2009年04月
2009年04月17日
『秋月記』(葉室麟 著)
時代小説はほとんど読まないけれど、ときどき映画やテレビドラマでいいのがあると(「蝉しぐれ」のように)原作を読みたくなるので手にします。
今回はまだ映画化やドラマ化の話は聞きませんが、いい作品と評判のようなので、読んでみました。とても抑制の効いた、品のいい時代小説でした。
劇的な場面がないかというと、ちゃんとチャンバラの見せ場もいくつか設けてあって、とくにみんなに断られて、ゲーリー・クーパーの"High Noon"じゃないけれど、17人相手にどうなるんだろう、とハラハラさせるところなんかもありますが(まぁ読み進めてみると、解決策はこれしかないわな、とは思いましたが)、チャンバラの描写もどこか淡々としていて、そう突出して盛り上がるというわけでもありません。
主人公がめっぽう強くてスパッと相手を斬り伏せるというのでもなく、敵も味方も、多少強いのがいてもまぁチョボチョボで、そこそこ怪我をせずには済まないあたり、ほんとに真剣で互いに必死で切り結べばこうなるんだろうな、と妙に納得したりします。
物語を大きく動かす劇の核心は、福岡藩とその支藩である秋月藩との軋轢で、福岡藩は秋月藩を生かさず殺さず利権はむさぼりながら思うように支配したいし、秋月藩は福岡藩に頼らずには生きていけないのではあるが、藩としての自立性は保ちたい。そこに互いの不信となれあいと憎悪と、複雑な対立関係があり、陽に陰に腹の探り合いがあります。
その中でとくにスポットをあてられているのが、福岡藩につながる家老や隠密たちと、主人公小四郎をはじめ、藩政を憂う若手藩士たちとの確執と、立場の変化による内輪での微妙な違和感の発生、そして人の心のうつろいなど、藩内外の主要人物間の人間関係の変化です。
つまりこれは親藩と支藩との争いという政治劇であると同時に、小四郎という若い侍が、友人たちに囲まれ、政争に巻き込まれながら、友人たちと共に解決策をさぐっていく過程で、次第に責任ある地位を得て、その地位にふさわしいものの考え方を鍛え、自分の役割を担う覚悟をしていくに至る、武士の生き方の人間的な成長の物語でもあります。
藩政をめぐる政争などは珍しくもないし、その中で物語の最初のところではまだ家老の宮崎織部のように、みんなから憎まれながら深く藩政の将来を憂えて自分の追い落としに加担した小四郎らに後を託すという覚悟の深い武士らしい人物の設定や、物語の終わりに至れば小四郎自身がそういう考え方をするようになっている、そのあたりは面白いし、一見して敵か味方か見極めがたく、それぞれの人物が腹の中でなにを考えていたかが分かる時点でどんでん返しの驚きと面白みがあるけれど、これも時代的ではよくあるパターン。
そうするとこの作品のユニークなところは、主人公小四郎が巻き込まれながら、やむを得ず、という形で自分の置かれた立場を引き受け、そのつど困難をやりすごしながら成長していく自己形成の物語を軸にすえているところかもしれません。そう思って読んでいくと、よくできている小説だな、と思います。
今回はまだ映画化やドラマ化の話は聞きませんが、いい作品と評判のようなので、読んでみました。とても抑制の効いた、品のいい時代小説でした。
劇的な場面がないかというと、ちゃんとチャンバラの見せ場もいくつか設けてあって、とくにみんなに断られて、ゲーリー・クーパーの"High Noon"じゃないけれど、17人相手にどうなるんだろう、とハラハラさせるところなんかもありますが(まぁ読み進めてみると、解決策はこれしかないわな、とは思いましたが)、チャンバラの描写もどこか淡々としていて、そう突出して盛り上がるというわけでもありません。
主人公がめっぽう強くてスパッと相手を斬り伏せるというのでもなく、敵も味方も、多少強いのがいてもまぁチョボチョボで、そこそこ怪我をせずには済まないあたり、ほんとに真剣で互いに必死で切り結べばこうなるんだろうな、と妙に納得したりします。
物語を大きく動かす劇の核心は、福岡藩とその支藩である秋月藩との軋轢で、福岡藩は秋月藩を生かさず殺さず利権はむさぼりながら思うように支配したいし、秋月藩は福岡藩に頼らずには生きていけないのではあるが、藩としての自立性は保ちたい。そこに互いの不信となれあいと憎悪と、複雑な対立関係があり、陽に陰に腹の探り合いがあります。
その中でとくにスポットをあてられているのが、福岡藩につながる家老や隠密たちと、主人公小四郎をはじめ、藩政を憂う若手藩士たちとの確執と、立場の変化による内輪での微妙な違和感の発生、そして人の心のうつろいなど、藩内外の主要人物間の人間関係の変化です。
つまりこれは親藩と支藩との争いという政治劇であると同時に、小四郎という若い侍が、友人たちに囲まれ、政争に巻き込まれながら、友人たちと共に解決策をさぐっていく過程で、次第に責任ある地位を得て、その地位にふさわしいものの考え方を鍛え、自分の役割を担う覚悟をしていくに至る、武士の生き方の人間的な成長の物語でもあります。
藩政をめぐる政争などは珍しくもないし、その中で物語の最初のところではまだ家老の宮崎織部のように、みんなから憎まれながら深く藩政の将来を憂えて自分の追い落としに加担した小四郎らに後を託すという覚悟の深い武士らしい人物の設定や、物語の終わりに至れば小四郎自身がそういう考え方をするようになっている、そのあたりは面白いし、一見して敵か味方か見極めがたく、それぞれの人物が腹の中でなにを考えていたかが分かる時点でどんでん返しの驚きと面白みがあるけれど、これも時代的ではよくあるパターン。
そうするとこの作品のユニークなところは、主人公小四郎が巻き込まれながら、やむを得ず、という形で自分の置かれた立場を引き受け、そのつど困難をやりすごしながら成長していく自己形成の物語を軸にすえているところかもしれません。そう思って読んでいくと、よくできている小説だな、と思います。
at 17:34|Permalink│
2009年04月16日
「ラグジュアリー」展・「着倒れ方丈記」(都築響一写真展)
京都国立近代美術館で開かれている、ワコールの京都服飾文化研究財団のコレクションによる「"ラグジュアリー"[ファッションの欲望]展を見る。
高名なファッション・デザイナーのいまは歴史となった衣服が美術史の教科書のように並んでいる。ディオールはやっぱりすごいな、とか、シャネルもいいな、とか、三宅一生や川久保玲はインパクトがあるなぁとか、素人の私でもそれなりに個々の「ブランド」を楽しめはするけれど、展示としては訴えかけてくるものがとても弱い。
一貫した展示意志のようなものが感じられない。luxuryという言葉を会場の展示解説のように広げてしまえば、何でもluxuryになってしまう。結果、そこで何が示されているのか、さっぱり分からない。luxuryでまとめようというコンセプトそれ自体に無理があったのではないか。
使われているマネキンも顔があったりなかったり、目鼻がついていたりのっぺらぼうだったり、ばらばら。東京でみたポワレ展や青森の美術館の開館記念のシャガール展にあった衣裳展示や、京近美でも前にあったヴィクター&ロルフ展(映像が素晴らしかった)などでは、こんな馬鹿げたことはなかった。どれもいい展示だった。今回はどうしちゃったんだろう?
それにひきかえ、関連で一つ上の4階に展示してある都築響一の写真展「着倒れ方丈記」は本当に面白かった。雑誌の連載か何かだったようだけれど、写真とその解説文とがセットで、若い世代のいわば「ブランドファッションおたく」みたいな個人の部屋とそこに溢れる一点豪華主義ならぬ「一ブランド豪華主義」的に収集されたブランドファッションの写真と、その所有者とブランドとのかかわりを解説した文章が展示されている。
まずこういう人たちが居るんだぁ、という新鮮な驚きをおぼえ、この展示を見るうちに、まさにこれが現代日本社会での文化と私たちのありようの縮図であり象徴だなぁ、としみじみと感じられる。
最初のところでプレートに書かれたこのシリーズについての作家の言葉に、「本のおたく」が食うや食わずで買いためた本を四畳半に積み上げて寝るスペースさえないようなのでも出版社や本屋がそういう本好きを馬鹿にすることはないのに、現実離れした空間をしつらえ、ファッション雑誌によく登場するようなモデルにできるだけ生活臭のない衣服を纏わせて歩かせるようなことばかりして、購買者の大多数を占める、この写真展にみるようなウサギ小屋に住んでブランドファッションを愛し、買い集めているような人たちを、ファッションデザイナーたちは馬鹿にする、というような意味のことが書いてある。
ほんまにけったいやなぁ、と作家の言葉にいたく共感を覚える。日本のファッション・デザイナーは、自分たちがアーティストだと思いたいけれど、もともと靴職人や帽子職人などと同じ、仕立て屋にすぎない自分たちに歴史的なコンプレックスのようなものをかかえているのかもしれない。しかも、近代以降の日本の洋服はみんなヨーロッパ輸入だから、ヨーロッパ・コンプレックスもその発生のときからかかえこんでいるのかもしれない。
ほんとうに自分たちの社会の暮らしに根ざし、その歴史と文化から生い立って洗練してきたものであれば、決して自分たちの出自を見下すようなことはないに違いない。
そういうものを醜いと思い、隠したいと思い、自分とは縁もゆかりもない振りをして、視線はヨーロッパのほうばかり向き、日本で自分たちのファッションブランドを買ってくれる大多数の人たちの暮らし方や着方を小馬鹿にして、ヨーロッパ人の女性モデルに着せて相変わらず鹿鳴館みたいなことをやっているのが日本の「ファッション・クリエイター」という人種なのかもねと、この都築響一の展示を見ながら思った。
国立近代美術館のファッション展へ行く人は、3階のほうは見逃しても、4階の「着倒れ方丈記」は見逃さないほうがいいと思います。
高名なファッション・デザイナーのいまは歴史となった衣服が美術史の教科書のように並んでいる。ディオールはやっぱりすごいな、とか、シャネルもいいな、とか、三宅一生や川久保玲はインパクトがあるなぁとか、素人の私でもそれなりに個々の「ブランド」を楽しめはするけれど、展示としては訴えかけてくるものがとても弱い。
一貫した展示意志のようなものが感じられない。luxuryという言葉を会場の展示解説のように広げてしまえば、何でもluxuryになってしまう。結果、そこで何が示されているのか、さっぱり分からない。luxuryでまとめようというコンセプトそれ自体に無理があったのではないか。
使われているマネキンも顔があったりなかったり、目鼻がついていたりのっぺらぼうだったり、ばらばら。東京でみたポワレ展や青森の美術館の開館記念のシャガール展にあった衣裳展示や、京近美でも前にあったヴィクター&ロルフ展(映像が素晴らしかった)などでは、こんな馬鹿げたことはなかった。どれもいい展示だった。今回はどうしちゃったんだろう?
それにひきかえ、関連で一つ上の4階に展示してある都築響一の写真展「着倒れ方丈記」は本当に面白かった。雑誌の連載か何かだったようだけれど、写真とその解説文とがセットで、若い世代のいわば「ブランドファッションおたく」みたいな個人の部屋とそこに溢れる一点豪華主義ならぬ「一ブランド豪華主義」的に収集されたブランドファッションの写真と、その所有者とブランドとのかかわりを解説した文章が展示されている。
まずこういう人たちが居るんだぁ、という新鮮な驚きをおぼえ、この展示を見るうちに、まさにこれが現代日本社会での文化と私たちのありようの縮図であり象徴だなぁ、としみじみと感じられる。
最初のところでプレートに書かれたこのシリーズについての作家の言葉に、「本のおたく」が食うや食わずで買いためた本を四畳半に積み上げて寝るスペースさえないようなのでも出版社や本屋がそういう本好きを馬鹿にすることはないのに、現実離れした空間をしつらえ、ファッション雑誌によく登場するようなモデルにできるだけ生活臭のない衣服を纏わせて歩かせるようなことばかりして、購買者の大多数を占める、この写真展にみるようなウサギ小屋に住んでブランドファッションを愛し、買い集めているような人たちを、ファッションデザイナーたちは馬鹿にする、というような意味のことが書いてある。
ほんまにけったいやなぁ、と作家の言葉にいたく共感を覚える。日本のファッション・デザイナーは、自分たちがアーティストだと思いたいけれど、もともと靴職人や帽子職人などと同じ、仕立て屋にすぎない自分たちに歴史的なコンプレックスのようなものをかかえているのかもしれない。しかも、近代以降の日本の洋服はみんなヨーロッパ輸入だから、ヨーロッパ・コンプレックスもその発生のときからかかえこんでいるのかもしれない。
ほんとうに自分たちの社会の暮らしに根ざし、その歴史と文化から生い立って洗練してきたものであれば、決して自分たちの出自を見下すようなことはないに違いない。
そういうものを醜いと思い、隠したいと思い、自分とは縁もゆかりもない振りをして、視線はヨーロッパのほうばかり向き、日本で自分たちのファッションブランドを買ってくれる大多数の人たちの暮らし方や着方を小馬鹿にして、ヨーロッパ人の女性モデルに着せて相変わらず鹿鳴館みたいなことをやっているのが日本の「ファッション・クリエイター」という人種なのかもねと、この都築響一の展示を見ながら思った。
国立近代美術館のファッション展へ行く人は、3階のほうは見逃しても、4階の「着倒れ方丈記」は見逃さないほうがいいと思います。
at 23:59|Permalink│
2009年04月14日
『ぼくと1ルピーの神様』(ヴィカス・スワラップ著)
京都でも今週末に公開されるアカデミー賞を受賞した映画「スラムドッグ$ミリオネア」の原作です。("Q and A" 2005、子安亜弥・訳 2009 ランダムハウス講談社)
映画もきっといいのでしょうが、原作自体がすばらしく面白い。インドの階級社会の強烈な貧富の落差や宗教差別、女性差別、児童虐待と負の側面のオンパレードであるにも関わらず、それらを少しも疎外せずに描写しているのに、何度も何度も思わず笑ってしまう作者のすばらしいユーモアが、主人公の本来はかなり悲惨な少年の波乱万丈の人生の物語を、実に面白くてお洒落な作品にしています。
少年の遭遇する出来事が幾つもの一つ一つインド社会に根ざした興味深いエピソードとして語られ、それらが幾つもの輪をつなぐ連環法でリンクされて、少年がそれらの試練や悲しみや苦難を乗り越えて逞しく、或いは飄々と生きていくありさまが、少年自身によって語られます。
西洋の中産階級の師弟の知的なビルドゥングス・ロマンのように主人公が知的に上昇して教養人になっていくとか、縦深的に社会批判を担うような主人公に成長していくというような垂直方向のモメントではなくて、いたるところで天国と地獄が共存している起伏に富んだ社会のこちらの谷からあちらの谷へ、逃げたり潜んだり追い出されたりしながら渡り歩いて、地獄めぐりだか極楽めぐりだか分からないような人生を経巡る水平的な軌跡をたどって、西洋的な教養とは異なる、その社会の中で生きるための知恵を身につけて成長していく、アジア的な非構築的な、魂の冒険譚と言ってもいいでしょう。
相互のつながりの希薄にみえるそのエピソードの連環に堅固な枠組みを与えて物語を構造化しているのは、少年が十億ルピーの賞金のかかったクイズ番組に登場して、みごと全問正解で十億ルピーを獲得してしまい、そこに不正があったのではないかと疑いをかけられて、女性弁護士に助けられ、その弁護士になぜクイズに正解できたのかを説明するために、自分のこれまでの人生を語る、というこの作品の構成です。
問題を一つクリアするごとに賞金額も桁を上げていく。その一つ一つに、少年が正解を与えることを可能にした、過去の体験がある。事件を検証するために、クイズ番組に出て司会者と向き合う少年のビデオを弁護士といっしょに見ているという設定で、一章ごとに一問ずつ、少年の過去のエピソードが語られ、次第に少年の人生が明らかにされていきます。
その少年の人生を通して、上に述べたようなインド社会の暗部が次から次へと出てきます。ユーモアを交えて語られるその深刻さはクイズの賞金がせりあがっていくのと軌を一にして鋭さを増し、ほとんど最後のエピソードである少年の友人シャンカールの死に至ってクライマックスを迎えます。ここは涙なしで読めないし、少年の怒りと悲しみ、作者の社会批判の鋭利さが読者の胸を撃ちます。
バラバラで相互にかかわりが希薄に見えた運命の糸が、最後にきれいに繋がっていくのも見事だし、すばらしいハッピーエンドで、本当に気持ちよく読み終えることができます。そして読み終えたときに、インド社会の暗部だけでなく、そこに生きる下層の人々の逞しさ、人間的な豊かさなど、インド社会の奥行きに少し触れたような気持ちになれます。
映画もきっといいのでしょうが、原作自体がすばらしく面白い。インドの階級社会の強烈な貧富の落差や宗教差別、女性差別、児童虐待と負の側面のオンパレードであるにも関わらず、それらを少しも疎外せずに描写しているのに、何度も何度も思わず笑ってしまう作者のすばらしいユーモアが、主人公の本来はかなり悲惨な少年の波乱万丈の人生の物語を、実に面白くてお洒落な作品にしています。
少年の遭遇する出来事が幾つもの一つ一つインド社会に根ざした興味深いエピソードとして語られ、それらが幾つもの輪をつなぐ連環法でリンクされて、少年がそれらの試練や悲しみや苦難を乗り越えて逞しく、或いは飄々と生きていくありさまが、少年自身によって語られます。
西洋の中産階級の師弟の知的なビルドゥングス・ロマンのように主人公が知的に上昇して教養人になっていくとか、縦深的に社会批判を担うような主人公に成長していくというような垂直方向のモメントではなくて、いたるところで天国と地獄が共存している起伏に富んだ社会のこちらの谷からあちらの谷へ、逃げたり潜んだり追い出されたりしながら渡り歩いて、地獄めぐりだか極楽めぐりだか分からないような人生を経巡る水平的な軌跡をたどって、西洋的な教養とは異なる、その社会の中で生きるための知恵を身につけて成長していく、アジア的な非構築的な、魂の冒険譚と言ってもいいでしょう。
相互のつながりの希薄にみえるそのエピソードの連環に堅固な枠組みを与えて物語を構造化しているのは、少年が十億ルピーの賞金のかかったクイズ番組に登場して、みごと全問正解で十億ルピーを獲得してしまい、そこに不正があったのではないかと疑いをかけられて、女性弁護士に助けられ、その弁護士になぜクイズに正解できたのかを説明するために、自分のこれまでの人生を語る、というこの作品の構成です。
問題を一つクリアするごとに賞金額も桁を上げていく。その一つ一つに、少年が正解を与えることを可能にした、過去の体験がある。事件を検証するために、クイズ番組に出て司会者と向き合う少年のビデオを弁護士といっしょに見ているという設定で、一章ごとに一問ずつ、少年の過去のエピソードが語られ、次第に少年の人生が明らかにされていきます。
その少年の人生を通して、上に述べたようなインド社会の暗部が次から次へと出てきます。ユーモアを交えて語られるその深刻さはクイズの賞金がせりあがっていくのと軌を一にして鋭さを増し、ほとんど最後のエピソードである少年の友人シャンカールの死に至ってクライマックスを迎えます。ここは涙なしで読めないし、少年の怒りと悲しみ、作者の社会批判の鋭利さが読者の胸を撃ちます。
バラバラで相互にかかわりが希薄に見えた運命の糸が、最後にきれいに繋がっていくのも見事だし、すばらしいハッピーエンドで、本当に気持ちよく読み終えることができます。そして読み終えたときに、インド社会の暗部だけでなく、そこに生きる下層の人々の逞しさ、人間的な豊かさなど、インド社会の奥行きに少し触れたような気持ちになれます。
at 15:18|Permalink│
2009年04月10日
『プリンセス・トヨトミ』(万城目学・著)
「鴨川ホルモー」「鹿男あをによし」と読んで、ようやく最新刊「プリンセス・トヨトミ」までやってきました。500ページを超える力作ですが、残念ながら、私には鹿男のほうが面白かった。
作者の力量は一作ごとに大きく前進しているようで、前に使った喩えでいえば、海老の身とコロモはもう分離するのも難しい。無理に同じ比喩を使うなら、今回は表面に身が露出してしっかり詰まっており、その身をほじくっていくと中からコロモが出てくる、といった印象です。
実際、私たち読者がこの作品のオモテに観る風景は大阪庶民の日常生活であり、私たち関西に暮らす人間がよく知っている場所であり、風景です。そして、幸一なり語り手なりに案内されてレトロな近代ビルの内部へ入っていくと、そこには大阪の地下に作られた規模壮大な国会議事堂の空間が・・と、ここでコロモが出てきます。
物語で描かれた空間のありようそのものが、この物語の構造的性質と響き合っています。
「鴨川ホルモー」や「鹿男あをによし」が、思春期後期の精神を襲うSturm und Drangの表現であったり、社会へ出たばかりの新米教員が女子高で経験する不安や自信のなさや、コミュニケーション不全から回復するプロセスの表現であったりというふうに読んでいいなら、それらは個人の精神的な経験の物語だと言ってもいいでしょうが、「プリンセス・トヨトミ」はそういう言い方をするなら、大阪の人間の集合合的無意識を掘り起こす物語だと言ってもいいのではないでしょうか。
長編として構成がよく練られ、描写が緻密で「鴨川」や「鹿男」よりもだいぶ密度が詰まっている印象があり、三人の会計検査院のスタッフ間のやりとりや、大輔と茶子と蜂須賀らのイジメのエピソードなど、読者サービスも充実しているのですが、これらの前作に比して、かなりテンポが落ちていて、読者がどんどん前のめりになっていくような感じがありません。
それに、万城目作品に共通するコロモの奇想天外な面白さが、今回は私には平凡に見えました。これもユニークな「鬼」たちを登場させた「鴨川」や、しゃべる「鹿」を登場させた「鹿男」のほうがずっと奇想天外で、面白かった。
あの面白さで500ページもたせるのは、よほどの力量がないと難しいのでしょう。
もともと万城目作品では、「ばかばかしいほど面白い」独特の奇想に、奇想なりのリアリティをもたせるために、読者向けのいかにも合理的な説明らしきものを語り手が与えることが多くて、それが快適なテンポを妨げてかったるく、ちょっと首を捻らざるをえないようなところもありますが、今回の長編ではテンポが遅いせいか、それが多少目立ちます。ちょっと生真面目すぎるのでは?
万城目の新作長編が出た、というので、たいていの読者は、今度はどんな奇想天外なコロモが楽しめるのだろう?と思ったでしょうが、さぁ、読んだ結果多くの読者はどう判定するでしょうか。
作者の力量は一作ごとに大きく前進しているようで、前に使った喩えでいえば、海老の身とコロモはもう分離するのも難しい。無理に同じ比喩を使うなら、今回は表面に身が露出してしっかり詰まっており、その身をほじくっていくと中からコロモが出てくる、といった印象です。
実際、私たち読者がこの作品のオモテに観る風景は大阪庶民の日常生活であり、私たち関西に暮らす人間がよく知っている場所であり、風景です。そして、幸一なり語り手なりに案内されてレトロな近代ビルの内部へ入っていくと、そこには大阪の地下に作られた規模壮大な国会議事堂の空間が・・と、ここでコロモが出てきます。
物語で描かれた空間のありようそのものが、この物語の構造的性質と響き合っています。
「鴨川ホルモー」や「鹿男あをによし」が、思春期後期の精神を襲うSturm und Drangの表現であったり、社会へ出たばかりの新米教員が女子高で経験する不安や自信のなさや、コミュニケーション不全から回復するプロセスの表現であったりというふうに読んでいいなら、それらは個人の精神的な経験の物語だと言ってもいいでしょうが、「プリンセス・トヨトミ」はそういう言い方をするなら、大阪の人間の集合合的無意識を掘り起こす物語だと言ってもいいのではないでしょうか。
長編として構成がよく練られ、描写が緻密で「鴨川」や「鹿男」よりもだいぶ密度が詰まっている印象があり、三人の会計検査院のスタッフ間のやりとりや、大輔と茶子と蜂須賀らのイジメのエピソードなど、読者サービスも充実しているのですが、これらの前作に比して、かなりテンポが落ちていて、読者がどんどん前のめりになっていくような感じがありません。
それに、万城目作品に共通するコロモの奇想天外な面白さが、今回は私には平凡に見えました。これもユニークな「鬼」たちを登場させた「鴨川」や、しゃべる「鹿」を登場させた「鹿男」のほうがずっと奇想天外で、面白かった。
あの面白さで500ページもたせるのは、よほどの力量がないと難しいのでしょう。
もともと万城目作品では、「ばかばかしいほど面白い」独特の奇想に、奇想なりのリアリティをもたせるために、読者向けのいかにも合理的な説明らしきものを語り手が与えることが多くて、それが快適なテンポを妨げてかったるく、ちょっと首を捻らざるをえないようなところもありますが、今回の長編ではテンポが遅いせいか、それが多少目立ちます。ちょっと生真面目すぎるのでは?
万城目の新作長編が出た、というので、たいていの読者は、今度はどんな奇想天外なコロモが楽しめるのだろう?と思ったでしょうが、さぁ、読んだ結果多くの読者はどう判定するでしょうか。
at 02:12|Permalink│
「ワルキューレ」
先日観た映画「ワルキューレ」は、史実に基づいて創られた作品で、結果は初めからわかっているので、そこにいたるプロセスが見せどころ。
観客動員をあてにしてたっぷり予算を使い、有名な俳優を使って作られた商業映画なので、計画に沿った刻々の主人公らの行動にどんな障壁が待ち構えているかとハラハラしながら追っていくエンターテインメントとしての要件は備えている。短時間の出来事を集中的に速いテンポで描いているので、それなりの緊張感はある。
しかし、はじめから分かっている悲劇的な結末は、エンターテインメントとしては辛い。スティーブ・マッキーンが脱走のベテランを演じた「大脱走」などは、ヒーローたちはみんな殺されたり、悲劇的な結末だけれども、この脱走王が捕まって捕虜収容所へ戻ってくるときは英雄の帰還という趣で、観客は大きなカタルシスを覚える。
「ワルキューレ」はドイツ軍士官がナチスに反乱を企て、「人間として子供たちに恥じることのない」死を迎えるわけだけれど、観終わったわれわれ観客には「大脱走」のような解放感はない。
歴史の解釈に新しい何かをもたらすような映画であれば、私の苦手なメッセージ性の強い映画でも許容できるけれど、別にそういう種類の映画ではなくて、ただヒットラー暗殺という不成功に終わった試みに至る緊迫したプロセスの面白さだけがこの映画の見せ所なのだし、またそれゆえに正真正銘の娯楽映画なのだけれど、史実が邪魔をして(?)娯楽として十分に楽しめない逆説を感じる。
クチコミであまり評判もよくないのだろうか、映画館でも観客はごくわずかだった。
観客動員をあてにしてたっぷり予算を使い、有名な俳優を使って作られた商業映画なので、計画に沿った刻々の主人公らの行動にどんな障壁が待ち構えているかとハラハラしながら追っていくエンターテインメントとしての要件は備えている。短時間の出来事を集中的に速いテンポで描いているので、それなりの緊張感はある。
しかし、はじめから分かっている悲劇的な結末は、エンターテインメントとしては辛い。スティーブ・マッキーンが脱走のベテランを演じた「大脱走」などは、ヒーローたちはみんな殺されたり、悲劇的な結末だけれども、この脱走王が捕まって捕虜収容所へ戻ってくるときは英雄の帰還という趣で、観客は大きなカタルシスを覚える。
「ワルキューレ」はドイツ軍士官がナチスに反乱を企て、「人間として子供たちに恥じることのない」死を迎えるわけだけれど、観終わったわれわれ観客には「大脱走」のような解放感はない。
歴史の解釈に新しい何かをもたらすような映画であれば、私の苦手なメッセージ性の強い映画でも許容できるけれど、別にそういう種類の映画ではなくて、ただヒットラー暗殺という不成功に終わった試みに至る緊迫したプロセスの面白さだけがこの映画の見せ所なのだし、またそれゆえに正真正銘の娯楽映画なのだけれど、史実が邪魔をして(?)娯楽として十分に楽しめない逆説を感じる。
クチコミであまり評判もよくないのだろうか、映画館でも観客はごくわずかだった。
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