2009年05月
2009年05月31日
『樅の木は残った』(山本周五郎)
昭和31年に日経新聞連載完結、昭和33年に大幅加筆の上、出版された、時代小説の名作。
新しい小説をある種の強迫観念に突き動かされるように読んでいると(もちろんそれ自体、楽しみでもあるし、楽しみ以外の何というわけでもないのだけれど)、ときどきこういう昔の、味わいのある名作をふっと思い出し、無性に読みたくなって、父母の本棚にあったのをこっそり取ってきて読んだ、たしか一冊本の分厚い単行本がどこかにあったはず、と思ってみるが、もう家の中でその一冊を探し出すことは不可能で、結局文庫本になった上・中・下の3冊を新たに買ってきて、2日間の通勤時間にプラス休日のちょいと時間をとって読んでしまう。
読み出すととまらない。少しもこの作品に古びた印象は無い。伊達兵部や酒井雅楽頭と原田甲斐の周辺に送り込んだ彼らの間者との、マル秘の対話だけで成り立つ部分などは、昔読んだときもそうだったけれど、いま読んでもゾクゾクする凄みがある。
しかし何といってもこの作品の魅力の第一は、歌舞伎でも映画でも過去ずっと極悪人扱いされてきた原田甲斐を、命と引き換えに伊達藩62万石を救った深慮の人として評価を逆転して描き出した、その人物像の限りない魅力にあるだろう。
幕府の権力者の謀略に立ち向かう圧倒的な力の差のある戦いはとどまるところを知らない後退戦でしかありえない。引いて引いて、それでもなお最後まで追い詰めてくる圧倒的な権力に立ち向かって、最後に自分の汚名を着た死と引き換えに一矢報いる甲斐の、あくまでもお家安泰という封建武士の倫理の固い枠内にあって、それを守るために逆にそれを超えてしまう人間的な自由さ(それは彼の山育ちの野性として描かれているが)と、その自己矛盾が彼に与える深さが心をゆさぶる。
七十郎のような武士も魅力的だし、新八・おみやの成り行きもとてもいい。またこういう作品の中に宇乃のような無垢のキャラクターを一つ置く巧さもさすがだ。思わず泣いてしまうのは彼女が出てくるような場面。ただ、唯一気に入らないのは、作品の末尾にあらわれているような、なぜ宇乃と甲斐のつながりに性的な喩を与えなければいけないのだろう?という点だけだ。別段、それがあって汚れるわけではないけれど、そんな必要はなかったのではないか。
at 23:23|Permalink│
2009年05月29日
卑弥呼の墓
「小林さんも箸墓が卑弥呼の墓だと思ってるよ。慎重だからはっきりそうだとは言わないけどさ。」
久しぶりに卑弥呼の墓の話を新聞の一面に見て、かれこれ40年近くも前の友人の言葉が昨日のことのように甦るのを感じた。
小林さんとは、その少し前に京都大学を定年退職して名誉教授になっていた高名な考古学者小林行雄さん。邪馬台国論争では畿内説の旗頭の一人だった。
友人はそれまで私と同じく生物系の学科を出て、考古学教室へ転じ、「毎日、おれなんか見たって同じにしか見えない土器を手に、ためつすがめつ、これは何年頃のもの、いやもう二、三十年ばかり早いんじゃないかなんてことやってんだよ」と自分もその一員になりながら、古巣の雰囲気との違いに戸惑い呆れたふうに言っていたものだ。
その友人が、あるとき、考古学教室の院生の集まりのあと、私の下宿に一泊する予定があったので、私が飲み会の会場へ迎えにいくと、いまから小林さんところへ遊びにいくから、一緒に来ないか、といって連れていかれたのが、小林先生のご自宅だった。
考古学とは縁もゆかりもない私が突然ついていっていいものかとためらいはしたが、ほかの院生たちもすすめてくれるし、どんな人か会ってみたい、という好奇心もあってついていった。一つには院生たちが、知的で穏やかな印象の人たちで、初対面の私にも声をかけてくれて、とてもフレンドリーだったので、背中を押してもらった感じで行った。
飲み会のあとだから、早くても9時過ぎ、たぶん10時ころだったのではないか。たしか7?8人か(ひょっとすると10人くらい)でお邪魔したのだと思う。その中に、もう一人私の知り合いでやはり門外漢がいたので、少し安心感があった。彼は、のちに大手新聞社の記者を長年勤めて国立共同利用機関の長になった。当時から各方面に顔が広く、小林先生も彼のことはよくご存知だった。
先生のお宅は、玄関を入ってすぐ目の前の廊下は、片側の壁が上から下まで本がぎっしり詰まった本棚で、向こうのほうまで埋め尽くされている。どうやら奥の部屋から玄関先のスペースまで本が侵出してきたようで、そのまま家の外まで溢れ出しそうだった。
客間へ案内され、先生は低いソファにゆったりくつろいで座られ、先に入った考古学教室の院生たちは、先生を取り囲むように半円を描いて、やわらかなカーペットの上に思い思いに胡坐をかいてみたり立膝ですわって位置取りした。あとからついて入った部外者の私などが具合の悪いことにお客扱いされ、ソファの先生の隣へ座らされて緊張してしまった。
話の中身はいまでは殆ど何もおぼえていないけれど、私などが口をはさむ余地のない考古学とその周辺をめぐる雑談だったのだと思う。話の中身は記憶にないけれど、その自由闊達で和気藹々とした雰囲気だけは鮮明に覚えている。
院生たちがみんなこの先生のことを最大限に尊敬していることはその空気でひしひしと感じられたけれど、偉い人の前でかしこまっているような風はさらさら無く、穏やかにではあったけれど、盛んに意見を出し合って、先生に聞いていてもらうのが嬉しくて生き生きと議論しているようにみえた。
いっぽう先生は、ほんとうに楽しそうに、終始くつろいだ様子で笑みを浮かべながら、若い院生たちの話に耳を傾け、時々問いかけたり、ご自分の意見を言われ、その言葉が座の若い院生たちの胸にすっと沁み込んでいくようだった。
たぶんゆうに1時間以上はお邪魔していただろう。ほかにも出る人がいたので、一足先に友人と一緒に辞することにした。先生は、友人が私の家に泊まることをご存じなかったので、「なんだ、君も帰っちゃうの?」と意外そうに友人に言って別れを惜しまれた。
友人を家につれて帰ったのは、夜中になっていたと思う。
最初に書いた私の友人のセリフは、この日、先生のご自宅からの帰りに聞いたのだったと思う。
「桜井のほうに箸墓っていう3世紀後半くらいに造られた、その当時としては破格に大きな前方後円墳があって、卑弥呼の墓じゃないか、って言われてんだけどさ・・」
友人は考古学をかじった人なら誰でも知っているような知識を無知な私に易しく説明してくれた。宮内庁の管理下にあって調査ができないために確定的なことが言えないけれど、「小林さん」もあれが卑弥呼の墓だと考えてるんじゃないかと思うんだ、というのが友人の推測だった。
そのときに、ついでに、彼が生物系の学問から転向して足を踏み入れた考古学界というのが、外から来た者の目で見るといかにおかしなものかを、彼一流の誇張とユーモアをまじえて、面白おかしく語ってくれた。
関西の学者が唱える邪馬台国畿内説と、関東や九州の学者が唱える北九州説の対立でも分かるように、このテーマに限らず、考古学の世界は東西で学界を二分するような「喧嘩」を始終やっているが、ちょっと垣間見たその内幕はなんともドロドロしててさ。
例えばこっちの誰かが書いた論文をあっち学者が批判するだろ?そうすると、それを否定するような、いままで知られてなかった証拠を一つだけ出して、「こういう例がありますよ」ってやるんだ。で、それに対してまたあっちが、それはこうだろう、って再批判の論文を書くだろ?そうすると、またおもむろに、新しい証拠をまた一つだけ出すんだ。
そんな証拠、誰もそれまで見たことが無いんだから、批判を否定する確実な物証をつきつけられたらグウの音も出ない。考古学ってのはモノを見つけたやつが勝ちだからさ。掘ったやつがみんな自分とこで独占して囲い込んじゃうから、それなしで外からいくらつべこべ言ったって絶対勝てないんだよね(笑)
・・・とまぁ、私の記憶が正確かどうか分からないし、或いは友人の語った学界事情というのは当時でさえ過去のものであったかもしれない。そのへんは保証できないけれど(笑)、私は他人事なので、へ?ぇ、そうなんだぁと面白可笑しい話として聞いていた。
昨日の新聞記事の中に、今回の研究成果を出した研究者が、その結論を導いたプロセスも含めて、誰でも分かるようにデータを公開する、と述べたと、わざわざ書いてあるのを見て、このときの友人の話を思い出した。
自然科学でも最近は特許がらみで色々情報を隠すことが多いのかもしれないけれど、基本的には結論を導いたプロセスを公開して他の研究者が追試験等々を繰り返して再現性が保証されなければ、その結論自体の正しさが保証されない、というのが常識だろうと思う。だから、わざわざああいうことが書いてあると、え?まだそういうのが常識になってないのかしら、と門外漢としては逆に驚かされるところがある。まぁ記事に深い意味はなかったのかもしれないけれど。
ところで、箸墓古墳が本当に卑弥呼の墓なのかどうか、それはまだしばらくは確定的なことが言えるようにはならないらしい。
放射線炭素年代測定によって年代を推定したそうだけれど、この方法はよく知られているように、不可避的な誤差を生じるので、ピタリと年代が分かるというわけではない。それで、全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代測定の結果を踏まえて、箸墓の堀や堤から出土していて箸墓築造のころの土器と考えられている「布留0式」の使用期間を上記の年代に絞り込んだということだ。
墓は全長280mの前方後円墳で、それ以前の墓が最大でも110mだったのに比べても格段に規模が大きくて、強大な政治権力の誕生を物語っており、古くから卑弥呼の墓とする説はあったので、可能性としては十分にある。今回の研究成果も畿内説の立場を強化する結果ではあるのだろう。
シロクロがはっきりするとすれば、墓を掘ってきちんとした学術調査をおこなうときだろうけれど、いまネックになっているのは、この墓を宮内庁が管理していて、その宮内庁は、第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理していて、研究者にも墳丘への立ち入りを許可しないことが、学術研究の障害となっているようだ。
私も素人のミーハー的興味で、ぜひ学術的調査が行われて、私の生きているあいだに、「これが卑弥呼の墓でした!」と新聞の一面トップに高松塚古墳の壁画みたいなのがカラーでデカデカと載る日がこないかなぁ?と期待している。
久しぶりに卑弥呼の墓の話を新聞の一面に見て、かれこれ40年近くも前の友人の言葉が昨日のことのように甦るのを感じた。
小林さんとは、その少し前に京都大学を定年退職して名誉教授になっていた高名な考古学者小林行雄さん。邪馬台国論争では畿内説の旗頭の一人だった。
友人はそれまで私と同じく生物系の学科を出て、考古学教室へ転じ、「毎日、おれなんか見たって同じにしか見えない土器を手に、ためつすがめつ、これは何年頃のもの、いやもう二、三十年ばかり早いんじゃないかなんてことやってんだよ」と自分もその一員になりながら、古巣の雰囲気との違いに戸惑い呆れたふうに言っていたものだ。
その友人が、あるとき、考古学教室の院生の集まりのあと、私の下宿に一泊する予定があったので、私が飲み会の会場へ迎えにいくと、いまから小林さんところへ遊びにいくから、一緒に来ないか、といって連れていかれたのが、小林先生のご自宅だった。
考古学とは縁もゆかりもない私が突然ついていっていいものかとためらいはしたが、ほかの院生たちもすすめてくれるし、どんな人か会ってみたい、という好奇心もあってついていった。一つには院生たちが、知的で穏やかな印象の人たちで、初対面の私にも声をかけてくれて、とてもフレンドリーだったので、背中を押してもらった感じで行った。
飲み会のあとだから、早くても9時過ぎ、たぶん10時ころだったのではないか。たしか7?8人か(ひょっとすると10人くらい)でお邪魔したのだと思う。その中に、もう一人私の知り合いでやはり門外漢がいたので、少し安心感があった。彼は、のちに大手新聞社の記者を長年勤めて国立共同利用機関の長になった。当時から各方面に顔が広く、小林先生も彼のことはよくご存知だった。
先生のお宅は、玄関を入ってすぐ目の前の廊下は、片側の壁が上から下まで本がぎっしり詰まった本棚で、向こうのほうまで埋め尽くされている。どうやら奥の部屋から玄関先のスペースまで本が侵出してきたようで、そのまま家の外まで溢れ出しそうだった。
客間へ案内され、先生は低いソファにゆったりくつろいで座られ、先に入った考古学教室の院生たちは、先生を取り囲むように半円を描いて、やわらかなカーペットの上に思い思いに胡坐をかいてみたり立膝ですわって位置取りした。あとからついて入った部外者の私などが具合の悪いことにお客扱いされ、ソファの先生の隣へ座らされて緊張してしまった。
話の中身はいまでは殆ど何もおぼえていないけれど、私などが口をはさむ余地のない考古学とその周辺をめぐる雑談だったのだと思う。話の中身は記憶にないけれど、その自由闊達で和気藹々とした雰囲気だけは鮮明に覚えている。
院生たちがみんなこの先生のことを最大限に尊敬していることはその空気でひしひしと感じられたけれど、偉い人の前でかしこまっているような風はさらさら無く、穏やかにではあったけれど、盛んに意見を出し合って、先生に聞いていてもらうのが嬉しくて生き生きと議論しているようにみえた。
いっぽう先生は、ほんとうに楽しそうに、終始くつろいだ様子で笑みを浮かべながら、若い院生たちの話に耳を傾け、時々問いかけたり、ご自分の意見を言われ、その言葉が座の若い院生たちの胸にすっと沁み込んでいくようだった。
たぶんゆうに1時間以上はお邪魔していただろう。ほかにも出る人がいたので、一足先に友人と一緒に辞することにした。先生は、友人が私の家に泊まることをご存じなかったので、「なんだ、君も帰っちゃうの?」と意外そうに友人に言って別れを惜しまれた。
友人を家につれて帰ったのは、夜中になっていたと思う。
最初に書いた私の友人のセリフは、この日、先生のご自宅からの帰りに聞いたのだったと思う。
「桜井のほうに箸墓っていう3世紀後半くらいに造られた、その当時としては破格に大きな前方後円墳があって、卑弥呼の墓じゃないか、って言われてんだけどさ・・」
友人は考古学をかじった人なら誰でも知っているような知識を無知な私に易しく説明してくれた。宮内庁の管理下にあって調査ができないために確定的なことが言えないけれど、「小林さん」もあれが卑弥呼の墓だと考えてるんじゃないかと思うんだ、というのが友人の推測だった。
そのときに、ついでに、彼が生物系の学問から転向して足を踏み入れた考古学界というのが、外から来た者の目で見るといかにおかしなものかを、彼一流の誇張とユーモアをまじえて、面白おかしく語ってくれた。
関西の学者が唱える邪馬台国畿内説と、関東や九州の学者が唱える北九州説の対立でも分かるように、このテーマに限らず、考古学の世界は東西で学界を二分するような「喧嘩」を始終やっているが、ちょっと垣間見たその内幕はなんともドロドロしててさ。
例えばこっちの誰かが書いた論文をあっち学者が批判するだろ?そうすると、それを否定するような、いままで知られてなかった証拠を一つだけ出して、「こういう例がありますよ」ってやるんだ。で、それに対してまたあっちが、それはこうだろう、って再批判の論文を書くだろ?そうすると、またおもむろに、新しい証拠をまた一つだけ出すんだ。
そんな証拠、誰もそれまで見たことが無いんだから、批判を否定する確実な物証をつきつけられたらグウの音も出ない。考古学ってのはモノを見つけたやつが勝ちだからさ。掘ったやつがみんな自分とこで独占して囲い込んじゃうから、それなしで外からいくらつべこべ言ったって絶対勝てないんだよね(笑)
・・・とまぁ、私の記憶が正確かどうか分からないし、或いは友人の語った学界事情というのは当時でさえ過去のものであったかもしれない。そのへんは保証できないけれど(笑)、私は他人事なので、へ?ぇ、そうなんだぁと面白可笑しい話として聞いていた。
昨日の新聞記事の中に、今回の研究成果を出した研究者が、その結論を導いたプロセスも含めて、誰でも分かるようにデータを公開する、と述べたと、わざわざ書いてあるのを見て、このときの友人の話を思い出した。
自然科学でも最近は特許がらみで色々情報を隠すことが多いのかもしれないけれど、基本的には結論を導いたプロセスを公開して他の研究者が追試験等々を繰り返して再現性が保証されなければ、その結論自体の正しさが保証されない、というのが常識だろうと思う。だから、わざわざああいうことが書いてあると、え?まだそういうのが常識になってないのかしら、と門外漢としては逆に驚かされるところがある。まぁ記事に深い意味はなかったのかもしれないけれど。
ところで、箸墓古墳が本当に卑弥呼の墓なのかどうか、それはまだしばらくは確定的なことが言えるようにはならないらしい。
放射線炭素年代測定によって年代を推定したそうだけれど、この方法はよく知られているように、不可避的な誤差を生じるので、ピタリと年代が分かるというわけではない。それで、全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代測定の結果を踏まえて、箸墓の堀や堤から出土していて箸墓築造のころの土器と考えられている「布留0式」の使用期間を上記の年代に絞り込んだということだ。
墓は全長280mの前方後円墳で、それ以前の墓が最大でも110mだったのに比べても格段に規模が大きくて、強大な政治権力の誕生を物語っており、古くから卑弥呼の墓とする説はあったので、可能性としては十分にある。今回の研究成果も畿内説の立場を強化する結果ではあるのだろう。
シロクロがはっきりするとすれば、墓を掘ってきちんとした学術調査をおこなうときだろうけれど、いまネックになっているのは、この墓を宮内庁が管理していて、その宮内庁は、第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)として管理していて、研究者にも墳丘への立ち入りを許可しないことが、学術研究の障害となっているようだ。
私も素人のミーハー的興味で、ぜひ学術的調査が行われて、私の生きているあいだに、「これが卑弥呼の墓でした!」と新聞の一面トップに高松塚古墳の壁画みたいなのがカラーでデカデカと載る日がこないかなぁ?と期待している。
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2009年05月27日
朱蒙(チュモン)
韓流歴史ドラマ「薯童謡(ソドンヨ)」があまり素晴らしかったので、その話をしていたら、ソドンヨを貸してくれた友人が、今度は「朱蒙」を持ってきてくれた。
百済の次は高句麗というわけだ。「薯童謡」もNHKの大河ドラマなどよりかなり長尺だったが、「朱蒙」はさらに長いようで、2回分ずつ収めたDVDが30枚くらい買物袋にぎっしり詰まっている。
長くても面白いと「薯童謡」のようにまるまる2?3回は見てしまうし、友人などは前にも書いたが、「チャングムの誓い」を20回見た、と豪語している(笑)。
NHKの大河ドラマをみても歴史小説を読んでもそうだけれど、やっぱり史実はどうだったんだろう、と気になる。中学高校の世界史の授業で、中国中心のアジア史のごく一部として断片的な知識を得てすぐに忘れ、まったく無知のまま何十年も過ごしてきた朝鮮半島の古代史の片鱗にでも触れたい、というド素人らしい興味がふつふつと湧いてくる。
でも、これらの話はもうまるまるフィクションと言ったほうがよさそうだ。もちろん、百済に「薯童謡」のチャンのモデルになった武王や物語に登場するその前、前々の王として登場する王がいたことはいたようだし、薯童謡伝説というのも伝えられているらしいが、それはドラマの骨格を作るほどの史実として残されているわけではないようだ。
朱蒙ににしても高句麗の建国者として史書に若干の記述はあるようだけれど、中身は伝説の類のようだし、このドラマの枠組みになるほどのものがあるようにはみえない。
それでもドラマはそれ自体が面白い。韓国のドラマ制作者が、それなりに自分たちの歴史と文化のルーツの一つを再現的に映像化しているので、そこに登場する自然やいまの水準での歴史的考証を経てつくっただろう街や市場の様子、宮廷や商家の建物、人々の風俗、衣装、役者の表情まで、見ていて興味深い。
さらに、王と貴族と民衆の関係や、商団の関わり方など、政治的、社会的な権力関係やら主従、親子、あるいは恋人どうしの関係のありよう、それを貫いている倫理観などを私たち自身のそれと自然に引き比べてみているが、それもまた非常に興味深い。
むろんドラマの世界だから、それは古代社会のそれではなくて、現代の目で想像された古代社会であり、その中にドラマの作り手である現代の韓国の人たちの視点が入っている(あるいは現代の視点そのもの)だろうが、いずれであっても歴史の専門家でもなんでもない私には構わないし、それがどうであっても、面白いものは面白いし楽しめる。
ストーリー作りが巧いので、エンターテインメントとして申し分ない。
困るのは、面白すぎて、つい次の回も、そのまた次の回も見たくなることだ。まさにアラビアンナイトになってしまい、気がつくと空が白みはじめる。なまじ録画のDVDで見ているものだから、次の週まで待たなくても、見たければいくらでも見てしまえるので、意志薄弱な私はほっておくとエンエン見てしまう。
パートナーは大体うとうとして目覚めて3時、4時だと、きょうはここまで!ときりのよいところで打ち切り宣言をする。しぶしぶ腰をあげて入浴・就寝とあいなる。
「朱蒙」は「薯童謡」よりは要素がシンプルで、鋼鉄の強度を競う鍛冶の技術については描かれるけれど、技術についてはおおむねそれ一本なので、「薯童謡」のような豊かさには欠ける。
「薯童謡」における百済の太学舎は、万般の技術を開発する研究機関、技術者養成機関、生産工場であって、帝王学を教える王族専用の教育機関でもあるというような非常に多岐にわたる性格のものとしてしっかり描かれていて、誠に興味深いものだった。
「薯童謡」では、薯童謡伝説に基づいて、主人公は自分の出自を知らぬまま、民衆の生活の場から生い立つ王という設定であるから、つねに王族、貴族と同等の重みで民衆の生活が描かれ、そこに知識人(技術者)集団としての太学舎がからみ、さらに主人公のロマンの相手が新羅の姫であることから、新羅との関わりも重要な要素になるなど、多元的な要素が実にたくみに配され、複雑で動的な相互関係をもちながら全体が動いていく繊細でダイナミックな物語だった。
「朱蒙」のほうは、妾腹の子扱いされてきたとはいえ、はじめから王室で育った王子(実は民衆の希望でありながら味方の裏切りにあって殺されたと思われていた指導者の子)ゆえ、「薯童謡」のチャンのような民衆を繰り入れた思想的なバックボーンはやや弱い。
また、王と貴族との圧迫関係も、「薯童謡」では毎回熾烈な戦いが演じられて、その攻防のプロセスが、王族の王権争いとともに後半の宮廷劇の中軸となるが、「朱蒙」ではそれは王や主人公の王子と、悪役の王子とその母である王妃側の外戚との権力争いに吸収されていて、貴族の共通性と個別性まで描いて王との緊張関係を最初から最後まで描ききった「薯童謡」のような掘りの深さと多元的なダイナミズムはない。
しかし、私にとって「朱蒙」の新鮮なところの一つは、商団と、まだ国家に成り切れない地方の部族連合との関係や、神殿の役割などがしっかり描かれていることだ。
ドラマの軸は、早い話が、長く妾腹の子として母とともに王室で差別されてきた王子の復讐劇に、実は国家権力のはざまで苦しむ流民を救うために武装闘争をしていた指導者の息子で、その父というのは自分が実父と思っていた王室の王の親友であり、先王に裏切られて挫折したという因縁話を重ねることで、大義を与え、高句麗の建国神話へと導いているので、復讐劇としての権力闘争が軸になっているようだ。
単純といえばこちらのほうが単純。でも王子が運命に導かれて経験する波乱万丈の戦いの人生は、毎回「次」をどうしても知りたくなる魅惑に満ちている点で「薯童謡」とかわらない。
俳優も「薯童謡」のほうがいいけれど、重なる役者も居るし、チャングムの敵役だった女優さんはここでも本当に憎らしい名演、いや怪演をみせているし、だいたい彼女と、朱蒙の母親役の女優と、巫女ヨミウルを演じている女優とは、それぞれ非常に存在感がある。
まだ半分にも満たないのだと思うけれど、普通の生活プラス「朱蒙」の生活は体力的にそう長くは続けられないので、短期決戦で見てしまいたい。
百済の次は高句麗というわけだ。「薯童謡」もNHKの大河ドラマなどよりかなり長尺だったが、「朱蒙」はさらに長いようで、2回分ずつ収めたDVDが30枚くらい買物袋にぎっしり詰まっている。
長くても面白いと「薯童謡」のようにまるまる2?3回は見てしまうし、友人などは前にも書いたが、「チャングムの誓い」を20回見た、と豪語している(笑)。
NHKの大河ドラマをみても歴史小説を読んでもそうだけれど、やっぱり史実はどうだったんだろう、と気になる。中学高校の世界史の授業で、中国中心のアジア史のごく一部として断片的な知識を得てすぐに忘れ、まったく無知のまま何十年も過ごしてきた朝鮮半島の古代史の片鱗にでも触れたい、というド素人らしい興味がふつふつと湧いてくる。
でも、これらの話はもうまるまるフィクションと言ったほうがよさそうだ。もちろん、百済に「薯童謡」のチャンのモデルになった武王や物語に登場するその前、前々の王として登場する王がいたことはいたようだし、薯童謡伝説というのも伝えられているらしいが、それはドラマの骨格を作るほどの史実として残されているわけではないようだ。
朱蒙ににしても高句麗の建国者として史書に若干の記述はあるようだけれど、中身は伝説の類のようだし、このドラマの枠組みになるほどのものがあるようにはみえない。
それでもドラマはそれ自体が面白い。韓国のドラマ制作者が、それなりに自分たちの歴史と文化のルーツの一つを再現的に映像化しているので、そこに登場する自然やいまの水準での歴史的考証を経てつくっただろう街や市場の様子、宮廷や商家の建物、人々の風俗、衣装、役者の表情まで、見ていて興味深い。
さらに、王と貴族と民衆の関係や、商団の関わり方など、政治的、社会的な権力関係やら主従、親子、あるいは恋人どうしの関係のありよう、それを貫いている倫理観などを私たち自身のそれと自然に引き比べてみているが、それもまた非常に興味深い。
むろんドラマの世界だから、それは古代社会のそれではなくて、現代の目で想像された古代社会であり、その中にドラマの作り手である現代の韓国の人たちの視点が入っている(あるいは現代の視点そのもの)だろうが、いずれであっても歴史の専門家でもなんでもない私には構わないし、それがどうであっても、面白いものは面白いし楽しめる。
ストーリー作りが巧いので、エンターテインメントとして申し分ない。
困るのは、面白すぎて、つい次の回も、そのまた次の回も見たくなることだ。まさにアラビアンナイトになってしまい、気がつくと空が白みはじめる。なまじ録画のDVDで見ているものだから、次の週まで待たなくても、見たければいくらでも見てしまえるので、意志薄弱な私はほっておくとエンエン見てしまう。
パートナーは大体うとうとして目覚めて3時、4時だと、きょうはここまで!ときりのよいところで打ち切り宣言をする。しぶしぶ腰をあげて入浴・就寝とあいなる。
「朱蒙」は「薯童謡」よりは要素がシンプルで、鋼鉄の強度を競う鍛冶の技術については描かれるけれど、技術についてはおおむねそれ一本なので、「薯童謡」のような豊かさには欠ける。
「薯童謡」における百済の太学舎は、万般の技術を開発する研究機関、技術者養成機関、生産工場であって、帝王学を教える王族専用の教育機関でもあるというような非常に多岐にわたる性格のものとしてしっかり描かれていて、誠に興味深いものだった。
「薯童謡」では、薯童謡伝説に基づいて、主人公は自分の出自を知らぬまま、民衆の生活の場から生い立つ王という設定であるから、つねに王族、貴族と同等の重みで民衆の生活が描かれ、そこに知識人(技術者)集団としての太学舎がからみ、さらに主人公のロマンの相手が新羅の姫であることから、新羅との関わりも重要な要素になるなど、多元的な要素が実にたくみに配され、複雑で動的な相互関係をもちながら全体が動いていく繊細でダイナミックな物語だった。
「朱蒙」のほうは、妾腹の子扱いされてきたとはいえ、はじめから王室で育った王子(実は民衆の希望でありながら味方の裏切りにあって殺されたと思われていた指導者の子)ゆえ、「薯童謡」のチャンのような民衆を繰り入れた思想的なバックボーンはやや弱い。
また、王と貴族との圧迫関係も、「薯童謡」では毎回熾烈な戦いが演じられて、その攻防のプロセスが、王族の王権争いとともに後半の宮廷劇の中軸となるが、「朱蒙」ではそれは王や主人公の王子と、悪役の王子とその母である王妃側の外戚との権力争いに吸収されていて、貴族の共通性と個別性まで描いて王との緊張関係を最初から最後まで描ききった「薯童謡」のような掘りの深さと多元的なダイナミズムはない。
しかし、私にとって「朱蒙」の新鮮なところの一つは、商団と、まだ国家に成り切れない地方の部族連合との関係や、神殿の役割などがしっかり描かれていることだ。
ドラマの軸は、早い話が、長く妾腹の子として母とともに王室で差別されてきた王子の復讐劇に、実は国家権力のはざまで苦しむ流民を救うために武装闘争をしていた指導者の息子で、その父というのは自分が実父と思っていた王室の王の親友であり、先王に裏切られて挫折したという因縁話を重ねることで、大義を与え、高句麗の建国神話へと導いているので、復讐劇としての権力闘争が軸になっているようだ。
単純といえばこちらのほうが単純。でも王子が運命に導かれて経験する波乱万丈の戦いの人生は、毎回「次」をどうしても知りたくなる魅惑に満ちている点で「薯童謡」とかわらない。
俳優も「薯童謡」のほうがいいけれど、重なる役者も居るし、チャングムの敵役だった女優さんはここでも本当に憎らしい名演、いや怪演をみせているし、だいたい彼女と、朱蒙の母親役の女優と、巫女ヨミウルを演じている女優とは、それぞれ非常に存在感がある。
まだ半分にも満たないのだと思うけれど、普通の生活プラス「朱蒙」の生活は体力的にそう長くは続けられないので、短期決戦で見てしまいたい。
at 10:05|Permalink│
2009年05月23日
異分野の名文家
小説が好きでわりに日々の楽しみとして気ままに手にとった本を読んで、無責任な感想などこの欄でも書いているのですが、作家や詩人あるいは文芸評論家の文章ではなくて、文芸以外の本業を持っている人の中に、ときどき舌を巻くような名文を書く人がいて、そういう人に出会うのも読書の楽しみの一つです。
いまふっと思いついたのでは、俳優の池部良という人。若い人だと小津安二郎の「早春」なんかで知っているかもしれませんが、私たちは「昭和残侠伝」とか同じシリーズの「唐獅子牡丹」とか(笑)・・・母の世代だと「暁の脱走」かな(これは高校のころにテレビで放映していたのを母が、ぜったい見ないと、とかって付き合わされて、最後の機銃掃射で倒れた二人の望遠レンズで映される手が触れ合えるかどうか・・という印象的な場面をいまも覚えていますが)。
でもこの俳優さんのエッセイを出張帰りの飛行機の座席ポケットに入っていた航空会社のPR誌の中で読んだときは、その巧さに舌を巻いて、そのPR誌を家まで持って帰った記憶があります。
俳優としてファンだったとかいうわけでもないから、その後もたまにやっぱり文章のうまい人なんだなぁ、とエッセイに出くわすたびに思ってはいたけれど、さっきウィキペディアで調べてみたら、この人、画家の岡本太郎の従兄弟で、安部晋三もと首相の遠縁で、父親は一世を風靡した漫画家、本人も戦前に大学を出て映画監督を目指したという、毛並みのいい人だったんですね。
バッハじゃないけど、血筋というのか文化的な家庭環境なのか、でもやっぱり文才というのはある程度以上になると本人がもって生まれたどうしようもないものがあるのでしょうね。
岩波新書で『やさしさの精神病理』を書いた大平健という人は、もちろん精神病理学とかそういう方面の専門家でしょうけれど、その文章がまたものすごく巧いですね。ときどきこういうまったく専門外のところで達意の文章を書くような人に出会うと嬉しくなってしまいます。
意外にアカンのが美術評論や映画評論ではないでしょうか。本人は名文のつもりかもしれないので、個人名は差し控えますが(笑)、どうみても悪文としか思えないのが、それぞれかなり著名な美術評論家であったり、映画評論家であったりして、へ?え、って感じで・・・(笑)
思うに、いまそういう分野で権威とされている人は、それはその人の個性としてそういう文体で良かった(というか、仕方が無かった・・笑)のかもしれないけれど、そのインパクトが強すぎて、同じ分野にエピゴーネンが輩出してあたかもその悪文がスタンダードモデルになってしまった、その結果がこれなんじゃないか、と推測しています(何の根拠もないけど・・笑)。
文学でいうと、大江健三郎さんの、あの10行くらい句読点がないような文体が業界の「スタンダード」になったようなものですね。大江さんの才能はすごいと思うけれど、作家という作家があんな文体で書き出したら噴飯ものでしょう。
私の狭い読書の範囲で、これまで美術評論で感心したのは、ある時期の朝日新聞の日曜版だったかの美術欄を連載執筆していた外岡秀俊という、これは朝日の記者で、いまはきっと社内でエライサンになっているだろう人の文章でした。
プロの美術批評家というのではなくて、美術ジャーナリズムのほうかもしれないけれど、特定の美術作品からその作家の足跡を追ってこの人の書く文章は、その前後に担当したどんな美術記者の文章とも違っていて、格段に良かった。それは文章テクニックみたいな意味だけではなくて、画家に注ぐ目、その足跡をたどる辿り方、分析の視点、そして文章、あらゆる面で格段に優れていました。
たいていの美術記者の文章というのは美術評論家と同じで、日本の悪しき知識人のパターンをそっくりなぞるような、欧米の受け売り、横文字の濫用、修辞ゴテゴテだったり、やたら断定してみせたり否定してみせたり、ひどく気取った鼻持ちならない文体であることが多かった。でも外岡さんの文章は、一見「自然体」。ごく自然に入れて、気づかぬうちに彼の辿る道に引き入れられて、ワクワクして、最後に感銘を受ける。
この人は、実は若い頃(学生だったかと思う)、小説を書いて文芸雑誌の新人賞を受けていて、ちょうど同じころにいまや押しも押されぬ日本を代表する作家の一人になっている村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で鮮烈なデビューを飾った。ところがそのころ文芸批評で非常に影響力を持っていた江藤淳がこの村上龍の作品をほとんど生理的反撥といっていいような、ひどく否定的な評価をし、その一方で江藤は外岡秀俊の新人賞作品(たしか『北帰行』だったかな・・?)をほめあげた。
そのころでも、フェアにみて、ちょっとその評価はおかしいんじゃない?とバランスを欠いてみえたけれど、まぁ逆に江藤のような人が猛反発して、ほかの評者が激賞するという毀誉褒貶こもごもの事態そのものが、村上龍という作家で久しぶりに二十代の「ホンモノ」が出てきたんだな、という印象を私たちに与えたものでした。
それはともかく、このとき、いくぶん江藤が「過剰に」賞揚したかもしれない外岡さんの作品も、地方から出てきて都会で働いている青年を描いた、素直ないい作品でした。そういういきさつもあり、また江藤に評価された彼がその後多くの新人賞受賞者のようにプロの作家としての道を目指さずに、朝日新聞社へはいって記者の道を歩んだことが印象的で、その名を覚えていました。
彼が連載した美術記事については、そのころとても気に入っていたので、「こんな人知ってるか?」と、関心を持ってくれそうな会う人ごとに吹聴していました。
それで、そのころ、文化庁からの委託仕事で美術館めぐりをしていた一環で、岐阜県立美術館を訪ねた折りに、当時館長でいらした陰里さんのお話を伺ったのですが、そのときにもわが無知を顧みず、「外岡秀俊という人をご存知でしょうか云々」と、いま思えば専門家に向かって怖いもの知らずだったなぁと思いますが、喋ったのを覚えています。
陰里さんはその道の偉い専門家で、既に功成り名とげた方だったけれど、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とはよく言ったもので、ほんとうに温厚・謙虚な方で、当時の私のような若い無知な素人相手に、色々美術の話、美術評論の話をして、私の言葉にも耳を傾けてくださって、こちらの仕事についても色々尋ねられ、ぜひ報告書をみせてほしいと言われました。
また、偶々ご存知なかった外岡さんについて、「そんな若い優秀な書き手が出てきているんですね」、と関心を持って聞いて、「ぜひ読んでみたい」と。
おまけに私は、この美術館の特長にもなっているコレクション、ルドンの版画集の図録まで戴いてしまったのです。というのは、この本を帰りがけに売店で買おうとしたら、たぶん館長の秘書らしいスタッフが受付をしてくれて、「館長のお客様ですから」といって金を取ってくれない。
「いや、私は頼んでヒアリングさせてもらいに来たので、これはその仕事とは無関係で、個人的な興味で買うのですから」と言うのに、彼女はさっさと館長室へ確認に行って、「やはり館長から差し上げるように言われましたので」。
そういうわけで、とうとう代金を払わずに、戴いてしまいました。その画集はもちろん、いまも手近な棚にあって、ときどき取り出しては眺めています。
京都へ帰ってからさっそく過去の残っている美術館関係の調査報告書の余部をお送りしたのでしたが、それにも丁寧な返事をいただきました。
本で思わぬ著者に出会い、またその感銘を人と話し、共感してくれるような人に出会う、「また楽しからずや」といったところです。
いまふっと思いついたのでは、俳優の池部良という人。若い人だと小津安二郎の「早春」なんかで知っているかもしれませんが、私たちは「昭和残侠伝」とか同じシリーズの「唐獅子牡丹」とか(笑)・・・母の世代だと「暁の脱走」かな(これは高校のころにテレビで放映していたのを母が、ぜったい見ないと、とかって付き合わされて、最後の機銃掃射で倒れた二人の望遠レンズで映される手が触れ合えるかどうか・・という印象的な場面をいまも覚えていますが)。
でもこの俳優さんのエッセイを出張帰りの飛行機の座席ポケットに入っていた航空会社のPR誌の中で読んだときは、その巧さに舌を巻いて、そのPR誌を家まで持って帰った記憶があります。
俳優としてファンだったとかいうわけでもないから、その後もたまにやっぱり文章のうまい人なんだなぁ、とエッセイに出くわすたびに思ってはいたけれど、さっきウィキペディアで調べてみたら、この人、画家の岡本太郎の従兄弟で、安部晋三もと首相の遠縁で、父親は一世を風靡した漫画家、本人も戦前に大学を出て映画監督を目指したという、毛並みのいい人だったんですね。
バッハじゃないけど、血筋というのか文化的な家庭環境なのか、でもやっぱり文才というのはある程度以上になると本人がもって生まれたどうしようもないものがあるのでしょうね。
岩波新書で『やさしさの精神病理』を書いた大平健という人は、もちろん精神病理学とかそういう方面の専門家でしょうけれど、その文章がまたものすごく巧いですね。ときどきこういうまったく専門外のところで達意の文章を書くような人に出会うと嬉しくなってしまいます。
意外にアカンのが美術評論や映画評論ではないでしょうか。本人は名文のつもりかもしれないので、個人名は差し控えますが(笑)、どうみても悪文としか思えないのが、それぞれかなり著名な美術評論家であったり、映画評論家であったりして、へ?え、って感じで・・・(笑)
思うに、いまそういう分野で権威とされている人は、それはその人の個性としてそういう文体で良かった(というか、仕方が無かった・・笑)のかもしれないけれど、そのインパクトが強すぎて、同じ分野にエピゴーネンが輩出してあたかもその悪文がスタンダードモデルになってしまった、その結果がこれなんじゃないか、と推測しています(何の根拠もないけど・・笑)。
文学でいうと、大江健三郎さんの、あの10行くらい句読点がないような文体が業界の「スタンダード」になったようなものですね。大江さんの才能はすごいと思うけれど、作家という作家があんな文体で書き出したら噴飯ものでしょう。
私の狭い読書の範囲で、これまで美術評論で感心したのは、ある時期の朝日新聞の日曜版だったかの美術欄を連載執筆していた外岡秀俊という、これは朝日の記者で、いまはきっと社内でエライサンになっているだろう人の文章でした。
プロの美術批評家というのではなくて、美術ジャーナリズムのほうかもしれないけれど、特定の美術作品からその作家の足跡を追ってこの人の書く文章は、その前後に担当したどんな美術記者の文章とも違っていて、格段に良かった。それは文章テクニックみたいな意味だけではなくて、画家に注ぐ目、その足跡をたどる辿り方、分析の視点、そして文章、あらゆる面で格段に優れていました。
たいていの美術記者の文章というのは美術評論家と同じで、日本の悪しき知識人のパターンをそっくりなぞるような、欧米の受け売り、横文字の濫用、修辞ゴテゴテだったり、やたら断定してみせたり否定してみせたり、ひどく気取った鼻持ちならない文体であることが多かった。でも外岡さんの文章は、一見「自然体」。ごく自然に入れて、気づかぬうちに彼の辿る道に引き入れられて、ワクワクして、最後に感銘を受ける。
この人は、実は若い頃(学生だったかと思う)、小説を書いて文芸雑誌の新人賞を受けていて、ちょうど同じころにいまや押しも押されぬ日本を代表する作家の一人になっている村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で鮮烈なデビューを飾った。ところがそのころ文芸批評で非常に影響力を持っていた江藤淳がこの村上龍の作品をほとんど生理的反撥といっていいような、ひどく否定的な評価をし、その一方で江藤は外岡秀俊の新人賞作品(たしか『北帰行』だったかな・・?)をほめあげた。
そのころでも、フェアにみて、ちょっとその評価はおかしいんじゃない?とバランスを欠いてみえたけれど、まぁ逆に江藤のような人が猛反発して、ほかの評者が激賞するという毀誉褒貶こもごもの事態そのものが、村上龍という作家で久しぶりに二十代の「ホンモノ」が出てきたんだな、という印象を私たちに与えたものでした。
それはともかく、このとき、いくぶん江藤が「過剰に」賞揚したかもしれない外岡さんの作品も、地方から出てきて都会で働いている青年を描いた、素直ないい作品でした。そういういきさつもあり、また江藤に評価された彼がその後多くの新人賞受賞者のようにプロの作家としての道を目指さずに、朝日新聞社へはいって記者の道を歩んだことが印象的で、その名を覚えていました。
彼が連載した美術記事については、そのころとても気に入っていたので、「こんな人知ってるか?」と、関心を持ってくれそうな会う人ごとに吹聴していました。
それで、そのころ、文化庁からの委託仕事で美術館めぐりをしていた一環で、岐阜県立美術館を訪ねた折りに、当時館長でいらした陰里さんのお話を伺ったのですが、そのときにもわが無知を顧みず、「外岡秀俊という人をご存知でしょうか云々」と、いま思えば専門家に向かって怖いもの知らずだったなぁと思いますが、喋ったのを覚えています。
陰里さんはその道の偉い専門家で、既に功成り名とげた方だったけれど、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とはよく言ったもので、ほんとうに温厚・謙虚な方で、当時の私のような若い無知な素人相手に、色々美術の話、美術評論の話をして、私の言葉にも耳を傾けてくださって、こちらの仕事についても色々尋ねられ、ぜひ報告書をみせてほしいと言われました。
また、偶々ご存知なかった外岡さんについて、「そんな若い優秀な書き手が出てきているんですね」、と関心を持って聞いて、「ぜひ読んでみたい」と。
おまけに私は、この美術館の特長にもなっているコレクション、ルドンの版画集の図録まで戴いてしまったのです。というのは、この本を帰りがけに売店で買おうとしたら、たぶん館長の秘書らしいスタッフが受付をしてくれて、「館長のお客様ですから」といって金を取ってくれない。
「いや、私は頼んでヒアリングさせてもらいに来たので、これはその仕事とは無関係で、個人的な興味で買うのですから」と言うのに、彼女はさっさと館長室へ確認に行って、「やはり館長から差し上げるように言われましたので」。
そういうわけで、とうとう代金を払わずに、戴いてしまいました。その画集はもちろん、いまも手近な棚にあって、ときどき取り出しては眺めています。
京都へ帰ってからさっそく過去の残っている美術館関係の調査報告書の余部をお送りしたのでしたが、それにも丁寧な返事をいただきました。
本で思わぬ著者に出会い、またその感銘を人と話し、共感してくれるような人に出会う、「また楽しからずや」といったところです。
at 17:12|Permalink│
2009年05月22日
『変人?埴谷雄高の肖像』(木村俊介 著)など
この本は立花隆が「序」で書いているように、立場なのゼミから生まれた、そのとき学生だった人が、専門家も舌を巻くほどの周到な準備をした上で、主題である作家の故・埴谷雄高を知る人々に直接ヒアリングをしてまとめられたものである。
この種の内容は、過去にも単行本や文芸雑誌の特集でよくあったものだけれど、それらにかなり目を通していても、面白く読める情報がいろいろと入った新鮮味のあるものになっている。
私も学生の頃には埴谷雄高の刊行されたすべての著作を読み、関連の本や特集などにもかなり目を通しているから、立花の評価も決して自分のゼミの学生だからというものではないことがよく分かる。
本多秋五、小川国夫、鶴見俊輔、秋山駿、中村真一郎、小島信夫、吉本隆明といった人たちについては、これまでに色々なところで触れているので、この人たちが埴谷雄高について聞かれたら、だいたいこういうことを言うだろうな、と見当はつくし、語る素材も以前にその本人の書いたもので見ているな、と思うものが多かったので、意表を突かれるようなことはないけれど、それでも具体的な語り口で新鮮に思えたところはあった。
吉本さんのように、これも埴谷雄高と同様に、少なくとも単行本化された著作は全部読んでいるような人でも、さすがに全く新しいところはなかったけれど、それでも「埴谷さんについて、惹かれる面は」と訊かれて、「枠組みが全部とっ払われているという面です。」という言い方をしているのなど、細部には新鮮なところがあった。
でもそれより、例えば標交紀さん(作家がよく行った珈琲店「もか」の主人)のところとか、語る人自身がこちらが初対面という人のがやっぱり面白かった。埴谷雄高という生身の人間には、作家としての作品の魅力とは全然別の魅力があったから、ごく普通の人から見た小さなエピソードが面白い。
私も同志社大学へ講演に来たのを聴きに言って、そのあと近くの「いもネギ定食」で名高い「わびすけ」へ行って膝をつきあわせるようにして比較的少ない人数で質疑応答のようなことをしたとき、間近に彼の話しぶりに接した。
その頃は、すでに伝説的な作家で、主著『死霊』も絶版で、『虚空』という短編集と『不合理ゆえにわれ信ず』というアフォリズム集以外には評論集や対談の類ばかりが沢山出版されていて不満が募り、結局、国立大学の授業料が月1000円の時代に2000円を払って古本屋でまだ最初の3章くらいだったかしか出ていなかった『死霊』の第一巻(近代生活社)をみつけて、最初に読んだのはその版によった。
貧乏学生にとっては大枚だったけれど、古本屋の最上段の棚にみつけたそれが、既に古書価が3000円のころだったので、古本屋は「値札をつけ替えるのを忘れていた」と口惜しがっていたのを覚えている。
これは読むことは読んだが、歯が立たなかった。野間宏や椎名麟三のような第一次戦後派の作品はかなり読んでいたので、ストーリーは追いやすく、テーマも分かりよいが、文体が重苦しい情感のまつわりつくようなそれらの作品に比べれば、何がそこから迫りあがってくるのかは全然分からないけれど、硬質・透明な文体は嫌いではなかった。ただ、こういう文体の特徴は、その後ずいぶん時間を経てから第4章以下が次々に雑誌に登場したのを読んだときには、既に古風な印象を与えた。
小説やアフォリズムに比べるとエッセイは文芸的なものも政治的なものもわかりやすかった。『死霊』も結局作家自身の解説でそういうものか、と「理解」するようなありさまだった。
生身の見かけ上の本人は、いわば『死霊』のほうには全然似ていなくて、エッセイのほうに似て、わかりやすく、若い質問者や同席者たちへの気配りも、言葉も、またさっさと店に入り、椅子に腰掛けて質問を受ける様子も、実に飄々として軽快で、もうオジサンだったけれど、「お水」系の女性にモテそうな雰囲気を漂わせていた。
はたで聴いている我々にも、彼の著書など一度も読んだことがないことが丸分かりで、本来文学も思想にも政治にも関心のなさそうな学生が、どうしようもないなと思うような素朴というより幼稚な質問を一人で繰り返しているようなのがいたけれど、埴谷は彼に対しても、とても丁寧に答えていたのが印象的だった。
埴谷の本にもずいぶん親しんで、「レーニンはレーニン全集の中にだけある」とか「人は小説を読んで小説家になる」というような警句に、自分の思い込みを突かれるような気はしたけれど、少し考えれば、この人やっぱり逆立ちしてる、と思い、埴谷信者にはならなかった。
逆立ちといえば、埴谷とは何の関係もないけれど、その後思想風俗として流行した、言葉は「表現」などではなく「差異」の体系だ、といった類の「おフランス」直輸入の言語思想も、そんな逆立ち思想の一つで、或る限定された閉じた領域でしか成立しないものを野放図に敷衍することで、私たちの自然主義的な態度の盲点を突く修辞としての効用はあったにせよ、眉に唾して聴くべき西洋乞食たちの説法に過ぎなかった。
『変人』を読んだあとで、たまたま一緒に買った小島信夫・保坂和志の共著、というより往復書簡をまとめた『小説修業』を読んだが、彼らの文章を読んでいると、保坂自身が書いているように、本当に小説が好きで好きでたまらない人種で、小説のことしか話したくない、といった趣がある。
それはそれで本人たちは幸せだし、映画の淀川長治ではないけれど、好きで好きでたまらないという人の良さがあるけれど、その口吻のどこかに、そういう人間でないと認めない、という偏狭さが見えると、好感が持てないところがある。小説家が小説を愛するのは当たり前かもしれないが、私自身は、どちらかといえば、小説を愛する小説家よりも、生活を愛し、人生を愛する小説家のほうが好きだ。
だから、技巧的な作家というのもあまり好まない。ジェイムズ・ジョイスといえば現代文学の言語実験の元祖のような人だろうけれど、「ダブリン市民」や「若き日の芸術家の肖像」、あるいはせいぜい「ユリシーズ」のある側面までは楽しめても、研究者が根掘る葉堀りその仕掛けを解き明かすことを生涯の仕事にするような掛け言葉みたいなものやらなにやらの「言語実験」には少しも惹かれない。
それは多言語をすらすら読めるような人でなければ味わえない、という人もあるだろうけれど、私はむしろ文学観の違いだろうと考えている。カミナリだっけ、幾つかのなにか日本語の切れッ端のような言葉が「ユリシーズ」だったか「フィネガンズ・ウェイク」だったかに入っているそうだけれど、それがどうしたというのだろう?
詩や小説が言葉自身のためにあるという倒錯は、ミューズに魅入られた人たちの宿命かもしれないけれど、倒錯であることにはかわりないと思う。そういう倒錯に浸るには、私は凡庸で世俗的すぎるのだろう。
ついでに言えば、ジョイスが切りひらいたような方法的な表現で、表現にとって必然的だと思えて心底感銘を受けたのは、私の狭い読書の範囲では、フォークナーの『響きと怒り』の第一章にあたる部分くらいだ。方法意識ばかりが浮いて見えたアンチロマンの小説などは、熱心に読みはしたけれど、映画でいえばみなB級映画を見ているような感じがしていた。
ところで、インフルエンザで授業のない間、いくつか本屋でよく売れている本を読んだけれど、例えば推理小説でベスト1(売れ行きか?)とかポップアップ広告などつけて本屋に積み上げてある道尾秀介『向日葵の咲かない夏』を読んでも、私には全然面白くなかった。なぜだろうと考えると、この作品の面白さというのは、たぶん犯罪小説として犯人の仕掛けの部分にあって、それを推理していく上で二転、三転する、その面白さなのだろうな、と思う。
そういうことに殆ど文学としての面白さを感じない「不感症」の私(笑)としてはこういう作品に対して、推理小説ファンなら不当としか思えないような評価になってしまうのだろうな、と思った。しかし、仕掛けが嫌いなわけではなくて、クリスティーの「アクロイド殺人事件」のようなのは好きで、推理小説としては珍しく二度読んだ記憶がある。推理小説でもクリスティーは文章、語り口にも魅力があって、もちろんこんな世界的大家と日本でいま頑張っている同時代の作家を比較したりしてはいけないのだと思うけれど・・・。
この種の内容は、過去にも単行本や文芸雑誌の特集でよくあったものだけれど、それらにかなり目を通していても、面白く読める情報がいろいろと入った新鮮味のあるものになっている。
私も学生の頃には埴谷雄高の刊行されたすべての著作を読み、関連の本や特集などにもかなり目を通しているから、立花の評価も決して自分のゼミの学生だからというものではないことがよく分かる。
本多秋五、小川国夫、鶴見俊輔、秋山駿、中村真一郎、小島信夫、吉本隆明といった人たちについては、これまでに色々なところで触れているので、この人たちが埴谷雄高について聞かれたら、だいたいこういうことを言うだろうな、と見当はつくし、語る素材も以前にその本人の書いたもので見ているな、と思うものが多かったので、意表を突かれるようなことはないけれど、それでも具体的な語り口で新鮮に思えたところはあった。
吉本さんのように、これも埴谷雄高と同様に、少なくとも単行本化された著作は全部読んでいるような人でも、さすがに全く新しいところはなかったけれど、それでも「埴谷さんについて、惹かれる面は」と訊かれて、「枠組みが全部とっ払われているという面です。」という言い方をしているのなど、細部には新鮮なところがあった。
でもそれより、例えば標交紀さん(作家がよく行った珈琲店「もか」の主人)のところとか、語る人自身がこちらが初対面という人のがやっぱり面白かった。埴谷雄高という生身の人間には、作家としての作品の魅力とは全然別の魅力があったから、ごく普通の人から見た小さなエピソードが面白い。
私も同志社大学へ講演に来たのを聴きに言って、そのあと近くの「いもネギ定食」で名高い「わびすけ」へ行って膝をつきあわせるようにして比較的少ない人数で質疑応答のようなことをしたとき、間近に彼の話しぶりに接した。
その頃は、すでに伝説的な作家で、主著『死霊』も絶版で、『虚空』という短編集と『不合理ゆえにわれ信ず』というアフォリズム集以外には評論集や対談の類ばかりが沢山出版されていて不満が募り、結局、国立大学の授業料が月1000円の時代に2000円を払って古本屋でまだ最初の3章くらいだったかしか出ていなかった『死霊』の第一巻(近代生活社)をみつけて、最初に読んだのはその版によった。
貧乏学生にとっては大枚だったけれど、古本屋の最上段の棚にみつけたそれが、既に古書価が3000円のころだったので、古本屋は「値札をつけ替えるのを忘れていた」と口惜しがっていたのを覚えている。
これは読むことは読んだが、歯が立たなかった。野間宏や椎名麟三のような第一次戦後派の作品はかなり読んでいたので、ストーリーは追いやすく、テーマも分かりよいが、文体が重苦しい情感のまつわりつくようなそれらの作品に比べれば、何がそこから迫りあがってくるのかは全然分からないけれど、硬質・透明な文体は嫌いではなかった。ただ、こういう文体の特徴は、その後ずいぶん時間を経てから第4章以下が次々に雑誌に登場したのを読んだときには、既に古風な印象を与えた。
小説やアフォリズムに比べるとエッセイは文芸的なものも政治的なものもわかりやすかった。『死霊』も結局作家自身の解説でそういうものか、と「理解」するようなありさまだった。
生身の見かけ上の本人は、いわば『死霊』のほうには全然似ていなくて、エッセイのほうに似て、わかりやすく、若い質問者や同席者たちへの気配りも、言葉も、またさっさと店に入り、椅子に腰掛けて質問を受ける様子も、実に飄々として軽快で、もうオジサンだったけれど、「お水」系の女性にモテそうな雰囲気を漂わせていた。
はたで聴いている我々にも、彼の著書など一度も読んだことがないことが丸分かりで、本来文学も思想にも政治にも関心のなさそうな学生が、どうしようもないなと思うような素朴というより幼稚な質問を一人で繰り返しているようなのがいたけれど、埴谷は彼に対しても、とても丁寧に答えていたのが印象的だった。
埴谷の本にもずいぶん親しんで、「レーニンはレーニン全集の中にだけある」とか「人は小説を読んで小説家になる」というような警句に、自分の思い込みを突かれるような気はしたけれど、少し考えれば、この人やっぱり逆立ちしてる、と思い、埴谷信者にはならなかった。
逆立ちといえば、埴谷とは何の関係もないけれど、その後思想風俗として流行した、言葉は「表現」などではなく「差異」の体系だ、といった類の「おフランス」直輸入の言語思想も、そんな逆立ち思想の一つで、或る限定された閉じた領域でしか成立しないものを野放図に敷衍することで、私たちの自然主義的な態度の盲点を突く修辞としての効用はあったにせよ、眉に唾して聴くべき西洋乞食たちの説法に過ぎなかった。
『変人』を読んだあとで、たまたま一緒に買った小島信夫・保坂和志の共著、というより往復書簡をまとめた『小説修業』を読んだが、彼らの文章を読んでいると、保坂自身が書いているように、本当に小説が好きで好きでたまらない人種で、小説のことしか話したくない、といった趣がある。
それはそれで本人たちは幸せだし、映画の淀川長治ではないけれど、好きで好きでたまらないという人の良さがあるけれど、その口吻のどこかに、そういう人間でないと認めない、という偏狭さが見えると、好感が持てないところがある。小説家が小説を愛するのは当たり前かもしれないが、私自身は、どちらかといえば、小説を愛する小説家よりも、生活を愛し、人生を愛する小説家のほうが好きだ。
だから、技巧的な作家というのもあまり好まない。ジェイムズ・ジョイスといえば現代文学の言語実験の元祖のような人だろうけれど、「ダブリン市民」や「若き日の芸術家の肖像」、あるいはせいぜい「ユリシーズ」のある側面までは楽しめても、研究者が根掘る葉堀りその仕掛けを解き明かすことを生涯の仕事にするような掛け言葉みたいなものやらなにやらの「言語実験」には少しも惹かれない。
それは多言語をすらすら読めるような人でなければ味わえない、という人もあるだろうけれど、私はむしろ文学観の違いだろうと考えている。カミナリだっけ、幾つかのなにか日本語の切れッ端のような言葉が「ユリシーズ」だったか「フィネガンズ・ウェイク」だったかに入っているそうだけれど、それがどうしたというのだろう?
詩や小説が言葉自身のためにあるという倒錯は、ミューズに魅入られた人たちの宿命かもしれないけれど、倒錯であることにはかわりないと思う。そういう倒錯に浸るには、私は凡庸で世俗的すぎるのだろう。
ついでに言えば、ジョイスが切りひらいたような方法的な表現で、表現にとって必然的だと思えて心底感銘を受けたのは、私の狭い読書の範囲では、フォークナーの『響きと怒り』の第一章にあたる部分くらいだ。方法意識ばかりが浮いて見えたアンチロマンの小説などは、熱心に読みはしたけれど、映画でいえばみなB級映画を見ているような感じがしていた。
ところで、インフルエンザで授業のない間、いくつか本屋でよく売れている本を読んだけれど、例えば推理小説でベスト1(売れ行きか?)とかポップアップ広告などつけて本屋に積み上げてある道尾秀介『向日葵の咲かない夏』を読んでも、私には全然面白くなかった。なぜだろうと考えると、この作品の面白さというのは、たぶん犯罪小説として犯人の仕掛けの部分にあって、それを推理していく上で二転、三転する、その面白さなのだろうな、と思う。
そういうことに殆ど文学としての面白さを感じない「不感症」の私(笑)としてはこういう作品に対して、推理小説ファンなら不当としか思えないような評価になってしまうのだろうな、と思った。しかし、仕掛けが嫌いなわけではなくて、クリスティーの「アクロイド殺人事件」のようなのは好きで、推理小説としては珍しく二度読んだ記憶がある。推理小説でもクリスティーは文章、語り口にも魅力があって、もちろんこんな世界的大家と日本でいま頑張っている同時代の作家を比較したりしてはいけないのだと思うけれど・・・。
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