2007年10月

2007年10月18日

葬送(平野啓一郎)

 電車の中で平野啓一郎「葬送」第一巻を読み終わる。彼のほかの小説を読んで、ちょっとしんどいな、と感じていたので、これが出たとき、う?ん長いなぁ、しんどそうだなぁ、と思って敬遠した。
 なんで日本で生きているこんな若い人が、いま、フランスの100年以上も前の芸術家たちのサロンを舞台に長大な作品を書こうとするのか、その意図を察しかねていたせいもある。食わず嫌いというのだろう。

 最初の100ページくらいはしんどかったけれど、そのへんから作品の世界にはいりこんでしまうと、とても面白い作品だという実感がわいてきて、ページを繰るのが楽しくなってきた。

 若いのに大変な才能だ。調べるのも大変だったろうけれど、もともと思想的な構えがかなりしっかりしていないと、ショパンやドラクロアやジョルジュ・サンドといった誰でもが知っている著名な歴史上の人物の内面をくぐって彼らが生きる世界を描くことなど思いもよらないし、時代の先端に位置する知性と感性を備えた彼らが俗物たちにうんざりしたり、互いに丁々発止で議論したり、という場面の連続をかくも見事に描き出すことはできない。

 サンドを中心とするサロン人士の入り組んだ人間関係や歴史的な裏づけのある様々な出来事についての博覧強記もすごいと思うけれど、作品として面白いのは、上述のような、ショパンやドラクロアの内面を通して、彼らの知性と感性が周囲の人間たちとのあいだで散らす火花、非常に具体的な芸術観や人物評をたっぷり含んだ言葉や行動がはじける光景であって、そこに書くことで創造していく作家平野の一番いいものが投影されているようで、実に面白く、読み応えがある。

 まだ文庫本で4巻あるうちの1巻を読んだだけだから、たっぷり楽しめる。
 
  そういえば話は全然変わるけれど、映画がすばらしかった「天然コケッコー」のマンガの原作本も9巻あって、ふつうならマンガはさっさと斜め読みして終わりなのだけれど、このマンガはゆっくり読みたくて、電車の往き帰りに1巻ずつ大事に読んだ。そして最後まで期待を裏切られなかった。

 いまは職場の私の部屋に積んであって、毎日のように学生さんたちが、「まだ〇巻、返って来んの?」と不平を言いながら、順番に借りていく。その調子で平野啓一郎も読んでみると面白いかもよ(笑)。

 最初の100ページはしんどかったと書いたけれど、若いころに読んだバルザックなんか、極端にいうと最初の500ページくらいはしんどい、という感じだった(笑)。登場人物たちの暮らす土地のことをエンエンと紹介するところから入ったりするもんだから、せっかちな俺っちなんか、いいかげん投げ出したくなる。

 でも、それがやめられないのは、彼の場合、必ずどこかでググッと大きな「引き」が来て、あれよあれよという間にこちらが深みにはまっていってしまうのがワクワクするような実感で感じられるからだ。

 「ゴリオ爺さん」から始めて、「幻滅」を経て、最後の「浮かれ女盛衰記」にいたる系列なんかは、もういくら長くたってめちゃくちゃ面白い紙芝居といっしょで、全然問題じゃなくなって、だんだん残りのページが少なくなるのが惜しくなって、読むスピードを無理にゆるめたくなったりする。

 まぁ若い無為の時代に読んだからそういう読み方ができたのかもしれないけれど・・・

 プルーストの「失われた時を求めて」も、ゆっくりと過ぎていく作品の中の時間とともに、自分の時間までがゆっくり流れていくようで、その流れにのっていくと、本当に読書が独特の快感にひたれる贅沢な時間になる。

 あるとき、私があの長大な小説を読み始めたころに、ある女性に、「それって、どんなことが書いてあるんですか?」と訊かれて、冗談半分に、「子供がベッドにはいってなかなか寝付けなくて、来客中のママがキスしに2階へあがってきてくれないか考えて悶々としている、というのだけで50ページくらい書いてあるような作品」と言って、「読んでみる?」と本を取り出したら、「いえ、結構です!」ときっぱり断わられた(笑)。

 でも、作家が作り出す作品の世界も、実際の世界と同じように、その中に全身飛び込んで、ゆっくりと時間をかけて経験し、そこで出会う一つ一つのできごとを味わったり、そこで出会う人と心を交しあっていくということがなければ、ほんとうに体の芯がふるえるような悦びに恵まれるチャンスもこないような気がします。



at 02:09|Permalink
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