2009年08月

2009年08月28日

「二十世紀少年」のこと

 先週、テレビで、映画「二十世紀少年」というのを偶然見た。

 本屋で何巻も何巻も出続けているのは知っていたけれど、全然興味がないので、手にとってもみなかったが、きっと小中学生が夢中になって読むマンガなんだろう、昔ぼくらが「少年倶楽部」なんかで、少年探偵団とか絵入り物語を楽しんでいたように、とタイトルや絵柄だけでそんな印象を持っていた。

 でもこれだけ長い連載が続いて、大学生でもマンガの話をしていると、このタイトルが登場することもあるし、映画ができたときは大々的に宣伝していたし、けっこういい俳優が出ているので、大人にもファンの多い人気マンガな野かもしれないな、と思っていたので、チャンネルを選んだとき、たまたま始まったばかりだったこともあって、そのまま見つづけた。

 ところが、これは映画本体にはまったく責任がないけれど、コマーシャルがいやというほど挿入される。深夜映画には多いことだけれど、比較的ゴールデンアワーに近い時間帯だと、これほどひどいのは珍しい。もう映画を千切りにして、その間に映画と同じくらいの分量のコマーシャルを押し込んだような感じで、映像を見ているこちらの持続感がズタズタにされる。

 それでも我慢して見たのは、割と話題になった映画だったのと、キャストのせいで、どんなものか一度は見ておきたいという好奇心からだけ。

 結果は、やっぱり「少年探偵団」だった。子供のころ見たら面白かったかもしれないけれど、いま見ると、子供のころ夢の世界だった遊園地が、子供だましのチャチなカラクリ仕掛けに過ぎないことが目について幻滅するのと同じような感覚を味わった。

 さらにそれでも、一週間たって、続編をいましがた見終わった(笑)のは、やっぱり「つづき」が気になったからで、その意味では、「次はどうなるんだろう?」というstoryのABCだけでもたせる、最小限のエンターテインメントとしての要素はちゃんと備えているということなのだろう。

 で、見終わった感想はやっぱり同じだった。2作目で新たに登場したヒロイン役の女の子は悪くなかった。

 この一週間、やはり母親と先週の放映を見たらしい3歳の孫がわが家へ遊びに来て、父親が幼稚園を出るときに卒業記念で作った紙粘土のぶさいくなお面が壁にかけてあったのを自分の顔につけては、「ケ?ン?ジ?くん、あ?そ?び?ま?しょ!」と不気味に近づいてくる、というのを何度も演じてくれるのを見て、なるほど、これくらいの歳の子にはウケルのかもしれないなぁ、と納得した。

 たぶん、原作はずいぶん違ったものなのだろう。マンガでも読者に支持されなくては何年も連載して何十巻ものコミック本にはならないだろうから、それなりの社会性のあるテーマの広がりなり、人間性を深く抉るような奥行きなりを備えているのかもしれない。

 たぶん、時代が現実的に社会を良くしていくような夢の生じる余地がないほど、種床まで根こそぎ奪われて、ぺんぺん草しか生えないような荒地に取り残された後の世代が、カルト的なものに惹かれたり、終末論的な雰囲気を漂わせるようになったとき、そういう空気を敏感に読み取って、先取りしながら描いていたのだろう。

 ただ、短時間に詰め込んだ映画では、そのあたりは、単に狂信的な悪玉教祖やそれに付き従う羊の群と、これに立ち向かう二世代がかりの善玉たちがドンパチやらかすドラマのようにしか見えなくなっている。

 回想的に挿入される映像で、たぶん「トモダチ」なる悪玉は昔、同級生仲間のイジメにあってひねくれ、世界よ滅びてしまえ、という悪意をもつようになった子供なんだろうなと察しがつく。

 もっとも、原作も知らないし、映画も明日から上映されるらしい最終章の内容についても何も予備知識は無いので、そう単純ではないかもしれないし、まったくの見当違いかもしれないけれど、1作目、2作目を見た限りでは、最終章だからといって、そう目新しいことが出てくるようにも思えない。

 先週の放映分で、ウィルスらしきものを撒き散らす巨大ロボットなるものが登場したときは、ああ、これこれ、これが「少年探偵団」だよなぁ、と笑えた。

 普通ウィルスを撒くなら、飛行機からでも撒けば効率的だと思うが、わざわざ旧式戦車みたいなキャタピラつきの工事用クレーン車みたいなので、ゆるゆるとお出ましになる。
 こんなのが出てきたら、いくら戦闘経験の乏しい日本の自衛隊といえども、たちまち一箇所に立ち往生させてぶっ壊してしまうでしょう、というようなもので、その実にアナクロな古典的イメージが、逆に面白い。

 こういう映画では、現実に照らしてどう、と揚足をとっても仕方が無いので、「少年探偵団」的な空想の世界で、3歳児を相手に、「怖いぞォ?」のっしのっし、とカイジュウがやってくるぞぉ、みたいな遊びをやるときの、あの感覚で、古典的な荒唐無稽さを楽しめばいいのだ。

 そう考えると、逆に、へんに生真面目な部分があるのが、今度は中途半端に見えてきて、邪魔だな、という気がする。荒唐無稽ならうんと荒唐無稽に、正義も人類もいじめもなく、「こわいだろぉ?!どうだっ!?」とおどろおどろしくやって、洒落のめせばいい。

 そうすれば、監督はじめ、スタッフ、キャスト一堂、本当に童心に返ってもっともっと楽しんで作れたかもしれない。

 何億かかったかしれないけれど、日本の映画界も、人気漫画を原作に、いいキャストを起用して映画を作れば、どんな出来栄えだろうと確実に売れることが分かっていて、安心してこういう贅沢な遊びができるようだ。ただ、そんなのばかりで日本の映画、いいんでしょうかね、とは思うけれど。 

at 12:14|Permalink

2009年08月25日

高校野球

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 中京という名を聞いて記憶の底から、子供の頃の思い出が甦ってきた。
 
 小学校の4年生から卒業までの3年間、甲子園球場のすぐそばの、父の勤務先の社宅に住んでいた。今津網引町と言ったから、昔は浜で網を曳いていたようなところだったのだろう。庭で苗木を植えようと掘っても、すぐ砂地があらわれた。

 住まいの周辺は比較的落ち着いた住宅街だったけれど、浜までは子供の足でも歩いて遠くはなかったし、浜風がそのあたりまで渡ってきた。すぐ前はテニスコートで、軟球しか知らなかった私には、毛の生えた黄色い硬球がハイカラに見えた。

 テニスコートに沿って駅のほうへ少し行くと、その向こうに甲子園球場がデンとひかえている。いまのようにアスファルトの広い道路が縦横に走って、高架になっているようなこともなかったし、周囲に緑もあって、のんびりしていた。うちの横も長い間、なんにも建っていない原っぱで、そこでよく三角ベースをやっていた。

 夏の甲子園は独特の熱気があって、家の2階にいると、ときおり風にのって、球場内のワァーッ!という歓声や、鉦・太鼓の音が聞こえくる。そわそわしはじめるころに、一足先にたまらなくなった友達が誘いに来る。いまでもそうなのかもしれないが、高校野球は外野が無料なので、少し遠いのだけれど、広い球場の外周を回りこんで外野の入口まで行って、球場へ入る。

 私自身は野球少年でも何でもなかったけれど、友達はごりごりの阪神ファンで、熱心な野球少年だった。彼に誘われて、阪神タイガースの現役選手たちがお相手をしてくれる、夏の野球教室にも行った。

 そのころは藤村兄弟の兄のほうが一軍の監督をしていたが、太ったおもしろいおじさんで、選手たちがあんまりふがいないと、自分がバッターで登場して豪快に空振りしたりしていた。弟のほうは、スリムで、とても真面目そうだった。

 4番バッターは田宮でこれも太めで、冗談好きな子供受けする選手だった。ショートは吉田。いまの若い人が辛うじて記憶しているかもしれないのは、のちに監督になったこの人くらいだろうか。

 彼は抜群のフィールディングでボールを捌いて走者をアウトにするので、そのすばやい動作やワザをツバメだとか、ツバメ返しだとか言われていたと思う。本人は冗談など言いそうにもない、生真面目で暗い印象の、小柄な選手だった。

 それでも、それらの選手がみな私たちがもって行ったサイン帖にサインしてくれて、いまでもそれは少年時代の思い出として大切にしている。

 そのころは高校野球もよく見に行ったが、それも私の友人に誘われてということが多かった。私は父の転勤で4年生で引っ越してきたので、クラスメイトたちには色々教えてもらったが、とくに一番近所だった彼には色んなところへ連れまわしてもらった。

 彼はなぜだったか思い出せないけれど、中京商業(「商業」がついたと思う)を応援していた。そのころ、中京商業は夏の全国大会の常連でけっこう強かった。あるときなどは、彼が行こうと言いだして、選手たちの泊まっている宿舎まで二人でおしかけ、別に知り合いがいたわけでもなかったのに、部屋まで上げてくれて、なんとなく憧れの選手たちを見るような感じで、荷物をあけてくつろいでいる選手たちの姿を眺めていたのをおぼえている。

 私はそれまで広島に住んでいたので、広島代表を応援し、さらに両親の出身地で親戚の多い三重県代表を応援していた。ただ、当時は「三岐代表」といって、三重と岐阜で一校しか出てこないので、たいていは岐阜商だったかを応援していた。

 ところが、或るとき、三重県から初出場の四日市高校が代表で出てきて、勝ち進んだ。これは外野席でおさまらず、父も応援しに行くというので、内野席で決勝戦を見た。あのときの投手の高橋は、あまりスタミナがなくて(というより一人で全試合連投していたから無理も無いのだけれど)、ベンチへ戻ると酸素吸入している、というようなことが報じられていたが、コントロールがとても良かった。ネット裏で、一球一球祈るような気持ちでみつめていた。

 結局、四日市は初出場で全国優勝をはたした。その後高橋投手はジャイアンツに入ったので、期待していたけれど、鳴かず飛ばずで消えていった。プロは厳しいもんだな、と子供心に思った。

 それでもプロですぐに通用するどころか、並み居るプロ選手たちを飛び越えて、新人賞からさらに引き続きプロ選手として記録を塗り替えていくような、人並み外れた資質をもった高校野球の選手も少なからず出てくるようになったのだから、もうそんな感想も古い時代のものになってしまったのかもしれない。少なくとも、その手の才能というのは、個人次第ということだろう。

 ただ、個々の技量云々は別として、今回の決勝戦のように、とても追いつけまいと思うような状況でも、信じられないような意地と粘りをみせて、あわや最後の最後でひっくり返すかというところまで引っ張っていくのは、いまも昔も変わらない高校野球の良さだろう。実際、そんな場面でひっくり返してしまったようなケースも少なくは無い。高校野球にはプロとはまた別のドラマがあるのだな、と納得する。
 




 

at 17:48|Permalink

2009年08月24日

処暑を過ぎて

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 昨日は二十四節気でいう「処暑」だったそうで、暑さが峠を越えるころに当たるそうです。

 昔の暦の知恵というのはなかなか大したもので、昨日はまだ猛暑的なカンカン照りと蒸し暑さが残っていたのに、今日は全天雲ひとつない快晴なのに、湿気のない爽やかな秋晴れという感じで、空気が澄み渡っています。

 風も涼やかな初秋の風が肌に心地よく、夕方川辺を散歩するには最高の日和でした。

 水は冷えて気持ちよく、緑は柔らかで、遠く北山の山際もくっきり。アキアカネが川面を飛び、澄んだ浅い流れにはめだかや小魚が群れ、子供たちは声を上げてわれ先に亀石を渡り、小犬が浅瀬に飛び込み、口にボールをくわえると、水を跳ねて岸辺の飼い主のところへ駆け戻っていきます。

 反対側の河畔のベンチには、若い男女が自転車の陰でぴったりと寄り添って、時間の過ぎるのも忘れたように、お喋りしながら川のほうを眺めています。

 昼間さぼっているせいで、夜中が仕事時間になってしまいました。9時ころから3時、へたすると4時ころ、さすがに、もういい加減にしたら?と階下から声がかかります。朝は遅いと言っても、8時か9時には起きてしまうので、昼間は眠くて仕方が無い。孫の相手をしていると、ついうとうとしかけて、「じいちゃん!起きて!」と叱られます。

 なんとか来期の準備のスタートを切って、いまのところは順調です。これから新学期までは、原則、完全休暇として、そのあいだにせめて講義の分の準備を整えないと、後期は10コマもあって、前期の7コマに比べてもハードだし、週3日は6時起きの1限目からの授業。9時から午後6時まで終日隙間無く詰まっている日もあって、いまから思いやられます。体力も気力も養っておかなければ・・・

 

at 22:12|Permalink

2009年08月23日

新型インフルエンザ

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 夏休み前には、なんだ普通の季節型インフルエンザと大差ないんだ、というような安心感さえ広がったようなところのあった新型インフルエンザが、いまや流行期に入り、沖縄では一医療機関あたりの患者数が29.60人とかで、目安は1人を超えると流行開始だそうだから、これはもう大流行になってしまったらしい。

 京都でも1.77人(8月22日の朝日新聞朝刊)だそうだ。季節性インフルでも国内100万人?150万人が罹患し、1万人?2万人が死んでいる(同日の日経新聞朝刊)そうだから、本来はウィルスもやや大人しくしているはずの夏でもこれほどの流行で、益々数が多くなりそうな分、同じ死亡率であっても、死者数は格段に多くなる道理だ。ちょっと警戒心を緩めすぎたかもしれない。

 せめて専門家くらいは油断せずにしっかり対策を立てていてほしかったが、これも欧米に比べてワクチンの製造・配布に出遅れているらしく、新聞によれば、政府のほうで集めた今後の対策を立てるための専門家の委員会からも、秋になって対策を考えればいいと思っていたが、意外に早く流行してしまった、というような頼りないコメントを拾っている。ヤレヤレ・・

 いまのところ、うがいクスリだの消毒薬も薬局には置いてあり、一時はあらゆる薬局の店頭から姿を消していたマスクも、再登場して、まだ残っている。けれども、ウイルスまで通さないぞ、というのを自慢にしているマスクは(それも、素人がはめたときに、ホンマに効くのかどうかは怪しいものだけど)、1枚あたりが400円前後もするので、これで使い捨てだから、とても毎日使って捨てて半年も持たせるほど買おうと思ったら何万円も用意しなくてはならない。

 例えば通勤、通学の往きに使ったのを、いったん外せば、裏にまたどこでどうウィルスがくっつくか分からないから、往きは往きの分で最低一つ消費され、帰りは帰りで、となると日に2枚要る。

 とてもじゃないが、「○円亭主」(自分では給与の配分権がなく、銀行に振り込まれた給与を奥さんから日当ないし小遣いみたいに定額?たいていは僅かであります?を渡されて、それで1日の昼食代とかをやりくりするご亭主のこと≒私)に備えられる代物ではない。

 わが家でインフルエンザにかかってくるとすれば、一番考えられるルートは、孫が幼稚園で遊んでいてもらってくるケース。これは、子供は幼稚園で遊ぶのが仕事だし、接触しないで幼児どうしが遊ぶことは不可能だから、よほど運が良くない限り、誰かが罹患すれば、発症までにほぼ全員がうつっても不思議は無いし、ある意味で仕方が無い。

 その孫と私たちは日常的にベタベタとスキンシップしていて、少し風邪気味のときなど、洟を手でふいたのがついてテカテカ光っているほっぺにキスしたりしているから(笑)、孫がもらってくれば、われわれもほぼ確実にもらう。これも仕方が無い。新型インフルで死のうが死ぬまいが、孫とスキンシップのない毎日など今では考えられない(笑)。

 それゆえ、マスクも消毒薬も、実は我々にとってはあまり意味がない、という結論になるわけですね。まぁ、こちらが孫よりも先に赤の他人様からもらってきて孫にうつしたりするのはよくないから、そうならんように警戒は怠らんつもりですが・・・それにしても困ったもんです。みなさんは何か対策、立ててますか?

at 23:54|Permalink

サントリーミュージアムの「休館」


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 昨日の朝刊に、サントリーミュージアムが来年末に「休館」になる、と出ていた。「休館」といっても、臨時休館とは違うようで、入場者減で経営的に支えきれなくなったということのようだから、事実上、閉館される、ということだろう。

 海遊館やマーケットプレイスなどと並んで、大阪市のウォーターフロント開発・天保山地区の目玉施設と位置づけられ、市のもつ土地に、サントリーが80億円かけて作った施設で、安藤忠雄の設計による建築も面白く、面白い企画展もあったので、以前は割合見に行ったこともある。巨大スクリーンでの映像にも面白いものがあった。

 けれども、近年はほとんど足を運んだことがない。どこか美術展でも行こうか、と探すときも、ウェブなどで中身を調べて、ぜひここまで足を運んででも見たい、と思うようなものは私の場合には無かった。美術館の運営が財政的に苦しくなって、現代美術であっても、一般の人でも魅力的だと感じるようなものを企画する余裕がなくなっていたのかもしれない。

 海遊館には、つい先ごろも、まだ「カイニュウカン」としか言えない孫をつれて遊びに行き、美術館側の食堂が落ち着けそうなので、昼食をそちらでとり、売店を覗いてみることはしたものの、展示のほうは案内を見て入る気になれずにやめた。

 たしかポスターのいいコレクションを持っていたりしたと思うし、いろんなジャンルの現代美術、同時代美術を幅広く紹介していたと思うけれど、一般受けするような展覧会ではなかったかもしれない。

 朝日新聞によれば、年150万人の集客と約15億円の入場料収入を見込んだが、ピークが'95年の101万人で、「周辺に商業施設が予想以上に集積されたなかったため」入場者数が伸びず、昨年は65万人まで落ち込んで、最近は年間数億円の赤字だったという。

 もともと美術館の運営は入場料だけでは全然成り立たない。はるか昔ではあるけれど、文化庁の委託で、全国の450館余の美術施設をアンケート調査と政令指定都市の主な美術施設を実際にまわって調査して、その運営についても分析したことがあるが、記憶に誤りがなければ、平均的な美術施設の運営財源のうち入場料は2割程度しか占めていなかったと思う。公立は2割ちょうどくらい、私立はもう少し高かったが、それでも3割までは行かなかった。

 あとは公立なら当然都道府県、市町村のお金(直営でなくても、委託金の名目で出したり、基金をつくって支出したり)、民間の美術館ならそれを作った親会社がスポンサーになって支えている。

 そういう意味では、サントリーはよくこれまで支えてきたと思う。

 しかし、当初年間150万人をめざした、という新聞報道が事実だとすれば、それは少々甘すぎる見通しだったと思う。(前の職場へ委託して私に見積もらせてくれたら、そういう見通しは出さなかったのになぁ・・笑)

 上記の調査よりはずっと「近年」に近いけれど、京都でかなり網羅的に広義の歴史文化系博物館の簡単な調査をしたことがあり、これは新しく企画していた施設のために、集客数を推計するための基礎資料を得るためにした調査だったが、集客数100万を超えたのは、有効回答の中では、たしか二条城と映画村だけだったと思う。後者のほうは、回答自体が大雑把で、ずっと前から公称100万と言われていたから、率直に言って数字自体があまり信頼できなかった。当時でももっとずっと減っているはずだ、と思われた。

 しかし、いずれにせよ、観光会社と提携して市街観光ルートに位置づけられた観光施設で、大型バスでどんどん乗り付けてくるような仕掛けがない限り、ミュージアム(類似施設を含む)で年間100万を維持することは、まず難しい。

 現代美術に光をあてて、比較的とんがった企画展も開催してきたような美術館で、ピーク時にせよ100万を超える集客をはたし、集客力が落ちても50万人以上集客しているというのは、私からすれば、むしろよく健闘していたなぁ、という評価になる。

 やはり立地の問題は大きかっただろう。私のように京都に暮らしていればなおのこと、大阪の人にとっても、天保山まで行くのはちょっと「わざわざ」という感じになるだろうし、よほど惹きつけるなにかが無ければ、億劫になるだろうという気がする。

 新聞では周辺の商業集積が進まなかったから、というふうに書いてあったけれど、商業集積は逆になにか機能的な集客装置(例えば駅だとか)や文化・娯楽などの魅力的な集客装置(例えばシネコンだのファッションやデザイン関係のギャラリーだの企業の先端的なショーケースだの、新しいタイプの遊園地のような)があって、基礎的な集客力が無ければ商売が成り立たないから寄ってくるはずがない。

 文化機能と商業機能の集積は、卵が先か鶏が先かみたいな話になるけれども、パリのグランプロジェのラ・ヴィレットやバスチーユのように、もともとあまりイメージのよくない地域に、再開発で、地域の中心に巨大な柱を打ち込むように、ドデカイ文化施設を作り、そのインパクトで地域のイメージを変えてしまうようなやり方で成功しているのをみても、その種の文化先行型というのがありえることは確かだ。

 ただし、最初に打ち込む杭は大きく深く、その後の地域を支えるに十分なインパクトをもつものでなければならない。

 海遊館はかなりのインパクトをもつ施設ではあったけれど、サントリー美術館は、その海遊館と必ずしも相乗効果を持ち得る、相性のいい施設だったとは思えない。

 実際に調べてみないと本当のところは分からないけれど(もちろん大阪市なりサントリーなりで調べているとは思うが)、客層はずいぶん違うのではないか。
 子供づれで海遊館を訪れる人が、その足で行ってみたくなり、また行ってみて楽しめる、あるいは快適に過ごせるような施設では、サントリー美術館はなかったと思う。

 ここにはむしろ、別のところにできているキッズプラザのような施設があると良かった。交通博物館のようなものでも、まだマシだったろう。

 むろん、もっと多様な数多くの選択肢ができて、その中にいまの二つもある、というのであれば、それはそれで異なる客層を呼べる地域として成熟していく道もあるが、ある程度インパクトのある文化施設が海遊館と、おそらくは客層の違う現代美術中心のサントリー美術館ということになると、辛いものがあるだろう。

 全体のこの地区の集客力が伸びない限り、商業施設も、たぶんこの地区を訪れる人々(その多くは海遊館の来館者)にとっては、マーケットプレイス一つで大体は事足りてしまっただろう。

 天保山はもともとは何も無かったところに人工的に作られたゴミの山だ。そこを櫻の名所かなにかにして花見時には沢山の庶民が集まってくるような場所にしたのは江戸時代の庶民の知恵だ。

 集客装置は文化施設、娯楽施設には限らない。「海に融ける太陽」が美しいなら、それもまた優れた集客装置。何年かがかりで櫻を数万本植えて、江戸時代の風景を再現するのも、またいいかもしれない。港であることを生かした、港らしい開発のしかたというのは、世界中に様々な成功例がある。市内の施設の再配置や、府と市、民間をまじえた連携で、新しい時代の集客装置の知恵が出てくるかもしれない。

 せっかくの歴史的にも面白い場所、サントリーが撤退して、このまま萎えていくのは惜しい。  

 

 
 


at 22:45|Permalink
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