2007年12月

2007年12月23日

佐々木三十郎

 東宝公楽で、森田芳光版「椿三十郎」を観る。

 もともと黒澤作品のできがいいし、シナリオを変えずに演出とキャスト、スタッフを変えて作ろう、というところで、はじめから比較されることは分かっているわけだから、すでに無理やろなぁ、それは勝てっこないよなぁ、シナリオ変えちゃえばいいのに、と思っていた。

 で、きっと作品ができても、誰からも良くは言われないだろうな、森田さんもはじめから損な負け戦をするもんだな、と思っていたので、あまり悪口は書きたくない。「家族ゲーム」や「ハル」の森田監督が大好きだから。

 とはいえ、やっぱり辛かったです、率直に言って。シナリオが変わらないから、新しい演出といったって、手足縛ってさぁ自由に歩け、ってな感じですしね。最後の殺陣もやっぱりオリジナルのほうが良かった。

 でも一番問題なのはキャストでしたね。三船って不器用な大根役者だったけれど、類稀な資質を持っていて、当時のいい監督たちが本人も気づかないそいつをめいっぱい引き出して「世界のミフネ」になったんじゃないんでしょうか。今度の織田裕二をみて、逆にあらためてそう思いました。

 織田裕二もきらいな役者じゃないです。「ホワイトアウト」だの「踊る大捜査線」だの、身体張って動く役をやってたらいい感じの若者だな、って思います。でも、演技? 

 たまたま昨日新聞だか週刊誌だか読んでいたら、「踊る大捜査線」は二作とも大ヒットしたから、すぐに三作目が立ち上がってもいいのに、そうなってないのは、織田と柳葉が演技についての意見が違って互いに譲らず不仲になって、というようなゴシップが書いてありました。まぁ芸能関係のゴシップ記事だから話半分に聞くとしても、織田裕二が演技論で譲らず・・って聞くと、えっ?と思ってしまう。どこに演技?(笑)

 トヨエツさんは、「犯人に告ぐ」でいいところを見せてくれたので、本当はもっと存在感も演技力もある人だってことを観客のこちらが知ってしまっているから、こんなもんではとうてい満足できませんしね。こりゃ監督の演技の振り方が悪かったんだろ、と思ってしまう。

 若手も悪くはないけど(松山ケンイチとか、城代家老の娘をやった鈴木杏とか)、やっぱり加山雄三とか田中邦衛なんかは、ただ吉本的滑稽さっていうのではなくて、まだひよっこではあっても武士だっていうたたずまいがあって、ひたむきな若侍っていう初々しい感じとピシッとした雰囲気がありましたよね。いまの若い俳優はもうはじめから崩れてしまっていて、どうしてもピシッとした表情のほうが出せない。

 でもね、一人だけ無条件ですばらしいのがいました!佐々木蔵之介♪
 この人だけは完璧でしたね。この人の演技を見ると、黒澤の椿三十郎でこの役をやっていた人が誰だったっけ、と思い出せなくなってしまいました。ほかの人は脇役でもけっこう、前のほうの人の顔が思い浮かんだりするのに、この役だけは佐々木蔵之介の顔がいったん焼きつくと、前の顔がかすんでしまった。

 まぁ、オイシイ役ではあるけれど・・・。それも役者としての運のよさでしょう。この作品と同じようにフルミスキャスト(笑)のNHK大河ドラマ「風林火山」でもガクトとゆう姫以外に良かったのがやっぱり佐々木蔵之介。これもオイシイ役でしたね。


 ほんとうに憎らしいくらいよかったし、彼の役者としての資質が実にうまく出ていましたね。ほかのすべての役者を食っていたと思います。
 だから、この映画は「椿三十郎」じゃなくて、「佐々木三十郎」。

 じゃほんとに三十郎は誰がやればよかったんだろう?と、パートナーと二人で色々考えたのですが、なかなか思い当たりません。結局いまの日本の俳優であれがやれるような人材がいないんじゃないか、というのが妥当な結論なのかもしれない、と思ったのですが、唯一、我々が思いついたのが佐藤浩市でした。

 あの人ならやれるかもしれない。NHKの新撰組で、芹澤鴨をやったときは、ほんとうに存在感がありましたからね。ほかにはどうしても思い当たりません。 パートナーは佐藤浩市ファンだから、少し割り引いて見るとしても、まぁ私も賛成です。若手はパートナーはオダギリ・ジョーでどうだ、というのですが、さぁどうでしょう。人斬り以蔵もやってるし、いいかも、って言うのですが。

 黒澤のオリジナルをもう一度見たくなりましたが、家にビデオがなかったので、仕方なく、今日は先日録画しておいた、森田監督の「模倣犯」を観ました。
 これは良かった。やっぱり森田さんは現代ものですね。きっと「ハル」でお勉強されて以来関心があるんでしょう、インターネットのチャットなんかの使い方も手馴れたものだし、ストーリーの運びも映像も実にうまい。

 宮部みゆきの原作も読んだけれど、ちゃんと映像作品として別物になって自立したいい作品になってますよね。監督が脚本書いたんだろうな、と思って最後までクレジット流れるの見てたら、やっぱりそうでしたね。

 

 

at 02:29|Permalink

シルヴィ・ギエム

 びわ湖ホールで、Sylvie Guillem on Stage を観る。

 プログラムの最初は「白鳥の湖」第2幕から。これを見たときは、たしかに技術的に完璧なのは分かるけれど、えらくあっさり踊ってるじゃないか、と思った。情緒がないというか、オデットを踊るなら、透明感はあっていいけど、もう少しひたむきな感じでやってほしいな、という感じだった。

 プログラム二つ目は東京バレエ団による、バランシン振り付けの「テーマとヴァリエーション」。エトワールは木村和夫が変更で、以前にジョルジュ・ドンのピンチヒッターでベジャール振り付けのボレロを踊った高岸直樹になったので、これも期待して見ていたのだけれど、正直言って眠気を催して困った。

 いや、たしかに東京バレエ団のバレリーナたちはよく揃っているし、女性のほうのエトワールも最後までへたらないで頑張っていた。でも、申し訳ないけど、なんだか眠くて仕方ない。バレエファンはもったいない!と呆れるかもしれないけれど・・・。

 困ったな。せっかくS席2枚、大枚はたいたけど、こりゃハズレだったと思って帰途につくことになるのかなぁ、などと、プログラム二つ終わって思った。朝から終日雨に降られながら、わざわざ大津まで出てきて、がっかりだなぁ、と。

 チラシに「100年に1人のスーパー・バレリーナ」なんて書いてあるし、新聞などの前評判も高かったから、過剰な期待をもってしまったんだな、と自嘲していた。

 それで、休憩時間は、隣のパートナーに、「日本はこういうの、やたら高いよね。この席なんか、ほんとはB席にして、値段は半額ってところだよね」、などと憎まれ口をきいていた。

 ところが、ラストプログラム「Push」にはいると、目がバッチリ覚めて、一刻一秒も目が離せなくなった。30分間のモダンダンスなのだけれど、最初から最後まで2人の動きに釘づけになる。

 決して激しい動きではないが、2人の身体が絡まり、接触し、反撥し、再び接触し、絡まりながら、絶え間なく回転していく。ものすごいテンションだけれど、その力が外部へ発散されるのではなく、円運動のうちに吸収されるような動き。

 パートナーは「能のような」と言ったけれど、私が思ったのは太極拳の達人(見たことはないけれど)の動きというのはこういうものじゃないか、ということだった。
 2人の身体が実に自然に、流れるように円運動を繰り返していく。身体全体の描く垂直の円、水平の円、転がる円、美しい手や脚の残像が描く風車の羽のような回転、逆さ吊りから男の首を支点に下から上へ回転して不意に男の頭上へと屹立するしなやかな肉体の線、倒れて鋭角を形作り、鋼のように触れ合い、しなだれ、また円に流れていく。

 その流麗な動きは、跳んでは落ち跳んでは落ち断続する西洋流のダンスというより、どこまでも連環していく和風の舞に近く、東洋流のしなやかな武術の技に近い。
 12歳ですでにオリンピック体操の予選を通過したというシルヴィのしなやかな肉体が、ここではその力を、古典バレエのように跳ぶ瞬間に爆発的に解放するのではなくて、内へ内へ<溜め>をつくって、弧を描く運動エネルギーに転化していく。

 30分間の演技を終わると、見ていた自分の全身の筋肉が、強度の集中による緊張で硬くなっていたのに気づく。ほぼ満席の観客は身じろぎもせず、食い入るように舞台をみつめていた。

 これほど濃密な舞台を見るのは本当に久しぶりだ。大阪のフェスで見たバリシニコフ以来だろうと思う。

 もうひとつ、今日のPushをみて思い出したのはアイスダンスの「ボレロ」。 もちろんアイスダンスでボレロといえばトーヴィル&ディーンということになるけれど、私が思い浮かべたのは、きょうのPushと同じように徹底的に円運動をベースとしたこの上なく流麗な演技を見せたロシアの相当年輩のカップル(残念なことに名前も覚えていないけれど)のアイスダンス。
 あぁ、もう一度あれを観たいな、と思うけれど、何の手がかりもない。まぁ記憶の中にだけあるというのがいいのかも・・

 それにしてもシルヴィ&ラッセル・マリファントは本当に素晴らしかった。うちの隣のメタボのアメリカ人みたいな体型(笑)しているくせに、この振り付け師ラッセル・マリファントの身体のしなやかなこと!

 彼という相方があって、シルヴィの素晴らしさも引き出されるのだろう、きっと。今日の公演を観るかぎり、シルヴィは古典バレエの世界を脱してしまった人。彼女自身、モダンダンスの多様な試みのほうにはるかに強い関心があるんじゃないのかな。

 シルヴィはラッセル・マリファントとのコミュニケーションについて、「身体が物理的に触れ合うことで彼の意図が完全に感じられた」、「身体同士が直接会話を始めた」、というふうなことを言っているけれど、<身体の接触>は古典バレエの次元からの離脱を象徴するような言葉。

 いやぁ、S席、高くない、高くない。びわ湖ホールさん、ごめんなさい。
 
 実はこのホールの建設計画には多少関わったので、こういういい公演のできるホールになって本当に嬉しいです。
 ブレゲンツの湖上オペラまで調査に行ったので、びわ湖を背景とする、湖上に張り出したああいうステキな野外劇場をぜひ作ってほしかったのだけれど(日本の縦割り行政の中ではかなわぬ夢)、今日は少しその無念さがやわらいだ気分でした。

at 00:50|Permalink

2007年12月19日

カラマーゾフ

 若い人にも亀山郁夫新訳で「カラマーゾフの兄弟」がよく読まれているというので、若いときに読んで以来、ほとんど40年ぶりくらいに読み直している。まだ5巻のうち3巻目の途中だけれど、小説は往復の電車の中でしか読まないので、長編となると遅々たる歩みに自分で多少はがゆい思いがする。

 それでもやっぱりいいものはいいと思うのは、たとえ15分程度の乗り換え駅までの車中やバスの中でも、ちょっとページに目を落とすとすぐのめりこんでしまって、あやうく乗り過ごすことがこのところ毎日のようにあるのが証拠(笑)。

 たしかにいま読んでも、若いときかなり閉口した長広舌や、いまちょうどさしかかっているドミートリーの「事件」直前の躁状態的なハイテンションの言動を追っかけている部分などは、ドスト先生、もう少しなんとかなりませんか、と思わぬでもない。

 しかし、イワンの語る、「あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子」のエピソードから「大審問官」へ、見えない神と向き合ってイワンが全身全霊で語る言葉はゾクゾクするような迫力があるし、ゾジマ長老の生涯のエピソードにも深く心を動かされる。そしてそれに続く「腐臭」で「ぼくはべつに、自分の神さまに反乱を起こしているわけじゃない、ただ『神が創った世界を認めない』だけさ」とイワンの言葉を吐くアリョーシャの凄み。

 どんな卑小な人間もこの作家にかかると、善き心であれ悪しき心であれ、偉大な魂の持ち主になってしまう。どんな卑小な人間にも深い魂の井戸がある。
 
 私たちは彼の作品の中で何度も何度も「魂の転回」とでもいうべき突然の爆発的な変容のシーンを目撃することになる。
 それはもしもほかの作家が描けば、とうていあり得ない、唐突で、不自然で、理屈に合わない、馬鹿馬鹿しくさえある、しかし偶然というにはあまりに強烈な、精神の相転移(パーコレーション)のようなものだけれど、これがこの作家が描くと、あるある、確かに人生にはこういうことが・・・と深く納得してしまう。
 
 作者≒ナレーター自身が、アリョーシャがこの物語の主人公だと語っているのだし、事実彼に沿って読んでいくことはできるけれども、バフチンが言うようなポリフォニックなスタイルが徹底しているから、いわばチョイ役のイリューシャのみすぼらしい父親でさえも、私たちの知るそこらの文化人などより数倍も上等な科白を吐き、深い魂の劇を演じてみせる。

 こういう本を読み出すと困るのは、最後まで読まずにいられなくなるからで、次に読みたい本が目白押しなのに、車中読書の戒律には厳しい時間制限があるので、なかなか思うようにいかない。

 

 

at 21:24|Permalink

2007年12月10日

くるみ割り人形(キエフ・バレエ)

  びわ湖ホールでキエフ・バレエ「くるみ割り人形」を見た。
  自分で選んでいたら、見ない演目だったろうけれど、長男がずいぶん早くに2枚のチケットを予約していたのが、都合で行けなくなって、われわれ老夫婦に譲ってくれたので、あまり心の準備もせずに出かけた。

  ところが、これがとても良かった。もちろん名高い老舗のバレエ団だから、いまさら驚くのはこちらの無知によるのだけれど、プリマは本当に一分の隙もなく完璧だった。

  天邪鬼のせいか、欠点があってもこちらの感情の或る微妙な部分を不意打ちするもの、それ自体が欠点になってしまうようなバランスを失した突出した特徴を偏愛するようなところがあるので、こういう非の打ち所のない精巧なパフォーマンスに惚れこむということはないけれども、やっぱり感嘆せずにはいられない。

 だいたい身体つきがもうバレエの化身みたいだし、表情にもプリマの自信と誇りが溢れていて、ほかのバレリーナたちの追随を許さない風格がある。

 その動きといえば、上背もあり骨格もしっかりして脚も強そうだけれど実に軽やかで、重量というものを感じさせない。最前列、オケピットのすぐ前で見ていたので、その軽やかさが印象的だった。

 高速回転する独楽のように、猛スピードで回転しても宙を跳んでも、あるべき姿から微動だにしない。動きの中の一瞬一瞬の静止の姿の美しさ、力強さ。

 これだけ完璧に踊るためには、どれほどの苛酷なトレーニングの時間が費やされなければならないのだろう?

 演出にも舞台装置にも、どこといって目新しいところはないけれど、この古典バレエのオーソドックスな演出にふさわしい、古典的に完璧な技と美を備えたパフォーマンス。

 アートにこの種のorthodoxyが存在する、というのが、<伝統>の強みということなのだろう。今日はそれを見せつけられたような気がした。

 ただ、これだけプリマがいいと、ほかのダンサー、とりわけ相方の王子役などは、少し気の毒な点がある。もちろん、それだってすごい技術水準なのだろうけれど・・・。

 最初、人形が王子になって起き上がってくるところなど、ウソだろ?王子が禿げててどうすんだよ!と思った。でも誤解であった。失礼!m(_ _)m 彼は私ほども禿げてはいなかった!・・・ただ、やっぱり4回転のところが3回転半にみえちゃうと、氷上でも舞台上でも減点じゃない?少し息切れしたようにみえた王子様!

 でも総じて大いに満足し、カーテンコールでは心からの拍手を贈ることができた。日ごろ文化がどうのとエラソウな事を言いながら、慌しい日々に追われて劇場からも遠ざかっていたので、久しぶりにいい目の保養になった。


at 00:41|Permalink

2007年12月05日

「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎)

 伊坂幸太郎は新刊書下ろしが待ち遠しい、数少ない作家になった。先月末に書店に平積みになったので早速買って読んだ。

 最初は例によって、時間の前後交錯する独特の語り口で、わけがわからないまま読み進むことになるので、きっと初めて伊坂の作品を読む人は、ひょっとすると、ここらで投げ出すかもしれないけれど、それはもったないから絶対そのまま読み続けるように助言します!(笑)。

 逃走劇が本格化すると、スケートリンクを自在に滑るような快適なテンポでぐいぐい引っ張っていく。もう面白くてとまらなくなる。

 これは稀に見る素晴らしい青春小説・・・として読むこともできる。もちろん、カバー裏にあるように、「直球勝負のエンターテインメント大作」で、スピード感溢れる展開にワクワクさせられるサスペンスだけれど、二度と戻ってこない青春の時間への限りない作者の愛惜の想いが、上質のリリシズムを生み出している。

 あの「アヒルと鴨・・・」にも泣かされたけれど、今回も最後のページを読み終わった瞬間に涙がとまらなくなった。たまたま職場に向かう電車の中だったので、知った学生に見られやしないかと涙を隠すのに苦労した。今後伊坂の作品を読むときは、最後のページが電車の中なんかにならないように注意しなければならない。

 エンターテインメントか純文学か、なんて区別は伊坂の作品では意味がない。荒唐無稽といえば荒唐無稽な話だけれど、その荒唐無稽は作者の設定した緻密で堅固な仮構線上に展開される荒唐無稽なので、「そんな馬鹿な」と投げ出してしまいたくなるようなあほらしさを感じるところは一箇所もない。

 そう言いたければ、ちょうど夢の中で追われて必死で逃げていて、目覚めれば体中汗びっしょりの恐怖のようにリアルな世界だと言ってもいい。無類のサスペンス小説であり、監視社会の恐怖、目に見えない権力からの逃走(あるいは闘争)の寓話、滑稽で、怖くて、限りなく純粋で哀切な、失われた青春と友情の物語。作品として上質で、うんと楽しませ、うんと泣かせてくれる。

 

at 00:01|Permalink
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