2008年05月
2008年05月31日
のだめ in ヨーロッパ
国内編で予想外の面白さ、できのよさに驚いていたので、テレビで放映のとき見損なった、このヨーロッパ編を見て、やっぱり面白くて、いいなぁとは思ったけれど、もうそれほどは驚かなかった。
それでも期待に違わず、面白かった。ストーリーを要約すると馬鹿みたいに単純な、音楽好きで音楽に関しては特異な天賦の才ある若くてハチャメチャな女の子の、シンデレラ的成功物語プラス恋愛物語プラス友情物語という、ごくありふれた姿形をしている。
それでも面白いのは、語り口が面白いからで、それを支えているのはマンガ的にぶっ飛んだキャラとその振る舞い、それらを担う俳優たちの旬のノリ、といったところか。
上野樹里演じる「のだめ」のおふざけキャラに、玉木宏演じる千秋が、しばしば、ふざけるのもいいかげんにしろ!的なうんざり顔を見せることがあるけれども、それは我々一般観客の感覚でもあって、その臨界点で、もしも作り手たちが「ヤバイ」と思って引き返してしまっていたら、このドラマは不完全燃焼の中途半端なつまらないものになっていただろう。
でも、このドラマは心配御無用。黄信号の交差点の手前で加速する車みたいに目一杯アクセルを踏んで、その臨界点を突破してしまう。ふざけのめしてかかるのだめは、一本背負いか何かでパリの石畳の上に叩きつけられ、或いはフツーならお亡くなりになるでしょう!というほど殴られて画面のかなたまでぶっ飛んでいく。我々一般観客はそこで声を発して笑わずにいられない。
向こうからやってくるクルマを、おまえねぇ、そんなに飛ばしちゃそこのブロック塀にぶつかるでしょうが!ったく・・と思って見ていたら、そのままブロック塀に突進してぶち破って、こっちの頭上を滑空するダンボみたいにかすめて行っちまった、といった按配で、あれよあれよと見送るこちらは、あと笑うしかない・・・
そんなシーンがいっぱい詰まっていて、カタルシスを味わうこと請け合い。
日本のテレビドラマは、どういうわけか、青春モノでも恋愛モノでもシンデレラものでもハードボイルドでも、みんな湿っぽくて、こんなにカラッと五月晴れのように「抜ける」タイプのは稀だ。
上野樹里がうまいのは前から知っていたけれど、二枚目半の玉木宏がその「半」で見せる白目の演技がほんとに素晴らしく笑える。実に楽しい気晴らし、そしてただのお笑いに終わらない、まっとうに一般観客の琴線に触れるドラマ。
プラハやパリの街の美しい映像、そして何よりも次から次へと聴かせてくれる音楽のすばらしさ。これを観る(聴く)と、おぼえのない曲はもとより、よく知っていた曲でも、もう一度聴いてみたくなる。
それでも期待に違わず、面白かった。ストーリーを要約すると馬鹿みたいに単純な、音楽好きで音楽に関しては特異な天賦の才ある若くてハチャメチャな女の子の、シンデレラ的成功物語プラス恋愛物語プラス友情物語という、ごくありふれた姿形をしている。
それでも面白いのは、語り口が面白いからで、それを支えているのはマンガ的にぶっ飛んだキャラとその振る舞い、それらを担う俳優たちの旬のノリ、といったところか。
上野樹里演じる「のだめ」のおふざけキャラに、玉木宏演じる千秋が、しばしば、ふざけるのもいいかげんにしろ!的なうんざり顔を見せることがあるけれども、それは我々一般観客の感覚でもあって、その臨界点で、もしも作り手たちが「ヤバイ」と思って引き返してしまっていたら、このドラマは不完全燃焼の中途半端なつまらないものになっていただろう。
でも、このドラマは心配御無用。黄信号の交差点の手前で加速する車みたいに目一杯アクセルを踏んで、その臨界点を突破してしまう。ふざけのめしてかかるのだめは、一本背負いか何かでパリの石畳の上に叩きつけられ、或いはフツーならお亡くなりになるでしょう!というほど殴られて画面のかなたまでぶっ飛んでいく。我々一般観客はそこで声を発して笑わずにいられない。
向こうからやってくるクルマを、おまえねぇ、そんなに飛ばしちゃそこのブロック塀にぶつかるでしょうが!ったく・・と思って見ていたら、そのままブロック塀に突進してぶち破って、こっちの頭上を滑空するダンボみたいにかすめて行っちまった、といった按配で、あれよあれよと見送るこちらは、あと笑うしかない・・・
そんなシーンがいっぱい詰まっていて、カタルシスを味わうこと請け合い。
日本のテレビドラマは、どういうわけか、青春モノでも恋愛モノでもシンデレラものでもハードボイルドでも、みんな湿っぽくて、こんなにカラッと五月晴れのように「抜ける」タイプのは稀だ。
上野樹里がうまいのは前から知っていたけれど、二枚目半の玉木宏がその「半」で見せる白目の演技がほんとに素晴らしく笑える。実に楽しい気晴らし、そしてただのお笑いに終わらない、まっとうに一般観客の琴線に触れるドラマ。
プラハやパリの街の美しい映像、そして何よりも次から次へと聴かせてくれる音楽のすばらしさ。これを観る(聴く)と、おぼえのない曲はもとより、よく知っていた曲でも、もう一度聴いてみたくなる。
at 23:33|Permalink│
2008年05月27日
「切れた鎖」(田中慎弥)
何度も芥川賞候補になり、今回表題作で三島由紀夫賞を受賞した著者による、「不意の償い」「蛹」「切れた鎖」の三作品を収めた作品集。
正直言って電車の中で読むには辛かった。いろんな意味でつらい。まず当然ながらエンターテインメントと違って、文体はいわゆる純文芸誌に載るような、というより、純文芸誌に載るほかはないような文体だし、そこで描かれる世界も辛くなるような世界だ。
私にとってまだ一番マシだったのは「不意の償い」。団地の幼馴染で、将来結婚しようと「密約」を交わした幼い日から、ずっとその狭い世界を出ずに住んで、親同士が働いていた商店街の真ん中のスーパーに就職内定して・・・という誠に狭い狭い世界に生きる若い男女が、親の目を盗んで初めてのセックスをした日に、その両親4人が不審火によるスーパーの火事で死んでしまう。
表面的に読んでいけば、その疚しさからオブセッションにとりつかれた男「私」が、妻の妊娠を契機に?次第に錯乱していくのを一人称で書いている。
"・・・私には、ふーっと吹き消せるのではないかというくらい近いところにスーパーを焼く火が見えるようだった。妻が十二年前の火に焼かれて妊娠したのだとしたら、急激な欲求を妻の体へぶつけたことは罪とも呼べないかもしれないと思った。街を包んでいたにおいが鼻の奥に蘇り、スーパーの商品だった生焼けの肉の山に頭を突っ込んでいる犬や猫が、小豆色のダウンジャケットの、夫に無理をされたばかりの妻の体を嗅ぎつけて気持悪い声ですり寄ってくるところを想像した。"
・・・といったあたりまは、まだ正気の領域だが、電車の中で話し込んでいる七十くらいの二人の女、一人は猿に、一人は狸に似た女を見るあたりになると、もうその領域を越境してしまっている。
"「燕が妊娠・・・」とどちらかが言ったのだ。右手で銀色の棒へ体を引き寄せあからさまに見下ろすと同時にこちらへ向けられた二つの顔は本物の、真っ赤な皮膚の猿と灰色の毛の生えた狸だった。猿は手に血だらけの燕の死体を持ち、狸は小さな卵を握って砕き、孵化寸前だった雛を爪に引っかけていじくり回していた。・・・"
あるいは;
"火事だ火事だと叫びながら空を覆う何百匹かの蝙蝠が落す真っ赤な糞で道がどろどろになっていた。産婦人科の前で服を着ていない猿と狸が、一つの胴に足が二十本、頭と尾が五つある黒い犬を路面へ仰けに押えつけていた。顔は妻と私の両親と妻の両親だ。腹の上には蝙蝠の糞を浴びたように血まみれの生れたての人間の赤ん坊が乗っておりこちらの顔は高校生の私で、もどかしそうに腰を動かしていた。猿が、「ははあ、どの穴に入れればいいんだか分からないんだな。」と言えば、
「人間が獣に入れるんだからどこでもいいだろうに。」と狸。高校生の私の目と耳と口からちろちろと炎が出ていて、それを見て喉が渇いたおかしさを支えに団地まで辿り着いた。"
かなり強烈でグロテスクなイメージを喚起する、この印象的な文体が、象徴的な親殺しの最中の性の営みがあらたな生命を妻の体の中に産みつける、力強くも汚辱にまみれた生命のグロテスクな相を鮮やかな赤黒い炎のように見せてくれる。
「蛹」というのは一見不思議な作品で、人間は登場しない。これはかぶと虫の蛹の内面をくぐって見る世界だ。ここでも生命(性)の営みは独特のグロテスクな色彩を帯びている。
"地上では闇と光が何度も入れ替り、彼と同じように角を持っているかぶと虫の雄と楕円形の雌は光が去ると土から出、闇の中で絡まり合った。幼虫の期間があったとは考えられない激しい動きだった。行動が闇そのものになり闇全体が揺れ動いた。一匹の雌に数匹の雄がのしかかり、その褐色の集団が幹の表面を這いずり回るガチャガチャという音が闇の中心であり光に代る何ものかであるようだった。最後に残った雄が雌と番う。その一匹と一匹の行為は、翅を閉じているのに体の内側を剥出しにしているかのような、二匹の汚れが闇に滲んでゆきそうな恐しい闘いだった。・・”
「切れた鎖」は、夫を新興宗教である「裏の教会」の女に奪われた女の嫉妬と憎悪が、憎悪の相手への強烈な民族差別や性的な侮蔑として投射され、娘や孫もその内面から憎悪に染め上げていく、その振る舞い、その偏狭な生き方の強さのうちに、人間とか女というよりも、生命そのもののグロテスクな姿を見せ付けられるようなインパクトがある。
それにしても、前の席にならぶ初夏のいでたちの爽やかなお嬢さんたちの姿を眺めながらの車中、この種の作品を読むというのは、心的落差おおきく、かなり辛いものがありました。
正直言って電車の中で読むには辛かった。いろんな意味でつらい。まず当然ながらエンターテインメントと違って、文体はいわゆる純文芸誌に載るような、というより、純文芸誌に載るほかはないような文体だし、そこで描かれる世界も辛くなるような世界だ。
私にとってまだ一番マシだったのは「不意の償い」。団地の幼馴染で、将来結婚しようと「密約」を交わした幼い日から、ずっとその狭い世界を出ずに住んで、親同士が働いていた商店街の真ん中のスーパーに就職内定して・・・という誠に狭い狭い世界に生きる若い男女が、親の目を盗んで初めてのセックスをした日に、その両親4人が不審火によるスーパーの火事で死んでしまう。
表面的に読んでいけば、その疚しさからオブセッションにとりつかれた男「私」が、妻の妊娠を契機に?次第に錯乱していくのを一人称で書いている。
"・・・私には、ふーっと吹き消せるのではないかというくらい近いところにスーパーを焼く火が見えるようだった。妻が十二年前の火に焼かれて妊娠したのだとしたら、急激な欲求を妻の体へぶつけたことは罪とも呼べないかもしれないと思った。街を包んでいたにおいが鼻の奥に蘇り、スーパーの商品だった生焼けの肉の山に頭を突っ込んでいる犬や猫が、小豆色のダウンジャケットの、夫に無理をされたばかりの妻の体を嗅ぎつけて気持悪い声ですり寄ってくるところを想像した。"
・・・といったあたりまは、まだ正気の領域だが、電車の中で話し込んでいる七十くらいの二人の女、一人は猿に、一人は狸に似た女を見るあたりになると、もうその領域を越境してしまっている。
"「燕が妊娠・・・」とどちらかが言ったのだ。右手で銀色の棒へ体を引き寄せあからさまに見下ろすと同時にこちらへ向けられた二つの顔は本物の、真っ赤な皮膚の猿と灰色の毛の生えた狸だった。猿は手に血だらけの燕の死体を持ち、狸は小さな卵を握って砕き、孵化寸前だった雛を爪に引っかけていじくり回していた。・・・"
あるいは;
"火事だ火事だと叫びながら空を覆う何百匹かの蝙蝠が落す真っ赤な糞で道がどろどろになっていた。産婦人科の前で服を着ていない猿と狸が、一つの胴に足が二十本、頭と尾が五つある黒い犬を路面へ仰けに押えつけていた。顔は妻と私の両親と妻の両親だ。腹の上には蝙蝠の糞を浴びたように血まみれの生れたての人間の赤ん坊が乗っておりこちらの顔は高校生の私で、もどかしそうに腰を動かしていた。猿が、「ははあ、どの穴に入れればいいんだか分からないんだな。」と言えば、
「人間が獣に入れるんだからどこでもいいだろうに。」と狸。高校生の私の目と耳と口からちろちろと炎が出ていて、それを見て喉が渇いたおかしさを支えに団地まで辿り着いた。"
かなり強烈でグロテスクなイメージを喚起する、この印象的な文体が、象徴的な親殺しの最中の性の営みがあらたな生命を妻の体の中に産みつける、力強くも汚辱にまみれた生命のグロテスクな相を鮮やかな赤黒い炎のように見せてくれる。
「蛹」というのは一見不思議な作品で、人間は登場しない。これはかぶと虫の蛹の内面をくぐって見る世界だ。ここでも生命(性)の営みは独特のグロテスクな色彩を帯びている。
"地上では闇と光が何度も入れ替り、彼と同じように角を持っているかぶと虫の雄と楕円形の雌は光が去ると土から出、闇の中で絡まり合った。幼虫の期間があったとは考えられない激しい動きだった。行動が闇そのものになり闇全体が揺れ動いた。一匹の雌に数匹の雄がのしかかり、その褐色の集団が幹の表面を這いずり回るガチャガチャという音が闇の中心であり光に代る何ものかであるようだった。最後に残った雄が雌と番う。その一匹と一匹の行為は、翅を閉じているのに体の内側を剥出しにしているかのような、二匹の汚れが闇に滲んでゆきそうな恐しい闘いだった。・・”
「切れた鎖」は、夫を新興宗教である「裏の教会」の女に奪われた女の嫉妬と憎悪が、憎悪の相手への強烈な民族差別や性的な侮蔑として投射され、娘や孫もその内面から憎悪に染め上げていく、その振る舞い、その偏狭な生き方の強さのうちに、人間とか女というよりも、生命そのもののグロテスクな姿を見せ付けられるようなインパクトがある。
それにしても、前の席にならぶ初夏のいでたちの爽やかなお嬢さんたちの姿を眺めながらの車中、この種の作品を読むというのは、心的落差おおきく、かなり辛いものがありました。
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あさきゆめみし?源氏物語千年紀
今年は「源氏物語千年紀」なのだそうです。まぁ大体1000年くらい、というのは分かるけど、なぜ今年なんだろう?と思っていたら、記録(紫式部日記)の上で、源氏物語が読まれていたことが確かめられるのが1008年だから、ちょうどそれから千年、ということらしい。いわれはともかく、何でもいいから、この世界的な古典に光をあてて若い人が面白がって読むようになるのは悪くない。
源氏物語のゆかりの地というので観光振興に活用しているのは、京都市などより宇治市などのほうがよほど早かった。京都は源氏に限らず、歴史的な時間の切り口がいくらでも揃っているから、こういうところも実にのんびりしている。まぁそののんびりさ加減が私のような怠け者にはちょうどいい住み心地ではあるのですが・・
ところで、肝心の「源氏物語」ですが、私も恥ずかしながら古文で全部読み通すってことはやったことがありません。そういうのは昔の人ならともかく、いまの人だとかなりの学者じゃないかしら。
もちろんこういうのは、歴史ファンと同じで、玄人はだしの源氏読みのオバサマがたが幾らもいらっしゃるから、めったなことは言えません。〇〇先生などの「源氏を読む会」的な読書会に参加して、ちょっとずつ気長に何年がかりで完読したりするんでしょうね。
私の母なども、昔の女専の国文だったので、遺していったふるい湖月抄にはびっしり書き込みがありました。彼女も源氏狂いの一人でしたから、うちの本棚には湖月抄のほかに與謝野源氏も谷崎源氏もみんな並んでいたのをおぼえています。
自分が原文を読まずに学生さんに読め読め、と言ったって、いささか迫力を欠くのは否めませんが、私はこんなのは別に原文主義でなくっていいんだ、と思っています。
私自身は国文でも何でもなかったから、最初は谷崎源氏、それが自分には合わなくて、結局最初に読み通せたのは與謝野源氏でした。これはその後角川文庫の3冊本になって出たのを自分で買いなおして、入院したときなんかに2度も読み直すほど気に入りました。たぶん歯切れのいい晶子の近代的な言語が肌に合ったのでしょう。原文に興味を持っていくらかでも読むようになったのはそのあとのことです。(高校の授業で部分的に桐壺を読まされたのを別にすれば。)
サッカー少年の親御さんに頼まれて勤めのかたわら、毎土曜日に数人の中学?高校生の英語を見てあげていたころは、彼らが高校生になると英語は半分だけで、あとは論語の白文と源氏の原文を読ませていました。そのとき、もう一度自分でも原文で読む楽しみを味わいました。
いまなら、いっぱい現代語訳が出ているので、田辺聖子でも瀬戸内寂聴でも、何なら一人称にしちゃった橋本源氏でも、・・・とくると、あぁ、いまならそうじゃなくて、やっぱり「あさきゆめみし」(大和和紀)ってことになるんだろうな、と思い当たります。
これはだいぶ前から出ていたから、書店でちらちら立ち読みはしていたのですが、やっぱりどうも私のような世代は、マンガが好きではあるのだけど、源氏物語をマンガで読んでもなぁ・・・という気持ちがどうしても拭えないで、敬遠してきました。
でも、先日、せっかく千年紀なんだから、ってわけで、ゼミの3回生に「雨の夜の品定め」(帚木)の現代語訳を渡して、これを読んで、きみらの目でいまの「雨の世の品定め」を書いてきてくれ、つまり、いま「カッコイイ男、カッコイイ女」ってどういうのか、それを手短かでいいからコラム代わりに書いてきてくれ、って課題を出したことが頭にあったせいか、書店でとうとう文庫版の「あさきゆめみし」を買ってしまいました。
まだとりあえず1巻しか読んでないので、とやかく言うのはさしひかえたいけれど、率直に言って、とても読みにくい。活字の物語で読むと、あれほどくっきりと一人一人の登場人物のキャラや風貌が浮かび上がってくるのに、このマンガを読んでいても、それがうまく頭に入ってこない。
もちろんこの種の絵柄に慣れた若い学生さんならピピッと脳にやきついて、スイスイ読んでいけるのかもしれませんが・・・。むかし、白黒テレビが家庭に入ってきて間もないころ、外国のドラマなんかやると、日本のドラマと違って、どの顔も似てみえて、誰が誰かよく分からないような気がしたけれど、あれと同じかな(笑)。
いまは、若いタレントや人気の男優なんかが出ているドラマを見ても、どうも同じような顔に見えて、ときどき「この人、〇〇に出てた人?」とか訊くとパートナーから「ぜんぜん違う!」と言われ、「でも似てるじゃん」とつぶやいたりすると、もう話にならん、と呆れ顔をされることが珍しくないのですが、あれと同じかな(笑)。
だけどマンガのわずかな線描写で、はたしてどれだけの登場人物が描き分けられるのでしょう?いや、そりゃ、鉄腕アトムとお茶の水博士とウランちゃんを描き分けるのは難しくないでしょうけど、同じような衣装を着て同じような髪型をした、しかもいずれ劣らぬ美女ばかり(例外はあるけれど)、という源氏の君のお相手の女性を、さてどれだけ描き分けられるものか。
吹き出しや物語のコンテキストで、もちろん識別することはできますが、パッとページを開いて、この女性が藤壺なのか六条御息所なのか夕顔なのか葵上なのか、簡単に見分けがつきますかねぇ。まぁ桐壺と藤壺と紫上が似てるのは構わないけど、似ていて違う、というのを描き分けるのは、これまた難しいでしょうね。
でもまぁ、そんなことはさしたることでもない。若い人がたとえ現代語訳でも長ったらしい文章は読めない、というのであれば、ここを源氏への入口にするというのは悪くないと思います。文学がどうの、とうるさいことを言わずに、女性や男性のキャラから入って、噂話をするように源氏の世界を噂する楽しみが味わえるようになれば、あとは自然にもっと、もっとと無限の楽しみへ誘われていくでしょう。
源氏物語のゆかりの地というので観光振興に活用しているのは、京都市などより宇治市などのほうがよほど早かった。京都は源氏に限らず、歴史的な時間の切り口がいくらでも揃っているから、こういうところも実にのんびりしている。まぁそののんびりさ加減が私のような怠け者にはちょうどいい住み心地ではあるのですが・・
ところで、肝心の「源氏物語」ですが、私も恥ずかしながら古文で全部読み通すってことはやったことがありません。そういうのは昔の人ならともかく、いまの人だとかなりの学者じゃないかしら。
もちろんこういうのは、歴史ファンと同じで、玄人はだしの源氏読みのオバサマがたが幾らもいらっしゃるから、めったなことは言えません。〇〇先生などの「源氏を読む会」的な読書会に参加して、ちょっとずつ気長に何年がかりで完読したりするんでしょうね。
私の母なども、昔の女専の国文だったので、遺していったふるい湖月抄にはびっしり書き込みがありました。彼女も源氏狂いの一人でしたから、うちの本棚には湖月抄のほかに與謝野源氏も谷崎源氏もみんな並んでいたのをおぼえています。
自分が原文を読まずに学生さんに読め読め、と言ったって、いささか迫力を欠くのは否めませんが、私はこんなのは別に原文主義でなくっていいんだ、と思っています。
私自身は国文でも何でもなかったから、最初は谷崎源氏、それが自分には合わなくて、結局最初に読み通せたのは與謝野源氏でした。これはその後角川文庫の3冊本になって出たのを自分で買いなおして、入院したときなんかに2度も読み直すほど気に入りました。たぶん歯切れのいい晶子の近代的な言語が肌に合ったのでしょう。原文に興味を持っていくらかでも読むようになったのはそのあとのことです。(高校の授業で部分的に桐壺を読まされたのを別にすれば。)
サッカー少年の親御さんに頼まれて勤めのかたわら、毎土曜日に数人の中学?高校生の英語を見てあげていたころは、彼らが高校生になると英語は半分だけで、あとは論語の白文と源氏の原文を読ませていました。そのとき、もう一度自分でも原文で読む楽しみを味わいました。
いまなら、いっぱい現代語訳が出ているので、田辺聖子でも瀬戸内寂聴でも、何なら一人称にしちゃった橋本源氏でも、・・・とくると、あぁ、いまならそうじゃなくて、やっぱり「あさきゆめみし」(大和和紀)ってことになるんだろうな、と思い当たります。
これはだいぶ前から出ていたから、書店でちらちら立ち読みはしていたのですが、やっぱりどうも私のような世代は、マンガが好きではあるのだけど、源氏物語をマンガで読んでもなぁ・・・という気持ちがどうしても拭えないで、敬遠してきました。
でも、先日、せっかく千年紀なんだから、ってわけで、ゼミの3回生に「雨の夜の品定め」(帚木)の現代語訳を渡して、これを読んで、きみらの目でいまの「雨の世の品定め」を書いてきてくれ、つまり、いま「カッコイイ男、カッコイイ女」ってどういうのか、それを手短かでいいからコラム代わりに書いてきてくれ、って課題を出したことが頭にあったせいか、書店でとうとう文庫版の「あさきゆめみし」を買ってしまいました。
まだとりあえず1巻しか読んでないので、とやかく言うのはさしひかえたいけれど、率直に言って、とても読みにくい。活字の物語で読むと、あれほどくっきりと一人一人の登場人物のキャラや風貌が浮かび上がってくるのに、このマンガを読んでいても、それがうまく頭に入ってこない。
もちろんこの種の絵柄に慣れた若い学生さんならピピッと脳にやきついて、スイスイ読んでいけるのかもしれませんが・・・。むかし、白黒テレビが家庭に入ってきて間もないころ、外国のドラマなんかやると、日本のドラマと違って、どの顔も似てみえて、誰が誰かよく分からないような気がしたけれど、あれと同じかな(笑)。
いまは、若いタレントや人気の男優なんかが出ているドラマを見ても、どうも同じような顔に見えて、ときどき「この人、〇〇に出てた人?」とか訊くとパートナーから「ぜんぜん違う!」と言われ、「でも似てるじゃん」とつぶやいたりすると、もう話にならん、と呆れ顔をされることが珍しくないのですが、あれと同じかな(笑)。
だけどマンガのわずかな線描写で、はたしてどれだけの登場人物が描き分けられるのでしょう?いや、そりゃ、鉄腕アトムとお茶の水博士とウランちゃんを描き分けるのは難しくないでしょうけど、同じような衣装を着て同じような髪型をした、しかもいずれ劣らぬ美女ばかり(例外はあるけれど)、という源氏の君のお相手の女性を、さてどれだけ描き分けられるものか。
吹き出しや物語のコンテキストで、もちろん識別することはできますが、パッとページを開いて、この女性が藤壺なのか六条御息所なのか夕顔なのか葵上なのか、簡単に見分けがつきますかねぇ。まぁ桐壺と藤壺と紫上が似てるのは構わないけど、似ていて違う、というのを描き分けるのは、これまた難しいでしょうね。
でもまぁ、そんなことはさしたることでもない。若い人がたとえ現代語訳でも長ったらしい文章は読めない、というのであれば、ここを源氏への入口にするというのは悪くないと思います。文学がどうの、とうるさいことを言わずに、女性や男性のキャラから入って、噂話をするように源氏の世界を噂する楽しみが味わえるようになれば、あとは自然にもっと、もっとと無限の楽しみへ誘われていくでしょう。
at 01:04|Permalink│
2008年05月26日
「果断ー隠蔽捜査2」(今野敏)
続編が手に入ったので、医者と社会保険事務所で待たされたものだから、その間に読めてしまった。これがメチャクチャ面白かった。シリーズ前作「隠蔽捜査」よりも、さらに面白い。
この作品の面白さは、前に書いたように、一つは私たちの知らない警察庁&警視庁内部の組織的な病弊とその中で各人各様の身の処し方をする人間のドラマの面白さ。
もう一つは主人公竜崎という、融通がきかず、変人扱いされている警察官僚だった男(前の物語の事件で降格されていまは一警察署長)のキャラクターそのものの設定の面白さ、それがいまの世の中の大勢、具体的には警察内部で引き起こす摩擦と、それと闘って切り抜けていくスリリングな物語展開の面白さ。
前半はありふれた事件しか起きていないようにみえるので、今回は一警察署内部の、それでも私たち知らない者にはそれなりに興味のある世界を署長を通して描く内幕ものみたいなものに終始するのかいな、と思いきや、後半、素晴らしいどんでん返しがきて、俄然面白くなってくる。
エンターテインメントのうまい作家というのは本当にうまいもんだなぁとほとほと感心する。でもこの作品はそれだけではない。エンターテインメントの警察小説など読んで泣くやつなんてありえないだろうが、思わず泣いてしまった(笑)。
それだけこの主人公に感情移入させてしまう力がこの作品にはある。仕事と家族の危機の中で追い詰められ、疲弊の極で息子から見てくれと言われた「風の谷のナウシカ」(という名称は登場しないけれど)を見るあたりなんか、泣けてきて、社会保険事務所の待合室で困ってしまった。
といって、この主人公の考え方、彼のいうプリンシプルに同意できる、共感できる、というのではない。いまの私たちのフツーの(なにがフツーだか分かったもんじゃないのが今の世の中だけれど)感覚からいうと、このおじさん、ずいぶん偏って見える。
東大以外は大学じゃない、という人だし、せっかく世間でいう一流私大に入ったのに、入学を許さず、浪人して東大へ行きなおせ、と強いる、どうしようもない父親だし、家の中でコーヒーがどこにおいてあるかも分からなきゃ、自分のワイシャツを出しているクリーニング店がどこかさえ知らない。亭主は仕事、家庭は主婦が守る、どこが悪い?と考えている、昔は掃いて捨てるほど居たが、いまではむしろ珍種のシーラカンスみたいなオヤジだ。
けれども、彼が家族のことを思っていない冷血漢かといえばそうではない。その思いかたが、いまどきの世間の大勢とは違うだけなのだ。だから、私たちからみると、どうしようもなく古臭く、偏っていて、頑固だけれど、彼なりにはスジが通っているところがある。
これは仕事の中でも同じで、彼は自分のプリンシプルに忠実に考え、忠実に動く。それが周囲とぶつかる。そのぶつかり方と、そのにっちもさっちもいかなくなる状況の切り開き方がドラマの核心になっている。
警察組織の内部も、いまの日本社会のどの部分社会も、構造は同じなんだなぁという感慨を、この作品を読むと読者の多くが抱くだろうと思う。どこででも見られる官僚組織の病弊、その中で自分を失っていく人間のありよう、それがただ、文字通りの官僚の世界であることと、その中でも職業柄、一層つよく閉じた世界であるがゆえに、普通の企業のサラリーマンの世界などよりもかなりグロテスクな形で存在している、というだけのことなのだろう。
どんなハイカラなSFでも、そこに描かれる人間と人間の関係は、現在の私たちの社会の延長でしかありえない。作家はそれを煮詰めて、遠い未来社会に投影してみせたり、エッセンスが凝縮されて現われる特殊な部分社会に投影してみせたりすることができるだけだ。
そういう意味では、この作品を「警察小説」とか「エンターテインメント」とかレッテルを貼って読むことは馬鹿げている。これは私たちがいまの日本で、どんな部分社会に生きようと、自分のプリンシプルを持って生きようとする限り遭遇する出来事が描かれているに違いないからだ。
読み終わったときの後味が良いのも、前著とこの作品に共通している。若い女性はあんまり警察小説なんか読まないかもしれないと思っていたけど、「アンフェア」が人気だから、それなら男性的な男性が主人公でだいぶ違うけれど、ぜひ、よりリアルな(つまりスーパーウーマンもスーパーマンも登場しない)この作品もぜひどうぞ。
この作品の面白さは、前に書いたように、一つは私たちの知らない警察庁&警視庁内部の組織的な病弊とその中で各人各様の身の処し方をする人間のドラマの面白さ。
もう一つは主人公竜崎という、融通がきかず、変人扱いされている警察官僚だった男(前の物語の事件で降格されていまは一警察署長)のキャラクターそのものの設定の面白さ、それがいまの世の中の大勢、具体的には警察内部で引き起こす摩擦と、それと闘って切り抜けていくスリリングな物語展開の面白さ。
前半はありふれた事件しか起きていないようにみえるので、今回は一警察署内部の、それでも私たち知らない者にはそれなりに興味のある世界を署長を通して描く内幕ものみたいなものに終始するのかいな、と思いきや、後半、素晴らしいどんでん返しがきて、俄然面白くなってくる。
エンターテインメントのうまい作家というのは本当にうまいもんだなぁとほとほと感心する。でもこの作品はそれだけではない。エンターテインメントの警察小説など読んで泣くやつなんてありえないだろうが、思わず泣いてしまった(笑)。
それだけこの主人公に感情移入させてしまう力がこの作品にはある。仕事と家族の危機の中で追い詰められ、疲弊の極で息子から見てくれと言われた「風の谷のナウシカ」(という名称は登場しないけれど)を見るあたりなんか、泣けてきて、社会保険事務所の待合室で困ってしまった。
といって、この主人公の考え方、彼のいうプリンシプルに同意できる、共感できる、というのではない。いまの私たちのフツーの(なにがフツーだか分かったもんじゃないのが今の世の中だけれど)感覚からいうと、このおじさん、ずいぶん偏って見える。
東大以外は大学じゃない、という人だし、せっかく世間でいう一流私大に入ったのに、入学を許さず、浪人して東大へ行きなおせ、と強いる、どうしようもない父親だし、家の中でコーヒーがどこにおいてあるかも分からなきゃ、自分のワイシャツを出しているクリーニング店がどこかさえ知らない。亭主は仕事、家庭は主婦が守る、どこが悪い?と考えている、昔は掃いて捨てるほど居たが、いまではむしろ珍種のシーラカンスみたいなオヤジだ。
けれども、彼が家族のことを思っていない冷血漢かといえばそうではない。その思いかたが、いまどきの世間の大勢とは違うだけなのだ。だから、私たちからみると、どうしようもなく古臭く、偏っていて、頑固だけれど、彼なりにはスジが通っているところがある。
これは仕事の中でも同じで、彼は自分のプリンシプルに忠実に考え、忠実に動く。それが周囲とぶつかる。そのぶつかり方と、そのにっちもさっちもいかなくなる状況の切り開き方がドラマの核心になっている。
警察組織の内部も、いまの日本社会のどの部分社会も、構造は同じなんだなぁという感慨を、この作品を読むと読者の多くが抱くだろうと思う。どこででも見られる官僚組織の病弊、その中で自分を失っていく人間のありよう、それがただ、文字通りの官僚の世界であることと、その中でも職業柄、一層つよく閉じた世界であるがゆえに、普通の企業のサラリーマンの世界などよりもかなりグロテスクな形で存在している、というだけのことなのだろう。
どんなハイカラなSFでも、そこに描かれる人間と人間の関係は、現在の私たちの社会の延長でしかありえない。作家はそれを煮詰めて、遠い未来社会に投影してみせたり、エッセンスが凝縮されて現われる特殊な部分社会に投影してみせたりすることができるだけだ。
そういう意味では、この作品を「警察小説」とか「エンターテインメント」とかレッテルを貼って読むことは馬鹿げている。これは私たちがいまの日本で、どんな部分社会に生きようと、自分のプリンシプルを持って生きようとする限り遭遇する出来事が描かれているに違いないからだ。
読み終わったときの後味が良いのも、前著とこの作品に共通している。若い女性はあんまり警察小説なんか読まないかもしれないと思っていたけど、「アンフェア」が人気だから、それなら男性的な男性が主人公でだいぶ違うけれど、ぜひ、よりリアルな(つまりスーパーウーマンもスーパーマンも登場しない)この作品もぜひどうぞ。
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「隠蔽捜査」(今野敏)
先日の新聞でたしか山本周五郎賞を受賞した「果断--隠蔽捜査2」が本屋に無かったので、とりあえず一つ前の「隠蔽捜査」のほうを文庫本で買って読んだ。
面白かった!警察小説も面白くなったものだ。昔は刑事だの探偵だの出てきても輸入推理小説に比べると日本の小説はずいぶん色あせて見えたけれど(といってもこの手の小説を読むことは病気でもしたとき以外はなかったので、とうていフェアな比較ではないけれど)、この作品など読むと翻訳したらアチラでもベストセラーに伍することができるのでは、と思ったりする。
ミステリーではないから、仕掛けそのものはタイトルで想像がつくようなものだけれど、主人公である警察庁のエリート官僚の造型や、その友人との関係をはじめとする人間関係の展開が抜群に面白い。
だいたいこの主人公というのが、はじめ読んでいるといまどき何てやろうだ!とムカつくのだけれど、事態が進展してこの男の思考と行動のスタイルが分かりだすと、だんだん魅力的な男になり、まるで生きる世界が違い、キャラもものの考え方も行動様式も自分とは相容れないだろうこの男にすっかり惚れこんで一目置いてしまう、という按配だ。
警察庁内部やそれと警視庁との関係など、すぐ私たちのくらしのそばにあってもほとんどそれについて知らない世界を覗き見る楽しさもある。暇もないくせに読んだ怠けもんが言うのもなんですが、暇な人にはおすすめ。
面白かった!警察小説も面白くなったものだ。昔は刑事だの探偵だの出てきても輸入推理小説に比べると日本の小説はずいぶん色あせて見えたけれど(といってもこの手の小説を読むことは病気でもしたとき以外はなかったので、とうていフェアな比較ではないけれど)、この作品など読むと翻訳したらアチラでもベストセラーに伍することができるのでは、と思ったりする。
ミステリーではないから、仕掛けそのものはタイトルで想像がつくようなものだけれど、主人公である警察庁のエリート官僚の造型や、その友人との関係をはじめとする人間関係の展開が抜群に面白い。
だいたいこの主人公というのが、はじめ読んでいるといまどき何てやろうだ!とムカつくのだけれど、事態が進展してこの男の思考と行動のスタイルが分かりだすと、だんだん魅力的な男になり、まるで生きる世界が違い、キャラもものの考え方も行動様式も自分とは相容れないだろうこの男にすっかり惚れこんで一目置いてしまう、という按配だ。
警察庁内部やそれと警視庁との関係など、すぐ私たちのくらしのそばにあってもほとんどそれについて知らない世界を覗き見る楽しさもある。暇もないくせに読んだ怠けもんが言うのもなんですが、暇な人にはおすすめ。
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