2009年09月
2009年09月27日
「カムイ外伝」(崔洋一 監督)
原作が若いころの愛読書(笑)白土三平のあの「カムイ伝」の外伝で、クドカンの脚本、『月はどっちに出ている』の崔洋一監督なら面白くないはずはなかろう。
おまけに、脇を小林薫や佐藤浩市のような名優が固め、「ラストサムライ」で惹かれた小雪も出演し、影のある鋭利な印象がカムイにぴったりにも思えた松山ケンイチが主役とあって、今度は楽しめる映画ができたのでは?と期待して見に行った。
「今度は」というのは、同じ白土三平の原作「影丸伝」が大島渚の手で、静止画モンタージュで映画化されたときも、大いに期待して封切のとき早速見に行ったが、まったく期待はずれだったので、がっかりして帰ってきたおぼえがあったからだ。
今回は実写版というので、期待も不安も大きかったけれど、主として脚本がクドカンならば、という期待と、かねてうまいと思っていた小林や佐藤をキャストにみつけて、ひょっとしたら・・、と期待のほうが大きかった。
でも、結果は「影丸伝」のときと変わらなかった。
松山ケンイチも小林薫も悪くなかった。いや、松山ケンイチなどは、予想以上に良かった。しかし、佐藤浩市の使い方はもったいないし、小林薫もカムイに「頼む、言わないでくれ」なんて泣きつくところなど、みていられない。これは役者のせいではなく、脚本か演出かの問題だ。
才能のある脚本家や監督がどうしてこういう作品を作ってしまうのか、よく分からない。たぶん、「カムイ外伝」のような劇画を原作として映画化するときに、なにか基本的な考え違いがあるような気がしてならない。
劇画は劇画、骨格はいただくが、映画は映画だから好きにやらしてもらう、という腹をくくったところがないと、中途半端に劇画にひきずられて、それが全部マイナスになって出てしまう。(あるいは所与の条件があって、そういう自由が脚本家や監督に与えられていないのかもしれないけれど・・・)
カムイや追忍が走ったり、樹上戦を展開する場面など、まったく最悪の意味で「マンガ的」でしかない。あんなのは私が小学生のころに見たドロンドロンと消える忍者映画と変わりがなく、市川雷蔵の「忍びの者」以前の、お子様向きマンガに過ぎない。どだい映画になっていない。
いくら空飛ぶ人間でも何でもCGで自在に描けるようになったからといって、実写映画で空想マンガをなぞったら馬鹿みたいで、子供でも「そんなアホな!」と馬鹿にするのではないか。
白土三平の劇画では、カムイをはじめとする修練を積んだ忍者の超絶技巧についても、疑似科学的とはいえ、一定の合理的(ふう)な説明を与えており、決して狸がブンブク茶釜になったりするような非合理的な描き方はしていない。
白土劇画では、私たちの日常的な身体の修練の延長上で、天賦の資質を備えた者が極限的な修練の果てに到達する(かもしれない)「極限値」として、それらの超人的な技は描かれる。
いまは子供でも、100mを10秒以内で走るのがどんなに困難かを知っているし、「鳥人」ブブカでさえどの程度しか高く飛べないかを知っており、肉体を持った俳優の演ずる実写映画で、物理の法則や人間の身体能力の限度を無視した描写は、喜劇映画やパロディでもない限り、没頭すべき場面に失笑を持ち込んでしまう。
これは些細なことのようだが、白土劇画のようなものを実写化するときの手つきにどこか根本的な誤解があるために、こうしたことが生じているのではないかと思う。
「飯綱落し」や「変移抜刀霞斬り」は殺陣の見せ所だが、ここは劇画どおりで、「飯綱(落し)返し」も、原作を知らなければそのアイディアが新鮮に見えるところだけれど、あれは原作どおりで、観客はもう知っていて、イメージ的に何も原作につけ加えたものがないので、残念ながら新鮮味がない。
敵も「変移抜刀霞斬り」を使うという設定も、確か原作にあったはずだ。ただ、一瞬分身の術のように二つ身に分かれるところは、いまの映像化技術が効果を発揮する場面で、その点だけとってみれば悪くなかった。
もともと堂々たる大河のような流れをなす「カムイ伝」の脇に生まれた小さな支流の寄せ集めでしかない「外伝」だから、昔はやったテレビドラマの「逃亡者」と同じで、逃げ続ける抜け忍カムイが偶々立ち寄った場所で、そこに生きる人々を心ならずも巻き添えにしてしまう、というだけの話で、その中ではカムイの担う歴史性も複雑な人間関係の糸も捨象されるべきものだ。
カムイの担う重い時間性も複雑な人間関係も、彼がたまたま行きずりに関わる「いま、ここ」という一点に凝縮され、その凝縮された時間的空間的エネルギーが、抜け忍と追忍との死闘という暴力的な映像となって炸裂する、そこに「外伝」の面白さがある。
この単純さを一筆で描ききるところに、雑誌一回分の読みきり短編劇画の面白みがある。
しかし、この凝縮された時間・空間を1時間を越える映画の中に展開するとなると、それなりのストーリーらしきものを作り、いくつかのハイライトを設けたくなるのはやむをえないのかもしれない。が、それが一点凝縮の力を拡散し、かえって散漫な印象を与えてしまうのも事実だ。
カムイ以外にもう一人スガルが抜け忍だというので、その過去のからみを出し、それを助けた半兵衛が殿様の馬の足を切るというもう一つのエピソードの塊があり、またスガルと半兵衛の娘がカムイに淡い恋心を懐くという話があり・・・と盛り沢山だ。
そのしがらみのなかで、登場人物の人間像も変わってきてしまう。たとえば、劇画のシンプルさにおいては太い一筆で描かれているカムイの非情さが、少しずつ希薄化し、妙に人間的に優しく、感情過多な、「ふつう」の人間カムイになってしまう。それは極限まで心身を追い詰めて修練を積んだカムイの寡黙で非情、柔軟にして鋼のような勁いイメージから離れて、俳優松山ケンイチの少しひ弱で優しい資質に収斂していくように見える。
at 20:14|Permalink│
2009年09月22日
『新参者』(東野圭吾 著)
文句なく面白い。何冊読んでもこの作家の作品は、その世界にすっと入っていけて、内容的にも推理小説とか刑事ものとかのジャンル小説の枠を超えて、人間がよく描かれているし、人間を見る目が温かく、後味が良い。
読みやすい、というのは、ただ文章が理屈っぽくないとか、難しい言葉や言い回しを使わない、という意味で易しいというのではなくて、周到に練られたプロット、ストーリー、一つ一つの場面、会話が、少しもその「方法」を感じさせないほど自然に、私たち読者を引っ張っていく作者の職人技による。
そして推理小説としての結構を備えながらも、ジャンル小説のような謎解きや仕掛け倒れに終わらない、幾人もの登場人物の人間性とその背後に彼ら一人一人が担う過去と現在に対する鋭い洞察と、彼らに向ける温かい眼差しは、この作者のどの作品にも共通する掛け替えのない美質だ。
今回は、主人公であり、他の登場人物の幾つもの視点から語られる一つ一つの相対的に独立した短編のような挿話を一つの環につなぐ、全体の狂言回しの役をも担う加賀恭一郎が、作者のその美質をそのまま体現している。ものの見方が多角的で、シャープで、しかも飄々とした軽みを帯び、人間に向ける目が温かい加賀は、作者の作品群を貫く本質の化身のような人物だ。
彼が事件の核心には直接関わりのないことにも、一つ一つ丁寧に調べ尽くして決着をつけて、彼が協力を求め話を聞いた市井の人々の一人一人の個人的な小さな疑問や不審に答を見つけ、彼らをそれらの小さな疑問や不審から解放してやる。その多くは別に事件の解決そのものに貢献するわけではないし、彼自身になにか利益をもたらすわけでもない、言ってみれば、してもしなくてもいいようなトリビアルな無償の行為だ。
けれど、それはその些細なことに関わって生きる人にとってだけは、とても大切なことであったり、救いであったり、喜びであったりする。そういうことに関わっていくことが生きていくということなんだ、という作者のひそかな声が聞こえてきそうだ。
この作品は全体として、もちろん緊密に構成されて、一つの推理小説、犯罪小説、刑事ものとしての、大きな物語を作っているのだが、多様な9人の視点に沿って描かれる9つのエピソードは、一つ一つがあたかも一つの環として独立して読める短編のように、興味深く、味わいをもって描かれている。そして、その9つの環をつないで全体が構成される。
その連環の一つ一つの環で、誰かが被疑者かと思われたり、何か事件の鍵を握っている人かと思われたり、また新たな謎が浮かび上がったり、小さな山が幾つも用意されている。それが事件の解明に直接結びつくとは限らず、傍流として味わい深い人情噺に終わることもある。私たちはその一つ一つを楽しんで味わうことができる。
事件のおこる場所の設定がいい。煎餅屋、料亭、瀬戸物屋、時計屋、洋菓子や、民芸品屋、と古くから地域に根づいた店が舞台になり、そこで日々それらの生業に従事する庶民の目でパズルの一片のような挿話が語られる。
その語り口が事件全体の絵柄を構成する一つのピースになっている巧妙な仕掛けも見事だが、その一つ一つのピースに描かれた固有の絵柄、そこに登場する人物たちの仕事柄に固有のありようや会話がきめ細かに描かれているのが興味深い。
被害者の行動の原因となる誤解をめぐる絵解きには感心させられた。ほかにも、うまいなぁ、と舌を巻くような細かな仕掛けがいっぱいある。また、飄々とした加賀恭一郎の本当の凄さがさりげなく示されるところも、読者が、なぁんだ、と興醒めしてしまうようなところがない。
言われてみれば、種も仕掛けもあると理解できるが、それを見抜いた加賀恭一郎は、やはり只者ではない、と思わせるのは、作者の語り口の巧さだろう。
作者の人間を見る目の温かさは、人を殺した犯人でさえも、私たちとそんなに違うところのない平凡な、しかしそれぞれに異なる個人として多様な人格を持ち、多様な生活と過去を背景に持っている人間として描き出し、私たちの誰もが、そのような環境に置かれれば、あるいは道を踏み外したかもしれない、と思えるような目線で描き出す。
血なまぐさい暴力も刺激的なエロスも熱烈な恋愛沙汰も怒号も号泣もないが、誰の人生にもあるささやかだが、私たち一人一人にとっては掛け替えのない日々の暮らしの実感とそれに伴う喜怒哀楽、それを見る作者の温かな眼差しが、ここには確かにある。
読みやすい、というのは、ただ文章が理屈っぽくないとか、難しい言葉や言い回しを使わない、という意味で易しいというのではなくて、周到に練られたプロット、ストーリー、一つ一つの場面、会話が、少しもその「方法」を感じさせないほど自然に、私たち読者を引っ張っていく作者の職人技による。
そして推理小説としての結構を備えながらも、ジャンル小説のような謎解きや仕掛け倒れに終わらない、幾人もの登場人物の人間性とその背後に彼ら一人一人が担う過去と現在に対する鋭い洞察と、彼らに向ける温かい眼差しは、この作者のどの作品にも共通する掛け替えのない美質だ。
今回は、主人公であり、他の登場人物の幾つもの視点から語られる一つ一つの相対的に独立した短編のような挿話を一つの環につなぐ、全体の狂言回しの役をも担う加賀恭一郎が、作者のその美質をそのまま体現している。ものの見方が多角的で、シャープで、しかも飄々とした軽みを帯び、人間に向ける目が温かい加賀は、作者の作品群を貫く本質の化身のような人物だ。
彼が事件の核心には直接関わりのないことにも、一つ一つ丁寧に調べ尽くして決着をつけて、彼が協力を求め話を聞いた市井の人々の一人一人の個人的な小さな疑問や不審に答を見つけ、彼らをそれらの小さな疑問や不審から解放してやる。その多くは別に事件の解決そのものに貢献するわけではないし、彼自身になにか利益をもたらすわけでもない、言ってみれば、してもしなくてもいいようなトリビアルな無償の行為だ。
けれど、それはその些細なことに関わって生きる人にとってだけは、とても大切なことであったり、救いであったり、喜びであったりする。そういうことに関わっていくことが生きていくということなんだ、という作者のひそかな声が聞こえてきそうだ。
この作品は全体として、もちろん緊密に構成されて、一つの推理小説、犯罪小説、刑事ものとしての、大きな物語を作っているのだが、多様な9人の視点に沿って描かれる9つのエピソードは、一つ一つがあたかも一つの環として独立して読める短編のように、興味深く、味わいをもって描かれている。そして、その9つの環をつないで全体が構成される。
その連環の一つ一つの環で、誰かが被疑者かと思われたり、何か事件の鍵を握っている人かと思われたり、また新たな謎が浮かび上がったり、小さな山が幾つも用意されている。それが事件の解明に直接結びつくとは限らず、傍流として味わい深い人情噺に終わることもある。私たちはその一つ一つを楽しんで味わうことができる。
事件のおこる場所の設定がいい。煎餅屋、料亭、瀬戸物屋、時計屋、洋菓子や、民芸品屋、と古くから地域に根づいた店が舞台になり、そこで日々それらの生業に従事する庶民の目でパズルの一片のような挿話が語られる。
その語り口が事件全体の絵柄を構成する一つのピースになっている巧妙な仕掛けも見事だが、その一つ一つのピースに描かれた固有の絵柄、そこに登場する人物たちの仕事柄に固有のありようや会話がきめ細かに描かれているのが興味深い。
被害者の行動の原因となる誤解をめぐる絵解きには感心させられた。ほかにも、うまいなぁ、と舌を巻くような細かな仕掛けがいっぱいある。また、飄々とした加賀恭一郎の本当の凄さがさりげなく示されるところも、読者が、なぁんだ、と興醒めしてしまうようなところがない。
言われてみれば、種も仕掛けもあると理解できるが、それを見抜いた加賀恭一郎は、やはり只者ではない、と思わせるのは、作者の語り口の巧さだろう。
作者の人間を見る目の温かさは、人を殺した犯人でさえも、私たちとそんなに違うところのない平凡な、しかしそれぞれに異なる個人として多様な人格を持ち、多様な生活と過去を背景に持っている人間として描き出し、私たちの誰もが、そのような環境に置かれれば、あるいは道を踏み外したかもしれない、と思えるような目線で描き出す。
血なまぐさい暴力も刺激的なエロスも熱烈な恋愛沙汰も怒号も号泣もないが、誰の人生にもあるささやかだが、私たち一人一人にとっては掛け替えのない日々の暮らしの実感とそれに伴う喜怒哀楽、それを見る作者の温かな眼差しが、ここには確かにある。
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2009年09月14日
地球の裏側にいた尋ね人
つい数時間前のことでだけれど、一本の電話があって、パートナーが「小学校時代の・・・」と取り次いだ。
このブログでずいぶん前に実名を出して、誰か知っている人がいないかなぁ、などと書いたことのある、私が、生きている間にもう一度会いたいな、と考えていた、かねてからの尋ね人。小学校3年生で私が転校するまでのクラスメイトだった女の子(当時!)だ。
高校時代に一度偶然に会って、歩きながらほんの少し話をしたきり会うことはなく、20歳のときに下宿でラジオを聴いていて、成人の日の特別番組か何かで、新成人の彼女が未来へ羽ばたこうとしているのを紹介しているのを偶然聞いて、そのときは名前と声を聞いてすぐに彼女だと分かった。
それから何十年かたって、前の職場へ彼女から突然電話がかかってきたのだったが、珍しく私がその日に限って休みをとっていて、会社の同僚が相手の連絡先を聞きそびれたので、そのまま連絡の手立てがなく、はがゆい思いをした。
その後、インターネットで名前を検索したりしたけれど、姓も変わっているだろうし、とあきらめていた。そこへ突然本人から電話がかかってきたのでした。なんと、このブログで彼女の実名をたった一度書いたのを、彼女が自分の論文を書いたとき、ネットで自分の名前を検索したら、2番目に私のブログがヒットしたらしい。
以前に、長く消息の分からなかった大学時代の友人を検索して、フィンランドの大学で免疫学の研究をしているのをみつけて連絡がとれたことがあったけれど、インターネットが発達しなければ、こういう再会というのは全く考えられもしなかった。
ところで、彼女はスイス人のパートナーと結婚して、いまスイスから電話している、という。市内からの電話かと錯覚するほど明瞭で、反応に昔のような時間差もなく、とても国際電話とは思えない。息子が海外など行ったときでも、連絡は全部メールで済ませているから、長いあいだ国際電話をかけてないせいもあって、驚いてしまう。
今週末に日本へ来るのだそうで、今度は3週間ほど滞在するから、どこかで会えるかもしれない、というので電話をくれたようだ。
今回は声を聞いても彼女の幼いころの特徴のある声を聞き分けることができず、思わず名前を確認した。こちらの感覚的な記憶も、ずいぶんあやしくなっているのだろう。でも、話し方がはっきりしている印象は、幼いころの彼女を彷彿とさせる。
「でもあの話はひどいね。あれ、創作じゃないの?」と私がブログに書いたエピソードのことを言う。遊び仲間で、レンガを組んだ雀捕りにかかった雀を丸焼きにして食べようと言いながら、二の足を踏んでいるわれわれ男の子たちを尻目に、羽をむしって、当時薪で焚いていた風呂の焚き口に雀をほうりこんだ、という彼女についての「武勇伝」。
「いいえ、作り話じゃありませんよ」と私。
「主人に話したら、ひどいなぁって驚いていましたよ。」・・・そりゃそうだろうなぁ。ヨーロッパの動物愛護や環境保護に熱心な人だったら、目を剥くでしょう。「でも子供って残酷なところがあるから、そういうこともあるかも」と、ご本人も明確に否定するところまでは自信なさそう。
それにしても、今度再会できれば、前述のような偶然の瞬間的な出逢いを除いて、半世紀以上を経ての再会ということになる。会ってすぐ分かるかなぁ。日本へ帰ってきても忙しそうだから、そうゆっくり時間をとってもらうのは難しそうだけど、何から話せばいいかなぁ。・・・と珍しく神経が高ぶってまだ眠れないので、とりあえずブログなんか書いています。
これで私は生きているあいだに、ぜひもう一度会いたい、と思っていた二人に、それぞれ会うことができて、もう思い残すことはない(笑)。神様ってのはほんとに居るのかもしれませんね。
at 01:15|Permalink│
2009年09月11日
『あるキング』(伊坂幸太郎 著)
この作者の小説は、いつも現代(現在)の私たちに馴染み深い日常的な世界を背景にしながら、私小説やいわゆるリアリズムの作品ではなく、つねにその日常から想像力を羽ばたかせて、物語を「創る」意志が強く感じられ、いい意味でのエンターテインメント的要素を備えている。
狭い家庭内の喜怒哀楽を淡々と描いた脱力系の心境小説でも、それだけで表現としての価値が低いわけではないし、対象が主題のサイズが小さくても、その絞り込みが表現として新しい達成を保証していることもあるから、一概に否定はできないけれど、そういうのばかり多くなると読者としてうんざりすることも多い。
またマンガの影響なのかどうか、糸の切れた凧や風船のように、何の重量感も必然性も感じられず、荒唐無稽なゲームを楽しむだけで、あらぬ方へ飛んでいってしまうような小説も沢山生産されている。
伊坂幸太郎の作品は、それらのどちらのタイプにも属さない。太宰治が、作家に必要なものは<サービス精神>だよ、と言っていたと思うが、その意味での大切なものをしっかり持っているすぐれた作家だと思い、毎回新作を楽しみにしている。
読めばすぐ分かるように、この小説は、<山田王求という名の、イチローの10倍か100倍くらい超人的な野球の才能にめぐまれた男の子がいたとしましょう>という、たった一つの仮定を設けるだけで、独特の世界を創り出している。
常識的な世界を支える前提を一つだけ変えることで、公理主義の現代数学のように、その前提から次々に導かれる展開は、私たちの予想を超えて、まるで日常世界とは異なってみえる世界を創り出していく。
主人公はあくまでも、私たちの身近な日常世界に生き、日常の言葉を使いながら、最初の仮設から導かれる次々の展開が、私たちの常識の慣性の法則に従っては予測できないものになり、次はどうなるのだろう、その次は?と導かれるほかはない、面白い世界が拓かれて行く。
それは、ある意味で荒唐無稽な世界だけれど、支離滅裂ではない。最初の仮設から出発して、その前提に導かれる展開のされかたは、言ってみれば公理主義の数学のように厳密だからだ。そういう前提ならば、なるほど、そうなるであろう、というように、登場人物たちは感じ、行動する。そこに支離滅裂なマンガやライトノベルのような違和感はない。
そして、その展開の具体的な描写のうちに、私たちが日常世界で感じる喜怒哀楽や人間関係のあり方の現実感がちゃんと保存されている。
だから、現実にはありえない超人的能力の持ち主や、彼を育て見守る両親の過剰な熱意や、マクベスはじめシェイクスピア劇に登場する予言する魔女のような存在や、様々な「偶然」に遭遇しても、私たち読者は荒唐無稽な世界であることを知りながら、同時にそれが私たちの日常世界そのものであることを確信しながら読んでいる。
王求はいわば両親の肥大した願望が実体化したもので、これが日常世界に登場するなら、驚異(脅威)の的であり、期待の星、憧憬の的であり、また嫉妬や敵視の標的であり、いずれは庶民のささやかな幸せを守る家々を踏み潰して闊歩するゴジラのごとく、自身をも持て余す怪獣のような存在にならざるをえないだろう。
そんな男の一代記を、彼の周囲の人々の多様な視点から語らせた作品の語り口はしかし、どこか淡々としている。超人というのは、いずれにせよ欠如をかかえた凡人の個性なるものとは無縁だから、この王求も普通の物語の主人公のように、自分でどうこう考えてどう動く、というほどの能動性を持たない。
ただ作者の与えた最初の仮設をみずからの宿命として淡々と生き、死んでいく受動性そのもののようにみえる。むしろ彼がそうして誕生し、生きることで、彼が好むと好まざるとに関わらず、周囲に波風が立つ。肥大した願望が怪獣のようにのし歩くとき、そこに何が起こるかを、私たちはある種のリアリティを感じながら見ることができる。
面白い伝奇として読むこともできようし、私たちがイチローや石川遼のような超人的な才能に恵まれた(もちろん超人的な努力家の、というべきでもあろうけれど)スポーツ選手に感じるかもしれない驚嘆や隔絶感や様々な思いを拡大鏡にかけて見せられたように感じるかもしれないし、王求の両親の過剰な熱意に、わが子に夢みる世の親の似姿を見ることもできるだろう。
私の好きな<アヒルと鴨>や<オーデュボン>に比べれば、縦深的に引き込まれていって、ドンデン返し、というようなインパクトは感じなかったけれど、より物語本来の魅力に近い、時間を追って、次はどうなる?その次は?と水平な心の動きで辿っていく、現代の奇譚の楽しみを味わうことは十分にできたと思う。
私がすぐ思い浮かべたのは、太宰治の『晩年』に収められた、大好きな短編ロマネスクに登場する喧嘩次郎兵衛(正確でないかもしれない)だ。王求はどこか彼に似ている。
狭い家庭内の喜怒哀楽を淡々と描いた脱力系の心境小説でも、それだけで表現としての価値が低いわけではないし、対象が主題のサイズが小さくても、その絞り込みが表現として新しい達成を保証していることもあるから、一概に否定はできないけれど、そういうのばかり多くなると読者としてうんざりすることも多い。
またマンガの影響なのかどうか、糸の切れた凧や風船のように、何の重量感も必然性も感じられず、荒唐無稽なゲームを楽しむだけで、あらぬ方へ飛んでいってしまうような小説も沢山生産されている。
伊坂幸太郎の作品は、それらのどちらのタイプにも属さない。太宰治が、作家に必要なものは<サービス精神>だよ、と言っていたと思うが、その意味での大切なものをしっかり持っているすぐれた作家だと思い、毎回新作を楽しみにしている。
読めばすぐ分かるように、この小説は、<山田王求という名の、イチローの10倍か100倍くらい超人的な野球の才能にめぐまれた男の子がいたとしましょう>という、たった一つの仮定を設けるだけで、独特の世界を創り出している。
常識的な世界を支える前提を一つだけ変えることで、公理主義の現代数学のように、その前提から次々に導かれる展開は、私たちの予想を超えて、まるで日常世界とは異なってみえる世界を創り出していく。
主人公はあくまでも、私たちの身近な日常世界に生き、日常の言葉を使いながら、最初の仮設から導かれる次々の展開が、私たちの常識の慣性の法則に従っては予測できないものになり、次はどうなるのだろう、その次は?と導かれるほかはない、面白い世界が拓かれて行く。
それは、ある意味で荒唐無稽な世界だけれど、支離滅裂ではない。最初の仮設から出発して、その前提に導かれる展開のされかたは、言ってみれば公理主義の数学のように厳密だからだ。そういう前提ならば、なるほど、そうなるであろう、というように、登場人物たちは感じ、行動する。そこに支離滅裂なマンガやライトノベルのような違和感はない。
そして、その展開の具体的な描写のうちに、私たちが日常世界で感じる喜怒哀楽や人間関係のあり方の現実感がちゃんと保存されている。
だから、現実にはありえない超人的能力の持ち主や、彼を育て見守る両親の過剰な熱意や、マクベスはじめシェイクスピア劇に登場する予言する魔女のような存在や、様々な「偶然」に遭遇しても、私たち読者は荒唐無稽な世界であることを知りながら、同時にそれが私たちの日常世界そのものであることを確信しながら読んでいる。
王求はいわば両親の肥大した願望が実体化したもので、これが日常世界に登場するなら、驚異(脅威)の的であり、期待の星、憧憬の的であり、また嫉妬や敵視の標的であり、いずれは庶民のささやかな幸せを守る家々を踏み潰して闊歩するゴジラのごとく、自身をも持て余す怪獣のような存在にならざるをえないだろう。
そんな男の一代記を、彼の周囲の人々の多様な視点から語らせた作品の語り口はしかし、どこか淡々としている。超人というのは、いずれにせよ欠如をかかえた凡人の個性なるものとは無縁だから、この王求も普通の物語の主人公のように、自分でどうこう考えてどう動く、というほどの能動性を持たない。
ただ作者の与えた最初の仮設をみずからの宿命として淡々と生き、死んでいく受動性そのもののようにみえる。むしろ彼がそうして誕生し、生きることで、彼が好むと好まざるとに関わらず、周囲に波風が立つ。肥大した願望が怪獣のようにのし歩くとき、そこに何が起こるかを、私たちはある種のリアリティを感じながら見ることができる。
面白い伝奇として読むこともできようし、私たちがイチローや石川遼のような超人的な才能に恵まれた(もちろん超人的な努力家の、というべきでもあろうけれど)スポーツ選手に感じるかもしれない驚嘆や隔絶感や様々な思いを拡大鏡にかけて見せられたように感じるかもしれないし、王求の両親の過剰な熱意に、わが子に夢みる世の親の似姿を見ることもできるだろう。
私の好きな<アヒルと鴨>や<オーデュボン>に比べれば、縦深的に引き込まれていって、ドンデン返し、というようなインパクトは感じなかったけれど、より物語本来の魅力に近い、時間を追って、次はどうなる?その次は?と水平な心の動きで辿っていく、現代の奇譚の楽しみを味わうことは十分にできたと思う。
私がすぐ思い浮かべたのは、太宰治の『晩年』に収められた、大好きな短編ロマネスクに登場する喧嘩次郎兵衛(正確でないかもしれない)だ。王求はどこか彼に似ている。
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2009年09月08日
『ヘヴン』(川上未映子 著) ?
(「?」からのつづき)
先ほど、百瀬と「僕」との対話が、大審問官の章だと書いたが、百瀬が大審問官なら、終始無言で大審問官の話を聞き、最後に大審問官に接吻して静かに去っていく現代に復活したイエスは「僕」ということになるけれど、この作品ではそうではない。
大審問官の章のイエスにあたるのは、「コジマ」だ。この「コジマ」という「僕」の同志の人物造型がまたすこぶるユニークで、興味が尽きない。彼女は、自分たちはただ弱いものとしてイジメられている存在なのではなくて、この状況を受け入れていることによって自分たちだけでなく、イジメている相手にも、世界にも意味を与えているのだ、と考える。
この作品を読み進めていく原動力の一つが、この際限なく続く苛烈なイジメに対して、主人公や作者はいったいどういう解決をつけるのか、という推理小説よりはるかに面白いサスペンスにあることは疑いないが、読者は、現実のイジメ事件にそう簡単な処方箋などあるわけがないことをイヤでも承知しているから、作者なり主人公なりが、ちょっとでも安易な始末のつけ方でも示唆すれば、たちまち興ざめで本を閉じることは明々白々である。
ここでは、解決ではない始末のつけ方、終わりのない終わりという、無理難題が作者にも主人公たちにも課せられている。昔々、理科系の学生だったころに、宇宙の果てというのはどうなっているんだろう、という素朴な疑問が、どれだけいまの科学で答えられているのだろう、と思って、1回生の夏休みに大学の図書館に通って、その手の本(といっても、自分に理解できるのは、所詮啓蒙的な宇宙論のようなものでしかなかったけれど)を読み漁ったことがある。
いまも覚えているのは、「宇宙は無限だが、有界である」という、分かったような分からないような「結論?」だった。
この作品の主人公たちや作者の始末のつけ方も、幾分そういうところはあるけれど、少なくとも安易な分かりやすい処方箋だけは書かなかった。それはとても困難な道だったと思うけれど、作者はかなり善戦したと思う。まぁ欲張りな読者としては100%満足というわけにはいかないけれど、この手の世相に素材を借りたとき誤解されやすい作品で、敢えて「コジマ」のクライマックスには触れないが、ここまで考え抜いた作品としての始末のつけ方を創り出したのは稀有なことだと思う。
「コジマ」は大審問官に向き合うイエスの役割を果たしており、大審問官の百瀬と「コジマ」の間に、「僕」は居る。これが ≒(nearly equal) 作者でもあるだろう。
ただ、百瀬がかなり大審問官そのものであるのに対して、「コジマ」は大審問官の章におけるイエスそのものではない。現代によみがえったイエスは、ほとんど肉体を持たない存在であるごとく、無言でただ大審問官の言葉を聴き、彼に接吻して静かに去っていく。まぁ彼の場合は、紀元0年前後に一旦肉体を失って(神のもとに召されて)、魂だけ現代に甦ったかのようで、その肉体は影の如きものに過ぎないから仕方ないけれど(笑)。そして、精神的にも彼の接吻は、神のメッセージのごときものだろう。
「コジマ」は何よりも汚れ、臭い、殴られて蹴られれば血を流し、傷む肉体を具えている。彼女が二ノ宮や百瀬らの頬にやさしく触れようとするとき、それは彼女自身の傷つくことを「受け入れた」心身そのものから来ている。
passionというのが感情、情熱、熱情という積極的・能動的な感情のあり方を示す言葉であるとともに、もともと「苦しみ」という意味の言葉で、受身というときの’passive'にも「苦しみに耐える」という意味があるそうだが、「コジマ」はこの言葉を体現(まさに肉体と精神で)する存在のように思える。
ただ、彼女の汚れや体臭が、意図したものであること、そういって良ければ、やめようと思えばいつでもやめられるものであることに、読んでいて多少違和感を覚えた。それで良かったのかな、と。「僕」がそのことを納得して同志として受け入れるところに、違和感を覚えたのだ。
しかし、読み終えて、あれでよかったのだろうと思われた。
考えてみれば、「僕」の斜視も、肉体的なものだからといって、宿命的なものでも何でもない。「1万5千円」で簡単に治ってしまうものだったのだ。そして、百瀬の言うように、それは「僕」が思い込んでいたような、イジメの決定的に原因でさえもなかった。
さて、その「コジマ」と「百瀬」らの間に立ち、「コジマ」に導かれるようにして傷みを忍び、彷徨しながら、少しずつ変貌をとげてきた「僕」は、最後に「コジマ」とも別れ、彼女が反対した斜視の手術をする。
僕が立っていたのは、並木道の真んなかだった。
僕は両目をとじたまま右目から眼帯をはずした。それから眼鏡をかけて、ゆっくりと、目をひらいた。
それは僕が想像もしなかった光景だった。
ここから、最後の一行までのラスト2ページは、この作品でもっとも美しいシーンであり、最も美しい文章で綴られている。
なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。
「僕」のadolescenceがここで終わり、彼は「向こう側」へ踏み出す。
(了)
先ほど、百瀬と「僕」との対話が、大審問官の章だと書いたが、百瀬が大審問官なら、終始無言で大審問官の話を聞き、最後に大審問官に接吻して静かに去っていく現代に復活したイエスは「僕」ということになるけれど、この作品ではそうではない。
大審問官の章のイエスにあたるのは、「コジマ」だ。この「コジマ」という「僕」の同志の人物造型がまたすこぶるユニークで、興味が尽きない。彼女は、自分たちはただ弱いものとしてイジメられている存在なのではなくて、この状況を受け入れていることによって自分たちだけでなく、イジメている相手にも、世界にも意味を与えているのだ、と考える。
この作品を読み進めていく原動力の一つが、この際限なく続く苛烈なイジメに対して、主人公や作者はいったいどういう解決をつけるのか、という推理小説よりはるかに面白いサスペンスにあることは疑いないが、読者は、現実のイジメ事件にそう簡単な処方箋などあるわけがないことをイヤでも承知しているから、作者なり主人公なりが、ちょっとでも安易な始末のつけ方でも示唆すれば、たちまち興ざめで本を閉じることは明々白々である。
ここでは、解決ではない始末のつけ方、終わりのない終わりという、無理難題が作者にも主人公たちにも課せられている。昔々、理科系の学生だったころに、宇宙の果てというのはどうなっているんだろう、という素朴な疑問が、どれだけいまの科学で答えられているのだろう、と思って、1回生の夏休みに大学の図書館に通って、その手の本(といっても、自分に理解できるのは、所詮啓蒙的な宇宙論のようなものでしかなかったけれど)を読み漁ったことがある。
いまも覚えているのは、「宇宙は無限だが、有界である」という、分かったような分からないような「結論?」だった。
この作品の主人公たちや作者の始末のつけ方も、幾分そういうところはあるけれど、少なくとも安易な分かりやすい処方箋だけは書かなかった。それはとても困難な道だったと思うけれど、作者はかなり善戦したと思う。まぁ欲張りな読者としては100%満足というわけにはいかないけれど、この手の世相に素材を借りたとき誤解されやすい作品で、敢えて「コジマ」のクライマックスには触れないが、ここまで考え抜いた作品としての始末のつけ方を創り出したのは稀有なことだと思う。
「コジマ」は大審問官に向き合うイエスの役割を果たしており、大審問官の百瀬と「コジマ」の間に、「僕」は居る。これが ≒(nearly equal) 作者でもあるだろう。
ただ、百瀬がかなり大審問官そのものであるのに対して、「コジマ」は大審問官の章におけるイエスそのものではない。現代によみがえったイエスは、ほとんど肉体を持たない存在であるごとく、無言でただ大審問官の言葉を聴き、彼に接吻して静かに去っていく。まぁ彼の場合は、紀元0年前後に一旦肉体を失って(神のもとに召されて)、魂だけ現代に甦ったかのようで、その肉体は影の如きものに過ぎないから仕方ないけれど(笑)。そして、精神的にも彼の接吻は、神のメッセージのごときものだろう。
「コジマ」は何よりも汚れ、臭い、殴られて蹴られれば血を流し、傷む肉体を具えている。彼女が二ノ宮や百瀬らの頬にやさしく触れようとするとき、それは彼女自身の傷つくことを「受け入れた」心身そのものから来ている。
passionというのが感情、情熱、熱情という積極的・能動的な感情のあり方を示す言葉であるとともに、もともと「苦しみ」という意味の言葉で、受身というときの’passive'にも「苦しみに耐える」という意味があるそうだが、「コジマ」はこの言葉を体現(まさに肉体と精神で)する存在のように思える。
ただ、彼女の汚れや体臭が、意図したものであること、そういって良ければ、やめようと思えばいつでもやめられるものであることに、読んでいて多少違和感を覚えた。それで良かったのかな、と。「僕」がそのことを納得して同志として受け入れるところに、違和感を覚えたのだ。
しかし、読み終えて、あれでよかったのだろうと思われた。
考えてみれば、「僕」の斜視も、肉体的なものだからといって、宿命的なものでも何でもない。「1万5千円」で簡単に治ってしまうものだったのだ。そして、百瀬の言うように、それは「僕」が思い込んでいたような、イジメの決定的に原因でさえもなかった。
さて、その「コジマ」と「百瀬」らの間に立ち、「コジマ」に導かれるようにして傷みを忍び、彷徨しながら、少しずつ変貌をとげてきた「僕」は、最後に「コジマ」とも別れ、彼女が反対した斜視の手術をする。
僕が立っていたのは、並木道の真んなかだった。
僕は両目をとじたまま右目から眼帯をはずした。それから眼鏡をかけて、ゆっくりと、目をひらいた。
それは僕が想像もしなかった光景だった。
ここから、最後の一行までのラスト2ページは、この作品でもっとも美しいシーンであり、最も美しい文章で綴られている。
なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。
「僕」のadolescenceがここで終わり、彼は「向こう側」へ踏み出す。
(了)
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