2008年07月

2008年07月28日

『妃は船を沈める』(有栖川有栖)

 装丁も中身もお洒落な、素敵なミステリーでした。

 白状しますが、私はミステリー・ファンではなくて、有栖川さんの作品もその膨大な著作リストの中のごくごく僅か、最初の「月光ゲーム」とか「孤島パズル」、「朱色の研究」それに最近の「マレー鉄道の謎」といったほんの幾冊を読んだだけです。

 推理小説やSF小説には独特の熱烈なファンがいて、わずかにクリスティの「ABC殺人事件」や「アクロイド殺し」、エラリーー・クリーンのX,Y,Zのレーンのシリーズ、それにヴァン・ダインの「僧正殺人事件」くらいの超古典を何冊かをつまみぐいして、推理小説はオワリ、みたいな私のようなド素人は、うかつに口を出すのが怖い(笑)。

 ですから、この小説で重要な役割を果たす「猿の手」なる、作者のいう「有名な作品」も読んでいません。でも、有栖川さんのこの作品はけっこう楽しめました。「猿の手」もほんとうにうまく生かされているし、この前編も後日譚の後編もいわゆる「本格ミステリ」らしい仕掛けの工夫も、なるほどなぁと感心して読みました。

 構成や文章のなんとなく都会風のお洒落なセンスも好きだし、「猿の手」という別の作品の使い方のうまさには感心するのですが、作者の本領である「本格推理」というのには、私は鈍感で、あまり楽しめないタチなんですね、残念ながら。

 これは有栖川さんの作品に限らず、どうも推理小説が推理小説であるための基礎条件のところが、私にはあまり興味を惹くものではないようなのです。単に頭が悪くて謎を推理で解くのが苦手で億劫なだけかもしれませんが(笑)。

 私の亡くなった母というのが、やたら推理小説好きで、大きな本箱に当時発行されていた色んな種類の推理小説文庫や新書版がぎっしり詰まっていました。彼女はもともど読書好きな上に、足掛け7年も肺結核で療養生活を送って、片肺切除の大手術を経て生還してからも、自宅で、何年も昼寝を欠かせない生活をしていたので、読む時間だけはいくらでもあったから、たぶんそれらを全部読んでいたと思います。
 
 そういえば、あの本は引越しのときに母は全部ダンボール箱何箱かにおさめて、古紙回収に出してしまったのでした。いまだったら、ネット経由で推理小説ファンに差し上げることもできたのにね。

 そういえば、母は、よく途中で「読者に挑戦!」みたいなことをする作者があるようで、たいてい解いてしまう彼女が、私に、「今度のはちょっと骨がある」、とか言っては、ひとりでぶつぶつ言いながら推理したりしていたことがあります。

 私は推理小説もパズルもだめで、どうもああいうのが性に合わないようです。

 ではなぜ有栖川さんの本など手にするのかというと、作家本人を知っていてゼミにも一度来てもらったことがあって、わずかながらご縁があるからです。前の職場で、大阪の仕事をしていたとき、若い作家の一人としてパネルディスカッションに出てもらったり、有識者の座談会に出てもらったりしたのがご縁でした。

 あれだけの有名人になると、こちらが仕事でものを頼むときも、けっこう気を遣うものです。直接本人に電話したりすると、いま仕事中なのに、と不機嫌な声を浴びせる人もあるし、マネージャーなど置いていればいたで、本人に接触しないうちに門前払いされたり、それを直接本人と交渉したりすると、あとでマネージャーから叱られたり、難しいものです。

 でも有栖川さんは全然そういう人たちとは違いました。電話するといつも本人が出るか、ご家族(お姉様だったかな)が出られて、とても丁寧な対応をしてくださる。ご本人に、「仕事中だとご迷惑でしょう、電話をかけるならいつの時間帯なら、まだしもいいですか」と伺っても、「いや、ぼくはそんなに気になりませんから、いつでもいいですよ」とおっしゃる。

 職場を変わって、もうご縁がなくなってしまったのだけれど、ゼミで色んな人に来てもらって話をしてもらえたら、学生さんにとっていい経験になるだろうな、と思っていたので、別に親しいわけでもなくて、仕事で以前に協力していただいたというだけの知り合いなのに、この人なら、有名人ぶらずに、お願いしたら来てくださるかもしれない、と思って、ダメモトで手紙を出してお願いしたら、本当に来てくださって、学生たちは大喜び。

 あとで、ほかの学生や事務職員の人たちからも、そんな人が来るんだったら呼んでくれたらよかったのに、と言われたりしました。でも、講演会とかじゃなくて、小さなゼミの親密な空間でじかに話してもらい、学生の問いかけに答えてもらったりするのが、最高に贅沢な機会だと感じられたのでした。

 ほかに、時代小説の作家で、手裏剣のような武道の有段者でもある多田容子さん、わが国での超短編の作家にして創始者である本渡章さん、当時、ゴーンさんのもとで日産自動車の理事として国内販売の責任者でもあった(現在はミキモトの社長に転進)田中敏郎さんなどにもゼミに来てもらったことがあります。
 この方式は続けたかったけれど、基本的に授業に人を呼んでくることに大学自体があまり肯定的でないらしいこと、こういう場合の謝金や交通費等は私自身への給与と重複するという考え方からか、大学としては一切出ないこと、などから、私個人で維持するのは限界があって、事実上、頓挫してしまいました。

 閑話休題、推理小説の醍醐味というのは、やっぱり謎解きにあるのかもしれませんね。ただ、私自身は、その「謎」が比喩的な意味になるかもしれませんが、異常に大きく深いような作品に憧れます。

 そういう意味では、ドストエフスキーのいま若い人が新訳でよく読んでいるという「カラマーゾフの兄弟」なんかも「推理小説」ということになるかもしれません。

 それはちょうど、私が考える最高の「不倫小説」が、「源氏物語」と「アンナ・カレーニナ」というのと同じようなことかもしれません。

  
 

 

 

at 01:24|Permalink

2008年07月19日

『切羽へ』(井上荒野)

 冒頭から引き込まれる。

   明け方、夫に抱かれた。
   大きな手がパジャマの中にすべり込んできて、私の胸をそうっと包んだ。
   その指がゆっくり動くのを、私は眠りの中で感じていた。夫は、夜更けて布団に入ってくるとき、私を眠らせたまま抱こうとすることがよくあった。

 ・・・こう来られると、なんと言うか言葉の力がこちらにぬっと手を伸ばすようにして、それこそ「大きな手」が、こちらの胸元に「すべり込んで」くるような感じで、最初から引き込まれていく。

   そんなとき私は、自分が卵の黄身になったような気持ちがした。たとえばマヨネーズを作るとき、白身と分かつために、殻と殻との間で注意深く揺すられる卵の黄身。
   

 なんともうまいこと言うじゃないか、とユニークな比喩に感心する。こういう比喩の1?2行を読むだけで、なみの手腕じゃないな、きっと、と期待が高まる。そして、その期待は最後まで裏切られない。

 にくらしいほどうまい。この作品、このうえなくeroticだ。セックスの描写も何もないけれど、こんなに「いやらしい」、官能的な小説はない、と言ってもいいくらいだ。

 「すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり。」(マタイ伝5-26)と言うなら、この作品の主人公の「わたし」は繰り返し姦淫をなしたる姦婦淫婦ということになろうか。

 しかし、その「姦」も「淫」もすべて、自分でも気づかない自分の放つ気配であったり、単なる「気がかり」であったり、人ごみの中に相手を探す眼差しであったり、一切が「目にはさやかに見えねども」の世界だ。

 
 介護にかよう「しずかさん」のところで、口の悪いこの婆さんに、「だんなさんがおらんとがわかる」「ちゃーんとわかるったい、抱かれとらんのが」とからかわれたあと、「どうしてか遠回りしたくなり、」海沿いの道を歩いていくと、学校の教え子と母親に会う。(「わたし」は本土から離れた南の辺地の「島」の小学校の養護教員だ。)

 「先生はどこ行くと?」
 返礼のようにそう聞いたのはトシコで、私は答えに窮した。
 「うーん。どこへ行こうかな」
 「行き先がわからんと?」
 「わからんとよ」
 トシコが困った顔で母親を見た。先生はお散歩をしとるとよ、と母親が言う。
 「先生、迷子になったらいかんばい」
 トシコが言い、私と母親は顔を見合わせて笑った。
 「明日、ちゃーんと学校で会おうね」
 二人の子供の頭を撫でて、歩き出そうとしたとき、
 「先生、ご亭主はお留守ね?」
 と母親が言ったので、私はびっくりして振り返った。
 「どうしてわかると?」
 「どうしてって、そりゃ」
 母親は口に手をあてて笑った。

 私はすこし早足になった。
 夫が不在であることを、トシコの母親に言い当てられたことが恥ずかしかったのだ。しずかさんに露骨な言葉でからかわれたときよりも、なんだかよほど恥ずかしかった。

 この直後に、「わたし」は「心で姦淫」することになる男、この「島」へどこからとも知れず新しくやってきたマレビトである男と初めて出会うのだが、この作品のeroticismはこういう描写から立ち上る濃密な霧のように全編を支配している。これはまさしくプロの手だれの技だ。

 憎まれ口をきく婆「しずかさん」や、「わたし」の同僚である、不倫真っ最中の行動派「月江」の性格造型がすばらしい。この二人が抜群に生き生きしてこの作品を面白くしている。3人の女たちの鮮烈な姿にくらべれば、肝心の男(石和)も、「わたし」の夫も影が薄い。

 月江が不倫相手で、月江を抱きに本土から島へやってくるので、みんなに「本土さん」と呼ばれている男に食って掛かる場面がある。月江は「どうして来るの?」と男に詰め寄る。
 
 「そりゃ・・・ああたを愛しとるからでございますばい」
 と本土さんは、痛々しく懸命に、ふざけて答えた。
 「いいえ、違うわ。愛しているなら来ないはずよ。あたしが言ってる意味、あなたにはわかるでしょ?愛してないから、来るのよ。へらへらとやってきて、嬉しそうに引き止められて帰っていくの」
 「僕は・・・僕はそんなふうには考えていないよ」
 「だってあんたの奥さんは、あんたが家を出るのを、引き止めはしないでしょ?」
 「どういう話なんだい、それは」
 「あたしはそれが頭に来るのよ。あんたは奥さんを捨てられないって言う。それはいいわ。でもせめて、彼女に引き止めさせるくらいいいじゃないの」

 ここを読んだときは、ほとほと感心した。とくに「あんたの奥さんは、あんたが家を出るのを、引き止めはしないでしょ?」というセリフ。これはたまらんなぁ、と思った(笑)。そして男のとぼけぶり。いや彼は何もわかっちゃいないのだろうけど、本能的にこうとぼけるしかないだろうなぁ(笑)。いや、参りました。女は怖い。女性作家もコワイ。

 私は実はこの作家のことは何も知らなかった。テレビで芥川賞受賞というので映っているのを見て、井上荒野?女性なのに思い切った名前だなぁ、ペンネームかなぁ、と思い、パートナーが「この人井上光晴の娘じゃない?」と言うので、あ、そういえばよく似てるぞ、と思い、さらに、井上光晴なら娘にそういう名をつけてもちっともおかしくないな、本名かもしれないな、と思いなおした。

 翌日の朝刊を見るとやはり彼女が井上光晴の娘さんだということが分かった。すでに何冊も著書のあるベテランだ。知らなかったのはこちらの不明。

 井上光晴というと、いまの若い学生さんは知らないだろうけれど、私たちが学生の頃には、同じ下宿の学生は同志社も立命も京大もみんな「井上光晴作品集」を買い揃え、新しいのが出るたびに追っかけて読んでは、こんどのはどうだ、こうだ、というほどよく読まれた作家だった。

 井上光晴という作家そのものについては、私より数倍も熱心なファンが同じ下宿にいたので、私は少し斜に構えて読むような恰好だったけれど、彼の作品もエッセイもそのころまでに出たものはほとんど欠かさず読んだ。

 つねに鮮明な批評性を失わず、それを表現の方法に繰り込もうとする彼の不断の実験的な精神は、私たちを刺激し、引き寄せる強い磁力を持っていた。

 私自身は井上光晴によってフォークナーの豊穣な世界に導かれ、井上光晴自身もフォークナーの最高傑作と評していた「響きと怒り」は私自身が最も愛する小説の一つになった。

 井上光晴の娘という立場で作家になるのは辛かったろうな、という気がする。実際、新聞のちょっとした記事で彼女の発言をみると、最初の賞をもらってから、しばらく書けない時期があったというような意味のことが述べられていて、さもありなん、という気がした。

 光晴のような意識的、方法的な作家を意識せざるを得ない作家というのは、娘でなくても、書きづらいに違いない。方法意識も批評性もかなぐり捨てて、ベタな手探りの感覚だけで、爪で粘土に象形文字でも刻みつけるように言葉を刻み付けて、自意識を抜け出すほかに手がないだろう。

 でもこの作品は、完全に一人の憎らしいほどうまい作家の存在感を示していて、突然あらわれたようなその圧倒的な技量に、いったいどういう経路をたどって、ここまでたどりついたのだろう、と驚き不思議な気がするほどだ。

 父と娘だからといって、両者の作品の直接な印象を結びつけるのは馬鹿げているし、影響を軽々しく云々するのも、作家双方に対して失礼なことだと思う。
 
 でも、若いころに井上光晴のファンの一人だった読者として、この『切羽へ』を読んでいて、ふっと、私が愛読した井上光晴の『眼の皮膚』という短編集のことを思い出した。それは理屈ではなくて、あの繰り返し読んだ本を読んでいるときの感覚が蘇ってくるような錯覚にとらえられたのだ。

 井上光晴の作品の中では、あれは長崎弁のような方言が登場するわけでもなく、東京の現代の団地の主婦のありふれた日常生活、一見何気ない、習慣化された挨拶やありきたりの会話、その眼に映る日常の風景、些細な心の動きを、内側から腐食していくような生活の底を抉ろうとする試みのような、実験的な作品だった。いや、実験小説のような「方法」的意匠など少しも感じさせない、彼流の実験小説だった。

 だから、この『切羽へ』という作品を読んでいて、なぜあの作品を読んでいたときの感覚のようなものが蘇ってきたのか不思議な気がするし、影響関係がある、というふうなことを軽々に言うつもりもない。

 ただ、小説という表現様式の「方法」に対する作家の距離のとり方に、どこか似たところがある、と感じないではいられないところはある。そして、「切羽へ」というタイトルのつけ方にも。

 でもまぁ、文芸批評家でもない私にはそんなことはさしあたりどうでもいい。山田詠美につづいて、こういう手だれの作家が出てきて、きっと今後も続々と美味しい作品が読めそうだと思えるのは幸せなことだ。
 

 

at 12:28|Permalink

『時が滲む朝』(楊 逸)

 前に「ワンちゃん」を読んでこの欄で感想を書いたことのある、中国人の著者の日本語による小説。「ワンちゃん」は大方の批評のとおり、誰の目にも日本語としての未熟さがネックになっていたけれど、今回の芥川賞受賞作は、もはや日本語としての未熟さ云々が問題になるレベルを突破している。

 たしかに文章は素朴で、肌理も粗いけれど、ストーリー展開のスピードが速く、テンポがいいので、それが気にならない。そして、その大づかみに時の流れを、できごとを掴んで描いていく文体が、現代中国の政治や社会の有為転変のスピードと、その荒っぽさにちょうど見合って、著者の描きたかった、個人の運命や心理を通した現代中国社会の変化、あるいはその変化に翻弄されてこんにちある中国人の姿が、一筆書きのような古典的な潔さで描かれている。

 これは、いまどきの日本の作家のきめ細かい、しかし社会的な主題を失った内向きの作風とは対蹠的であって、この古典的な肌理の粗さ、スピード感、おおづかみでぐいぐい引っ張っていく力が、たのもしく、新鮮に感じられる。

 私の父が青春時代を上海で過ごし、戦後も中国に関心を持ち続けて、老後、日中友好協会の会長などつとめて何度も中国へ足を運んだこともあって、日本へやってきた中国人青年の幾人かに接したことがある。

 ある青年は北京大学を出たエリートで、日本の大学にも留学した経験があり、日本語も堪能で、よく父たちの団体の通訳をしてくれていたが、いつも日本語の文庫本小説を読んでいた。いまの中国の現状を熟知しながら、決して絶望も悲観もせず、世界をリードする大国となる中国を信じて、その国家のために自己研鑽を絶やさない、柔軟だが生真面目な勉強家の愛国者でもある好青年だった。彼にはどこか大陸的な悠揚迫らざる器の大きい風格があった。
 
 またある青年は、おそろしく達者な日本語を喋り、冗談好きで日本の政治家を風刺し、ものまねをしてみせて笑わせるようなエンターテイナーの資質を持つと同時に、学生ながら日本の経済人に近づいてビジネスチャンスを虎視眈々とうかがう抜け目ない青年だった。

 今回楊さんのこの小説を読んで、その中に出てくる在日中国青年たちのある種の頽廃した姿が、私の僅かに接した青年たちのうちのある部分の行き着いた先のように思えた。むろん、それは彼らが望んだわけではなく、天安門事件のような外在的な要因によって、いやおうなく追い詰められた結果ではあったにせよ。

 ラストに近い、浩遠が甘先生にメールで詩を送るあたりへくると、つい涙腺が緩んだ。ラストもいい。とてもいい作品になったと思う。


at 03:18|Permalink

2008年07月11日

「その町の今は」(柴崎友香)

 ゆったりとした字組みで140ページほどのA5判サイズのハードカバーの小説というのは手にとりやすい。軽いから車中で坐って読んでも立って片手で読んでも手の負担にならないし、通勤の片道で読める量だから、いい気分転換になる。

 この本もそんな、手におさまりやすい本で、お洒落な感じの装丁に惹かれて読んでみた。「合コン」の話からはじまる、そのへんにいくらでもいそうな女性の目線で描いた女友達や合コン相手の男性や、彼女に気のある男や、まだ彼女のほうが未練たっぷりな既婚のモトカレなど、いまどきの風俗にすっぽりおさまってしまうような登場人物たちとの関わりで過ぎていく日々。

 もう少し文体に色気というのか艶があると読みやすいのだけれど、なんか淡々と日常の人間関係とできごととちょっとした気持ちのやりとりを追っかけていく味もそっけもない文章で、残念なことに気持ちが動かない。惹かれて動きもしないし、ささくれ立ちもしない。それだけいまの人間関係というのは関わり自体も、そこで発せられる言葉も、こんなふうに貧しくなってしまっているということだろうか。

 ・・・先週合コンをした最低な二代目店主チームも、あれっきりだと思うと、会いたくないのに淋しい気もした。百田さんから聞いた合コンの成功率からいうと、合コンは二度と会うことのない人と会うことなんやな、と感傷的なことを考えてもみたけれど、そうやって油断しているといきなり身近な人の知り合いやったりするねんな、と思いながら店を出てまたタクシーがひしめく東心斎橋の蒸し暑さと喧騒の中を歩いた。・・・

 こんな感慨に面白いところはあるし、大阪弁はいい感じだけれど、全体としたこの小説を読んでどんな人間の風景が見えてくるのかな、と思うと、私だけかもしれないけれど、甚だ心許ない。

 冒頭から絵はがきが出てきて、戦前の大阪の街の風景が、「わたし」にそこにたしかにあった光景を感覚的に実感できるもののように喚起し、そこのところでだけ「わたし」はリアルなものとつながっているようだ。あとはどこにいて何をしていても、誰とどんな会話をして何をしていても、いまどきのこういうお姉さんのやりそうなことをやり、言いそうなことを言って、いまどきのお姉さんをなぞっているだけで、具体的な色や匂いをもつどこかの土地で顔の見える誰某たちと関わりを持って生きている人間という感じがしない。

 逆説的なことに、絵葉書という現実を映した二次映像にすぎないものが、彼女にかすかな現実をもたらしている。そのことに作者は自覚的で、この物語はおおかたはいまはない大阪の街の風景をそこにとどめた絵葉書を軸にして書かれているともいえる。それはタイトルにも表わされている。

 でも、せっかくのその端緒は、繰り返されはするけれど、端緒のままで終わる。その場所の光景から何が出てくるのか、「わたし」が過去のその光景に触れることで、実際に、あるいは内面的にせよ、何が起きるのか、そこにこそ読者は興味をもって読み進むと思うのだけれど、それが見えてこない。

 

at 01:49|Permalink

2008年07月09日

「百万円と苦虫女」(タナダユキ)

 映画化されて近々公開されるようですが、今日のは原作?の「小説」について、です。

 いや、このところどの映画をみにいっても、この作者が監督した、同名の映画の予告編を見せるので、いささかうんざりして、よっぽど広報予算があるんだなぁ、こんなにPRばっかり盛んな映画ってロクなもんじゃないだろ、とつい貧乏性なもんで、まだ封切りもされていない映画に独断と偏見に満ちた裁断を下しかねない今日このごろなのでありますが・・・やっぱり本屋に平積みになっていたりすると、つい気になって、本のほうだけ覗いてやるか、と衝動買いして、きょうの電車の往復で読んでしまいました。まんまと宣伝にのせられたわけです。クヤシィ?ッ!幻冬舎って、ほんと、売り方がうまいよねぇ。

 作者はもともと映画監督で、ぴあフィルムフェスティバルでグランプリをとってスタートし、既に映画監督としても脚本家としても何本かヒット作をもつ才人なので、この小説も最初に自身の映画の脚本が、頭の中にか客観的な印刷物としてか知らんけど、先にあって、それをノベライズしたってことかもしれません。

 映像にしたら面白いかも、という印象はたしかにありました。とはいえ、私の頭は白紙ではなくて、さんざん映画の予告編で洗脳されていますから、あてにはなりません。

 というのも、読んでいくほどに蒼井優の表情が浮かんできて、もう鈴子と蒼井優の区別がつかず、彼女以外の誰も思い浮かべられなくて、完全に想像上の蒼井優の好演で行間を補って読んでいるからです。

 蒼井優はハチクロで、若いけど巧い女優だなぁと思って見ていたけれど、きっと今回もぴったりの役柄だから、映画の彼女はいいでしょうね。そのかわり、読んでいるときは、自分が思い浮かべる映画の中の蒼井優が見えるだけで、小説の文字からオリジナルなイメージが少しも沸き立ってきません。

 いやひどい小説でしょう、これ。どだい小説と言えるような文体じゃないんじゃないでしょうか。これはまさに「ノベライズ」の文体です。ト書きなんかを取っ払って、地の文とカギカッコで括った会話を書きゃ小説でしょ、と言わんばかりの勢いです(笑)。

 映画見たよっていうと、「どんなスジ?」とか聴く人がいるけど、ノベライズって、要はてっとりばやく粗筋だけ教えてよ、というふうなものでしょう。
 
 この小説はそういうものだと思って読むほうがいいように思います。だからって、面白くないってことはなくて、面白い映画の粗筋聞いて、へ?ぇ、面白そう、と思うことはあるものですから。

 これはそういう小説でした。でも、やっぱり映画を観ないと、このノベライズだけで済ませたら本末転倒ってことでしょうね。

 中身について何も書かずに悪口ばかり言ってるみたいですが(笑)、蒼井優の演技を思い浮かべながら自分で情景や表情を補って読めば、けっこう面白いんじゃないかと思います。

 ただ、こういう小説(だとして)、あんまり好きにはなれない感じでした。それはなぜだろう?とちょいと考えてみました。

 主人公の鈴子って女の子が、あまり人との関係をうまく作っていける子ではなくて、できるだけ関係を持たないように生きているんですね。

 家族に対しても同じで、直接にはちょっとしたことでクサイメシを食ったもんだからご近所の目もうるさくなって、自分で家を出てしまう。
 そのきっかけは100万円ためたら出て行く、ってことで、行った先で新たな人間関係ができそうになると、またそれを捨てて出て行く。
 そうやってまぁ、女の子版のロードムーヴィーのようなものができてくるというわけです。

 誇張はあっても、こういう女の子って、そのへんにゴロゴロしてるよね、最近・・・という意味では、まったく同時代的というのか、世相をもろに映したいまふうの映画ですね。

 基本的にこの女の子は自分が傷つくのがいやで他人を拒んでいて、他人が好意をもってであろうとそうでなかろうと、自分の拒んでいる長いリーチのこっち側へ距離を詰めてくる人間に対して生理的な嫌悪感があるんでしょうね。
 
 そして、自分からは決してその距離を詰めていこうとはしない。

 他人に自分からアプローチしたり、関わりを持っていくということは、いずれにせよエイヤッいう思い切りが必要だし、億劫でしんどいことですよね。
 そして、そのときの具体的な行動とか言葉というのは、少なくとも当初は誰にとってもぎこちなかったり、見当違いだったりして、どっちみち傍から距離を置いてみれば滑稽なものでしょう。

 作者はそういうの、得意になって描いているように見えちゃうんですね、私には。それがこの映画の、いやこの小説の、面白さになっていることは事実でしょう。ユーモアということなんでしょうかね。

 でも、私がいちばんクサイと感じてしまって、なんか気にさわるのは、そういうところですね。鈴子っていう作中の女の子だけじゃなくて、作者自身がどうも得意顔なんじゃないの、ってところです。

 ロードムーヴィーなんてのも、自分の出自を消して、どこかへ流れ流れていく、その主人公の内面はもうボロボロの荒野みたいなもんでしょう。日本の股旅ものの旅がらすだって、そういう苛烈なところがありますよね。

 この女の子は傷つき易い閉じた心に孤独を抱えて・・・という、形だけは股旅ものの旅烏に似ているけど、まったく似て非なるものですね。

 時代が違うんだから時代が・・・裕福で飽食でフリーターで充分生きていける時代なんだから・・・そりゃそうなんでしょう。そういうお嬢さんのわがままと気まぐれで、世のわずらわしさを逃れ、自分に引きこもる。そのことをいまふうで、いいことのように自信満々。彼女も、ひょっとしたら作者もね。

 私は彼女を見ていて(読んでいて)、はじめての顔合わせなどのときに若い人が「わたしぃ、あんまり人に喋りかけたりできないほうなんでぇ、また声かけてくださぁい」と、シャイを気取って、まるでそれがいいことのように、10人いれば5人も6人もそういうことを臆面もなく口にするシーンをつい思い出してしまいました。

 ほんとうに弱い人、傷つき易い人は、そういうときに、そんなふうに自分に自信たっぷりに、自分のことばかり考えてはいないものです。ほかの人たちの中に自分が融けこめるかどうかは、彼女にとって死活問題ですから、ほかのひとがどういう人なのか、どんな発言をするのか、必死に耳を傾けているものです。そして、こわくて、とうてい「私に声をかけてくださぁい」、なんて言えやしないでしょう。

 そんなふうに、さも、さぁさぁ自分に注目して!といわんばかりの自信たっぷりな態度がとれるほどしたたかじゃないから、もう自分のことはいいからパスして、といわんばかりに淡々と、できるだけ目立たないように、愛想のない自己紹介をするものです。

 鈴子はそういう人とは正反対。本当はしたたかで、ジコチューで、自信家。そのことに本人も、ひょっとした作者も気づいていないのじゃないかしら、という疑問を生じるノベライズでありました。

 
 

at 22:43|Permalink
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