2008年11月

2008年11月27日

『とんび』(重松清)

 この人の作品は前にも読んだことがあるが、さっぱり覚えていないところをみると、それほど心動かされなかったようだ。今回のこの作品には感心した。

 なによりも人間を見る目が温かい。だからといって現実味のない理想化した人間像を描き出しているわけではない。

 ここにいるヤスさんは、ふつうでいうと、威勢だけはいいが、まわりが支えてやらないとどうしようもない、無知無学、無教養で自分勝手な男であり、乱暴者でもある、どこにでも一人や二人、こんなやつがいるよな、というような男にすぎない。

 ところがそのどうしようもない男が、この作者の手にかかると、どんな人間よりも輝いてみえる。
 出世してエラくなるわけではない。どうしようもない男のままで輝いている。だれにも真似できない、愛すべき魅力をもった人物になる。

 そして、少しも凡庸なところがない。どこにでもいそうな男なのに、いざこんな男がほかにいるかといえば、もうこのヤスさん以外にはありえない天然の無垢で温かい魂だということがわかる。

 こういう男を描くのに、硬いかっちりした文体は似合わない。もちろん崩れた文章も。
 きちんとメリハリはつけながら、どこか牧歌的な、とぼけたユーモアを孕んだ文体がふさわしい。作者はまさにそういう文体でこの作品を書いた。

 息子のアキラがパートナーを連れてくるところなど思わず笑ってしまう。あるある、人生にはこういうことってあるよな、と。人生はこういうものだ、という押し付けはない。降って来るものが正確に描かれ、読者である私はヤスさんと一緒になって驚き、戸惑う。

 ヤスさんは自分なりの答をだす。それは凡庸ではない。人の借り物ではない。私たち読者はヤスさんがその都度出す答えに自分の思い込みを揺るがされる。ヤスさんや「夕なぎ」のたえ子姉さんや照雲や海雲和尚も、みなそれぞれその言葉や振る舞いによって、私たちの人間観を少しずつ動かし変える。これが小説を読むことの醍醐味だ、と感じる。

 読み終わったとき、私は決して「それがどうした?」とは言わない。ヤスさんたちを通して私自身が変わったことを直観しているからだ。変えられた私の目に、人間はほんの少しかもしれないけれど、これまでよりも希望の持てる、頼もしいものにみえる。世界はほんの少しかもしれないけれど、好ましい風景に見える。

 

at 01:10|Permalink

2008年11月26日

『瑠璃でもなく玻璃でもなく』〈唯川恵)ほか

 このところ慌しくて、そういうときほど逃避的に車中はもっぱら小説を読むことになり、それも大体つまらない小説を読んでしまう。読みやすいからだ。

 誉田哲也『ストロベリーナイト』 
    けれん味たっぷりの、悪達者な、後味の悪い小説だった。
 真藤順丈『地図男』 
    前衛気取りも安部公房ほど巧ければそれなりに感心できるのだが。
 D.イグネイシアス『ワールド・オブ・ライズ』
    映画はリドリー・スコット監督だから面白そうだ。
 唯川恵『瑠璃でもなく玻璃でもなく』
    読み終わると、それがどうした?と言いたくなる作品。

 
 唯川恵の作品は前もたしか『肩ごしの恋人』というのを読んだけれど、印象は同じ。性格やものの感じ方、考え方、生き方の違う友人の女性2人を登場させて対比しながら、それぞれ自分の生き方に自足しようとしながら物足りず、不満やら不安やらをかかえ、互いを意識しながら、隣の芝生を覗きみて羨望したり嫉妬したり、いやいやこちらのほうがと優越感をおぼえたり、それに男がからんで、不倫やら離婚やら、結婚願望やら冷めた夫婦やら、イマドキのありふれた風俗がこれでもかとどんどこ登場する。

 たぶん登場人物と同じような年頃の女性にとって、ここに描かれたような人物は自分に似ているか友人の誰かに似ていて、それらの人物の生きる世界も身近なものなのだろう。そして、ごく親しい友達だけれども、そのちょっとしたうわっつらの何かに嫉妬を感じたり優越感を覚えたりする、そのほんの少しうがった描写に、そうそう、そうなのよね、確かにそんなふうに感じるわ、思い当たるわ、と感心して読んでいるのかもしれない。

 けれども、ここに描かれている人物も世界も、本当に上っ面にすぎない。シングルで頑張ってキャリアをめざしているような女性はこういうものだ、そして幸せな結婚を選んだ専業主婦の結婚後はこういうものだ、という最も凡庸で通俗的な固定観念をなぞっているだけだ。

 たしかに、その通俗観念のなぞりかたは達者で、きめ細かで、なみなみならぬ筆力もある。けれども、一見すると女性の生きかたを問うているようにみえて、ここには「生きかた」といったものへの本当の問いかけはない。作者の関心はただそういう通俗観念を上手になぞることにしかないので、登場人物のその通俗観念自体は少しも疑われることがない。

 だから、ああ、そういう女性っているよね、うんうん、そういうことってよくあるよね、とは思うけれど、それで何なの?それがどうしたの?と読んでから本当に空しく、つまらなくなる。作中人物も、ただストーリーとして色々あって逞しくなりました、ってのは書いてあるけれど、本質的に何も変わっていない。読者もこの小説を読んでなにも変わっていない自分を見出すだろう。

 いい作品を読むと、多かれ少なかれ、読後に自分がまわりの世界や人間を見る目そのものが変わっているのに気づくものだけれど、この作家の作品には不思議とまったくそれが感じられない。

 中間小説的な作品にそういうものを求めるほうがおかしいのかもしれないけれど、直木賞まで貰っている作家の作品だから、どこかにそういうところがあるのだろうと思って読むけれど、不思議なほど通俗をなぞる作品になっている。それはまた、電車の片道で一冊軽々と読んでしまえる読みやすさにもなっているのだろう。

 主人公〈の一人)である美月が友人の順子から、結婚がきまったことを聞かされるシーン;

 「それで、相手はどんな人?」と尋ねながら「あまり条件のいい相手だったらいやだな」と思う自分がいて、自己嫌悪に陥りそうになった。
 「商社マンよ」
 順子は美月も知っている名の通った会社名を口にした。見当違いとわかっていながら、落ち込んでしまう。

 こういうところにこの作者の特徴はよくあらわれている。ここに描かれたような心理は多くの女性が多かれ少なかれ感じて、そう感じる自分に軽い自己嫌悪を感じるということも、ごくありふれたことだろう。この作者はそういうところを丁寧に微細にひろっていく。そういう女性のちょっといやな心理を、いわばうがった見方をして、そういうことになにか意味があるかのように拾っていく。

 まるで、人間ってこういうものよ、人間の心にはこういういやなところがあるでしょ、そして、それにまた自己嫌悪を感じたりするのも人間なのよね、とでも言いたげな、作者のしたり顔が見えるような部分だ。
 
 ちょっと待ってくれよ、と言いたくなる。分かった風なことを書くなよ。そんな心理は誰にでもあるし、いつどこにでも生じ得るものだけれど、そんなところに別段人間の真実もなにもありゃしないよ、と。こんなことをさも意味ありげに描いて、そこにどんな意味があるんだい?と。

 こういうところに、こういう境遇にあるこういう女性はこういうふうに感じるものよ、それが真実なのよ、という作者の通俗的な固定観念を疑うことのないご託宣が聞こえてきて、そこがこの作品の鼻白むところだ。登場人物のだれもが、また従って作者自身が、自分(たち)の通俗性を少しも疑っていない。

 人間というのは、こういう通俗性の中にどっぷり生きてはいるけれど、それを突き破っていく、あるいは突き破ってしまうものではないのか。こんな通俗性をなぞって生きるだけの存在だろうか?

 作者が人間に対しても世界に対しても真剣に切り込んでいくところがなく、通俗を達者になぞって筆を滑らせていくことが、表現意識の崩れを生んでいる。

 たとえば14章(125ページ)の文章は、冒頭から主語がない。日本語には主語というのはない、という人もあるくらいだから、それは主語が省略されたって日本語の文章は成り立つし、ここは英利子の視点で描いている章だから、その視点から描写や心理の表出だと考えればいいし、途中で「ただ私の我儘で、機嫌を悪くしていると思っている。」と、「私」が出てくる。これが潜在的な主語であることは間違いない。

 ところがその続きで、次のページになると、「けれども、妻という立場でしかない英利子は、・・・」と三人称の客観描写にすりかわる。「不思議なものだな、と英利子は思う。」というのもある。

 こういうなしくずしのすりかわりは、通俗小説に特有の表現意識のあいまいさに由来するものだ。
 
 いろいろ書いたけれど、本当のところ、私がこの作者の作品を好きになれないのは、文体がどうのこうのというより、作者の人間を見る目が意地悪く、冷淡に感じられるところが好きになれないのかもしれない。
 

 

at 23:48|Permalink

2008年11月12日

「容疑者Xの献身」(映画)

 原作はだいぶ前に読んでこのブログに感想を書いたおぼえがある。そのときは、好みとして「白夜行」とか「幻夜」とかの暗い情念の行方のほうにより強く惹かれていたので、もちろん面白かったのは面白かったけれども、直木賞受賞作ではあっても、東野圭吾の作品群の中でベストというふうには考えていなかった。

 でも今回映画を見て、映画が原作に忠実だったこともあって、こんなにいい作品だったけ、と思ってまた再読してみたくなった。推理小説で再読するというようなことは、アガサ・クリスティーくらいしかなかったのだけれど。

 ところで、原作もいいけれど、映画もとても良かった。といっても、それはもう徹頭徹尾、この映画は堤真一の映画だ、という意味で、彼の演技はほんとうに素晴らしかった。

 もともと演技のできる人で、私がそう思ったのは、デヴィッド・ルヴォーが演出した三島由紀夫の「燈台」という兄妹相姦的な交情を描いた演劇で、妹役の中嶋朋子と絡んだ兄役の堤真一を見てからだから、だいぶ昔のことになる。そのころから存在感があったけれど、実にいい役者になった。

 彼の前では、イケメンのガリレオ先生も、演技派女優の柴咲コウ(オレンジデイズで好きになったけど)も、影が薄くて、狂言回し以上の意味をもたなくみえるほどだ。(松雪泰子は役柄ピッタリでなかなか良かった。)

 ひとよりずいぶん遅れてみた映画なので、もう世間にゴマンと感想が出ていて、きっとほとんどよかった、よかった、とほめてあるのではないかと思うので、これ以上ここで同じようなことを書いて屋上屋を重ねることもないだろう。とにかくこの映画、堤真一に尽きる。

at 23:50|Permalink

『元職員』(吉田修一・著)

 楽に読めてなかなか面白い小説だった。
 
 「公社」につとめる平凡な職員が使いこみをして、ほんとうはもうどうにもならない状況に追い詰められているのだが、タイへ逃げてきてすべてが虚妄の世界で遊んでいる姿を描いた、といってしまえば、それだけの作品だ。

 ほんとうに抜き差しならない世界は主人公の置いてきた〔脱出してきた)日本の日常の中にあるのだけれど、作者の視線はあえて逃避行ともいえるタイでの主人公の、金で買った女の子とのやりとりや、仲介役の現地化した日本人青年とのやりとりに、意図的に限定して注がれている。

 前にたしかほかの作家の作品で、主人公が本来なら正面から向き合うべき本当の関心事が妻との不和(たしか妻の不倫だったか)にあるのに、描かれているのは主人公がその家を逃げ出してきた逃避先の自然の中での人との触れ合いのような光景ばかり、というのがあったけれど、こういう間接話法が重い湿ったものになりやすい主題を、できるだけさりげなく、クールに、ときにユーモアをもこめて描くための定石の一つになっているのかもしれない。

 その抜き差しならぬものは、些細な徴候でしか示されないけれど、それだけに読者の想像力を最大限にかきたてたり、表面的なストーリーの裏側にあってつねに緊張感をもららし、ときおりマグマのように噴出したりする。

 もっとも、この作品の具体的な面白さがどこにあるかといえば、タイでの主人公の女の子や仲介役の男の子とのやり取りの中にある。他愛もない主人公の女の子との痴態や、そういう関係を成り立たせているいまの日本やタイの社会的背景などが、達者な筆で描かれていて、それ自体が面白い。

 指示的な言語をベースにしたカジュアルな文体なので、読みやすいし、ほんとうなら主人公が置かれている深刻な状況を暗示したりその象徴的な意味合いを帯びてもいいようなこの物語が、ちっとも暗示も象徴性をも帯びることなく、日常的な言語の水準で風俗小説のようにタイの日本人の行状を描いていく。そちらのほうに作者が力を注いでのめりこんでいく様子がみえるようだ。

at 23:18|Permalink

2008年11月11日

『チェーン・ポイズン』(本田孝好・著)

 しっかり書き込んだ小説で、読み応えがあったけれど、ちょっとしんどかった、というのが正直のところだ。

 しんどかった、というのは文章や構成に問題があるといったことではなくて、どんどん先が読みたくなる、引っ張っていく力のある作品なのだけれど、内容的に辛い。

 作品の半分を占める語り手は1年間、自分の死を見つめ続けるのだし、あとの半分の語り手も、その人物を追っかけ、その心と行動の軌跡をトレースしようというのだから、重い話にならざるを得ない。

 もちろん、その救いになるのはこの物語のハイライトになっている子供たちと主人公との交感の光景なのだけれど、その子供たちもまた、社会の矛盾と不幸をそれぞれ一身に背負ってけなげに生きているような子供たちだ。

 そこで主人公が知らず知らずのめり込んでいく光景はほっとさせてくれるし、そこにこの作品の温かい体温を感じるけれども、それでやっと普通の人間の体温の低い人くらいのところ。あとは凍てつくような風景が続く感じで、読み終わってもまだ辛い。

 末尾の部分は私には少し分かりにくかった。そして、この作品は、はたしてこういう仕掛けが必要だったのだろうか、週刊誌の記者もよく書けてはいるけれど、外側からトレースしようとする構成を全部スパッと切り捨てて、客観描写か一人称で書いてもいいんじゃないか、と思わないでもなかった。

 

at 12:55|Permalink
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