2009年01月

2009年01月16日

「イワンと仔馬」

 先日、2歳半の孫娘と一緒に「雪の女王」を見ていて、ロシア語を聞きながら字幕を読んでやっているうちに、ふと、そういえば「せむしの仔馬(小馬?)」という綺麗なアニメを見たことがあるなぁ、あれもたしかロシアのアニメだったんじゃないか、と突然思い出した。

 このところ唐突にそういう50年以上も前のことを鮮やかに思い出すことがあって、「赤い風船」を見たときのこともそうだったけれど、今回は金色のたてがみをもつ美しい「せむしの仔馬」が、最後にグラグラ煮える熱い三つの甕に魔法をかけて、主人公の少年が次々に飛び込んで、みめ麗しい王子になって出てきて、王女?と結婚してメデタシメデタシという話だったように記憶していた。

 今回DVDを取り寄せて、また孫娘と一緒に見たところ、やはりソ連時代のロシアのイワン・イワノフ=ワノ監督のアニメで、1947年の作品だけれど、実に美しいカラー作品で、幼いときの記憶の中の美しい映画のイメージを裏切らない素晴らしい作品だった。ただ、タイトルは「イワンと仔馬」となっている。

 私はずっと「せむしの仔馬(小馬?)」だと思っていたし、タイトルもそうだったような気がして仕方が無いのだけれど、記憶違いかもしれない。それと、金のたてがみなのは、仔馬ではなくて、一緒に貰った他の二頭の黒馬のほうだった。

 それと、王様のイメージがこういうポパイみたいなちょっと滑稽味をきかせすぎたようなキャラだったかどうか・・・そのあたりに疑問が残って、私が幼いときに見たのは別のアニメだったのか、そういう別のバージョンというのがあるのかどうか、いまの私には分からないけれど、それ以外の部分については、私の思いでの映画がこれだったのだ、と言われても肯んずることができる出来栄えの作品だった。

 とくに色彩の美しさ、赤と緑、それに金色の使い方が実に鮮やかで美しい。動きもなめらかで、よくまぁ1947年にこんな素晴らしい映画を作ったものだと思う。ソ連はあのころ、アニメの制作に対して国策的に梃入れしていたのだろう。

 原作を書いたピョートル・パーヴロヴィチ・エルショフ(1815-69)は19歳の大学生のときに、この170年後まで国民文学として愛されるに至る作品を書き上げたのだという。田辺佐保子さんの訳『せむしの小馬』(2006)のタイトルで論創社から出版されているのを入手してみているのだけれど、訳もワスネツォフの装画もとてもいい感じで、これはいずれ孫娘が読むといいな(だいぶ先だけど)と思いながら眺めている。

 あと幼いころの思い出の本で、講談社の戦前戦中の絵本で孫悟空があったけれど、これはいまも出ていて、だいぶ前に手にいれた。孫娘もこれと同じシリーズの「金太郎」を愛読〈読むのは私だけれど)している。絵がいいのです。

 「少年ケニヤ」も20年くらい前に古本市で手に入れたので、残るは「こぐまのコロスケ」だけかな。これはなかなか無いのです。昔、古本屋が売っているのを知ったけれど、コレクター値段で1万円以上したので、さすがに買えなかった。あれはシリーズもので、何冊もありました。私が一番最初に本から知識を得たのは、伯父のところにころがっていた「のらくろ」シリーズと、両親が買ってくれた「こぐまのコロスケ」シリーズでした。ふる?いふる?いお話。



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「君のためなら千回でも」

 アフガニスタン出身の亡命作家カーレド・ホッセイニの世界的ベストセラー。といっても、この人を存在を知ったのも、この人の作品を読むのも今回が初めてで、文庫本2冊、一昨日読み終わった。

 例によって車中でしか小説を読まないことにしているので、読み終えたのが職場へ行く車中で、ちょうど梅田へ電車がつく直前だった。凧が再登場するあたりから涙がとまらず、満員のほかの乗客の中で、朝からおじ(い)さんが文庫本を読んでボロボロ涙を落としているのが異様に無様であろうと思うと本当に閉口した。

 涙というのは、ほんとにお涙頂戴のB級映画なんか見ても出るものだから、あてにはならないけれど、今回はほんとに感動してしまった。(もっとも、当方きわめて容易に「感動」してしまうタチたちなので、これまたあてにはならないけれど・・・)

 いっとき中国や南米の現代作家の作品をいくつか読んで、面白いのがあるなぁ、と思ったりしたけれど、ふだん現代の小説というと日本の小説かアメリカ、あとは少数のヨーロッパの小説というのが、とくべつ専門家ではない、そしてSFとか推理小説とかファンタジーとか特別な領域に偏った読書家ではない一般的な趣味の読書ではそういうことになるのではないだろうか。

 日本や中国以外のアジアや中近東、アフリカにも面白い現代文学は沢山あるのだろうけれど、あまり読む機会がない。小説などというのは毎日量産されて本屋に積みあがっているから、毎日覗くような小さな本屋に置いてあって偶然手にとって面白いのに当たれば幸運というものだ。

 アフガニスタンは行ったことが無いし、いまはもちろん、今後も当分はいけるような状態ではなさそうだから、ついに生きている間には行けそうもない国だけれど、こうして過去の姿にせよ、そこで生きていたであろうような人々の姿を垣間見ることができるのは小説のおかげだ。

 ここに描かれた凧揚げの競争のことなど、ほんとうに自分の子供のころの敗戦後の原っぱの風景を思い出すようなところがあって、国は全然違うけれど、主人公の思い入れに寄り添って読める。最後に凧が再び登場するとき、心はほとんど号泣している。

 主人公が決してヒーローでも何でもなく、潔くも強くもカッコよくもなく、人道的でも博愛的でもなく、利己的で自分と自分の家族だけが可愛くて、最良の友をも裏切ることができ、それでも一生それをトラウマとして持ち続けるほど良心的で誠実でもあり、けれどもそこから出来る限り目をそらし、逃げていたいと願う弱い人間でもあり、自分の鬱憤を弱いものにぶつけたり自分の有利な立場を利用することも知っているいやらしいところもあり、また人並みの人種(あるいは部族)偏見のようなものにも染まってもいて・・・というきわめて人間的な人間であるところがこの作品を深くしている。

 生涯かけて贖罪すべき相手だったはずの、かけがえのない元親友のハッサンが簡単に、あまりにも簡単に殺されてしまったり、危険を冒してようやく探し当てたソーラブが、既にペドファイルの毒牙にかかっているような箇所は衝撃を受けるけれど、アフガンの現実はそういうものなんだよ、という作者の声が聞こえてきそうだ。物語はハッピーエンド好きのこちらの願いを裏切りながら、後半とくに劇的な様相を帯びて、幾度も反転する。ストーリーテラーとしての才というものだろう。

 そのストーリーの中で幾つもの要素に再来・反復・循環が見られ、それが親の世代から主人公と親友でもあり実は異母兄弟でもあったハッサンの世代、さらにその息子へと、連続的に「受け継がれる」というより、断続(いったん断絶したようにみえて、伏流的に受け継がれる)し、輪廻のように運命的に循環・再来するような現われ方をするところに、アジア的な宿命観が基調低音のように聞こえてくるような気がする。また、それが劇的構成の中に効果的な手法として使われてもいる。

 タイトルは、英語の原題(著者はニューヨークで英語で書いて出版しているらしい)は"The Kite Runner"だけれど、邦訳のタイトルは素晴らしいと思う。これは作中のハッサンのセリフで、作品の中で実に効果的なリフレーンを奏でている。


 

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