2009年06月
2009年06月20日
村上春樹と三島由紀夫
COURRiER Japon という雑誌に村上春樹がスペインの高校生から(賞を受けて)呼ばれたときに、バルセロナで受けたインタビュー記事が載っていて、その中で珍しく三島由紀夫に触れている。
そこで彼は、「三島のスタイルが好きじゃないということです」、「読者として好きになれないのです。最後まで読めた作品はひとつもありません。」、「単に個人的に三島の文体と作品が好きではないのです。また彼の世界観や政治的思想にも共感を持てない。」と念入りに答えている。
そりゃ、そうだろうな、とは思いながら、あまり彼自身が書いた文章の中では触れていないだろうし、こうやって本人の口から明確に否定されると、やっぱりか、と納得する。
資質も思想も生き方もまるで対極のような作家だから当然だけれど、肝心の作品の書き方も、従って文体も或る意味で対極的ではないかとつねづね考えている。
三島は周知のとおり、戯曲に抜群の才能を発揮していて、戯曲のほうが面白いという人は多い。そして、彼の戯曲はたぶん、彼自身の中で、ラストシーンまで全部見えていて計算づくで書かれるような性質のものだし、彼自身も、最後の一行が決まってから書き出す、という意味のことをどこかで言っていたと思う。
幸か不幸か、小説の書き方も彼の場合はそれに近いのではないか。原稿用紙一枚一枚が勝負で、どんなに長編でも自分に書き直しはない、というようなことをどこかで書いていたけれど、彼の書き方は、作家にだけは先が全部見えているような書き方だったし、一字一句が勝負だといっても、その瞬間の頭の中での推敲と判断は、きっちりと頭の中に設計図のある大工がジグゾーパズルのように最適の部材を選んではめ込むような作業に似ている。
ジグゾーパズルは全体も各パートもその色形はきわめて明確で、これで精巧な絵も力強い絵も描けるけれど、それを描く(作っていく)作り手のありようはどうでもよくて、ただパズルの構造とパート間の関係だけが厳密でなければならず、手順よくそれらのパートが適切な箇所にはめ込まれなければ全体の絵は完成しない。各パートは大も小も対等で、同じように緻密に、あるいは力強く扱われるけれど、作者との距離感は問題にならない。従って、そこには倫理の関与する余地がない。
村上春樹の場合は、本人がいろいろなところでこれまでにも書いたり喋ったりしているように、本人にも先が見えない。もちろん彼なりの直観的な羅針盤はあるに違いないのだけれど、作中人物が動きだし、作品の世界が生命を得て色やにおいを帯びはじめるのを、作者は書きながら辛抱強く待つ。すると本当にそういう奇跡が起き始める。
彼の言語はジグゾーパズルをはめこんでいくような手順を持たない。この言葉とあの言葉とでは、作者との距離感が異なる。それは私たちの日常言語の距離感とも異なる遠近法で構成されているだろうが、そこに作者のコミットメントが生じ、彼の言語からは倫理が立ち上がってくる。作家自身がどんなにメッセージを伝えるために作品を書くわけではないし、自分はありきたりの人間で、人生の教訓を垂れる道徳家などではない、と言っても、若い読者は彼の作品をある種の「生き方読本」として読む。
ところで、もちろん、作家というのもあらゆる芸術家と同様に、シャーマンの末裔だろうから、原形は、多かれ少なかれ、村上春樹のような書き方をするものだろう。どんなに計算づくの見かけをもつ作家でも、そうでなければそもそも作家ではありえないだろうから、三島由紀夫もそうであるに違いないけれど、彼はそれを意識的に拒否して書くことが明晰であることだと思っていた作家なのだろう。
太宰治と三島由紀夫も、本当はよく似た資質だったのではないか、などと言われることがある。けれども、三島自身がそれを明確に否定している。それは彼の言うのが正しいと思う。彼がまだ若いころに、敗戦後、流行作家となって取り巻き連中に囲まれている太宰のいる席へ連れて行かれたときのことを書いている。
三島は「私はあなた(の作品、だったかもしれない)が嫌いです」と明言し、一瞬座はシラケタ感じになった。そのとき太宰は、若い小生意気なこの青年の無礼に、許容と困惑の入り混じった表情で、笑みをうかべて酔いにまかせて座をとりなすように、「だけどこうして来ているんだから、やっぱり好きなんだよ、なぁ」というようなことを言う。それを聴いて三島は一層、全然違うと思う、というようなことだったか。(ごめんなさい、もう半世紀近くも前に一度読んだきりのエッセイかなにかだから正確に覚えていません。面白いから興味ある人は探して読んでみてください。)
こうして全く異なる資質の作家なのに、実はよく似ていた、などと言われることがあるのですが、村上春樹と三島由紀夫というのは、もちろん「鰻と梅干し」よりはるかに悪い「食べ合わせ」であることは間違いありません(笑)。
at 22:37|Permalink│
2009年06月12日
『贖罪』(湊かなえ)
『告白』『少女』という前2冊とは装丁の印象が随分違ったので気づかずにいて、ほかの本を買って店を出る間際に、平積みになっているのが目にとまり、早速買って、今日の通勤車中で読んだ。
事件に関わった少女たちと、一人の母親という主要人物が、それぞれの視点から順に語る(或いは書く)構成はシンプルで、分かりやすい。『少女』のときのように、同じ人物が声色を変えて何度も登場するといった印象もなく、それぞれのキャラクターに即してよく描き分けられているので、これはどちらのパートだっけ、と分からなくなるようなこともない。
文芸としてみれば、4人の少女が、事件を契機として(直接には娘を失った麻子の「脅迫」を契機として)強いられる人生に、ほんとうにそうした破局の渕まで行き着くような道行を辿るほかはなかった、と信じられるほどに、それぞれの少女の生活と心理が深く掘り、刻まれているかというと、物語の構造に嵌るように意図され、いささか牽強附会の感があるものの、推理小説としてみればこれで十分だとも言えるのだろう。
とりわけ、喘息もちの姉の影で慢性的に親の愛に飢える妹由佳などは、その状況も心理もよく描かれている。病弱な姉が弱さを武器に家族を支配する弱者の狡知、弱者の戦略などは、心憎いほど的確に描かれている。
それでも、スペード、ハート、クローバー、ダイヤと4種のカードをきちんと13枚ずつ綺麗に立てて並べて、順にドミノ倒ししてみせるような、この小説の構造は、鮮やかではあるけれども、作家が作り出した人工的なあまりに人工的な構築物で、推理小説の仕掛けとして賞賛する向きもあるのだろうけれど、人間に、人生に肉迫しようという志の赴くところとは、ベクトルの向きが異なる。
エンターテインメントである推理小説を書こうとしているところへ、そうした異なる視点でないものねだりをすることは、フェアではないのかもしれない。作品はそれが目指そうとしたところが実現されたかどうかで判断されるべきで、目指してもいないものを、実現されていないと不満を述べるのはおかしなことだ、というのも確かだろう。
たぶん、推理小説のファンではなく、用意されたゴールに向けて、どんな紆余曲折の迷路らしきものを準備し、どこまで読者に目隠しをし、どこでどう種明かしをしてゴールインするか、といった技巧の冴えに高い評価を与えるような評価の仕方にまったく興味をおぼえない私は、この種の作品にフェアな評価を与えることが難しいようだ。
事件に関わった少女たちと、一人の母親という主要人物が、それぞれの視点から順に語る(或いは書く)構成はシンプルで、分かりやすい。『少女』のときのように、同じ人物が声色を変えて何度も登場するといった印象もなく、それぞれのキャラクターに即してよく描き分けられているので、これはどちらのパートだっけ、と分からなくなるようなこともない。
文芸としてみれば、4人の少女が、事件を契機として(直接には娘を失った麻子の「脅迫」を契機として)強いられる人生に、ほんとうにそうした破局の渕まで行き着くような道行を辿るほかはなかった、と信じられるほどに、それぞれの少女の生活と心理が深く掘り、刻まれているかというと、物語の構造に嵌るように意図され、いささか牽強附会の感があるものの、推理小説としてみればこれで十分だとも言えるのだろう。
とりわけ、喘息もちの姉の影で慢性的に親の愛に飢える妹由佳などは、その状況も心理もよく描かれている。病弱な姉が弱さを武器に家族を支配する弱者の狡知、弱者の戦略などは、心憎いほど的確に描かれている。
それでも、スペード、ハート、クローバー、ダイヤと4種のカードをきちんと13枚ずつ綺麗に立てて並べて、順にドミノ倒ししてみせるような、この小説の構造は、鮮やかではあるけれども、作家が作り出した人工的なあまりに人工的な構築物で、推理小説の仕掛けとして賞賛する向きもあるのだろうけれど、人間に、人生に肉迫しようという志の赴くところとは、ベクトルの向きが異なる。
エンターテインメントである推理小説を書こうとしているところへ、そうした異なる視点でないものねだりをすることは、フェアではないのかもしれない。作品はそれが目指そうとしたところが実現されたかどうかで判断されるべきで、目指してもいないものを、実現されていないと不満を述べるのはおかしなことだ、というのも確かだろう。
たぶん、推理小説のファンではなく、用意されたゴールに向けて、どんな紆余曲折の迷路らしきものを準備し、どこまで読者に目隠しをし、どこでどう種明かしをしてゴールインするか、といった技巧の冴えに高い評価を与えるような評価の仕方にまったく興味をおぼえない私は、この種の作品にフェアな評価を与えることが難しいようだ。
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『1Q84』 (村上春樹) 3
村上春樹の代表的な作品を読むと、いわゆるリアリズム的にリアルな迫力をもつシーンと、非現実的、幻想的なシーンとがある。
前者は、この作品なら、たとえば天吾が編集者&作家として小松と関わる場面や、青豆がマダムやタマルと関わるような場面、あるいは年上の不倫相手の女性と関わるような場面だし、『ねじまき鳥クロニクル』などでは、日本人密偵が中国人にナイフで全身の表皮を剥ぐ拷問をされるような戦慄すべき場面。
後者はもちろん、「リトル・ピーブル」が出てきたり、二つの月を見ているようなシーンだし、ねじまき鳥の井戸だったり、羊男のビルのみえない階だったりする。幻想的といっても、言うまでも無く描写は夢の中の現実のように鮮やかで、曖昧なところは微塵もない。
そして、この両者が融合した場面、つまり徹底的にリアルで鮮やかな印象を与えながら、しかも全体が夢の中の出来事のような場面が、この作品の最高の見せ場である、教祖と青豆の対話の場面だろう。
これは、唐突になるけれども、たぶん、一種の「オウム真理教」論としても読めるだろう。村上春樹のあの問題に対するコミットメントというのは、700ページを超える『アンダーグラウンド』一冊をとってみても明らかだけれども、今回の作品は、その関わりの総決算といってもいいのではないか。
この章は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の章に匹敵する重みを持っている。作家自身も、二人の対話でカラマーゾフの名を出してさりげなくオマージュを捧げているのだと思う。
語弊があるかもしれないけれど、人によっては、この章を読むだけで、オウム真理教や麻原への見方を180度転換させるかもしれない、少なくとも、あの「おぞましい事件」に蓋をすることができなくなるかもしれない。作者は、世間の、麻原に悪鬼を見、変質者、狂信者を見る目に、まったく別の次元、思想の次元で正面から向き合う視点を対置してみせた。
むろんこれは現実のオウム真理教を描いたものではないし、作者が現実のオウム真理教を擁護しているわけでもない。
けれども、ここに登場する教祖とその周囲の教団の描写には、誰の目にもオウム真理教の連想を強いる表徴が沢山使われていて、その意味では作者もまたそういう連想を排除していないと考えるのが自然だろう。
かつて、現実にオウム真理教の引き起こした無差別大量殺人事件が起きたとき、一般大衆と同様に、知識人の多くがこれを宗教や思想の問題としてまともに対峙することを回避し、犯罪者であり、異常者・変質者の言動として、せいぜい情況論的に処理することでお茶を濁し、思想の世界から排除した。
その中で、ごくごく一部の思想家、宗教家、作家だけが、思想として正面から対峙しようとする姿勢を示した。
その中の一人は、吉本隆明で、彼は現実にこの教団が犯したことを全否定することは自明の前提とした上で、思想の問題としてこれと向き合うべきだとし、麻原を思想として対峙すべき巨きな存在とみなした。そして、その言葉だけで世論の大きなバッシングに遭った。
この、ほとんどわが国で信用できる、思想の名に値する唯一の存在である吉本の思想は、以前から一貫しており、このときだけではなく、連合赤軍事件でも、リンチ殺人事件が明るみに出たとたんに逃げ出した「左翼」知識人とは違って、永田洋子の行動と思想に対して思想として真摯に正面から向き合っている。
そして、もう一人、オウム真理教事件に思想として対峙した作家が、今回の村上春樹だった。そのことは『ワンダーランド』のようなこれまでの作品によってすでに明らかだが、今回の作品は、彼がドキュメンタリーやエッセイではなく、本来の小説作家として小説によって全力を傾け、渾身の力を振り絞ってオウムに向き合った総決算のような作品、と読むことも許されるのではないか。
青豆と教祖とのこの「対決」の場面のような文章は、単にオウムを自分の作品に取り込んで、世俗の事件の形を素材として使う、というような安っぽい発想では決して書けないものだ。これを読むと、人はオウムと麻原に対する全否定的な評価を180度転換してしまうかもしれない、というほど恐ろしい力を秘めたシーンであり、この部分の表現におけるオウムと麻原、いや作品中の教祖の存在感と彼の言葉は、それを全否定するであろう世俗的な思想の全重量に匹敵する重さを持っている。
村上春樹は作家だから、麻原は一級の宗教家などと言って世論のバッシングに遭うことにはならなかったと思うけれど、吉本がオウムと思想的に対峙したように、彼もまた作家としてオウムや麻原の宗教思想に対峙したのだと思う。
むろん小説の読み方として、こういう取り出し方をするのはルール違反かもしれない。小説作品はあくまでも自立したフィクションであり、現実の事件や思想とは切り離して、一つの完結した作品として言及すべきだと思うけれども、作品の多義的な読み方の一つとしては許されるだろう。
前者は、この作品なら、たとえば天吾が編集者&作家として小松と関わる場面や、青豆がマダムやタマルと関わるような場面、あるいは年上の不倫相手の女性と関わるような場面だし、『ねじまき鳥クロニクル』などでは、日本人密偵が中国人にナイフで全身の表皮を剥ぐ拷問をされるような戦慄すべき場面。
後者はもちろん、「リトル・ピーブル」が出てきたり、二つの月を見ているようなシーンだし、ねじまき鳥の井戸だったり、羊男のビルのみえない階だったりする。幻想的といっても、言うまでも無く描写は夢の中の現実のように鮮やかで、曖昧なところは微塵もない。
そして、この両者が融合した場面、つまり徹底的にリアルで鮮やかな印象を与えながら、しかも全体が夢の中の出来事のような場面が、この作品の最高の見せ場である、教祖と青豆の対話の場面だろう。
これは、唐突になるけれども、たぶん、一種の「オウム真理教」論としても読めるだろう。村上春樹のあの問題に対するコミットメントというのは、700ページを超える『アンダーグラウンド』一冊をとってみても明らかだけれども、今回の作品は、その関わりの総決算といってもいいのではないか。
この章は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の章に匹敵する重みを持っている。作家自身も、二人の対話でカラマーゾフの名を出してさりげなくオマージュを捧げているのだと思う。
語弊があるかもしれないけれど、人によっては、この章を読むだけで、オウム真理教や麻原への見方を180度転換させるかもしれない、少なくとも、あの「おぞましい事件」に蓋をすることができなくなるかもしれない。作者は、世間の、麻原に悪鬼を見、変質者、狂信者を見る目に、まったく別の次元、思想の次元で正面から向き合う視点を対置してみせた。
むろんこれは現実のオウム真理教を描いたものではないし、作者が現実のオウム真理教を擁護しているわけでもない。
けれども、ここに登場する教祖とその周囲の教団の描写には、誰の目にもオウム真理教の連想を強いる表徴が沢山使われていて、その意味では作者もまたそういう連想を排除していないと考えるのが自然だろう。
かつて、現実にオウム真理教の引き起こした無差別大量殺人事件が起きたとき、一般大衆と同様に、知識人の多くがこれを宗教や思想の問題としてまともに対峙することを回避し、犯罪者であり、異常者・変質者の言動として、せいぜい情況論的に処理することでお茶を濁し、思想の世界から排除した。
その中で、ごくごく一部の思想家、宗教家、作家だけが、思想として正面から対峙しようとする姿勢を示した。
その中の一人は、吉本隆明で、彼は現実にこの教団が犯したことを全否定することは自明の前提とした上で、思想の問題としてこれと向き合うべきだとし、麻原を思想として対峙すべき巨きな存在とみなした。そして、その言葉だけで世論の大きなバッシングに遭った。
この、ほとんどわが国で信用できる、思想の名に値する唯一の存在である吉本の思想は、以前から一貫しており、このときだけではなく、連合赤軍事件でも、リンチ殺人事件が明るみに出たとたんに逃げ出した「左翼」知識人とは違って、永田洋子の行動と思想に対して思想として真摯に正面から向き合っている。
そして、もう一人、オウム真理教事件に思想として対峙した作家が、今回の村上春樹だった。そのことは『ワンダーランド』のようなこれまでの作品によってすでに明らかだが、今回の作品は、彼がドキュメンタリーやエッセイではなく、本来の小説作家として小説によって全力を傾け、渾身の力を振り絞ってオウムに向き合った総決算のような作品、と読むことも許されるのではないか。
青豆と教祖とのこの「対決」の場面のような文章は、単にオウムを自分の作品に取り込んで、世俗の事件の形を素材として使う、というような安っぽい発想では決して書けないものだ。これを読むと、人はオウムと麻原に対する全否定的な評価を180度転換してしまうかもしれない、というほど恐ろしい力を秘めたシーンであり、この部分の表現におけるオウムと麻原、いや作品中の教祖の存在感と彼の言葉は、それを全否定するであろう世俗的な思想の全重量に匹敵する重さを持っている。
村上春樹は作家だから、麻原は一級の宗教家などと言って世論のバッシングに遭うことにはならなかったと思うけれど、吉本がオウムと思想的に対峙したように、彼もまた作家としてオウムや麻原の宗教思想に対峙したのだと思う。
むろん小説の読み方として、こういう取り出し方をするのはルール違反かもしれない。小説作品はあくまでも自立したフィクションであり、現実の事件や思想とは切り離して、一つの完結した作品として言及すべきだと思うけれども、作品の多義的な読み方の一つとしては許されるだろう。
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『1Q84』(村上春樹) 2
(つづき)
こうした私のように1回だけ読んで何かこの作品について言おうなんて、彼の作品を愛する人から言えば、あきれてものが言えないに違いない。せめて5回、6回くらいは読んでから言ってくれない?と。
でも、1回読んで分からなければ、5回読んでも10回読んでも本当の意味でわかるようにはならないだろう。この作品にも口癖になるほど「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」という言葉が出てくるけれど、あれと同じだ(笑)。
昔、ジィムズ・ジョイスを齧ったとき、沢山の解説本を買い込んで、ユリシーズの本文を少し読んでは該当箇所について述べた部分を拾い読みしたりしていたことがある。若かったから、難しいものほど惹かれて、そのとびきりのやつにとびついたのだ。(もちろんまるで歯が立たなかったけれど。)
でもその種の、そのころ書店で手に入る限りの解説本を十数冊、Faber&Faberで買い込んでは読んだ。
たしかに、ハハァと合点のいくことはある。作家の周到な仕掛けに舌を巻き、言葉遊びの好きだった凝り性の作家のめぐらした何重もの罠をときほぐして、言葉遊びに気づかされ、純粋に知る喜びを感じたこともある。
けれども、ひとたび距離を置いてみれば、そうしたことがわかって最後に来る思いは、いつも、それでどうだっていうんだ?という、素朴で無知な読者の疑問に過ぎなかった。
英文学者のような外国文学者というのは、こういう謎解きの面白さにのめりこんで一生を棒に振る人たちなのかな、と(笑)。たしかにそういう細部が全体を支えているのだから、一つ一つのレンガを微に入り細に入り「研究」することは全体を明らかにする上で不可欠なのだろう。
なかには、そうやってキーワードをうまくひろい、構造の裂け目をみつけて、全体をあざやかに新しい光で照らしてみせるような評論もある。ジョイスの場合でいえば、エドモンド・ウィルソンやT.S.エリオットのような古典的なジョイス論や、フィリップ・ソレルスのような現役作家の評言に面白いものがあった。
しかし、こういう立場の異なるものを、どれもそれぞれ読み応えがあり、アタリを感じること自体が、これらの読み解きが、それぞれ一面的なものにすぎないことも語っている。綺麗に読み解いたとたんに、ジョイスもまた似てもにつかぬものになっている。たぶん、これがテキストの多義性ということなのだろう。
村上春樹の作品もまた、そんな多義性をはじめから具えている。意地悪な読者は、ここかしこに、作者のいささか強引な「曖昧化」の戦略をみるかもしれない。多義性を担保するために、ある言葉の水準から先へは踏み込まず、そこで当然起こる問いへの答を回避する、と。
最初、「リトル・ピープル」が出て来るところ(第19章)ではびっくりさせられる。オイオイ、いいのかよ、って感じだ。二つの月が登場するときもだ。けれども、このようないわゆる「非現実的」な設定がくるときは、いつもこんなふうに、夢の中のできごとのようにリアルで、何一つ曖昧なところのない鮮やかな像としてやってくる。
それは夢の中、あるいは催眠術にかかっている世界の内部では、疑いようもなく、何ひとつ曖昧さがない、それが唯一の「現実」であるのと同じだ。
ただ、読者としての私たちは、両方の世界に身を置くために、戸惑う。相容れない両者の間に、つじつまあわせを求める。性急に「答」を求める。
しかし「答」は与えられない。最後まで与えられないままだ、と言ってもいい。ある人はそれを、はぐらかされたのように思うだろう。
推理小説の場合にこんなことをすれば、つまり矛盾が矛盾のままペンディングされたまま終われば、読者は作者が無責任だとみなすか、あるいは重大なミスを犯したと判断するだろう。
しかし、『1Q84』は推理小説のように、唯一の「答」を作者が知っていて、警察や探偵や読者にはヒントを少しずつ与えながら、核心の部分を隠して、できるだけ「サスペンド」する状態を盛り上げ、そのプロセスを楽しませ、満を持してゴール(種明かし)に到る、というものではない。
「答」が与えられず、「全体」や「先」が見えないのは、作者自身が登場人物と共に、その世界にいまあり、その世界をいま生きているからにほかならない。
読者はまた、どころどころで、そんなことがどうしてわかる?と疑問に思い、なぜそう好都合に運ぶ?といぶかるところがあるだろう。作中人物自身がそう自問して、苦笑するようなところもある。けれども、これもまた構造の内側でしか生きられない私たちがしばしば経験することではないだろうか。
それはたぶん、私たちにとって、宿命的に不可避な「構造」の外側からのノックの音にほかならない。私たちは、その音に耳を澄ますことくらいしかできないのだ。それは「無い」のだと思えば「無い」し、「ある」と言えば「あり」、あなたの言葉は「予言」になるだろう。
或る意味で、ここに描かれた人間たちは、私たちのこの世界でのありようを不可視の構造ごと示したものだと言えるだろう。
多くの「謎解き」が始まるだろうけれど、それらの謎解きが、答をその掌に掴んだと思った瞬間に、たぶん「村上ワールド」はその手から抜け出していくのだろう。
こうした私のように1回だけ読んで何かこの作品について言おうなんて、彼の作品を愛する人から言えば、あきれてものが言えないに違いない。せめて5回、6回くらいは読んでから言ってくれない?と。
でも、1回読んで分からなければ、5回読んでも10回読んでも本当の意味でわかるようにはならないだろう。この作品にも口癖になるほど「説明しなくてはわからないということは、説明してもわからないということだ」という言葉が出てくるけれど、あれと同じだ(笑)。
昔、ジィムズ・ジョイスを齧ったとき、沢山の解説本を買い込んで、ユリシーズの本文を少し読んでは該当箇所について述べた部分を拾い読みしたりしていたことがある。若かったから、難しいものほど惹かれて、そのとびきりのやつにとびついたのだ。(もちろんまるで歯が立たなかったけれど。)
でもその種の、そのころ書店で手に入る限りの解説本を十数冊、Faber&Faberで買い込んでは読んだ。
たしかに、ハハァと合点のいくことはある。作家の周到な仕掛けに舌を巻き、言葉遊びの好きだった凝り性の作家のめぐらした何重もの罠をときほぐして、言葉遊びに気づかされ、純粋に知る喜びを感じたこともある。
けれども、ひとたび距離を置いてみれば、そうしたことがわかって最後に来る思いは、いつも、それでどうだっていうんだ?という、素朴で無知な読者の疑問に過ぎなかった。
英文学者のような外国文学者というのは、こういう謎解きの面白さにのめりこんで一生を棒に振る人たちなのかな、と(笑)。たしかにそういう細部が全体を支えているのだから、一つ一つのレンガを微に入り細に入り「研究」することは全体を明らかにする上で不可欠なのだろう。
なかには、そうやってキーワードをうまくひろい、構造の裂け目をみつけて、全体をあざやかに新しい光で照らしてみせるような評論もある。ジョイスの場合でいえば、エドモンド・ウィルソンやT.S.エリオットのような古典的なジョイス論や、フィリップ・ソレルスのような現役作家の評言に面白いものがあった。
しかし、こういう立場の異なるものを、どれもそれぞれ読み応えがあり、アタリを感じること自体が、これらの読み解きが、それぞれ一面的なものにすぎないことも語っている。綺麗に読み解いたとたんに、ジョイスもまた似てもにつかぬものになっている。たぶん、これがテキストの多義性ということなのだろう。
村上春樹の作品もまた、そんな多義性をはじめから具えている。意地悪な読者は、ここかしこに、作者のいささか強引な「曖昧化」の戦略をみるかもしれない。多義性を担保するために、ある言葉の水準から先へは踏み込まず、そこで当然起こる問いへの答を回避する、と。
最初、「リトル・ピープル」が出て来るところ(第19章)ではびっくりさせられる。オイオイ、いいのかよ、って感じだ。二つの月が登場するときもだ。けれども、このようないわゆる「非現実的」な設定がくるときは、いつもこんなふうに、夢の中のできごとのようにリアルで、何一つ曖昧なところのない鮮やかな像としてやってくる。
それは夢の中、あるいは催眠術にかかっている世界の内部では、疑いようもなく、何ひとつ曖昧さがない、それが唯一の「現実」であるのと同じだ。
ただ、読者としての私たちは、両方の世界に身を置くために、戸惑う。相容れない両者の間に、つじつまあわせを求める。性急に「答」を求める。
しかし「答」は与えられない。最後まで与えられないままだ、と言ってもいい。ある人はそれを、はぐらかされたのように思うだろう。
推理小説の場合にこんなことをすれば、つまり矛盾が矛盾のままペンディングされたまま終われば、読者は作者が無責任だとみなすか、あるいは重大なミスを犯したと判断するだろう。
しかし、『1Q84』は推理小説のように、唯一の「答」を作者が知っていて、警察や探偵や読者にはヒントを少しずつ与えながら、核心の部分を隠して、できるだけ「サスペンド」する状態を盛り上げ、そのプロセスを楽しませ、満を持してゴール(種明かし)に到る、というものではない。
「答」が与えられず、「全体」や「先」が見えないのは、作者自身が登場人物と共に、その世界にいまあり、その世界をいま生きているからにほかならない。
読者はまた、どころどころで、そんなことがどうしてわかる?と疑問に思い、なぜそう好都合に運ぶ?といぶかるところがあるだろう。作中人物自身がそう自問して、苦笑するようなところもある。けれども、これもまた構造の内側でしか生きられない私たちがしばしば経験することではないだろうか。
それはたぶん、私たちにとって、宿命的に不可避な「構造」の外側からのノックの音にほかならない。私たちは、その音に耳を澄ますことくらいしかできないのだ。それは「無い」のだと思えば「無い」し、「ある」と言えば「あり」、あなたの言葉は「予言」になるだろう。
或る意味で、ここに描かれた人間たちは、私たちのこの世界でのありようを不可視の構造ごと示したものだと言えるだろう。
多くの「謎解き」が始まるだろうけれど、それらの謎解きが、答をその掌に掴んだと思った瞬間に、たぶん「村上ワールド」はその手から抜け出していくのだろう。
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2009年06月11日
『1Q84』(村上春樹) 1
Book1が554ページ、Book2が501ページであわせて1000ページを超える。1ページが43字の縦組みで19行、ぎっしりだと817字。ざっと原稿用紙2枚入るとなると、400字詰めで2000枚、ざっと80万字の作品ということになる。
うちの学科では卒業論文に原稿用紙50枚、2万字を書けと言っているのだけれど、たいていはそれを聴くだけでゲンナリしている(笑)。諸君!80万字ですぞ!いや、80万字書くだけじゃだめ。それを読むあいだ、一瞬たりとも退屈させずに、先へ先へ引っ張っていっちゃう作品。はい、それがこの『1Q84』なんですね。
1年に1作か2年に1作か、余計なことにわずらわされずに、マイペースを守って、もう何年も何年も、必ず期待を外さない全力投球の作品を出してくるこの作家が、いまも日本の作家のトップランナーであることを今回も思い知らすような作品。
村上春樹の作品を読みなれた人なら、今回の作品もすぐに独特の村上ワールドへ引き込まれるようにして入っていけるだろうし、それだけの読み応えがある。けれども、あまり読んだことのない若い読者は、作品を読み続ける過程で、たくさんの謎に出会い、謎解きの答を求めて、答が見出せないことに苛立ったり、はぐらかされたように感じ、ひょっとすると置き去りにされたように思うかもしれない。
まだ若かったころに、或る友人が中国地方の山の中の、ごくごくローカルな温泉へ連れて行ってくれた。遠くから観光客がやってくるようなところではない。近くに住む婆さんたちがやってきては、おんぼろの掘っ立て小屋のような宿に泊まり、夜中になると酒を酌み交わしてお喋りをしているような不思議な場所だ。
民俗学の調査をして、そんな場所にも出入りし、人なつこい彼は、婆さんたちの輪の中へ一升瓶を持って入り、お喋りに加わる。婆さんたちは若い彼をからかい、ほかでは口にしない艶っぽい話をし、また色んなことを教えてくれる。
どういう経緯だったか、彼は私をそんな宿へ連れて行き、二人で二階の部屋に泊まって、夜中まで話をしていた。窓をあけていると、ホタルが下の川から次々に上がってきて、中には部屋に迷い込んでくるのもいる。下を覗いてみると、暗闇の中で、渓流の少し大きな岩を流れが洗うあたりが、大きな光源を水に沈めてあるかのように青みを帯びた白光を放っていて、そこから次々に蛍が舞い上がってきている。それは初めて見る不思議な光景だった。
その夜、友人と話したこともよく覚えている。近頃なにか面白い小説、読んだ?というようなことを彼が言い、私が村上春樹の名を挙げたのだったか、彼のほうから言い出したのかは忘れたが、彼の評言のほうはよく覚えている。
彼は、いまハヤリの村上春樹とか椎名誠とかさ、どこがいいのかさっぱり分からないよ、と言う。観念小説なのか私小説なのか知らないけど、さらさらっと読めるけど、それが何なんだって感じで、さっぱり分からないよ。
彼はそれらの作家がモテモテなのがよくわからない、あんなの面白いか、と不満げだった。村上春樹はちょうど『羊をめぐる冒険』が出て間もないころだったかと思う。
私は、椎名誠のほうは読んでいないので分からないけれど、村上春樹はいい作家だし、『羊をめぐる冒険』も、とてもいい小説だと思う、と言ったと思う。どこがいいの?とさらに突っ込む彼に、それなりのことは言ったような気がするけれど、たぶん、うまく伝えられなかったのだろう。彼を納得させるには至らなかったと思う。
いま考えてみると、深沢七郎の熱心なファンで、とりわけ強烈な指示言語で書かれた『笛吹川』のような作品がひいきの彼のことだから、村上春樹の激しく励起して猛スピードで自転するために時に静止してみえるような文体や、椎名のような私小説を擬した語りの言語がカッタルくて仕方なかったのかもしれない。(彼はいま或る学会の会長になって、あいかわらずヤンチャしているようだ。)
それはともかく、なにか面白い本ない?と訊くので、村上春樹の本を若い人に薦めて、返しにきたときに、面白かったろう?と言っても、戸惑った表情で、よぉ分からんかった・・・という学生さんが案外多い。
わかる、わからん、というのもようわからん言葉だけれど、今回の作品のように、登場人物にとってさえ謎が多いと、わからん、という読者もまた増えるかもしれない。
そういう読者のために、いろいろ村上春樹の作品を解説した本まで出ている。でも分かりやすい解説というのは、疑ったほうがいい。
いや、他人の解説に限らず、この『1Q84』というテキストの内部でさえ、ひどく分かりやすい「解説」のような、言葉によるイメージの置き換えがみられる。
たとえば、「1984」から「1Q84」の世界への移行について、登場人物自身が、「線路の切り替え」のアナロジーを提供してくれる。あるいはまた、青豆の決定的な行為(これから読む人のために、あえてネタバレを避ける)に及んだ自分の行為を、映画「ミクロの決死圏」のミクロ化した決死隊の医師たちになぞらえてみせる。また青豆が自分の生きる世界がまるごと天吾の精神世界なのではないか、と入れ子構造のような世界のありかたをイメージするシーンもこれに数えていいかもしれない。
こういうアナロジーや謎解きは、「わからない」と謎につまづいたり、苛立ったりする私たちを一瞬、ハッとさせ、「正しい理解」へのヒントを与えてくれるように思ったりするけれど、その線をたどっても、決して「正しい理解」には行き着かない。
アナロジーはアナロジー、言葉の置き換えは言葉の置き換えに過ぎず、辞書で一つの言葉を調べたら××を見よ、とあり、××を見たらもとの頁を見るようにと指示してあるようなものだ。決してゴールには到らない。
細いアナロジーの道を辿っても、途中で例外なく頼みの糸が切れ、袋小路にはいる。強引にそれを突破して、完全読解した、というがごとき猛者もいなくはないけれど、そうして確かに掌の中に掴んだと信じたとたんに、村上ワールドは指の間をすり抜けていて、開いた掌の中には似ても似つかないものが入っているだろう。
二つの月やリトルピープルのような非現実の表徴が登場して、この作家の作品の無数の解説本でおなじみのパラレル・ワールドらしきものがみえると、またぞろ出ましたね、となじみの読者は思うのかもしれないけれど、面白いことに作者自身が登場人物の口を借りて、これはパラレル・ワールドなんかじゃない、現実なんだ、と言わせている。私には、分かりやすい解説への作者の揶揄のように思えた。
また編集者である天吾の感想だったかと思うけれど、新人の小説について、ただ先へ先へと導いていくだけだ、というふうに否定的にとらえた小松(だったかな・・)の言葉に対して、先へ先へ導いていくような魅力を持つなら、それだけで大したものじゃないか、と反撥する感じを抱くところがある。こんな少しも話の本筋とは関係のない些細な部分に、案外作者のホンネが洩れているのではないかと思って読む。
しかし村上春樹の作品は「読者を先へ先へと導く」魅力を持つだけのものではない。まして、その先に絵解きのおあつらえむきの答となるようなゴールが用意された「推理小説」のようなものではない。
たとえば映画「マトリックス」について、私の或る友人は、あれはコンピュータ・ネットワークとウィルスとの戦いを描いたものであり、細部までそれで全部説明できる、と豪語したものだが、もしあの映画がそういうものだとすれば、村上春樹の作品はそういうものではない。
謎解きは、そういうことを商売のネタにしている一部のプロの「文芸評論家」や、熱心な村上フリークスに任せておけばいい。
どんな読者にも、この作品の世界に入り込みさえすれば、その世界を生きる過程で、深い孤独や悲しみやメランコリーをわがことのように感じることができるだろうし、自己抑制や厳しい拒絶に出遭い、また一途な想いに打たれ、「信」や「愛」の核心に触れ、何よりも、大切なものが失われることの意味を限りない哀切さでほとんど「体感」することができるはずだ。そうであれば、さしあたり十分ではないか?
うちの学科では卒業論文に原稿用紙50枚、2万字を書けと言っているのだけれど、たいていはそれを聴くだけでゲンナリしている(笑)。諸君!80万字ですぞ!いや、80万字書くだけじゃだめ。それを読むあいだ、一瞬たりとも退屈させずに、先へ先へ引っ張っていっちゃう作品。はい、それがこの『1Q84』なんですね。
1年に1作か2年に1作か、余計なことにわずらわされずに、マイペースを守って、もう何年も何年も、必ず期待を外さない全力投球の作品を出してくるこの作家が、いまも日本の作家のトップランナーであることを今回も思い知らすような作品。
村上春樹の作品を読みなれた人なら、今回の作品もすぐに独特の村上ワールドへ引き込まれるようにして入っていけるだろうし、それだけの読み応えがある。けれども、あまり読んだことのない若い読者は、作品を読み続ける過程で、たくさんの謎に出会い、謎解きの答を求めて、答が見出せないことに苛立ったり、はぐらかされたように感じ、ひょっとすると置き去りにされたように思うかもしれない。
まだ若かったころに、或る友人が中国地方の山の中の、ごくごくローカルな温泉へ連れて行ってくれた。遠くから観光客がやってくるようなところではない。近くに住む婆さんたちがやってきては、おんぼろの掘っ立て小屋のような宿に泊まり、夜中になると酒を酌み交わしてお喋りをしているような不思議な場所だ。
民俗学の調査をして、そんな場所にも出入りし、人なつこい彼は、婆さんたちの輪の中へ一升瓶を持って入り、お喋りに加わる。婆さんたちは若い彼をからかい、ほかでは口にしない艶っぽい話をし、また色んなことを教えてくれる。
どういう経緯だったか、彼は私をそんな宿へ連れて行き、二人で二階の部屋に泊まって、夜中まで話をしていた。窓をあけていると、ホタルが下の川から次々に上がってきて、中には部屋に迷い込んでくるのもいる。下を覗いてみると、暗闇の中で、渓流の少し大きな岩を流れが洗うあたりが、大きな光源を水に沈めてあるかのように青みを帯びた白光を放っていて、そこから次々に蛍が舞い上がってきている。それは初めて見る不思議な光景だった。
その夜、友人と話したこともよく覚えている。近頃なにか面白い小説、読んだ?というようなことを彼が言い、私が村上春樹の名を挙げたのだったか、彼のほうから言い出したのかは忘れたが、彼の評言のほうはよく覚えている。
彼は、いまハヤリの村上春樹とか椎名誠とかさ、どこがいいのかさっぱり分からないよ、と言う。観念小説なのか私小説なのか知らないけど、さらさらっと読めるけど、それが何なんだって感じで、さっぱり分からないよ。
彼はそれらの作家がモテモテなのがよくわからない、あんなの面白いか、と不満げだった。村上春樹はちょうど『羊をめぐる冒険』が出て間もないころだったかと思う。
私は、椎名誠のほうは読んでいないので分からないけれど、村上春樹はいい作家だし、『羊をめぐる冒険』も、とてもいい小説だと思う、と言ったと思う。どこがいいの?とさらに突っ込む彼に、それなりのことは言ったような気がするけれど、たぶん、うまく伝えられなかったのだろう。彼を納得させるには至らなかったと思う。
いま考えてみると、深沢七郎の熱心なファンで、とりわけ強烈な指示言語で書かれた『笛吹川』のような作品がひいきの彼のことだから、村上春樹の激しく励起して猛スピードで自転するために時に静止してみえるような文体や、椎名のような私小説を擬した語りの言語がカッタルくて仕方なかったのかもしれない。(彼はいま或る学会の会長になって、あいかわらずヤンチャしているようだ。)
それはともかく、なにか面白い本ない?と訊くので、村上春樹の本を若い人に薦めて、返しにきたときに、面白かったろう?と言っても、戸惑った表情で、よぉ分からんかった・・・という学生さんが案外多い。
わかる、わからん、というのもようわからん言葉だけれど、今回の作品のように、登場人物にとってさえ謎が多いと、わからん、という読者もまた増えるかもしれない。
そういう読者のために、いろいろ村上春樹の作品を解説した本まで出ている。でも分かりやすい解説というのは、疑ったほうがいい。
いや、他人の解説に限らず、この『1Q84』というテキストの内部でさえ、ひどく分かりやすい「解説」のような、言葉によるイメージの置き換えがみられる。
たとえば、「1984」から「1Q84」の世界への移行について、登場人物自身が、「線路の切り替え」のアナロジーを提供してくれる。あるいはまた、青豆の決定的な行為(これから読む人のために、あえてネタバレを避ける)に及んだ自分の行為を、映画「ミクロの決死圏」のミクロ化した決死隊の医師たちになぞらえてみせる。また青豆が自分の生きる世界がまるごと天吾の精神世界なのではないか、と入れ子構造のような世界のありかたをイメージするシーンもこれに数えていいかもしれない。
こういうアナロジーや謎解きは、「わからない」と謎につまづいたり、苛立ったりする私たちを一瞬、ハッとさせ、「正しい理解」へのヒントを与えてくれるように思ったりするけれど、その線をたどっても、決して「正しい理解」には行き着かない。
アナロジーはアナロジー、言葉の置き換えは言葉の置き換えに過ぎず、辞書で一つの言葉を調べたら××を見よ、とあり、××を見たらもとの頁を見るようにと指示してあるようなものだ。決してゴールには到らない。
細いアナロジーの道を辿っても、途中で例外なく頼みの糸が切れ、袋小路にはいる。強引にそれを突破して、完全読解した、というがごとき猛者もいなくはないけれど、そうして確かに掌の中に掴んだと信じたとたんに、村上ワールドは指の間をすり抜けていて、開いた掌の中には似ても似つかないものが入っているだろう。
二つの月やリトルピープルのような非現実の表徴が登場して、この作家の作品の無数の解説本でおなじみのパラレル・ワールドらしきものがみえると、またぞろ出ましたね、となじみの読者は思うのかもしれないけれど、面白いことに作者自身が登場人物の口を借りて、これはパラレル・ワールドなんかじゃない、現実なんだ、と言わせている。私には、分かりやすい解説への作者の揶揄のように思えた。
また編集者である天吾の感想だったかと思うけれど、新人の小説について、ただ先へ先へと導いていくだけだ、というふうに否定的にとらえた小松(だったかな・・)の言葉に対して、先へ先へ導いていくような魅力を持つなら、それだけで大したものじゃないか、と反撥する感じを抱くところがある。こんな少しも話の本筋とは関係のない些細な部分に、案外作者のホンネが洩れているのではないかと思って読む。
しかし村上春樹の作品は「読者を先へ先へと導く」魅力を持つだけのものではない。まして、その先に絵解きのおあつらえむきの答となるようなゴールが用意された「推理小説」のようなものではない。
たとえば映画「マトリックス」について、私の或る友人は、あれはコンピュータ・ネットワークとウィルスとの戦いを描いたものであり、細部までそれで全部説明できる、と豪語したものだが、もしあの映画がそういうものだとすれば、村上春樹の作品はそういうものではない。
謎解きは、そういうことを商売のネタにしている一部のプロの「文芸評論家」や、熱心な村上フリークスに任せておけばいい。
どんな読者にも、この作品の世界に入り込みさえすれば、その世界を生きる過程で、深い孤独や悲しみやメランコリーをわがことのように感じることができるだろうし、自己抑制や厳しい拒絶に出遭い、また一途な想いに打たれ、「信」や「愛」の核心に触れ、何よりも、大切なものが失われることの意味を限りない哀切さでほとんど「体感」することができるはずだ。そうであれば、さしあたり十分ではないか?
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