2009年10月
2009年10月22日
若冲の「象と鯨図屏風」(MIHO MUSEUM)
昨夜、東の空にオリオン座がくっくりと見えた澄んだ空のまま、きょうは秋晴れの絶好の行楽日和。
幸いの研究日で、ぶりかえした風邪に不安はあったけれど、多少の咳込みを我慢しながら車をとばして、MIHO MUSEUM へ、開催中の「若冲ワンダーランド」展を見てきました。
お目当ては、去年発見されたばかりの大作「象と鯨図屏風」です。これは発見当時、写真入りで大きく報じられ、その写真を見ただけで、是非一度見たいと思っていました。
たまたま先日このブログで書いた、半世紀ぶりに再会がかないそうになった小学校1?3年のころの同級生の女性が、今回は残念ながら彼女のほうの事情で会えなかったのですが、最後のメールで、MIHO MUSEUMへ行って、この絵を見て感動し、見ることを薦めていたので、それが直接の引き金になって、とうに行っておくべき美術館のひとつだったのに、まだ行っていなかったこの美術館に行くちょうどよい機会と、行ってきたのでした。
歌や書と同様に、早川幾忠さんに習って、水墨画も描く義母も行きたいというので、嵯峨で義母を拾って、パートナーともども3人で出かけ、まだ紅葉には少し早くて人も少ない平日の素晴らしい景観の山中にあるこの広々とした美術館で、ゆっくりと若冲の絵を楽しんできました。
お目当ての「象と鯨図屏風」は、若冲らしい図案化された象と鯨の対比という奇想というのか、発想がまず面白いし、スケールの大きな想像力を感じさせる絵です。
新聞の解説は妙に哲学的な絵であるかのような思わせぶりな紹介の仕方をしていたし、旧友の感動の仕方も少々思い入れの深い印象がありましたが、私は江戸時代の大イラストレーター若冲の面目躍如、と思って楽しんで見ました。これは妙な深読みをすべき絵ではないと思ったのです。
享保年間に長崎へやってきた象が、京都を経由して江戸まで連れて行かれる。この珍獣の見世物は当時の人々を驚かせ、大きな刺激を与えたようで、若冲もこの流行に画材をとったのでしょうが、やっぱりこれを海岸へ連れてきて鯨と対面させる発想は若冲ならではのものじゃないでしょうか。(解説も聞かなかったし、図録も買わなかったので、研究者が既に研究して、いやそれは彼のオリジナルではなくて・・・なんてことを書いているかもしれませんが・・)
若冲は根っからの京都人。成熟した文化にどっぷり浸って、天才的な職人の技と洒脱な精神(遊びごころ)を身につけた人で、田舎者のようにきまじめな芸術の求道者といった肌合いの人ではないと思います。むろんド素人の直観だけが頼りで言うのですが(笑)
私自身は、自分が比較的に身近に知っていた(前の会社の株仲間だった)日本を代表するイラストレーターの一人だった粟津潔さんを思い浮かべました。まだ学生のころ手にした彼の装丁によるロートレアモンの『マルドロールの歌』は、扉のダリによるロートレアモンの想像による肖像と共に、いまでも本の理想のありようのように、心に刻まれています。また、のちの亀さんが登場するような彼のイラストなどのとぼけた味も好きでした。
彼については、若い頃、東京の山手線に終日乗って、前の席に座る人を次々にスケッチしてデッサンのトレーニングをした、という逸話や、「ぼくとピカソの違いは、作品の数じゃないかと思うんだ。」とまじめな顔して言うんだよ、というような話を間接的に聞いたり、私自身も川崎のお宅を訪ねてヒアリングしたり、委員会の席や色々な機会にかなり何度かお目にかかり、言葉をかわしたこともあったけれど、気取らない、面白い人でした。
性格は違うかもしれないけれど、若冲もいま生きていたら、ああいうイラストレーターになっていたんじゃないか、という気がします。そういう資質の画家だと思いました。これは最初にロスアンゼルスの自然史博物館でプライスコレクションを見たときから、相国寺で回顧展を見たときも今回も、一貫して変わらない印象です。
派手な動植綵絵もいいけれど、葡萄図などにみる水墨の線や濃淡、構図の鋭利なことは、さすがに天才的な職人芸と感嘆させられます。蟹と牡丹を衝立の表裏に描いたのなど、若冲の異端の独創が際立ちます。だって、誰があんな金屏風に、強い雨風に吹き付けられて花をこちらに見せることもなく辛うじて屹立している牡丹を水墨で描くことなど思いつくでしょう!
松林図というのが実によかった。これは若冲にしかか書けない松。わぁっ!松をこんな風に描くか・・と、その表現の意想に感嘆してしまいます。それはこの種の軸に描かれるありきたりの松林の描き方とは全然違って、濃い墨を落として描かれる楕円が重なりあってできる独創的な図案で、全然松らしくないのに、ちゃんと松林なのですね、これが。若冲の面目躍如といったところ。
でもずっと見ていって思ったのは、若冲は自然や動植物を描かせると面白いけれど、人物は全然つまらないですね。松尾芭蕉なんか、え?これが芭蕉かよ、と思いました。もっとも、寒山拾得は悪くなかった。「自然」に近いからですかね(笑)。
若冲以外のものでは、小ぶりの水墨だったけれど、円山応挙の「驟雨江村図」というのがあって、これは凄かった。ただ驟雨に一群の樹木が打たれてなびいているだけの絵で、絵の中心には暗い雲の渦巻くような空が来ている、いわば空無が中心にくる絵なのですが、これは思想がなければ描けない絵。パートナーは、応挙ってきっと理屈ッぽい人やったやろねぇ、などと言うのですが、私は「理屈」というふうには思わないけれど、これは凄いと思いました。
大イラストレーター若冲との資質の違いは一目瞭然です。
ほかに、池大雅の大きな屏風が二つありましたが、そのうちのひとつが、「蘇東坡孟嘉図屏風」というのだったでしょうか。そこに描かれた書が凄かった。まさに天衣無縫、活気の漲る奔放な筆で、同じ屏風に描かれた絵よりもよほどインパクトのある絵画的な書で、これは度肝を抜かれました。
ここは神道系の宗教団体がつくった美術館だそうで、スタッフとかも団体の職員さんがやっていると聞きましたが、ロビーから一眸できる秋の山々の風景の中に遠く見える礼拝堂(?)と鐘楼(?)とかいうひときわ高い人工的な建物以外にとくに違和感を覚えさせるようなものはありません。
美術館の空間動線も見て歩きやすいし、快適な空間で、スタッフにも気取りがなく、親切で自然です。宗教団体の運営ではないはずの直島のいささか気取った美術館群やあの島の人為的な理念をそれこそ宗教信者のように盲信しているかにみえる、大勢の白衣のスタッフたちの立ち居振る舞いより、よほど抵抗がありませんでした。
広々として、明るく、静かで、自然に囲まれ、美術を鑑賞するには相応しい環境でした。11月になれば、周囲は紅葉に染まって美しいでしょうし、春は桜が咲いて別のすばらしい光景が見られることでしょう。
現代のイラストに通じる若冲の絵は、若い人たちにも沢山の刺激を与えるでしょうし、共感を覚える人が結構多いのではないかしら。秋のいい季節、時間があれば、ぜひご家族とでもカレシとでも、行って見られるといいでしょう。
at 23:41|Permalink│
2009年10月21日
『憂鬱たち』(金原ひとみ 著)
言葉が滑っていく。
鬱病かなにか(というのは医者が身体的な異常を発見できないときに何でもかんでも鬱病にしてしまいたがるような気がするので、あまりあてにならないけれど)いずれにせよ、最初から最後まで、世間でいう「心の病」を病んだ女の子の妄想的独白であれば仕方がないのかもしれないけれど、言葉の遠近感がない。
普通だと間近に大きく見えるものも、離れて小さくみえるものも、みんな「2001年宇宙の旅」のラストの星の、表層だけあって奥行きのない世界になってしまって、在るのはただ質量を持たないニュートリノ(どうやら近年、ニュートリノも質量をもつことがわかったそうだけれど)のように軽い言葉、言葉、言葉。
通勤電車で帰るとき、ときどき、車中で突然喋りだしてとまらない若い男に出くわすのだが、あの男の口をついて出る言葉のように、とめどなく垂れ流される無意味な言葉の数々。
けれども、この作品の言葉は、神田憂という本当はどこにでもいそうな、ただちょっと普通よりは神経過敏な女の子の、ささくれ立った神経が、遭遇する周囲の人物やモノやコトを嫌悪し、拒み、あるいは冷笑を浴びせる、そのありようを、世界への嫌悪や反撥、拒絶、冷笑とともに繰り返し語ることで、女の子の気質的な病を強引に時代の病と重ねようとしている。
ときおり、この女の子の言葉が妙にまっとうな文明批評に聞こえるようなときは、その部分だけ「吾輩は猫である」の猫の文明批評のようで、自己の気質的な病に時代の病を強引に引き寄せて、時代の病をその身に引き受けた病んだ少女が妙に知的な猫になってしまったような違和感がある。
けれども、少女の視線が例えばタクシー運転手のカイズさんの後頭部を眺めて妄想をつむぎはじめるような、まさに病を引き受けた視線で語られる部分は非常に面白くて、ときにユーモアさえ漂う。同様に電器屋の電気マッサージ器コーナーでの店員とのやりとりも、ピアッシングスタジオのおやじとのやりとりも面白い。
ところどころ正気にもどるかのような部分を切り捨てて考えると、奥行きのない言葉の羅列のスタイルが現代の平準化された私たちの意識のありようを象徴しながら、「私は哀しみのエキスパートだ。私は苦しみのエキスパートだ。私は、憂鬱のエキスパートだ。」と世界の憂鬱を一手に引き受ける受苦のありようと重ねられているのだろう。そこには幾分かの性急さがみられ、この重ね合わせでは、「世界の憂鬱」にまでは手が届くように見えない。
このままだと、世界の憂鬱を全身で引き受け、世界とともに苦しみ、悲しむ共苦・共感する作家精神が大仰にみえ、カイズさんとともに私たちも「何をそんなに被疑者ぶるの」と言いたくなる。
この手の小説を読むと、まずもって横光利一の「機械」を思い浮かべ、「機械」が工業社会のフラット化する力が個人の内面に侵食していく様子を描いた倫理の書(小林秀雄)だとすれば、この作品はそれに倣って、作者が情報社会の倫理の書を書こうとしたのだと勝手に考えてしまいたくなる。
志やよし。ただ、作品の魅力や出来具合と志とはまた別。
at 23:39|Permalink│
2009年10月07日
「20世紀少年<最終章>ぼくらの旗」(堤幸彦監督)
テレビで第1章を見て、「け?ん?じ?くん!」と顔を隠して迫る3歳の孫にちょうどいいくらいの映画かも、と馬鹿にしながらも、つい2章も見てしまったので、映画としてどうであれ、やっぱり終いまで見ないと落ち着かない、というパートナーに引かれて見に行きました。
彼女は第1章を見たときから、「ともだち」は彼に違いない、と言い当てていたし、私たちはマンガの原作はまったく読んでいないので、原作とだいぶ違うそうだけれど、そんなことは分かりません。でも、少なくとも映画ではすぐ正体が分かってしまうので、犯人探しみたいな興味はありませんでした。
けれども、こういう映画としてはいい俳優を贅沢に使っているので、彼らがどう演じているかを見るひそかな楽しみはありました。
香川照之、豊川悦司、佐々木蔵之介、唐沢寿明、小日向文世、生瀬勝久等々、実に贅沢な布陣です。これまで全然知らなかったカンナ役の平愛梨なんかも、なかなか良かった。
でもこの映画の、映画としてのみどころはどこにあったのでしょうね。ストーリーは、たぶん大河ドラマのようにエンエンと続いて複雑な要素を孕んでいたのだろうマンガの原作を映画化するときには、いくら長かったとはいえ、3時間弱の尺に収めなくてはならないから、よほど映画的にあくまで映画的に再構成しないと、そのまま長尺を縮めようとすれば無理がくるでしょう。
シンプルな展開の中でうねりのように盛り上がるところがあって、観客の心をとらえる、というような3時間の中での映画的構成が成立していないという印象です。マンガを読んだ人は、勝手に頭の中のマンガの画像で目の前の映像を補って、それなりの絵になるのかもしれないし、原作との違いをみつける楽しみもあるのでしょうが、原作を知らない私たちには、そういうマンガで補ってね、みたいな部分は全部映画的欠点にしかみえないのは残念。
円板が飛んだり、アナクロ的な重量感を持ったロボットが活躍するレトロなSFの部分は、「スター・ウォーズ」のような作品がはるかに大規模に、ユーモラスな映像もまじえて鮮烈にやってしまったことだし、万博公園に何十万人だか集まるような光景にも新鮮味はないし、ロボットにしがみついての、けんじ君の大活躍も、「ダイ・ハード」などではるかにリアルに超人技をみせてくれているので、どこにも新鮮さがありません。
ストーリーの発端にして核心である少年たちの経験も、第1章、2章をみてすぐ見当がついたように、社会的犯罪の背後にいまでは誰でも想定するほどありふれたパターンをなぞるものにすぎません。
けれど、いいところもあって、そのありふれたイジメや裏切りの原罪を描く部分で、それは映画の劇的な部分が終わって、もうこれで終わりかな、と思っていると、全体を解き明かすような形で、主人公がSF的に過去へ立ち戻る設定で描かれています。
ここはドラマの構成としては劇的なシーンでスッと終わるほうがスマートで、ツケタシのようにも見えるけれど、内容的にそこまでに展開された何十年間を描く部分と拮抗する時間としてきちんと描かれていて、その処理の仕方には好感が持てました。
つまり、その部分があることで、この映画はいい映画なんだけどな、と思わせてくれます。けどな、というのは、でもやっぱりマンガはマンガで、気恥ずかしく幼稚なところがあるよな、という印象を指しています。
「カムイ外伝」の感想でも書きましたが、マンガを映画化するとき、マンガも映像の比重が大きいせいか、映画をつくる人たちはどうもそのまま映像化すれば映画になるかのように、どこか錯覚しているんじゃないか、と思えてなりません。
マンガと映画は全然異なるメディアだから、マンガを原作にするなら、よほど映画とは何かを考えつくして、映画作品として自立するように再編成しないと、実に中途半端なものになるような気がします。
私の乏しい見聞の範囲で、マンガを原作にしながら、マンガでは表現しえない映像作品の特質(この場合は音楽など)をフルに使って、しかもマンガのエッセンスを生かしながら見事に成功していたのは、「のだめカンタービレ」です。
実力派俳優でかためた布陣でも、よほどマンガと真剣に切り結んで、マンガを断ちながらエッセンスを受け継ぐような、あぁいう映画はなかなかできないようです。
ちなみに、第1章をテレビで気に入ったらしくて「ともだち」の口真似をしていた3歳の孫は、ママと映画館でこの最終章を見に行き、「どうだった?<ともだち>は誰だった?」と訊くと、「寝ちゃったからわからないの」と苦笑しておりました。
彼女は第1章を見たときから、「ともだち」は彼に違いない、と言い当てていたし、私たちはマンガの原作はまったく読んでいないので、原作とだいぶ違うそうだけれど、そんなことは分かりません。でも、少なくとも映画ではすぐ正体が分かってしまうので、犯人探しみたいな興味はありませんでした。
けれども、こういう映画としてはいい俳優を贅沢に使っているので、彼らがどう演じているかを見るひそかな楽しみはありました。
香川照之、豊川悦司、佐々木蔵之介、唐沢寿明、小日向文世、生瀬勝久等々、実に贅沢な布陣です。これまで全然知らなかったカンナ役の平愛梨なんかも、なかなか良かった。
でもこの映画の、映画としてのみどころはどこにあったのでしょうね。ストーリーは、たぶん大河ドラマのようにエンエンと続いて複雑な要素を孕んでいたのだろうマンガの原作を映画化するときには、いくら長かったとはいえ、3時間弱の尺に収めなくてはならないから、よほど映画的にあくまで映画的に再構成しないと、そのまま長尺を縮めようとすれば無理がくるでしょう。
シンプルな展開の中でうねりのように盛り上がるところがあって、観客の心をとらえる、というような3時間の中での映画的構成が成立していないという印象です。マンガを読んだ人は、勝手に頭の中のマンガの画像で目の前の映像を補って、それなりの絵になるのかもしれないし、原作との違いをみつける楽しみもあるのでしょうが、原作を知らない私たちには、そういうマンガで補ってね、みたいな部分は全部映画的欠点にしかみえないのは残念。
円板が飛んだり、アナクロ的な重量感を持ったロボットが活躍するレトロなSFの部分は、「スター・ウォーズ」のような作品がはるかに大規模に、ユーモラスな映像もまじえて鮮烈にやってしまったことだし、万博公園に何十万人だか集まるような光景にも新鮮味はないし、ロボットにしがみついての、けんじ君の大活躍も、「ダイ・ハード」などではるかにリアルに超人技をみせてくれているので、どこにも新鮮さがありません。
ストーリーの発端にして核心である少年たちの経験も、第1章、2章をみてすぐ見当がついたように、社会的犯罪の背後にいまでは誰でも想定するほどありふれたパターンをなぞるものにすぎません。
けれど、いいところもあって、そのありふれたイジメや裏切りの原罪を描く部分で、それは映画の劇的な部分が終わって、もうこれで終わりかな、と思っていると、全体を解き明かすような形で、主人公がSF的に過去へ立ち戻る設定で描かれています。
ここはドラマの構成としては劇的なシーンでスッと終わるほうがスマートで、ツケタシのようにも見えるけれど、内容的にそこまでに展開された何十年間を描く部分と拮抗する時間としてきちんと描かれていて、その処理の仕方には好感が持てました。
つまり、その部分があることで、この映画はいい映画なんだけどな、と思わせてくれます。けどな、というのは、でもやっぱりマンガはマンガで、気恥ずかしく幼稚なところがあるよな、という印象を指しています。
「カムイ外伝」の感想でも書きましたが、マンガを映画化するとき、マンガも映像の比重が大きいせいか、映画をつくる人たちはどうもそのまま映像化すれば映画になるかのように、どこか錯覚しているんじゃないか、と思えてなりません。
マンガと映画は全然異なるメディアだから、マンガを原作にするなら、よほど映画とは何かを考えつくして、映画作品として自立するように再編成しないと、実に中途半端なものになるような気がします。
私の乏しい見聞の範囲で、マンガを原作にしながら、マンガでは表現しえない映像作品の特質(この場合は音楽など)をフルに使って、しかもマンガのエッセンスを生かしながら見事に成功していたのは、「のだめカンタービレ」です。
実力派俳優でかためた布陣でも、よほどマンガと真剣に切り結んで、マンガを断ちながらエッセンスを受け継ぐような、あぁいう映画はなかなかできないようです。
ちなみに、第1章をテレビで気に入ったらしくて「ともだち」の口真似をしていた3歳の孫は、ママと映画館でこの最終章を見に行き、「どうだった?<ともだち>は誰だった?」と訊くと、「寝ちゃったからわからないの」と苦笑しておりました。
at 23:00|Permalink│