2008年06月
2008年06月30日
「ぐるりのこと。」(橋口亮輔)
いい映画でした。
或る友人が「近頃は大人になりきれない若者向けやらお子様向けの口当たりのいい映画ばかりだよな」なんて言っていたけれど、この映画を見れば口を噤むでしょう。久しぶりに見る、オトナが見ていいと思う映画、かな。
もっとも、登場人物は或る意味で大人になりきれない、現代の私たちの身近にいくらでも見られる大人だけれど、そんな私たちが、ふだん当たり前のように錯覚して生きている日常、少し見方を変えればとてつもなく奇妙で滑稽で馬鹿馬鹿しくて恐ろしく空虚で、おまけに人を深く傷つける、この社会、この不運、この苛酷な状況の中で、とことん追い詰められ、もう行き場がないほどのところまで陥って、壊れそうになりながら、頼りなげな夫婦の、だけど深い絆をたぐりながら、そこから徐々に徐々に自己回復を遂げていく話。
主演のリリー・フランキーと木村多江が素晴らしい。リリー・フランキーは最初から最後まで全く自然体にしか見えない神業的な脱力系「演技」(笑)。
最初から佐藤カナオ=リリー・フランキーという、ぴったりのはまり役。監督でなくても、こうしてみると、この役ができるのはこの人しかないぜ、と思えてきます。
彼ははじめのうちは、ほんとうにどうしようもないグータラのダメ男にしか見えないのだけれど、映画を見終わるころには、すごく温かで強い、巨きな人間に見えてくるから不思議。
木村多江は、まったく対照的に、神経の立った、とんがった役を、意識して、努力して演じているよね、と感じていたのが(冒頭の夫婦の齟齬を拡大してみせる会話はもひとつでしたが)、途中からもう完全に役の佐藤翔子が憑依して、彼女とカナオが叩き合って泣き崩れるハイライト・シーンでは完全に心身とも翔子に成り切って、その痛み、苦しさ、悲しさが内側から爆発して、身体に生理的な痙攣を引き起こすように嗚咽し、涙や洟を流し、しゃくりあげるんですね。
ほかにも印象的なシーンがたくさんあります。
追い詰められていく翔子が、仕事で書店のサイン会の補助をしているとき、「愛」をタイトルに付した本の外国人の著者がサインしているところへ、ほんとうの愛に出会いました!みたいなことを言ってファンの女の子が来て握手して、写真をとらせる醜悪な情景。
嘔吐感を覚えて堪えられずトイレへ立って、その情景の中へ戻れず、書店の片隅へ駆けて行って蹲り、嗚咽する翔子。
若い男性の編集者との言い争いの場面。いるよねぇ、こういう若いの、身のまわりに一杯・・・。口ごもる翔子、これ、本当に演技?と思うほどうまい。
夫婦の回復期を象徴する、絵を描く翔子を覗き込み、夕陽を浴びながら庭を眺める二人、ふざけあう入浴シーン、翔子の描いた絵をはめ込んだ寺の本堂の花天井を寝転がって眺める二人。
母親から裏切りを打ち明けられるシーン。
・・・まだまだあった。身内の撮った一番いい映画で3つ4つ記憶に残る印象的なシーンがあったのを振り返って、あの映画は結構イケテルんじゃないか、と身びいきで思っていたけれど、本当にいい映画になるためには、そんなシーンが最低10箇所くらいは要るんだなぁ、とこの映画を観ながらつくづく思い知らされました。うちの息子はまだまだやなぁ。橋口さんもピアの入選がスタートやから、あんたもおきばりやす。・・・閑話休題。ローカルな話題ですいませんm(_ _)m ど?せ、うちのはこんなブログ読まないんだけど。
脇役もいいですねぇ。倍賞美津子、柄本明・・いいですねぇ。
八嶋智人、加瀬亮、片岡礼子、木村祐一、ほんのチョイ役でも印象に残ります。八嶋智人なんか、ほんまにぶん殴ったろか、と思うほどうまいね。加瀬亮は怖かったし(笑)。
実はこの手の映画は本当は苦手で、映画はデレッとして、エンターテインメントとして楽しみたいのがホンネ。トレンディドラマ、西部劇、サスペンス、チャンバラ、スパイもの、戦争映画、アニメ、お笑い、ドタバタ、なんでもいい。B級でもC級でも結構。なにしろ映画館で10回以上同じのを観たって映画が「荒鷲の要塞」という私ですから・・(*^^*)
だけど、やっぱり映画のためには、こういう作品がなければいけないだろうな、と思います。すばらしい映画でした。
それに、ハッピーエンディングは私の好みでもあります。この映画ではそれがハリウッドB級映画流のじゃなくて、深い深い悲しみと苛立ちと憤りと、心身を切り刻むように自ら深く傷ついた果てのハッピーエンディングなので、感動もひとしおです。
或る友人が「近頃は大人になりきれない若者向けやらお子様向けの口当たりのいい映画ばかりだよな」なんて言っていたけれど、この映画を見れば口を噤むでしょう。久しぶりに見る、オトナが見ていいと思う映画、かな。
もっとも、登場人物は或る意味で大人になりきれない、現代の私たちの身近にいくらでも見られる大人だけれど、そんな私たちが、ふだん当たり前のように錯覚して生きている日常、少し見方を変えればとてつもなく奇妙で滑稽で馬鹿馬鹿しくて恐ろしく空虚で、おまけに人を深く傷つける、この社会、この不運、この苛酷な状況の中で、とことん追い詰められ、もう行き場がないほどのところまで陥って、壊れそうになりながら、頼りなげな夫婦の、だけど深い絆をたぐりながら、そこから徐々に徐々に自己回復を遂げていく話。
主演のリリー・フランキーと木村多江が素晴らしい。リリー・フランキーは最初から最後まで全く自然体にしか見えない神業的な脱力系「演技」(笑)。
最初から佐藤カナオ=リリー・フランキーという、ぴったりのはまり役。監督でなくても、こうしてみると、この役ができるのはこの人しかないぜ、と思えてきます。
彼ははじめのうちは、ほんとうにどうしようもないグータラのダメ男にしか見えないのだけれど、映画を見終わるころには、すごく温かで強い、巨きな人間に見えてくるから不思議。
木村多江は、まったく対照的に、神経の立った、とんがった役を、意識して、努力して演じているよね、と感じていたのが(冒頭の夫婦の齟齬を拡大してみせる会話はもひとつでしたが)、途中からもう完全に役の佐藤翔子が憑依して、彼女とカナオが叩き合って泣き崩れるハイライト・シーンでは完全に心身とも翔子に成り切って、その痛み、苦しさ、悲しさが内側から爆発して、身体に生理的な痙攣を引き起こすように嗚咽し、涙や洟を流し、しゃくりあげるんですね。
ほかにも印象的なシーンがたくさんあります。
追い詰められていく翔子が、仕事で書店のサイン会の補助をしているとき、「愛」をタイトルに付した本の外国人の著者がサインしているところへ、ほんとうの愛に出会いました!みたいなことを言ってファンの女の子が来て握手して、写真をとらせる醜悪な情景。
嘔吐感を覚えて堪えられずトイレへ立って、その情景の中へ戻れず、書店の片隅へ駆けて行って蹲り、嗚咽する翔子。
若い男性の編集者との言い争いの場面。いるよねぇ、こういう若いの、身のまわりに一杯・・・。口ごもる翔子、これ、本当に演技?と思うほどうまい。
夫婦の回復期を象徴する、絵を描く翔子を覗き込み、夕陽を浴びながら庭を眺める二人、ふざけあう入浴シーン、翔子の描いた絵をはめ込んだ寺の本堂の花天井を寝転がって眺める二人。
母親から裏切りを打ち明けられるシーン。
・・・まだまだあった。身内の撮った一番いい映画で3つ4つ記憶に残る印象的なシーンがあったのを振り返って、あの映画は結構イケテルんじゃないか、と身びいきで思っていたけれど、本当にいい映画になるためには、そんなシーンが最低10箇所くらいは要るんだなぁ、とこの映画を観ながらつくづく思い知らされました。うちの息子はまだまだやなぁ。橋口さんもピアの入選がスタートやから、あんたもおきばりやす。・・・閑話休題。ローカルな話題ですいませんm(_ _)m ど?せ、うちのはこんなブログ読まないんだけど。
脇役もいいですねぇ。倍賞美津子、柄本明・・いいですねぇ。
八嶋智人、加瀬亮、片岡礼子、木村祐一、ほんのチョイ役でも印象に残ります。八嶋智人なんか、ほんまにぶん殴ったろか、と思うほどうまいね。加瀬亮は怖かったし(笑)。
実はこの手の映画は本当は苦手で、映画はデレッとして、エンターテインメントとして楽しみたいのがホンネ。トレンディドラマ、西部劇、サスペンス、チャンバラ、スパイもの、戦争映画、アニメ、お笑い、ドタバタ、なんでもいい。B級でもC級でも結構。なにしろ映画館で10回以上同じのを観たって映画が「荒鷲の要塞」という私ですから・・(*^^*)
だけど、やっぱり映画のためには、こういう作品がなければいけないだろうな、と思います。すばらしい映画でした。
それに、ハッピーエンディングは私の好みでもあります。この映画ではそれがハリウッドB級映画流のじゃなくて、深い深い悲しみと苛立ちと憤りと、心身を切り刻むように自ら深く傷ついた果てのハッピーエンディングなので、感動もひとしおです。
at 23:18|Permalink│
2008年06月28日
「インディー・ジョーンズ?クリスタル・スカルの王国」
これだけのセットを作り、ハリソンくんなんかに出てもらったら、何億、何十億って製作費がかかるんでしょうね。もったいないなぁ。
これまで色々と無条件に楽しませてもらったスピルバーグやジョージ・ルーカスに義理立てし、さらにご高齢のハリソンくんに敬意を表して観にいきました。
パートナーが世話になっている整体の先生は、このあいだ長年楽しませてもらったスタローンに義理立てして、ランボー最後の戦いを観に行って、ひどかった・・と帰ってきたそうです。
我々は、まぁそこまでは言いません。1000円(シニア料金)ならしょうがないよね、と慰め合い、言葉少なに帰途につきました。
いくら理屈抜きのエンターテインメントだからって、せっかく気の遠くなるようなお金をかけて沢山の人が一所懸命力をあわせて作るんだから、せめてシナリオをもう少しましなものにしたらいいのに、と思うのは私たちだけでしょうか。あまりにもチャチすぎるし、ドタバタのためのドタバタ、無用のエピソードが多すぎるのでは?
映画人としては、ハリウッドにレッドパージの嵐が吹き荒れた時期を映像にとどめたかったのかもしれないけれど、いま米ソ冷戦時代的構図を下敷きにされては、いくら娯楽篇といってもちょっとシラケちゃいます。現代にふさわしい構図が作れないのなら、いっそ歴史など想起させない、荒唐無稽な構図を下敷きにすべきでしょう。
それに、ハリソンくんみたいな器用な俳優を、若いときと同じこんな冒険物で使ってアップアップさせたり、CGでごまかしてみせるのは気の毒だし、観客にも失礼です。老優には老優にふさわしい演技をさせてあげることができるような映画に出てもらうべきでしょう。
「八月の鯨」のベティ・デイヴィス、リリアン・ギッシュ、「ドライビングMiss デイジー」のジェシカ・タンディ、「黄昏」のヘンリー・フォンダ、いろいろ例があるじゃないですか。あ、まだハリソンくんは彼らほどのお歳じゃないけれども。
この映画で一番印象に残ったのは、冒頭の原爆のシーンです。これはネバダ砂漠が実際に核爆発の実験場だったから、あの平和そうなマネキン家族の居間の光景が、すべて一瞬で灼熱地獄と化すシーンは、このエンターテインメントフィルムに紛れ込んだ、拭いとれない汚点のような現実の痕跡。
「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」(広瀬隆)という本を読んだことがありますが、それによれば、ネバダでロケを繰り返し、撮影所にも大量にネバダ砂漠の砂を持ち込んだ結果、当地で繰り返された核実験の残留放射能をたっぷり浴びた俳優たちが次々に癌を発病して死んでいった。ジョン・ウェインもその一人だったということです。
スピルバーグが、今回の映画の冒頭シーンをネバダ核実験場で始め、実際に原爆を爆発させてみせたのは、きわめて意図的だったでしょう。それはこの純粋なエンターテインメント映画にとって、まったく無用なシーンでした。ただ、無用の異物でありながら、観客はそれを無視することも消去することもできず、映画本編が他愛ないだけに、映画館を出た後、それだけが胃のあたりに残り、胃壁に小さなブラックホールのような暗い穴を穿ち始めるのです。
これまで色々と無条件に楽しませてもらったスピルバーグやジョージ・ルーカスに義理立てし、さらにご高齢のハリソンくんに敬意を表して観にいきました。
パートナーが世話になっている整体の先生は、このあいだ長年楽しませてもらったスタローンに義理立てして、ランボー最後の戦いを観に行って、ひどかった・・と帰ってきたそうです。
我々は、まぁそこまでは言いません。1000円(シニア料金)ならしょうがないよね、と慰め合い、言葉少なに帰途につきました。
いくら理屈抜きのエンターテインメントだからって、せっかく気の遠くなるようなお金をかけて沢山の人が一所懸命力をあわせて作るんだから、せめてシナリオをもう少しましなものにしたらいいのに、と思うのは私たちだけでしょうか。あまりにもチャチすぎるし、ドタバタのためのドタバタ、無用のエピソードが多すぎるのでは?
映画人としては、ハリウッドにレッドパージの嵐が吹き荒れた時期を映像にとどめたかったのかもしれないけれど、いま米ソ冷戦時代的構図を下敷きにされては、いくら娯楽篇といってもちょっとシラケちゃいます。現代にふさわしい構図が作れないのなら、いっそ歴史など想起させない、荒唐無稽な構図を下敷きにすべきでしょう。
それに、ハリソンくんみたいな器用な俳優を、若いときと同じこんな冒険物で使ってアップアップさせたり、CGでごまかしてみせるのは気の毒だし、観客にも失礼です。老優には老優にふさわしい演技をさせてあげることができるような映画に出てもらうべきでしょう。
「八月の鯨」のベティ・デイヴィス、リリアン・ギッシュ、「ドライビングMiss デイジー」のジェシカ・タンディ、「黄昏」のヘンリー・フォンダ、いろいろ例があるじゃないですか。あ、まだハリソンくんは彼らほどのお歳じゃないけれども。
この映画で一番印象に残ったのは、冒頭の原爆のシーンです。これはネバダ砂漠が実際に核爆発の実験場だったから、あの平和そうなマネキン家族の居間の光景が、すべて一瞬で灼熱地獄と化すシーンは、このエンターテインメントフィルムに紛れ込んだ、拭いとれない汚点のような現実の痕跡。
「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」(広瀬隆)という本を読んだことがありますが、それによれば、ネバダでロケを繰り返し、撮影所にも大量にネバダ砂漠の砂を持ち込んだ結果、当地で繰り返された核実験の残留放射能をたっぷり浴びた俳優たちが次々に癌を発病して死んでいった。ジョン・ウェインもその一人だったということです。
スピルバーグが、今回の映画の冒頭シーンをネバダ核実験場で始め、実際に原爆を爆発させてみせたのは、きわめて意図的だったでしょう。それはこの純粋なエンターテインメント映画にとって、まったく無用なシーンでした。ただ、無用の異物でありながら、観客はそれを無視することも消去することもできず、映画本編が他愛ないだけに、映画館を出た後、それだけが胃のあたりに残り、胃壁に小さなブラックホールのような暗い穴を穿ち始めるのです。
at 23:19|Permalink│
2008年06月27日
「虫眼とアニ眼」(宮崎駿、養老孟司)
対談をまとめた薄っぺらな文庫本ですが、とても刺激的で、ハッとさせられるところが沢山ありました。それだけこちらが、養老さんのいう「脳化社会」に骨の髄まで、いや脳ミソの中まで毒されているということなのでしょう。
蝶が飛ぶとき、好き勝手に飛んでいるんじゃく、「蝶道」と呼ばれる道に従って飛んでいる。蝶は環境をそれほど細かに識別しながら飛んでいるんだ、と。そして、人間だって、かつてはそんなふうに、環境の差異をきめ細かに識別する能力を持っていたのに、いまではそういうディテールを完全に無視して生きるようになってしまった。それで「感性」もへちまもないだろう、というあたりは、とても面白い。
それと同じ趣旨だけれど、縄文式土器の形式による分布図とマイマイカブリの生息分布図を比較すると、両者がそっくりだという。縄文人はかくも自然のディテールに依存して生活していた証左として語られているのですが、これも面白かった。
蝶が飛ぶとき、好き勝手に飛んでいるんじゃく、「蝶道」と呼ばれる道に従って飛んでいる。蝶は環境をそれほど細かに識別しながら飛んでいるんだ、と。そして、人間だって、かつてはそんなふうに、環境の差異をきめ細かに識別する能力を持っていたのに、いまではそういうディテールを完全に無視して生きるようになってしまった。それで「感性」もへちまもないだろう、というあたりは、とても面白い。
それと同じ趣旨だけれど、縄文式土器の形式による分布図とマイマイカブリの生息分布図を比較すると、両者がそっくりだという。縄文人はかくも自然のディテールに依存して生活していた証左として語られているのですが、これも面白かった。
at 23:47|Permalink│
2008年06月26日
「藤壺」(瀬戸内寂聴)
名のみ伝わる源氏物語の幻の一帖「かがやく日の宮」が実在したという仮定のもとに、それを復元するというモチーフのもとに書かれた小説。これを古文にも逆翻訳し、その古文版もあとに付いている。
漱石の未完の大作「明暗」を補って”完成”させた人もあって、こういう試みは面白いけれども、読んでみて、やっぱり紫式部ならこうは書かなかったろうな、と思った。どうみてもこれは瀬戸内源氏、寂聴源氏。紫式部なら、ことお相手が藤壺に関する限り、閨の中まではこのように描くまい。
著者は「実作者の立場から、私も紫式部が、源氏と藤壺のはじめて結ばれる場面を書かない筈はないと思いました」と書き、「それがなくなったのは、それを読まれた一条天皇が、内容上あまり禁忌にふれるので削除をお命じになられたのではないか」と推測している。
著者も引用している定家の書いた「このまきもとよりなし」の文言を無視して、もとはあった、と仮定した上でなら、一条帝か道長か、はたまた紫式部自身かが削除した、というのは空想としては成立する推測かもしれない。
でも、その場合でも、紫式部は寂聴流では書かなかったろう。それは、若紫とのはじめての「父娘」の境を越えるときの描写をみて直観的に確信できるのではないだろうか。
むろん相手が年端もいかぬ若紫との睦みごと、少女の可憐さを強調する意図した間接的な語り口であって(それはそのとおりだが)、源氏のあこがれであり成熟した理想の女性としての藤壺への禁断の恋を、十重二十重の禁忌を踏み破って貫く場面とは違う、と言われるかもしれないけれど、そうなるとこの物語全体の語り口、紫式部の言語感覚(語彙の選択から描写における対象との距離感にいたるまで)の評価にかかわってくる。
その意味では寂聴の見方は彼女の現代語訳源氏物語とも、ここでの解釈とも一貫している。私の好みではないけれど。
漱石の未完の大作「明暗」を補って”完成”させた人もあって、こういう試みは面白いけれども、読んでみて、やっぱり紫式部ならこうは書かなかったろうな、と思った。どうみてもこれは瀬戸内源氏、寂聴源氏。紫式部なら、ことお相手が藤壺に関する限り、閨の中まではこのように描くまい。
著者は「実作者の立場から、私も紫式部が、源氏と藤壺のはじめて結ばれる場面を書かない筈はないと思いました」と書き、「それがなくなったのは、それを読まれた一条天皇が、内容上あまり禁忌にふれるので削除をお命じになられたのではないか」と推測している。
著者も引用している定家の書いた「このまきもとよりなし」の文言を無視して、もとはあった、と仮定した上でなら、一条帝か道長か、はたまた紫式部自身かが削除した、というのは空想としては成立する推測かもしれない。
でも、その場合でも、紫式部は寂聴流では書かなかったろう。それは、若紫とのはじめての「父娘」の境を越えるときの描写をみて直観的に確信できるのではないだろうか。
むろん相手が年端もいかぬ若紫との睦みごと、少女の可憐さを強調する意図した間接的な語り口であって(それはそのとおりだが)、源氏のあこがれであり成熟した理想の女性としての藤壺への禁断の恋を、十重二十重の禁忌を踏み破って貫く場面とは違う、と言われるかもしれないけれど、そうなるとこの物語全体の語り口、紫式部の言語感覚(語彙の選択から描写における対象との距離感にいたるまで)の評価にかかわってくる。
その意味では寂聴の見方は彼女の現代語訳源氏物語とも、ここでの解釈とも一貫している。私の好みではないけれど。
at 21:46|Permalink│
「天璋院篤姫」(宮尾登美子)
情報量の多い小説というか、作者が丹念に乏しい記録をたどり、史実を調べ、力を入れて書き込んだだけあって、文庫本上下2巻にぎっしりその情報が詰まっている印象だ。
NHKの大河ドラマで進行中なので、だいたい毎週見ていて、書店に原作が積み上げてあるのをいつも横目で見てはいたが、読んじゃうとつまらないかな、と思って我慢していた。
しかし慶喜や斉彬や和宮についてはこれまでも幕末物で色々聞きかじるような情報はあっても、家定や篤姫については、名のみ知っていても、どういう人物だったのか、学校で習うこともないし、まったく無知だったので、ドラマの展開を見ていて興味深く、せっかちなので、やっぱり先が知りたくなってしまった。
で、読んでみて、やっぱり読まなきゃよかったかなぁ(笑)と少し後悔。
小説のほうは、歴史を曲げたりしているふうには見えないけれど、ドラマはかなり奔放に脚色しているようだから、どうなるかは分からないけれど、私のようにエンターテインメントに常にハッピーエンドを求めたがるような視聴者には、やはり史実の重さが障害になるかもしれない。
小説としては堅固な歴史小説だけれど、抑えた筆致というのだろうか、少々淡々としすぎて物足りない印象はある。後半(下巻)で和宮降嫁のあたりから歴史の激流とその表舞台を生きる男たちに不本意ながら翻弄され、自分の努力してきたことがみな実を結ばぬまま歳月が過ぎていった空しさと、「姑」としてのおだやかならぬ心境で、それまでの、強く、大きな器をもって自分の運命を引き受けて名実ともに大奥の頂点に立つに至る篤姫とは別の、きわめて「人間的」といえばいえる人物像に変わっていく。
ここで読者は、自分はこうであったのに、と考えて和宮に批判的な眼差しを注ぐ篤姫に共感するか、違和感を覚えるか、分かれるのではないか。
頂点に立つまでの篤姫と、この後半の篤姫とは、いろいろ状況の変化、経てきた道のりについての叙述を考慮しても、なおどこか断絶と飛躍を感じずにおれない。ここには諦観はあっても、成熟が感じられない。
作者が姑としての篤姫に完全に同化し、肯定して描いているわけではないけれど、史実を曲げることのできない歴史小説の枠内で、もっと器の大きな成熟を彼女のために用意することもできたのではないか、という気がする。
NHKの大河ドラマで進行中なので、だいたい毎週見ていて、書店に原作が積み上げてあるのをいつも横目で見てはいたが、読んじゃうとつまらないかな、と思って我慢していた。
しかし慶喜や斉彬や和宮についてはこれまでも幕末物で色々聞きかじるような情報はあっても、家定や篤姫については、名のみ知っていても、どういう人物だったのか、学校で習うこともないし、まったく無知だったので、ドラマの展開を見ていて興味深く、せっかちなので、やっぱり先が知りたくなってしまった。
で、読んでみて、やっぱり読まなきゃよかったかなぁ(笑)と少し後悔。
小説のほうは、歴史を曲げたりしているふうには見えないけれど、ドラマはかなり奔放に脚色しているようだから、どうなるかは分からないけれど、私のようにエンターテインメントに常にハッピーエンドを求めたがるような視聴者には、やはり史実の重さが障害になるかもしれない。
小説としては堅固な歴史小説だけれど、抑えた筆致というのだろうか、少々淡々としすぎて物足りない印象はある。後半(下巻)で和宮降嫁のあたりから歴史の激流とその表舞台を生きる男たちに不本意ながら翻弄され、自分の努力してきたことがみな実を結ばぬまま歳月が過ぎていった空しさと、「姑」としてのおだやかならぬ心境で、それまでの、強く、大きな器をもって自分の運命を引き受けて名実ともに大奥の頂点に立つに至る篤姫とは別の、きわめて「人間的」といえばいえる人物像に変わっていく。
ここで読者は、自分はこうであったのに、と考えて和宮に批判的な眼差しを注ぐ篤姫に共感するか、違和感を覚えるか、分かれるのではないか。
頂点に立つまでの篤姫と、この後半の篤姫とは、いろいろ状況の変化、経てきた道のりについての叙述を考慮しても、なおどこか断絶と飛躍を感じずにおれない。ここには諦観はあっても、成熟が感じられない。
作者が姑としての篤姫に完全に同化し、肯定して描いているわけではないけれど、史実を曲げることのできない歴史小説の枠内で、もっと器の大きな成熟を彼女のために用意することもできたのではないか、という気がする。
at 21:21|Permalink│