2008年04月

2008年04月30日

「くっすん大黒」(町田康)

 これも以前に読んでいたのだけれど、記憶が希薄になっている。例によって「告白」の余波でもう一度読んでみたくなって手にした。

 やっぱり非常に面白い。読み始めるとその魅力的な語り口にすぐにのせられてしまう。たまたま開いたページ、

 "菊池元吉は、岩手県出身の親から仕送りをもらっている大学生であるが、そのくせ、ちっとも大学に行かず、かといって遊んでいるわけでもなく、なんとなくぶらぶらしているという、まったくもって言語道断の人間の道徳もわきまえぬふざけた野郎で、その生活ぶりは自分のそれと酷似しており、類は友を呼んで、日頃から親しく交際している、自分にとって数少ない友人である。"

・・・というような文章を読むと嬉しくなってくる。

 "三日目になると、桜井はもう、インタビューを開始した時点ですでに怒っていて、「凄いと思ったんでしょ」「嘘をいっても分かりますよ」「正直に言いなさいよ」なんて、もうインタビューでもなんでもない、意味不明の不条理な脅迫、ということになってしまい、・・・

・・・と切れ目なくたたみかけて、まるまる一頁つづく一文。

 ”「おい、この黒いのはなんだよ」って訊くと、菊池は、「あっ亀だよ」と、だしぬけに水の中に手を突っ込んで亀を捕獲した。・・・”

・・・と突如亀が登場して「都合八匹も獲れ」て、これを焚き火にかけたドラム缶にほうりこんだところ、熱せられた亀の肉が甲羅の中で膨張して、次々に威勢よく爆発して・・・

 ”ああ、亀を爆発させてしまった。こんなことをしているから自分は駄目なんだな、と、火のそばにじっと座り込んでいると、・・・

・・・というあたり。これはもう太宰治の再来というほかはない。どうして前に読んだとき、こんな面白い小説がそれほど記憶に刻まれなかったのか、よく分からない。いくらいいものでも、読むときのこちらの気分や状況でやり過ごしてしまうことも多々あるのだろう。

 昔読んだ本をまた読んでみるのもいいものだ。電車の往き復り、何度も自分がいまどのあたりを走っているのか忘れて確かめなければならないほど没頭して楽しませてもらった。
 

 

at 23:49|Permalink

2008年04月24日

「古道具 中野商店」(川上弘美)

 初々しくもとぼけた味のある短編「神様」でデビューして、「センセイの鞄」や「真鶴」で比較的長い小説にもしたたかな実力をみせた作家の「長編」だけれど、建築のような立体的な構成をもたずに、短編を連環していくような作りの作品。

 はじめのほうを読んだときは、そこで終わったと思って、あれ?これは短編集だったんだっけ、と錯覚したが、タイトルの変わる次の章を読んでいくと、同じ登場人物が現われるので、あ、やっぱりまだ続いてるんだ(笑)と思った。

 無理に作品としての起承転結を問うなら、一風変わった、しかしごくありふれてもいる男女の出会いと別れと再会が描かれているわけだから、一種の恋愛小説だと言ってもいいし、たしかに「わたし」のタケオに対する微妙な気持ちの変化をたどり、その微妙な関係の成り行きをなどる、というのが前へ読み進むための誘因になっていると言えば言える。

 しかし、現実にも心理的にもそう劇的なことが起こるわけではないし、曖昧で行ったり来たりする心理の微妙なところをその微妙さを消さないように描くという描き方だから、そう恋?の行方が気になるほどぐいぐい引っ張ってくれるわけではない。

 むしろ、古道具屋中野商店の平凡な日々に登場して、ありきたりといえばいえる触れ合い方をしながら生きている登場人物たちの無くて七癖みたいなキャラクターと些細な物言いや振る舞い、そのちょっとした波紋のような、日々の印影の面白いところを逃さずとらえる作者の目によって、この作品が面白くなっている。
 
 そういうささいな人間関係と心理の機微の面白いところを逃さず、鋭利できめこまかな目でつかまえてくる作者の目はさすがだし、それを描く筆はあったかくてリアルで少しとぼけた味がある、という彼女の持ち味がさすがだ。

 それに、ごく単純に、古道具屋の日常ってこんなものなのか、という興味もある。

 もう一つ、この作品にはなんと言うかドキッとするようなことを全然平気な顔してズケッと言うようなところがたくさんあって、ちょうど女性どうしがカウンターでグラスを傾けながらいやらしくない猥談を交わすのを聴くような、独特の艶かしさの要素がたっぷりある。とぼけた味わいがオブラートのようにくるんでいるけれども。そのへんは「センセイの鞄」と同じだ。

 ただ、「センセイの鞄」とちがって、この作品は描かれる舞台が舞台だけに、日常がいつおわるともなく円環するような、ある種の停滞感は免れないところがある。

at 01:14|Permalink

2008年04月18日

「グランド・フィナーレ」(阿部和重)

 「シンセミア」を読んで結構読み応えがあったので、さかのぼって「グランド・フィナーレ」を読んだ。でもこちらは読んでいるうちに、そういえば前に読んでいたなぁ、と思い出した。

 たぶん芥川賞を受けたときに読んだのだろう。短いせいかさっと読んで、あまり強い印象に残らなかったのか、まるで忘れていたけれど、ひょっとするとこのブログでも前に書いているかもしれない。

 或いは矛盾することを書くかもしれないけど(笑)、少しゆったり読んでみろと、なかなかいい作品だった。「シンセミア」でも、一人の人物に寄り添って描いていくところはとても良かったが、「グランド・フィナーレ」はロリコン男の「わたし」の心理と視線に沿って丁寧に一本の糸が辿られていくので、シンセミアでは多元的な方法の一つだったまさにその方法だけで貫かれているので、単線的ではあるが、読みやすくもあるし、作者の力量が存分に発揮されている。

 サイテーのロリコン男が撮り貯めた少女たちの写真を妻に見つけられて離婚され、愛娘にも会えなくなって、それでもあきらめきれずにストーカーもどきのことを試みたり、周囲の友人たちにも知られて、いわばどうにでもなれといった脱力状態に陥って、郷里へ帰ってきて無為の生活を送るうち、小学校の教師になっていた同窓生に生徒の演劇の指導を頼まれ、一旦は断わったものの、熱心な二人の少女の懸命の事情を知って気がかわる。

 この最後の救いのあるのがいい。サイテー男が他者としての二人の事情ある少女にこれまでと異なる関わりを自分の意志で持とうとし、彼女たちがネットで自殺サイトをみているのを偶然みて、心配する。ラストは二人の少女が演じる芝居の開演が告げられるところで物語が終わる。いいラストだ。

at 23:13|Permalink

2008年04月09日

「シンセミア」(阿部和重)

 きょうの強風で桜も無惨に散ってしまった。花発いて風雨多し(ハナニアラシノタトヘモアルゾ)、か。

 束の間の休みも終わって新学期。長めの小説を一気読みできる贅沢も今日あたりで打ち止めかな、と思いながら、文庫本で5冊の阿部和重の『シンセミア』を読み終える。

 実際に存在するらしい神町という東北の小さな町を仮構の舞台として、レンガを積むように丁寧に構築されたフィクション。

 登場人物たちは、神町という閉じた世界で、互いに入り組んだ「顔の見える」濃い人間関係によって結ばれている。彼らの描きだす権力と暴力と性の描線が奔放に伸びてはぶつかりあい、絡み合って「事件」を引き起こし、物語を展開させていく。

 町や個人の歴史をひきずった人間関係の濃さは、いまの都市的な希薄な人間関係とは対極にあるようにみえるけれど、それは世界をこの神町というフィクショナルな世界に凝縮したからで、方法的な帰結だろう。

 いまわれわれが平凡な日常世界でふと我に返ったとき感じる不安、怯え、怒り、無力感等々の背後にあるものが、ここに顕在化されているとみれば、確かにここに描かれた歪んだ(ふつうには「異常」な)権力や暴力や性の姿に、それぞれの現在の形があるのだろうな、という気はする。

 ただ、この作家の文体は、さきほど「レンガを積むように」と書いたけれど、ほんとうにそのように単純な作業単位を根気よく積み上げていくような文体で、緻密で構築的、客観的な印象を与えるけれども、欲を言うと色気に乏しい。
 
 性描写がふんだんにあっても、文体そのものはちっともエロティックではない。一つ一つの素材を取ってみると、表情のある苔むす岩のようなものではなく、味も素っ気もないレンガやコンクリートブロックのようなものを、こつこつと積み上げて作る家のようなところがある。

 これだけの長編を構築するために、自然にこのような文体が招きよせられたのだろうか。描写よりも「説明的な」文章が圧倒的に多いという印象を受ける。語り手が新聞記事のように事件を語っていく。要するに、という読者の理解は容易だし、短時間で先へ進むことはできる。しかし、この文体の中からは、なかなか生きた人間が立ち上がってこない。

 人物が分かりにくいのは、あながち登場人物の数が多いだけでも、また入り組んだ人間関係ゆえでもないと思う。名前や位置づけは説明的に与えられているけれども、それが言葉や振る舞いや心理描写によって、自然にしかるべきキャラクターを備えた人物が立ち上がってくる、というふうになりきれない。

 読者に入り組んだ人間関係がおぼろげながら分かり、一人一人の人物の姿が見えてくるのは3巻目くらいになってからではないか。もっとも、読者の理解を助けるための登場人物一覧や人物相関図や年表やらが付いているのではあるが、やはり本文を読んで自然に分かるのがいいだろう。

 それでも、ロリコンでスカトロマニアでもある警官(中山正)や、盗撮者サークルから抜けようとしてトラブルを引き起こす「パン屋」の後継者(田宮博徳)の視点に寄り添って描いていく部分は、その行動と心理の描写におけるこれらの人物のキャラクター造形が行き届いていて、血が通っている。

 それにしても、最後にまとめて10人(?)も次々に殺してしまうのはいかがなものか。そう唐突にそれらの人物たちの始末をつけなくてもよかったのではないか。
 

 

at 23:37|Permalink

2008年04月07日

「モンゴル」(セルゲイ・ボドロフ監督)

 チンギス・ハーンがまだチンギス・ハーンになる前のいわば「修業時代」を描いた内容なので、大軍を率いて世界制覇するスペクタクル性に富んだ歴史戦争絵巻を期待すると失望する。

 これはまぁ青春のテムジンを通した愛と友情の物語。この作品でのテムジンはそうカッコよくもないし、幸運の星に生まれた英雄というふうにも見えず、超人的な強さを発揮する武人でもない。

 追われては捕まり、手ひどく打ちのめされて傷つき、生死の境を彷徨い、何も将来の英雄への武器を持たないようにさえ見える、優しい男。モンゴルの男の慣習に反して奪われた妻を奪い返すために戦いを挑み、とらえた敵将を友情ゆえに解き放つ。とりえはその優しさゆえの人望と、どんな目に遭っても諦めない粘り腰。う?ん、テムジンのイメージ・チェンジをしたかったのかなぁ。

 浅野は存在感のある役者だし、モンゴル語の科白も馬の乗りこなしも大変だったろうに、ちっとも不自然さがなくて感心はしたけれど、でも彼がテムジンかなぁ・・・

 やっぱり世界の半分を支配するに至る騎馬民族の統率者というと、スケールがハンパじゃない。人間としての容量が、ずば抜けて大きい、というイメージでないと、どうしても違和感を覚える。

 そのスケールというのは、ここで描かれたような、妻に優しいとか、友情に篤いというのとはちょっと違うような気がする。一面でものすごく冷たくて残酷なところがなくてはいけないだろうし、普通の人ではコントロールできないほどの過剰なエネルギーを秘めていないと無理だろう。

 お猿さんの世界でも、「高崎山のサル」のリーダーだったジュピターは他のサルが近づけない威厳を持っていて、いつも周囲に空間ができたそうだけれど、実際に武器を持って闘ってみないとわからないというのじゃなくて、ほんとうに力のある者は、優しさも併せ持つとしても、その「過剰さ」ゆえに、ある種の強力な電磁波みたいなのを発しているものだろう。

 浅野はどちらかというと脱力系の表情と演技だし、監督はテムジンをふつうの男として描きたかったのかもしれないけれど、それだとなぜ彼がチンギス・ハーンになりえたのかについて、この作品だけでは説得力が乏しい。苦労したのは分かるけれど、それがどう彼個人の人物の性格や風貌や大きさ、強さに凝縮されてチンギス・ハーンになっていくのか、その片鱗でも見せてくれないと、いまどきの若い人好みの「優しい人」だけでは世界の半分は取れそうにない。

 映画的には、それでも戦闘シーンの迫力は満点で、けっこう楽しめる。砂漠の広がるモンゴルの風景もいいし、衣装なども楽しめる。浅野のほか、友情を育んだジャムカ役の中国の俳優、妻ボルテ役のモンゴルの新人女優さんもなかなか好演だった。

 でもこれはお金を何十億もかけて何カ国もの共同制作をするのだったら、もう少しシナリオ段階でいいものを作ってほしい、という気はした。

at 23:54|Permalink
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