2007年08月

2007年08月29日

「天然コケッコー」(くらもちふさこ)

 「天然コケッコー」の原作1?2巻を読む。とてもいい。映画がかなり忠実にその中のエピソードを拾ってつないでいることがよく分かった。科白もほとんどそのまま。
 
 2巻までのところでは、第2巻のscene10「聖バレンタイン」が一番いい。ラストがとくに好きだ。

 「分からんかもしれんが・・・」
 「ん----・・分かるよ」
 「えっ・・・」
 「分かるような / なんか / いろんなことあったんだろうなって /
 なんとなく・・・」

 思いやりがどこかで行き違って、ちぐはぐさを招来する。その些細な日常のちぐはぐさにリアリティがあり、ユーモアも生じ、ささやかであってもそんな箇所にこそ珠玉の輝きがある。

 そうそう、そういうことってあるよなぁ、と、その「ちぐはぐさ」に生々しい共感をおぼえ、その「ちぐはぐさ」を「いろんなことあったんだろうなって/なんとなく」受け止めてもらえる喜びを、生きる喜びそのもののように、主人公「そよ」と共に感じる。

               *

ゼミで登学。5人だけだったので、冷房のよくきく私の部屋のほうで、ゼミ?というより、お茶+雑談。帰りにはみんな「いい午後を過ごせました」と帰っていく。なによりでした!(笑)

前から、そろそろ読んでおいてほしいと思っていた、就活関係の資料を渡す。量が多いのでコピーするだけでも結構時間がかかってしまう。

               *

 きょうはパートナーはお友達(こどもの小学生時代のサッカー仲間のお母さんたち)との定期的な会食なので、私はフリー。映画でも、と思ったが、上映中のものに食指動かず、書店に寄って、三条河原町の「ケララ」でカレーのコースを食べて帰る。

 ここのトマトスープは絶品。(なにしろトマトと名のつくものは一切受け付けない次男が、ここのトマトスープだけは美味いといって飲むのです。)

               



at 00:55|Permalink

2007年08月20日

「天然コケッコー」(山下敦弘)

 心が洗われるようなとてもいい映画だった。原作のマンガを読んでいないので、新聞などで粗筋を見たときは、またマンガ原作かよ、と思い、田舎の学校で転校生を迎え、色々あって徐々に馴染んでいく、というような話?と聞くと、早トチリでは人後に落ちない私などは、もうどんな映画か分かるような気がして、見に行く気になれなかった。

 しかし朝日新聞だか日経新聞だか、都合3?4回も大きく取上げて、それぞれなかなかの好意的な評で、おまけに次男が友人と一緒にロケハンに協力していて、クレジットにも「特別協力」とかで名前が出て来るのだけれど、彼が出来上がった作品を見て、とても良かったと言っていたと間接的に聞いたりしたので、じゃ行ってみるか、と不精な腰を上げた。

 山下監督の作品は「どんてん生活」や「ばかのハコ船」を見て、まだ正直言ってこの人の映画はしんどいな、と思い、「リンダ リンダ リンダ」でやっと楽しめるようになったばかりだった。

 先入観をもって見に行った「天然コケッコー」は、その先入観を完全に覆すものだった。もちろんいい意味で。

 最初から、映像の美しさに引き込まれた。この透明感のあるカメラには終始せつない想いで胸の底を揺さぶられるようなところがあった。もちろん島根の山村の自然は美しいけれど、これは別に自然の美を撮った映画というわけではない。

 主人公の「そよ」の目を通して、東京から来た男の子によって、微妙に変化が生じる彼女たちの日常が描かれる。だから、カメラもシャロー・フォーカスで彼女の心の揺れに焦点をあわせるように、背後の自然がぼやける中で、くっきりと彼女の表情を映し出す。とても繊細なものを捉え、とてもクリアに映しだす。

 ここにあるのは、いまはもう日本のどこにも残っていないだろうと思われるような自然と人間の風景だけれど、レトロな味というのではない。ゆったりと流れる時の中で、いま息づいている瑞々しい感覚が繊細な眼差しでとらえられている。その瑞々しさの核にある微妙な「ちぐはぐさ」によって、いわゆる青春映画風のがさつな「クライマックス」はつねにずらされ、回避されている。

 東京への修学旅行で、友達のために美肌クリームと癖毛なおしを選ぶそよが、大沢広海の一言で、自分のおみやげ選びが実は友達の気持ちを傷つけるようなものであることを気づかされて一瞬落ち込む暗い表情になる場面。

 原作にあるのかもしれないけれど、本当によくできたエピソードだと思う。そよの暮らしてきた村の人間関係の中では、何でも言いあい、プライバシーに立ち入ること自体が友情の証だろう。私は色が黒いけぇ、私は癖毛がひどいけぇ、悩んどるんよ、というような話はごく普通に言い合い、それじゃお土産に美肌クリームを、癖毛なおしを、と考えるのはごく当然で、本来は深い友情あってこその思いやりでしかない。

 郵便局員のシゲちゃんが初対面の大沢に、あんたのお父さんが愛人と逃げてしもうて大変じゃってね、とズケズケと言うのも、お母さんは困りよってじゃろ、どうしとられるね、と訊くのも、決して悪意というわけではない。

 けれどそれは、生まれてから死ぬまで、どこのだれで、家族が誰と誰で、ふだん何をしていて、何を考えているか、どんな性格の人であるのか、みんなが互いに知っていて、なにかにつけて援けあって生きることが当たり前の、古き良き村落共同体という背景をちょっと外してみれば、互いのプライバシーにまで立ち入る田舎のわずらわしさとなり、相手の心の中に土足で踏み込む暴力的な行為にもなる。

 そよは、牧歌的な村落共同体の人間関係の中で生まれ育ち、その感性にどっぷり浸ってはきたけれど、その若い柔らかな感性は、大人たちのように固まってしまってはいない。ときに親や周囲の大人たちとの関係、あるいは友人たちとのちょっとした行き違いなどの中で、そのような人間関係のありように違和感をいだき、自分が立っている場から無意識に逸脱することもある。その外の目で自分を見るとき、自分自身のふるまいが、感じ方が、自己嫌悪としてはねかえってくることがある。そよは、大沢の指摘に傷つき、自己嫌悪をおぼえる。

 東京からきた大沢にとっては、もちろんそういう違和感はしごく当然のものだから、そよが友達にそんな土産を買っていくことは、わざわざ友達が気にしている欠点を思い知らせる厭味のような行為、土足で相手の胸のうちに踏み込んで相手を傷つける行為にほかならない。

 ここでは、そういう「違い」が理屈っぽく表現されているのではなくて、このような具体的なエピソードの中で、そよの揺れ動く心が瑞々しく描かれ、その心の生きた動き、ユーモアの源泉でもある「ちぐはぐさ」によって物語が展開し、結果的にそよが無意識に生きてきた世界も、それと対照的な、大沢がそこからやってきた外部世界も、結果的に鮮やかに浮かび上がってくることに感心してしまう。この作品は、この種の味わいのあるディテールが幾つも積み重なってできている。
 
 主役の夏帆が適役だし、相方の岡田将生もいい。そして、何よりも脇の子供たちが素晴らしい。友達の伊吹(柳英里沙)、篤子(藤村聖子)の完璧な自然体の演技には舌を巻くほか無いし、早知子(宮澤砂耶)、カツ代(本間るい)、浩太朗(森下翔梧)とみないい。よくもこれだけ自然な演技を引き出せたものだ。早知子が見舞いにきたそよの脚に抱きついて「そよちゃん!」と言う表情など、孫の相手をしている私のような老人が見ると、すぐ涙腺が緩んでしまう。

 学校の先生たちやそよに片思いの郵便局員のシゲちゃんやそよの母親など、みんな自然体の演技でこの映画全体を支えている。個々の役者の演技だけでなく、そもそもこの映画に描かれた世界全体が自然体という印象だ。

 この映画のパンフレットに浅見祥子という「映画ライター」が、「何度も思い出す切ない瞬間の中で、最も心に響くのが登下校のシーンだった。」と書いている。いいことを言うなぁ、と共感した。まさにそういう映画なのだ。

 暗がりに差し込む一条の光にきらきら輝く塵芥が、どんな宝石よりも美しく輝いてみえるように、その中にあれば何の変哲も無い日々のディテールに、この映画は一筋の光を当てて、透き通るような輝きを取り出している。

 ここには幼い恋のはじまりがある。でも、キスシーンでさえ、クライマックスを構成しない。「いっしょに歩きたいけぇ」という、そよの言葉に象徴されるように、ただそばにいることを感じながら一緒に歩き、不器用に触れ合う。

 島根弁だろうか、子供たちの話す土地の言葉がすばらしい。もちろん脚本家が周到に選び抜き、考え抜いて配置した科白であるに違いないのだが・・。 
 
 何が起きるわけでもない。山の音を聴きながら歩く。親しい人たちの眼差しの中で、友達や幼い子と声を交し合い、手をつなぎ、歌いながら歩く。青空と緑の中で、土を踏みしめるように歩く。ゆったりと過ぎていく時間の中で、小さな教室の机や椅子や窓や黒板と一つになる。

 「リンダ リンダ リンダ」の最後にある種のクライマックスを感じたせいか、少し山下監督の映画を誤解していたかもしれないな、とこの映画を見て思った。

 映画の興行政策上、ヒットしたマンガを原作にする映画がやたらに増えて、その映画作りの安易さと、それこそ悪い意味でマンガチックな内容にうんざりすることが多くなった昨今だけれど、この映画はその種の作品とは違った。

 もちろん、「ジョゼと虎と魚たち」や「メゾン・ド・ヒミコ」の脚本家の脚本が一級品でないはずはないし、その脚本家(渡辺あや)が自分の「バイブル」とまで言う原作(くらもちふさこ)がすぐれた作品でないはずもないだろう。この映画を見て、脚本と原作が読みたくなった。でも、山下さん、次は脚本もオリジナルで映画を作ってください。

 


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2007年08月18日

『肩ごしの恋人』(唯川恵)

 タイトルに引かれてずいぶん前に買ったのだけれど、読み出して、あまり好きになれそうにないな、と思って途中で放り出してしまった小説。

 でも、テレビドラマになっていると聞いたので、もう一度読んでみようと気を取り直して、暑さしのぎに読んでみた。今度は一気に読んでしまえたけれど、やっぱりこの手の小説はあまり好きになれない。

 作者はほんとうに達者な人で、男女の造形も今風で、話の展開も巧くて、文章もお洒落なところがあって、いまの世俗のいろんな要素をうまく取り入れて飽きさせないし、きっと賢い、器用な作家なんだろうな、と思う。

 女性はこういう主人公や相棒の女性を自分や友人のだれそれに引き寄せて、ひょっとすると我が事のように面白く読めるのかもしれない。考えてみると作品が、というより、どうもこの種の女性が苦手なのかもしれない(笑)。

 リアリストで、そこそこ仕事もできて、自分のスタイルを持っていて、男を相対化する術を知っていて、男性に対しても人生に対しても世界に対しても冷めていて、シニカルで、まわりの男が馬鹿に見えて仕方が無い・・かのような、今ならどこにでもいそうな女性。

 でも、個人的な好みはこの際言わないことにして(笑)、冷静にこの作品がなぜつまらないか考えてみると、単なる幼児性を抜け出せないだけなのを、「純粋さ」と勘違いしているわがままな女性だとか、仕事ができ能力がある女(と自分で思っている)にもかかわらず、職場で浮いていて、上司にもめぐまれず、男性とは不倫だろうと15歳の高校生だろうと、自分の欲望に素直に従って(といいように自己解釈して)すぐに寝る女とか、素敵なゲイのおじさまたちとか、いまの世相風俗の先端(?)をふんだんに入れているけれども、それは週刊誌や三面記事の表面をなぞっているだけで、登場人物たちの行為にも考え方や感じ方にも人間関係にも、どこをとっても、なに一つ本当に新しいものなどない。

 ここに書いてあることは、みんな、今の世の中のどこにでもある、つまらないことばかりだ。ありふれたことを描くのは構わないし、すぐれた小説の多くは、日常茶飯の些事を素材としているだろうけれど、塵芥も蔵の中の闇に漏れる一条の光の中では宝石のように輝いて新鮮な感動をもたらすかもしれないが、だからといって、巷に溢れる塵芥を陳列すれば宝石になるというわけではない。
 
 問題はここに描かれた世相風俗の男女が、なにか新しいもののように、或るいは女性の感じ方や考え方や生き方として、なにか読者の心に訴え、読者の視線そのものを変えてしまうようなことであるかのように誤解していなければ成立しにくい作品だということだ。

 つまりこれは小説の形をしたテレビのタレント・ゴシップでもっているワイド番組であり、大衆週刊誌なのだろう。そういう番組や週刊誌は、どこにでもありそうな不倫と離婚だの、できちゃった婚だの、近親姦だの、セクハラだのを、さも特別な意味のある、大騒ぎして社会化するに値することのように、煽情的にとりあげては「事件」化する。

 小説の体裁をとり、巧みに物語化し、ときに洒落た言葉を書き付けはするけれど、表現の姿勢は、なにもワイド番組や週刊誌の煽情記事と変わらない。

 そういう番組や記事を愛好する人というのは、いつの世の中でもあると思うけれど、それはまさに「興味本位」の一時的な消費の対象でしかない。面白がって読む人も、内心では番組や記事やその作り手を馬鹿にしているところがある。

 昔、四国のある呉服屋へしばらく修行に行っていた京都の呉服屋の若大将をその地に訪ねたとき、その会社の女性がほとんど、あちらは社長のコレ、こちらは専務のコレ、と「もうしっちゃかめっちゃか」で、それを社員はみんな知っているけれども、表向きはみんな知らんことになってて、それを新参者の彼にみんなが「親切に」教えてくれる、というような話をして、部外者の私たちに面白おかしく喋りながら、「そやけど、そんなん、どこにでもある話やろ。それを微に入り細に入り聞かされるのも辛いで(笑)」とうんざりした顔をしていたのを思い出す。 

 そう、そら世の中にはなんぼでもそういう話はありますやろ。でもそれがどないしたん?もうよろしいやろ、そんな話は・・・と、少なくとも、四六時中ワイド番組を見たり、週刊誌を読みふけってばかりいたくはないと思う、たいがいの人が感じるのではないだろうか。

at 01:53|Permalink

2007年08月13日

「星々の舟」(村山由佳)

 2003年に直木賞を受けた作品で、去年文庫本になったとき買ったものの、ツンドクのままになっていた。たまたま机の下に埋もれていたのを「発見」して今日の通勤の往き帰りに読んだ。

 カバーに「短編連作」とあるけれど、これは一つの長編というべきだろう。ただ確かに西洋の近代小説のような立体的な構築物ではない。或る家族の三代にわたる歴史を、章ごとにその家族の異なるメンバーの視点から描いて連環している。

 異なる視点をとることで、ある章でこういう人物なんだな、と思い描いた像が次の章では相対化され、それぞれが多面性を持つ立体的な人間として浮かび上がってくる。

 戦争と戦後の問題、友情といじめ、父と息子、兄妹の近親相姦も、不倫、全共闘世代の社会への復帰の仕方とその後の問題、等々・・・ありとあらゆる問題群がこの一冊の中に盛り込まれている。

 そういう意味では、一つの家族の目を通して、戦中戦後の社会史が見えるようなスケールの大きさと、その時代を生きる家族ひとりひとりの生き方や人間関係を丁寧にたどるきまじめさがある。

 しかし、最初から最後までなにか一昔前の小説を読むような、ある種の古めかしさを感じる。たぶんこれが中間小説のスタンダードな文体なのかもしれない。堅苦しいところも奇を衒うこともなく、そこそこ知的で、分かり易い文章。

 様々な問題群は、たしかに描かれてはいるが、どれひとつとっても、文体として生きられてはいない。

                 *

 きょうも午後いっぱい、入試の相談コーナーに坐る。昨日ほどではなかったけれど、今日もお客様は多かった。学科別プログラムのほうは昨日よりわずかながら多かったようだ。

 きょうは少しではあったが、隣に坐ってくれた2人の学生さんとも話ができた。あかるく、ものおじしないキャラは、どこか「自信」を感じさせる。

 以前から感じてきたのだけれど、あたたかい家庭で愛情をたっぷり受けた育った子は、どこか生きる上での根源的な力のようなものや、対人関係でのコミュニケーションの基礎になる力が備わるものらしい。

 それは"self-esteem”(自尊感情)と呼ばれているものだろうと思う。いい意味での「自信」のようなものだ。

 そういう学生さんは我々老人やオジサンに対しても自然体で臨めるようで、人なつっこいけれど、ベタベタもしないし、逆に気取ったり、オドオドしたり、煙たがるということもない。距離感が自然だから、こちらも、気を遣わずに自然体でいられて、つきあいやすい。

 自分の若いころを振り返ると、彼女たちのように自然体ではいられなかったな、と思う。自信のなさ、自意識の過剰、対人関係の距離のとり方の不器用さ・・・それらは若いころには性格の問題として自己嫌悪の対象だった。

 けれども、歳をとって自分を自分としてあるがままに受け入れるほかなくなってくると、そのような自己形成そのものが、自分自身の主体的な意志でどうこうなるものではもともとなかったように思われてくる。

 物心がつくかつかぬかの3?5歳のころから足掛け7年にもわたる母の(療養生活による)不在が、以前にはただ事実としてそういうことがあった、ということでしかなかったけれど、自己形成に何らかの影響を与えないはずはなかっただろうなと思える。

 だからどうというわけもない。いまある自分を過去の外的な諸条件や家族や他者に帰しても、それはそれで虚偽に陥る。

 人間は可塑性に富んだ生き物なので、自分自身を成り立たせる条件そのものをいつも超えていくものだから、いまある自分は、自分で自分を超える超え方を示しているにすぎない、と言っても同じことだ。
 

at 01:58|Permalink

2007年08月10日

怪談(中田秀夫)/ アヒルと鴨のコインロッカー(中村義洋)

 「怪談」はハーンのほうではなく、円朝の「真景累ケ淵」が原作。ただし、だいぶ簡略化というか、人間関係も成り行きも変えてある。円朝の大作を映画としてこなすには相当な膂力が必要だろう。そういう監督が出て来るまで、当分おあづけなのだな、と思った。

 中田秀夫はメジャーになったあとの作品より、「女優霊」が好きで、ホラーというのは殆ど見ないから、まっとうな評価はできないけれど、私が見たホラーはつまらないコケオドシノおどろおどろしさに満ちたものばかりだけれど、その中で「女優霊」はほんとうに心理的な怖さのツボをおさえたホラーで、感心した。

 若い人にも勧め、何年か前にゼミで一度見せかかったのだけれど、一人どうしてもいやだというのがいて、「お母さんがそういうのは見てはいけませんと言いました」と言い張るので、我々は泣く子と保護者には勝てぬ(笑)から断念した。彼らはすぐれた文化の幅広い領域の経験の一端を欠いたまま出て行ったわけで、結局そういうのは自分にしか跳ね返ってこないから、本人の狭さは仕方ないけれども、ほかの子まで巻き添えにしたのは気の毒だった。

 最近は浮世絵を素材に美術史の講義をしても、保護者から(!)クレームがつくと聞いたことがある。まさかとは思うけれど、曽根崎心中を見せても、「心中はいけないと思います」というような答えにも何にもならない道徳的断罪をマジメにレポートに書くような学生があるから、ひょっとしたらそういうこともあるのかもなぁ、と空恐ろしくなる。

 ところで、今回の「怪談」で、「女優霊」的な恐怖を感じさせるところは、ほとんどどこにも無かった。最初の、新吉がお久と逢う瀬を楽しんだ後、江戸を出ようと元の住まいに戻ると、自分の屋敷で伏せっているはずの豊志賀が来ている。せめて死に水くらいはとって、と言われて、籠にのせて送り届けようとするところへ、豊志賀が死んだとの知らせが入る。

 そんな馬鹿な、いま送り届けようとするところじゃねぇか・・・と籠をあけると、中にいたはずの豊志賀の姿が無い・・・

 唯一、ここのところだけが、「女優霊」的なものを感じさせる。あとは手がにゅっと出たり、逆さづりがでたり、醜く変形した顔が隙間から除いたり、蛇が出たり・・・つまらないホラー並みの手管でしかない。(でも赤ん坊は怖かった・・)

 でも、もともと怖がらせるのが目的じゃなくて、原作では因縁話、映画では男女の愛憎の深さがテーマだから、そんなことをとやかくあげつらっても仕方が無い。

 それよりも、この映画のお楽しみは、なんといっても尾上菊之助の色気だろう。これはもう近年にない男の色気で、私の乏しい経験を振り返ると、長谷川一夫くらいしか匹敵する人が無い。いまの若い女性にはどう映じるか分からないけれど、少なくとも黒木瞳くらいの成熟した女性には、彼の色気は圧倒的な魅力を持つはずだ、と思わせる。(あとのキャストは必ずしも適役と思えないけれど。)

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 伊坂幸太郎の「アヒルと鴨のコインロッカー」については前にこのブログで書いたけれど、なかなか小説も良かった。でも、この映画はそれにプラス、とても良かった!

 前半はかったるいな、とも、わざとらしいな、とも思ったけれど、後半、松田龍平が出て来ると、あとはもう泣きっぱなしだった(笑)。まぁ近頃とみに涙腺が弱くなっているから、「セカチュー」見ても、クダララナイ、クダラナイと思いながら泣いているんだから、涙なんて全然アテにはならんけれど、でもこの映画は、マジ、良かった。

 脚本がいい。原作の良さを凝縮して、集中的に表現しているので、わかりやすくて、しかも力がある。もちろん原作にそういう潜在力があったんだ、ともいえるけれども、それを目一杯引き出したのはこの映画の作り手たちの手柄だ。

 瑛太も濱田岳も大塚寧々も良くて、とくに瑛太はいいけれど、それ以上に松田龍平の存在感にうたれる。原作を読んでとうにネタバレしているのに、観ると切なくて泣けてしまう。両隣の席が見知らぬ若い女の子たちだったので、わからんように涙を拭うのに苦労した。久しぶりに愛と友情をまっとうに描いた切ない青春映画を見せてもらった。

 

at 00:45|Permalink
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