2008年09月
2008年09月25日
『わが悲しき娼婦たちの思い出』(ガルシア=マルケス)
新刊ではなくて、ずいぶん以前(2006年9月)に邦訳が出た小説です。身辺を整理していたら出てきて、まだ読んでいないことに気づいたので、ちょっと衝撃的な書き出しに惹かれて読み始めたらとまらなくなって、全部読んでしまいました。
中身は非常に特殊な純愛小説といったらいいのでしょうか。ありえない話にこれだけのリアリティを持たせて泣かせるのは、作者の抜群のストーリー・テラーとしての才能なのでしょう。邦訳でもそれは充分味わえます。
同じ高齢者の性を扱ってもフィリップ・ロスの『ダイング・アニマル』を読んだときは後味が悪かったけれど、あちらは人間の獣性を描いたもの、こちらは舞台は俗の極み、売春宿が舞台ですが、聖性の宿る純愛物語です。
巻頭にその一節を引いた川端康成の「眠れる美女」をベースとして、人形としての眠る少女からスタートはするのですが、この人形はやがて生命を吹き込まれ、自分自身として動き出します。
でも、こういう小説を勧めたりするのは立場上、まずいですかね(笑)。川端康成の「眠れる美女」(「片腕」とともに、いい作品だと思いますが)や、谷崎も「細雪」なら誰に勧めても文句は出ないでしょうけど、調子に乗って勧めているとアブナイですね(笑)。あと、ご存知ナボコフとか、川上弘美の「センセイの鞄」なんかも微妙ですね。ましてジュネとかサドとかは論外でしょう。
ま、こういう本は私の部屋の本棚ではさりげなく二列目とかの他の同じ背丈の本の間にすべり込ませてありますから(笑)、偏見のない方はどうぞお試しを。
なにしろ「曽根崎心中」を紹介しても、「心中は良くないと思います」と、題材にこれを取り上げること自体を非難するニュアンスの意見を書く人が毎回一人二人はあるくらいですから、明るく健全な精神衛生思想と「アカルサハホロビノ姿デアロウカ」(『右大臣実朝』)という思想とは折れ合うのが難しそうです。
世界一の不倫物語「源氏物語」や、近代小説の最高峰に連なる「アンナ・カレーニナ」とか「ボヴァリー夫人」も不倫小説なんだけど、どうなんでしょう?ジイドが、人間には二種類ある。一つは「千夜一夜物語」を読んだ人間、もう一つは読んでない人間だ、と言ったあのアラビアの物語のあけっぴろげな人間性の謳歌はどうなんでしょう?みんな私の愛読書なんですけど・・・
ところで、この種のモラル云々でとやかく言われることもない、文句なしの現代小説の最高峰、圧倒的な密度と勢いで大波のように読者の心をさらっていく作品を、この作家が書いているので、今回の短編で物足りない若い方はそちらを→『百年の孤独』です。これは私自身にとっては、フォークナーの『響きと怒り』以来、サイコーと思って読んだ小説でした。
中身は非常に特殊な純愛小説といったらいいのでしょうか。ありえない話にこれだけのリアリティを持たせて泣かせるのは、作者の抜群のストーリー・テラーとしての才能なのでしょう。邦訳でもそれは充分味わえます。
同じ高齢者の性を扱ってもフィリップ・ロスの『ダイング・アニマル』を読んだときは後味が悪かったけれど、あちらは人間の獣性を描いたもの、こちらは舞台は俗の極み、売春宿が舞台ですが、聖性の宿る純愛物語です。
巻頭にその一節を引いた川端康成の「眠れる美女」をベースとして、人形としての眠る少女からスタートはするのですが、この人形はやがて生命を吹き込まれ、自分自身として動き出します。
でも、こういう小説を勧めたりするのは立場上、まずいですかね(笑)。川端康成の「眠れる美女」(「片腕」とともに、いい作品だと思いますが)や、谷崎も「細雪」なら誰に勧めても文句は出ないでしょうけど、調子に乗って勧めているとアブナイですね(笑)。あと、ご存知ナボコフとか、川上弘美の「センセイの鞄」なんかも微妙ですね。ましてジュネとかサドとかは論外でしょう。
ま、こういう本は私の部屋の本棚ではさりげなく二列目とかの他の同じ背丈の本の間にすべり込ませてありますから(笑)、偏見のない方はどうぞお試しを。
なにしろ「曽根崎心中」を紹介しても、「心中は良くないと思います」と、題材にこれを取り上げること自体を非難するニュアンスの意見を書く人が毎回一人二人はあるくらいですから、明るく健全な精神衛生思想と「アカルサハホロビノ姿デアロウカ」(『右大臣実朝』)という思想とは折れ合うのが難しそうです。
世界一の不倫物語「源氏物語」や、近代小説の最高峰に連なる「アンナ・カレーニナ」とか「ボヴァリー夫人」も不倫小説なんだけど、どうなんでしょう?ジイドが、人間には二種類ある。一つは「千夜一夜物語」を読んだ人間、もう一つは読んでない人間だ、と言ったあのアラビアの物語のあけっぴろげな人間性の謳歌はどうなんでしょう?みんな私の愛読書なんですけど・・・
ところで、この種のモラル云々でとやかく言われることもない、文句なしの現代小説の最高峰、圧倒的な密度と勢いで大波のように読者の心をさらっていく作品を、この作家が書いているので、今回の短編で物足りない若い方はそちらを→『百年の孤独』です。これは私自身にとっては、フォークナーの『響きと怒り』以来、サイコーと思って読んだ小説でした。
at 21:45|Permalink│
2008年09月23日
『告白』(湊かなえ)
前に読んで感動した、河内十人斬りの実話を作品化した町田康の『告白』ではなくて、同じタイトルだけれど、まったく無関係な、新人女性作家の推理小説です。
実はこの作品もこのところ本屋に大量に平積みされているのを、横目で見ながら通り過ぎていました。もともとが推理小説ファンではないので、「小説推理新人賞受賞」という帯も、財布の紐をゆるめるきっかけにはならなかったのです。
でも、職場の売店でみたとき、この本の横に、「作者は本学を卒業された方です」と書いてあるので、オヤオヤ、それじゃ一度読んでおかなくっちゃ、というわけで、ついに手に取ることになりました。
読み始めると、これはなかなか文体や構成に工夫があって、最初から期待をもたせます。タイトルどおり、クラス担任の女性教諭のショッキングな「告白」から始まるのですね。その話の中身そのものもなかなか面白い。
章が変わると視点が変わりますが、各章のタイトル(「聖職者」「殉教者」・・・)も面白い。
第一章の女性教諭の話の中には、実際に世間を騒がせた、学校をめぐる衝撃的な事件や、どこと特定できなくても、いまの学校教育の現場にありふれた、生徒どうし、あるいは生徒と教員の関係、さらに学校に対する世間、ジャーナリズムの姿勢等々に、皮肉な、挑発的な、あるいは露悪的といえるような視線を注ぎ、ドギツイ表現を与えている。そこも面白い。
案外この作品の面白さはそういうドギツイ印象を受ける断片にあるかもしれません。たとえば、この話全体のきっかけになる、女性教諭の幼い娘・愛美「殺人」事件の小道具になる、スタンガンみたいなガマグチだとか処刑マシーンを発明して、動物や人間を苦しめたり殺したりすることに生理的快感を覚えるような「頭のいい」少年というのは、現実に既に類似の実例が登場しているので、私たちにとっても珍しくはないけれど、作中でもある種の実在感があります。
ただ、作者の意図としては、最初の「殺人」事件の犯人を追い詰めるとか、何が起きたのかを解明していくプロセスでもって読者を楽しませようというのではありません。むしろ「その後」の関係者(少年・少女、最初に「告白」する担任女性教諭)の軌跡とその交錯を描くことに眼目があり、最後にその交錯が青白い閃光を放ってスパークする、といった趣です。
難を言えば色々あります。根本的なことを言えば、二人の少年が(とくに片方は最後まで)女性教諭の告白だけで、あんなふうになってしまう、というあたり。生き死にのことだから、いくら高校生といえども、それはないだろう、と思えてしまいます。
女生徒がすぐ気づいたように、私が高校生でも確かめたでしょう。ブツで確かめる手立てがなくなっていたとしても、自分の身体で確認できるわけですから。片方が少し頭が弱いとしても、片方はもっと早く気づくでしょうし、気づいたら、どんなにバカにしてたとしても、片方にも知らせるのじゃないかな、とか・・・。
また、二人の少年の背景もあまりに型にはまって、ありきたりです。とりわけ「頭のいい」ほうの少年が、こういう残忍なことを冷然と行なえる少年になった背景と、そうなってしまってから、なおも失われた母を求めて三千里といった趣なのはどうなんでしょう?
さきにこの少年、少し存在感があると書いたのですが、それが同情的な少女が出てきて、すっかり「ほんとは素直ないい少年」みたいになってしまって、ただ「幼いときに母に捨てられてこうなってしまったんですよ」というありきたりの説明を額に貼って登場すると、ちょっと幻滅してしまいます。
もう少し彼には最後まで凄みがあってもよかった。もっとも、それだと最後のどんでん返しが仕組めないから、この作品自体が成り立たなくなってしまうのですが・・・。
そして、最後の「どんでん返し」、たしかにこれ、「どんでん返し」にはなっているでしょうし、エンターテインメントの結末を飾る仕掛けとしては必要なのでしょうけれど、後味のいい「どんでん返し」じゃないのですね。
小説がみんなハッピーエンドで終わる必要はないし、悪人は悪人のままでもいいし、はためいわくな話だけれど自分が正義だと信じることのためにとんでもない「正義の鉄槌」を下すような登場人物が勝利を飾る?ような作品があっても、そのこと自体に文句をつけようという気はないのですが、そこから振り返って全体を見返したときに、なんだか寒々としてくるのです。
このところパートナーのおつき合いで、ときどき(いまだに)韓流ドラマのあれこれを見るのですが、あの一見お定まりの出生の秘密やら、隠された宿命やら、イジメやら、白血病やら、許されぬ恋やら、きまりきったパターンでハラハラわくわくさせて、お涙頂戴のドラマのどこに惹かれるのかというと、一人一人の人間の描き方が従来の日本のドラマと少し違うようなのです。
うまく言えるかどうか分かりませんが、悪人がいない、というのでしょうかね。恋の嫉妬に狂って、さんざんっぱらイケズをしてヒロインをいじめぬく敵役が必ず出てくるのですけれど、それが最後まで見ていると、なるほど彼女には彼女なりにそうせざるをえなかったんだな、という納得がいくように描かれているように思うのです。
単に好きな人をとられそうになって嫉妬してヒロインをいじめてる、とか、もともと両親の愛情が薄くてそれがトラウマになって、というふうな、とってつけたような外面的な「背景」ではなくて、そうやって嫉妬する自分を嫌悪し、苦しみながらも、やっぱり本当にその相手の男をその人も深く愛していて、心の中の魔が顔を出してしまうのを抑えられない、そういう人間の業みたいなところまで掘り下げて描いているから、視聴者としてそんな敵役にも感情移入ができます。
それで連想するのは、漱石の描く主人公が、成人男子のくせに何して食っているのかも分からないような「精神的な」人物で、その対極のような、現実的で、金銭にせこい友人の男が登場して、自分はおまえのように暢気に遊んで暮らせる身分じゃないから、というようなことを言います。
主人公に寄り添って読んでいる読者にとっては、この男は志の低い、せこくて下司な、厭な人物ですが、彼は彼で生きるために本当に一所懸命にそういう彼でありつづけている。そういう視点を作者がちゃんと持って描いているから、主人公への強力なアンチテーゼみたいな存在として非常にリアリティがあって、単に頭ででっちあげたうすっぺらな悪役にはならない。
少しおおげさに言えば韓流ドラマの敵役も、あれのような感じですね。
『告白』の人物たちに注ぐ作者の眼差しが、それぞれ、もう少し心の井戸を深く掘るようなものであったら、たぶんこの作品はずいぶんちがったものになっただろうな、と「ないものねだり」だろうなとは思いながら感じたことでした。そういうことが実現するなら、「推理小説」でありながら、もう「推理」の冠を外せる作品になっているのだろうな、と空想しつつ。
実はこの作品もこのところ本屋に大量に平積みされているのを、横目で見ながら通り過ぎていました。もともとが推理小説ファンではないので、「小説推理新人賞受賞」という帯も、財布の紐をゆるめるきっかけにはならなかったのです。
でも、職場の売店でみたとき、この本の横に、「作者は本学を卒業された方です」と書いてあるので、オヤオヤ、それじゃ一度読んでおかなくっちゃ、というわけで、ついに手に取ることになりました。
読み始めると、これはなかなか文体や構成に工夫があって、最初から期待をもたせます。タイトルどおり、クラス担任の女性教諭のショッキングな「告白」から始まるのですね。その話の中身そのものもなかなか面白い。
章が変わると視点が変わりますが、各章のタイトル(「聖職者」「殉教者」・・・)も面白い。
第一章の女性教諭の話の中には、実際に世間を騒がせた、学校をめぐる衝撃的な事件や、どこと特定できなくても、いまの学校教育の現場にありふれた、生徒どうし、あるいは生徒と教員の関係、さらに学校に対する世間、ジャーナリズムの姿勢等々に、皮肉な、挑発的な、あるいは露悪的といえるような視線を注ぎ、ドギツイ表現を与えている。そこも面白い。
案外この作品の面白さはそういうドギツイ印象を受ける断片にあるかもしれません。たとえば、この話全体のきっかけになる、女性教諭の幼い娘・愛美「殺人」事件の小道具になる、スタンガンみたいなガマグチだとか処刑マシーンを発明して、動物や人間を苦しめたり殺したりすることに生理的快感を覚えるような「頭のいい」少年というのは、現実に既に類似の実例が登場しているので、私たちにとっても珍しくはないけれど、作中でもある種の実在感があります。
ただ、作者の意図としては、最初の「殺人」事件の犯人を追い詰めるとか、何が起きたのかを解明していくプロセスでもって読者を楽しませようというのではありません。むしろ「その後」の関係者(少年・少女、最初に「告白」する担任女性教諭)の軌跡とその交錯を描くことに眼目があり、最後にその交錯が青白い閃光を放ってスパークする、といった趣です。
難を言えば色々あります。根本的なことを言えば、二人の少年が(とくに片方は最後まで)女性教諭の告白だけで、あんなふうになってしまう、というあたり。生き死にのことだから、いくら高校生といえども、それはないだろう、と思えてしまいます。
女生徒がすぐ気づいたように、私が高校生でも確かめたでしょう。ブツで確かめる手立てがなくなっていたとしても、自分の身体で確認できるわけですから。片方が少し頭が弱いとしても、片方はもっと早く気づくでしょうし、気づいたら、どんなにバカにしてたとしても、片方にも知らせるのじゃないかな、とか・・・。
また、二人の少年の背景もあまりに型にはまって、ありきたりです。とりわけ「頭のいい」ほうの少年が、こういう残忍なことを冷然と行なえる少年になった背景と、そうなってしまってから、なおも失われた母を求めて三千里といった趣なのはどうなんでしょう?
さきにこの少年、少し存在感があると書いたのですが、それが同情的な少女が出てきて、すっかり「ほんとは素直ないい少年」みたいになってしまって、ただ「幼いときに母に捨てられてこうなってしまったんですよ」というありきたりの説明を額に貼って登場すると、ちょっと幻滅してしまいます。
もう少し彼には最後まで凄みがあってもよかった。もっとも、それだと最後のどんでん返しが仕組めないから、この作品自体が成り立たなくなってしまうのですが・・・。
そして、最後の「どんでん返し」、たしかにこれ、「どんでん返し」にはなっているでしょうし、エンターテインメントの結末を飾る仕掛けとしては必要なのでしょうけれど、後味のいい「どんでん返し」じゃないのですね。
小説がみんなハッピーエンドで終わる必要はないし、悪人は悪人のままでもいいし、はためいわくな話だけれど自分が正義だと信じることのためにとんでもない「正義の鉄槌」を下すような登場人物が勝利を飾る?ような作品があっても、そのこと自体に文句をつけようという気はないのですが、そこから振り返って全体を見返したときに、なんだか寒々としてくるのです。
このところパートナーのおつき合いで、ときどき(いまだに)韓流ドラマのあれこれを見るのですが、あの一見お定まりの出生の秘密やら、隠された宿命やら、イジメやら、白血病やら、許されぬ恋やら、きまりきったパターンでハラハラわくわくさせて、お涙頂戴のドラマのどこに惹かれるのかというと、一人一人の人間の描き方が従来の日本のドラマと少し違うようなのです。
うまく言えるかどうか分かりませんが、悪人がいない、というのでしょうかね。恋の嫉妬に狂って、さんざんっぱらイケズをしてヒロインをいじめぬく敵役が必ず出てくるのですけれど、それが最後まで見ていると、なるほど彼女には彼女なりにそうせざるをえなかったんだな、という納得がいくように描かれているように思うのです。
単に好きな人をとられそうになって嫉妬してヒロインをいじめてる、とか、もともと両親の愛情が薄くてそれがトラウマになって、というふうな、とってつけたような外面的な「背景」ではなくて、そうやって嫉妬する自分を嫌悪し、苦しみながらも、やっぱり本当にその相手の男をその人も深く愛していて、心の中の魔が顔を出してしまうのを抑えられない、そういう人間の業みたいなところまで掘り下げて描いているから、視聴者としてそんな敵役にも感情移入ができます。
それで連想するのは、漱石の描く主人公が、成人男子のくせに何して食っているのかも分からないような「精神的な」人物で、その対極のような、現実的で、金銭にせこい友人の男が登場して、自分はおまえのように暢気に遊んで暮らせる身分じゃないから、というようなことを言います。
主人公に寄り添って読んでいる読者にとっては、この男は志の低い、せこくて下司な、厭な人物ですが、彼は彼で生きるために本当に一所懸命にそういう彼でありつづけている。そういう視点を作者がちゃんと持って描いているから、主人公への強力なアンチテーゼみたいな存在として非常にリアリティがあって、単に頭ででっちあげたうすっぺらな悪役にはならない。
少しおおげさに言えば韓流ドラマの敵役も、あれのような感じですね。
『告白』の人物たちに注ぐ作者の眼差しが、それぞれ、もう少し心の井戸を深く掘るようなものであったら、たぶんこの作品はずいぶんちがったものになっただろうな、と「ないものねだり」だろうなとは思いながら感じたことでした。そういうことが実現するなら、「推理小説」でありながら、もう「推理」の冠を外せる作品になっているのだろうな、と空想しつつ。
at 21:24|Permalink│
『氷の華』(天野節子)
幻冬舎というのはベストセラーを作るのがうまい出版社で、いくつもヒットを飛ばしているようですが、今回も、小説の中身を読む前に、新聞や週刊誌でこの小説がこのような形で広く私たち読者の目に触れるようになるまでの経緯が、既に一種の伝説化されて語られているのを目にします。
私も複数のマスメディアで読んだのですが、手元にないので、文庫本の解説を頼りにおぼろげな記憶で書きますが、作者はたしか若い人ではなくて年輩の方のはずですが、この作品が処女作で、最初は自費出版で刊行されました。
これを読んだ編集者が、この作品の力を確信して、もちろん熱心な読者の反響あってのことだったでしょうが、1年後に単行本の形で再度公刊したのだそうです。そして、担当者自身の入れ込みようがすごくて、全国の主だった書店に、置いてくれるように依頼状を書いて送ったり、販売に熱が入ったようです。
そして、これがドラマ化されることになって、たぶん爆発的に売れているのではないでしょうか。文庫本になった本書がいまどの書店にも平積みになっていますから。
こういう既に伝説化した経緯を先に知ってしまうと、どんな作品かな、とつい好奇心にとりつかれて手にとります。だいたいブロックバスター的な売り方をしようとして大量に発行して書店が平積みするような本は、最初は警戒して、ふ?ん、こんなのが今はやっているのか、と横目でちらちら見て手にとることはしません。
でも、最初の騒ぎがなかなかおさまらずに、結構長い間平積みになって、次々はけているようにみえると、元来がおっちょこちょいだから、いつかは罠にかかる(笑)。幻冬舎さんの思う壺です。
この作品、まぁそれでも罠にかかって損はありませんでした。面白かったです。率直にいって、文章とか、舌を巻くような「巧い」作品ではありません。反対に、なんだかぎこちなく、かったるいところもあります。部分部分の仕掛けは、みんなどっかで見たことがあるような手口で、推理小説、犯罪小説は私自身はそんなに読んでないけれど、よく読んでいる人なら、そういうところに新鮮味を感じることはなさそうです。
第一章が「犯行」で、カミュやドストエフスキーのように、最初に殺しちゃうので、まさかそれら純文学作家の大作のように、そこに不条理やら罪と罰をめぐる哲学的考察の深みで読ませるわけではないでしょうし、刑事コロンボのように犯人を追い詰めていくプロセスを楽しむのを、犯人の側からどう警察の目をごまかそうと悪あがきをして、犯罪を暴かれていくのか、というところに作品の眼目があるのかな、と思って読んでいくのですが、それにしては「犯行」での犯罪の犯し方が直情的で単純。
やっぱり警察に対抗して犯罪を隠蔽するために闘うプロセス自体がドラマになるほどの犯罪なら、もう少し冷静で知的、計画的な犯罪でなければなりますまい。背景の事情もちょっと単純過ぎませんか?と読んでいく過程で疑問ないし不満を生じます。
だから、かなり読み進むまで、どうも単純すぎて、あんまり面白い小説ではないんでないの?とか思ってしまう。こちらの頭が単純なせいで、作者が故意に単純に描いている部分の単純さに対して、違和感を覚えながらも、その意図を見抜けずに読んでいくわけです。勘のいい読者なら、すぐに、ははぁ、裏があるね、とわかってしまうかもしれません。私ってなんて素直なんでしょう!
で、私個人は、なんとなく不満を感じながらも、それはあの事前に目にした作者と出版の経緯をめぐる伝説のせいもあって、初心の作家の手になる、いささか素朴すぎる推理小説なんでは・・という印象のままに読んでいきます。そして途中から、ははぁ、と納得します。
これ以上書くとネタバレになるので、推理小説だから、まぁ読んでみてください。大きな仕掛けは悪くないです。ただ、伏線の張り方とかは、ほんとに素朴で、あんまり巧くないです。
たとえば、一番最初に恭子の頭の中で、好美という女優を目の前にして「女優-電話の声」という「なんの脈絡もない、唐突な発想」が浮かんでくる、というようなところ。
編集者とのやりとりで何度も書き直し、手直しして、現在の形になった作品だそうです。その苦労の跡がいたるところにまだ散見されるような気がしますが、でも宣伝文句にあるどんでん返しも含めて、私自身は楽しみました。
私も複数のマスメディアで読んだのですが、手元にないので、文庫本の解説を頼りにおぼろげな記憶で書きますが、作者はたしか若い人ではなくて年輩の方のはずですが、この作品が処女作で、最初は自費出版で刊行されました。
これを読んだ編集者が、この作品の力を確信して、もちろん熱心な読者の反響あってのことだったでしょうが、1年後に単行本の形で再度公刊したのだそうです。そして、担当者自身の入れ込みようがすごくて、全国の主だった書店に、置いてくれるように依頼状を書いて送ったり、販売に熱が入ったようです。
そして、これがドラマ化されることになって、たぶん爆発的に売れているのではないでしょうか。文庫本になった本書がいまどの書店にも平積みになっていますから。
こういう既に伝説化した経緯を先に知ってしまうと、どんな作品かな、とつい好奇心にとりつかれて手にとります。だいたいブロックバスター的な売り方をしようとして大量に発行して書店が平積みするような本は、最初は警戒して、ふ?ん、こんなのが今はやっているのか、と横目でちらちら見て手にとることはしません。
でも、最初の騒ぎがなかなかおさまらずに、結構長い間平積みになって、次々はけているようにみえると、元来がおっちょこちょいだから、いつかは罠にかかる(笑)。幻冬舎さんの思う壺です。
この作品、まぁそれでも罠にかかって損はありませんでした。面白かったです。率直にいって、文章とか、舌を巻くような「巧い」作品ではありません。反対に、なんだかぎこちなく、かったるいところもあります。部分部分の仕掛けは、みんなどっかで見たことがあるような手口で、推理小説、犯罪小説は私自身はそんなに読んでないけれど、よく読んでいる人なら、そういうところに新鮮味を感じることはなさそうです。
第一章が「犯行」で、カミュやドストエフスキーのように、最初に殺しちゃうので、まさかそれら純文学作家の大作のように、そこに不条理やら罪と罰をめぐる哲学的考察の深みで読ませるわけではないでしょうし、刑事コロンボのように犯人を追い詰めていくプロセスを楽しむのを、犯人の側からどう警察の目をごまかそうと悪あがきをして、犯罪を暴かれていくのか、というところに作品の眼目があるのかな、と思って読んでいくのですが、それにしては「犯行」での犯罪の犯し方が直情的で単純。
やっぱり警察に対抗して犯罪を隠蔽するために闘うプロセス自体がドラマになるほどの犯罪なら、もう少し冷静で知的、計画的な犯罪でなければなりますまい。背景の事情もちょっと単純過ぎませんか?と読んでいく過程で疑問ないし不満を生じます。
だから、かなり読み進むまで、どうも単純すぎて、あんまり面白い小説ではないんでないの?とか思ってしまう。こちらの頭が単純なせいで、作者が故意に単純に描いている部分の単純さに対して、違和感を覚えながらも、その意図を見抜けずに読んでいくわけです。勘のいい読者なら、すぐに、ははぁ、裏があるね、とわかってしまうかもしれません。私ってなんて素直なんでしょう!
で、私個人は、なんとなく不満を感じながらも、それはあの事前に目にした作者と出版の経緯をめぐる伝説のせいもあって、初心の作家の手になる、いささか素朴すぎる推理小説なんでは・・という印象のままに読んでいきます。そして途中から、ははぁ、と納得します。
これ以上書くとネタバレになるので、推理小説だから、まぁ読んでみてください。大きな仕掛けは悪くないです。ただ、伏線の張り方とかは、ほんとに素朴で、あんまり巧くないです。
たとえば、一番最初に恭子の頭の中で、好美という女優を目の前にして「女優-電話の声」という「なんの脈絡もない、唐突な発想」が浮かんでくる、というようなところ。
編集者とのやりとりで何度も書き直し、手直しして、現在の形になった作品だそうです。その苦労の跡がいたるところにまだ散見されるような気がしますが、でも宣伝文句にあるどんでん返しも含めて、私自身は楽しみました。
at 20:47|Permalink│
『クライマーズ・ハイ』(横山秀夫)
映画化されたのは見てないので、原作の小説のほうです。
日航ジャンボ機墜落のときの地方紙(群馬)の日航デスクを張った硬骨漢の記者を主人公とした小説。航空機事故そのものを描くのではなく、この事故が起きたときの地元(隣県)地方紙を出している新聞社の中での編集局を中心とする各部局の動き、同僚や上司や部下との激しいやりとり、協働の中での軋み、確執、その中で露呈される人間的な弱さ、強さが、刻一刻と動いていく状況の中で活写されています。
もう一つ軸があって、それは父と子の関係(疎隔)です。これを社内他部局の同僚で登山仲間とその息子をからめた形で、日航デスクとしての主人公(悠木)の行動と垂直に交わるもう一本の軸として、或る意味で心弱い父親としての人間像を立体感を持って描いています。
著者は実際に群馬の地方紙上毛新聞の記者だった人だそうで、どうやらここに描かれたときの事故のときに現役だったようです。新聞社の編集局のこのときの状況を、これだけの迫真力をもって描ける作家は彼しかなかっただろうと思わせるだけの圧倒的なリアリティがあります。この小説の眼目はまさにそこにあると思います。
昨日でしたか、WowowでドラマWという、ときどきオッと思うような、いい単発ドラマをやる番組があって、時効寸前の事件をときほぐす刑事-学園もので、脇役の刑事などに結構いい役者が出ていたし、冒頭、横山秀夫の原作とクレジットが出たので、期待して見たけれど、なんだか出演者の演技が噛み合わないようなチグハグな印象で、期待はずれでした。
脚本(読んだわけではないけれど)があまり良くないんじゃないかな、と推測したのですが、原作はどうだったでしょうか。原作者は少なくとも『クライマーズ・ハイ』を読んだ限り、すごい筆力を持った作家でした。
日航ジャンボ機墜落のときの地方紙(群馬)の日航デスクを張った硬骨漢の記者を主人公とした小説。航空機事故そのものを描くのではなく、この事故が起きたときの地元(隣県)地方紙を出している新聞社の中での編集局を中心とする各部局の動き、同僚や上司や部下との激しいやりとり、協働の中での軋み、確執、その中で露呈される人間的な弱さ、強さが、刻一刻と動いていく状況の中で活写されています。
もう一つ軸があって、それは父と子の関係(疎隔)です。これを社内他部局の同僚で登山仲間とその息子をからめた形で、日航デスクとしての主人公(悠木)の行動と垂直に交わるもう一本の軸として、或る意味で心弱い父親としての人間像を立体感を持って描いています。
著者は実際に群馬の地方紙上毛新聞の記者だった人だそうで、どうやらここに描かれたときの事故のときに現役だったようです。新聞社の編集局のこのときの状況を、これだけの迫真力をもって描ける作家は彼しかなかっただろうと思わせるだけの圧倒的なリアリティがあります。この小説の眼目はまさにそこにあると思います。
昨日でしたか、WowowでドラマWという、ときどきオッと思うような、いい単発ドラマをやる番組があって、時効寸前の事件をときほぐす刑事-学園もので、脇役の刑事などに結構いい役者が出ていたし、冒頭、横山秀夫の原作とクレジットが出たので、期待して見たけれど、なんだか出演者の演技が噛み合わないようなチグハグな印象で、期待はずれでした。
脚本(読んだわけではないけれど)があまり良くないんじゃないかな、と推測したのですが、原作はどうだったでしょうか。原作者は少なくとも『クライマーズ・ハイ』を読んだ限り、すごい筆力を持った作家でした。
at 20:19|Permalink│
2008年09月13日
直島
夏休みといいながら去年も今年も役割仕事をやっているために、どこにも行けずにいたので、最後の最後に、パートナーと孫と孫のママと一緒に4人で直島へ一泊旅行。パパは仕事でいけず残念がっていた由。
直島は文化施設や地域デザインのようなことを考えていると、一度は行かなくてはマズイと思いながら、これまでなんとなく気が進まなかった。遠いせいもあるけれど、送ってくる「通信」(PR)やホームページを見ると、ひどく人工的な印象があって、せっかくの美しい自然の中にアートだかなんだか知らないけれど、こういう人為的なものをしつらえるやり方は、基本的に好きじゃないな、という印象があったことが第一。
次に、ベネッセがホテルや美術館や色々な施設を建設しているのだが、宿泊客とそうでない客を峻別して、お泊り客優遇で、入れる施設とそうでない施設、使える施設とそうでない施設(駐車場なども)、見せてくれるアートと見せてくれないアートを作り出している点、そして、ベネッセのホテルへの宿泊代が、こうした地方の宿としてはおそろしく高くて、金持ちかそうでないかで振り分けて、推測にすぎないけれど、瀬戸内海を地中海か何かに見立てて、地中海クラブのような金持ちクラブの雰囲気を日本の成金に味あわせようとするかのような雰囲気を持っていることから、なんだか気が進まなかった。
車で4時間以上もかかって行ったので、そんな厭な予感が外れて、「意外に良かったなぁ」、というふうになってくれるといいな、とひそかに願って行ったのだけれど、残念ながらベネッセ関連については(もちろん宿泊はそんな高いところには泊まれないので、民宿に泊まったが、そこはあっさりしていて良かった)悪い予感は9分通り的中してしまった。
一番異様な印象を受けたのは、地中海美術館などで切符のもぎりをやったり、説明をしたり、繰り返し壁もガラスもすべて作品だから絶対さわってはいけないと呪文のように観客に伝えるスタッフの白づくめの服装とその立ち居振る舞い。これはオウム真理教の教会(?そんなのあったっけ?)に迷いこんだのではないか、と思うほど異様な印象で、正直のところ気味が悪かった。
どうやら、ここでは現代アートが一種の宗教のようなものらしく、彼らはその忠実な取り巻きの使徒であって、自分たちが独占する宗教的小道具の数々を何人もあがめたてまつらなくてはならない、という雰囲気を意図的に作り出しているとしか思えなかった。
一番滑稽な矛盾を感じたのは、安藤忠雄の設計した、中庭を見下ろしながら階段を上がったり下がったりして、各展示室を訪れる、コンクリートの打ちっぱなしの建物を歩くのに、「ここは音がとても大きく響くので、大きな声を出さないように」とこちらが大きな声を出しているわけでもないのに、何度もスタッフが観客たちに真面目腐った顔で釘を刺すあたり、可笑しくて思わず噴き出しそうになった。
だって、わざわざこんな、一足歩くごとにカンカラ響くようなコンクリート打ちっぱなしの、狭い壁に床、天井、すべて精一杯残響効果を高めて設計しているのだから、安藤さんはここを歩きながら自分たちが立てる音や声の残響を面白がってくれよ、と考えているに違いないからだ。そうじゃなきゃ、コンクリートの打ちっぱなしなんかの建物でこんな美術館をつくらなければいいんだし、安藤さんがオレのトレードマークだからって打ちっぱなしで作っちゃったんなら、響くのがいやなら布の内張りでもして、カーペットでも敷き詰めればいいでしょう。
美術館が宗教的な瞑想空間みたいな静謐な空間に陳列されたお定まりのスタティックな絵画や彫刻の類を、仏像を「拝観」するように眺める場所だというような固定観念を、このコンクリートの打ちっぱなしのギャラリー自体が嘲笑しているのに、その説明をしたり、案内をしたりするオウム真理教的スタッフたちは、生真面目に「静かに静かに」と観客に抜き足差し足忍び足を強いるのだ。アッハ、これが哂わずして聞けようか。
それに、私たちはベネッセの宿泊客ではないから、全部の作品を見た(みることができた)わけではなく、この島の一部のアートを(ベネッセ宿泊客以外にも見せてくださるベネッセのお情けで!)見せていただいただけだけれど、その範囲で言えば、ここに集められた現代絵画などは既に評価の定まったいわば大家の作品ばかりで、なんだか一昔前の印象派美術館といった感じで、収集家の個性が見えてこない。いや、「印象派」ばかり集めるように、一人の作品でも、ひとつの系統の作品でも徹底的に集めてくれれば面白い場になったと思うが、そういう意志は感じられず、金にあかせて現代美術で既に権威になった作家の作品を総花的に集めているような印象だった。
だいぶ辛口のことばかり書いたけれど、これまで私やパートナーの身近な人でこの直島へ行った人は、例外なく「良かった!素晴らしかった!」と口々に言うので、私ひとりくらいは、率直に感じたことを書いても、お金持ちのベネッセさんには痛くも痒くもないだろうと思ったので、正直に感じたままを書きました。ファンがいたら怒るかもしれないけど(笑)、一人くらいこんなのがいてもいいでしょう。
ただ、私もいいな、と思ったのがないわけではありません。浜辺と港に海をバックに置かれた草間弥生の巨大なかぼちゃ。私の孫もこれが気に入って、最後は波止場の「てんとうむしさん」にしがみついて、船に乗りたがらずに困りました。あと、家プロジェクトの角屋の水に浮かぶ点滅する数字(宮島達男、Sea of Time)、地中海美術館のジェームズ・タレルの作り出した空間など幾つか印象的な作品がありました。
けれども、やはりこの島のありようとして、どこかこれは方向が基本的に違うんじゃないかと思いました。草間弥生の海辺に置かれた作品自体がそのことを示唆しているように思います。
船で島を去るとき、島のほうを眺めていると、手付かずの小さな浜辺がいくつか見えます。企業が莫大な投資をして島の魅力を作り出すというのなら、欧米のお金持ちが好みそうなリゾート風の白亜の殿堂みたいな建物群をつくったり、「地中」に美術館を掘ることに精出すよりも、なぜこの島の人々が海と関わりながら生きてきたであろうその暮らしの風景の中にアートとの接点を見出そうとしなかったんだろう、とその不自然な人為性をいぶかしく思いました。
それにしても、安藤さん、なぜここでもモネの水蓮なんでしょう?こんなところでモネを見ることにどんな意味があるのでしょう?
美術館へ歩いて行く途中でモネの庭と言ってもいい色合いの花々が咲く、小さな路傍の池(もちろん水蓮が咲く)と花壇がありました。が、この暑さ。3人くらいの大の男がホースで水を撒き、伸びた草本を刈り込んでいました。こうして膨大な人件費をかけてこの小さなモネの庭は守られているのでしょう。たしかに花の色は綺麗だけれど、そのどこか自然もアートも履き違えたようにみえる人為性に、違和感を覚えました。オウム真理教風のユニフォームほどではなかったけれど(笑)。
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