2008年03月
2008年03月14日
「魔法にかけられて」(ケヴィン・リマ)
まだ予告編をやっているころ、わたしの天使たちが「女の子はこういうの見たいんよ、お姫様願望があるから・・・」と言っていたのを思い出し、たまたま時間的に上映が始まるところだったこともあって、若い男女か若い女の子どうしの客ばかり、それも平日でガランとした館内に入る。
こりゃぁとんでもないもの観に来ちゃったかなぁ、貧しきわが映画鑑賞歴だけど、史上最悪を更新するかも・・・と思っていたけれど、見終わってみると、けっこういいところがあった。もっとも、私にはお姫様願望がないので、「感動」には至らなかったけど(笑)
アニメと実写の混合映画というのはすでに幾つも作られていて、少しは見ているけれども、成功したな、と思うものにはまだ出会えない。この映画も映像的な意味ではまったく話にならないけれども、はじめから荒唐無稽なおとぎ話のもじりよ、と作る方も見る方も承知してみているので、そこは楽しむ障害にはならない。
プーさんのアニメがポップアップ絵本のページから立ち上がるように、この映画も最初はポップアップ絵本から立ち上がる。そして、とんでもないストーリーの果てに、いやストーリーも単純きわまりない、偉大なるマンネリズムの、それこそお姫様願望にのっかったストーリーだけれど、ほんのひとひねりした、そのひねりがよく効いているし、最後にちゃんとつじつまを合わせているのは、さすがディズニー。
主演のエイミー・アダムスが、最初は、お姫様じゃなくて、これじゃ大衆レストランのウエイトレスじゃないの(彼女は18歳までほんとうにウィトレスをしていたそうです)、これがお姫様ならアニメのままにしておいてくれたらよかったのに、などと胸中で悪態ついているうちに、段々綺麗にみえはじめ、舞踏会のシーン前後からなかなか見事な表情の演技を見せ始めると、すっかりファンになってしまった。
相手役のパトリック・デンプシーも良かった。二人とも表情がよくて、ホロリとさせられる。
はじめは無理にヘタなおとぎ話をつくろうとしているようで、エイミーの歌って踊ってが浮いてみえて仕方なかったけれど、それがぴたっとはまってくる。そして、歌って踊ってという場面がどれも素敵で楽しくなる。
この映画は全編ミュージカル仕立てにしてしまったほうが良かった。そのほうが大げさな演技や科白が浮いてしまわずに、ごく自然に楽しいメルヘンになったと思う。
狂言まわしのリスはなかなか良かったし、ラストのクレジットの画面は良かった。
こりゃぁとんでもないもの観に来ちゃったかなぁ、貧しきわが映画鑑賞歴だけど、史上最悪を更新するかも・・・と思っていたけれど、見終わってみると、けっこういいところがあった。もっとも、私にはお姫様願望がないので、「感動」には至らなかったけど(笑)
アニメと実写の混合映画というのはすでに幾つも作られていて、少しは見ているけれども、成功したな、と思うものにはまだ出会えない。この映画も映像的な意味ではまったく話にならないけれども、はじめから荒唐無稽なおとぎ話のもじりよ、と作る方も見る方も承知してみているので、そこは楽しむ障害にはならない。
プーさんのアニメがポップアップ絵本のページから立ち上がるように、この映画も最初はポップアップ絵本から立ち上がる。そして、とんでもないストーリーの果てに、いやストーリーも単純きわまりない、偉大なるマンネリズムの、それこそお姫様願望にのっかったストーリーだけれど、ほんのひとひねりした、そのひねりがよく効いているし、最後にちゃんとつじつまを合わせているのは、さすがディズニー。
主演のエイミー・アダムスが、最初は、お姫様じゃなくて、これじゃ大衆レストランのウエイトレスじゃないの(彼女は18歳までほんとうにウィトレスをしていたそうです)、これがお姫様ならアニメのままにしておいてくれたらよかったのに、などと胸中で悪態ついているうちに、段々綺麗にみえはじめ、舞踏会のシーン前後からなかなか見事な表情の演技を見せ始めると、すっかりファンになってしまった。
相手役のパトリック・デンプシーも良かった。二人とも表情がよくて、ホロリとさせられる。
はじめは無理にヘタなおとぎ話をつくろうとしているようで、エイミーの歌って踊ってが浮いてみえて仕方なかったけれど、それがぴたっとはまってくる。そして、歌って踊ってという場面がどれも素敵で楽しくなる。
この映画は全編ミュージカル仕立てにしてしまったほうが良かった。そのほうが大げさな演技や科白が浮いてしまわずに、ごく自然に楽しいメルヘンになったと思う。
狂言まわしのリスはなかなか良かったし、ラストのクレジットの画面は良かった。
at 23:20|Permalink│
2008年03月13日
「八日目の蝉」(角田光代)
この作家の作品は、「空中庭園」、「対岸の彼女」を読んだことがあって、どちらも読み応えがあったという記憶はあるけれど、女性の視点で書かれたいかにも女流らしい作品という印象で、心を動かされるところまでは届かなかったような記憶も同時にある。
私の苦手なタイプの作家かもしれないな、と敬遠していたような気がする。今回の新作は去年の春には出ていたけれど、なかなか書店の棚から抜こうという気になれなかった。
でも今回の作品には心を動かされた。女性の視点という意味では、前作、前々作と変わらず、むしろ徹底しているだろうけれど、そこを突き抜けて人間の生き方の底に届いている、という印象を受けた。
母も子も追われる闇の中を手探りで必死で生きている。世の中の通念からみれば、犯罪であったり、虚偽であったり、宿命的な不幸を背負い込んだ人生であったりするのだけれど、それそのものをそれ以外に生きようのない人生として生きざるを得ない母子にとっては、ただここに描かれる日々の生だけが自分で作り出していく生の現実にすぎない。彼女たちは、水に落ちた鼠が溺れないために手を掻き足を掻くように、必死で生きる。
そのけなげさに読む者は動かされる。そして、救いのない泥にまみれた生の底から、世の中の「ふうう」の暮らしの欺瞞や、残酷さや、いびつさが炙り出される。そしていつか泥まみれの人生が浄化され、印象深いラストの、陽射しを受ける海面のように輝きはじめる。
私の苦手なタイプの作家かもしれないな、と敬遠していたような気がする。今回の新作は去年の春には出ていたけれど、なかなか書店の棚から抜こうという気になれなかった。
でも今回の作品には心を動かされた。女性の視点という意味では、前作、前々作と変わらず、むしろ徹底しているだろうけれど、そこを突き抜けて人間の生き方の底に届いている、という印象を受けた。
母も子も追われる闇の中を手探りで必死で生きている。世の中の通念からみれば、犯罪であったり、虚偽であったり、宿命的な不幸を背負い込んだ人生であったりするのだけれど、それそのものをそれ以外に生きようのない人生として生きざるを得ない母子にとっては、ただここに描かれる日々の生だけが自分で作り出していく生の現実にすぎない。彼女たちは、水に落ちた鼠が溺れないために手を掻き足を掻くように、必死で生きる。
そのけなげさに読む者は動かされる。そして、救いのない泥にまみれた生の底から、世の中の「ふうう」の暮らしの欺瞞や、残酷さや、いびつさが炙り出される。そしていつか泥まみれの人生が浄化され、印象深いラストの、陽射しを受ける海面のように輝きはじめる。
at 22:13|Permalink│
2008年03月11日
「陰日向に咲く」(劇団ひとり)
ベストセラーになって本屋に長い間平積みしてある本でも、なかなか買おうという踏ん切りのつかない本ってありますね。
特にほかの本に比べて高いわけでもないし、奇抜なレイアウトで嫌気を誘うというのでもない。ケータイ小説などはまぁ、昔で言えばハーレクィーン・ロマンとか言ったような、それぞれの時期にある読者層に消費される特殊・短命な小説群かなと思うし、本屋さんでパラパラ見ても、これはさすがに買う気がしない。でも、そういう本でもないのに、なぜか踏ん切りがつかない。
「東京タワー」とか「電車男」とかが私にとってはそういう本で、手にとったことは何度もあるのに、いまだに買って読んで、までは行かないので、たぶん永遠に買わないかもしれません。
実はこの「陰日向に咲く」も、非常に早い時期に次男の家で転がっているのを見て、なんだろう?とパラパラめくってみたことはあるのですが、それっきり、あとで人気が出て本屋で平積みになっても、映画化されると聞いても、ほうっておいたのです。
それがちょっと仕事が一段落ついて、「流星の絆」を電車の往きに読み終えてしまったので、帰りの電車で読む本がない!という恐怖にさいなまれて、阪急に乗る直前に本屋に飛び込んで手にしたのがこの本でありました。
さっそく車中で読みましたが、読んでみるとけっこう面白かったですね。内容がというより、スタイルが。
なんというか、小説家の小説じゃない良さが出てますね。構成がどう、キャラクターがどう、というふうな小説のルールを心地よく踏んづけて、ノンシャランな筆づかい、いや(たぶん)ワープロづかいで、タバコの煙を輪にして、上向いてプカプカ吐き出すみたいに、小さな物語の輪を吐いてはつなぐようなつながぬような、また吐いてはつなぐような、つながぬような、で、ゆるやかに連環して作品ができる、という按配。
ノンシャランにみえて、よく計算されて、省略の聞いた巧みな話芸になっているから、ふわふわ浮かんで消えていく煙の輪を結構楽しんで見ていけます。或る意味で太宰のような徹底した話体で、世の片隅というか底のほうからの立ち位置でまさに芸人のように語りだしています。これは場末の舞台に立つすぐれた芸人の語りですね。
「Over run」 のギャンブルの話なんか、ほんとに電車の中で声だして笑っちゃいましたよ。ここには「トカトントン」のリズムがありますね。
「ヴィヨンの妻」的に泣きたい人は「鳴き砂を歩く犬」を読めばいいし、「キララギ」的にノリノリで楽しみたい人は「拝啓、僕のアイドルさま」がおすすめです。
特にほかの本に比べて高いわけでもないし、奇抜なレイアウトで嫌気を誘うというのでもない。ケータイ小説などはまぁ、昔で言えばハーレクィーン・ロマンとか言ったような、それぞれの時期にある読者層に消費される特殊・短命な小説群かなと思うし、本屋さんでパラパラ見ても、これはさすがに買う気がしない。でも、そういう本でもないのに、なぜか踏ん切りがつかない。
「東京タワー」とか「電車男」とかが私にとってはそういう本で、手にとったことは何度もあるのに、いまだに買って読んで、までは行かないので、たぶん永遠に買わないかもしれません。
実はこの「陰日向に咲く」も、非常に早い時期に次男の家で転がっているのを見て、なんだろう?とパラパラめくってみたことはあるのですが、それっきり、あとで人気が出て本屋で平積みになっても、映画化されると聞いても、ほうっておいたのです。
それがちょっと仕事が一段落ついて、「流星の絆」を電車の往きに読み終えてしまったので、帰りの電車で読む本がない!という恐怖にさいなまれて、阪急に乗る直前に本屋に飛び込んで手にしたのがこの本でありました。
さっそく車中で読みましたが、読んでみるとけっこう面白かったですね。内容がというより、スタイルが。
なんというか、小説家の小説じゃない良さが出てますね。構成がどう、キャラクターがどう、というふうな小説のルールを心地よく踏んづけて、ノンシャランな筆づかい、いや(たぶん)ワープロづかいで、タバコの煙を輪にして、上向いてプカプカ吐き出すみたいに、小さな物語の輪を吐いてはつなぐようなつながぬような、また吐いてはつなぐような、つながぬような、で、ゆるやかに連環して作品ができる、という按配。
ノンシャランにみえて、よく計算されて、省略の聞いた巧みな話芸になっているから、ふわふわ浮かんで消えていく煙の輪を結構楽しんで見ていけます。或る意味で太宰のような徹底した話体で、世の片隅というか底のほうからの立ち位置でまさに芸人のように語りだしています。これは場末の舞台に立つすぐれた芸人の語りですね。
「Over run」 のギャンブルの話なんか、ほんとに電車の中で声だして笑っちゃいましたよ。ここには「トカトントン」のリズムがありますね。
「ヴィヨンの妻」的に泣きたい人は「鳴き砂を歩く犬」を読めばいいし、「キララギ」的にノリノリで楽しみたい人は「拝啓、僕のアイドルさま」がおすすめです。
at 13:13|Permalink│
「流星の絆」(東野圭吾)
「白夜行」以来、遅れてきたファンとして新作を楽しみにしてきた作家の最新作にして「最高傑作」(帯)というので期待して読んだ。
作者の技量は確かなので、安心して読めるし、章ごとに別の登場人物に沿った別の具体的なシーンで始まる書き方も著者のいつもの方法で、慣れればワクワクする。
描写が説明的ではなくて、登場人物の視点がよく生かされて具体的だから、その場面に立ち会う読者は自分がいまいつどこの時間空間に立ち会っているのか、一瞬分からない緊張感・臨場感がある。
客観描写と登場人物の視点から見る主観描写のバランスが良くて、内面をくぐる深度が程良い。
こういう特長はこの著者のほとんどすべての作品に通じるもので、大勢の読者にとって非常に快適で、一気に読める作品になっている要因の一つだろう。
でも今回は、登場人物たちの人間的な関係のドラマがやや弱い気がした。出だしの設定は悪くない。3人の兄弟妹が深夜、家を抜け出して、流星群を見に行く間に、両親が惨殺されるところから物語が始まる。このへんの設定と、まだ幼い兄弟妹の描写も、とてもいい。
ここから彼らが青年になって、ほんとうの物語が立ち上がっていくあたりから、う?ん、いつものようにトキメカないなぁ、と感じてしまう。
むろん、兄弟妹間の関係は、「白夜行」の男女のしがらみのようなわけにはいかないだろう。また、推理小説のパターンを踏襲しているから、犯人の姿はラストまで見えず、犯人との関わりでドラマを構成するのも難しいかもしれない。
或いは推理小説の宿命かもしれないけれど、それでも「見えない犯人」が顔や名前は分からないけれど、ものすごい存在感をもって、それを追い詰める主人公たちとの間でドラマが発生する、ということはあるだろう。
犯人の顔が見えるのは刑事コロンボのようなタイプ、顔が見えないのは古典的なものから現在まで枚挙に暇が無い。
追う者と追われる者という二項的な関係でドラマを作るやり方のほかに、犯人が複数で、犯人たち相互の人間関係の中でドラマを成立させるのもあるし、犯人の氏や育ちや人間性そのものに焦点をしぼり、犯人と周囲(家族や社会的背景)、みたいなところでドラマを成立させる方法もある。
テレビで人気だった「逃亡者」などは真実の犯人が誰であってもどうでもいいので(実際つまらない「結末」だった)、冤罪で逃亡する主人公と彼が毎回異なる場に置かれることで広がる波紋の一つ一つを楽しむタイプのドラマだった。
「復讐は我にあり」なども、たしか、犯人というより、むしろてんでばらばらで無関係な被害者一人一人の生活の細部を描いて、その人生が犯人と接触して破壊される瞬間に一つ一つのドラマがクライマックスを迎えると同時に消滅する、というふうなものだった。
こんなふうに、推理小説といい、犯罪小説といえでも、ちゃんと人間のドラマを成立させる方法は多様であって、いくらでも胸を打つ豊かな作品は可能だという気がする。
東野圭吾の主要な作品の魅力は、ジャンル小説としてのいわゆる推理小説や犯罪小説の、推理劇としての面白さや犯罪のトリックの奇抜さや追う者と追われる者の緊迫感や犯人さがしの謎とサスペンスなどにあったわけではなく、登場人物たちの人間的な魅力と彼らの心理、考え方、行動、関係などが織り成すドラマのよく考えられたアイディアとそれを生かす構成や語り口にあったと思う。
東野圭吾の描く主人公は世の規範からは外れているかもしれないけれど、地頭がよくて、独特の創造的な考えを展開し、実行していける魅力的な人物像だった。
それが今回はやや希薄だ。
兄の功一は本来そういう役回りのはずで、片鱗はあるけれども、彼の仕掛ける罠は今回の作品では平凡だ。
ネタバレになるからこれ以上は書かないけれど、全体読み終わっても、言ってみれば彼は犯人にしてやられたんだと言ってもいい結果に終わっている。静奈の色香に引かれてくる男たちを騙す程度の仕掛けでは、これまでの東野圭吾作品の読者は満足できないだろう。
功一も泰輔も静奈も、もっと魅力的な人物にできたのではないか。そのためにはきっと、犯人なり替え玉なりがもっと大きく、魅力的でなければならなかった。
推理小説的な種明かしをしたときに、なぁ?んだ、というのは構わない。それは必ずしも東野作品の価値が宿るところではないから。それは「逃亡者」の真犯人がつまらない男であっても構わないのと同じだ。
でも、そのことが、狩る側まで卑小にしてしまうとすれば、全体の設定が問題になってくる。
ところで、今世紀最大の流星ショーと言われたときの獅子座流星群、私も見ました。真夜中に寝室の窓を開けて、パートナーとたまたま家にいた長男と3人で東南の空を眺めていたら、ほんとうに次から次へ夜空を流星が横切って流れ落ちていく。すばらしい時間でした。
あれほどのショーはもう私の生きている間にはないそうなので、いい見納めになりました。
中学のころだったか、けっこう「理科」好きの少年だった私は、レンズと屋根のトユ用のポリウレタン?か何かの筒を買ってきて、ドリルで穴をあけて脚をつけたりして、かなり大きな天体望遠鏡を作って夜毎、月や火星や遠い星を眺めていたことがあります。
まだ地方の大きな都市でも夜中は暗くて、星空がよく見えたのですね。まぁ自作の望遠鏡で多少とも面白いのは月くらいで、星はぼやけた光の点にしか見えないから、レンズを覗いている時間よりも、ぼんやり夜空を眺めて、星座をみつけたり、流れ星や、そのころ話題だった人工衛星が見えないかと思ったりしている時間のほうがずっと長かった。
でも星を見ているときは、毎日のつまらない算数の問題解きとか、友達との小さな諍いとか、母親との険のあるやりとりとか、そんなことがみんなちっぽけにみえて、今で言えば「癒される」時間であったことは確かですね。
だから、東野さんのこの小説の冒頭は大好きです。ただ、兄弟妹たちが雨で見られなかったのは可哀想。物語の設定上、仕方が無かったのだけれど、3人にもあの流星群が夜空で繰り広げた天体ショーを見せてやりたかったな。
作者の技量は確かなので、安心して読めるし、章ごとに別の登場人物に沿った別の具体的なシーンで始まる書き方も著者のいつもの方法で、慣れればワクワクする。
描写が説明的ではなくて、登場人物の視点がよく生かされて具体的だから、その場面に立ち会う読者は自分がいまいつどこの時間空間に立ち会っているのか、一瞬分からない緊張感・臨場感がある。
客観描写と登場人物の視点から見る主観描写のバランスが良くて、内面をくぐる深度が程良い。
こういう特長はこの著者のほとんどすべての作品に通じるもので、大勢の読者にとって非常に快適で、一気に読める作品になっている要因の一つだろう。
でも今回は、登場人物たちの人間的な関係のドラマがやや弱い気がした。出だしの設定は悪くない。3人の兄弟妹が深夜、家を抜け出して、流星群を見に行く間に、両親が惨殺されるところから物語が始まる。このへんの設定と、まだ幼い兄弟妹の描写も、とてもいい。
ここから彼らが青年になって、ほんとうの物語が立ち上がっていくあたりから、う?ん、いつものようにトキメカないなぁ、と感じてしまう。
むろん、兄弟妹間の関係は、「白夜行」の男女のしがらみのようなわけにはいかないだろう。また、推理小説のパターンを踏襲しているから、犯人の姿はラストまで見えず、犯人との関わりでドラマを構成するのも難しいかもしれない。
或いは推理小説の宿命かもしれないけれど、それでも「見えない犯人」が顔や名前は分からないけれど、ものすごい存在感をもって、それを追い詰める主人公たちとの間でドラマが発生する、ということはあるだろう。
犯人の顔が見えるのは刑事コロンボのようなタイプ、顔が見えないのは古典的なものから現在まで枚挙に暇が無い。
追う者と追われる者という二項的な関係でドラマを作るやり方のほかに、犯人が複数で、犯人たち相互の人間関係の中でドラマを成立させるのもあるし、犯人の氏や育ちや人間性そのものに焦点をしぼり、犯人と周囲(家族や社会的背景)、みたいなところでドラマを成立させる方法もある。
テレビで人気だった「逃亡者」などは真実の犯人が誰であってもどうでもいいので(実際つまらない「結末」だった)、冤罪で逃亡する主人公と彼が毎回異なる場に置かれることで広がる波紋の一つ一つを楽しむタイプのドラマだった。
「復讐は我にあり」なども、たしか、犯人というより、むしろてんでばらばらで無関係な被害者一人一人の生活の細部を描いて、その人生が犯人と接触して破壊される瞬間に一つ一つのドラマがクライマックスを迎えると同時に消滅する、というふうなものだった。
こんなふうに、推理小説といい、犯罪小説といえでも、ちゃんと人間のドラマを成立させる方法は多様であって、いくらでも胸を打つ豊かな作品は可能だという気がする。
東野圭吾の主要な作品の魅力は、ジャンル小説としてのいわゆる推理小説や犯罪小説の、推理劇としての面白さや犯罪のトリックの奇抜さや追う者と追われる者の緊迫感や犯人さがしの謎とサスペンスなどにあったわけではなく、登場人物たちの人間的な魅力と彼らの心理、考え方、行動、関係などが織り成すドラマのよく考えられたアイディアとそれを生かす構成や語り口にあったと思う。
東野圭吾の描く主人公は世の規範からは外れているかもしれないけれど、地頭がよくて、独特の創造的な考えを展開し、実行していける魅力的な人物像だった。
それが今回はやや希薄だ。
兄の功一は本来そういう役回りのはずで、片鱗はあるけれども、彼の仕掛ける罠は今回の作品では平凡だ。
ネタバレになるからこれ以上は書かないけれど、全体読み終わっても、言ってみれば彼は犯人にしてやられたんだと言ってもいい結果に終わっている。静奈の色香に引かれてくる男たちを騙す程度の仕掛けでは、これまでの東野圭吾作品の読者は満足できないだろう。
功一も泰輔も静奈も、もっと魅力的な人物にできたのではないか。そのためにはきっと、犯人なり替え玉なりがもっと大きく、魅力的でなければならなかった。
推理小説的な種明かしをしたときに、なぁ?んだ、というのは構わない。それは必ずしも東野作品の価値が宿るところではないから。それは「逃亡者」の真犯人がつまらない男であっても構わないのと同じだ。
でも、そのことが、狩る側まで卑小にしてしまうとすれば、全体の設定が問題になってくる。
ところで、今世紀最大の流星ショーと言われたときの獅子座流星群、私も見ました。真夜中に寝室の窓を開けて、パートナーとたまたま家にいた長男と3人で東南の空を眺めていたら、ほんとうに次から次へ夜空を流星が横切って流れ落ちていく。すばらしい時間でした。
あれほどのショーはもう私の生きている間にはないそうなので、いい見納めになりました。
中学のころだったか、けっこう「理科」好きの少年だった私は、レンズと屋根のトユ用のポリウレタン?か何かの筒を買ってきて、ドリルで穴をあけて脚をつけたりして、かなり大きな天体望遠鏡を作って夜毎、月や火星や遠い星を眺めていたことがあります。
まだ地方の大きな都市でも夜中は暗くて、星空がよく見えたのですね。まぁ自作の望遠鏡で多少とも面白いのは月くらいで、星はぼやけた光の点にしか見えないから、レンズを覗いている時間よりも、ぼんやり夜空を眺めて、星座をみつけたり、流れ星や、そのころ話題だった人工衛星が見えないかと思ったりしている時間のほうがずっと長かった。
でも星を見ているときは、毎日のつまらない算数の問題解きとか、友達との小さな諍いとか、母親との険のあるやりとりとか、そんなことがみんなちっぽけにみえて、今で言えば「癒される」時間であったことは確かですね。
だから、東野さんのこの小説の冒頭は大好きです。ただ、兄弟妹たちが雨で見られなかったのは可哀想。物語の設定上、仕方が無かったのだけれど、3人にもあの流星群が夜空で繰り広げた天体ショーを見せてやりたかったな。
at 12:55|Permalink│
2008年03月09日
「4×4」(内藤裕敬・演出)
内藤さんはほんとにキマジメなんだなぁ、と、きょうはつくづく思いました。
「大胸騒ぎ」のときから、そうは思っていたけれど、あの作品ではまだ大いなるドタバタがあって、自称「体育会系」のキャラがキマジメを相対化していたので、阪神淡路大震災を繰り込んだ主題主義的な意味でのキマジメさなんだろうと思っていました。
でも、きょうの兵庫県立芸術文化センターでの内藤さん作・演出になる「4×4」(ヨン カケル ヨン)を観て、この人、根っからキマジメなんだ、と思いました。
せっかく、このところ(一番最近私がみたのはWOWOWのフカキョン主演ドラマですが)いい味の演技をしている萩原聖人や吉本のいい客人(末成由美)を迎えて、「クラシック*芝居」の野心作書くなら、思い切って羽根を展ばして遊べばいいのに!
「4人の俳優による、4楽章の音楽劇」とチラシにはあるけれど、これはオペラや音楽が音楽劇だと言うような意味で、音楽をベースにした現代の「音楽劇」なんでしょうか。ならば「振り付け」が合っていないのでは?
でも、もともと内藤さんの意図は「音楽劇」じゃなくて、「音楽*劇」だったのではないんですか?
クラシックのプロの演奏家のハンパじゃない演奏の存在感に、芝居を拮抗させたかったんじゃないんでしょうか。だけど、それなら、結果的には音楽がそれ自体で右脳に響いてきて、芝居の言語的な劇や視覚的な刺激がうまく左脳に響いてこなかった。なんとなく右脳だけ刺激を受けて帰った印象です。
私たちが若いころは「僕って何?」とか「われわれは何処からやってきて、どこへ行くのだろうか」なんて「問い」が流行って、しかつめらしい顔、なやましい顔してそういう科白を呟くのが流行っていたんですが、その後、そういうのは概ね、苦悩のポーズをとりたい人のまやかしの問いだっていうことになって廃れたのでした。
きょうの芝居を見ていて、なんとなくあのころの雰囲気を思い出してしまって、これはいかん、という感じでした。なにかまるで違った問い方が必要なんじゃないか、と。
それに、今日の芝居に関しては、「ないものねだり」だけれど、ドタバタが無かったのは淋しかったですね。私は結構あれが好きだったので。
でも内藤さんの本領は別段「体育会系」じゃなくて、言語の劇にある、と前から思っていましたから、本当に淋しかったのは、その醍醐味を味わうシーンが乏しいように感じられたことでした。
例によって列車も信号機も出てきて、車窓から一瞬見える信号機の傍に「私」が立っている、という、大胸騒ぎの印象的な独白の引用まで出てくるのですが、「大胸騒ぎ」でのあの独白は、劇中でも最も美しい一節でしたからね。
意味不明でも観客の心に鮮烈な印象を刻み込むような言葉でした。あれが今回無かったのは、きっと音楽にその機能を全部委ねてしまったからでしょうね。あぁ、あの独白は音楽だったんだな、と今になって逆に気づきました。
内藤さんらしい言葉遊びはあるんですが・・・「『行っちゃいけないところ』行き」の列車とかね。でも、現在の状況が語らせる言葉って、はたして、行き先が分からないとか、「行っちゃいけないところ」へ向かっているかもしれない不安の表出なんでしょうか。
内藤さんの列車の乗客たちは、みんな一緒に行くことをあまり疑ってないように見えるのはなぜなんだろう?なんて思って見ていました。
私が若いころから頻繁に見る夢に、列車を立て続けに乗り違えて、あぁ、もう間に合わない、とりかえしがつかない、と絶望する夢があります。乗り換えても乗り換えても、ちょうど「むじな」のように、乗り違えの連続で、焦れば焦るほど行き着かないのです。
時代は不安から恐怖へ(笑)・・・いけない、貴志祐介の長編読んだばかりだから、ホラーづいてしまったか・・・
う?ん、ないものねだりしちゃいけない、ってのは分かっているのですが、内藤さん、やっぱり私の読んだ内藤さんの脚本で一番好きなのは、いまだに「唇に聴いてみる」です。
ところで、倉科カナさんは可愛らしい女優さんですね。初舞台だそうで、カーテンコールで再登場したときも、はにかんだような笑顔がカワユイな、と思って見ていました。女優さんが演技してるっていうより、倉科カナさんっていうカワユイ女性がそのまま舞台に上がっている感じでしたね。でも、みんな許しちゃうでしょう(笑)。
鈴木こうさんの車掌さんは、さすがに巧かったですね。こういうベテランは貴重ですね。
はい、芝居ド素人の勝手評はこれにて。益々のご活躍を!
「大胸騒ぎ」のときから、そうは思っていたけれど、あの作品ではまだ大いなるドタバタがあって、自称「体育会系」のキャラがキマジメを相対化していたので、阪神淡路大震災を繰り込んだ主題主義的な意味でのキマジメさなんだろうと思っていました。
でも、きょうの兵庫県立芸術文化センターでの内藤さん作・演出になる「4×4」(ヨン カケル ヨン)を観て、この人、根っからキマジメなんだ、と思いました。
せっかく、このところ(一番最近私がみたのはWOWOWのフカキョン主演ドラマですが)いい味の演技をしている萩原聖人や吉本のいい客人(末成由美)を迎えて、「クラシック*芝居」の野心作書くなら、思い切って羽根を展ばして遊べばいいのに!
「4人の俳優による、4楽章の音楽劇」とチラシにはあるけれど、これはオペラや音楽が音楽劇だと言うような意味で、音楽をベースにした現代の「音楽劇」なんでしょうか。ならば「振り付け」が合っていないのでは?
でも、もともと内藤さんの意図は「音楽劇」じゃなくて、「音楽*劇」だったのではないんですか?
クラシックのプロの演奏家のハンパじゃない演奏の存在感に、芝居を拮抗させたかったんじゃないんでしょうか。だけど、それなら、結果的には音楽がそれ自体で右脳に響いてきて、芝居の言語的な劇や視覚的な刺激がうまく左脳に響いてこなかった。なんとなく右脳だけ刺激を受けて帰った印象です。
私たちが若いころは「僕って何?」とか「われわれは何処からやってきて、どこへ行くのだろうか」なんて「問い」が流行って、しかつめらしい顔、なやましい顔してそういう科白を呟くのが流行っていたんですが、その後、そういうのは概ね、苦悩のポーズをとりたい人のまやかしの問いだっていうことになって廃れたのでした。
きょうの芝居を見ていて、なんとなくあのころの雰囲気を思い出してしまって、これはいかん、という感じでした。なにかまるで違った問い方が必要なんじゃないか、と。
それに、今日の芝居に関しては、「ないものねだり」だけれど、ドタバタが無かったのは淋しかったですね。私は結構あれが好きだったので。
でも内藤さんの本領は別段「体育会系」じゃなくて、言語の劇にある、と前から思っていましたから、本当に淋しかったのは、その醍醐味を味わうシーンが乏しいように感じられたことでした。
例によって列車も信号機も出てきて、車窓から一瞬見える信号機の傍に「私」が立っている、という、大胸騒ぎの印象的な独白の引用まで出てくるのですが、「大胸騒ぎ」でのあの独白は、劇中でも最も美しい一節でしたからね。
意味不明でも観客の心に鮮烈な印象を刻み込むような言葉でした。あれが今回無かったのは、きっと音楽にその機能を全部委ねてしまったからでしょうね。あぁ、あの独白は音楽だったんだな、と今になって逆に気づきました。
内藤さんらしい言葉遊びはあるんですが・・・「『行っちゃいけないところ』行き」の列車とかね。でも、現在の状況が語らせる言葉って、はたして、行き先が分からないとか、「行っちゃいけないところ」へ向かっているかもしれない不安の表出なんでしょうか。
内藤さんの列車の乗客たちは、みんな一緒に行くことをあまり疑ってないように見えるのはなぜなんだろう?なんて思って見ていました。
私が若いころから頻繁に見る夢に、列車を立て続けに乗り違えて、あぁ、もう間に合わない、とりかえしがつかない、と絶望する夢があります。乗り換えても乗り換えても、ちょうど「むじな」のように、乗り違えの連続で、焦れば焦るほど行き着かないのです。
時代は不安から恐怖へ(笑)・・・いけない、貴志祐介の長編読んだばかりだから、ホラーづいてしまったか・・・
う?ん、ないものねだりしちゃいけない、ってのは分かっているのですが、内藤さん、やっぱり私の読んだ内藤さんの脚本で一番好きなのは、いまだに「唇に聴いてみる」です。
ところで、倉科カナさんは可愛らしい女優さんですね。初舞台だそうで、カーテンコールで再登場したときも、はにかんだような笑顔がカワユイな、と思って見ていました。女優さんが演技してるっていうより、倉科カナさんっていうカワユイ女性がそのまま舞台に上がっている感じでしたね。でも、みんな許しちゃうでしょう(笑)。
鈴木こうさんの車掌さんは、さすがに巧かったですね。こういうベテランは貴重ですね。
はい、芝居ド素人の勝手評はこれにて。益々のご活躍を!
at 21:38|Permalink│