2007年10月

2007年10月31日

葬送 6

 一昨日、とうとう『葬送』を読み終わってしまった。なんだか淋しい。まぁ何回も読めばいいのだけれど、やっぱり車中の細切れの時間で読むのは辛いところがある。また少し時間ができたら読み返すことにしよう。

 ショパンの苦しい、緩慢な死が、演奏会の描写と同様に、スローモーションのように繊細かつ苛酷に描かれる。いろんないみで、しんどい部分だけれど、読んでいるうちに、本当に人間の死というのはこういうものなのだろう、と死に侵されて行くショパンに立会いながら、ショパンの死を超えて人の死を実感できるような気がしてくる。

 引き延ばされた苛酷な死ではあるけれど、自分を侵す病魔を見据えながら、妹や姪や親しい友人たちに次々に会い、言葉を交わし、見取られながら死に一歩一歩近づいていくショパンの死は、現代の孤独な不意の死に比べてなんと古典的で牧歌的に見えることか!

 ショパンの死をそれぞれの友人や家族たちがどう受け止めるかも、多くの言葉が費やされるわけではないけれども、実に的確に描かれている。一番詳しいのはこの作品のもう一人の主人公であるドラクロアだが、その悲しみの描写はほんとうの意味でリアルだと感じた。

 ずいぶん昔、NHKの大河ドラマで、緒方拳が忠臣蔵の大石をやったとき、主君の死の知らせを受けた彼が、ほとんど実感の伴わないぼぉとした表情をして、りくが声をかけるのもうん、とかあぁとか生返事をして、いつもどおりはかまを脱いだり、食事にしましょうかと言われて食膳について箸を運ぶ。そして食べいる最中に突然、はたと飯椀を取り落とす場面があった。平野のドラクロアを読んでいて、あれを思い出した。

 きっと人間というのは本当に深いところに衝撃を受けたときは、こんなふうにしか受け止められないのだろう、と納得させるような描写が丁寧になされている。

 ショパンの死の受け止め方に限らず、人間関係の微妙な差異を、この作品は実に繊細に区別しながら描き分けている。ショパンとドラクロアはごく親しいのだけれど、それは既に傑出したそれぞれの道の才能として世に出たのちに出会った友人どうしのそれで、ほんとうに細やかな交情ではあるけれども、おのずから節度があり、距離がある。

 でも、ショパンとフランショームの友情はそういうものではない。本当に心を許しあった親友というのはこういうものだという、まさにそういうものが、これ以上ない的確さ、繊細さで描かれている。

 いやもちろんここにも節度があり、距離もある。私たちの例えば若い日のいささか粗雑な友情からみると、考えられないほどに、互いにほんの一瞬心を過ぎる影さえも見過ごさずに自分の相手への思いやりや言葉に織り込んでいくような繊細な友情、深い尊敬の念、強い自制や自己犠牲、純粋無垢の愛情、いやどう言葉を費やしてもうまく表現できそうにないが、むしろ「共感」「共鳴」あるいは「共振」しあう魂、とでもいうべきものだ。

 ショパンのチェロ伴奏者であった彼は友人としても人間ショパンとすぐれた楽器のように共鳴、共振している。

 フランショームとドラクロアや、その他のショパンの友人たちとのショパンをめぐる会話に、彼らのショパンへの想いが見事な間接話法で活写され、しかもそれぞれのショパンとの微妙な共振の違いが綺麗にスペクトルを描くように描き分けられている。

 今日の車中では、大著を読み終わってほっとしながら、同じ著者のエッセイ集『文明の憂鬱』を気軽に繰っていたのだが、著者は世代は若いけれど、やはり現代に生きるそうした年代の世代としては稀有な、なかなか反時代的な精神の姿勢を持った、たぶん周囲からみればひどく古典的で頑固にみえる構えというか風格をもった人なんだな、という印象だ。

 一息ついて、また以前に読んだことのある「日蝕」や雑誌で読んだ「顔のない裸体たち」など他の作品が、『葬送』を読み終わったいまの目にどう映るか確かめてみたい。

 

at 00:33|Permalink

2007年10月25日

葬送 5

 「葬送」を読んでいると、しばしば、ドラクロワやショパンが作者に憑いたとしか思えないような箇所にゆきあたる。これは作家の「巧さ」いわゆる技巧の範囲を超えている。

 小説技術とか技巧といった言い方は、それを使いこなす「作者」しか見ていない。ある若い作家が古めかしい「モダニズム」(形容矛盾だけれど)風のケレン味たっぷりの文体の「小説」を書いて、ちょっとほめられたせいか「文体なんてどうにでも書ける」とエッセイで書いているのを読んだことがある。はは、この人にとって「文体」ってそんなもんなんだ、と呆れながら読んだ記憶がある。

 小説なんて所詮そういうものだ、と思えば、もちまえの「技術」で「技巧」をこらした「文体」を自由自在に使い分けることのできる「作者」という虚像を信じることもできるのだろう。

 でも『葬送』という作品を読む読者の前にあらわれれるのは、そういう「作者」ではない。言ってみればショパンやドラクロワの内面の声が直接聞こえてくる。もちろん私たちはこれが一人の作家が書いた小説であることを知っているので、もう少し正確に?言えば、彼らの霊が現れる。作者は恐山の巫女にすぎない。

 第二次大戦後の、科学的合理主義万能の教育を受けてきたせいか、私の場合、テレビのワイドショウみたいなのに登場する類の超自然現象なるものは頭から信じていないし、「・・・かもしれない」とか「絶対無いとはいえない」とかさえ思わない。科学がいま説明できないことは無限にあるけれども、だからといって非合理的・非科学的な説明を受け入れる気にはなれない。

 けれども、恐山の巫女のような存在や現象については、近頃テレビの人気者になっているようないかがわしい「占い師」などとは全く別の、ある根拠をもった存在であり、現象であると考えている。

 そして、ホンモノの作家というのは多かれ少なかれ、恐山の巫女のような、シャーマン的な資質を持った者なのだろうと思う。『葬送』のような作品を読んで、そこから聴こえてくるショパンやドラクロワの声を聴くと、そう思わざるをえない。

 こういうことは神秘的な現象でも非合理な現象でもなくて、私たちの現代の日常の中にもけっこう見られることだと思う。例えばすぐれた俳優のみごとな演技の中に、私たちはそういう資質を見ないだろうか?

 鬼気迫る演技というのがあるけれど、本当に見ていて、役柄の人物が乗り移ったとしか思えないような迫真の演技に息を呑むことは、そう稀な体験ではない。

 私は記憶力が悪いから、俳優さんが分厚い脚本を全部おぼえ、登場人物の長広舌を数度読んだだけですらすら言えるようになる、という話を聞くと、それだけでなにか超能力者を見るような気がする。

 もちろん長年の訓練や慣れということも大いにあるには違いないし、それなしにはそういう奇跡も起こらないことは確かなのだろうけれど、どうもそれだけではないような気がする。

 ショーン・コネリーとか、アンソニー・ホプキンスとか、ダスティ・ホフマンとか、ロバード・デニーロとか、日本で言うと誰だろう・・・大竹しのぶとか小林薫とか、あぁ二宮君なんかもそういう資質があるかな。

 見ていてほんとに憎らしいくらい巧い、と感じる。そして巧いを通り越して、こりゃ役柄の人間に憑かれたな、としか思えないようなときがある。昔、大竹しのぶがトーク番組に出て、自分は脚本を読んで科白を言う段になったらすぐに心身ともその人物になりきれる、というようなことを言っていた。科白を暗記するというようなことではなくて、それがもう読んだ瞬間に自分=その人物の言葉として口から出てくるらしい。ああいうのは、現代のシャーマンなんでしょうね。

 そういう意味では、私たちのまわりにいっぱいシャーマンがいて、しじゅう過去の亡霊を呼び出してもらっては、そういう亡霊たちと生きているように対話し、その振る舞いを目の当たりにしながら、過去と現在の入り混じった時空に生きているのかもしれません。

 もちろん、そんな亡霊たちの憑依に自らの心身をあけわたすホンモノの俳優や作家たちは、いつも自分自身の心身をすり減らすようなトレーニングを繰り返し、うまく憑依したときには自分たちの心身が空っぽになって、あとには荒廃しか残らないようなすさまじい経験を繰り返しているに違いないのでしょうが・・・

 

 

at 11:28|Permalink

葬送 4

 第二部の前半(文庫本3冊目)を読み終える。目のまわるような仕事の山に追われ、机に積み上げられて点検を待つレポートの山にプレッシャーを感じながらも、それらから逃れるように車中往復4時間半、「葬送」の世界に没頭できるのは幸せだ。

 親友の奥さんであるヴィヨ夫人に語るドラクロワの言葉、天才の内面をここまでかいくぐることのできる作家の力量にはほとほと感動する。ついに搾り出すように吐かれる言葉「・・・僕という人間を生きることは、・・・僕には荷が重過ぎるのです。・・・・」しかも、そう呟いた途端、彼はただちに後悔を感じるのだ。

 そして、ピエレの自宅に招かれた夜のドラクロア。グロについて論文を書くというドラクロアの、自分とグロとの関わりを通して語るそれ自体興味深い芸術論を堪能したかと思うと、ヴィヨのことでニ、三さりげない会話をかわした帰り際、最後の別れの挨拶をして振り返ったところで彼は「ピエレに肩を二回強く叩かれた。そのときになって彼は初めて今日の宴の催されたことの意味を理解したのだった。」!!この心憎い終わり方はどうだ!本当に作家の語りの見事さに舌を巻く。

 読者はこの第二部の前半だけでも、ここに活写されるドラクロアやショパンを媒介に、友情論や天才論や「芸術と政治」論等々、様々な興味深い論点を引き出して、議論しあうことができるだろう。それに耐えるテキストとしての豊かな多義性を備えた作品だ。

 例外的な力量をもつ作家の作品でなければ、芸術観であれ人生観であれ世界観であれ、作中人物がえんえんと理念を主張したり、抽象的な議論をかわすような作品というのは、理屈っぽくて、作中人物に血が通っているように感じられないものだけれど、この作品ではむしろそういう部分に作中人物の感性が裏打ちされた生々しさがあって、ワクワクするような感動がある。疑いもなく「例外的な作品」だ。

 二月革命の渦中を生きる登場人物たちの内面を通して、その時代と現代とが二重映しに人物たちの背後に鮮明に浮かび上がってくる。この二重の志向性を持ったアンテナも見事なもので、歴史の浅はかな現代的解釈などではなく、作者はショパンやドラクロアに成り切って私たちにとって異国の160年ほども前の世界に全身全霊で飛び込んでいるけれども、それを読んでいる私たちには作者が単身そこを泳ぎきって私たちの生きているこの時代の岸へ戻ってくることが確かに信じられる。

 もしも作品がもっと「現代風」であったら、私たちはそうは感じないに違いない。妙に浅はかな現代の虚像をちらちら見せられるだけだろう。ところがこの作家はそんなものには目もくれずに、「あの時代」に飛び込んでいく。どうやって、どこから「この時代」へ帰ってくるのかは分らないし、そんなことはおくびにも出さないけれど、だからこそ彼が泳ぎきって彼岸から此岸へ帰ってくることが信じられる。読者が彼とともに全く新たな此岸の光景を見るためには彼とともに「あの時代」を生きて泳ぎきるほかはない。

 これだけ深く多元的な個人の内面をワクワクするような生々しさでくぐりながら、また同時にそれら個人の群像の置かれた状況をその背後の構造にまで届くほどの奥行きをもって描き切る社会性を備え、堅固な骨格を備えたバルザックやスタンダールのような小説は日本では稀有だったのではないか。(退屈な「全体小説」はあったけれど)

 こんな作品を3年間も見過ごしていたのは本当にもったいないことをした。やっぱり怠け者の食わず嫌いは結局のところ損をする(笑)。

at 01:38|Permalink

2007年10月21日

葬送 3

 第二部にはいった。サンド夫人との決定的な別れに伴うショパンの深い傷心。描く作家の手つきは本当に繊細で優しい。そして心身ともにぼろぼろのショパンが残る渾身の力をふりしぼって臨む演奏会。

 この演奏会の描写はこの作品の中でも圧巻だ。ショパンの音楽に詳しくない者にも、まるでその音楽が聴こえてくるようだ。あまり音楽家を主人公にした小説を読んだことがないせいか、ここまで徹底してライブで演奏される音楽を文章で奏でてみせた作品を知らない。それは音楽評論家の文章とも違う作家ならではの文章の音楽だ。

 べつにクラシック好きというわけでもない私にも読んで面白い音楽というワクワク感があるのは本当に不思議だ。文章を読んでこんな感じをもったのは、学生時代に読んだ小林秀雄が能について書いた文章以来のような気がする。

 同時に、一曲ごとに、一小節ごとにたどっていくような数十ページにわたる描写を読むと、ちょうど矢吹ジョーと力石との死闘をワンラウンドまたワンラウンドとスローモーションで撮るように描いた「明日のジョー」を連想し、あのワクワク感を思い出した。
 
 だんだんページを繰るのが惜しくなって、わざとゆっくり読み始めている自分に気づく。病膏肓に入り、ノックターン(No20.嬰ハ短調)など聞きながら・・・

at 21:45|Permalink

2007年10月20日

葬送 2

 「葬送」の2冊目を読了。ますますはまる。クレザンジェの悪党ぶりなんか、もうほんとに小気味良いくらい冴えていて面白い。

 ショパンとジョルジュ・サンドの仲たがいにしても、多数が共感を覚え、その心情に寄り添って読むであろう心優しいショパンの側からばかりでなく、そのショパンが自分を裏切ったと感じて関係を断ってしまうサンドの側からも、読者の納得がいく感じ方、考え方が丁寧にたどられていて、非常にリアリティがあリ、また理屈ぬきに面白い。

 昨日、バルザックばかり読んでいたころをふと思い出してその名を挙げたが、実際、「葬送」を読んでいて、この骨格の頑丈さと細部までの豊かさは、まるでバルザックのようじゃないか、と感じることがあった。

 若い若いと思っていたけれど、史上最年少で芥川賞を受賞したデビューが鮮烈だったからそう錯覚していたので、1975年生まれだそうだから、もう32歳かな?もうじきバルザックが人間喜劇の傑作のひとつである「ゴリオ爺さん」を書いた歳になるのだから、才能のある人がこういう成熟した作品を書くのもそれほど不思議ではないのかもしれない。

 ジャーナリズムはデビューのときに三島由紀夫の再来と言ったらしい。華麗な才能という意味ではそうなのかもしれないし、反時代的な姿勢のようなものは共通するといえばいえるのかもしれないけれど、私自身は、ずいぶん違う資質だと感じながら読んでいる。

 久しぶりに全部読んでみたいと思うような若い人の作品に出会ったので、楽しみが一つ増えた。たまたま今日、河原町四条の角で新しいビルのオープニングに出くわして、そのビルの3階から6階まで(だったと思う)本屋がはいっていることを知って、午前中に出勤の予定が、2時間近くも各階の本棚のあいだを徘徊して過ごしてしまった。幸い平野のほとんどすべての刊行された作品があったので、まとめて買う。前に読んだのもあるけれど、地下の荷物に入れてしまったのを探す時間が惜しいからエイヤッと買って、他にもあれこれ手にしているうちに、これから大阪へ行くのに持っていけないほどになって、結局宅配便で送ってもらう手配をする。

 おまけに悪いことに(笑)レヴィーストロースの<神話>の第3巻が出ていたので、まだ1,2巻もツンドクのままなのに、つい買ってしまう。これ一冊だけでも8,600円だから、懐はたちまち軽くなる。本をつくる側の大変さから考えると、ほかの消費財に比べて、この種の本というのは実はそこに注ぎ込まれた著者や翻訳者から出版人にいたるまでの心血を思えば、とても安い買い物であることは頭ではわかっているのだけれど、自分の財布の軽さに比べれば実に重い。

 

 

at 00:45|Permalink
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