2009年02月
2009年02月27日
『明るい夜』〈黒川創)
この読者極少のブログでも、毎週、どんな記事を読者が見てくれたかがカウントされて見ようと思えば分かるのですが、この数日はやはり新刊の「ダブル・ファンタジー」や「少女」、それに評判の封切映画「チェンジリング」についての記事にかなりの読者がついてくれています。
他方で、カウントはごくわずかだけれど、ずっと以前から消えず、毎週何人かは見てくれる記事というのがあって、それが黒川創さんの『かもめの日』について書いた記事です。
それが前から気になっていて、私は彼のいい読者ではなくて、『かもめの日』がなにか受賞して、良い作品だという評判だったので読んでみたら、世評どおりの良い作品だった、というだけのことで、ちょっとした感想を書いただけでしたが、きっと黒川さんの作品には地味ながら根強いファンがいるのでしょう。
そうでなければ、こんなマイナーなブログで毎週必ず特定の記事に読者がつくということはないでしょう。私の知らない人が、「黒川創」とか「かもめの日」を検索して、たまたま隅っこのほうでひっかかる私の記事に行き当たるのだろうと思います。
で、気になったので、なにかほかに持っていなかったっけ、と本箱を探しても無いので、文春文庫で『明るい夜』が出ていたので買って読んでみました。
カバー返しにある説明によると、『かもめの日』より三年ほど前の作品で三島賞候補作だったようです。『かもめの日』のほうがずっと洗練されて、作品としては良くなっていると思いますが、この作品もいい作品でした。
ただ、この作品は私はまだよく分からなくて、ひどく読み違いしている可能性があります。もっとも、ほかの作品だって、いつも通勤の車中でたいていは一気に読んでしまって、読み返しもせずに印象を書き綴るだけの読書メモしか書いていないのですから、どうでもいいようなものですが、この作品については、独断と偏見ばかりの感想でさえちょっと書きにくいところがあります。
一番気になっているのは、客観的な風景描写や人物描写の部分です。京都に暮らす私のような人間には、日ごろ馴染んだ場所がふんだんに出てくるので、そういう意味では興味深く読めるのですが、この小説の中でこの種の描写がどういう意味をもつのかと考えると、よく分からないところがあります。
これは画学生がデッサンの練習に描くスケッチのように透明な文体で描かれた「写生」のように見えるのですが、なにかの象徴でもなく、隠喩でもなく、かといって映画のPOVショットのように登場人物の目を通して見た風景や人物という距離感も固有の歪みも持っていません。
風景は風景であって、前後の登場人物の行動や心理の磁場で必然的に固有の歪みを受けて見える風景というものではない。
そうすると、ふつうはこういう描写は、この作品に必要がないじゃないか、ということになるはずです。なにか作中の世界とは別の、作者の写生の意志のようなものを外部から持ち込むことになるので、作品としては割れてしまうような気がします。
しかし、もしこれを全部削ってしまうとすれば、とても曖昧模糊とした作品になってしまうような気も、一方ではします。そのへんが、まだよく分からないのです。
冒頭から登場するのは、「小説、書きたい」と言いながら「まだ、何か実際に書いていそうな様子は、まるでない」工藤くんについての話だし、主要登場人物である3人(工藤くん、わたし、女ともだちイズミちゃん)とも、それぞれ「まだ」踏み出していない人で、イズミちゃんの「失踪」もその「まだ」の領域から出ようとする途上なのでしょう。
「わたし」という語り手には性を感じません。女性の強さも弱さも匂いもなく(あるいは希薄で)、自分の考えを押し出すというふうでもありません。行動的なようにみえて、おおげさに言えば世界の受け止め方が受身な感じです。
そういうことを考え合わせると、彼女の出会う風景や人物に対する、あの透明な客観描写というのは、彼女の一種の空虚さに形を与えるもののような気がしてきます。受動的な姿勢で人や言葉や出来事やモノに遭遇して、これを見、語ることで対象を形作り、そうすることで「まだ」形にならないこちらの世界を形作ろうとしている、というふうに考えられないかな、と。
曖昧模糊として霧散してしまいそうな世界を現実につなぎとめようと、具体的な風景や人物の描写に固執する、決して上昇しようとしない意志、というふうなものが、この作品を抑制的な語り口にしているようにも思います。
巻頭に掲げられた「メアリー・シェリーの記憶による」サンチョ・パンサの「始まり」をめぐるエピグラムはシメでもう一度登場するけれど、これは「かもめの日」のテレシコワの「わたしはカモメ」と同様に、小さな作品の世界を大きな宇宙へ、いやこの作品で言えば、3人の若者の過ごした小さな時間を、時間の始原にさかのぼる大きな時間へとつなぐ奥行きを与えるものでしょう。ただ、それは「かもめの日」ほどにはうまくいっていないと感じますが。
ここまで書いてきても、この作品についてはずいぶん見当違いの読み方をしているかもしれないな、という気がしています。いずれ、この人の作品をもういくつか読んで、あらためてどんなことを感じるか、自分の印象が変わるのを楽しみにしていたいと思います。
他方で、カウントはごくわずかだけれど、ずっと以前から消えず、毎週何人かは見てくれる記事というのがあって、それが黒川創さんの『かもめの日』について書いた記事です。
それが前から気になっていて、私は彼のいい読者ではなくて、『かもめの日』がなにか受賞して、良い作品だという評判だったので読んでみたら、世評どおりの良い作品だった、というだけのことで、ちょっとした感想を書いただけでしたが、きっと黒川さんの作品には地味ながら根強いファンがいるのでしょう。
そうでなければ、こんなマイナーなブログで毎週必ず特定の記事に読者がつくということはないでしょう。私の知らない人が、「黒川創」とか「かもめの日」を検索して、たまたま隅っこのほうでひっかかる私の記事に行き当たるのだろうと思います。
で、気になったので、なにかほかに持っていなかったっけ、と本箱を探しても無いので、文春文庫で『明るい夜』が出ていたので買って読んでみました。
カバー返しにある説明によると、『かもめの日』より三年ほど前の作品で三島賞候補作だったようです。『かもめの日』のほうがずっと洗練されて、作品としては良くなっていると思いますが、この作品もいい作品でした。
ただ、この作品は私はまだよく分からなくて、ひどく読み違いしている可能性があります。もっとも、ほかの作品だって、いつも通勤の車中でたいていは一気に読んでしまって、読み返しもせずに印象を書き綴るだけの読書メモしか書いていないのですから、どうでもいいようなものですが、この作品については、独断と偏見ばかりの感想でさえちょっと書きにくいところがあります。
一番気になっているのは、客観的な風景描写や人物描写の部分です。京都に暮らす私のような人間には、日ごろ馴染んだ場所がふんだんに出てくるので、そういう意味では興味深く読めるのですが、この小説の中でこの種の描写がどういう意味をもつのかと考えると、よく分からないところがあります。
これは画学生がデッサンの練習に描くスケッチのように透明な文体で描かれた「写生」のように見えるのですが、なにかの象徴でもなく、隠喩でもなく、かといって映画のPOVショットのように登場人物の目を通して見た風景や人物という距離感も固有の歪みも持っていません。
風景は風景であって、前後の登場人物の行動や心理の磁場で必然的に固有の歪みを受けて見える風景というものではない。
そうすると、ふつうはこういう描写は、この作品に必要がないじゃないか、ということになるはずです。なにか作中の世界とは別の、作者の写生の意志のようなものを外部から持ち込むことになるので、作品としては割れてしまうような気がします。
しかし、もしこれを全部削ってしまうとすれば、とても曖昧模糊とした作品になってしまうような気も、一方ではします。そのへんが、まだよく分からないのです。
冒頭から登場するのは、「小説、書きたい」と言いながら「まだ、何か実際に書いていそうな様子は、まるでない」工藤くんについての話だし、主要登場人物である3人(工藤くん、わたし、女ともだちイズミちゃん)とも、それぞれ「まだ」踏み出していない人で、イズミちゃんの「失踪」もその「まだ」の領域から出ようとする途上なのでしょう。
「わたし」という語り手には性を感じません。女性の強さも弱さも匂いもなく(あるいは希薄で)、自分の考えを押し出すというふうでもありません。行動的なようにみえて、おおげさに言えば世界の受け止め方が受身な感じです。
そういうことを考え合わせると、彼女の出会う風景や人物に対する、あの透明な客観描写というのは、彼女の一種の空虚さに形を与えるもののような気がしてきます。受動的な姿勢で人や言葉や出来事やモノに遭遇して、これを見、語ることで対象を形作り、そうすることで「まだ」形にならないこちらの世界を形作ろうとしている、というふうに考えられないかな、と。
曖昧模糊として霧散してしまいそうな世界を現実につなぎとめようと、具体的な風景や人物の描写に固執する、決して上昇しようとしない意志、というふうなものが、この作品を抑制的な語り口にしているようにも思います。
巻頭に掲げられた「メアリー・シェリーの記憶による」サンチョ・パンサの「始まり」をめぐるエピグラムはシメでもう一度登場するけれど、これは「かもめの日」のテレシコワの「わたしはカモメ」と同様に、小さな作品の世界を大きな宇宙へ、いやこの作品で言えば、3人の若者の過ごした小さな時間を、時間の始原にさかのぼる大きな時間へとつなぐ奥行きを与えるものでしょう。ただ、それは「かもめの日」ほどにはうまくいっていないと感じますが。
ここまで書いてきても、この作品についてはずいぶん見当違いの読み方をしているかもしれないな、という気がしています。いずれ、この人の作品をもういくつか読んで、あらためてどんなことを感じるか、自分の印象が変わるのを楽しみにしていたいと思います。
at 22:52|Permalink│
2009年02月26日
「薯童謡(ソドンヨ)」
韓流ドラマでは、メロドラマの「冬のソナタ」が好きで、本当によくできた、みごとなメロドラマだと思い、このときのチェ・ジウはほんとに可憐で素敵だと思うけれど、ドラマとして一層感心したのは「チャングムの誓い」。
宮廷の伝統的な料理人の世界を非常に具体的に見せてくれて、人間ドラマ、恋愛ドラマとしての面白さだけでなく、NHKの大河ドラマなどでおなじみの歴史物であっても、今までに見たことの無い新鮮な素材面の面白さで毎回見入ってしまいました。
でも、今回の「ソドンヨ」は「チャングム」を越える抜群の面白さ。最初の放映のときは見損ねているので、友人のDVDを借りて、ここ何週間かの深夜時間の大半を費やして〈笑)、パートナーとほぼ全話(55話のようです)見終わったところです。とにかく一つ見終わると、どうしようもなく「次」が見たくなって、「もう4時〈朝の)だから、なんぼなんでも、寝ないと・・・」と自制心(?)を働かせて打ち切るのが実に辛かった!おかげで、すっかり睡眠不足です。
歴史物のドラマとしてまさに「劇的」な、起伏に富んだストーリーそのものが抜群に面白くて、それも単純なものではなくて、ひとつひとつに裏があり、奥があり、大小さまざまなドンデン返しがあり、息つく暇も無いテンポのよさと相俟って、どの回も退屈させることがありません。
登場人物の描き方がまた素晴らしくて、悪玉のほうも、なぜ彼や彼女がそういう考え方をし、そういう立場に追い込まれていったかが、実に説得的に描かれていきます。だから、最大の悪役であるサテッキルや、プヨソン(法王)、ウヨンなどにも最後は哀れに思えて深く同情したくなります。実際、善玉悪玉に関わらず、主要人物の誰一人としていい加減に描かれている者はいません。
よく時代物のドラマを見ていると、悪玉が善玉に出し抜かれるような場面で、そんなアホな!誰だってそんなこと気づくはずじゃないの、と思うようなことがありますが、この作品での悪役はみんな賢い(笑)から、そんなアホなことはありません。とことん裏を読んで、しばしば善玉の裏をかいて、主人公たちを窮地に陥れます。
そして、こんなどん詰まりに見える危機をヒーローたちはどう打開できるんだろう?と思っていると、ちゃんと打開します。しかもそれがそんなにご都合主義で白馬の騎士が現われるというようなやり方じゃなくて、なるほど、と納得のできるようなやり方で。そのための伏線が実に巧みに張ってあります。
チャングムと同じ監督、同じ脚本家だそうで、さもありなん。いくらなんでもこんなすごい脚本を書ける人がそう何人もいてはたまりません。
俳優もすごい。みんな実にいい顔をしています。ソンファ姫のイ・ボヨンなどは本当に美しいけれども、美男美女という表面だけじゃなく、少なくとも主要人物はすべて、知性を備え、深い感情を湛えた、実にいい顔をしています。
これだけの「顔」はいまの日本ではちょっと揃えられないな、と思わずにいられません。
演技がまた巧い。サテッキルなんかでも、プヨソンに忠誠を誓って諫言するところなどは素晴らしいし、それを見ていたチャンが、敵ながら、彼の姿に打たれる、というシーンも素敵です。〈最後に近づいて、彼が追い詰められていく過程での演技は本当に素晴らしい。)
残虐な覇王ブヨソンも、捕らえたチャンとモンナス博士をすぐ殺すよう進言するサテッキルの言葉に迷いながらも、剣をもって二人の前に出てしゃがんで言います。「自分は王になるまでは、王になるために何でもやってきたし、そのために民を殺すこともなんとも思わなかった。しかし王になってみると、民に好かれて名君と言われたくなった。これはサテッキルには分からない。」そういう意味のことを言います。これなども、それまでのブヨソンを見ていると、王位を簒奪してからの彼の心の変化が実に巧みに表現されていて、感心します。
「おれはお前たちを殺したい。しかし殺せば不寛容な王として民には愛されない。これが俺の矛盾だ」、と。「これを解決する方法が分かるか。お前たちは助かりたいのだろう」、と呼びかけます。
もう一つ、チャンに惚れたために、あるときは苛酷な敵でありながら、あるときはチャンの命を救うことになるウヨンが、最後の最後に、王となって貴族の圧迫に苦しむチャンを救う結果になります。
これに対してチャンが感謝し、ウヨンの愛にこたえることはできないが、父王から伝えられた四番目の王子の大切な印をウヨンに与えようとします。
しかし、ウヨンは、「この世ではソンファ姫がいるから受け取れません。来世では一緒になってください、もし来世がダメならその次の世で、その次の世でダメならまたその次の世で・・」と泣けるセリフを言って背を向けて去ります。
普通のドラマだとこの名セリフで泣かせて、このシーンを終わりますよね。ところがところが、このドラマでは、そのあと去っていくウヨンの姿を映しながら、ウヨンの胸中のつぶやきを入れます。「王様〈チャン〉は私の気持ちがわかっていらっしゃらない。その四番目の王子の印には、私(ウヨン)の真心が入っているから、あなたに持っていてほしいのです」、と。
この王子の印が正当な王位継承者であることの唯一の証拠なので、きわめて重要なもので、これがブヨソンに奪われていたのを、決定的な場面で寝返ったウヨンがチャンのために命がけで持ち出します。そのことを言っているのですね。だから、これを自分の大切なものだからあげようというのは、まだチャンが私・ウヨンの女心をわかっていないんだ、と。
ここまで詰められると、ドラマを見ていてほとほと感心してしまいます。こういう場面がいたるところにあるのですね。
この種のドラマとしての巧さは、ほとんど脚本の抜群のうまさによるものだろうと思います。複雑に入り組んだ登場人物の間の人間的な愛憎の物語という一つの軸はこうして、まことにみごとなものです。
さらに、これは幾分かは史実を下敷きにしているのでしょうが、政治ドラマとしての太い軸を持っています。王と貴族の関係、貴族どうしの関係、百済と新羅との関係等々の核心にある政治劇としての面がきちんと描かれています。貴族たちの利害と思惑、これと王との協力関係(均衡)と緊張関係が宮廷劇として実に巧みに、リアルに描かれているのも一段と興味を深めるところです。
悪役が様々な陰謀をめぐらせることは当然ですが、善玉のほうも、実に様々な陰謀をめぐらせて戦います。決して綺麗サッパリご清潔、というような善玉たちではありません。一人一人が実に「政治的」に物事を考え、行動します。
こういうのを見ると半島の民だなぁ、と思います。古代からの最強国中国と陸続きで、いつでも根こそぎやられる危険と隣り合わせの半島の人々が、否応なく身につけた政治性。このドラマを見るだけで、われわれ日本人はこの政治性という点ではまったく彼らの敵ではない、赤子みたいなものだな、と嘆息せざるを得ません。
さらに、これは政治のドラマだけではなく、技術史のドラマというもう一本の重要な柱があります。ヒーローが預けられるのがモンナス博士。アメリカのシンクタンク・ランドコーポレーションみたいに、科学技術的な研究を踏まえた技術開発もし、かつ政治・社会制度を改革し、国の方向性を決めていく国策立案も合わせ行う、ポリシー・オリエンテッド(政策志向型)の研究機関〈「大学」)です。
ここでヒーローは様々なことを学び、かつ庶民として育ってきた柔らかな頭脳で次々に新しい技術を生み出します。鎧をも切れる剣を、きつつきが硬い木に穴をあけるのを見て思いつき、病気に苦しむ庶民を助けようとしてオンドルを発明します。このへんはチャングムの食材と調理についての薀蓄と同様、技術開発のエピソードをうまくドラマのストーリーの中に取り込んでいて、丁寧に描いているので、知識としても無知な私たちにはとても興味深い。
百済の歴史全般についても、こちらは全く無知なので、このドラマがどの程度史実にもとづいているのか、殆どまるごとフィクションなのか分かりませんが、史実であろうがフィクションであろうが、ここに朝鮮民族のなにか基本的な性格〈文化とか精神風土とか社会的な基盤のようなもの)がちゃんと表現されていることは確かだろうと思えます。それだけの奥行きとリアリティをもってドラマが作られています。
「ほとんど見終わった」と最初に書いたのは、前半の途中幾話かをまだ見損なっているからで、まだ少し楽しみにとってあります。
こういうTVドラマを見せられると、NHKの大河ドラマもぜんぜん影が薄いなぁと感じざるを得ません。
宮廷の伝統的な料理人の世界を非常に具体的に見せてくれて、人間ドラマ、恋愛ドラマとしての面白さだけでなく、NHKの大河ドラマなどでおなじみの歴史物であっても、今までに見たことの無い新鮮な素材面の面白さで毎回見入ってしまいました。
でも、今回の「ソドンヨ」は「チャングム」を越える抜群の面白さ。最初の放映のときは見損ねているので、友人のDVDを借りて、ここ何週間かの深夜時間の大半を費やして〈笑)、パートナーとほぼ全話(55話のようです)見終わったところです。とにかく一つ見終わると、どうしようもなく「次」が見たくなって、「もう4時〈朝の)だから、なんぼなんでも、寝ないと・・・」と自制心(?)を働かせて打ち切るのが実に辛かった!おかげで、すっかり睡眠不足です。
歴史物のドラマとしてまさに「劇的」な、起伏に富んだストーリーそのものが抜群に面白くて、それも単純なものではなくて、ひとつひとつに裏があり、奥があり、大小さまざまなドンデン返しがあり、息つく暇も無いテンポのよさと相俟って、どの回も退屈させることがありません。
登場人物の描き方がまた素晴らしくて、悪玉のほうも、なぜ彼や彼女がそういう考え方をし、そういう立場に追い込まれていったかが、実に説得的に描かれていきます。だから、最大の悪役であるサテッキルや、プヨソン(法王)、ウヨンなどにも最後は哀れに思えて深く同情したくなります。実際、善玉悪玉に関わらず、主要人物の誰一人としていい加減に描かれている者はいません。
よく時代物のドラマを見ていると、悪玉が善玉に出し抜かれるような場面で、そんなアホな!誰だってそんなこと気づくはずじゃないの、と思うようなことがありますが、この作品での悪役はみんな賢い(笑)から、そんなアホなことはありません。とことん裏を読んで、しばしば善玉の裏をかいて、主人公たちを窮地に陥れます。
そして、こんなどん詰まりに見える危機をヒーローたちはどう打開できるんだろう?と思っていると、ちゃんと打開します。しかもそれがそんなにご都合主義で白馬の騎士が現われるというようなやり方じゃなくて、なるほど、と納得のできるようなやり方で。そのための伏線が実に巧みに張ってあります。
チャングムと同じ監督、同じ脚本家だそうで、さもありなん。いくらなんでもこんなすごい脚本を書ける人がそう何人もいてはたまりません。
俳優もすごい。みんな実にいい顔をしています。ソンファ姫のイ・ボヨンなどは本当に美しいけれども、美男美女という表面だけじゃなく、少なくとも主要人物はすべて、知性を備え、深い感情を湛えた、実にいい顔をしています。
これだけの「顔」はいまの日本ではちょっと揃えられないな、と思わずにいられません。
演技がまた巧い。サテッキルなんかでも、プヨソンに忠誠を誓って諫言するところなどは素晴らしいし、それを見ていたチャンが、敵ながら、彼の姿に打たれる、というシーンも素敵です。〈最後に近づいて、彼が追い詰められていく過程での演技は本当に素晴らしい。)
残虐な覇王ブヨソンも、捕らえたチャンとモンナス博士をすぐ殺すよう進言するサテッキルの言葉に迷いながらも、剣をもって二人の前に出てしゃがんで言います。「自分は王になるまでは、王になるために何でもやってきたし、そのために民を殺すこともなんとも思わなかった。しかし王になってみると、民に好かれて名君と言われたくなった。これはサテッキルには分からない。」そういう意味のことを言います。これなども、それまでのブヨソンを見ていると、王位を簒奪してからの彼の心の変化が実に巧みに表現されていて、感心します。
「おれはお前たちを殺したい。しかし殺せば不寛容な王として民には愛されない。これが俺の矛盾だ」、と。「これを解決する方法が分かるか。お前たちは助かりたいのだろう」、と呼びかけます。
もう一つ、チャンに惚れたために、あるときは苛酷な敵でありながら、あるときはチャンの命を救うことになるウヨンが、最後の最後に、王となって貴族の圧迫に苦しむチャンを救う結果になります。
これに対してチャンが感謝し、ウヨンの愛にこたえることはできないが、父王から伝えられた四番目の王子の大切な印をウヨンに与えようとします。
しかし、ウヨンは、「この世ではソンファ姫がいるから受け取れません。来世では一緒になってください、もし来世がダメならその次の世で、その次の世でダメならまたその次の世で・・」と泣けるセリフを言って背を向けて去ります。
普通のドラマだとこの名セリフで泣かせて、このシーンを終わりますよね。ところがところが、このドラマでは、そのあと去っていくウヨンの姿を映しながら、ウヨンの胸中のつぶやきを入れます。「王様〈チャン〉は私の気持ちがわかっていらっしゃらない。その四番目の王子の印には、私(ウヨン)の真心が入っているから、あなたに持っていてほしいのです」、と。
この王子の印が正当な王位継承者であることの唯一の証拠なので、きわめて重要なもので、これがブヨソンに奪われていたのを、決定的な場面で寝返ったウヨンがチャンのために命がけで持ち出します。そのことを言っているのですね。だから、これを自分の大切なものだからあげようというのは、まだチャンが私・ウヨンの女心をわかっていないんだ、と。
ここまで詰められると、ドラマを見ていてほとほと感心してしまいます。こういう場面がいたるところにあるのですね。
この種のドラマとしての巧さは、ほとんど脚本の抜群のうまさによるものだろうと思います。複雑に入り組んだ登場人物の間の人間的な愛憎の物語という一つの軸はこうして、まことにみごとなものです。
さらに、これは幾分かは史実を下敷きにしているのでしょうが、政治ドラマとしての太い軸を持っています。王と貴族の関係、貴族どうしの関係、百済と新羅との関係等々の核心にある政治劇としての面がきちんと描かれています。貴族たちの利害と思惑、これと王との協力関係(均衡)と緊張関係が宮廷劇として実に巧みに、リアルに描かれているのも一段と興味を深めるところです。
悪役が様々な陰謀をめぐらせることは当然ですが、善玉のほうも、実に様々な陰謀をめぐらせて戦います。決して綺麗サッパリご清潔、というような善玉たちではありません。一人一人が実に「政治的」に物事を考え、行動します。
こういうのを見ると半島の民だなぁ、と思います。古代からの最強国中国と陸続きで、いつでも根こそぎやられる危険と隣り合わせの半島の人々が、否応なく身につけた政治性。このドラマを見るだけで、われわれ日本人はこの政治性という点ではまったく彼らの敵ではない、赤子みたいなものだな、と嘆息せざるを得ません。
さらに、これは政治のドラマだけではなく、技術史のドラマというもう一本の重要な柱があります。ヒーローが預けられるのがモンナス博士。アメリカのシンクタンク・ランドコーポレーションみたいに、科学技術的な研究を踏まえた技術開発もし、かつ政治・社会制度を改革し、国の方向性を決めていく国策立案も合わせ行う、ポリシー・オリエンテッド(政策志向型)の研究機関〈「大学」)です。
ここでヒーローは様々なことを学び、かつ庶民として育ってきた柔らかな頭脳で次々に新しい技術を生み出します。鎧をも切れる剣を、きつつきが硬い木に穴をあけるのを見て思いつき、病気に苦しむ庶民を助けようとしてオンドルを発明します。このへんはチャングムの食材と調理についての薀蓄と同様、技術開発のエピソードをうまくドラマのストーリーの中に取り込んでいて、丁寧に描いているので、知識としても無知な私たちにはとても興味深い。
百済の歴史全般についても、こちらは全く無知なので、このドラマがどの程度史実にもとづいているのか、殆どまるごとフィクションなのか分かりませんが、史実であろうがフィクションであろうが、ここに朝鮮民族のなにか基本的な性格〈文化とか精神風土とか社会的な基盤のようなもの)がちゃんと表現されていることは確かだろうと思えます。それだけの奥行きとリアリティをもってドラマが作られています。
「ほとんど見終わった」と最初に書いたのは、前半の途中幾話かをまだ見損なっているからで、まだ少し楽しみにとってあります。
こういうTVドラマを見せられると、NHKの大河ドラマもぜんぜん影が薄いなぁと感じざるを得ません。
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2009年02月25日
「チェンジリング」(クリント・イーストウッド・監督)
「チェンジリング」changelingというのは、「妖精が子供をさらい、代りに残す醜い取替えっ子」(Genius英和)だそうです。封切間もない映画で、ネタバレになるので、全体像に触れるのはやめますが、これ実話で、映画のストーリーは知らなかったけれど、こういう事件が実際にあって、ハッピーエンドにならないことはあらかじめ知っていたので、ハッピーエンドじゃない映画の苦手な私としては、最初から気が重かったのですが、俳優としてはそんなに好きじゃなかったのに、監督をやり出してから佳作を連発しているクリント・イーストウッドの作品というので、観にいきました。
案の定、暗澹たる思いで帰宅することになりましたが・・。といっても、映画的には希望の灯火をみせて終わっています。身も心も凍りつく暗闇を彷徨って、もうそのまま行き倒れてしまうかというときに、遠い遠いところにかすかな灯りらしきものを見る、といった程度の「希望」ですけれど・・。
とはいえ、作品そのもののメッセージは、そういう結果がどうこうという話ではなくて、ヒロインの闘う姿そのものが人間にとっての希望だということでしょうから、たとえ「事実」としての結果がどうあれ、映画的真実としてはこれは重い重いハッピーエンドなのだ、と言うべきなのでしょう。
それにしても、母親クリスティン・コリンズを演じるアンジェリーナ・ジョリーの迫真の演技に脱帽。まさに名演。それだけ言えばもう十分という気がする映画です。
彼女の敵はこのドラマではロス市警の腐敗ですが、ほんの少し不満を言えば、その腐敗を描く上で、少しジョーンズ警部という特定の人物の強いキャラクターが前面に出すぎているのではないか、という点です。カフカの掟の門の番人ではないけれど、組織悪であれ何であれ、具体的にはこういう個人のキャラクターの欠陥のような見せ掛けで現われざるをえない、ということは事実ですが、掟の門の番人は、もっと淡々としてどこにでもいる、忠実に自分の務めを果たしているだけの平凡な人物だったと思います。
そういうふうであればあるほど、特定の「悪役」ではなくて、みえない「掟」そのものが鮮やかに浮かび上がってくる。
もちろん警察本部長とか市長とか、そういう意味では組織悪を示す符牒はちゃんと出てくるのですが、そのへんは、そこいらの善玉悪玉の刑事ものと変わりません。
でも精神病院内でのできごとなどは、なかなか迫力があって、ぞっとしました。権力に逆らう、ということを若いときは理想主義的にカッコよくイメージしがちですが、「それでもボクはやってない」でもそうでしたが、この映画のこのシーンなど見ると、個人の抵抗などというのが全く権力機構の前では無力で、どう抗弁しようと、いったん狙いをつけられたら、どうもがいても逃れられないところへ追い込まれていく、ということが、恐ろしいまでの迫真的な説得力をもって描かれていて、本当に脊髄まで寒くなります。
作品全体としてはそれでも闘う個人を助ける人々が現われ、強い意志を貫いて戦い通す、ありふれた母親のつよさ、それを支える人々の善意、人間の崇高さを描いているのですが、その「希望」の価値を高めるために描かれる試練のほうがリアルすぎて、そちらのほうが強烈な恐怖の体験のように心に刻まれてしまうところがあります。それがこの映画の、「魅力」などというのでは表現できそうもない、強さ、怖さ、なのでしょう。
あと、一番衝撃的な映像だったのは、鶏小屋のシーンでした。まさに鶏を絞めにいく料理人が逃げ惑う鶏を追い、その首根っこをつかまえてバタバタ騒ぐ鶏の首を斧で切り落とす、そういうシーンです。この場面一つで、私はしばらく悪夢を見そうです。
案の定、暗澹たる思いで帰宅することになりましたが・・。といっても、映画的には希望の灯火をみせて終わっています。身も心も凍りつく暗闇を彷徨って、もうそのまま行き倒れてしまうかというときに、遠い遠いところにかすかな灯りらしきものを見る、といった程度の「希望」ですけれど・・。
とはいえ、作品そのもののメッセージは、そういう結果がどうこうという話ではなくて、ヒロインの闘う姿そのものが人間にとっての希望だということでしょうから、たとえ「事実」としての結果がどうあれ、映画的真実としてはこれは重い重いハッピーエンドなのだ、と言うべきなのでしょう。
それにしても、母親クリスティン・コリンズを演じるアンジェリーナ・ジョリーの迫真の演技に脱帽。まさに名演。それだけ言えばもう十分という気がする映画です。
彼女の敵はこのドラマではロス市警の腐敗ですが、ほんの少し不満を言えば、その腐敗を描く上で、少しジョーンズ警部という特定の人物の強いキャラクターが前面に出すぎているのではないか、という点です。カフカの掟の門の番人ではないけれど、組織悪であれ何であれ、具体的にはこういう個人のキャラクターの欠陥のような見せ掛けで現われざるをえない、ということは事実ですが、掟の門の番人は、もっと淡々としてどこにでもいる、忠実に自分の務めを果たしているだけの平凡な人物だったと思います。
そういうふうであればあるほど、特定の「悪役」ではなくて、みえない「掟」そのものが鮮やかに浮かび上がってくる。
もちろん警察本部長とか市長とか、そういう意味では組織悪を示す符牒はちゃんと出てくるのですが、そのへんは、そこいらの善玉悪玉の刑事ものと変わりません。
でも精神病院内でのできごとなどは、なかなか迫力があって、ぞっとしました。権力に逆らう、ということを若いときは理想主義的にカッコよくイメージしがちですが、「それでもボクはやってない」でもそうでしたが、この映画のこのシーンなど見ると、個人の抵抗などというのが全く権力機構の前では無力で、どう抗弁しようと、いったん狙いをつけられたら、どうもがいても逃れられないところへ追い込まれていく、ということが、恐ろしいまでの迫真的な説得力をもって描かれていて、本当に脊髄まで寒くなります。
作品全体としてはそれでも闘う個人を助ける人々が現われ、強い意志を貫いて戦い通す、ありふれた母親のつよさ、それを支える人々の善意、人間の崇高さを描いているのですが、その「希望」の価値を高めるために描かれる試練のほうがリアルすぎて、そちらのほうが強烈な恐怖の体験のように心に刻まれてしまうところがあります。それがこの映画の、「魅力」などというのでは表現できそうもない、強さ、怖さ、なのでしょう。
あと、一番衝撃的な映像だったのは、鶏小屋のシーンでした。まさに鶏を絞めにいく料理人が逃げ惑う鶏を追い、その首根っこをつかまえてバタバタ騒ぐ鶏の首を斧で切り落とす、そういうシーンです。この場面一つで、私はしばらく悪夢を見そうです。
at 15:49|Permalink│
2009年02月24日
「おくりびと」(滝田洋二郎・監督)
梅田ピカデリーは交差点の郵政互助会ビルというおんぼろの建物の中にあって、エレベーターを降りると本当に狭苦しい空間で、現在までの映画業界の衰徴のような映画館だけれど、一昨日は昼間というのに、次の上映を待つ客でその狭いロビーは満員御礼の盛況でした。
その中で、ロビーの「おくりびと」のポスターに、スタッフが、アカデミー賞外国語映画部門の「受賞」を朱書きしたラベルを貼るところを読売新聞社のカメラマンが撮っているのに出くわしました。どうやら、ノミネートだけでなく、ほんとうに受賞したようです。
それで観にいったわけではないけれど、封切すぐに見過ごしたらなかなか行く機会がなくて、周囲の人たちの評価が珍しく割れていたので、そろそろ上映打ち切りになるだろうと思い、自分の目で確かめてみたいと思って足を運んだ次第。
気乗り薄であったことは事実です。「お葬式」だって伊丹十三が撮ったから観たようなもので、タイトルを聴いただけで、意欲が半ば失せる。何を狙ってこの種の映画をつくるかが分かるような気がしないでしょうか。
時間帯が時間帯だけに、館内はお年寄り〈私もですが・・アハ)とオバサマ方ばかり。ロビーはネコの額ほどですが、館内は思ったより広く、おまけに平日の昼間だというのに(受賞を聞いてすぐに足を運んだのかな?)客席がほぼ埋まっている(ことはありえないにせよ)かにみえるほど、しっかり入っています。
肝心の映画ですが、長男は「退屈だった」と酷評していたようですが、私は予想以上に良いところがあったので、そこそこ満足して帰りました。
本木雅弘はこういう基本的に生真面目さとコミカルな味と、何よりも清潔感がなくてはならない役にぴったりだったし、山崎努はいつもの、と言っていい彼らしい安定した演技で、表情一つ変えずに腐乱死体を作法どおり扱うベテラン納棺士として「静」を演じれば、モッくんがこれと対蹠的に、色々な意味で揺らぐ(「動」揺する)「動」を演じて、いいコンビネーションです。
脇役の余貴美子や吉行和子、笹野高史らも安心して観ていられる役者さんなので、このへんまでは役者の布陣も悪くありません。あとの葬儀参列者等々のキャストが、あまりいい顔をしていないのが残念な気はしましたが。
一番良かったのは、遺体の衣服を遺族や弔問客の目に触れさせずに、しかも目の前で鮮やかに脱がせてすっと抜き取る一連のワザ。この手品師のような手つきは実に鮮かで美しい。
本木演じる若い納棺士がもとチェロ演奏者で、全編にチェロの音が伏流水のように流れては、時折、おもてに顕われてきます。これは、作中の妻(広末涼子)が夫にこの仕事をやめて、というときについ口走る「穢れ」(拒否する妻を抱きとめようとする夫に「けがらわしい!」と叫ぶ)をいわば「清める」役割を果たしていて、全編の清潔感を高めるのに効果的に使われています。
広末の妻は・・こんなパートナーがいたらいいなぁ、素直で明るくて可愛くて、旦那が何もせずにいても厭な顔一つせずに家事を全部やってくれて、夫が千ン百万円だかのチェロを勝手に買ってもすぐに追認してくれるほど理解があって夫を愛してくれていて・・と既婚男性観客のほとんどが羨望の念を持って見ていたんじゃないでしょうか(笑・・これ、パートナーにはナイショです)。
でも、どうもおかしい。新婚さんでもないのに、こんなパーフェクトな(男性に都合のいい)奥さんなんていねぇよなぁ、と薄々感じますね。すると、たぶん物語の展開上こうなっているんで、このあと逆転するんだろうな、と誰だって予感します。そして一旦裏返るけれども、再度裏返って、結局は元の鞘に収まることでメデタシメデタシっていうのが、この映画のサブストリームをつくる夫婦のラブストーリーなんだろう、と簡単に推測できちゃいます。
アカデミー賞にノミネートされたらしい、という以外は何の予備知識もなしに観に行ったのですが、観ていてあまりにも途中で予感した通りになったので、かえってがっかりしてしまいました。
また、もう一つのサブストリームをつくる主人公を幼いころに捨てていった(と主人公が思っている)父親との父子関係の浪花節ストーリーも、モッくんがやたら反撥を口に出して耳障りだな、と思っているところへ、河原で拾った小石を交換した思い出シーンが出てくると、あ、これがあとで、和解の小道具に使われるんだろうな、と誰にだってすぐ分かってしまいます。
つまり、この映画、ほとんど先が見えてしまうところが、私には物足りませんでした。
そもそも、葬儀という形骸化した習俗に、生のほうから光をあてて、旅立ち」を見送ることが本来持っていた意味を喚起し、そこから逆に平凡な私たち一人一人の生そのものの尊さや私たちが粗末に扱っているささやかな人間関係の貴重さを浮かび上がらせる、というこの作品のメインストリームの手つき自体が、ほとんどタイトルを聴くだけで予想がついてしまって、終始そのフレームからはみ出すころがありません。
だからこそ、作品としてまとまりがよく、わかりやすく、最大公約数的な観客の素直な共感を呼ぶところがあるのかもしれません。
先に書いたような、遺体の着替えのような美しい沈黙のシーンだけが連なっていたら随分印象は違ったでしょうが、達者な脇役陣が、上記のようなメインストリームに沿った人生訓みたいなことをわざわざ口頭で「説明」してくれるので、少々鼻白むところがあります。そういう意味でもイマドキの映画らしい「分かりやすい」映画です。
たしかに納棺にせよ葬儀にせよ、習俗として私たちが伝えられた形のままにその意味合いをとりたてて意識せず、無難にやり過ごしていることの中に、人間の生き死に全体に関わる重い実質がある、ということはこの映画のメッセージの通りでしょう。
私たちはふだんそういう重い実質を忘れている、いや、「忘れていたい」のかもしれません。私たち自身が、それを忘れていた、いや「忘れていたがっていた」のだな、ということを思い出させる・・・この手の主題を扱えば、ほとんど自動的にそういうことになるでしょう。タイトルを聴いただけで、あまり気乗りがしなかったのは、こういうところに理由があるような気がします。
伊丹十三の「お葬式」は、わたしたちが無意識に従ってきたこの種の「厳粛な」、しかし実際には形骸化した儀式、いまだに私たちが従っている習俗を冷笑してみせました。
弔いという「死」を遇する局面に「生」をではなく「性」を重ねて、私たち現代人がその形式化した儀式を大真面目に執り行う姿を冷笑し挑発するスタイルが好きなわけではなくて、どちらかといえば伊東四朗と三宅裕司がかつて見せてくれたような(葬儀屋が遺族と言葉を交わしながら、ひとこと発するたびにその音で始まる歌謡を歌いだしてしまう)、笑いへとずらせてみせるスタイルを私自身は好みますが、伊丹の作品にはそれなりの強いインパクトがありました。
しかし、「おくりびと」はそれとは対蹠的で、ずっと穏やかで、観客の保守的な感性に訴えかけてくれます。
納棺という「厳粛な」儀式に、人の生き死にへの思いを重ねることによって息を吹き込みました。見方によっては、形骸化した習俗の制度を感傷で埋めることに成功したとも言えるでしょう。
「お葬式」と比較して観れば、浪花節や演歌に涙する日本的で保守的な感性を武器にしていることが一層クリアになるでしょう。繰り返し登場する北国の美しい自然やチェロの音は、そうした感性をかきたてる昔から使われてきた常套手段でした。
この映画が、欧米で高い評価を受ける理由もよくわかるような気がします。
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2009年02月21日
『アレグリアとは仕事はできない』(津村記久子・著)
「アレグリアとは仕事はできない」と「地下鉄の叙事詩」の二編を収録した単行本。
どちらもなかなか面白かった。いずれも、この作品と前後して書かれたのだろう「カソウスキ・・」や「ポトスライム・・」と同様、作者と等身大の、企業の正社員の中では一番しわ寄せのくるいわば「最下層」OLや、彼女が触れ合う人の目で、彼らが生きる身近な世界を描いている。
といっても、写実的に日常世界をスケッチしました、というふうにではなく、それぞれの登場人物である見る者の感情を含んだ視線で見ているために、対象に過剰に近づいたり過剰に距離をとるような歪んだ鏡に映る像になっている。
地べたにはりついて触角に触れたものだけをとらえる蟻のような視点で、その視覚は感情を孕んで触覚化されていて、なめくじが触角を伸ばしたり引っ込めたりするように妙に生々しく、見られる対象になめくじが這ったあとのような気色のわるい跡をつけていく。
そんな視線でとらえているのは、ふつうの視覚で見れば平々凡々たる日常世界の一コマでしかないが、この作品の視点をくぐれば、実に奇妙で腹立たしくも見えてくるような、息苦しい既成の構造の中で、ふてぶてしく、あるいはオトオドと、あるいは鈍感に生きている身近な人間たちの卑小ではあるけれどそれぞれに懸命な姿だ。
「地下鉄・・」では地下鉄の乗客やできごとの起きる状況が複数の乗客の視点でとらえられ、途中までは、古い話になるが丹羽文雄の『小説作法』で「観察」と「写生」が大事と教わった作家志望の文学少女が、地下鉄車内で乗客をあれこれ観察しては文章で写生の試みをしている、エチュードのような感じだった。(デザイナーの粟津潔が若い頃、山手線に乗って、終日、前の席に坐る乗客をスケッチしてデッサンの練習をした、というふうな話を川添登から聞いたことがあるが、あれの文学少女版かな、と思った。)
しかし、痴漢が登場してクライマックスにいたる後半は調子が出てきて、作品として読めるようになっている。
「アレグリア・・」のほうは、「怠惰」で男にだけ媚を売り、女子社員をなめてかかる、性悪女みたいなコピー機相手に悪戦苦闘する最下層OLの話(というのも乱暴な要約だけど・・笑)で、コピー機相手に仕事をしている人なら誰でも似たような気分になったことはあるだろう、と思えるようなエピソードとそのときに感じることをフィクショナルに拡大してみせてくれる。
だれでもが思い当たるし、それを拡大鏡で見せられると、ユーモラスでもあり、同時にそこに含まれる悲哀も拡大され、マシンとの人間的な、あまりに人間的なやりとりに、たとえば主人公や「先輩」と周囲の同僚や業者との人間関係、というよりその全体が嵌め込まれ、私たちがそのような貧しい関係性の中に追い込まれている、いや追い込んでいる当のもの、つづめて言えば私たちが生きるこの社会の理不尽な既成の構造が映し出されてくるのがわかる。
ただ、コピー機の擬人化はあまりにも誰にでも生じるありふれた感覚であるために、この仕掛けを拡張・深化させることで、私たちが追い込められている世界の卑小さ、その中で或る意味でけなげに、或る意味でしたたかに生きる現代の最下層労働者OLの触覚的視覚を通じて既成の構造を撃つのは容易ではなさそうだ。
そこそこ読ませ、面白いと思うけれど、読み終わって深い悲哀に貫かれることもなければ、哄笑してページを閉じるでもないのは、〈前に触れたように、横光利一の「機械」と比較するのは気の毒かもしれないけれど)この歪んだ鏡の歪みようが中途半端だからではないかという気がした。
どちらもなかなか面白かった。いずれも、この作品と前後して書かれたのだろう「カソウスキ・・」や「ポトスライム・・」と同様、作者と等身大の、企業の正社員の中では一番しわ寄せのくるいわば「最下層」OLや、彼女が触れ合う人の目で、彼らが生きる身近な世界を描いている。
といっても、写実的に日常世界をスケッチしました、というふうにではなく、それぞれの登場人物である見る者の感情を含んだ視線で見ているために、対象に過剰に近づいたり過剰に距離をとるような歪んだ鏡に映る像になっている。
地べたにはりついて触角に触れたものだけをとらえる蟻のような視点で、その視覚は感情を孕んで触覚化されていて、なめくじが触角を伸ばしたり引っ込めたりするように妙に生々しく、見られる対象になめくじが這ったあとのような気色のわるい跡をつけていく。
そんな視線でとらえているのは、ふつうの視覚で見れば平々凡々たる日常世界の一コマでしかないが、この作品の視点をくぐれば、実に奇妙で腹立たしくも見えてくるような、息苦しい既成の構造の中で、ふてぶてしく、あるいはオトオドと、あるいは鈍感に生きている身近な人間たちの卑小ではあるけれどそれぞれに懸命な姿だ。
「地下鉄・・」では地下鉄の乗客やできごとの起きる状況が複数の乗客の視点でとらえられ、途中までは、古い話になるが丹羽文雄の『小説作法』で「観察」と「写生」が大事と教わった作家志望の文学少女が、地下鉄車内で乗客をあれこれ観察しては文章で写生の試みをしている、エチュードのような感じだった。(デザイナーの粟津潔が若い頃、山手線に乗って、終日、前の席に坐る乗客をスケッチしてデッサンの練習をした、というふうな話を川添登から聞いたことがあるが、あれの文学少女版かな、と思った。)
しかし、痴漢が登場してクライマックスにいたる後半は調子が出てきて、作品として読めるようになっている。
「アレグリア・・」のほうは、「怠惰」で男にだけ媚を売り、女子社員をなめてかかる、性悪女みたいなコピー機相手に悪戦苦闘する最下層OLの話(というのも乱暴な要約だけど・・笑)で、コピー機相手に仕事をしている人なら誰でも似たような気分になったことはあるだろう、と思えるようなエピソードとそのときに感じることをフィクショナルに拡大してみせてくれる。
だれでもが思い当たるし、それを拡大鏡で見せられると、ユーモラスでもあり、同時にそこに含まれる悲哀も拡大され、マシンとの人間的な、あまりに人間的なやりとりに、たとえば主人公や「先輩」と周囲の同僚や業者との人間関係、というよりその全体が嵌め込まれ、私たちがそのような貧しい関係性の中に追い込まれている、いや追い込んでいる当のもの、つづめて言えば私たちが生きるこの社会の理不尽な既成の構造が映し出されてくるのがわかる。
ただ、コピー機の擬人化はあまりにも誰にでも生じるありふれた感覚であるために、この仕掛けを拡張・深化させることで、私たちが追い込められている世界の卑小さ、その中で或る意味でけなげに、或る意味でしたたかに生きる現代の最下層労働者OLの触覚的視覚を通じて既成の構造を撃つのは容易ではなさそうだ。
そこそこ読ませ、面白いと思うけれど、読み終わって深い悲哀に貫かれることもなければ、哄笑してページを閉じるでもないのは、〈前に触れたように、横光利一の「機械」と比較するのは気の毒かもしれないけれど)この歪んだ鏡の歪みようが中途半端だからではないかという気がした。
at 14:18|Permalink│