い人とつきあっていて日ごろ感じていることが、ここでは非常に的確にとらえられている。
われわれも教育の公的な場では、若い人にコミュニケーション力を養う、などと言っているけれど、本当はコミュニケーションが下手なのはこちらのほうで、かれら若い人たちは素のままでコミュニケーションの達人だということも、この本を読めば納得できる。同じ言葉で別のことを指しているとしても、だ。
その時、その場のTPOに応じて、自分のキャラを使い分けて、繊細高度なコミュニケーションのとれる若者たちの姿も実に的確に、具体的な体験的エピソードによって描き出されている。
だれかがそんなことを言っていたけれど、高齢者相手の介護の現場などで、昔なら真心をこめた誠心誠意の献身が美徳として求められたかもしれないけれど、むしろそのときその場で必要な限りにおいて自分を献身的な介護者キャラとして、嘘でも表面だけでもいい、あくまで優しくにこやかに振舞って、相手を心地よくさせるコミュニケーションがとれるような軽みこそ、現代の若者たちの強みなのかもしれない。
この一冊の中で、いちばん印象にのこる言葉は、著者がシンポジウムのパネリストとして協力を求めた女子高生のひとこと。
「相手からメールの返信がこないだけで、嫌われたんじゃないかとか。メアド変更の知らせがきたから、まだ友達と思われているんだとか。ケータイを持つことは、常時ポケットにむき出しの刃物を入れている気分です」
この箇所を読んだとき、「ケータイとは何か」という問いに対する答として、「それは常時ポケットにむき出しの刃物を入れていることなんだ」という言葉が、まさに腑に落ちる、という感じで自分の中にストンと落ちる気がした。
ケータイについては、色んな学者や文化人があれこれ詮索して、色んなことを言っているけれど、結局のところケータイって何?という問いに、こちらを納得させてくれるようなものにはいままで出会わなかった。
そこへこの女子高生のひとことが、前後の解釈的な文脈を抜きに、それ自体ひとり歩きして私の中へ落ちてきた。理屈ではない。まさに腑に落ちるとしか言いようのない形で。
そうか、彼女たちはいつもポケットにむき出しのナイフを入れているんだ・・・。
少なくとも私は今後、彼女たちがケータイを取り出すとき、この言葉を連想せずに見ることはできないだろうと思う。
『複眼の映像』(橋本忍)
日本で最も名高い脚本家が自分と黒澤明との生涯の関わりを描いた貴重な記録であり、抜群に面白い回顧録。2006年に出ているが、最近文庫版で出たのを読んだ。
黒澤と著者が共同脚本を書いた「生きる」や「七人の侍」の脚本の作られる様子がほんとうに生き生きと書かれていて、ワクワクする面白さだった。
この本を手にして、最初に手放せなくなって一気に読んでしまうきっかけになったページは、次のような箇所だ。
病床にある脚本の師匠・伊丹万作から「原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね」と訊かれた橋本は、師匠がよしとするであろう答を知りながら、それを口にせずに、こう言う。
「牛が一頭いるんです」
「牛・・・・?」
「柵のしてある牧場みたいな所の中だから、逃げ出せないんです」
伊丹さんは妙な顔をして私を見ていた。
「私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も・・・あちこちと場所を変え、牛を見るんです。それで急所が分かると、柵を開けて中へ入り、鈍器のようなもので一撃で殺してしまうんです」
「・・・・・・」
「もし殺し損ねると牛が暴れ出して手がつけられなくなる。一撃で殺さないといけないんです。そして鋭利な刃物で頚動脈を切り、流れ出す血をバケツに受け、それを持って帰り、仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは生血だけなんです」
弟子の言葉に伊丹は天井の一点を見つめたまま何も言わない。やがて言う。「・・・しかし、橋本君」と弟子に向けた目は「微かだが柔和な慈愛に似たものも滲み広がり始めている。」
「この世には殺したりはせず、一緒に心中しなければいけない原作もあるんだよ」
この弟子にしてこの師あり、この師にしてこの弟子あり。この一節を読むと、もうページを繰らないわけにはいかなくなった。そして、終わり近い第四章のはじめあたりまで、まったく期待にそむかない抜群に面白い回顧録だった。
この本で最後に強い印象を与える箇所は、野村芳太郎に「黒澤さんにとって、私・・・橋本忍って、いったいなんだったんでしょう?」と不用意に漏らした言葉に対して、野村芳太郎が言葉を返すエピソードだ。
「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」
「え?」
「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから・・・映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになってしまったんです」
橋本はムッとして反問する。
「しかし、野村さん、それじゃ、黒澤さんのレパートリーから『羅生門』と『生きる』、『七人の侍』が?」
「それらはないほうがよかったんです」
「え!?」
こんな面白い映画人の回顧録は初めて読んだ。実際に映画を撮っている若い人には沢山の教訓が著者の語るエピソードの中に教訓臭なしにちりばめられていて、必読の一冊か。
黒澤と著者が共同脚本を書いた「生きる」や「七人の侍」の脚本の作られる様子がほんとうに生き生きと書かれていて、ワクワクする面白さだった。
この本を手にして、最初に手放せなくなって一気に読んでしまうきっかけになったページは、次のような箇所だ。
病床にある脚本の師匠・伊丹万作から「原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね」と訊かれた橋本は、師匠がよしとするであろう答を知りながら、それを口にせずに、こう言う。
「牛が一頭いるんです」
「牛・・・・?」
「柵のしてある牧場みたいな所の中だから、逃げ出せないんです」
伊丹さんは妙な顔をして私を見ていた。
「私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も・・・あちこちと場所を変え、牛を見るんです。それで急所が分かると、柵を開けて中へ入り、鈍器のようなもので一撃で殺してしまうんです」
「・・・・・・」
「もし殺し損ねると牛が暴れ出して手がつけられなくなる。一撃で殺さないといけないんです。そして鋭利な刃物で頚動脈を切り、流れ出す血をバケツに受け、それを持って帰り、仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは生血だけなんです」
弟子の言葉に伊丹は天井の一点を見つめたまま何も言わない。やがて言う。「・・・しかし、橋本君」と弟子に向けた目は「微かだが柔和な慈愛に似たものも滲み広がり始めている。」
「この世には殺したりはせず、一緒に心中しなければいけない原作もあるんだよ」
この弟子にしてこの師あり、この師にしてこの弟子あり。この一節を読むと、もうページを繰らないわけにはいかなくなった。そして、終わり近い第四章のはじめあたりまで、まったく期待にそむかない抜群に面白い回顧録だった。
この本で最後に強い印象を与える箇所は、野村芳太郎に「黒澤さんにとって、私・・・橋本忍って、いったいなんだったんでしょう?」と不用意に漏らした言葉に対して、野村芳太郎が言葉を返すエピソードだ。
「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです」
「え?」
「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから・・・映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになってしまったんです」
橋本はムッとして反問する。
「しかし、野村さん、それじゃ、黒澤さんのレパートリーから『羅生門』と『生きる』、『七人の侍』が?」
「それらはないほうがよかったんです」
「え!?」
こんな面白い映画人の回顧録は初めて読んだ。実際に映画を撮っている若い人には沢山の教訓が著者の語るエピソードの中に教訓臭なしにちりばめられていて、必読の一冊か。
「時をかける少女」(谷口正晃監督)
大林宣彦監督のすべての作品と同様に、「時をかける少女」も好きなので、けっこう評判がいいと聞いていても、自分が観れば多かれ少なかれ失望するだろうと思っていたが、予想に反して落胆せずに観ることができた。
若い人が好演。とくにヒロイン芳山あかり役の仲里依紗(なか りいさ)は出色で、大林の和子役だった原田知世の古典的な少女像とは全く異質ないま現在そのへんにいそうな女の子キャラを実に鮮やかに演じている。
シンプルでロマンチックな大林の作品はいまでも好きだけれど、母娘の時間軸を入れて現代の物語に置き換えたとき必要になったシナリオの工夫も、よくできていると思う。
私たちの世代にとっては、70年代の雰囲気が懐かしい。もう40年近く経ってしまって、映画を作るにも若いスタッフには時代物を撮るのと変わらない「時代考証」が必要だったろうと思うと可笑しくもあり、不思議な感じもする。
中尾明慶が演じた溝呂木涼太、青木崇高が演じたゴテツ(長谷川政道)、柄本時生が演じた本宮悟などを見ていると、そうそう、あのころは若い男がほんとにダサくて汚かったよなぁ、と笑えてくる。
冬は一週間に一度しか銭湯に行かない、なんていうのもアタリマエだった(いまは毎日入っていますが・・・笑)。
そういうのを競い合う風があって、だれかが2週間風呂へ行かなかった話をしたとき、某私大の女子寮にいた可愛いらしい女子学生から「わたしの友達なんか下着をウラオモテひっくりかえすだけで1ヵ月はいてたんですよ!」と聞いたときは、さすがに閉口して、聞きたくなかった!と思ったけれど、男女を問わずそんな猛者はいくらもいた。
あかりが転がり込む涼太の4畳半の光景が妙に懐かしかった。
極端に古典的なキャラに仕立てているけれど、石橋杏奈演じる若い日の芳山和子なども存在感があって良かったし、好きなゴテツが機材屋へいくのに、嬉しそうな笑顔でついていく姿が瞼に残る。
吾朗が語っていた事故の話が、再度決定的な場面であかりの脳裡に甦ってくるとき、観ているこちらの脳も完全に同調していて、吾朗の言葉が脳裡に鮮やかに甦ってきて衝撃を受ける。シナリオがうまくてこの辺は劇的なハイライト。
ところどころ不自然な演出や大仰な演技に違和感をおぼえるところがなくはない。どこでもいいけれど、たとえば父親が倒れてショックを受け、あかりのいる自分の部屋へ帰ってくる涼太の重々しい表情やふるまい。本当に深い衝撃にうちのめされた人間は決してこういうとき、こんなふうには振舞うまい。
むしろここは、あかりにも気づかれないほど淡々とした表情ではいってきて、なんでもないようにあかりに応対しながら、頭の中が全部父親のことで占領されているために、実は上の空で応対していることが、あかりとのちょっとしたやり取りのズレで見る者に分かるというような演技なり演出なりのほうがずっと自然だろう。頭で考えた「らしさ」はちっともリアルでない。
でもまぁ、全体としてはよくできた「現代版・時をかける少女」だった。
若い人が好演。とくにヒロイン芳山あかり役の仲里依紗(なか りいさ)は出色で、大林の和子役だった原田知世の古典的な少女像とは全く異質ないま現在そのへんにいそうな女の子キャラを実に鮮やかに演じている。
シンプルでロマンチックな大林の作品はいまでも好きだけれど、母娘の時間軸を入れて現代の物語に置き換えたとき必要になったシナリオの工夫も、よくできていると思う。
私たちの世代にとっては、70年代の雰囲気が懐かしい。もう40年近く経ってしまって、映画を作るにも若いスタッフには時代物を撮るのと変わらない「時代考証」が必要だったろうと思うと可笑しくもあり、不思議な感じもする。
中尾明慶が演じた溝呂木涼太、青木崇高が演じたゴテツ(長谷川政道)、柄本時生が演じた本宮悟などを見ていると、そうそう、あのころは若い男がほんとにダサくて汚かったよなぁ、と笑えてくる。
冬は一週間に一度しか銭湯に行かない、なんていうのもアタリマエだった(いまは毎日入っていますが・・・笑)。
そういうのを競い合う風があって、だれかが2週間風呂へ行かなかった話をしたとき、某私大の女子寮にいた可愛いらしい女子学生から「わたしの友達なんか下着をウラオモテひっくりかえすだけで1ヵ月はいてたんですよ!」と聞いたときは、さすがに閉口して、聞きたくなかった!と思ったけれど、男女を問わずそんな猛者はいくらもいた。
あかりが転がり込む涼太の4畳半の光景が妙に懐かしかった。
極端に古典的なキャラに仕立てているけれど、石橋杏奈演じる若い日の芳山和子なども存在感があって良かったし、好きなゴテツが機材屋へいくのに、嬉しそうな笑顔でついていく姿が瞼に残る。
吾朗が語っていた事故の話が、再度決定的な場面であかりの脳裡に甦ってくるとき、観ているこちらの脳も完全に同調していて、吾朗の言葉が脳裡に鮮やかに甦ってきて衝撃を受ける。シナリオがうまくてこの辺は劇的なハイライト。
ところどころ不自然な演出や大仰な演技に違和感をおぼえるところがなくはない。どこでもいいけれど、たとえば父親が倒れてショックを受け、あかりのいる自分の部屋へ帰ってくる涼太の重々しい表情やふるまい。本当に深い衝撃にうちのめされた人間は決してこういうとき、こんなふうには振舞うまい。
むしろここは、あかりにも気づかれないほど淡々とした表情ではいってきて、なんでもないようにあかりに応対しながら、頭の中が全部父親のことで占領されているために、実は上の空で応対していることが、あかりとのちょっとしたやり取りのズレで見る者に分かるというような演技なり演出なりのほうがずっと自然だろう。頭で考えた「らしさ」はちっともリアルでない。
でもまぁ、全体としてはよくできた「現代版・時をかける少女」だった。