2008年08月
2008年08月30日
「魔王」(韓流ドラマ)
このところ、毎週(金曜日)楽しみにしているドラマに、京都テレビで午後11時から1時間やっている韓国のオリジナルのほうの「魔王」がある。
なんとその直前に他のチャンネルで、このオリジナル版をなぞった和製「魔王」を放映しているのだが、こちらは何回か見て、見るのをやめてしまった。一所懸命演じている俳優さんには悪いが、どの役をとっても、オリジナル版の俳優のほうが数段「格上」という印象だ。
きょうも見ていて、カン・オス(オム・テオン)、オ・スンハ(チュ・ジフン)、ソ・ヘイン(シン・ミナ)の主役3人は無論のこと、ナ・ソクジン役のキム・ヨンジェ、スンハの「姉」役の女優、こういう脇役ひとつとっても素晴らしい。
胸のうちに万感の思いをかかえながら、しかも口にすることができずに耐えている、あぁいう表情の演技がこちらの心に迫るほどにできる若い俳優というのをなかなか日本の俳優で思い浮かべることができない。
もちろんこれは完全にエンターテインメントで、基調は浪花節でメロドラマだが、脚本も本当に感心するくらい手が込んでいて、こちらも見ているとどんどん深みにはまっていく。(途中から見るには辛いかもしれないけれど。)
ほんとうに、いつの間に韓国は映画もテレビドラマも、こんなに素晴らしい脚本家、ディレクター、俳優たちを、かくも大量に生み出したのだろう?
韓国が国策として映画づくりに梃入れした、というのはずいぶん以前に聞いていたけれど、こうしてあまりにも明々白々な結果を突きつけられると、劣悪な条件のもとでも芸術的な才能はちゃんと出てくるものだ、などという神話が絵空事に思えてくる。
その韓流ドラマが進行中に、それをなぞった格下の和製リメイクを放映して、わざわざ落差を見せつけてくれるのは悪い冗談のように思える。
なんとその直前に他のチャンネルで、このオリジナル版をなぞった和製「魔王」を放映しているのだが、こちらは何回か見て、見るのをやめてしまった。一所懸命演じている俳優さんには悪いが、どの役をとっても、オリジナル版の俳優のほうが数段「格上」という印象だ。
きょうも見ていて、カン・オス(オム・テオン)、オ・スンハ(チュ・ジフン)、ソ・ヘイン(シン・ミナ)の主役3人は無論のこと、ナ・ソクジン役のキム・ヨンジェ、スンハの「姉」役の女優、こういう脇役ひとつとっても素晴らしい。
胸のうちに万感の思いをかかえながら、しかも口にすることができずに耐えている、あぁいう表情の演技がこちらの心に迫るほどにできる若い俳優というのをなかなか日本の俳優で思い浮かべることができない。
もちろんこれは完全にエンターテインメントで、基調は浪花節でメロドラマだが、脚本も本当に感心するくらい手が込んでいて、こちらも見ているとどんどん深みにはまっていく。(途中から見るには辛いかもしれないけれど。)
ほんとうに、いつの間に韓国は映画もテレビドラマも、こんなに素晴らしい脚本家、ディレクター、俳優たちを、かくも大量に生み出したのだろう?
韓国が国策として映画づくりに梃入れした、というのはずいぶん以前に聞いていたけれど、こうしてあまりにも明々白々な結果を突きつけられると、劣悪な条件のもとでも芸術的な才能はちゃんと出てくるものだ、などという神話が絵空事に思えてくる。
その韓流ドラマが進行中に、それをなぞった格下の和製リメイクを放映して、わざわざ落差を見せつけてくれるのは悪い冗談のように思える。
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2008年08月27日
『誰よりも美しい妻』(井上荒野)
『切羽へ』の作家を読むのは、「切羽へ」と、エッセイ集と短編集『夜を着る』に次いで4冊目です。
どれを読んでも面白くて期待を裏切られません。たぶん今後もそうでしょう。そう言い切れるだけの安定感と、舌を巻くほか無いほどの手練れぶりがいたるところで見られ、小説を読む楽しさを堪能させてくれます。
それにしてもコワイ小説ですねぇ。こういうのを読んで震え上がらない男性がいるでしょうか?(笑)
ただし、三十代以降、六十代までの男性?(六十代まで加えたのは、私のミエかも・・笑)
妻を騙しおおせているつもりの浮気なヴァイオリニストの夫も、この美しくて慧眼な妻の掌でチョロチョロ泳がせてもらっている幼児のようにみえます。少なくとも当面は。
ここには疑惑にとらわれて夫の行動をひそかに調べたり、かまをかけたり、厭味を言う妻もいなければ、嫉妬に駆られて夫や愛人に激情をぶつける妻もいません。
また復讐のためであれ、心の空白を満たすためであれ、自分も浮気して見返してやれ、という妻もいません。かといって、夫に心を閉ざし、凍りついてしまうのでもないし、もともと「愛情が無い」わけでもありません。「まったく私は、惣介を愛さずにはいられない」(P81)のです。
「私が夫を愛することをやめたら、夫は廃人のようになってしまうだろう。少なくとも、ヴァイオリンは弾き続けられないだろう。それは、それほど夫が私を愛しているからではない。私が夫を愛しているからだ。私が自分を愛し続けることを、惣介は信じているからだ。宗教のように。」
この「美しい妻」の反応は、夫に裏切られる妻を描く、これまでのどんな(夫の)不倫小説に登場する妻の反応とも違って見えます。でも、読んでいると、この女性が特異な女性には思えません。むしろいままで私たちが読んできたパターン化された男女のありようが、ひどく単純化された嘘っぽいものだったように思えてくるから不思議です。
「男は終わると冷淡になる、とはよく聞くことだが、惣介も例外ではなくて、しかもそれを隠そうとしない。でも、そんなふうに振舞われることが、園子はいやではない。面川遥とか、それ以前の多くの恋人たちと寝たあとは、たぶん惣介は冷淡だと思われないように、幾許かの演技を---へたくそで、すぐばれるような演技を---するのだろう、と考える。すると何か、微かな優越感を覚えさえするのだ。」
ずいぶん屈折した愛情というか、妻の夫に対する所有感覚?のようだけれど、この「美しい妻」の、このような感じ方、夫の受け止め方というのはディテールまで一貫していて、ウブな私などは自分がいかに女性というのをまったく知らないかを思い知らされ、「ははぁ・・・」と感心するばかり(笑)。
もちろん、こういう女性はいかにすべてお見通しの慧眼をもち、「神様」のように「人の運命をつかさどる」ような存在であったとしても、通俗的なフェミニストに言わせれば、結果的には男にとって都合のいい女性だ、といわれるのでしょう。
実際、惣介は釈迦の掌の上で遊ぶテンネンの幼児性でもって、やりたい放題、面川遥への残酷さ、友人に代わって抗議に来た十和子を遥に代えて愛人にしてしまうしたたかさです。
でも、そんなことはどうでもよろしい。男も女もそう単純じゃない、ってことがこの作品を読めばよほど教条的な人でないかぎり分かるはずですから。
惣介と園子の息子・深の視点で描かれる部分もなかなか面白い。
「岩崎みく、と深は思う。
彼女のことを考えているのだが、やっぱりヴァイオリンを弾きたいような気もした。二つの気分は、よく似ているのだ。
ふと思いが、母に飛んだ。母は女で、岩崎みくも女だ、とふいに気がついた。
そうか、と深は思う。それはなんだか納得がいくことだ。」
深の隠語「海」と「山」も思わず笑ってしまう。
また、惣介の前妻で、かつては嫉妬の激情を園子にぶつけたこともあるが、いまでは園子と「あのバカ男」惣介のことを話す相手である緒方みちるの視点。
「みちるから惣介を易々と攫っていった、腹立たしく美しい女のことを、みちるは今はもう恨んではいなかった。むしろ今は園子のことを、生贄みたいに思っている。
ただ奇妙なのは---それは不眠の原因の一つ、深酒の誘因の一つでもあるのだが---園子は生贄それ自体のように見えるけれど、その生贄を惣介に捧げたのも、園子本人みたいに思えることだった。」
そのみちるが小説のラストシーン近くで、(惣介の友人で惣介の浮気も知っていて園子に近づいていた広渡が園子から去っていった直後に)園子に、もう会いに来ないで、と電話をかけてくる。電話もだめ、手紙もいらない、と。いわば自分の虚構を共犯者のように共有して自分の日常を支えてくれていた二人を失った園子の描写。
「受話器を置いた電話の前で、園子はじっと身を固くしながら、降り積もった埃に似た淋しさが体の中で舞い上がり、何かべつのものに形を変えて、再び体の底に降り積もるのを待った。」
こういう一行に出逢うと参ってしまう。昔、三島由紀夫の「春の雪」が出たとき、その中のほんの一行、合歓の葉が閉じるように膝を閉じた、というようなところにしきりに感心していたら、友人の一人が怪訝な顔をして、そういう感心の仕方はおまえだけだよ、と言われて、そんなもんかな、と思ったけれど、この作品についてもこういうところを取り上げて、うまいよなぁ、と感心していると、同じことを言われるでしょうか。
作品のラストを読むと益々コワイ小説だなぁと思います。
「誰にも言っていないし、ぜったいに言えない、と思っていることがあった。広渡にも、みちるにも、勿論惣介にも、それに今この瞬間まで、自分自身にも、あきらかにできなかったこと。」
・・・どうです?気になるでしょう?それがどんなことかは、もちろんこの作品を最後までお読みになればわかります。ぜひどうぞ、お薦めの一冊。
どれを読んでも面白くて期待を裏切られません。たぶん今後もそうでしょう。そう言い切れるだけの安定感と、舌を巻くほか無いほどの手練れぶりがいたるところで見られ、小説を読む楽しさを堪能させてくれます。
それにしてもコワイ小説ですねぇ。こういうのを読んで震え上がらない男性がいるでしょうか?(笑)
ただし、三十代以降、六十代までの男性?(六十代まで加えたのは、私のミエかも・・笑)
妻を騙しおおせているつもりの浮気なヴァイオリニストの夫も、この美しくて慧眼な妻の掌でチョロチョロ泳がせてもらっている幼児のようにみえます。少なくとも当面は。
ここには疑惑にとらわれて夫の行動をひそかに調べたり、かまをかけたり、厭味を言う妻もいなければ、嫉妬に駆られて夫や愛人に激情をぶつける妻もいません。
また復讐のためであれ、心の空白を満たすためであれ、自分も浮気して見返してやれ、という妻もいません。かといって、夫に心を閉ざし、凍りついてしまうのでもないし、もともと「愛情が無い」わけでもありません。「まったく私は、惣介を愛さずにはいられない」(P81)のです。
「私が夫を愛することをやめたら、夫は廃人のようになってしまうだろう。少なくとも、ヴァイオリンは弾き続けられないだろう。それは、それほど夫が私を愛しているからではない。私が夫を愛しているからだ。私が自分を愛し続けることを、惣介は信じているからだ。宗教のように。」
この「美しい妻」の反応は、夫に裏切られる妻を描く、これまでのどんな(夫の)不倫小説に登場する妻の反応とも違って見えます。でも、読んでいると、この女性が特異な女性には思えません。むしろいままで私たちが読んできたパターン化された男女のありようが、ひどく単純化された嘘っぽいものだったように思えてくるから不思議です。
「男は終わると冷淡になる、とはよく聞くことだが、惣介も例外ではなくて、しかもそれを隠そうとしない。でも、そんなふうに振舞われることが、園子はいやではない。面川遥とか、それ以前の多くの恋人たちと寝たあとは、たぶん惣介は冷淡だと思われないように、幾許かの演技を---へたくそで、すぐばれるような演技を---するのだろう、と考える。すると何か、微かな優越感を覚えさえするのだ。」
ずいぶん屈折した愛情というか、妻の夫に対する所有感覚?のようだけれど、この「美しい妻」の、このような感じ方、夫の受け止め方というのはディテールまで一貫していて、ウブな私などは自分がいかに女性というのをまったく知らないかを思い知らされ、「ははぁ・・・」と感心するばかり(笑)。
もちろん、こういう女性はいかにすべてお見通しの慧眼をもち、「神様」のように「人の運命をつかさどる」ような存在であったとしても、通俗的なフェミニストに言わせれば、結果的には男にとって都合のいい女性だ、といわれるのでしょう。
実際、惣介は釈迦の掌の上で遊ぶテンネンの幼児性でもって、やりたい放題、面川遥への残酷さ、友人に代わって抗議に来た十和子を遥に代えて愛人にしてしまうしたたかさです。
でも、そんなことはどうでもよろしい。男も女もそう単純じゃない、ってことがこの作品を読めばよほど教条的な人でないかぎり分かるはずですから。
惣介と園子の息子・深の視点で描かれる部分もなかなか面白い。
「岩崎みく、と深は思う。
彼女のことを考えているのだが、やっぱりヴァイオリンを弾きたいような気もした。二つの気分は、よく似ているのだ。
ふと思いが、母に飛んだ。母は女で、岩崎みくも女だ、とふいに気がついた。
そうか、と深は思う。それはなんだか納得がいくことだ。」
深の隠語「海」と「山」も思わず笑ってしまう。
また、惣介の前妻で、かつては嫉妬の激情を園子にぶつけたこともあるが、いまでは園子と「あのバカ男」惣介のことを話す相手である緒方みちるの視点。
「みちるから惣介を易々と攫っていった、腹立たしく美しい女のことを、みちるは今はもう恨んではいなかった。むしろ今は園子のことを、生贄みたいに思っている。
ただ奇妙なのは---それは不眠の原因の一つ、深酒の誘因の一つでもあるのだが---園子は生贄それ自体のように見えるけれど、その生贄を惣介に捧げたのも、園子本人みたいに思えることだった。」
そのみちるが小説のラストシーン近くで、(惣介の友人で惣介の浮気も知っていて園子に近づいていた広渡が園子から去っていった直後に)園子に、もう会いに来ないで、と電話をかけてくる。電話もだめ、手紙もいらない、と。いわば自分の虚構を共犯者のように共有して自分の日常を支えてくれていた二人を失った園子の描写。
「受話器を置いた電話の前で、園子はじっと身を固くしながら、降り積もった埃に似た淋しさが体の中で舞い上がり、何かべつのものに形を変えて、再び体の底に降り積もるのを待った。」
こういう一行に出逢うと参ってしまう。昔、三島由紀夫の「春の雪」が出たとき、その中のほんの一行、合歓の葉が閉じるように膝を閉じた、というようなところにしきりに感心していたら、友人の一人が怪訝な顔をして、そういう感心の仕方はおまえだけだよ、と言われて、そんなもんかな、と思ったけれど、この作品についてもこういうところを取り上げて、うまいよなぁ、と感心していると、同じことを言われるでしょうか。
作品のラストを読むと益々コワイ小説だなぁと思います。
「誰にも言っていないし、ぜったいに言えない、と思っていることがあった。広渡にも、みちるにも、勿論惣介にも、それに今この瞬間まで、自分自身にも、あきらかにできなかったこと。」
・・・どうです?気になるでしょう?それがどんなことかは、もちろんこの作品を最後までお読みになればわかります。ぜひどうぞ、お薦めの一冊。
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2008年08月25日
うまい小説・へたな小説
長嶋有の『ジャージの二人』と井上荒野の『夜を着る』を、たまたま続けて読んだ。
そうすると、自然に、「うまい小説・へたな小説」という言葉が浮かんできた。
ここでいう「うまい・へた」は作品が文学的に価値があるかどうか、すぐれた作品かどうか、ということとは違う。
ここでは、『夜を着る』が「うまい小説」。同じ作者の直木賞をもらった『切羽へ』も同じ。ほかにただちに思い浮かぶのは、向田邦子の『思い出トランプ』、最近だと山田詠美の『風味絶佳』。
こういう作品は、ときに「うますぎる」というような否定的ニュアンスを含んだ奇妙な評し方をされることがあるけれど、舌がとろけるようなグルメを、ほんとに舌なめずりして食べるようなところがある。舌を巻いて感心するようなところが何箇所もあって、小説を読む楽しみを堪能させてくれる。
(その意味では、若い学生さん、ぜひ『夜を着る』の冒頭に収められた「アナーキー」という短編を読まれるといいと思います。)
『ジャージの二人』は、ここでいう「へたな小説」。「へたな小説」は世の中になんぼでもあるけれど、その多くは単に「つまらない小説」。でも『ジャージの二人』はそうではない。「うまい小説」はその良さを簡単に指摘できるけれど、「へた」で「つまらなくない」小説の良さを指摘するのはそう簡単じゃない。
この作品はなんというか文体が「脱力系」なんですね。良いように言えば、気取りがない。文学でございという臭みがない。ケレン味がない。気負いがない。良いように言わなければ、そっけない。サービス精神が足りない。客の前へジャージで出てくる感じ?だから「ジャージの二人」なのかな?(笑)
「僕」が「別荘」へ行くこと自体が、夫である「僕」ではない不倫相手の子供を産みたがっている妻との関係抜きでは無かったことだろうし、全編にわたって「僕」の意識の中心は妻とのことで占められているはずなのだけれど、「僕」はその中心を視界に入れながら、いつも焦点はそれ以外の何かに合わせている。
小説の描写としては、その「僕」が焦点を合わせている外部のモノやヒトやコトが淡々と描かれている「だけ」のようにみえるし、そのモノやヒトやコトになにか特異なところがあるわけでもなく、劇的な展開があるのでもない。だいたい次に何か物珍しい、新しいことが起こりそうな気がしないから、そういう意味では面白くもなんともない。
ではアンチロマン風に、外部のモノやヒトやコトを「僕」の気持ちや語り手の意図と無関係にただそこにあるモノやヒトやコトとして、意味づけされない対象として即物的に描いているのかというと(解説者はそう読んでいるようだけれど)、そうは思えない。
もしも語り手の意味づけや「僕」の気持ちから独立した対象それ自体に関心があって、そこに新鮮な驚きを見出してこのような外部のモノやヒトやコトを描いているのだとすれば、一つ一つの細部はもっと新鮮で、初めてその対象を見る幼児のように初々しい眼差しで見るはずだ。そのときには、米粒が一粒一粒立つように言葉が立つだろう。
でも、この小説の描写はそうではない。ここで描かれる対象はそうではない。むしろきわめてありきたりで陳腐な対象を、ありきたりで陳腐な眼差しで几帳面に追っている。むしろ紋切り型のそっけない視線しか注がないぞ、と決意しているかのようだ。
それは「僕」が本能的に正面から見るべきものを避けて、これら外部の何の変哲もない対象に焦点をあわせ、そこに意識的に視線をとどめているせいだ。
「僕」がこれら外部の対象のディテールに本気で関心を持って、新鮮なまなざしでその対象を見、自分の気持ちとは関わりのないそのもの自体の意味を開示している、というようなことは、この作品では起きていない。
むしろ彼は見るべきものを視野に入れながら、そこに焦点をあわせないために、これら外部のとりとめないモノたち、ヒトたち、コトたちに焦点をあわせ、几帳面にその表面を鮮明な像としてなぞっていく。
だから、そっけなさの印象は、ほんとうは関心が無いくせに、やたらディテールにこだわっているかのような視線を外部に向け、この次にはこれが見えて、その次にはこれこれが見える、というふうに、ことこまかに手順が辿られる、その「僕」のスタンスに由来する。
この、対象に向かう意欲を欠く本質的な無関心と淡白さが脱力系の印象を与えている。
対象を描く言葉はありきたりで、対象に食い込むこともなく、対象の意味を豊かに開示することもない。対象を描く文体は貧しく、その貧しさに「僕」の妻とのかかわりにおけるいま現在のありようを見なければ、これはおそろしく「へたな小説」でしかない。
敵は本能寺にあるのだと思う。その本能寺に向かうことを「僕」に禁じて、めざす敵のいないことがわかっている別の場所ばかり探すから、その抑圧のエネルギー分だけ、探し方が無意味にディテールにこだわって鮮明になる。逆にいうと、その無意味さにだけ意味がある。
「でも、夜がこんなに暗いってことを東京の人にどんなに説明しても、うまく説明できないの。いいなあとか、星が綺麗なんでしょうとか、そんなふうにいわれちゃうの」いいなあとか、そういうんじゃなくて、暗いってことだけ伝えたいのにな。
これが解説者柴崎友香が引用した作中の「花ちゃん」の言葉。でも「僕」が対象を見て描写するとき、「暗いってことだけ」伝えている、というほど素朴ではない。
むしろ、「暗いってことだけ」(妻との関係)を伝えたいのに、「花ちゃん」が言うように、そんなふうに直接、素朴に言っても、絶対に読者には伝わらないことを作者は知っているからこそ、このような「無意味」なディテールをえんえんと描写していく迂回路を通って、この作品は「暗いってことだけ」を伝えようとしているのではないか。
ではなぜ「僕」は、どこの夫婦にもありふれた他愛ないことのようにみえる、そんな妻との関係のありように、そっけない脱力系の文体を全編にくりひろげて拮抗させてみせなくてはならないほどこだわるのだろうか。
「僕」は、佇まいも性格も趣味嗜好も異なる妻と「花ちゃん」が「同じ」だと感じる自分の感じ方を辿っていって、「この世界にとって、今この瞬間にこの場所でそれをした人が花ちゃんでも妻でもどっちでもよかった、そういう感じだ」と思い、こう考える。
「そのように捉えていくと、妻の心変わりは世界の心変わりだ、そうはいえないか。僕は目を閉じた。僕はレコード針のようなもので、小さな点としてしか世界に触れることができない。だが触れている点にたまたまいた小さな妻と世界とは、実は地続きなのだ。」
そうすると、自然に、「うまい小説・へたな小説」という言葉が浮かんできた。
ここでいう「うまい・へた」は作品が文学的に価値があるかどうか、すぐれた作品かどうか、ということとは違う。
ここでは、『夜を着る』が「うまい小説」。同じ作者の直木賞をもらった『切羽へ』も同じ。ほかにただちに思い浮かぶのは、向田邦子の『思い出トランプ』、最近だと山田詠美の『風味絶佳』。
こういう作品は、ときに「うますぎる」というような否定的ニュアンスを含んだ奇妙な評し方をされることがあるけれど、舌がとろけるようなグルメを、ほんとに舌なめずりして食べるようなところがある。舌を巻いて感心するようなところが何箇所もあって、小説を読む楽しみを堪能させてくれる。
(その意味では、若い学生さん、ぜひ『夜を着る』の冒頭に収められた「アナーキー」という短編を読まれるといいと思います。)
『ジャージの二人』は、ここでいう「へたな小説」。「へたな小説」は世の中になんぼでもあるけれど、その多くは単に「つまらない小説」。でも『ジャージの二人』はそうではない。「うまい小説」はその良さを簡単に指摘できるけれど、「へた」で「つまらなくない」小説の良さを指摘するのはそう簡単じゃない。
この作品はなんというか文体が「脱力系」なんですね。良いように言えば、気取りがない。文学でございという臭みがない。ケレン味がない。気負いがない。良いように言わなければ、そっけない。サービス精神が足りない。客の前へジャージで出てくる感じ?だから「ジャージの二人」なのかな?(笑)
「僕」が「別荘」へ行くこと自体が、夫である「僕」ではない不倫相手の子供を産みたがっている妻との関係抜きでは無かったことだろうし、全編にわたって「僕」の意識の中心は妻とのことで占められているはずなのだけれど、「僕」はその中心を視界に入れながら、いつも焦点はそれ以外の何かに合わせている。
小説の描写としては、その「僕」が焦点を合わせている外部のモノやヒトやコトが淡々と描かれている「だけ」のようにみえるし、そのモノやヒトやコトになにか特異なところがあるわけでもなく、劇的な展開があるのでもない。だいたい次に何か物珍しい、新しいことが起こりそうな気がしないから、そういう意味では面白くもなんともない。
ではアンチロマン風に、外部のモノやヒトやコトを「僕」の気持ちや語り手の意図と無関係にただそこにあるモノやヒトやコトとして、意味づけされない対象として即物的に描いているのかというと(解説者はそう読んでいるようだけれど)、そうは思えない。
もしも語り手の意味づけや「僕」の気持ちから独立した対象それ自体に関心があって、そこに新鮮な驚きを見出してこのような外部のモノやヒトやコトを描いているのだとすれば、一つ一つの細部はもっと新鮮で、初めてその対象を見る幼児のように初々しい眼差しで見るはずだ。そのときには、米粒が一粒一粒立つように言葉が立つだろう。
でも、この小説の描写はそうではない。ここで描かれる対象はそうではない。むしろきわめてありきたりで陳腐な対象を、ありきたりで陳腐な眼差しで几帳面に追っている。むしろ紋切り型のそっけない視線しか注がないぞ、と決意しているかのようだ。
それは「僕」が本能的に正面から見るべきものを避けて、これら外部の何の変哲もない対象に焦点をあわせ、そこに意識的に視線をとどめているせいだ。
「僕」がこれら外部の対象のディテールに本気で関心を持って、新鮮なまなざしでその対象を見、自分の気持ちとは関わりのないそのもの自体の意味を開示している、というようなことは、この作品では起きていない。
むしろ彼は見るべきものを視野に入れながら、そこに焦点をあわせないために、これら外部のとりとめないモノたち、ヒトたち、コトたちに焦点をあわせ、几帳面にその表面を鮮明な像としてなぞっていく。
だから、そっけなさの印象は、ほんとうは関心が無いくせに、やたらディテールにこだわっているかのような視線を外部に向け、この次にはこれが見えて、その次にはこれこれが見える、というふうに、ことこまかに手順が辿られる、その「僕」のスタンスに由来する。
この、対象に向かう意欲を欠く本質的な無関心と淡白さが脱力系の印象を与えている。
対象を描く言葉はありきたりで、対象に食い込むこともなく、対象の意味を豊かに開示することもない。対象を描く文体は貧しく、その貧しさに「僕」の妻とのかかわりにおけるいま現在のありようを見なければ、これはおそろしく「へたな小説」でしかない。
敵は本能寺にあるのだと思う。その本能寺に向かうことを「僕」に禁じて、めざす敵のいないことがわかっている別の場所ばかり探すから、その抑圧のエネルギー分だけ、探し方が無意味にディテールにこだわって鮮明になる。逆にいうと、その無意味さにだけ意味がある。
「でも、夜がこんなに暗いってことを東京の人にどんなに説明しても、うまく説明できないの。いいなあとか、星が綺麗なんでしょうとか、そんなふうにいわれちゃうの」いいなあとか、そういうんじゃなくて、暗いってことだけ伝えたいのにな。
これが解説者柴崎友香が引用した作中の「花ちゃん」の言葉。でも「僕」が対象を見て描写するとき、「暗いってことだけ」伝えている、というほど素朴ではない。
むしろ、「暗いってことだけ」(妻との関係)を伝えたいのに、「花ちゃん」が言うように、そんなふうに直接、素朴に言っても、絶対に読者には伝わらないことを作者は知っているからこそ、このような「無意味」なディテールをえんえんと描写していく迂回路を通って、この作品は「暗いってことだけ」を伝えようとしているのではないか。
ではなぜ「僕」は、どこの夫婦にもありふれた他愛ないことのようにみえる、そんな妻との関係のありように、そっけない脱力系の文体を全編にくりひろげて拮抗させてみせなくてはならないほどこだわるのだろうか。
「僕」は、佇まいも性格も趣味嗜好も異なる妻と「花ちゃん」が「同じ」だと感じる自分の感じ方を辿っていって、「この世界にとって、今この瞬間にこの場所でそれをした人が花ちゃんでも妻でもどっちでもよかった、そういう感じだ」と思い、こう考える。
「そのように捉えていくと、妻の心変わりは世界の心変わりだ、そうはいえないか。僕は目を閉じた。僕はレコード針のようなもので、小さな点としてしか世界に触れることができない。だが触れている点にたまたまいた小さな妻と世界とは、実は地続きなのだ。」
at 02:15|Permalink│
2008年08月22日
『宿屋めぐり』(町田康)
摂津富田あたりで人身事故があったとかで、阪急電車の茨木?高槻間が一時運転休止になり、結局電車にいつもより45分もよけいに乗っていたおかげで、600ページを超える『宿屋めぐり』を通勤の往復車中と、夕食後の休憩時間で読み終えました。
町田康の作品は、「話すように書く」話体の典型のような作品で、それも勢いがあってテンポがいいので、ほかのいわゆる純文学の作家の作品に比べればはるかにスピーディーに読み進むことができます。
だからといって、わかりやすいわけでも、「軽い」わけでもありません。近頃はやりの「ケータイ小説」だの「ライトノベルズ」なんかのような、パターン化された通俗物語のモジュールを編成するだけの、工業生産方式を模倣した情報生産(production)ではなくて、つねに未踏の更地へ一歩踏み出していくまさしく創作(creation)の面白さに満ちています。
それにしても、冒頭から得体の知れない「白いくにゅくにゅ」が登場したと思えばわれらが主人公が、どうやら現実と非現実、この世とあの世の境らしい「くにゅくにゅ」の中へのめりこんでしまって、あちらの世界へ行ってしまうとか、種も仕掛けもなしに指先から火焔放射器のように火焔を噴出させたり、空中に浮揚したり、孫悟空を吸い込んでしまう金角・銀角の瓶のように水と共に人間たちを吸い込んでしまう徳利が出てきたり、果ては「秘密」じゃないけど男女入れ替わりまである・・
あまりの荒唐無稽に、こりゃなんじゃい、と思わず苦笑してしまうところもあるけれど、今回は町田さん、そこまで突き抜けてやっちゃったんだなぁ?、という感じですね。
最初にこの世とあの世(空想の世界)の境を超えちゃったら、もはや何でもあり。あとは力技でぐいぐい引っ張っていかれちゃう。引っ張っていってくれるだけの筆力がありますから600ページ超といっても退屈はしません。
じゃこれ、口から出まかせ、イケイケドンドンでいっちゃえばいい、って読み物なの?というと、いやもう、われわれ無責任に楽しめばいい読者としては、ほとんどそう言っちゃっていいと思います。
でも作者のほうはそうはいかないのでしょうから、イケイケドンドンで未踏の砂漠だかジャングルだか知らないけど踏んでいくとき、闇雲に行ってもちっとも進まないわけですから、勘であれ、GPSで精密に緯度経度を割り出してであれ、方向感覚を定めて行ってるはず。
その方向感覚を背後で統御しているのは、われらがヒーロー鋤名彦名とその「主」(新訳聖書のイエスの言葉ばかり吐いているけど、「主」というなら神様になっちゃうけど"the Lord"ですね)の関係なのでしょう。でもそっちをやりだすと理屈っぽくなってややっこしいから、今日はカット(笑)。
「鋤名彦名」が「少名毘古那」(少彦名)なら、妣が国(海の向こう)からやってきてまた海の彼方の常世の国へ帰って行くんだそうですから、もともとこの世とあの世、現実と非現実(空想界)の間を往来する存在なんでしょうし、スサノオの直系だそうですから、鋤名彦名のあの乱暴狼藉も不思議ではありません。おまけに少名毘古那は幻術士だったという説まであるそうですから、鋤名彦名が「奇術」ならぬ「奇蹟」を行なうのも当然かもしれません。
われらがヒーローの名前ひとつとっても、イケイケドンドンのイにもケにも凝りに凝った仕掛けがあるのかもしれないけれど、そんなこたぁ読者としてはうっちゃっといて、リズムに身を委ねてしまえば楽しめます。
それにしても、このリズム、あの喧嘩次郎兵衛さんの登場する「ロマネスク」にみるような奇想=想像力の羽ばたきかた、物語にどんどん同時代語を投入していく面白さ、ヒーローをはじめ繊細な登場人物たちの自意識過剰の韜晦、おなじく登場人物にしばしば見られる、「駆込み訴へ」のユダのようなクールでひねこびた視点、それにもちろんイケイケドンドン、あのイタコのリズム、落語の語り口・・・
これはすばらしい作品だった『告白』について書いたときも触れたけれど、疑いようもなくこの作者は太宰治から根底的な影響を受けているに違いないし、同時代の太宰は誰か、といえばこの人を措いて、よりぴったりという作家はいないだろうという気がします。
こんな600ページもの大作を書いちゃうと、ヒロポン中毒でこんな大作を書き上げる体力がなかったに違いない太宰が嫉妬するかもしれません。「駆込み訴へ」の長編バージョン?
でも太宰よりだいぶ泥臭い。う?ん、それを大阪的、関西的、と言っちゃっていいのかどうかは分からないけれど、登場人物たちの対話は、大阪の人なら素人でもその場でみせてくれるボケとツッコミの印象に近いような気がします。
力作で充分に町田ワールドを楽しめますが、私はやっぱり史実の堅固なフレームの上に想像力を羽ばたかせた『告白』のほうが好きです。そこでは史実の制約が制約にならずに、想像力に堅固な基礎を与え、想像力を刺激し、飛翔させるベースになっていて、抑制が作品の強度になっていました。
今回の作品はまったく岩山から解き放たれた孫悟空のように、ヒーローたちは地上と天界の境を超えて軽々と飛翔し、アクロバット飛行のつくる飛行機雲のように天衣無縫の華やかな軌跡をみせてくれますが、その空想の絵巻が心を撃つ強度は拡散によって、かえってやや劣り、私たちはただ空に描かれる奇想天外な絵模様を楽しむというふうです。
町田康の作品は、「話すように書く」話体の典型のような作品で、それも勢いがあってテンポがいいので、ほかのいわゆる純文学の作家の作品に比べればはるかにスピーディーに読み進むことができます。
だからといって、わかりやすいわけでも、「軽い」わけでもありません。近頃はやりの「ケータイ小説」だの「ライトノベルズ」なんかのような、パターン化された通俗物語のモジュールを編成するだけの、工業生産方式を模倣した情報生産(production)ではなくて、つねに未踏の更地へ一歩踏み出していくまさしく創作(creation)の面白さに満ちています。
それにしても、冒頭から得体の知れない「白いくにゅくにゅ」が登場したと思えばわれらが主人公が、どうやら現実と非現実、この世とあの世の境らしい「くにゅくにゅ」の中へのめりこんでしまって、あちらの世界へ行ってしまうとか、種も仕掛けもなしに指先から火焔放射器のように火焔を噴出させたり、空中に浮揚したり、孫悟空を吸い込んでしまう金角・銀角の瓶のように水と共に人間たちを吸い込んでしまう徳利が出てきたり、果ては「秘密」じゃないけど男女入れ替わりまである・・
あまりの荒唐無稽に、こりゃなんじゃい、と思わず苦笑してしまうところもあるけれど、今回は町田さん、そこまで突き抜けてやっちゃったんだなぁ?、という感じですね。
最初にこの世とあの世(空想の世界)の境を超えちゃったら、もはや何でもあり。あとは力技でぐいぐい引っ張っていかれちゃう。引っ張っていってくれるだけの筆力がありますから600ページ超といっても退屈はしません。
じゃこれ、口から出まかせ、イケイケドンドンでいっちゃえばいい、って読み物なの?というと、いやもう、われわれ無責任に楽しめばいい読者としては、ほとんどそう言っちゃっていいと思います。
でも作者のほうはそうはいかないのでしょうから、イケイケドンドンで未踏の砂漠だかジャングルだか知らないけど踏んでいくとき、闇雲に行ってもちっとも進まないわけですから、勘であれ、GPSで精密に緯度経度を割り出してであれ、方向感覚を定めて行ってるはず。
その方向感覚を背後で統御しているのは、われらがヒーロー鋤名彦名とその「主」(新訳聖書のイエスの言葉ばかり吐いているけど、「主」というなら神様になっちゃうけど"the Lord"ですね)の関係なのでしょう。でもそっちをやりだすと理屈っぽくなってややっこしいから、今日はカット(笑)。
「鋤名彦名」が「少名毘古那」(少彦名)なら、妣が国(海の向こう)からやってきてまた海の彼方の常世の国へ帰って行くんだそうですから、もともとこの世とあの世、現実と非現実(空想界)の間を往来する存在なんでしょうし、スサノオの直系だそうですから、鋤名彦名のあの乱暴狼藉も不思議ではありません。おまけに少名毘古那は幻術士だったという説まであるそうですから、鋤名彦名が「奇術」ならぬ「奇蹟」を行なうのも当然かもしれません。
われらがヒーローの名前ひとつとっても、イケイケドンドンのイにもケにも凝りに凝った仕掛けがあるのかもしれないけれど、そんなこたぁ読者としてはうっちゃっといて、リズムに身を委ねてしまえば楽しめます。
それにしても、このリズム、あの喧嘩次郎兵衛さんの登場する「ロマネスク」にみるような奇想=想像力の羽ばたきかた、物語にどんどん同時代語を投入していく面白さ、ヒーローをはじめ繊細な登場人物たちの自意識過剰の韜晦、おなじく登場人物にしばしば見られる、「駆込み訴へ」のユダのようなクールでひねこびた視点、それにもちろんイケイケドンドン、あのイタコのリズム、落語の語り口・・・
これはすばらしい作品だった『告白』について書いたときも触れたけれど、疑いようもなくこの作者は太宰治から根底的な影響を受けているに違いないし、同時代の太宰は誰か、といえばこの人を措いて、よりぴったりという作家はいないだろうという気がします。
こんな600ページもの大作を書いちゃうと、ヒロポン中毒でこんな大作を書き上げる体力がなかったに違いない太宰が嫉妬するかもしれません。「駆込み訴へ」の長編バージョン?
でも太宰よりだいぶ泥臭い。う?ん、それを大阪的、関西的、と言っちゃっていいのかどうかは分からないけれど、登場人物たちの対話は、大阪の人なら素人でもその場でみせてくれるボケとツッコミの印象に近いような気がします。
力作で充分に町田ワールドを楽しめますが、私はやっぱり史実の堅固なフレームの上に想像力を羽ばたかせた『告白』のほうが好きです。そこでは史実の制約が制約にならずに、想像力に堅固な基礎を与え、想像力を刺激し、飛翔させるベースになっていて、抑制が作品の強度になっていました。
今回の作品はまったく岩山から解き放たれた孫悟空のように、ヒーローたちは地上と天界の境を超えて軽々と飛翔し、アクロバット飛行のつくる飛行機雲のように天衣無縫の華やかな軌跡をみせてくれますが、その空想の絵巻が心を撃つ強度は拡散によって、かえってやや劣り、私たちはただ空に描かれる奇想天外な絵模様を楽しむというふうです。
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2008年08月20日
『闇の子供たち』(梁石日)
阪本順治監督が映画化したというので、原作のほうを先に読んでみた。ちょっと映画を見る勇気がなくなってきた。正直のところ、ペドファイルたちのやることをこれでもか、これでもか、と描く前半の詳細な描写を読んでいると気分が悪くなってきた。
現実から眼をそらすな、という作者や監督の声が聞こえてきそうだけれど、これはほんとうに正視するに堪えない世界だ。テレビの前で気楽に他国のそれなりに凄惨な戦火のもとで生きる人々の物語を、よそごととして観ているのとは訳が違う。
おまえの子供の命を守ろうとすることが、ただ貧困であるために人身売買される何の罪も無い幼い子供の命を奪うことになるのだよ、というこの作品の詰問にたじろがずにいられるのは、よほど鈍感な人間か、あるいはこの問いに拮抗しうるような堅固な思想と行動をもって腹を括って生きている人であるに違いない。
けれどもここに描かれた幼児売買をベースにしたぺドファイルへの奴隷的な幼児売春の凄惨な光景や、日本の金持ちの子供のために生きたまま臓器を抉り出されて「処分」される子供たちの運命に立ち会って、わたしたち読者に何が残されるのか。
この種のメッセージ性の強い作品が苦手なのは、私自身が現実の闇の苛酷さから眼をそらしたがっているせいかもしれないけれど、どうすることもできない圧倒的な力を見せ付けられて陥る無力感を感じさせられ、いつもそこでたじろぎ、立ち往生してしまう。
このような苛酷な現実とはまだ遠い距離のある事ではあっても、私たちの身近なところにも、人権に関わる差別や貧富の格差や、その他諸々の関係の歪みには事欠かないから、成人したばかりの若いころには、そのようなしがらみの中で、微温的な位置に無自覚のうちにある自分が後ろめたいという思いを、私も私の周囲の友人たちの多くも共有していることが信じられた時期があった。
そんな思いを、自己否定というふうな生硬で拙い言葉に託して、ささやかな「特権」を手放して、ただ身体を動かして働いて生きるだけの存在になることを理想のように考えて、みなどこか見えない社会の片隅へ散ってしまった。
後の世代から、そういう思いや行為にひそむ虚偽や自己欺瞞を指摘されたり、そのときの思い自体が否応なく自分の中で風化していく中で、それでもそんな時期を通り過ぎたささやかな経験が、この本の詰問にたじろぎながら、どこかで違和感を覚えている自分があることにも気づかせる。
物語の最後に、社会福祉センターで活動してきた音羽恵子が、彼女たちに協力して闇の世界を初めて報じてくれた記者南部浩行に、日本へ帰ろうと誘われて拒否し、自分の居場所はここにしかない、とタイにとどまる。
「君は所詮、この国では外国人なんだ」という南部浩行の顔が「急にエゴイズムの塊のように見え」、そういう南部の考え方は、「日本にいる外国人は所詮、日本人とはちがうのだという排他的な感情」なのであり、南部にとって「この国(タイ)のことは無関係だったのだ」というふうに、恵子は考える。
この文庫本の解説者はこの部分を、「責任逃れをするインテリゲンチャに対して、全存在を賭けて責任をとろうとするヒロイン」と評価し、「やられた、と思った。これを書けるのは梁石日しかいない。」と肯定的に評価している。「『ここ』と『向こう』に線を引き、『ここ』にどどまる者にはけっして書き得ない。」言葉であり、在日外国人である梁石日だからこそ書きえた言葉だという。
この部分に、私自身は違和感を覚えた。たぶん作者も解説者の考えるように、この末尾での恵子の感じ方、考え方を全面的に肯定して描いているのだろうと思う。私も、作中の恵子であれば、そう感じ、考えるかもしれない、と思った。それは恵子が苛酷な状況の中で、そのようなある種の理想主義的な感じ方、考え方、行動をする女性として描かれていて、作中の彼女がそう感じ、考えることには必然性があるからだ。
ただ、作者や解説者がその恵子の感じ方、考え方や行動を全面的に肯定しているとすれば、そこに私のように違和感を覚える読者はあるのではないだろうか。
ここで、ならば南部が恵子に、君はここにとどまるべきだ、と言うことが「正しい」だろうか。あるいはまた、自分も「一流新聞社のエリート記者」であることをやめて、NGOの一員として「君といっしょにここにとどまる」と言うのが立派な振る舞いなのだろうか。
こういう疑問は、作中、幼児売買で生きた幼児の臓器を売ろうとするマフィアに食ってかかるヒロインに、マフィアが、「じゃ、代わりにおまえが臓器を提供するか?高く買ってやるぜ」というふうなことを言う、その言葉に重なる。この言葉は音羽恵子や、ひいては作者にも跳ね返ってくるはずではないのだろうか。
突き詰めれば、そのマフィアの詰問とこの作品の詰問とは正負の符号が反転するほど中身の善悪は異なるけれど、理屈は同じとは考えられないだろうか。その詰問に答えて、「いいわ、じゃ私の臓器を生きたままとって頂戴。そのかわりその子を返して」と彼女が言わなければ、彼女は所詮「<こちら>と<あちら>の間に線を引いて、<こちら>にとどまり、<責任逃れをするインテリゲンチャ>にすぎないのだろうか。
ただ、この長尺の作品の最後の数ページだけとりあげて、ここにすべてが集約されているかのように語るのはどうかと思う。ここでは作者が全面的に肯定しているようにみえる音羽恵子は、たとえば臓器を買おうとしている日本の金持ちの婦人に手術を思いとどまってもらうように説得にいくところなど、実際的な能力も冷静さも備えた南部浩行に対して、頭でっかちな「思い」だけが先走って、話をぶちこわしかねない、現実離れした理想主義的な若い女性として描かれている。
だから、彼女の素朴な思いは疑う余地もなくすべての読者が納得できるものだし、その一途な思いで「ここに残ります」という彼女の行動そのものも納得できる。けれども、その彼女の胸のうちで、南部の言葉に「失望」し、「これが一流新聞社のエリート記者だろうか」という急転直下の感情の変化が生じることについては、もしも作者自身が解説者のいうような自身の立場に照らして自信をもって書き付けたとしても、作品自体がその点については作者を裏切るかもしれない。
現実から眼をそらすな、という作者や監督の声が聞こえてきそうだけれど、これはほんとうに正視するに堪えない世界だ。テレビの前で気楽に他国のそれなりに凄惨な戦火のもとで生きる人々の物語を、よそごととして観ているのとは訳が違う。
おまえの子供の命を守ろうとすることが、ただ貧困であるために人身売買される何の罪も無い幼い子供の命を奪うことになるのだよ、というこの作品の詰問にたじろがずにいられるのは、よほど鈍感な人間か、あるいはこの問いに拮抗しうるような堅固な思想と行動をもって腹を括って生きている人であるに違いない。
けれどもここに描かれた幼児売買をベースにしたぺドファイルへの奴隷的な幼児売春の凄惨な光景や、日本の金持ちの子供のために生きたまま臓器を抉り出されて「処分」される子供たちの運命に立ち会って、わたしたち読者に何が残されるのか。
この種のメッセージ性の強い作品が苦手なのは、私自身が現実の闇の苛酷さから眼をそらしたがっているせいかもしれないけれど、どうすることもできない圧倒的な力を見せ付けられて陥る無力感を感じさせられ、いつもそこでたじろぎ、立ち往生してしまう。
このような苛酷な現実とはまだ遠い距離のある事ではあっても、私たちの身近なところにも、人権に関わる差別や貧富の格差や、その他諸々の関係の歪みには事欠かないから、成人したばかりの若いころには、そのようなしがらみの中で、微温的な位置に無自覚のうちにある自分が後ろめたいという思いを、私も私の周囲の友人たちの多くも共有していることが信じられた時期があった。
そんな思いを、自己否定というふうな生硬で拙い言葉に託して、ささやかな「特権」を手放して、ただ身体を動かして働いて生きるだけの存在になることを理想のように考えて、みなどこか見えない社会の片隅へ散ってしまった。
後の世代から、そういう思いや行為にひそむ虚偽や自己欺瞞を指摘されたり、そのときの思い自体が否応なく自分の中で風化していく中で、それでもそんな時期を通り過ぎたささやかな経験が、この本の詰問にたじろぎながら、どこかで違和感を覚えている自分があることにも気づかせる。
物語の最後に、社会福祉センターで活動してきた音羽恵子が、彼女たちに協力して闇の世界を初めて報じてくれた記者南部浩行に、日本へ帰ろうと誘われて拒否し、自分の居場所はここにしかない、とタイにとどまる。
「君は所詮、この国では外国人なんだ」という南部浩行の顔が「急にエゴイズムの塊のように見え」、そういう南部の考え方は、「日本にいる外国人は所詮、日本人とはちがうのだという排他的な感情」なのであり、南部にとって「この国(タイ)のことは無関係だったのだ」というふうに、恵子は考える。
この文庫本の解説者はこの部分を、「責任逃れをするインテリゲンチャに対して、全存在を賭けて責任をとろうとするヒロイン」と評価し、「やられた、と思った。これを書けるのは梁石日しかいない。」と肯定的に評価している。「『ここ』と『向こう』に線を引き、『ここ』にどどまる者にはけっして書き得ない。」言葉であり、在日外国人である梁石日だからこそ書きえた言葉だという。
この部分に、私自身は違和感を覚えた。たぶん作者も解説者の考えるように、この末尾での恵子の感じ方、考え方を全面的に肯定して描いているのだろうと思う。私も、作中の恵子であれば、そう感じ、考えるかもしれない、と思った。それは恵子が苛酷な状況の中で、そのようなある種の理想主義的な感じ方、考え方、行動をする女性として描かれていて、作中の彼女がそう感じ、考えることには必然性があるからだ。
ただ、作者や解説者がその恵子の感じ方、考え方や行動を全面的に肯定しているとすれば、そこに私のように違和感を覚える読者はあるのではないだろうか。
ここで、ならば南部が恵子に、君はここにとどまるべきだ、と言うことが「正しい」だろうか。あるいはまた、自分も「一流新聞社のエリート記者」であることをやめて、NGOの一員として「君といっしょにここにとどまる」と言うのが立派な振る舞いなのだろうか。
こういう疑問は、作中、幼児売買で生きた幼児の臓器を売ろうとするマフィアに食ってかかるヒロインに、マフィアが、「じゃ、代わりにおまえが臓器を提供するか?高く買ってやるぜ」というふうなことを言う、その言葉に重なる。この言葉は音羽恵子や、ひいては作者にも跳ね返ってくるはずではないのだろうか。
突き詰めれば、そのマフィアの詰問とこの作品の詰問とは正負の符号が反転するほど中身の善悪は異なるけれど、理屈は同じとは考えられないだろうか。その詰問に答えて、「いいわ、じゃ私の臓器を生きたままとって頂戴。そのかわりその子を返して」と彼女が言わなければ、彼女は所詮「<こちら>と<あちら>の間に線を引いて、<こちら>にとどまり、<責任逃れをするインテリゲンチャ>にすぎないのだろうか。
ただ、この長尺の作品の最後の数ページだけとりあげて、ここにすべてが集約されているかのように語るのはどうかと思う。ここでは作者が全面的に肯定しているようにみえる音羽恵子は、たとえば臓器を買おうとしている日本の金持ちの婦人に手術を思いとどまってもらうように説得にいくところなど、実際的な能力も冷静さも備えた南部浩行に対して、頭でっかちな「思い」だけが先走って、話をぶちこわしかねない、現実離れした理想主義的な若い女性として描かれている。
だから、彼女の素朴な思いは疑う余地もなくすべての読者が納得できるものだし、その一途な思いで「ここに残ります」という彼女の行動そのものも納得できる。けれども、その彼女の胸のうちで、南部の言葉に「失望」し、「これが一流新聞社のエリート記者だろうか」という急転直下の感情の変化が生じることについては、もしも作者自身が解説者のいうような自身の立場に照らして自信をもって書き付けたとしても、作品自体がその点については作者を裏切るかもしれない。
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