2009年03月
2009年03月29日
『鹿男あをによし』(万城目学)
この作品はテレビドラマ化されて人気を博しました。原作は読んでなかったけれど、パートナーがドラマの方をえらく気に入って、面白いというので、ごくたまに見ることがありました。
玉木宏は「のだめ」で、綾瀬はるかは「白夜行」でとても良かったので、パートナーからそれまでの粗筋を聞きながら断片的に見て楽しんでいましたが、やっぱり切れ切れでは面白さがよく分かりませんでした。鹿がしゃべったり、人間が鹿の頭になっていたり、へんなドラマだなぁ、くらいで。
今回、遅ればせながら、出張中の広島で読んで、なるほど原作も大変おもしろい小説だなと思いました。先日読んだ『鴨川ホルモー』と同系の作品ですが、作者の腕は数段進化していることが見てとれます。
若い人は素直に面白がって読んでいるでしょうが、『鴨川ホルモー』の小鬼と同様、喋る鹿の登場に、なに?これ、とつまずいてしまう、東京産の日本的私小説に泥んでこの手の作品に慣れていない読者は、『鴨川ホルモー』のときに私がやったように、天ぷらのエビの身とコロモを無理やり分けてみると分かりやすいでしょう。
鹿と狐と鼠のトライアングルや鹿島大明神など神がかりの話をひとまず天ぷらのコロモとして全部剥がしてしまうと、あとに残るのは『鴨川ホルモー』よりもう少し年長の、青年期に別れを告げる時期にさしかかった繊細で不器用な青年(大学院生)を主人公にした青春小説、ということになるでしょう。
大学の研究室で研究者としての道を歩み始めたところで、この主人公の青年はつまずきます。助手ともめごとを起こし、研究室の中でも居心地の悪い立場になり、神経衰弱に罹っているとみなされて、教授の思いやりなのか、あるいは体よく追い払われるということなのか、二学期の3?4ヶ月だけ、産休教員のピンチヒッターで奈良の女子高校の講師に就くことになります。
神懸りの話をとっぱらってしまえば、そうやって新しい任地で、はじめて社会へ出て、しかも女生徒たちばかりを教えるという慣れない仕事に就いて、新米教師をからかったり反撥したりする生徒の扱いに戸惑い、同僚たちの関西ならではののんびりした気風に戸惑ったりしながら、京都、大阪、奈良の三校で大和杯をめぐる恒例のビッグスポーツイベントで生徒と一体に取り組まざるを得ない経験を通して、次第に生徒とのコミュニケーションがとれるようになり、教師と生徒とのしかるべき絆を形成していく、という、典型的な「青春モノ」にほかなりません。その意味で、漱石の『坊ちゃん』のバリエーション、主人公は軟派の坊ちゃんと言ってもいいかもしれません。
そこへ例によって、この作家独特のコロモがついています。それが鹿、狐、狸と鹿島大明神やらお宝の三角縁神獣鏡やらが登場する神懸りと歴史的な薀蓄で、物語の進行は、この奇想天外な仕掛けによって成立しています。
鹿さんや鹿島大明神の側から見れば(つまり種明かしされた後には)ごく単純な事情とそこからくる必然的な成り行きを、ふつうの人間の側から見るために、分からないことだらけの謎に見え、物語の展開はその謎解きのプロセスだとみることもできます。
読者は主人公の青年と同じふつうの人間として、鹿さんや鹿島大明神の側からもたらされる成り行きに巻き込まれ、その部分的な局面だけを垣間見させられることによって、ずっとwhyという問いをぶら下げ(suspend)ながら、次々に起きる時系列の「不思議な」出来事を追いかけざるをえません。
その「不思議」の奇妙奇天烈さに惹かれ、なぜだ?どういうことなんだ?という謎解きの物語としてのサスペンスがこの作品の一つの魅力だろうと思います。
そして、もう一つの魅力は、コロモをはぎとった青春物語としての魅力。堀井イトが剣道の試合で一人また一人と撃破していくシーン(まるで「あしたのジョー」と力石との死闘)のような、爽やか熱血スポコン青春ドラマと同質の魅力。健全で血わき肉躍るスリルと迫力に満ちた描写ですね。
ふつうの青春モノだと、この若い主人公の教師と堀井イトとは、石坂洋次郎の『若い人』(やその後に輩出したそのバリエーション)のような、濃厚な性愛であれ淡い憧憬であれ、男女の関係にもっていくところでしょう。
でも作者はそうはしていません。あくまでも初めて社会へ出て教員などやらされたうぶな青年の不安、力み、つまずき、戸惑いと、それゆえの、生徒や同僚との間に生じる波紋等々を彼に寄り添って描き、鹿、狐、鼠たちの投げかける謎は、そんな青年の揺れ動く青年期固有のありようと響きあっています。
最後にコトが成就して、一つだけ叶えてもらえる願いに、自分の鹿頭の解除をあきらめて、堀井の鹿頭の解除を選ぶ主人公の選択は、『若い人』流の展開なら、教師と生徒の禁断の恋の責任を自分ひとりで負って辞任して去る、みたいなことに対応するはずだけれど、この作品ではそうではなくて、ただ彼の教師としての堀井への優しさ、思いやりといった印象になっています。
つまり不安や力みや戸惑いで、生徒たちともいい距離をとれず、うまくコミュニケーションできなかった彼が、一緒に一大イベントを乗り切ることで、本来のあるべき教師と生徒の理想的な距離をとるところまできた、というところで物語が終わっています。
魔法を解除する堀井の最後の行為も、『若い人』流だと実は堀井は彼を愛していたんだ、というふうなことになるでしょうけれど、ここではキスに性愛的な意味はなく、堀井もまた、本来の教師と生徒の理想の距離を見出したことを示すだけです。その意味でも、これはとても爽やかな青春小説だと思います。
理屈で海老天の「身」と「コロモ」を無理に分けて書いてきましたが、たしかに『鴨川ホルモー』では、まだこの作者独特の奇想のコロモと中のエビの身とが少しゴワゴワ分かれる感じがありましたが、『鹿男』ではよく構想が練られている感じで、コロモと身がしっくり一体になっていて、違和感がありません。
玉木宏は「のだめ」で、綾瀬はるかは「白夜行」でとても良かったので、パートナーからそれまでの粗筋を聞きながら断片的に見て楽しんでいましたが、やっぱり切れ切れでは面白さがよく分かりませんでした。鹿がしゃべったり、人間が鹿の頭になっていたり、へんなドラマだなぁ、くらいで。
今回、遅ればせながら、出張中の広島で読んで、なるほど原作も大変おもしろい小説だなと思いました。先日読んだ『鴨川ホルモー』と同系の作品ですが、作者の腕は数段進化していることが見てとれます。
若い人は素直に面白がって読んでいるでしょうが、『鴨川ホルモー』の小鬼と同様、喋る鹿の登場に、なに?これ、とつまずいてしまう、東京産の日本的私小説に泥んでこの手の作品に慣れていない読者は、『鴨川ホルモー』のときに私がやったように、天ぷらのエビの身とコロモを無理やり分けてみると分かりやすいでしょう。
鹿と狐と鼠のトライアングルや鹿島大明神など神がかりの話をひとまず天ぷらのコロモとして全部剥がしてしまうと、あとに残るのは『鴨川ホルモー』よりもう少し年長の、青年期に別れを告げる時期にさしかかった繊細で不器用な青年(大学院生)を主人公にした青春小説、ということになるでしょう。
大学の研究室で研究者としての道を歩み始めたところで、この主人公の青年はつまずきます。助手ともめごとを起こし、研究室の中でも居心地の悪い立場になり、神経衰弱に罹っているとみなされて、教授の思いやりなのか、あるいは体よく追い払われるということなのか、二学期の3?4ヶ月だけ、産休教員のピンチヒッターで奈良の女子高校の講師に就くことになります。
神懸りの話をとっぱらってしまえば、そうやって新しい任地で、はじめて社会へ出て、しかも女生徒たちばかりを教えるという慣れない仕事に就いて、新米教師をからかったり反撥したりする生徒の扱いに戸惑い、同僚たちの関西ならではののんびりした気風に戸惑ったりしながら、京都、大阪、奈良の三校で大和杯をめぐる恒例のビッグスポーツイベントで生徒と一体に取り組まざるを得ない経験を通して、次第に生徒とのコミュニケーションがとれるようになり、教師と生徒とのしかるべき絆を形成していく、という、典型的な「青春モノ」にほかなりません。その意味で、漱石の『坊ちゃん』のバリエーション、主人公は軟派の坊ちゃんと言ってもいいかもしれません。
そこへ例によって、この作家独特のコロモがついています。それが鹿、狐、狸と鹿島大明神やらお宝の三角縁神獣鏡やらが登場する神懸りと歴史的な薀蓄で、物語の進行は、この奇想天外な仕掛けによって成立しています。
鹿さんや鹿島大明神の側から見れば(つまり種明かしされた後には)ごく単純な事情とそこからくる必然的な成り行きを、ふつうの人間の側から見るために、分からないことだらけの謎に見え、物語の展開はその謎解きのプロセスだとみることもできます。
読者は主人公の青年と同じふつうの人間として、鹿さんや鹿島大明神の側からもたらされる成り行きに巻き込まれ、その部分的な局面だけを垣間見させられることによって、ずっとwhyという問いをぶら下げ(suspend)ながら、次々に起きる時系列の「不思議な」出来事を追いかけざるをえません。
その「不思議」の奇妙奇天烈さに惹かれ、なぜだ?どういうことなんだ?という謎解きの物語としてのサスペンスがこの作品の一つの魅力だろうと思います。
そして、もう一つの魅力は、コロモをはぎとった青春物語としての魅力。堀井イトが剣道の試合で一人また一人と撃破していくシーン(まるで「あしたのジョー」と力石との死闘)のような、爽やか熱血スポコン青春ドラマと同質の魅力。健全で血わき肉躍るスリルと迫力に満ちた描写ですね。
ふつうの青春モノだと、この若い主人公の教師と堀井イトとは、石坂洋次郎の『若い人』(やその後に輩出したそのバリエーション)のような、濃厚な性愛であれ淡い憧憬であれ、男女の関係にもっていくところでしょう。
でも作者はそうはしていません。あくまでも初めて社会へ出て教員などやらされたうぶな青年の不安、力み、つまずき、戸惑いと、それゆえの、生徒や同僚との間に生じる波紋等々を彼に寄り添って描き、鹿、狐、鼠たちの投げかける謎は、そんな青年の揺れ動く青年期固有のありようと響きあっています。
最後にコトが成就して、一つだけ叶えてもらえる願いに、自分の鹿頭の解除をあきらめて、堀井の鹿頭の解除を選ぶ主人公の選択は、『若い人』流の展開なら、教師と生徒の禁断の恋の責任を自分ひとりで負って辞任して去る、みたいなことに対応するはずだけれど、この作品ではそうではなくて、ただ彼の教師としての堀井への優しさ、思いやりといった印象になっています。
つまり不安や力みや戸惑いで、生徒たちともいい距離をとれず、うまくコミュニケーションできなかった彼が、一緒に一大イベントを乗り切ることで、本来のあるべき教師と生徒の理想的な距離をとるところまできた、というところで物語が終わっています。
魔法を解除する堀井の最後の行為も、『若い人』流だと実は堀井は彼を愛していたんだ、というふうなことになるでしょうけれど、ここではキスに性愛的な意味はなく、堀井もまた、本来の教師と生徒の理想の距離を見出したことを示すだけです。その意味でも、これはとても爽やかな青春小説だと思います。
理屈で海老天の「身」と「コロモ」を無理に分けて書いてきましたが、たしかに『鴨川ホルモー』では、まだこの作者独特の奇想のコロモと中のエビの身とが少しゴワゴワ分かれる感じがありましたが、『鹿男』ではよく構想が練られている感じで、コロモと身がしっくり一体になっていて、違和感がありません。
at 00:38|Permalink│
「よみがえる黄金文明展?ブルガリアに眠る古代トラキアの秘宝?」(広島県立美術館)
この展覧会は広島が最初なのだそうで、偶然開催期間中に広島を訪れたので、入ってみました。大昔に開催されて記録的な入館者を記録したツタンカーメンのときもすごかったけれど、このトラキアの金(gold)も相当なものです。
ただ金を沢山使った、というだけでなく、その職人の細工の見事なこと。動物の非常にリアルな彫像を、飲食器や祭祀具の装飾として用い、見事に機能と装飾美を調和させ、繊細優美な造形を実現した、そのデザインセンスの良さに感嘆します。もっとも、いいデザインだなと思うのは、やっぱり圧倒的な古代ギリシャ文化の影響を受けて出てきたもののようです。
トラキアというと恥ずかしながら働く連想は一つだけ。古代ローマで大反乱を起こして殲滅されたスパルタクスの出身地が確かトラキア。だから、今回の展覧会で長短の刀や槍などの武器が結構出ていて、トラキアは強い戦士を生み出し、周辺地域から好戦的な民とみなされていた、というふうな解説文の記述を見て、なんとなく納得。そして、カーク・ダグラス(映画『スパルタクス』でスパルタクスを演じた)の顔が浮かんできます(笑)。
王家の眠るバラの谷の遺跡から出た金の装飾品を展示してある部屋では、その地方のバラの香りを漂わせて、珍しい香りの展示を実現しています。ほんとうにいい匂いで、展示物もすばらしい金細工で、素敵な展示でした。売店で、あのトラキアのバラの香りの香水でも売っていたら衝動買いしたかもしれませんが、幸か不幸か、オイルとか、石鹸とか、ローション的なものしかなかったので、浪費せずにすみました。
トラキア人の死生観はちょっとかわっていて、死というのは楽しいあの世への旅なので、葬式に集まると酒を飲んでご馳走をたべてワイワイ騒ぎ、あの世へ持っていく豪華な品々を惜しみなく棺に納めたそうです。非常に楽観的で前向きな民族だったんでしょうね。
きわめつけは妻の殉死で、一夫多妻制だったらしいのですが、夫が死ぬと、(たぶん生前に夫が指名して選んだ)妻の中の一人だけが選ばれて殉死します。そのとき選ばれるのは名誉で、選ばれなかった妻たちは屈辱的なこととみなされたのだとか。ほんまかいな(笑)
トラキアはいまのブルガリアだそうで、私はヨーロッパを北から南まで放浪していたころも、まだ出入国の手続きが結構わずらわしかった東欧圏は一つも行っていません。行くならオーストリア・ハンガリー帝国として歴史のあるハンガリーあたりに行きたいな、と思っていたけれど、この展覧会を見るとブルガリアにも行ってみたいな、バラの谷に行けるのかな、などと思ったりします。
そろそろ海外も、体がついていけなくなりそうですから、見納めになるかもしれませんが。
at 00:26|Permalink│
「どろどろどろん?異界をめぐるアジアの現代美術」(広島市現代美術館)
広島市現代美術館は桜の季節には市民が花見に行ったりする、一番なじみの深い比治山の上にあります。私が幼いころは、父の勤めていた会社でも、課の全員、家族ぐるみで花見に繰り出して、桜の樹の下で派手な宴会を開くのが恒例で、子供心に楽しい華やいだ雰囲気は悪くはなかったけれど、中途半端に知った人に色々話しかけられて、なんだか面映い居心地の悪さも感じたものでした。
現代美術館のハードウェアは建築家黒川紀章の設計で、ソフトウェアのほうの計画は、実は私の前の勤務先で担当しました。(私の担当ではなかったけれど。
美術館の前に細い坂道を隔てて階段があり、降りていくと「ムーアの広場」といって、ヘンリー・ムーアの鳥居をイメージしたような門の形の大きな黒々とした力強い造形が立ち、その脇にすでに桜が美しく咲いています。
建物も現代的な、なかなか面白いデザインですが、ここはいつ来てもなかなかいい企画展をやっています。
今回の企画展のテーマは異界、この世のものならぬ妖怪変化たちの世界です。
日本の地方に伝わる妖怪変化を記した絵巻(「稲生物怪録絵巻」)や、そこに登場するような異界のものたちの、絵画や仮面や様々な造形に表現された異様な姿が、国立歴史民俗博物館のコレクションなどから借りて展示され、それらをふまえ、それらと競うようにして、日本をはじめアジア諸地域の現代アーティストによる異界と異形のものを表現する作品が展示あるいは映像上映されています。
英語で言うと「Museum of Contemporary Art」つまり現代とも近代とも訳されるModern Artの中でも現在に近い「同時代アート」を扱った美術館なので、 アクセントは後者にあり、問題意識も現在的で、シャープです。
こんなに広かったかなと思うほど幾つもの展示室を使ったその展示の量もすごいけれど、とくに映像の巨大なスクリーンを惜しげもなく使った映像作品の展示の迫力は圧倒的です。
人の女性と馬の異類婚姻譚に触発された高木正勝の馬に乗る女性のデフォルメされた映像の美しく、圧倒的な迫力。展示してあった「おしらさま」が、この異類婚の話の延長上にある、というのは初めて知りました。そう思って実際にそこに横たえられた何体かの「おしらさま」を見るとなんだか気色悪い。
チウ・アンションの「新・山海経」も、手書きの粗い線のアニメだけれど、これだけ大きなワイドスクリーン(3面マルチスクリーン)で見せられるとなかなか迫力があります。
真っ暗な会場で真っ暗な映像を見る感じの「VAMPIRE」は、深夜無人の山中に小さな懐中電灯の明かり一つで若者たちが入っていって、首筋や背に血塗りのような朱を塗る儀式めいたことをしたりするのをハンディカメラで追う「ブレア・ウイッチ プロジェクト」みたいな映像。何だか訳が分からないけれど、何が飛び出してくるかわからないようなハラハラ感を味わいます。
一番怖かったのが、八谷和彦の「fairy finder04人魚の窓」という作品。片方に潜水艦の潜望鏡の覗き窓のように突き出ている太い筒状のディスプレイがあるので覗きこんでも、ぼんやりして何も見えないのだけれど、それと向き合う位置にある鏡に映るそのディスプレイを見ると、「人魚」が泳いできて、その顔がこちらを見ている像が明瞭に見えます。
女性の顔なのだけれど、これが実にコワイ。ちょうど海中を泳ぐ人魚が潜水艦の窓を外側つまり海の側から覗き込んで、その額をガラスにぴったりつけてこちら(艦内)を見ているような按配なのだけれど、その表情が何だか苦しそうで、その顔が鏡の中でだけ映り、振り返ってディスプレイを覗き込んでも姿の見えない女性は、ほんとうに幽霊のような気がしてきます。
映画「女優霊」の最初のほうで、車のガラス越しに車内にいる女性の顔が確かに見えているのに、実際には車内には誰もいない、というシーンがあってゾクゾクさせられるけれど、あの感覚を呼び起こされてしまいました。コワイ・・
同じ作家の「fairy finder03 コロボックルのテーブル」は実に愛すべき作品。喫茶店の机にしつらえられた上から覗き込むインベーダーゲームのように、樹のある森のような風景をガラス越しに見下ろす形になっていて、そのガラス平面の上を幾つかの小さな円板状のガラスをゆっくり動かしながら、円板のガラス越しに下の風景を見ていくと、不意に小人が現われて横切ったりします。それが、円板越しにでないと見えないし、使う円板によって見えなかったり、色彩が反転して見えたりする。この仕掛けはとても面白い。ユーザーが自分でガラスのフィルターの役をする円板を動かして森の中の小人を探す、という趣向。
以前にも作品を見たことのある小谷元彦の「半骸幽女」もコワイ。壁に女の能面のような面がかかっているのですが、顔の半分が・・いや、もうやめましょう。思い出すと寝られなくなりそう(笑)
歴史民俗博物館から借りてきた掛軸になっている何幅かの幽霊図もコワイ。一番コワイのは背景に色も輪郭も溶けていくような、有るか無きかの希薄な幽霊像。これはいかにもコワイ顔をした幽霊よりずっとコワイ。私は幼いころ田舎に預けられていたころ、外のトイレに一人で行くのが死ぬほど怖かったけど、あの恐怖感が蘇ってくるようでした。やっぱり幽霊というのは、あくまでもさりげなく寄り添うように居て、ハッと気づく瞬間には、すでに至近距離に、というようなのが一番コワイですね。
今回の展示のメインは現代美術のほうにありますが、うまく古典的な美術の中にあるものを対比して、なかなか工夫のあるいい展覧会でした。
同時にやっているコレクション展は高松次郎。彼の作品は国際美術館を始め、色々なところでちょっとずつ見ているので、とくに新たな感慨があるわけではなく、たしかにこの人や、彼と一緒に活動した同時代のアーティストは日本の現代美術に新しい風をもたらしたのだろうな、と思いますが、いま見ると、何かこの種のアートというのは、時代的な役割を終えると、もうほとんど意味がなくなってしまうのではないか、というふうな(ちょっと語弊があるかもしれませんが)感想を持ちました。
例えば小説でいうと、新感覚派と言われた作家たちの初期の作品とか、モダニズムの色んな方法的実験をやってみせた小説群。「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」(「頭または腹」)というような文体は、同時代に衝撃を与え、或る意味で広範な影響を与えたかもしれないけれど、その作品自体を今日に至って読めば、作品としての意味はもう消費されつくしたのではないか、何も残らないのではないか、というふうな感じがします。それと同じようなことを感じました。
これは別に高松次郎の作品がどう、というよりも、アートがコンセプチュアルな度合いを強めてからは、多かれ少なかれ作品の実質よりもその情報に意味がある、というふうになってしまったのかな、というふうにも思います。
例えば、デュシャンの「泉」はそれをさかさまにしてサインして美術の文脈に置こうとしたところに意味があるので、そのモノ自体は何の変哲もない工業製品の一つで、麗々しく「保存」しようが、現実に「泉」がそうなったように紛失しようが、また複製品に作家自身がサインしてホンモノにしてしまおうが、最初にデュシャンがこういう意味を込めてこれこれの行為をした、という情報さえ残れば、彼の創造したアートとしての意味は伝わっていく、という類のものではないでしょうか。
そういう意味では、高松次郎の影であれ、荒川修作の意味不明の文字と線であれ、河原温の日付のプレートであれ、美の殿堂といった取り澄ました空間に麗々しく飾られるのを見ると、いつも何かちぐはぐな,展示というもののパラドックスみたいなものを感じて皮肉な思いを抱かずにはいられません。
at 00:20|Permalink│
2009年03月28日
広島市映像文化ライブラリー
映画は著作権のクリアがなかなか難しく、上映権についても業界のしばりが強くて、映像文化センターのような施設を作っても、コレクションをしたり、そこで上映してみせたりするのは非常に難しいようです。
日本で劇場で上映されたような昔の映画が系統立って見られるところは、東京の国立近代美術館フィルムライブラリーと、京都府のフィルムライブラリーの古い日本映画コレクションを引き継いだ府立京都文化博物館、そしてこの広島市の映像文化ライブラリーだけだと思います。
もちろん、ほかに、地方映画祭など独自の活動をし、地元川崎にちなむフィルムを扱っている川崎市民ミュージアムや、世界諸地域の民族に関する記録映像を集めている国立民族学博物館のようなところはあるけれど、一般の劇映画というのとはちょっと違います。
国立近代美術館も、京都文化博物館も、館側が企画して一方的にテーマを決めて選んだ作品は定期的に上映しているけれど、利用者が行って好きなプログラムを上映して見るというようなことはどちらもできません。
広島市の映像文化ライブラリーの素晴らしいところは、そういう企画上映もやるけれど、30ブースのあるビデオ視聴室と24席ほどの試写試聴室があって、ビデオ視聴室では番組リストで自分の観たい映画を選んで、コインを400円挿入すれば、誰に申し出る必要もなく、気軽にその場ですぐに観ることができる、ということです。16ミリフィルムもビデオソフトも社会教育団体、地域団体に貸し出しも行ってします。これはすばらしい映像資料サービスです。今回の広島行きはここの映像資料を調べることが主目的。
ビデオで観ることのできるタイトルはそう多くはありませんが、別途スタッフに申し出て試写を見ることができるフィルムのタイトルも含めると、係の人の話では日本映画614タイトルに及ぶそうです。
もうずいぶん昔のことになりますが、ヨーロッパで文化施設の調査をしたときに、フランスのポンピドーセンターやイギリスのフィルムセンターなどでも、映像や音楽のコレクションをユーザーに解放しているのを羨ましく思いました。
映像や音楽は実際に見たり聴いたりできなければ、どうしようもありません。末永い将来のために国民の財産を「保存」するのはもちろん大事だけれど、将来のために保存しているのであって、「いま生きているあなたたちには(専門家が企画するごくごく一部しか)見せてあげません」というのでは、何のための施設だろう?という素朴な疑問を生じます。そこでは専門家がカフカの「掟」の番人のような存在になってしまっています。
広島でもこのライブラリー内部でユーザーに対して上映することに、かなり難しい交渉ごとがあったように聴きましたが、でも規模は小さくてもこれだけやれたということは立派だと思います。そして、広島市にできることが、国や京都府にできない現状に、やはり素朴な疑問を感じざるを得ません。
at 23:09|Permalink│
ひろしま美術館
広島の都心、紙屋町の北側、そごう百貨店とホテルの大きなビルの立つ背後は木立ちの緑地になっていて、ここに、ひろしま美術館、映像文化ライブラリー、図書館が並んでいます。歩道には「文化の道」(だったと思います)とか書かれたプレートが嵌めてあります。いわゆる文化ゾーン。すぐ近くに市民球場のナイターの照明設備が見えますし、県庁も道路を隔てた向いにあります。繁華街の八丁堀にも近く、市民が気軽に訪れるにはとても便利な場所。
ひろしま美術館は広島銀行が創業100周年記念事業として、昭和53年に開設した私立美術館で(コレクションはたしか当時の頭取が美術に深い関心を持って私財を投じて蒐集し、寄贈したように記憶しています)、財団法人が運営していますが、そのコレクションは日本人好みの印象派を中心とする西洋近代絵画とその影響を受けた日本近代絵画(と若干の彫刻)で、驚くほどの名品揃い。ある作家に的をしぼって系統立てて集めたという縦深的なコレクションではないけれど、どれも美術史の教科書に出てくるような画家の、それもそれぞれかなりいい作品を一点ないし数点ずつ集めた、西洋美術入門には最適のコレクション。
ゴッホの「ドービニーの庭」をはじめ、マネ、モネ、コロー、クールベ、ミレー、シニャック等おなじみの画家たちのとてもいい作品があるし、ピカソの「酒場の二人の女」やロートレックの「アリスティド・ブリュアン」、マティスの「赤い室内の緑衣の女」、マリー・ローランサンの「牝鹿と二人の女」なども、しばし絵の前で佇んでいたいような作品。
でも、お気に入りはやっぱりルドンの「ペガサス、岩上の馬」で、ここへ来るといつもこれがあるのを見て安心します。この晩年になって爆発するパステルの色彩はほかの画家にはない特別のものです。ルドンに関してはこの美術館ではこの一点だけなのが残念だけれど。
人件費の節約からか、各展示室にスタッフがいなくて、中心の6つの展示室を一人二人の警備員がかけもちで見回っているようなので、ちょっと心配なアンちゃんが、手に持った鍵束をカチャカチャさせながら、神経質な様子で展示室を出たり入ったりして、絵の至近距離で額を付き合わせるように見ていたりすると、余計なことながらハラハラしてしまいました。
今回はルノワールの「パリスの審判」が貸し出し中で、見られなかったのは残念。そのかわり、以前には無かったルオーの一連の銅版画「ミセレーレ(憐れみたまえ)」が見られたことはラッキーでした。太い輪郭で描かれた人間の倣岸や悲しみの表情、イエスの表情は圧倒的に力強い。50点を超える作品、これは個人の寄贈だそうです。
同じモローの弟子であるルオーとルドンがそれぞれ全力投球した、色彩を拒んだ版画の力強さは、絢爛たる開花直前のエネルギーを秘めた桜の黒々とした太い幹のよう。
円形の展示棟を出ると、これを囲む緑地では幼い子供たちが何人か走り回り、乳母車を傍らにとめた若い母親たちがくつろいだ様子で、日向ぼっこをしながら、なにかアンケートのようなものを書いています。オシャレなカフェもあって、サンドイッチやケーキがおいしい。
at 14:05|Permalink│