2007年11月

2007年11月25日

「ダイイング・アイ」(東野圭吾)

 この人の作品はどうやら相性がいいらしくて、暇つぶしにはもってこいなので、風邪で沈んだときに出ていたので、楽しんで一気に読んだ。

 この手の推理小説(?)というのは、作者には答えもからくりも分かっていて、それを読者に伏せておいて、登場人物の偏った視点で色々な局面を通して少しずつ小出しにしていくことで、謎を追う楽しみ、次に何が起こるかというハラハラドキドキ、どんでん返しの意外性などを楽しむことになるので、しまいまで読んで種明かしされればそれまで。種も仕掛けもあって当然だし、それが納得のできるもの、作者の創意工夫に感心するようなものであればすごいなぁ、と評価は高くなる。でもどんな一級品でも二回読もうとは思わないし、そういう消耗品として楽しめればいい。

 今回も作者の語りはとても上手で、らくらくとエンターテインメントの常道へ導いてくれるし、楽しめる。でも、読者への仕掛けの伏せ方が、主人公の慎介が部分記憶喪失で、事件の肝心の部分を忘れていて、それを徐々に思い出す、という方法なのはいただけない。

 それじゃちょっと安易すぎるでないの!と思ってしまう。あんまりこういう「異常」を使わずにやってほしかったな。

 だいたい東野さんの作品は、登場人物の人間性や関係のしがらみが読者の納得のいくように丁寧に語られていて、なるほど、こういう立場、こういう視点からなら、こういうふうにしか見えないだろうな、とか、こう思い込むのも無理はないだろうな、とかこういう思念にこりかたまっているなら、こういう発想になっても仕方ないよな、とか、読者に仕掛けがあかされても納得がいくようなリアリティを持っていたと思う。

 ただただ奇抜な仕掛けさえ思いつけば、人間が描けていようが背景の描き方が粗っぽかろうが、生粋の推理ファンさえそこそこ満足させればいいじゃないの、というふうな作品ではなくて、ふつうの小説を楽しむ大人の社会人にも楽しんで読める作品だった。

 だから、今回も記憶喪失が徐々に解けていく、なんて仕掛けじゃなくて、人間関係の中で、利害や、義理人情や、色恋沙汰のしがらみをもつ人間である以上、ここで嘘をつかざるを得なかった、とか、こういう目でしか見られなかった、とか、偶然その位置では部分的にしか見られなかった、とか、その角度ではこう誤解するのも仕方がなかったとか、そういうありふれた、しかしリアリティのある背景のもとで、起きるべくして起きた事件であり、展開である、かのように描いてほしかった。

 それは彼のような力量ある作家には無いものねだりではないと思うのだけれど・・・

at 16:24|Permalink

2007年11月12日

「ボーン・アルティメイタム」

 「ホーン・アイデンティティ」も「ボーン・スプレマシー」も面白かったので、この種の娯楽作品としては珍しく劇場へ足を運んで見てしまった。やっぱり娯楽映画は金かけたハリウッドには勝てないなぁ、と思ってしまう。面白かった!

 面白すぎて、冒頭から最後まで、ずーっと、ほとんどマバタキできなくて疲れた!(笑)

 そりゃこういう映画だから、アラを探せばきりがない。前作、前前作をなぞっただけのところも(フラッシュバックとかではなくて)あるし、トースターを点火装置にしてマンションの部屋を爆破して敵の目前で冷静に逃げる場面みたいな仕掛けの面白さも今回は乏しい。
 いくら何でもそりゃないだろう、というボーン君のスーパーマンぶりやご都合主義はいっぱいあるけど、それが何か?↑と言われりゃ、いゃ、まぁどうってこたぁござんせん、ってところだろう。

 とりわけ出だしの、ブンヤをめぐる攻防のあたりはワクワクして楽しい。このテンポの良さ!日本の娯楽映画って、どんなに優れたものでも、このテンポが実現できないのはなぜ?

 邦画でお得意のアクションといえばヤクザ映画。日本の男優はやくざ映画に出るとみんなほんとに地でいけるくらい良く似合う。でも、ヤクザ映画はギャング映画と違って、しめっぽくてテンポが悪い。(もっとも、しめっぽいのを洗練すると、緋牡丹博徒シリーズのような超名作も生まれるんだから、それはそれでいいけど。)

 かといって、日本でOO7やCIA agentのような工作員の映画なんか作ってもリアリティないしなぁ。「陸軍中野学校」ってのも昔々見た記憶があるけれど、あれも人間ドラマみたいなものだったな。007やボーンシリーズみたいに、仕掛けとアクションだけで堪能させてくれるようなスピード感溢れるスパイ映画ってのは邦画じゃ無理なんだろうか。

 さて、ほかに面白かったところは、CIAがハイテクでボーンたちを追い詰めていくところですね。「いまそこにある危機」だったっけ、あのときも、沙漠のテロリストの訓練所を特殊部隊が襲って殲滅するのを全部ハイテク映像で室内で見ていて、任務完了、ってなるところで、なんとなく寒くなったけど、今回も、こういうところはすごくリアリティがあって、ちょっと鳥肌が立つ感じ。お上に楯つく個人は益々大変ですね、これからは。

 でも娯楽映画はその分、益々、ハイテクの圧倒的な暴力に、ローテク(テクテクの生身の人間)でいかに立ち向かって、胸のすくような逆転劇を演じるか、というような構図になっていくんでしょうね。

 あと、ジョアン・アレンって女優はいいですね。

 この映画は、この3作目くらいでもういいでしょう。4作目をつくるなら、まったく別の発想で新しい仕掛けを作ってやってくれないと、飽きちゃいますよ。今回が限度です。
 

 

at 22:17|Permalink

2007年11月10日

「あなたの呼吸が止まるまで」(島本理生)

 この若い女性作家の小説は以前にも「ナラタージュ」など2?3冊読んだことがあるが、苦手なタイプかなと感じて敬遠して、その後ほかに2?3冊買いながらツンドクしていた。

 今回そのうちの一冊をたまたま手にとって、車中で読んだ。で、やっぱり苦手だな、と思った(笑)。

 もちろん、無責任な読者として、まだ作家としての技量が未熟じゃないか、と一刀両断にすることだってできるかもしれない。でも、色々な文学賞を受賞し、たしか芥川賞の最終選考にも(何度か?)残ったような作家だから、一般には将来を嘱望される実力のある若い作家として認められているのだろう。

 そうすると、やっぱり私自身の好みの問題、相性の問題ということになるのだろう。
 この作者の表現の核には、若い女性特有の生理=心理的な拒否反応のようなものがあって、なにか私のような読者が触れようとすると、ギュッと硬くなって身を縮めたり、鳥肌が立つのが、こちらに感じられるようなところがある。

 今回のこの作品は、舞踏家の父親と二人で暮らす早熟な少女(小学生、12歳だったかな・・)の目を通して垣間見るオトナの世界と、その中で少女が遭遇する、オトナの世界ではありふれた偶発的なものにすぎないが、少女にとっては決定的な深手を負わせる類の不幸な出来事が物語全体を動かす梃子の支点になっているから、そういうふうに感じられるのだ、と受け取られるかもしれないが、それはこの作品にとどまらず、作者の固有性とかたく結びついたものだと思う。

 語り手の少女だけではなく、父親もその他の登場人物たちも、みなどこか自分だけの世界に生きていて、その外部の世界に対して少しも自分を開いていこうとしていないし、世界を受け入れようともしていないように見える。

 自分の中に浸潤してくる世界に抗う、というのではなく、それが近づいてくる気配だけで鳥肌を立て、身を硬くして縮こまって拒絶してしまうようなところがある。

 読者には、それが作品の、ひいては作者の読者に対する姿勢のように感じられる。もともと文学というのは自己慰安から出発するものであるのかもしれないけれど、それが読者を拒否するように感じられるところがある。

 でもそれが作者の資質なのだろうし、そのことはどんなに素朴な表現のうちにも感じられる。その意味で、作者がほんものの作家であることは間違いない。

 ただ、やはりこの作者には、こういう少女の目を通して世界と接触する(あるいは接触を拒む)のではなく、ごくありふれたオトナとして世界を受け入れ、どっぷりと世界に侵されてこれに抗うなら抗うことを望んでも、あながちないものねだりにはならないのではないか、という気がする。

 いくら「早熟」に設定したとしても、この少女の言葉は12歳の少女の言葉ではないし、父親が得々として彼女に言い聞かせるような場面を読むと、父親を敬愛する少女の目を通して語られる父親像が、この少女にとってだけではなく、作者にとっても肯定的であることに、読者としては強い違和感を覚える。

 私のような読者にとっては、この父親は本当につまらない、いやな男で、その言い草もいい気なものだと感じれらる。もちろんそれは、娘が危ない目にあっているのにそれも知らずに云々、というような意味で言うのではない。読者にとって、そのようにみえる、ということが、作者にひょっとして見えていないのではないか、と思えるところに、この作品の閉じた性格があるような気がしてならない。

 でもいつかこの力のある作家がブレイク・スルーを果たして、硬い自分の殻を突き破る日が来るような気がするし、そのときにはあらためて読みたいと思った。 

at 23:49|Permalink

2007年11月08日

「クローズド・ノート」&「サウスバウンド」(脚本)

 『シナリオ』11月号掲載の、映画「クローズド・ノート」と「サウスバウンド」のシナリオを読んだ。

 「クローズド・ノート」は、きっとまた若い女性が泣きに行く映画なのだろうと思う。「世界の中心で愛を叫ぶ」と同種の映画で、監督も行定勲とあれば、もうキマリだ。沢尻エリカ、伊勢谷友介、竹内結子と旬の俳優を使って、アイドルファンを大勢引き寄せること、まず疑いなし。

 2人の女性の状況と想いが重ね合わされる設定も、リュウの絡み方も、伊吹を待ち受ける運命も、歌謡曲の恋と雨と涙のようにお定まりだし、伊吹は徹底的に理想化された非現実的な人間像のパターンをなぞっている。

 本心を書き付けた日記のページを破って紙飛行機にして飛ばす人はまずないだろうけれど、そのへんまでくればもう涙がとまらない観客は、そんな野暮なイチャモンをつけたりはしないだろう。

 いつでも大多数の人はこの種のメロドラマを好むものだし、旬の女優さんの美しさに惚れ惚れし、周到に準備された泣かせどころに、そうと知りつつ泣かされて帰ってくるのだろう。

 細部の、たとえば映像の転換に、とてもいいところがある。もちろん多数の観客の心を捉えようと思えば、その種の映画的な仕掛けについてはプロの腕前を見せなくてはならない。

 セカチュウが流行ったとき、つい、つまらない映画だった、と口走って、可愛い目にありったけの憎悪をこめて睨まれ、自分がいい映画だと思ったんだからいいんですっ!と切り口上で言われて閉口した。

 もちろん人それぞれ。ひとの好みをとやかく言うつもりはサラサラ無いので、私は私の好みを言っただけなんだけど、まぁ自分が大好きなものをけなされたと思ったのでしょうね。

 もちろん原作とシナリオ、シナリオと映画はまた別物。映画は映画で見てみないと分らないでしょう。きっと泣かせる映画ですよ。

                *

 「サウスバウンド」のほうは、私にとっては面白そうな映画になっていそうだ。全共闘あがりの一郎といういまは中年のおっさんになっている男の造形が面白い。

 これをいま演技からみて(年齢がただ若いから旬というだけの俳優ではなくて)旬の俳優、豊川悦司が演じているので、よけいにそう思う。テレビで先行上映した「犯人に告ぐ!」を見たとき、映画としては大したことなかったけれども、豊川悦司には感心した。

 脚本・監督の森田芳光は、「家族ゲーム」と「(ハル)」で絶対的な信頼感がある。(ときどき首をかしげるようなのもあるけれど。)

 全共闘あがり(あるいは「くずれ」)が描かれるときは、これまでのところ、まずほとんど全部、否定的にしか描かれなかった。頭の硬い、アナクロのおっさんというのが相場だ。口で反体制とか小難しいことを言いながら、若い女に寄生しているような偽善者であったり、ただただ殺意と暴力に凝り固まった小児病的な狂気の集団であったり、最悪の毛沢東思想にかぶれて現実離れした能天気な農村主義者であったり、いずれにせよ遅れてきた世代の特権で、全共闘世代については、思い思いの勝手なイメージの百花繚乱。そのすべてが否定的なものだったと言っても大過ない。村上春樹の描く「鼠」のように例外的にすぐれた作品もあるけれど、否定的な造形であることでは同じ。

 でも森田芳光のシナリオに登場する一郎は面白い。頭の硬い、アナクロのおっさんで、周囲を巻き込んでさんざん迷惑をかける、と普通に言えば言ってしまえるようなオッサンだけれど、彼は作者によって大きく肯定されていて、なかなか頼もしい存在感がある。

 まぁ作品としては支離滅裂、こっちの世界の話だと思って読んでいると、あれよあれよという間にあっちの世界へ行ってしまって、あちらでも大暴れ、といった痛快さ。失敗作かどうかは分らないけれど、こういう何かを突き破っていくような面白い作品はぜひとも必要だ。

          

at 02:08|Permalink

2007年11月01日

『日蝕』(平野啓一郎)

 読んでいるうちに、これは前に読んだ作品だったな、と思い出した。『葬送』で脱帽した作者の文壇デビュー作と思えば、なるほどなぁと若さに関係なく腰の据わった反時代的な作風、骨太な思想性、プロフェッショナルな作品づくりの細部の徹底性、重厚な想像力などを見ることができるけれど、最初に読んだときは、こういう擬古典の文体がぺダンチックで鼻についた。

 スコラ学僧だから、こういう日本語になるわけ?時代と場所が中世のラテン世界であっても、神学僧の内面を通して描かれる世界であっても、すなおな現代日本語で書いていいんでないの?と感じた。もともと西洋ものを日本人俳優が赤毛鬘に付け鼻なんぞつけて演じるようなのをいくら名演だの名演出だの言われても好きになれないので、いかにもつくりものめいたこの作品の文体にも違和感をおぼえたのだ。

 いま読むと、そういうノイズを取っ払ってみて、「私」が錬金術師ピエェルに強烈な磁力に吸い寄せられるように惹かれ、光輝くアンドロギュロスを目撃する場面から、それが焚刑に処せられるとき天変地異が起こり、「私」がアンドロギュロスと一体になるクライマックスの異様な迫力が、「異端」の抗し難い魅力(魔力)のように感じられる。

 作者は文学史に意識的な作家だから、たまたま読んだ新潮文庫版の四方田犬彦の解説のようにこの作品を「通過儀礼の物語」であり、その反復であるとして、部分部分にそれぞれ反復してみせた当のものを充ててみせるという、これもまたまことにぺダンチックな、文学史的知識をひけらかしながらの解釈が、ふ?ん、そんなものかね、といちおうは納得できるようにみえるけれど、ルビの使用に意味の撹乱を図るエクリチュールの戦略をみる、とまで言われると、なんだかこの作品のスケールと密度に釣り合いのとれない深読みに思えてくる。

 

at 01:32|Permalink
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