2008年02月
2008年02月29日
「エクサバイト」(服部真澄)
タイトルに引かれて読んだ。
ギガバイトは日常語になり、テラバイトくらいまでは新聞にも出てくるようになったから知っているけれど、エクサバイトだのヨタバイトになるとそれ何?ということになる。ふつうの数でも億、兆、京くらいまでは知っていても、垓だの穣だの、「不可思議」だの「無量大数」になると、ナンダ?そりゃ、となるのと同じ。面白がって調べでもしないと覚えちゃ居ない。
でも、この小説で描かれているのは、日常的に利用される記録媒体の容量が、エクサバイトだのヨタバイトだの、世界中の個人が生涯に目にする光景をすべて動画に収めて記録しても、まだまだ十分おつりがくるような、そんな技術が実現した世界の話だ。
SF的想像の世界だけれど、ムーアの法則のような、過去の集積回路の指数関数的な性能アップをイメージすれば、そんな世界がここに描かれた数十年後でないとしても、控えめにみても百年後には分からんよね、という感じだ。
そして、ここで描かれているのは、本当にありそうな怖い話。もちろんこれは技術トレンドを野放図に延長して描かれる、楽天的な未来図の陽画と裏腹な、極端な監視=管理社会の陰画で、発想のフレームとしてはよくあるパターンだ。
しかし、この小説の面白いところは、そういう監視=管理社会の恐怖とか、陰湿さとかいうものよりも、ごくふつうの人間が日常的に見るものをすべて記録していくとき、どういうことが起きてくるのか、そのいわば未来的に誇張されたシミュレーションを、細部を丹念に描いて、かなり徹底的にやってみせてくれているところにあるように思う。
だから、この作品にエンターテインメントとしてのドラマ性を与えるはずだったグラフィコムとエクサバイト商会の対立だとか、ナカジとクニコとの母子のからみだとか、そういうものが入り組んだ関わりをもって、虚と実の間を二転三転して、それなりに白熱してくる後半よりも、私にとっては前半の、このようなヴィジブル・ユニットをつけることが当たり前になった社会の具体的な人間の行動や、ものの感じ方、考え方を描いた部分のほうが面白かった。
ヴィジブル・ユニットというこの作品を支える核である小道具を抜きにしても、最初のほうで語られるナカジの出世物語の、なぜ彼がこれだけの豊富で貴重な人脈を持って成功してきたか、という二川伸太朗への打ち明け話なども実に面白い。特別な秘密があるわけではなく、ただ若いときから名刺を手始めに出会う人たちの個人情報を意識的に集め蓄積してきたというところが、とても面白い。
この作者の語る細部には、そういう、私たちが普通に生活をしていて無意識にやっていたりすることを意識的に拡張したときに、まったく質的に新鮮な光景が見えてくる瞬間をうまく捕まえているようなところがある。
そういうところでは、なるほどな、と感心し、腑に落ちる。よく知っていることなのに新鮮に感じられるようなアイディアが沢山あって、それがこのSF的な未来社会とそこに生きる人間にリアリティを与えている。
ナカジという人間をフォローしていく作者の語りも、シチュエーションの二転三転に振り回される後半よりも、前半のほうがのびのびして、生きた人間臭さがあって、私には面白かった。
後半は作者が仕掛けた人為的なドラマのからくりと種明かしに力点がうつって、身体をもった一人の人物の日々の行為や言葉と他者や出来事との出会いが自然に展いていく古典的な意味での物語本来の面白さが、やや削がれる気がする。再生医学まで動員して、少し欲張りすぎたのではないか。
でも推理小説やサスペンスの好きな人は後半の仕組まれたドラマにこの作家の力と作品の面白さを見るのかもしれない。
自分の生涯に出会った光景はすべてこの小さなユニットの中に収められている・・・そうなったときに私は何を感じるだろうか。これを残したいと思うのか、消去したいと思うのか、たったこれだけと思うのか、もう十分だと思うのか、なんと無駄ばかり多い人生よと嘆くのか、あるいは死してなお「永遠の命」を得るために情報を改竄したいと思うのか・・・
ただ平凡な人生の見た光景を収めただけの映像が、「情報」として別のコンテクストに置かれたときに発生する全く別の価値、といったことに思いを馳せる・・・このエンターテインメント小説は、そんな私たちの情報社会をめぐる勝手な読みの拡張を促す、刺激的な要素を沢山含んでいる。
ギガバイトは日常語になり、テラバイトくらいまでは新聞にも出てくるようになったから知っているけれど、エクサバイトだのヨタバイトになるとそれ何?ということになる。ふつうの数でも億、兆、京くらいまでは知っていても、垓だの穣だの、「不可思議」だの「無量大数」になると、ナンダ?そりゃ、となるのと同じ。面白がって調べでもしないと覚えちゃ居ない。
でも、この小説で描かれているのは、日常的に利用される記録媒体の容量が、エクサバイトだのヨタバイトだの、世界中の個人が生涯に目にする光景をすべて動画に収めて記録しても、まだまだ十分おつりがくるような、そんな技術が実現した世界の話だ。
SF的想像の世界だけれど、ムーアの法則のような、過去の集積回路の指数関数的な性能アップをイメージすれば、そんな世界がここに描かれた数十年後でないとしても、控えめにみても百年後には分からんよね、という感じだ。
そして、ここで描かれているのは、本当にありそうな怖い話。もちろんこれは技術トレンドを野放図に延長して描かれる、楽天的な未来図の陽画と裏腹な、極端な監視=管理社会の陰画で、発想のフレームとしてはよくあるパターンだ。
しかし、この小説の面白いところは、そういう監視=管理社会の恐怖とか、陰湿さとかいうものよりも、ごくふつうの人間が日常的に見るものをすべて記録していくとき、どういうことが起きてくるのか、そのいわば未来的に誇張されたシミュレーションを、細部を丹念に描いて、かなり徹底的にやってみせてくれているところにあるように思う。
だから、この作品にエンターテインメントとしてのドラマ性を与えるはずだったグラフィコムとエクサバイト商会の対立だとか、ナカジとクニコとの母子のからみだとか、そういうものが入り組んだ関わりをもって、虚と実の間を二転三転して、それなりに白熱してくる後半よりも、私にとっては前半の、このようなヴィジブル・ユニットをつけることが当たり前になった社会の具体的な人間の行動や、ものの感じ方、考え方を描いた部分のほうが面白かった。
ヴィジブル・ユニットというこの作品を支える核である小道具を抜きにしても、最初のほうで語られるナカジの出世物語の、なぜ彼がこれだけの豊富で貴重な人脈を持って成功してきたか、という二川伸太朗への打ち明け話なども実に面白い。特別な秘密があるわけではなく、ただ若いときから名刺を手始めに出会う人たちの個人情報を意識的に集め蓄積してきたというところが、とても面白い。
この作者の語る細部には、そういう、私たちが普通に生活をしていて無意識にやっていたりすることを意識的に拡張したときに、まったく質的に新鮮な光景が見えてくる瞬間をうまく捕まえているようなところがある。
そういうところでは、なるほどな、と感心し、腑に落ちる。よく知っていることなのに新鮮に感じられるようなアイディアが沢山あって、それがこのSF的な未来社会とそこに生きる人間にリアリティを与えている。
ナカジという人間をフォローしていく作者の語りも、シチュエーションの二転三転に振り回される後半よりも、前半のほうがのびのびして、生きた人間臭さがあって、私には面白かった。
後半は作者が仕掛けた人為的なドラマのからくりと種明かしに力点がうつって、身体をもった一人の人物の日々の行為や言葉と他者や出来事との出会いが自然に展いていく古典的な意味での物語本来の面白さが、やや削がれる気がする。再生医学まで動員して、少し欲張りすぎたのではないか。
でも推理小説やサスペンスの好きな人は後半の仕組まれたドラマにこの作家の力と作品の面白さを見るのかもしれない。
自分の生涯に出会った光景はすべてこの小さなユニットの中に収められている・・・そうなったときに私は何を感じるだろうか。これを残したいと思うのか、消去したいと思うのか、たったこれだけと思うのか、もう十分だと思うのか、なんと無駄ばかり多い人生よと嘆くのか、あるいは死してなお「永遠の命」を得るために情報を改竄したいと思うのか・・・
ただ平凡な人生の見た光景を収めただけの映像が、「情報」として別のコンテクストに置かれたときに発生する全く別の価値、といったことに思いを馳せる・・・このエンターテインメント小説は、そんな私たちの情報社会をめぐる勝手な読みの拡張を促す、刺激的な要素を沢山含んでいる。
at 00:28|Permalink│
2008年02月24日
「科学する楽しさ」(米沢富美子)
前に書いたのと同じ理由で、この本もわが学科の推薦リストに入っているので、はじめからしまいまで初めて読んでみました。
高校生のころ理論物理学にあこがれたこともあったので(非才にして怠け者だったので、まるでお話になりませんでしたが・・)、すぐれた女性の物理学者である著者には畏敬の念をもって読み始めましたが、これは堅苦しい科学の本ではなくて、むしろ頭のいい、元気の良いおばちゃんの、場外エンターテインメント的な短編エッセイを集めた本で、文句無く楽しめます。
1996年と少し以前の本だから、内容的にやや古いトピックスもあるけれど、生活人としては愛すべき欠点だらけの一流の女性物理学者の日常的なちょっとしたものの考え方、身の処し方に面白みがあって飽きません。
もう一つはやはり彼女の物理学への愛情、好きで好きでたまらない、という子供のような無垢の愛情が素直に伝わってきて、きっとどんな分野でもこれから困難があっても、好きなことをやっていこう、と考えている若い人には夢と勇気を与えてくれる本だと思います。
怠け者の私がこの本に教えてもらったことの中で一番印象に残ったのは、メキシコだかブラジルだかの格言で「明日にしてもよいことを今日すませてしまってはならない」というのがある、ということでした。いつもうちの学科長が仰言っていることですが(笑)。
高校生のころ理論物理学にあこがれたこともあったので(非才にして怠け者だったので、まるでお話になりませんでしたが・・)、すぐれた女性の物理学者である著者には畏敬の念をもって読み始めましたが、これは堅苦しい科学の本ではなくて、むしろ頭のいい、元気の良いおばちゃんの、場外エンターテインメント的な短編エッセイを集めた本で、文句無く楽しめます。
1996年と少し以前の本だから、内容的にやや古いトピックスもあるけれど、生活人としては愛すべき欠点だらけの一流の女性物理学者の日常的なちょっとしたものの考え方、身の処し方に面白みがあって飽きません。
もう一つはやはり彼女の物理学への愛情、好きで好きでたまらない、という子供のような無垢の愛情が素直に伝わってきて、きっとどんな分野でもこれから困難があっても、好きなことをやっていこう、と考えている若い人には夢と勇気を与えてくれる本だと思います。
怠け者の私がこの本に教えてもらったことの中で一番印象に残ったのは、メキシコだかブラジルだかの格言で「明日にしてもよいことを今日すませてしまってはならない」というのがある、ということでした。いつもうちの学科長が仰言っていることですが(笑)。
at 01:35|Permalink│
「もの食う人びと」(辺見庸)
わが学科では入試で合格した人に、入学までに視野を広げるために読んでおくといいですよ、と色んな分野の何冊かの本を推薦しています。
たまたま今年度の入試委員をおおせつかっていたので、たぶんもともとは学科長がほかの先生の推薦も参考にして選ばれたのであろうリストを、私の名で合格者に送ることになり、問合せ先も私になっているので、たまに質問が来たりします。
自分自身が最近読んでピックアップした書名リストではないので、いちおう全部購入してざっとどんな本だったか目は通したけれど、正直言うと、中にはちゃんと読んでない本や、ずっと以前に読んですっかり中身を忘れてしまった本もあるので、ようやく時間的なゆとりができたいま、あらためて一冊ずつ最初のページから最後のページまで読んでみようと思って、車中読書に珍しく小説以外のこの種の本を読んでみた次第。
これは1994年に単行本で出版された本で、いまでは文庫本になって、高校生にも手に入りやすい本です。
そして、内容的にも少しも古びていません。あぁ、うちは生活文化系(家政系)がはいった学科だから、食を扱った本が入れてあるのね、という程度の気持ちで読むと、とんだ見当違いになりそうです。
「食」は人間、いや動物にとって最も基本的な営みであるために、人間の世界にあっても、生きるか死ぬかに直接関わっています。だから、戦争・貧困・病・無知という人類が未だに克服できない「苦」と結びつくとき、たちまち「食」の風景は凄惨な色を帯びることになります。
著者の各章のタイトルのかなりの部分がお洒落なので、目次を見ただけではその凄惨な色が見えないかもしれないけれど、「ミンダナオ島の食の悲劇」ではわれわれの父親たちの世代の日本人の食人という衝撃的な事実に向き合わされ、「モガディシオ炎熱日誌」ではソマリアの戦火の下、飢餓で死んでいく14歳の無垢の少女とパーティ食のような食事を楽しむ国連軍の兵士たちの姿の目も眩むような落差を突きつけられ、「麗しのコーヒー・ロード」では下唇に大きな皿をはめたスーリ族の女性の異形と強烈な差別に向き合わされ、「バナナ畑に星が降る」では猛威をふるうエイズとその蔓延に拍車をかける無知の光景を目の当たりにすることになります。
それらの光景はどれも身を裂き、骨を砕き、最後の血の一滴もひからびるほど凄惨きわまりないものだけれど、すべて白日のもとで、あまりにも明瞭鮮烈な筆で描かれているために、霧や霞のように曖昧なもの、じめじめしたものが一切無く、灼熱の砂漠におびただしい白骨がころがっているのを当たり前の日常風景として見るような、むしろ非現実的(シュール)な光景のように思えてきます。
「食」といえばグルメだのお作法だの各地の食文化の違いだの、暢気な話をしているところへ、食品メーカーのお粗末な安全管理や中国製の毒入り食品の話が出てきて、「食」が生死に関わる問題だということをいまさらのように思い出している私たちに、この何年も昔に書かれた本は、まだまだ甘いよと、次々に衝撃的な事実をつきつけ、生死の境からあらためて「食」を捉えなおせと促すかのようです。
受験生ばかりではなく、在学生でも未読の人にはぜひ読んでほしい一冊。
たまたま今年度の入試委員をおおせつかっていたので、たぶんもともとは学科長がほかの先生の推薦も参考にして選ばれたのであろうリストを、私の名で合格者に送ることになり、問合せ先も私になっているので、たまに質問が来たりします。
自分自身が最近読んでピックアップした書名リストではないので、いちおう全部購入してざっとどんな本だったか目は通したけれど、正直言うと、中にはちゃんと読んでない本や、ずっと以前に読んですっかり中身を忘れてしまった本もあるので、ようやく時間的なゆとりができたいま、あらためて一冊ずつ最初のページから最後のページまで読んでみようと思って、車中読書に珍しく小説以外のこの種の本を読んでみた次第。
これは1994年に単行本で出版された本で、いまでは文庫本になって、高校生にも手に入りやすい本です。
そして、内容的にも少しも古びていません。あぁ、うちは生活文化系(家政系)がはいった学科だから、食を扱った本が入れてあるのね、という程度の気持ちで読むと、とんだ見当違いになりそうです。
「食」は人間、いや動物にとって最も基本的な営みであるために、人間の世界にあっても、生きるか死ぬかに直接関わっています。だから、戦争・貧困・病・無知という人類が未だに克服できない「苦」と結びつくとき、たちまち「食」の風景は凄惨な色を帯びることになります。
著者の各章のタイトルのかなりの部分がお洒落なので、目次を見ただけではその凄惨な色が見えないかもしれないけれど、「ミンダナオ島の食の悲劇」ではわれわれの父親たちの世代の日本人の食人という衝撃的な事実に向き合わされ、「モガディシオ炎熱日誌」ではソマリアの戦火の下、飢餓で死んでいく14歳の無垢の少女とパーティ食のような食事を楽しむ国連軍の兵士たちの姿の目も眩むような落差を突きつけられ、「麗しのコーヒー・ロード」では下唇に大きな皿をはめたスーリ族の女性の異形と強烈な差別に向き合わされ、「バナナ畑に星が降る」では猛威をふるうエイズとその蔓延に拍車をかける無知の光景を目の当たりにすることになります。
それらの光景はどれも身を裂き、骨を砕き、最後の血の一滴もひからびるほど凄惨きわまりないものだけれど、すべて白日のもとで、あまりにも明瞭鮮烈な筆で描かれているために、霧や霞のように曖昧なもの、じめじめしたものが一切無く、灼熱の砂漠におびただしい白骨がころがっているのを当たり前の日常風景として見るような、むしろ非現実的(シュール)な光景のように思えてきます。
「食」といえばグルメだのお作法だの各地の食文化の違いだの、暢気な話をしているところへ、食品メーカーのお粗末な安全管理や中国製の毒入り食品の話が出てきて、「食」が生死に関わる問題だということをいまさらのように思い出している私たちに、この何年も昔に書かれた本は、まだまだ甘いよと、次々に衝撃的な事実をつきつけ、生死の境からあらためて「食」を捉えなおせと促すかのようです。
受験生ばかりではなく、在学生でも未読の人にはぜひ読んでほしい一冊。
at 00:43|Permalink│
2008年02月21日
「にっぽんの知恵」(高田公理)
日本の生活文化の中に生きている伝統的な知恵を、博識の文化人の共同討議で掘り起こす、という旧世代の「共同討議 日本人の知恵」(1962年に単行本として出版)の流れを汲み、各界の専門家を原則2人ずつ招いて著者を含む3人の鼎談によって、現在の視点であらたに「日本人」にとどまらず「日本の自然環境に秘められた『知恵』にまで言及」しようという趣旨で「にっぽんの知恵」に光をあてようという試み。
朝日新聞に連載中から大体は読んでいたけれど、今回、討議を踏まえて、著者一人によってあらたに書き起こされ、新書となった一冊を通して読むと、とても読みやすくて知的好奇心を満たす面白い読み物になり、楽しんで読めただけでなく、色々啓蒙されることも多かった。
著者の驚くべき広範な人脈によって鼎談に招かれた人たちがそれぞれはまり役で、次々に面白い材料を提供してくれているし、それをさばいて分かり易く伝えてくれる地頭のよい柔軟な著者がまた他には考えられないほどの適役。
旧世代の「日本人の知恵」や著者自身も参加した「新・世相探検」などが扱った日本人の生活文化を、現在の科学の目で捉えなおして興味深い「うまみ」の話(だし)や、菊人形はなぜ菊なのか、花の性質や市場性から解き明かしてくれる話が私には興味深かった。
昔「物理学の散歩道」という、生活の中の現象を物理の専門家が物理学の視点で解き明かしてくれる楽しい本があったけれど、それに似た文化学の散歩道のような楽しさが溢れる。
しかし、著者はのどかに散歩しているかにみえて、その融通無碍な語りのうちに、或る種の思想的な立場の太い糸を一本通している。
冒頭の、動揺するベトナム反戦兵士のエピソードから、新しい歴史学の知見を得て「武器は持っても発動しない」民衆の話へ、さらに憲法九条の議論へとつながる話、その基調がずっと伏流水のようにこの本を流れていて、最後に、著者が「窮屈な方向へと変化しつつあるように見える」という現代日本の風潮に「ええかげん」(ちょうど好い加減)の立場から鋭い批判が投げかけられる。
その思想的な立場は、理念的な言葉で取り出せば、戦後流行した進歩的文化人のそれと変わらないだろう。
しかし、著者の独特なところは、それが「ええかげん」(ちょうど好い加減)という言葉で自分の依拠する思想を語るような、関西人の(あるいは京都人の)さらに言えば彼個人の体質や生理と骨がらみである点だろう。
ここでは、思想とそれを語る言葉が、日々の振る舞い方や、つねひごろ口にする言葉と不可分離に結びついている。
わが国の思想の言葉の多くは、近代になって欧米から輸入された言葉=概念を無理やり漢語に置き換えて間に合わせたものにすぎないので、やたら小難しく、言葉を見てもその日常の姿が彷彿としない。
しかし、本来思想の言葉というのは、誰もが使う日常語を掘り下げて厳密に定義していくことで成立するものだろう。
根っこのある思想は、いつもそれが生まれた土地やそれを生んだ人々の体質や生理の痕跡を残しているものだし、言葉の根っこをたどれば、いつでも日常の振る舞いや言葉の具体的な姿が浮かんでくるはずなのだ。
「心の中で迷うより、体が喜びそうな道を選びなさい」という思想、「竹を割ったような男というのはナンギやなぁ」という思想、「ブリコラージュ」を「ありあわせ」と読み替えて評価し、単一原理のひよわさを喝破する思想、一神教的な単一原理を解きほぐす「八百万の神々」を評価する思想、そして「虚実の間(あわい)」、「ええかげん」(ちょうど好い加減)の効用を説く思想・・・・
そこには実にみごとに著者(=京都人、関西人)の体質に根ざした、柔軟なしたたかさが一貫している。
この柔軟さは、「中央」とか「お上」という区分や階層性を相対化してしまう。「専門性」という学問の狭い垣根を取っ払い、専門化し抽象化していく言葉を「裸の王様」だと喝破する。「体が喜びそうな」個の快楽原理に身を委ねても「共同性」に投身することはなく、権威に木で鼻をくくるような態度をみせても、一人一人ののありようは百人百様「これもよし、あれもよし」と認めてしまう。
それがいまの「「窮屈な方向へと変化しつつあるように見える」風潮への有効な批判の視点になっている。
一貫性と言っても、東京のセンセイたちのように、表現・表徴が形式的な一貫性を保つというのではない。「アイデンティティ」を問えば、著者は「そんなもんあらへん」と、問う者の硬直性を嘲笑しつつ、そのつど異なる百面相を見せるだろう。
弁慶のふりまわす薙刀からヒラリヒラリと身をかわす、その軽やかな身ごなしそのものが「一貫した」著者の思想にほかならない。
先日、京都、大阪、神戸という関西の三大都市の総合的な調整部局と文化政策の担当部局の人がパネリストとして参加した或る会合に出席した。
聴衆も含めてそこに参加した人たちの共通のベースになっているらしい、「創造都市」という(リチャード・フロリダや佐々木雅幸の唱導する)言葉が流行語のように頻出する中で、まちづくりの核となり、先導役となるらしい文化という言葉が、どうやらたいていの場合、狭義のアート(芸術)をイメージして使われているらしいことに、とても違和感を覚えた。
私自身もある種のアートは好きだし、個人的な楽しみとして観たり聴いたりするけれども、関西のまちづくりの中で文化を考えるときに、近代ヨーロッパがもたらした芸術至上主義的に理念的に純化されたアートや、その目で歴史の中の日本の伝統文化をアートとして拾い上げたものをイメージするのは、近代ヨーロッパの、あるいはその輸入窓口である東京の狭い目で関西の文化の表層を掬い取るだけのことに思えてならない。
関西の文化の強みは、分厚い生活文化の伝統がいまも生きていることにしかないと思う。木が育ち葉が生い茂って花が咲いているとは言わないが、種床というのだろうか、コンクリートで固めてしまわない限り、表土のうちになお種は死なずに生きている、くらいは言ってもいいだろう。
生活文化というとすぐ文化論でのお茶、お花、というけれど、そうではなくて、文化人類学でいう文化、物質文化的なもの、私たちの生活の中に、ものの考え方として、振舞い方(作法)やものの形(デザイン)やスタイル(様式)として、意識しようとすまいと、生きているものを指す。
まさにこの小冊子の中でとりあげられているのは、そういう生活文化の一部だと思う。
これを大切にして今に生かしたり、受け継いだりしていくほかに、関西の文化的優位性などあろうはずがない、と思う。
このように、とりあげたコンテンツの面からも、また思想的なスタンスや、多様な知恵の引き出し方のスタイルからみても、この本は実に「関西的」であり、「著者的」であると思う。
沢山の異分野の専門家の協力を得て書き起こされた小冊子の体裁をとっているけれど、或る意味で著者のこれまで三十数年の知的活動の集大成のような性格を持っていると言えるのではないか。
朝日新聞に連載中から大体は読んでいたけれど、今回、討議を踏まえて、著者一人によってあらたに書き起こされ、新書となった一冊を通して読むと、とても読みやすくて知的好奇心を満たす面白い読み物になり、楽しんで読めただけでなく、色々啓蒙されることも多かった。
著者の驚くべき広範な人脈によって鼎談に招かれた人たちがそれぞれはまり役で、次々に面白い材料を提供してくれているし、それをさばいて分かり易く伝えてくれる地頭のよい柔軟な著者がまた他には考えられないほどの適役。
旧世代の「日本人の知恵」や著者自身も参加した「新・世相探検」などが扱った日本人の生活文化を、現在の科学の目で捉えなおして興味深い「うまみ」の話(だし)や、菊人形はなぜ菊なのか、花の性質や市場性から解き明かしてくれる話が私には興味深かった。
昔「物理学の散歩道」という、生活の中の現象を物理の専門家が物理学の視点で解き明かしてくれる楽しい本があったけれど、それに似た文化学の散歩道のような楽しさが溢れる。
しかし、著者はのどかに散歩しているかにみえて、その融通無碍な語りのうちに、或る種の思想的な立場の太い糸を一本通している。
冒頭の、動揺するベトナム反戦兵士のエピソードから、新しい歴史学の知見を得て「武器は持っても発動しない」民衆の話へ、さらに憲法九条の議論へとつながる話、その基調がずっと伏流水のようにこの本を流れていて、最後に、著者が「窮屈な方向へと変化しつつあるように見える」という現代日本の風潮に「ええかげん」(ちょうど好い加減)の立場から鋭い批判が投げかけられる。
その思想的な立場は、理念的な言葉で取り出せば、戦後流行した進歩的文化人のそれと変わらないだろう。
しかし、著者の独特なところは、それが「ええかげん」(ちょうど好い加減)という言葉で自分の依拠する思想を語るような、関西人の(あるいは京都人の)さらに言えば彼個人の体質や生理と骨がらみである点だろう。
ここでは、思想とそれを語る言葉が、日々の振る舞い方や、つねひごろ口にする言葉と不可分離に結びついている。
わが国の思想の言葉の多くは、近代になって欧米から輸入された言葉=概念を無理やり漢語に置き換えて間に合わせたものにすぎないので、やたら小難しく、言葉を見てもその日常の姿が彷彿としない。
しかし、本来思想の言葉というのは、誰もが使う日常語を掘り下げて厳密に定義していくことで成立するものだろう。
根っこのある思想は、いつもそれが生まれた土地やそれを生んだ人々の体質や生理の痕跡を残しているものだし、言葉の根っこをたどれば、いつでも日常の振る舞いや言葉の具体的な姿が浮かんでくるはずなのだ。
「心の中で迷うより、体が喜びそうな道を選びなさい」という思想、「竹を割ったような男というのはナンギやなぁ」という思想、「ブリコラージュ」を「ありあわせ」と読み替えて評価し、単一原理のひよわさを喝破する思想、一神教的な単一原理を解きほぐす「八百万の神々」を評価する思想、そして「虚実の間(あわい)」、「ええかげん」(ちょうど好い加減)の効用を説く思想・・・・
そこには実にみごとに著者(=京都人、関西人)の体質に根ざした、柔軟なしたたかさが一貫している。
この柔軟さは、「中央」とか「お上」という区分や階層性を相対化してしまう。「専門性」という学問の狭い垣根を取っ払い、専門化し抽象化していく言葉を「裸の王様」だと喝破する。「体が喜びそうな」個の快楽原理に身を委ねても「共同性」に投身することはなく、権威に木で鼻をくくるような態度をみせても、一人一人ののありようは百人百様「これもよし、あれもよし」と認めてしまう。
それがいまの「「窮屈な方向へと変化しつつあるように見える」風潮への有効な批判の視点になっている。
一貫性と言っても、東京のセンセイたちのように、表現・表徴が形式的な一貫性を保つというのではない。「アイデンティティ」を問えば、著者は「そんなもんあらへん」と、問う者の硬直性を嘲笑しつつ、そのつど異なる百面相を見せるだろう。
弁慶のふりまわす薙刀からヒラリヒラリと身をかわす、その軽やかな身ごなしそのものが「一貫した」著者の思想にほかならない。
先日、京都、大阪、神戸という関西の三大都市の総合的な調整部局と文化政策の担当部局の人がパネリストとして参加した或る会合に出席した。
聴衆も含めてそこに参加した人たちの共通のベースになっているらしい、「創造都市」という(リチャード・フロリダや佐々木雅幸の唱導する)言葉が流行語のように頻出する中で、まちづくりの核となり、先導役となるらしい文化という言葉が、どうやらたいていの場合、狭義のアート(芸術)をイメージして使われているらしいことに、とても違和感を覚えた。
私自身もある種のアートは好きだし、個人的な楽しみとして観たり聴いたりするけれども、関西のまちづくりの中で文化を考えるときに、近代ヨーロッパがもたらした芸術至上主義的に理念的に純化されたアートや、その目で歴史の中の日本の伝統文化をアートとして拾い上げたものをイメージするのは、近代ヨーロッパの、あるいはその輸入窓口である東京の狭い目で関西の文化の表層を掬い取るだけのことに思えてならない。
関西の文化の強みは、分厚い生活文化の伝統がいまも生きていることにしかないと思う。木が育ち葉が生い茂って花が咲いているとは言わないが、種床というのだろうか、コンクリートで固めてしまわない限り、表土のうちになお種は死なずに生きている、くらいは言ってもいいだろう。
生活文化というとすぐ文化論でのお茶、お花、というけれど、そうではなくて、文化人類学でいう文化、物質文化的なもの、私たちの生活の中に、ものの考え方として、振舞い方(作法)やものの形(デザイン)やスタイル(様式)として、意識しようとすまいと、生きているものを指す。
まさにこの小冊子の中でとりあげられているのは、そういう生活文化の一部だと思う。
これを大切にして今に生かしたり、受け継いだりしていくほかに、関西の文化的優位性などあろうはずがない、と思う。
このように、とりあげたコンテンツの面からも、また思想的なスタンスや、多様な知恵の引き出し方のスタイルからみても、この本は実に「関西的」であり、「著者的」であると思う。
沢山の異分野の専門家の協力を得て書き起こされた小冊子の体裁をとっているけれど、或る意味で著者のこれまで三十数年の知的活動の集大成のような性格を持っていると言えるのではないか。
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2008年02月19日
「阪急電車」(有川浩)
もう30年以上にもなるだろうか、たしか「海」という文芸雑誌の、海外の文芸動向など紹介するコラムのようなところだったと思うけれど、イギリスで、ロンドンの地下鉄の駅を一つ一つたどる形で章を立て、それぞれに物語を紡いでつないでいく小説が出て、それがなかなかお洒落で面白い、というふうな紹介記事を読んだことがあった。
そのとき、まだ「文学少年」の名残をひきずっていたので、なるほどな、面白い着想だな、と思い、京都でそのアイディアを借りたら、京阪かな、阪急かな、それとも京福電鉄あたりがいいのかな、などと、ひとしきり空想したことを記憶している。
今度『阪急電車』というそのものズバリの書名の小説が本屋に平積みになっているのを見て、あ、やっぱり出てきたな、と思ったけれど(もちろん作者は独自に着想したものだろうが)、むしろ今までこうした着想で書かれた小説で広く読まれたものが(私の記憶する狭い範囲にしても)無かったのが不思議に思われた。
この著者の作品は私は始めて読んだけれど、この本に関しては楽しく読めた。いわゆる中間小説的な軽みのある読みやすい文章で、それこそだれもが電車の中であるいは駅で遭遇しそうな小さな出来事とそこに偶々居合わせた人物たちをつないで物語を紡いでいく。
ここで描かれている一期一会の人の出会いも、その成り行きも、少し誇張はあっても、誰もが多かれ少なかれ身近に見聞きするようなありふれた出来事だし、一人一人の振舞い方も、たぶんそうなるであろうし、こういう人って居るよね、と誰もが感じるであろう、穏当な、否定的に言えば平凡なものだし、読者に軽いカタルシスをもたらす、登場人物たちの間の日常的な倫理観もきわめて穏健でいわば小市民的で「健全」なものだ。
そのような意味で、表現もそれを通して読者に染み出してくる、少々ベタな倫理観のようなものも、いい意味でもわるい意味でも「中間小説的」だという印象を受けた。
でも、私自身はこの作品は嫌いではない。「サイテーのおばさん」仲間と距離をとりたくてとれないおばさんと、「自分の息子が連れてきたらクビを傾げる」だろうような女子大生との背中向きの遭遇を描いた折り返しの「門戸厄神駅」、カレシを友達に寝取られて結婚式に純白のドレスで「討ち入り」を果たした翔子が、その帰りの車中で出会った老婦人に勧められて降り立つ<いい駅>「小林駅」などが好み。
駅と駅、エピソードとエピソード、人物と人物をつなぐ経糸・緯糸を織り成す作者の手腕はさすがにプロ。素直に読めて読後感のいい作品。
そのとき、まだ「文学少年」の名残をひきずっていたので、なるほどな、面白い着想だな、と思い、京都でそのアイディアを借りたら、京阪かな、阪急かな、それとも京福電鉄あたりがいいのかな、などと、ひとしきり空想したことを記憶している。
今度『阪急電車』というそのものズバリの書名の小説が本屋に平積みになっているのを見て、あ、やっぱり出てきたな、と思ったけれど(もちろん作者は独自に着想したものだろうが)、むしろ今までこうした着想で書かれた小説で広く読まれたものが(私の記憶する狭い範囲にしても)無かったのが不思議に思われた。
この著者の作品は私は始めて読んだけれど、この本に関しては楽しく読めた。いわゆる中間小説的な軽みのある読みやすい文章で、それこそだれもが電車の中であるいは駅で遭遇しそうな小さな出来事とそこに偶々居合わせた人物たちをつないで物語を紡いでいく。
ここで描かれている一期一会の人の出会いも、その成り行きも、少し誇張はあっても、誰もが多かれ少なかれ身近に見聞きするようなありふれた出来事だし、一人一人の振舞い方も、たぶんそうなるであろうし、こういう人って居るよね、と誰もが感じるであろう、穏当な、否定的に言えば平凡なものだし、読者に軽いカタルシスをもたらす、登場人物たちの間の日常的な倫理観もきわめて穏健でいわば小市民的で「健全」なものだ。
そのような意味で、表現もそれを通して読者に染み出してくる、少々ベタな倫理観のようなものも、いい意味でもわるい意味でも「中間小説的」だという印象を受けた。
でも、私自身はこの作品は嫌いではない。「サイテーのおばさん」仲間と距離をとりたくてとれないおばさんと、「自分の息子が連れてきたらクビを傾げる」だろうような女子大生との背中向きの遭遇を描いた折り返しの「門戸厄神駅」、カレシを友達に寝取られて結婚式に純白のドレスで「討ち入り」を果たした翔子が、その帰りの車中で出会った老婦人に勧められて降り立つ<いい駅>「小林駅」などが好み。
駅と駅、エピソードとエピソード、人物と人物をつなぐ経糸・緯糸を織り成す作者の手腕はさすがにプロ。素直に読めて読後感のいい作品。
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