2009年11月

2009年11月20日

「蜷川実花展」(西宮市大谷記念美術館)

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 若い人たちにふだん彼女たちがあまり行かない美術館を見てもらいたいと思って出かけた。たまたま蜷川実花展をやっていたので、若い人にとっては良かった。これが日本の古美術で掛軸だの屏風だの書だのが並んでいたら、見向きもされたなかっただろうから(笑)。

 蜷川実花なら、彼女たちのほとんどが、雑誌で作品を見たことがあって、ある程度身近な感覚で見られるようだ。でも彼女たちに、どう?と感想を訊くと、「可愛い」というような言葉が返ってくるので、ちょっと面喰らう。

 まぁ花やら金魚やら乙女チックなところもあるし、ポスターカラーのような高彩度の刺激色が目に飛び込んでくる作品群のある種の迫力は、彼女たちの世代好みなのだろう。

 実際、CGを専門にしているゼミの学生などの描く作品の中に、質としては似通った雰囲気のものがあるな、という印象を受ける。パネルは極大化しているけれど、これは写真というより、写真を取り込んだディスプレイ上の色鮮やかなCG作品と言ってほうが自然な気がする。

 この写真家に限らず、いまアートとしての写真がこういうものになっているのかもしれないが、かつての写真表現を決定づける要素が相対化されて、絵画やCG作品との違いを言い立てることに意味がなくなったのかもしれない。

 そう言えば、私が美術館の構想・計画などに関わるようになったきっかけの仕事をした数十年前に、すでにニューヨークに長年住み付いて作品を作りつづけていた日本人の女性アーチストも、植物をコピー機にかけて絵画と合成するような作品を作っていたのを思い出す。

 蜷川実花の作品はどこででも見かけるため、これまでもいやおうなく目にしてきたけれど、私個人にはひっかかってくるものが何もなかったので、これだけまとまった作品を少し時間をかけて見たのは今回が初めてだ。

 結果的には、やはり展示室を回っていてとても居心地が悪かった。むろん強い個性を持った作家であることは疑うべくも無いし、まだしも自分が強く惹かれるような作品が一つでも記憶できないかな、と強いて探したけれど、これという一点を挙げることもできなかった。

 敢えて挙げれば、幼稚園の子供が折り紙や和紙を千切ったり、手近な材料を寄せ集めてブリコラージュの手法で作った「作品」を小さな額縁におさめて父兄参観の日に教室に飾って見てもらう、あれのように壁面に掛けられていた、小作品群だろうか。骸骨などのシンボルはともかくとして、あぁ、こういうのはうちの孫なんかが作りそうだな、と親近感を覚えた(笑)。

 沢山の著名な俳優などの肖像写真や、若い素人の女性の写真など、普通だと作品によって引き出されたり強調されたりする被写体の魅力に惹かれるものだけれど、その種の広義の<性>的なオーラがまるで感じられないのが不思議だった。

 それでここに描かれた女性たちは男性に訴えかけたり、媚びたりするようなオーラを発することを禁じられている、あるいは自ら禁じていて、同性にだけ訴えかけたり、媚びたりするようなオーラを発しているのかもしれない、と思って若い人に訊いてみたのだけれど、先のような答で、うまく噛みあわなかった。

 これらの作品群というのは、同性である女性か、いまどきの草食性の男性にのみ訴えかける性質のものではないか、ひょっとすると。

 そして、本当のところ、この作家は「<男性>嫌い」ではないか?(笑)。或いはもっと辿っていくと、そういう<男性>に訴えるような存在としての<女性>性への生理的な嫌悪感なのか畏怖なのか拒否なのか、何かよく分からないけれど、忌避的な生理を根っこに持っているのではないか、という気がした。

 それは、これらの作品のいかにも明るい(彩度の高い)、赤系統の華やかな色使いや、花や金魚やといった乙女チックな形象に目を奪われると、まるで見当違いのようにも思えるけれど、あの網膜を著しく刺激する高彩度の赤は、装飾的なポジティブなものというより、ちょうど草間弥生のブツブツの斑点と同じ、作家のうちに潜む強いオブセッションだと思える。

 あの原色に近い赤は、生理的な畏怖や嫌悪や拒否の根源から噴き出してくるものではないか。

 正直言って私はあぁいうのが苦手で、草間弥生にしても、直島の海岸の広々とした風景の中に置かれているからこそ、そのオブセッションから作家の魂が解き放たれるような開放感があって素晴らしいけれど、室内でその種の作品を見るとちょっと耐えられない。

 私は今回、その赤の氾濫に少々辟易した。よく彼女の作品について言われる「元気の出る」ような作品群だとはとても思えなかった。そのことは彼女が力のある作家だとか、作品に迫力がある、ということとは別の問題だろう。

 その意味ではここにはまぎれもなく、作家の個性というのか、宿命というのか、避けようのないものが、否応無く表現されている、と思える。

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at 21:39|Permalink

2009年11月14日

『犬はいつも足元にいて』(大森兄弟 著)

 これは珍しい兄弟の共同執筆という小説。でもそういう作品外の情報が読むときに気になることはないし、作品の解釈にも影響するようには思えない。

 僕はしゃがんだまま、膝の間に頭を挟んだ。そうしていると、ひび割れたコンクリートしか見えなかった。ひび割れの中にうごめきを感じて、目を凝らすと、小さな生き物がチロチロと動いていた。それは虫で、表面を覆う黒い殻が、わずかな外灯の光を照り返していた。 

 見方によればちょっと人を食ったとぼけた味さえある、淡々とした印象なのは、「僕」の視点から語られる描写は、このような無生物であれ、人間であれ、犬であれ、ほとんど変わらない距離感を持っているせいだ。

 従順な犬が主人である「僕」に忠実なそぶりを見せると、その「ひたむきさが、いや」であり、毎日散歩して、広場で得たいの知れない腐臭を放つ肉を掘り出しては、うっとりと放心している犬につきあい、汚れた犬の世話もしてやりながら、それは「やりたくてやっているわけじゃない」。

 冷たい雨の朝、散歩に連れ出したり、土を掘り返した犬の足をぬぐったり、糞のこびりついたスコップを洗ったり、まとわりつくような犬の視線にからめ取られたり、そんなことが日常からなくなったらどんなにいいだろう。 

 「僕」はそう思っており、

 まるで僕が犬を飼いたがり、世話が僕の当然の役割である、というような感じになると、うんざりして犬を「なし」にしたくなる。 

 なりゆきから学校の同級生サダと関わるようになり、犬の散歩の最中にサダに出くわし、悪い予感どおりそのサダが距離を詰めてくる。偶然出会うようなふりをして近づいてくる。演技だという証拠は無いけれど、演技だと感じざるを得ないやり方で距離を詰められる。

 それについて僕は何も言わなかったし、態度にも出ていなかったと思うけど、毎朝繰り返されるその一つ一つの言葉、動作にいらだっていた。 

 できれば「僕」は、自分を主人として媚びた視線を絡ませてくる犬と同様に、このサダも「なし」にしてしまいたいのだろう

 サダのせいでも犬のせいでもない。これが「僕」の世界への対し方なのだ。相手が犬だろうが人間だろうが物だろうが、変わりがない。

 傍から見れば、これは、何の感情も示さず、何を考えているか分からない、いわゆる「表情のない」、いまどきどこにでも何人かは見つけられる得体の知れないアブナイ少年の像に近い。

 きっと幼い頃から親や周囲の大人たちのほんとうの愛情を知らず、誰にも本心から好かれたこともなく、ただ動物のような生存の本能と自己防御の固い殻によって、水一滴ほどの潤いも無い乾いた精神環境の中で生き延びてきたかのような少年。
 
 ペットであれ人間であれ、物であれ、世界との距離感が同じで、決して距離を詰めることがなく、傷つくこともなく、距離を詰めるものに対しては、うっとおしいと思い、できれば「なし」にしてしまいたい、と感じている。

 そして、おそらくはその淡々として単に「薄情」にみえる受動的な姿勢は、距離を詰められて臨界点にくると反転し、いわゆる「キレル」状態、酷薄な攻撃性に転じるのではなかろうか。

 「サダ君、学校辞めちゃったのかな」と訊いた隣の席の女子の「弱点」であるこめかみの黒子の毛をまじまじと眺めて薄笑いしてみせる「僕」の姿にその徴候ははっきり見える。

 一つ一つの言葉には、象徴的な含みも奥行きもないし、鮮やかな像を立ち上げるような喩もない。表出位置(視点)の転換によるダイナミズムも、炊き立てのご飯の米一粒一粒が立っているような強い指示性もみられない。

 指示的な文体ではあるけれど、対象のパースペクティブを3Dカメラで鮮明な立体映像としてとらえるような指示性ではなくて、3次元のものを無理やり2次元の世界に落として対象の上に視線を這わせ、対象の輪郭を細かに辿っていく、その時間の順序に沿って描写していくような文体だ。

 冒頭に引いたように、私たちの日常世界ではふつう意味をもたないコンクリートのひび割れのようなものを、拡大鏡にかけて見るようにたどる視線は、人間であれ、ペットであれ、物体であれ、「僕」にとっては等価な対象でしかないことを、逆に鮮やかに証拠立てている。

 飼い主ならペットに人間的な感情を込めて相手をするだろう。人間相手ならましてやだ。このように、私たちが普通なら質的に区別し、感情を込めたり込めなかったり、おのずから異なる距離感で接するはずの世界を、この「僕」が同じ距離感で対していることを、こうした「僕」の視点からの表出が示している。

 この作品の核心は、たぶん、こうした「僕」の世界への対し方、極限値で言えば、「なし」にしてしまえたら、と感じている、その感じ方にあるのだろうと思う。

 この作品がそのまわりをめぐるように構成される「広場」の茂みを犬が掘って掘り出される腐臭漂う得体の知れない肉は、ほんとうなら「なし」にしてしまいたいそんな世界の否定性の象徴といってもいいのだろう。

 得体の知れない肉や、「僕」とサダとのエピソード、ペットの犬との関係など、この作品の表徴のすべてが、文体そのものが指示する一点へと収斂していく。

 それは、私たちが多かれ少なかれ肯定せずには生きることができないために、とにもかくにも受け容れて生きているこの世界への、強い違和感のようなものだと言えば当らずとも遠からずのように思われる。

at 14:56|Permalink

2009年11月12日

『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(本谷有希子)

 インパクトのあるタイトルに惹かれて文庫本を手にとった。若い頃に「君よ憤怒の河を渉れ」という西村寿行の小説をタイトルに惹かれて読んだことがあったが、命令形で、なんとなく調子が似ている感じ。

 でも、こちらは古い言い方でいうところの「純文学」。楽しめるというよりも、かなりきつい内容だった。「三匹の蟹」あたりからの崩壊家族も、ここまで来たか、という崩壊家族の極北。いまはやりの(?)DVというのだろうか、互いに精神的にも肉体的にも傷つけあい、極限まで追い詰めあって、瀕死の状態で互いに寄りかかり合うことで、辛うじて立っているかのような家族の姿。

 内容はそんなところだけれど、面白いな、と思ったのは、この人の使う喩だ。

 「生身の人間であることを放棄してみせるかのようにうずくまったまま」(いったいどんな「うずくま」りかたなんだろう?)
 「ちゃぶ台にしろ、・・日本人形にしろじっと沈黙を守り、ここが田舎であるという力強い主張に徹していた。」(ちゃぶ台や人形が「沈黙を守」ったり、「力強い主張に徹し」たりするんだ!)
 「笑顔と呼ぶにはあまりに不確定な、見るものに様々なニュアンスを想起させる表情で」(どんな表情よ!)
 「まるで墓場からつい今しがた甦り、増殖を繰り返す生ける屍にも見えた。」
 「清深は松の下で腹を向けて転がる小動物の肢体に温度の無い視線を向ける。」
「すべての主導権を太陽に乗っ取られた外へと踏み出した。」
 「幾つかの玩具が、切込の入った厚紙に実った果実のようにつるされている。」
 「まるで小学生に読み書きを教える教師を思わせる柔和さで、」
 「木々がまさに心の中の不穏さを掻き立てるようにざわざわと揺れている。」
 「農作業用の白いシャツだけがはしゃぐ子供のように風に身を委ね、」
 「悲鳴のように皮膚から吹き出す汗の味」
 
 これらの喩は、吉本隆明さんが『言語にとって美とはなにか』で「形而上的な像」(意想的な像)を喚起する独特の像的喩と指摘したものに近いのではないだろうか。澄伽が兄穴道に激しく詰め寄り、また妹清深を苛め抜く苛烈な場面にみるような指示性の強い文体がこの種の喩によって形而上的な影をまとうように思われる。

 たとえば、

 "感情的になっていく声とともに、澄伽の指はギリギリと清深の頭を締め付けた。五本の長い爪が頭皮にきつく突き立てられ、熱いほどの激痛が走る。何本か髪が同時に引き抜かれる音を、清深は耳ではなく脳で直接聞いた気がした。"

最後の一文は、喩の形をとっていないけれど、特徴的な喩といってもいいだろうし、この部分でただ肉体的に責められているだけの描写が、その肉体的な痛みを清深の心の痛みを通して読めるような奥行きを言語が獲得している。

 「清深は悲鳴のように皮膚から吹き出す汗の味を口端に感じながら」なども、「悲鳴のように」という喩が無ければ、単に即物的に吹き出す汗を指示する言語にすぎなくなるところを、清深の心を潜った「吹き出す汗」になっていて、いわば「形而上的」な奥行きが生じている。

 ただ、この作品を読んでいて、かなり強い違和感を感じたところもある。

 "「・・・そうか」
 さっきまでの軽率な雰囲気を一変させた宍道は、聞きとれない声で呟いた。床に目を伏せてから、自分を見つめている妹に気付いたのか、白い歯をわずかにこぼし、「折角許してもらったんだから、これからは仲良くしろよ」と兄らしく言い添えた。
 「うん」
 強く答え、清深は頷いた。「もう絶対、あんなことしない」
 その目の端に薄く涙が浮かんでいることを知った宍道が口を開こうとするより先に、清深はくるりと背中を向け二階へと去って行った。”

 客観描写ではあるが、「兄らしく言い添えた。」までは清深の目線から、あるいはそれに寄り添って兄宍道を見ているが、その先は「清深はくるりと背中を向け二階へと去っていった。」という清深の背中を追う、兄宍道の目線に沿った移行している。

 もうひとつ。澄伽が兄の首にカッターナイフをあてて詰め寄るところを目撃する清深の視点で「廊下にいた清深は思わず目を凝らしたが、月の前を流れる雲が二人の体に次々と複雑な影模様を落とし込んでいくため、結局確認できなかった。」というふうに描かれてきたのが、

 「刃先を警戒しつつ、宍道は緊張した面持ちで答えた。そのこめかみにはうっすらと汗がにじんでいる。少しの間、澄伽は兄の顔の上に流れて行く影を強い眼差しで追っていたが、・・・」

 と澄伽の視点またはそれに寄り添って書かれている。そうすると宍道の「こめかみにうっすらと汗がにじんでいる」のが果たして見えるだろうか、と半畳を入れそうになる。この種のさりげない移行はほかにもあって、作者は神様でもないのに、自在に登場人物の頭の中に入り込んで出たり入ったりするのはこれでいいのか?といった疑問を生ずるところがある。

中間小説ではごくあたりまえに見られることだけれど、この作品で出会うと、表出位置がなしくずしに曖昧化されたようにみえることによる居心地の悪さを僅かだが感じる。それは視点の移動とか転換というのとは違う。

 明確に語り手を区別し、2人のそれぞれの視点で章を分けて書く場合は問題がない。一つの場面で、或る人物から別の人物になしくずしに視点が移行すると違和感を覚える。さりげなく移れば移るほど、微妙な違和感が残る。



at 00:31|Permalink

2009年11月09日

「冨田渓仙展」(福岡市美術館)

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 仕事で福岡へ行って今日帰ったのですが、午後の空いた時間に、福岡市美術館で開いている企画展「冨田渓仙展」を見てきました。

 冨田渓仙はもともと博多の人なので、水戸芸術館でやったあとは、大阪も京都もすっとばして、福岡での展覧会。

 実は義理の伯父が渓仙の養子という縁で(なんて言っても、もちろん血のつながりもないし、ネットワーク論によれば私たちは世界中の誰とでも、たった6人を隔ててつながっているそうだから、赤の他人といってもいいのですけど)、以前からほかの画家よりはずっと関心をもってきたので、今回は80歳を過ぎた義母もパートナーも別途わざわざ福岡まで出かけて見に行ったのでした。

 展覧会が前期、後期と展示物に多少違いがあって、私の見たのは偶々後期なので、前に見たことがある「祗園夜桜」などは見ることができませんでした。

 それでも、渓仙が画壇で実力を認められた「鵜船」や、しばらくその絵の前で釘付けになった「菊慈童図」のような素晴らしい作品をじっくりすいた館内で見ることができたのは幸いでした。

 「鵜船」は構成が巧みで動的で、すばらしい。「菊慈童図」は、伝説の菊慈童の立つ頭上に屈曲して伸びた枝と花の姿形が本当に美しくて見惚れてしまいました。

 ポール・クローデルとのコラボレーションによる「奈良の藤」なども、とてもいい感じ。横山大観のお江戸日本橋と双幅に描かれた三条大橋も両者の特色がよく出て堂々たるものだし、「福建竜骨車図」や「沈竈・溶膝」、「南泉斬猫・狗子仏性」などにも惹かれました。

 大作(六曲一双屏風)嵯峨八景が二点しか残っていない(どこかに隠れているのかもしれないけれど)のは残念だけれど、今回はその二点「愛宕暮雪」「浜町夕照」が見られました。

 でも「浜町夕照」の解説に、「漁村風景」というような言葉があったのは可笑しかった。きっと学芸員さん、絵の風景の現場へ来られたことがなくて、「浜町」という言葉から連想されたのではないでしょうかね。(*追記参照)

 あれは材木を筏に組んで運んでまたそれを引き揚げる材木商があった嵐山のあのあたりを「浜町」というので、「漁村」などでは全然ないはずですが。

 ま、いろいろ文句をつけたりしながら、見て歩きました(笑)。大作はいろいろあったけれど、義母から聞いていた、小品ですばらしい佳品が多い、というそのあたりは、あまり印象的な作品が出ていなかったようで残念でした。

 京都の嵐山にあった渓仙の家で季節ごとに架け替えていた軸などに、とても面白いものがあったそうです。今回の展覧会でも「個人蔵」というのが結構多いので、どこかのコレクターが秘蔵して、季節ごとに床の間に掛けたりして愉しんでいるのかな・・

 素人目にちょっと面白いな、と思ったのは、今回はメインではなかったけれど、渓仙の独特の文字(書)です。結構癖のある特徴的な書で、孤高の人らしいシャープな印象の書です。

 逆にあまり面白くないな、と思ったのは初期の、絵描きの卵としては優等生みたいな、でものちの渓仙らしい特徴がまだうかがえない「模索の時代」の作品群や、逆に画壇で高く評価されて以降の「さらなる洗練」というキャッチフレーズつきで展示された第4章にあった「伝書鳩」のようなよくわからない作品。

 「菊慈童図」が昭和7年で、「伝書鳩」が昭和9年、というのもよく分からない。これだけ近い時期に、私自身の印象で絵の前でしばらく佇んでいたいような前者(掛軸)と、なんだよこれ、と思うような「大作」(二曲一双屏風)が描けるのがよくわからない。

 まぁ、そんなことはどうでもよろしい。圧倒的な量というわけではなかったけれど、一通り各時期の渓仙が集められて、楽しめた展覧会でした。

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*(追記)
 買って帰ったカタログの解説を見ると、『渓仙八十一話』という文献によれば渓仙自身が「漁村だから夕照が一番いいところ」と述べた、とあります。これをもとに、解説で「今にも沈もうとする太陽に照らされた漁村の風景が描かれている。」と書かれています。
 絵の描かれた大正八年の浜町の実際がどうであったか、或いは別途、検証されているのかもしれません。ただ、渓仙が邸宅を構えた浜町は、いま渡月橋のあるところのほんの少し下手で、この絵にも描かれているように、昔から、切り出した木材を筏に組んで運び、陸揚げして商品の材木として流通させる材木屋だったところで、嵯峨に住む義母らの感覚でも、「漁村」というような場所ではないそうです。
 もっとも、あの一帯で鵜飼など、川漁が行われて、猟師たちが住まう漁村でもあった、ということはあるのかもしれません。
 ずっと時代は下ってからのことしか知らない私たちが、いつも伯父たちが受けついだ渓仙さんの家の前を通りながら、ここが渓仙さんの住まいだったんだ、と思いながら、材木屋が木材を並べた光景も見慣れていた感覚から、「漁村風景」と言われると、エッ?と非常に奇妙な印象を受けた、というだけのことだったのかもしれません。
 少なくとも文献的な根拠をもって渓仙さんの言葉を引用して解説を書かれた学芸員さんに、ちょっと失礼なことを書いてしまったようなので、追記しておきます。(11月10日記)

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2009年11月06日

『オンエア』(柳美里 著)

 柳美里の小説を読むのは久しぶりだな、と思って、本屋で平積みになっているのを何気なく買って、例のごとく梅田からの電車の中で読み出した。

 さて、とおもむろにページを開いて読み始めたら、初っ端からエロ本とみまごうばかりの言葉のオンパレードで、すっかりうろたえてしまった。座った席の両隣も正面も全部女子大生で、こっちのお面は割れている(笑)。

 思わずハイティーンの頃、ちょっとヤバイ本をそうしてこわごわ開いたように、30度くらいの角度に閉じたまま文字を追ったのでありました。

 いま若い女性の憧れの職業(?)であるらしい「女子アナ」の世界を「赤裸々に描いた」ということになるのでしょうか。

 でも、いくら誇張があるにせよ、まさか女子アナがこんなに下半身だけで生きているわけでもないでしょう。
 
 女子アナといえど、上半身、さらには首から上だってあるでしょうに。どうやらこの作品では、上半身とりわけ首から上となると、「女A、女B、女C・・・」でしかないように見えます。

 思うにこれは、男の下半身的視点に寄り添って描いているからなのでしょう。巻末を見ると、たぶん男性それもオジサン(私は読んでもませんが・・笑)しか読まないだろう週刊誌に連載された小説のようですから、そのへんも関係があるのかもしれません。

 下巻へくると、一度潰されて死の渕を彷徨った望月結香が再生する話や、水沢千広が後輩にカレシをとられる話やら、必死で生きている女子アナたちが下半身だけでなく上半身ないし首から上も成長していくはずの、いい物語の契機があるのに、言葉が縦深的に内面をくぐっていく気配をみせない。

 結香の危機のくぐり方は、長崎先生にすがって、いわば過去を「リセット」するようなくぐり方でしかなくて、妙にサバサバしているし(でも、彼女のエピソードやハッピーエンド的ななりゆきは好きな部分です)、千広にいたっては、だいきくん」や憎い恋敵に淡々と(?)インタビューする姿に唐突に切り替わる。

 理央にぶつけた怒りと哀しみ、口惜しさが、どう始末されたんでしょうね?それが職業柄なんだよ、女子アナってそういうものよ、と言いたいのかな?

 それはそれでいいけれど、そのときやっぱり女子アナだって下半身だけじゃないんだから、上半身というか首から上を考えれば、「人間」そのものが変わらなきゃ嘘でしょう。

 ダメになるか成長するかは分からないけれど、それだけのことをくぐるんだから、表面は同じ仕事ぶりをしているようにみえても、「彼女は昔の彼女ならず」のはず。それが全然見えないので、言葉が滑っていくように物足りなく思えるのです。

 でも、一気に上下巻の長尺を読ませる達者な筆であることは確かで、ちょっと達者すぎて、この人、直木賞もらったんだっけ?と一瞬わからなくなって、巻末の略歴を確かめました。

 でもやっぱり直木賞じゃなくて芥川賞だったんですね。芥川賞作家にしては達者すぎる。芥川賞作家はもっと「下手」なはずだ(笑)。

 藤崎あゆみが政治家高取に接近してつるみ、転進を果たしていくあたりは、山崎豊子とか松本清張とか、権力のからむ社会の裏面を描く社会派の中間小説みたいに、なかなか悪達者な筆運びで、ぐんぐん引き込まれて読まされてしまいます。でも、これって、昔読んだ柳美里とは違うような気がするのは、私の記憶違いでしょうか。

 それでも、上巻で最初のうち、別に必然性もないと思えるのに、視点がコロコロ変わる「方法的」な構成や文体がわずらわしく、また「意識の流れ」か何か知らないけれど、しょうもない人物のしょうもない内言語の垂れ流しをそのまま印刷したような滑っていく言葉が並んだところなど・・・そういうところは立派に「純文学」の尻尾が残っているのかもしれない(笑)。いっそ、そういう尻尾は切ってしまったほうが良かったのにね。

 でもこの作品、「女子アナ」に憧れているような女子大生が読むと、ちょっとたじろいだりして、いい薬になる・・・かなぁ?(笑)

 


 

 

 

at 00:41|Permalink
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