2008年12月

2008年12月31日

「雪の女王」(ソ連アニメ)

 原作はアンデルセンの童話ですが、先日見たのは、ソ連製のアニメ。レフ・アタマーノフ監督の1957年の作品です。

 孫へのクリスマスプレゼントに買って、一緒に見たのですが、孫も連日見たがるほど熱心に見ているし、私もこのアニメの出来栄えには感心してしまいました。

 宮崎駿さんが、できたてのころにこれを見ていたく感動し、影響を受けたそうですが、さもありなん。

 絵もテンポもすばらしいけれど、キャラクター設定がいいですね。主人公のゲルダもカイもいいけど、ゲルダを捉え、気が変わって解放する山賊の娘が素晴らしい。このエピソードで作品全体がグッと締まって、愛の物語が人生と人の心の深みを感じさせるシャープな作品に質的な転換を生じている感じです。

 雪の女王の巻き起こす吹雪の映像は本当に美しい。孫と一緒にあと何十回見ても飽きない作品になりそうです。

at 22:14|Permalink

赤い風船

 先日、京都シネマでアルベール・ラモリスの「赤い風船」と「白い馬」を見てきました。

 「赤い風船」はずっと以前に、近くのけいぶん社で積み上げてあったビデオを買って、知り合いのお子さんにあげたり、私自身も1本持っていて、もう10回以上見ているのですが、映画館でみるのは、たしか小学校6年生くらいの封切の時以来2度目です。

 最初に見たときの印象は、いまでも覚えています。私たちの小学校のころは、よく映画の団体鑑賞というのがあって、学校から町の映画館へ行って何本も映画を見たものですが、「赤い風船」は母親と一緒に行った記憶があります。

 少年と風船に感情移入して、映画が終わってからもずっと哀しい気分だったことを覚えています。赤い風船はいまよりも、もっとずっと大きく感じられました。(もっとも京都シネマのスクリーンは家庭用スクリーンよりちょっと大きい程度で、建物の制約上仕方がなかったのでしょうが、劇場用としてはあまりにも小さすぎますから、そのせいで小さく感じられるのかもしれません。)

 この映画は撮り方としても当時の技術水準でよくここまでやれたな、と驚くようなところがあって、少しも古びていません。

 2歳(もうすぐ3歳)になる孫に見せたら、34分の短編のせいもあって、最初から最後まで食い入るように見ていました。風船が踏まれるシーンでは顔をゆがめてショックを受けていました。

 後で話している最中に、私が何を話したか覚えていないのですが、それに対して、「だから〈自分で)踏んで割ったのね」と納得したように言ったので、彼女は、少年が最後に自分で踏んで引導を渡したように受け取っていたことが分かりました。

 たしかにカメラは足もとしか移していないけれど、「いや、あれはあの子じゃなくて、いたずらっ子の一人が踏んだんだよ」と言ったのですが、誤解にせよ、面白い見方をするもんだな、と思いました。そして、2歳の子でも、映像に対してそういう「解釈」をして観ているものなんだな、と面白く思いました。

 それと、蚤の市を少年と風船が見て歩くシーンで、私が「これはパリの蚤の市といって、色んな古いものばかり売っている市場なんだよ」と説明してあげると、「ふ?ん」と言って見ていて、「ママがいないのに、どうして一人で行けるの?」と訊きます。

 これには意表を突かれました。彼女がこういう場所へ行くときは、きっとママかパパと一緒でないと行けないでしょうから、まだ頼りない感じの少年が、知らないオトナたちがうろうろしていて古いものを売っている市場なんかへ、一人で行くのが不思議な気がしたのかもしれません。

 同時にこの質問で、あ、そういえばこの少年は父親も母親もいなかったなぁ、とあらためて思い起されたのでした。アパートの窓から風船を放ったのも、少年を教会へ連れて行ったのも、厳格なだけで愛情のあまり感じられないような祖母らしい老婦人でした。

 きっとかつては両親の愛情に包まれた温かな家庭に育った子供だったのでしょう(その繊細で気品を感じさせる風貌、振る舞い、そして服装は、あきらかに他のワルガキたちとは違います)。戦争で両親も財産も失い、一人残されて祖母のもとにひきとられ、パリの端っこの下町の、戦後急造された高層アパートの一室に暮らしている・・・きっとそんなところでしょう。彼はあらゆる意味で孤独なのです。

 少し意図するところもあって、この映画を最初から最後までショット分析してみようと思い立って、このところ、毎日、一こま一こま全部静止映像化しては分析を試みています。いままで気づかなかったラモリス監督の意図を、映像そのものに読み取るのは楽しい作業で、時間の経つのを忘れます。

 もう教壇に立つのも僅かの期間、来期からは、前任者から引き継いだ科目の看板をあまり外れても悪いかな、という気兼ねを減らして、そろそろ好きなことを好きなようにやらしてもらおう、という思いを胸に、そのプレサーヴェイ的な試みとしてやっているのですが、さてうまくいくかどうか・・・

 


at 21:46|Permalink

2008年12月24日

「ラースと、その彼女」

 「レッドクリフ」を見たあとでこれを見ると、極端な「超大作」と、極端な「超小作」を見た、という感じで、これは本来の意味での「B級映画」(短期間に予算をかけないで作った映画)じゃないだろうか。

 しかし、内容的には、二流品という意味でのいわゆる「B級映画」ではなくて、ハリウッドが自主制作映画のスタイルで作って見せた佳作といったところ。

 新聞で粗筋が紹介されたのを読んだときから、これはきっと脚本がうまいな、と思ったけれど、映画を見て、そう確信した。脚本を実際に読んだわけではないけれど、主人公の「二人」を温かく見守っていく兄夫婦をはじめ、町の人たちの、ある意味では危なっかしいところのある、その善意の見守りを、ずっと最後までひっぱっていく手腕も相当なものだし、それを主人公が自分で解決していく結末のあたりは、誠に見事な出来栄えだと思う。

 ひとつ間違えば、まるで馬鹿げた、お話にもならないようなひどい話になってしまうか、エロティックなものを連想させてひどく不潔な話になっていきかねないところを、常にきわどいところで、潔癖で病んだ精神が周囲の温かい眼差しに包まれながら自分を、従って他者を同時に見出していくという主題に沿って、綱渡りするように「もたせて」いく。

 大騒ぎするでもなく淡々と、しかも退屈させず、ハラハラさせながら、あるテンションを持続していく。

 映画ではもろに人形が視覚的に出てくるので、最初はどうしたって抵抗感がある。いくら「いかれてる」(兄が妻にいう言葉)としても、それはないだろう、という思いを観客の多くが多少は抱くだろう。ところが、見ているうちに、これが自然になってくるから不思議。これはアリなんだ、という感じになってくる。

 それはやはり脚本がうまい、ということと、役者がみなうまいということだろう。もちろん主人公ラースを演じるライアン・ゴズリングの力量に負うところは大きい。彼がダメだったら、この映画はもう全く台無しになっただろう。

 そこをゴズリングはイヤミなく、澄んだ演技でこなしている。こういう役は「自然体」といったって、おそろしく難しいに違いないのだが。

 脇役も素晴らしい。兄、兄の妻・カリン役のエミリー・モーティー、それに精神科医の女医を演じていた女優、彼らの味方を積極的にしていた町のオバサン役の女優など、いずれも存在感があった。

at 23:43|Permalink

「レッドクリフ Part1」

 何十億のカネをかけた、という映画で面白いと思ったものは、記憶の中にあまりないようだけれど、100億円かけたというこの映画は、結構見所があって楽しめた。
 
 といってもストーリーは三国志演義(監督は「演義」のほうじゃなくて、正史のほうをベースにしたかったらしいけれど)で周知の赤壁の戦いだけを取り出した単純なものだし、見所はエキストラ1000人、馬200頭を使った大規模な集団戦闘シーンのスペクタクルと、その中で個々の英雄の奮闘ぶりをワイヤーアクションを駆使するなどして微視的に見せる戦闘シーンに尽きる。

 もちろんアクションはジョン・ウー監督の十八番だけれど、桁違いのスペクタクルでも采配は見事なものだ。

 役者で最も良かったのは趙雲を演じたフー・ジュン。同性愛者を演じたりゲイ・カップルを描いた作品に出ていたそうだけれど、私自身は初見で、その存在感、戦闘シーンでの身ごなしは素晴らしい。はじまって間もなく、蜀軍の撤退戦の最中に劉備の救いに戻って獅子奮迅の立ち回りを見せるシーンで、戦闘映画としての醍醐味を堪能させてくれる。この役者は今後きっと他の映画でも存在感を見てくれるだろう。とても楽しみな俳優だ。

 これに比べると、関羽・張飛は、いずれも存在感のある役者を使っているとは思うけれど、演技・演出のほうはちょっと芝居がかっていて、歌舞伎ならともかくも、映画に登場する豪傑としては、いささか張子の虎のように見えるのが残念。

 相争う劉備、孫権、曹操だが、これは「さらば、わが愛?覇王別姫」でレスリー・チャンの相手役をつとめたチャン・フォンイーを起用した曹操がこの中では相対的に良いけれど、少々優しすぎる印象だ。もっともっとスケールが大きい、オーラを感じさせるような覇王を演じられる俳優が、広い中国なら居るのではないか、という気がした。

 劉備は草鞋を綯う人物だから農民的な風貌というのでもないだろうけれど、ちょっと漢王朝の血をひく君主という器には見えなかった。孫権もいくらファザ・コンで自信に欠ける世襲三代目の君主とはいえ、やはりもう少し大きな器がほしいといった印象。

 さてスペクタクルでの集団の肉弾戦を見れば見るほど、こういう戦闘の場で三国志演義に描かれるような英雄豪傑が一人で無数の敵兵をバッタバッタとなぎ倒し、というようなことは絵空事でしかない、というのが視覚的に直観されてしまうので、諸葛孔明や周瑜のような軍師の戦略が数万、数十万の兵士の生死を左右することが観客にも実感できる。

 三国志演義の最大の面白さは勿論、軍師たちの和戦両様の駆け引きにあると思うけれど、今回は亀甲の陣に誘い込むところに集約されていて、それ以外には孔明の策略家としての恐ろしいほどのキレを見せてくれるところがなかったのが少々物足りない。琴の合奏で真鍮を披瀝しあう場面を除いて、この二人が緊張感を持った丁々発止のやりとりをする場面はない。

 同盟を結ぶとはいえ、ひとつ間違えば寝首をかかれる相手、そうでなくても将来は敵となる確率の高い相手。疑心暗鬼は免れない。相手の真意を確かめようとし、信義を試し、裏をかこうとし、相手の力を試そうとするのは自然なこと。それを乗り越えて同盟を結ぶ、というプロセスは省略されて、孫権の老臣たちの無力な抵抗勢力に矮小化されている。

 たぶんこれは周瑜の人物像が三国志演義のそれとはかなり違っているところから来ているのだろう。たしかに孔明に比べれば彼は三国志演義でも生真面目な軍師の印象があるけれども、あれで結構策士。孔明に張り合って、いろいろ策をめぐらす。そのやりとりが面白かった記憶がある。

 結果的にはいつも出し抜かれてはいたが、それで口惜しがる周瑜はコミカルな存在にもみえ、いささか鬼神のごとく超人的に過ぎる孔明に比べて実に人間的で好感が持てる。

 ところがこの映画での周瑜は、国家、兵士、、家庭の信頼と期待を一身に背負い、その責任を果たそうとする文武両道に秀でた、強く優しい理想的な人物像になっていて、三国志演義の彼のようなコミカルな味はない。そして、どうやら三国志演義とは違って孔明よりもこちらにスポットライトが当たっているらしい。

 正史的な眼差しで見られた周瑜は、その現実の立場からしてそのような人物であったかもしれないが、これは軍師のプライドを賭けて孔明と争い、コケにされる周瑜のほうが面白く、魅力的だ。
 
 映画の中で、むしろいささか軽くてコミカルな味があるのは金城武の孔明のほうだ。やや重い感じのトニー・レオンと並んでいると、そんなふうな印象になる。

 私自身がいままで見た孔明の像で、一番好きなのは、NHKテレビで連続でやっていた人形劇の三国志に出てきた孔明だった。これは川本喜八郎の人形が素晴らしかった。いついかなるときも冷静沈着、明晰で、深い思考、臨機応変の行動力、冴え渡る頭脳と弁舌、ハートは温かで、澄み切っている、そんな孔明を見事に白皙の面に表現していた。

 でも金城武の孔明はそれはそれで、なかなか良かった。

 三国志演義で女性というのは記憶にないけれど、映画での周瑜の妻・小喬や孫権の妹役もそれぞれ存在感があった。脇役では魯粛役のホウ・ヨンなども良かった。中国に存在感のある役者が輩出していることがうかがえる映画だった。

 わが中村獅童も頑張っていたけれど、なんというか体格のせいだろうか、兵士たちの中に入ると埋もれてしまうような印象が拭えない。中国人の存在感のある俳優たちの中でみると、もちろん脇役ではあるけれども、歌舞伎役者もこの程度の存在感しか示せないか、と幾分残念な気がした。(舞台「浪人街」などでの中村獅童が大好きなだけに。)

 映画全体としてはそれぞれの戦闘シーン、クライマックスである亀甲の陣での戦いに見ごたえがあった。Part?まで含めて、赤壁の戦いだけを描くようだから、それだとあとはこの戦いを決定づけた、互いに繋がれた船を焼き尽くす戦闘シーンしかないように思うので、それで2時間を越える起伏のある映画をもう一本どうやって作るのだろう、と興味津々だけれど、それは4月のお楽しみらしい。三国志演義で結末はわかっていても、この映画はPart2を観てみたい。



 

at 20:21|Permalink

2008年12月03日

『ファミリーポートレイト』(桜庭一樹)

 近親姦を扱った『私の男』で直木賞を受賞した女性作家(ペンネームは男性のようだけれど)の長編。帯によれば受賞後初の書き下ろしで、「1000枚」だそうです。400字詰め原稿用紙の枚数なのでしょうから、400×1000=400,000字!卒論で50枚なんて多すぎて書けない!と言ってる諸君、2万字の40倍ですよ。すごいですねぇ。キャッチコピーには「恐るべき最高傑作」とあります。ゼミ生さんにとってはまさに「恐るべき枚数」でしょうね。ほんとに分厚さだけとっても「力作!」って感じです。

 キャッチコピーに釣られて読んだわけでもないのですが、『私の男』を読んだ記憶では、たしか題材は好みではないけれど、筆は達者な、かなり書き込んだ作品だったので、手にとってこの2日間ほど、電車内の時間をつぶしました。

 近親姦といい、さかりのついた血まみれの獣のような母子像といい、作者はこういうどぎついのがお好きなのでしょう。江戸時代の絵にもこういうおどろおどろしいのがありましたね。キッタハッタで生首が飛んで血しぶきが、というようなの。

 ぐいぐい引っ張っていく筆力はあります。ほんとにリキがはいっています。ちょっと力みすぎじゃないでしょうか、と思うほどです。
 このドギツサも計算づくだと思いたい。でも、その血しぶきが祈りにつながっていかないので、そうは思えないのが残念。

 きっとこういう流血や暴力や性の露出がなければ、ほんものじゃないという思い込みが作者のどこかにあるのでしょうか。作者が命がけということと、登場人物が近頃ありふれていて週刊誌ネタにもならないリストカットみたいな自傷行為に走ることとは無関係だと思うのですが。

 たぶん、現実の平穏な(或いはそうみえる)生活への違和感が作者にあって(たいていの作家はそうでしょうけれど)、それを主人公たちの憎悪(なによりも自身への、そして近親への、他者への)や悲嘆や世の中のルールへの無視・無関心あるいは越境になって表われるのでしょうが、よほどの力量でないと、深い悲しみをたたえるべきシーンが、ただどぎつい原色で塗りたくったこけおどしのポンチ絵に見え、滑稽にみえてしまうことさえあります。

 でも、まだ「第一部」の「旅」、幼い主人公と母親との逃避行を描いた部分は、なかなか面白い。あの町、この町と逃れては住みつき、またいられなくなって逃げていく。それぞれの町や村でのエピソードの中には面白いシーンが沢山あります。

 幼い娘の目で描かれる、壊れた美しい母親の姿は、血にまみれ、男の精液にまみれ、汚辱にまみれながらも魅力的だし、その母にいわゆるDVを受けながら、コバンザメみたいにくっついて離れず、ママに絶対服従で、自分をも他をも顧みない幼い主人公も物語的なリアリティを感じさせます。

 それに、女の「骨」を楽しむ「大家さん」のような、ちょっとしたバイプレヤーもなかなか面白い。

 好きなのは豚の足が登場する場面。

"家に入る前に、あたしはふっと道路の向こうを振りかえる。
 夕日は黄色い。
 解体工場で切り落とされた、豚の足がたくさん、ちゃんと四本で一頭分ずつ規則正しく、道路を歩いて夕日の奥に吸いこまれるように消えていくところを幻視する。夕日はあの世への入り口。何百頭もの豚たちが足だけになって昇天していく。あたしは目を細める。"

 こういうところはなんとも言えず美しい。つまりこの作品の原色を塗りたくったようなドギツイ光景の中でこそオアシスのように美しく映ずる幻の風景です。こういうところは何箇所かあって、あ、いいなぁと思って読みました。

 これで突っ走ってくれたらな、とずっと読みながら思っていたのです。この娘は『ブルックリン最終出口』(H.セルビーJr.)のトゥラララのように、どこかの都市の片隅の、ゴミ溜めのような所で、汚辱にまみれて死んでいくのだろうな、と。

 ところが第二部にはいると怪しくなってきます。父親に引き取られてからの彼女は、父親に反抗してすねてみせる世間のありふれた娘たちと変わらなくなってしまうようです。

 本当は前半で心身に仕込んだ憎悪や悲哀や絶望やの全重量を引きずっているはずなのに、その重さが後半の彼女の言動には正確に反映されていません。
 作者はそれらしくみせかけようとしているけれど、唯一「弟」とのやりとりの中で、失われた双頭の兄弟が登場する場面くらいのもので、あとはちょっと不良っぽく突っ張っているだけの女の子に「成り上がって」しまって、全身全霊で拒むことも、徹底的に下降しつづけることもやめてしまったようにみえます。

 そのへんから、読み手のこちらも、「まさか彼女が"もの書き"なんぞになって自分の前半生を物語に昇華して自己回復していきました」なんて馬鹿げた結末になるんじゃないだろうな、という悪い予感を覚え、ひそかに読み進むのを恐れ始めます。

 そして、「最後は新人作家になりおおせて、直木賞をもらったのでした、メデタシメデタシ、で終わったりして!」という悪い冗談が脳裡をかすめ、その「まさか」の貧しい想像を自嘲しながら、おそるおそる読み進めます。

 ところがです。ほんに恐ろしいことに、この馬鹿みたいな予感がだんだん現実になってくるではありませんか!嗚呼!ほんとに目を覆いたくなってきました。作者はなんてことをしてしまったのよ、と思いました。

 突如お金持ちのパパというパトロンを得てゆとりのできた主人公が酒場で語ってきかせる物語が「面白い」とおだてる編集者などに囲まれて、彼女は作家修業に励むのです!
 ところが、そこで実際に語られたという話の面白くないこと!

 これを「面白い」という編集者が「凄腕の編集者」だと、作者は主人公の目を通し、語り手を通してほのめかしているのですが、たいていの読者は、「嘘ぉ?っ!」と声を揃えて言うでしょう。

 あとに残るのは、作者が文壇の賞をもらって付き合い始めて、初めて知り、物珍しかったのかもしれない業界のつまらない内輪話、どこかの飲み屋でとぐろを巻いてグダグダ言い合って、そこに「文学」の片鱗なりと落ちているかのように錯覚している、そんな場所の風俗。
 そして、「時の人」となってから、ほんとに作者が感じたかもしれない、「自分はハングリーだったはずなのに成り上がってしまったのかしら、いや、まだまだ」というような意外に純情な自問と韜晦・・・。

 でもそれをこういうステキな(!)前半生を過ごした主人公に押し付けちゃまずいでしょう!

 前半を読んでいるときは、これは、徹底的に痛めつけられ、この世の最も強力な毒という毒を、恍惚となるほどたっぷりと吸収し、心身に蓄積した人間が、「成長」するにつれてどう下降し、どう人生を壊していくかという、ビルドゥングス・ロマンを裏返してみせてくれるような過激な作品かと勝手に期待していたのですが、後半からは傷を負った主人公が小説を書くことで自分を克服して、周りの人に助けられて教養も身につけつつ成長していく涙ぐましいビルドゥングス・ロマンになってしまうのです。嗚呼!

 もちろん普通のロマンと違って、さすがにそうわかりやすいハッピーエンドにはなっていないけれど、前半との落差は覆うべくもない印象でした。
 原色で書きなぐった絵のような前半生をそのまま突き抜ければ、この作者が或いは隠し持っているかもしれない「祈り」の核心に届くような言葉が、後半紡ぎだされた可能性はあると思うのですが、そうなればエンターテインメントをも突き抜けてしまうのでしょう。少し残念な気がして読み終えました。

 

at 14:07|Permalink
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