2008年03月
2008年03月29日
「告白」(町田康)
町田康の作品はこれまでいくつか手にとったけれど、相性が悪いのかあまり読み進められなかったり、読んでもさほど印象に残っていなかった。
文庫本になったのを機会に、少々分厚い(842ページ)けれども、春休みでもあるし、車中でなくても読む時間はあるわい、と孫の昼寝の合間につなぎ読みするつもりで買ったところ、この作品は一旦読み出すと止まらなかった。
"The king died and then the queen died" というのが「物語」。"The king died and then the queen died of grief" が「プロット」。・・・とE.M.Forsterが"Aspects of the Novel"の中で書いているけれど、この最も単純な、時間的な順序によって、次になにが起きるかを語っていく、「物語」の原形。そのつなぎの面白さ、シーンの選択と転換の面白さ、子供を寝かせつけようとしてアドリブで奇想天外な物語を紡ぎだしていくとき生成されるようなお話。千夜一夜物語。
試しに途中からでも読んでみるといい。河内言葉の面白さにつられ、主人公の自意識過剰なかったるい心理の動きもある種のとぼけた味になって面白く、次は、その次は、と先へ先へ否応なく引かれていく。並みの語りではない。真っ先に連想したのは、「ロマネスク」の太宰治だった。
ずっと愛読書で手元から離したことの無かった太宰の初々しい初期の作品集『晩年』の中でも、明るくて面白くてサービス精神満点の「ロマネスク」は「魚服記」などと並んで偏愛する作品だった。(いま手元からなくなっていることを知って愕然!どこへ行ってしまったのだろう!)
中でもとりわけ、ひそかに喧嘩のトレーニングをしてめっぽう強くなったはいいが、結果的にそのせいで新妻を殺めてしまう哀しくも滑稽な男・喧嘩次郎兵衛の話は一番好きな作品だった。
「告白」の熊太郎はどこか次郎兵衛と似ているが、それよりも文体の響きが似ている。リズムがあのロマネスクのリズムだ。そのはるか向こうには落語の語りのリズムがあるのかもしれない。真似るというようなレベルではなくて、そんな深い響き合いを感じる。
町田康という作家のことは全然知らないのだけれど、きっと太宰が好きに違いない。このリズム、この文体は太宰の骨がらみの影響なしには考えられない、と何の実証もなく、太宰ファンの直観が教えてくれる。これは河内音頭で歌われた「ロマネスク」なのに違いない。
冒頭から、「熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。/父母の寵愛を一心に受けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。」と来たまではいいが、つづいて「あかんではないか。」といきなり語り手の判断が顔を出す。
これは全編にわたってこの調子だ。そして主人公の熊太郎はこの語り手と同様の「思弁」癖がある。いわゆる「自意識過剰」というやつで、これも太宰そのものだと言えば言える。河内の百姓の倅にして、近代日本知識人が陥った自意識のドツボにはまっている。そのために胸中の思いと言動とが常にちぐはぐで、周囲から誤解されている(と思っている)。そしてまた、そのちぐはぐさが彼を彼以外の何者でもない者にしていく。
近代日本の作家は吉本さんのいう「文学体」でもってこの自意識と悪戦苦闘するのだけれど、「話体」でもってこれに挑戦するのは、或る意味では自己矛盾みたいなものだろうから、甚だ珍しいのではないか。だから読者の私の連想の中で、太宰とパッとつながってしまう。
この作品は谷崎潤一郎賞を受賞したそうだけれど、「太宰治賞」の間違いじゃないの、と言いたくなるような作品。同じ徹底した「話体」でも下降線を辿って世界と戯れる谷崎とは正反対の、世界と抗いながら凝縮し上昇していくベクトルの話体。ときどきエアポケットに入るように語り手の地の判断が顔を出すところにその文体の特徴があらわれる。
最後に自意識の罠を断ち切ろうとする熊太郎、怒涛の殺戮。このクライマックスも素晴らしい。「ロマネスク」は超短編でもっと読みたいという不満が残るけれど、この作品はボリュームたっぷり、あの「ロマネスク」の可笑しみと苦味と哀しみの入り混じった語りの面白さと疾走感を存分に味あわせてくれる。
文庫本になったのを機会に、少々分厚い(842ページ)けれども、春休みでもあるし、車中でなくても読む時間はあるわい、と孫の昼寝の合間につなぎ読みするつもりで買ったところ、この作品は一旦読み出すと止まらなかった。
"The king died and then the queen died" というのが「物語」。"The king died and then the queen died of grief" が「プロット」。・・・とE.M.Forsterが"Aspects of the Novel"の中で書いているけれど、この最も単純な、時間的な順序によって、次になにが起きるかを語っていく、「物語」の原形。そのつなぎの面白さ、シーンの選択と転換の面白さ、子供を寝かせつけようとしてアドリブで奇想天外な物語を紡ぎだしていくとき生成されるようなお話。千夜一夜物語。
試しに途中からでも読んでみるといい。河内言葉の面白さにつられ、主人公の自意識過剰なかったるい心理の動きもある種のとぼけた味になって面白く、次は、その次は、と先へ先へ否応なく引かれていく。並みの語りではない。真っ先に連想したのは、「ロマネスク」の太宰治だった。
ずっと愛読書で手元から離したことの無かった太宰の初々しい初期の作品集『晩年』の中でも、明るくて面白くてサービス精神満点の「ロマネスク」は「魚服記」などと並んで偏愛する作品だった。(いま手元からなくなっていることを知って愕然!どこへ行ってしまったのだろう!)
中でもとりわけ、ひそかに喧嘩のトレーニングをしてめっぽう強くなったはいいが、結果的にそのせいで新妻を殺めてしまう哀しくも滑稽な男・喧嘩次郎兵衛の話は一番好きな作品だった。
「告白」の熊太郎はどこか次郎兵衛と似ているが、それよりも文体の響きが似ている。リズムがあのロマネスクのリズムだ。そのはるか向こうには落語の語りのリズムがあるのかもしれない。真似るというようなレベルではなくて、そんな深い響き合いを感じる。
町田康という作家のことは全然知らないのだけれど、きっと太宰が好きに違いない。このリズム、この文体は太宰の骨がらみの影響なしには考えられない、と何の実証もなく、太宰ファンの直観が教えてくれる。これは河内音頭で歌われた「ロマネスク」なのに違いない。
冒頭から、「熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。/父母の寵愛を一心に受けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。」と来たまではいいが、つづいて「あかんではないか。」といきなり語り手の判断が顔を出す。
これは全編にわたってこの調子だ。そして主人公の熊太郎はこの語り手と同様の「思弁」癖がある。いわゆる「自意識過剰」というやつで、これも太宰そのものだと言えば言える。河内の百姓の倅にして、近代日本知識人が陥った自意識のドツボにはまっている。そのために胸中の思いと言動とが常にちぐはぐで、周囲から誤解されている(と思っている)。そしてまた、そのちぐはぐさが彼を彼以外の何者でもない者にしていく。
近代日本の作家は吉本さんのいう「文学体」でもってこの自意識と悪戦苦闘するのだけれど、「話体」でもってこれに挑戦するのは、或る意味では自己矛盾みたいなものだろうから、甚だ珍しいのではないか。だから読者の私の連想の中で、太宰とパッとつながってしまう。
この作品は谷崎潤一郎賞を受賞したそうだけれど、「太宰治賞」の間違いじゃないの、と言いたくなるような作品。同じ徹底した「話体」でも下降線を辿って世界と戯れる谷崎とは正反対の、世界と抗いながら凝縮し上昇していくベクトルの話体。ときどきエアポケットに入るように語り手の地の判断が顔を出すところにその文体の特徴があらわれる。
最後に自意識の罠を断ち切ろうとする熊太郎、怒涛の殺戮。このクライマックスも素晴らしい。「ロマネスク」は超短編でもっと読みたいという不満が残るけれど、この作品はボリュームたっぷり、あの「ロマネスク」の可笑しみと苦味と哀しみの入り混じった語りの面白さと疾走感を存分に味あわせてくれる。
at 22:56|Permalink│
2008年03月26日
「ノーカントリー」〈映画と原作)
〈映画の内容についてネタバレがあるので、未見の方はご用心)
意味不明の邦題だが、もとのタイトルは原作も映画も"No Country for Old Men"(老人たちの国じゃない≒老人たちが住める場所じゃない、くらいの意味かな?)。アイルランドの詩人イェーツの"Sailing to Byzantium"(ビザンチウムへの航海)の冒頭"That is no country for old men."からの引用だそうです。
イェーツの詩は彼が私の今の年齢と同じくらい、老人になってからの作品で、冒頭のthatは祖国アイルランドを暗に指して、「あれは老人たちが住める国じゃない」くらいの意味になるのでしょうか。
若い者たちはみな腕をとりあって樹々の梢で歌う鳥のように官能的な歌に溺れ、滝を登る鮭や海に群れる鱒のようにむせかえるような生と死の饗宴を謳歌して、老いることのない知性の記念碑をないがしろにしている。・・・
そんな意味合いの詞章を引用したタイトルだから、トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官ベルの「昔はこうだった、それにひきかえ今の若い者は・・」的なぼやきを枠組みにして、その「今」を一種不条理な追跡と連続的な血生臭い殺人の繰り展げられる現在進行形の物語で示す、というだけの映画かな、と思うと、これがそうでもありません。
たしかに映画では、俳優が悪いわけではないのだけれど、この保安官のぼやきが、原作ほどの存在感を持たず、現在進行形の物語に保安官自身が関わる度合いも浅いので、物語の外部からとってつけた枠組みのように思えてしまうきらいがないでもありません。
しかし、原作ではこの保安官の独白や会話が現在進行形の物語と同じくらい(とまではいかないまでも)大きな比重を持ち、最後に近いところで、彼がベトナム戦争で仲間を置き去りにして逃亡した過去を持つことが明かされます。
だからといって、原作も映画も、ベトナム帰還兵たるこの保安官のそうしたトラウマを主軸にした物語というわけではないし、同じくベトナム帰還兵であるルウェリン(この物語を転がしていく狂言まわしという意味での主役)がベトナム帰還兵である、ということは、この映画にとっても小説にとっても本質的な意味を持っていないと思います。
また、老保安官ベルの目で、「血と暴力の国」(邦訳の乱暴なタイトル)になってしまった現在のアメリカの状況をぼやく、というだけの作品でもないでしょう。(そういう見方にお誂えむきのぼやきは原作のベルの独白にありますが。)
むしろ戦争中のできごとにせよ、戦後の日常の中で生じることにせよ、人生そのものの成り立ちに、この作品の根源的な関心は向かっているようだと、私には思われました。
映画で主役(仮にルウェリンが「主役」だとして)を食って圧倒的な存在感を示しているのは、ルウェリンを執拗に追い詰める殺し屋のシュガー(映画では「シガー」)です。
この殺し屋は怖いけれども、よくあるようなプロフェッショナルな殺し屋の職業的な冷酷さ、非情さ、というのでもなく、また性格異常者の生理的な残虐嗜好とか、精神を病んだ犯罪者の固着した狂気の思い込みとかいうものとも違っています。
殺し屋シュガーにとって、殺人は厳格な「ルール」に基づくものですが、それが通常の職業的な殺し屋がそれぞれ持っている我流のルールと違うところは、自分の獲物にコインの表裏で運命を自ら決めさせるような確率論的な考え方をするところではないでしょうか。
たとえば、殺し屋を始末しに来て逆に殺されるウェンデルというヤサ男とシュガーとの最後の会話や、ルウェリンの妻とシュガーが交わす会話のシーンがそれをよく表わしているように思います。(ついでながら、ウェンデルがホテルへ帰って階段を途中まで上がったところで、後ろにすっとシュガーの姿が現われるシーンは、ぞくっとさせられて、なかなか良かった。)
そして、そういう殺し屋だからこそ、最初のほうで出てくる、ガソリンスタンドの店のおやじとシュガーの交わす会話の場面、コインを出して、シュガーが「表か裏か」と訊く、普通なら何でもないエピソードが、おそろしくスリリングな迫力満点のシーンになっています。ここが私の一番好きなシーンです。
この映画〈原作の小説も)は、ルウェリンが狩りの途中で偶然、麻薬取引のトラブルで殺しあって死体が転がっている現場で大金をみつけ、拾って帰ったはよいが、そのときまだ息があって彼に水を求めた男のことが脳裡に浮かんで、真夜中になって、よせばいいのに、もう一度現場へ出かけていくところから始まります。男の運命もこの映画も、この偶然と、そこへほんのちょっと、自分でも馬鹿なことをしているな、と思いながら余計なことをしてしまう、この男の「意志」からスタートしています。
あとは一本道。ルウェリンはなんとかこの一本道から逃れようとし、抗うのですが、一旦敷かれた運命の一本道はもう如何ともしがたく、あとは坂道を転げ落ちるようにその道をひた走りに走り、来るべき最後を迎えるまで立ち止まることができません。
シュガーがいま殺そうとする相手に、「俺(わたし)を殺す意味なんかないじゃないか」と言われて、言い返す言葉は、いつも「おまえがコインの表か裏かを選んだんじゃないか」という意味のことです。
この殺し屋の怖さは、この表か裏かの軽いゲーム、だけどそのあとにつづく逃れようのない一本道とセットの選択を迫るシーンに集約されています。何でもない賭けに続く一本道の怖さ。
あのときこうしていれば、あのときあんなことをしさえしなければ、と思うことは、私たち平凡な人生を送る者にとってもありふれた経験ではないでしょうか。
そういう意味では、私たちはいつもルウェリンと同じように、よせばいいのにちょっと余計なことをしてしまわずにはいられない存在です。はじめにちょっとボタンを掛け違えてその後の人生をパーにしてしまうようなね。あとは地獄の一本道。わかっちゃいるけど、人生とはそういうものだよ、と目の前にまざまざと見せつけられると、私たちは目をそむけたくなります。
私たちの大切な人生がそんな、ちょっとした過ちで、ちょっとしたボタンの掛け違いで「狂って」しまっていいものか!私たちにはもっと沢山の選択肢があって、しっかりした根拠を持ってよりよい人生を選んだいけるはずではないのか。私たちの多くは、自分の人生の基礎の不在に正面から向き合うほどの度胸がないのでしょう。
生きる以上、私たちは自分たちの生の基礎がしっかりしていると思いたい。私たちのいまある生活は、幾分かの偶然も織り交ぜがながらではあっても、かくかくしかじか、そうあるべくして成った必然的な成り行きの結果であり、その生には意味があり、人とのかかわりにも出来事にも意味があり、周囲の人々の行動にもしかるべき意味があるのだ、と思いたい。そして、そうした意味の集合を自分なりの人生観、世界観として、安定した秩序に組み立てて暮らしているものではないでしょうか。
でもその拠って立つ基礎が不在で、たんに私たちがコインの表か裏を選ぶようにふと選んでしまったのだとすれば・・・そして、あとはもう私たちに指一本触れることもできない一本道だとすれば・・・
殺し屋シュガーに感じる怖さは、どこか私たち自身の生の脆さ、不確かさを眼前に突きつけられる怖さと通じているのではないでしょうか。私たちはルウェリンに寄り添って逃げながら、自分がほんのちょっとした手違いで「選んでしまった」自分の人生に抗いながらも否応なくその一本道をなぞって、抗えば抗うほど袋小路に追い詰められていく恐怖とある種の滑稽さを感じます。それがシュガーという、凄みがあるけれど、どこかとぼけた可笑しみのある殺し屋に形象化されているような気がします。
保安官のぼやきの意味も、ベトナム戦争の逃亡者としてのトラウマではなく、むしろそのほんのちょっとしたボタンの掛け違えの強いる一本道をずっと歩いて来ざるを得なかった保安官の、いま現在の生を強いられている状況が、現在進行形のクライムストーリーの示すものと通底するところに、この作品の奥行きがあるのだと言えるのではないでしょうか。
意味不明の邦題だが、もとのタイトルは原作も映画も"No Country for Old Men"(老人たちの国じゃない≒老人たちが住める場所じゃない、くらいの意味かな?)。アイルランドの詩人イェーツの"Sailing to Byzantium"(ビザンチウムへの航海)の冒頭"That is no country for old men."からの引用だそうです。
イェーツの詩は彼が私の今の年齢と同じくらい、老人になってからの作品で、冒頭のthatは祖国アイルランドを暗に指して、「あれは老人たちが住める国じゃない」くらいの意味になるのでしょうか。
若い者たちはみな腕をとりあって樹々の梢で歌う鳥のように官能的な歌に溺れ、滝を登る鮭や海に群れる鱒のようにむせかえるような生と死の饗宴を謳歌して、老いることのない知性の記念碑をないがしろにしている。・・・
そんな意味合いの詞章を引用したタイトルだから、トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官ベルの「昔はこうだった、それにひきかえ今の若い者は・・」的なぼやきを枠組みにして、その「今」を一種不条理な追跡と連続的な血生臭い殺人の繰り展げられる現在進行形の物語で示す、というだけの映画かな、と思うと、これがそうでもありません。
たしかに映画では、俳優が悪いわけではないのだけれど、この保安官のぼやきが、原作ほどの存在感を持たず、現在進行形の物語に保安官自身が関わる度合いも浅いので、物語の外部からとってつけた枠組みのように思えてしまうきらいがないでもありません。
しかし、原作ではこの保安官の独白や会話が現在進行形の物語と同じくらい(とまではいかないまでも)大きな比重を持ち、最後に近いところで、彼がベトナム戦争で仲間を置き去りにして逃亡した過去を持つことが明かされます。
だからといって、原作も映画も、ベトナム帰還兵たるこの保安官のそうしたトラウマを主軸にした物語というわけではないし、同じくベトナム帰還兵であるルウェリン(この物語を転がしていく狂言まわしという意味での主役)がベトナム帰還兵である、ということは、この映画にとっても小説にとっても本質的な意味を持っていないと思います。
また、老保安官ベルの目で、「血と暴力の国」(邦訳の乱暴なタイトル)になってしまった現在のアメリカの状況をぼやく、というだけの作品でもないでしょう。(そういう見方にお誂えむきのぼやきは原作のベルの独白にありますが。)
むしろ戦争中のできごとにせよ、戦後の日常の中で生じることにせよ、人生そのものの成り立ちに、この作品の根源的な関心は向かっているようだと、私には思われました。
映画で主役(仮にルウェリンが「主役」だとして)を食って圧倒的な存在感を示しているのは、ルウェリンを執拗に追い詰める殺し屋のシュガー(映画では「シガー」)です。
この殺し屋は怖いけれども、よくあるようなプロフェッショナルな殺し屋の職業的な冷酷さ、非情さ、というのでもなく、また性格異常者の生理的な残虐嗜好とか、精神を病んだ犯罪者の固着した狂気の思い込みとかいうものとも違っています。
殺し屋シュガーにとって、殺人は厳格な「ルール」に基づくものですが、それが通常の職業的な殺し屋がそれぞれ持っている我流のルールと違うところは、自分の獲物にコインの表裏で運命を自ら決めさせるような確率論的な考え方をするところではないでしょうか。
たとえば、殺し屋を始末しに来て逆に殺されるウェンデルというヤサ男とシュガーとの最後の会話や、ルウェリンの妻とシュガーが交わす会話のシーンがそれをよく表わしているように思います。(ついでながら、ウェンデルがホテルへ帰って階段を途中まで上がったところで、後ろにすっとシュガーの姿が現われるシーンは、ぞくっとさせられて、なかなか良かった。)
そして、そういう殺し屋だからこそ、最初のほうで出てくる、ガソリンスタンドの店のおやじとシュガーの交わす会話の場面、コインを出して、シュガーが「表か裏か」と訊く、普通なら何でもないエピソードが、おそろしくスリリングな迫力満点のシーンになっています。ここが私の一番好きなシーンです。
この映画〈原作の小説も)は、ルウェリンが狩りの途中で偶然、麻薬取引のトラブルで殺しあって死体が転がっている現場で大金をみつけ、拾って帰ったはよいが、そのときまだ息があって彼に水を求めた男のことが脳裡に浮かんで、真夜中になって、よせばいいのに、もう一度現場へ出かけていくところから始まります。男の運命もこの映画も、この偶然と、そこへほんのちょっと、自分でも馬鹿なことをしているな、と思いながら余計なことをしてしまう、この男の「意志」からスタートしています。
あとは一本道。ルウェリンはなんとかこの一本道から逃れようとし、抗うのですが、一旦敷かれた運命の一本道はもう如何ともしがたく、あとは坂道を転げ落ちるようにその道をひた走りに走り、来るべき最後を迎えるまで立ち止まることができません。
シュガーがいま殺そうとする相手に、「俺(わたし)を殺す意味なんかないじゃないか」と言われて、言い返す言葉は、いつも「おまえがコインの表か裏かを選んだんじゃないか」という意味のことです。
この殺し屋の怖さは、この表か裏かの軽いゲーム、だけどそのあとにつづく逃れようのない一本道とセットの選択を迫るシーンに集約されています。何でもない賭けに続く一本道の怖さ。
あのときこうしていれば、あのときあんなことをしさえしなければ、と思うことは、私たち平凡な人生を送る者にとってもありふれた経験ではないでしょうか。
そういう意味では、私たちはいつもルウェリンと同じように、よせばいいのにちょっと余計なことをしてしまわずにはいられない存在です。はじめにちょっとボタンを掛け違えてその後の人生をパーにしてしまうようなね。あとは地獄の一本道。わかっちゃいるけど、人生とはそういうものだよ、と目の前にまざまざと見せつけられると、私たちは目をそむけたくなります。
私たちの大切な人生がそんな、ちょっとした過ちで、ちょっとしたボタンの掛け違いで「狂って」しまっていいものか!私たちにはもっと沢山の選択肢があって、しっかりした根拠を持ってよりよい人生を選んだいけるはずではないのか。私たちの多くは、自分の人生の基礎の不在に正面から向き合うほどの度胸がないのでしょう。
生きる以上、私たちは自分たちの生の基礎がしっかりしていると思いたい。私たちのいまある生活は、幾分かの偶然も織り交ぜがながらではあっても、かくかくしかじか、そうあるべくして成った必然的な成り行きの結果であり、その生には意味があり、人とのかかわりにも出来事にも意味があり、周囲の人々の行動にもしかるべき意味があるのだ、と思いたい。そして、そうした意味の集合を自分なりの人生観、世界観として、安定した秩序に組み立てて暮らしているものではないでしょうか。
でもその拠って立つ基礎が不在で、たんに私たちがコインの表か裏を選ぶようにふと選んでしまったのだとすれば・・・そして、あとはもう私たちに指一本触れることもできない一本道だとすれば・・・
殺し屋シュガーに感じる怖さは、どこか私たち自身の生の脆さ、不確かさを眼前に突きつけられる怖さと通じているのではないでしょうか。私たちはルウェリンに寄り添って逃げながら、自分がほんのちょっとした手違いで「選んでしまった」自分の人生に抗いながらも否応なくその一本道をなぞって、抗えば抗うほど袋小路に追い詰められていく恐怖とある種の滑稽さを感じます。それがシュガーという、凄みがあるけれど、どこかとぼけた可笑しみのある殺し屋に形象化されているような気がします。
保安官のぼやきの意味も、ベトナム戦争の逃亡者としてのトラウマではなく、むしろそのほんのちょっとしたボタンの掛け違えの強いる一本道をずっと歩いて来ざるを得なかった保安官の、いま現在の生を強いられている状況が、現在進行形のクライムストーリーの示すものと通底するところに、この作品の奥行きがあるのだと言えるのではないでしょうか。
at 13:17|Permalink│
2008年03月24日
「Sweet Rain 死神の精度」(筧昌也・監督)
伊坂幸太郎の原作は彼の作品の中ではいい方だとは思わないけれど、リアリズムではない工夫のある小説で、仕掛け倒れに終わらずに、人生の奥行きを見せてくれるまじめな作風に好感を持っていて、「死神の精度」も成功しているとは思わないけれど、それなりに面白く読んだ。
だからこれを映画に作るのはなかなか難しかろうに、どういう工夫があるかな、という関心で観客十数人しかいない劇場へ入って、ストレートティーとプレーン・ドーナツを食べながら見た。
はしょって結論を言うと、期待したような工夫のある映画ではなかった。原作をただ実写映像に起こせばいい、というベタな映画だった。「恋する惑星」の金城武や、テレビドラマの「オレンジデイズ」以来、いい女優だな、と思っている小西真奈美や、あのお竜さんがこんないい演技をするようになったんだと思っていつも感心している富司純子など贅沢なキャスティングを組みながら、これはないだろう、と思う。
死神が人々が想像するようなおどろおどろしい姿形をしていない、という意外性も、人間の世界にまだ無知な死神が会話の中で同音異義語をとんちんかんな受け止め方をするおかしさは、原作でも必ずしもうまくいっていないけれど、それをわざわざベタに映像化したら、もっと見ていられない。
金城武はキライな俳優ではないけれど、「どこか現実離れした」新しいタイプの死神を創造するには至らない。だから中途半端なちぐはぐさが観る者を苛立たせ、原作ではまだ感じられた荒唐無稽な設定の中での伊坂幸太郎らしい、ある種のとぼけた可笑しみが伝わってこない。
でも、この作品は本当はもっと観るものの心を揺り動かすような作品になりえたはずなのだ。それが伊坂幸太郎の作品の核心にいつもあるメッセージで、映画ではそれがわずかに小西真奈美が富司純子になってそのあいだの彼女の人生が観る者の胸に一挙に迫ってくる瞬間に垣間見えるのだけれど、残念ながら富司純子の語りだけでそれを伝えようったって、それは無理というものだ。
それまでの仕掛けが十分にできていないから、なんだか芸のない種明かしのようにしか見えない。そこが後半で人物が同定されてから一挙に万感胸に迫る感じのある「アヒルと鴨のコインロッカー」との決定的な違いだ。
やっぱり脚本の段階で、原作を読み抜き、読み破って、同じものとは思えないほど映像として消化(昇華)された作品に創らないと、この原作の映像化は無理だ。原作と映画との関係について、基本的な考え方に問題があるとしか思えない。
「野ブタ。をプロデュース」のあの原作を主人公を女性にして原作をしのぐ創造的なテレビドラマを作り上げてしまったプロデューサーのような人が監督をしないと、この原作をいい映画にするのは難しいかもれない。
だからこれを映画に作るのはなかなか難しかろうに、どういう工夫があるかな、という関心で観客十数人しかいない劇場へ入って、ストレートティーとプレーン・ドーナツを食べながら見た。
はしょって結論を言うと、期待したような工夫のある映画ではなかった。原作をただ実写映像に起こせばいい、というベタな映画だった。「恋する惑星」の金城武や、テレビドラマの「オレンジデイズ」以来、いい女優だな、と思っている小西真奈美や、あのお竜さんがこんないい演技をするようになったんだと思っていつも感心している富司純子など贅沢なキャスティングを組みながら、これはないだろう、と思う。
死神が人々が想像するようなおどろおどろしい姿形をしていない、という意外性も、人間の世界にまだ無知な死神が会話の中で同音異義語をとんちんかんな受け止め方をするおかしさは、原作でも必ずしもうまくいっていないけれど、それをわざわざベタに映像化したら、もっと見ていられない。
金城武はキライな俳優ではないけれど、「どこか現実離れした」新しいタイプの死神を創造するには至らない。だから中途半端なちぐはぐさが観る者を苛立たせ、原作ではまだ感じられた荒唐無稽な設定の中での伊坂幸太郎らしい、ある種のとぼけた可笑しみが伝わってこない。
でも、この作品は本当はもっと観るものの心を揺り動かすような作品になりえたはずなのだ。それが伊坂幸太郎の作品の核心にいつもあるメッセージで、映画ではそれがわずかに小西真奈美が富司純子になってそのあいだの彼女の人生が観る者の胸に一挙に迫ってくる瞬間に垣間見えるのだけれど、残念ながら富司純子の語りだけでそれを伝えようったって、それは無理というものだ。
それまでの仕掛けが十分にできていないから、なんだか芸のない種明かしのようにしか見えない。そこが後半で人物が同定されてから一挙に万感胸に迫る感じのある「アヒルと鴨のコインロッカー」との決定的な違いだ。
やっぱり脚本の段階で、原作を読み抜き、読み破って、同じものとは思えないほど映像として消化(昇華)された作品に創らないと、この原作の映像化は無理だ。原作と映画との関係について、基本的な考え方に問題があるとしか思えない。
「野ブタ。をプロデュース」のあの原作を主人公を女性にして原作をしのぐ創造的なテレビドラマを作り上げてしまったプロデューサーのような人が監督をしないと、この原作をいい映画にするのは難しいかもれない。
at 23:26|Permalink│
「オリオン座からの招待状」(三枝健起・監督)
いい映画だと聞いていたけれど、見損ねていたのを、たまたまぽっかりあいた日曜日、雨の夕暮れどき、パートナーと祇園会館へ出かけた。
はいって左手には古い大型の映写機が、場内へ入ると、ここは花道のある劇場なのだ。両サイドの桟敷だったところにも椅子が入っていて、館内はがら空きなのに、わざわざそこに坐っている客が何人もある。桟敷席の気分を味わいたいのだろう。
客層がいい。居眠りしているお爺さん、老夫婦、荷物をかかえたおばあさん、年輩の主婦らしい二人連れ、三十代くらいの女性一人客、若いカップル、職種不明といった感じの中年男性・・・人数は少ないけれど、どこの映画館より客層が広いのではないか。
1000円二本立て。予告編も携帯や盗撮への警告もなく、いきなり本編の始まる潔さ。そしてなにより、今日のこの映画をみるのに、これ以上ふさわしい映画館は京都にはない。
舞台は京都、時はようやく日本が戦争の荒廃から立ち直ろうとしていた昭和30年代半ば、私の思春期と重なる。老舗の映画館を宇崎竜童と宮沢りえが演じる松蔵・トヨ夫婦で経営しているところへ、加瀬亮演じる17歳の青年留吉が転がり込んでくるところから物語の本体が始まる。
松蔵が先立ち、テレビ時代の幕開けもあって、劇場の運営は危機に瀕するが、トヨを支える留吉の献身的な働きで「オリオン座」は映画館衰退の時代を生き延びる。
美しい未亡人と青年を見る町の人々の目は厳しい。そんな中で純愛を貫く二人を、加瀬亮と宮沢りえが見事に演じていて、これは泣かずにいられない。
宮沢りえは綺麗なだけでなく、ほんとうにいい女優になった。加瀬亮は本当にうまい。京都弁も実に自然で、違和感がなかった。
ひとことで内容を言うなら、作品中に繰り返し登場して意図的に重ね合わされている「無法松の一生」の抑制された献身的な純愛と、ジュゼッペ・トルトナーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」の映画〈館)への愛を合わせたような映画だと言えば腑に落ちるかもしれない。
もっとも、「ニュー・シネマ・パラダイス」には圧倒的なユーモアがあり、地方を出て知的上昇を遂げていく知識人の、ビルドゥングス・ロマンと裏腹な後ろめたさと郷愁のないまぜになったペーソスのようなものが基調にあったけれども、こちらはいかにも日本的な「世間」という人間関係の抑圧的でウェットな土壌に、日陰にひっそりと咲く花の可憐さに観客は涙するしかない、というところ、ずいぶん様相が異なるけれども。
先に「物語の本体がここで始まる」という言い方をしたのは、実は映画そのものは、オリオン座で遊ばせてもらった幼い二人の子供(田口トモロヲと樋口可南子)がいま離婚の瀬戸際にある夫婦で、この二人がオリオン座からの招待状を受け取るところから始まって、最後は招待客の前で、閉館にあたり最後に「無法松の一生」を上映する留吉と、その腕に抱かれて死んでいくトヨのシーンで終わる。
でも、私自身は、はたして老後の留吉(原田芳雄)とトヨ(中原ひとみ)を登場させ、また二人の子供(樋口可南子、田口トモロヲ)を登場させて、現在の時間で過去の物語を入れ子にする必要があったのかどうか、甚だ疑問に思う。
過去の時間をそのまま現在として、リアルタイムで描いていって、十分に感動的な物語になったのではないか。いや、そのほうがずっと純粋でテンションの高い作品になったのではないか、という思いが拭えない。
もちろん三枝監督にも制作スタッフたちにも、映画への熱い思い、映画館への熱い思いがあって、それをこそ描きたかったのだろうけれど、それにしても、せめて最後に原田芳雄が観客の前で長々とオリオン座閉館にいたる経緯や思いを語るシーンくらいは潔くカットしてほしかった。
あれはみなこの映画を観ている観客は分かっていることだし、あんなふうに「説明」されると、せっかくの涙が乾いてしまう。
蚊帳の中に蛍を放つシーンは、源氏物語以来、何度も日本の物語の中で繰り返されてきたシーンではあろうけれど、この映画の中でも最も美しいシーンの一つだった。できればあのへんでうまく終わってほしかった。
映画は監督だけでなく、たくさんの人が作るものだけれど、スタッフはみんな、この映画の「現在」の部分を蛇足だとは感じなかったのだろうか。
それと、不満を言えば、「無法松の一生」との重ね合わせは、気持ちは分かるけれど、みえすいていて、あざとい印象のほうが強い。「無法松の一生」の映像もタイトルも、一度だって出さなくても、この映画を観れば、必ず思い浮かべるはずだし、阪妻のあの映画を観ていない若い人にも、二人の「思い」は伝わるはずだ。
作り手も、少しは観客の想像力を信用しないと、せっかく感じていることをこれでもか、これでもか、とあざとく説明されると、ちょっとうんざりする。
あと、揚げ足取りに過ぎないけれど、京都に住んでいる者からすると、何度も出てくる河川敷を自転車で走ったりするシーンがあるけれど、堀川ならまだしも、どうして賀茂川が登場するのか、位置関係から腑に落ちない。
それと、原作がそうなっているのかどうか知らないけれど、なぜ京都で茄子を出すのに泉州の「水茄子」なのかも分からない。京都弁が自然だっただけに、監修者がいなかったのだろうか、と思った。
でも、いい映画を見せてもらったな、という気持ちで映画館を出ることができた。
もう一本の「しゃべれども しゃべれども」(平山秀幸監督作品)のほうも、なかなか面白かった。少し構成がゆるくて、冗長なところはあるけれども、まじめな映画づくりをしている。
会話が苦手でいつも無表情で口を開けば怒っているようにしかみえない、若い女性十河五月を演じた香里奈は、難しい役だったけれど、よくがんばっていて、なかなか良かった。子役の森永悠希は実に達者だったし、国分太一もほんとうに器用なタレントだなぁと感心させられた。松重豊も含めて、落語教室の三人の弟子の取り合わせが面白かった。
そして、この映画は脇役の八千草薫や伊藤四朗がしっかり脇を固めていて、少しゆるい映画をしっかり締めている。二人とも何十年も前から好きな役者だ。
はいって左手には古い大型の映写機が、場内へ入ると、ここは花道のある劇場なのだ。両サイドの桟敷だったところにも椅子が入っていて、館内はがら空きなのに、わざわざそこに坐っている客が何人もある。桟敷席の気分を味わいたいのだろう。
客層がいい。居眠りしているお爺さん、老夫婦、荷物をかかえたおばあさん、年輩の主婦らしい二人連れ、三十代くらいの女性一人客、若いカップル、職種不明といった感じの中年男性・・・人数は少ないけれど、どこの映画館より客層が広いのではないか。
1000円二本立て。予告編も携帯や盗撮への警告もなく、いきなり本編の始まる潔さ。そしてなにより、今日のこの映画をみるのに、これ以上ふさわしい映画館は京都にはない。
舞台は京都、時はようやく日本が戦争の荒廃から立ち直ろうとしていた昭和30年代半ば、私の思春期と重なる。老舗の映画館を宇崎竜童と宮沢りえが演じる松蔵・トヨ夫婦で経営しているところへ、加瀬亮演じる17歳の青年留吉が転がり込んでくるところから物語の本体が始まる。
松蔵が先立ち、テレビ時代の幕開けもあって、劇場の運営は危機に瀕するが、トヨを支える留吉の献身的な働きで「オリオン座」は映画館衰退の時代を生き延びる。
美しい未亡人と青年を見る町の人々の目は厳しい。そんな中で純愛を貫く二人を、加瀬亮と宮沢りえが見事に演じていて、これは泣かずにいられない。
宮沢りえは綺麗なだけでなく、ほんとうにいい女優になった。加瀬亮は本当にうまい。京都弁も実に自然で、違和感がなかった。
ひとことで内容を言うなら、作品中に繰り返し登場して意図的に重ね合わされている「無法松の一生」の抑制された献身的な純愛と、ジュゼッペ・トルトナーレの「ニュー・シネマ・パラダイス」の映画〈館)への愛を合わせたような映画だと言えば腑に落ちるかもしれない。
もっとも、「ニュー・シネマ・パラダイス」には圧倒的なユーモアがあり、地方を出て知的上昇を遂げていく知識人の、ビルドゥングス・ロマンと裏腹な後ろめたさと郷愁のないまぜになったペーソスのようなものが基調にあったけれども、こちらはいかにも日本的な「世間」という人間関係の抑圧的でウェットな土壌に、日陰にひっそりと咲く花の可憐さに観客は涙するしかない、というところ、ずいぶん様相が異なるけれども。
先に「物語の本体がここで始まる」という言い方をしたのは、実は映画そのものは、オリオン座で遊ばせてもらった幼い二人の子供(田口トモロヲと樋口可南子)がいま離婚の瀬戸際にある夫婦で、この二人がオリオン座からの招待状を受け取るところから始まって、最後は招待客の前で、閉館にあたり最後に「無法松の一生」を上映する留吉と、その腕に抱かれて死んでいくトヨのシーンで終わる。
でも、私自身は、はたして老後の留吉(原田芳雄)とトヨ(中原ひとみ)を登場させ、また二人の子供(樋口可南子、田口トモロヲ)を登場させて、現在の時間で過去の物語を入れ子にする必要があったのかどうか、甚だ疑問に思う。
過去の時間をそのまま現在として、リアルタイムで描いていって、十分に感動的な物語になったのではないか。いや、そのほうがずっと純粋でテンションの高い作品になったのではないか、という思いが拭えない。
もちろん三枝監督にも制作スタッフたちにも、映画への熱い思い、映画館への熱い思いがあって、それをこそ描きたかったのだろうけれど、それにしても、せめて最後に原田芳雄が観客の前で長々とオリオン座閉館にいたる経緯や思いを語るシーンくらいは潔くカットしてほしかった。
あれはみなこの映画を観ている観客は分かっていることだし、あんなふうに「説明」されると、せっかくの涙が乾いてしまう。
蚊帳の中に蛍を放つシーンは、源氏物語以来、何度も日本の物語の中で繰り返されてきたシーンではあろうけれど、この映画の中でも最も美しいシーンの一つだった。できればあのへんでうまく終わってほしかった。
映画は監督だけでなく、たくさんの人が作るものだけれど、スタッフはみんな、この映画の「現在」の部分を蛇足だとは感じなかったのだろうか。
それと、不満を言えば、「無法松の一生」との重ね合わせは、気持ちは分かるけれど、みえすいていて、あざとい印象のほうが強い。「無法松の一生」の映像もタイトルも、一度だって出さなくても、この映画を観れば、必ず思い浮かべるはずだし、阪妻のあの映画を観ていない若い人にも、二人の「思い」は伝わるはずだ。
作り手も、少しは観客の想像力を信用しないと、せっかく感じていることをこれでもか、これでもか、とあざとく説明されると、ちょっとうんざりする。
あと、揚げ足取りに過ぎないけれど、京都に住んでいる者からすると、何度も出てくる河川敷を自転車で走ったりするシーンがあるけれど、堀川ならまだしも、どうして賀茂川が登場するのか、位置関係から腑に落ちない。
それと、原作がそうなっているのかどうか知らないけれど、なぜ京都で茄子を出すのに泉州の「水茄子」なのかも分からない。京都弁が自然だっただけに、監修者がいなかったのだろうか、と思った。
でも、いい映画を見せてもらったな、という気持ちで映画館を出ることができた。
もう一本の「しゃべれども しゃべれども」(平山秀幸監督作品)のほうも、なかなか面白かった。少し構成がゆるくて、冗長なところはあるけれども、まじめな映画づくりをしている。
会話が苦手でいつも無表情で口を開けば怒っているようにしかみえない、若い女性十河五月を演じた香里奈は、難しい役だったけれど、よくがんばっていて、なかなか良かった。子役の森永悠希は実に達者だったし、国分太一もほんとうに器用なタレントだなぁと感心させられた。松重豊も含めて、落語教室の三人の弟子の取り合わせが面白かった。
そして、この映画は脇役の八千草薫や伊藤四朗がしっかり脇を固めていて、少しゆるい映画をしっかり締めている。二人とも何十年も前から好きな役者だ。
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2008年03月14日
「バンテージ・ポイント」(ピート・トラヴィス)
最初から最後まで目が離せない展開で、エンターテインメントとしてはサイコーといった感じの映画だった。
監督はテレビ界出身の人だそうだが、なるほど、すぐれたテレビドラマのノリで、この映画を見て何か考えるとか、もう一度見たいとか、そうなる気遣いはない。
ただただ見ているその一瞬その一瞬のスリルの連続を楽しんで、終わればすっきりした気分で映画館を出られること請け合い。
でも日本ではこういう映画は作れないだろうなぁ、と思わずにはいられない。第一に俳優がいい。デニス・クエイドは渋いけれどいい役者だし、フォレスト・ウィッテカーもウィリアム・ハートも演劇経由の本当にうまい演技派の役者。シガニー・ウィーヴァーも大好きな女優だ。
テイラー役、ハビエル役の俳優もいい面構えだし、スアレス役もベロニカ役もそれぞれはまり役。
こういう渋い主役から超演技派の脇役をずらっとそろえてこんなエンターテインメントだけに徹した映画がとれるのはやっぱりハリウッドならではか。
カーチェイスも結構迫力があった。
好悪の印象が分かれるのは複数の目撃者の視点を生かして、同じシーンを繰り返しテープを巻き戻すように見せる手法だろう。タイトルのVantage Pointもそこから来ていて、この映画の面白さがそこにあることも確かだけれど、そして「メメント」のような映画なら許せるけれど、エンターテインメント映画としては、少し「方法」が意識されすぎて、くどい、しつこい、もっと素直に楽しませてくれよ、と感じる人もあるだろう。私自身は面白くて楽しめたけれど。
監督はテレビ界出身の人だそうだが、なるほど、すぐれたテレビドラマのノリで、この映画を見て何か考えるとか、もう一度見たいとか、そうなる気遣いはない。
ただただ見ているその一瞬その一瞬のスリルの連続を楽しんで、終わればすっきりした気分で映画館を出られること請け合い。
でも日本ではこういう映画は作れないだろうなぁ、と思わずにはいられない。第一に俳優がいい。デニス・クエイドは渋いけれどいい役者だし、フォレスト・ウィッテカーもウィリアム・ハートも演劇経由の本当にうまい演技派の役者。シガニー・ウィーヴァーも大好きな女優だ。
テイラー役、ハビエル役の俳優もいい面構えだし、スアレス役もベロニカ役もそれぞれはまり役。
こういう渋い主役から超演技派の脇役をずらっとそろえてこんなエンターテインメントだけに徹した映画がとれるのはやっぱりハリウッドならではか。
カーチェイスも結構迫力があった。
好悪の印象が分かれるのは複数の目撃者の視点を生かして、同じシーンを繰り返しテープを巻き戻すように見せる手法だろう。タイトルのVantage Pointもそこから来ていて、この映画の面白さがそこにあることも確かだけれど、そして「メメント」のような映画なら許せるけれど、エンターテインメント映画としては、少し「方法」が意識されすぎて、くどい、しつこい、もっと素直に楽しませてくれよ、と感じる人もあるだろう。私自身は面白くて楽しめたけれど。
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