2007年07月
2007年07月31日
「映画篇」(金城一紀)
金城一紀の小説は、以前に「GO]という、在日朝鮮人子弟の成長を描く自伝的な作品を読んだことがある。映画も観たが、小説も映画もどちらも良かった。
久しぶりに彼の作品「映画篇」を本屋で見かけて、通勤電車の往復の中で読んだ。映画のタイトルが各編についているので、幾つかの章で構成された長編かと思ったけれど、読んでみると映画をキーワードにして、弱い環でつながれた、それぞれ独立した五つの小品だと分かった。
巻頭に置かれた「太陽がいっぱい」は、「GO]の世界と重なる内容だけれど、恋ではなく、失われた友情が哀切な想いを込めて描かれ、この五つの作品の中では一番いいと思ったし、一番好きだ(末尾の4ページを除いては)。
映画が単なる道具立て以上の本質的な意味で物語を支える核になっているのも、この作品だと思う。ここに延々と羅列されるタイトルは、いまでは500円のDVDで誰でも見ることができる、ありふれた娯楽映画かもしれないが、それらを見続けることを友情の生命線のように信じ、必要とした2人の若者の切迫した
想いが私たち読者の胸をうつ。
どれも佳品で楽しませてくれたけれど、最後の「愛の泉」も良かった。これは部分的にとても面白いところがあって、「僕」といとこの「律子ねえちゃん」や「「かおる」、あるいは「浜石教授」や「司さん」とのやりとりが生き生きしていて楽しい。
帯に「エンターテインメント」という言葉が見えたが、その言葉に相応しいのはこの最後の作品だろう。
久しぶりに彼の作品「映画篇」を本屋で見かけて、通勤電車の往復の中で読んだ。映画のタイトルが各編についているので、幾つかの章で構成された長編かと思ったけれど、読んでみると映画をキーワードにして、弱い環でつながれた、それぞれ独立した五つの小品だと分かった。
巻頭に置かれた「太陽がいっぱい」は、「GO]の世界と重なる内容だけれど、恋ではなく、失われた友情が哀切な想いを込めて描かれ、この五つの作品の中では一番いいと思ったし、一番好きだ(末尾の4ページを除いては)。
映画が単なる道具立て以上の本質的な意味で物語を支える核になっているのも、この作品だと思う。ここに延々と羅列されるタイトルは、いまでは500円のDVDで誰でも見ることができる、ありふれた娯楽映画かもしれないが、それらを見続けることを友情の生命線のように信じ、必要とした2人の若者の切迫した
想いが私たち読者の胸をうつ。
どれも佳品で楽しませてくれたけれど、最後の「愛の泉」も良かった。これは部分的にとても面白いところがあって、「僕」といとこの「律子ねえちゃん」や「「かおる」、あるいは「浜石教授」や「司さん」とのやりとりが生き生きしていて楽しい。
帯に「エンターテインメント」という言葉が見えたが、その言葉に相応しいのはこの最後の作品だろう。
at 22:46|Permalink│
2007年07月30日
「ぶらんこ乗り」(いしいしんじ)
裏表紙のほうの帯に抜粋された本文中の一節に惹かれて読んだ。
でも、この一節が一番印象に残る文章で、あとは少々しんどかった。
4歳にして物語を書く「天才」である弟を、三つ年上の姉の目で語る趣向。天才ゆえに幼児にして人生の孤独を味わい、動物たちの言葉を理解してその物語を紡ぐ弟の姿を、姉の目と弟の紡ぐ物語の両方で複眼的に浮かび上がらせる。
ただ、<天才である幼児の物語>を本当に書くことは、どんな作家にとっても困難なことだと思う。読むほうは、どうしてもそこに違和感を覚えてしまう。それがこの作品の半分を支えているから、かなりしんどいな、というのが率直な感想だ。
この作家は巻末を見ると、絵本や子供向きの本も書いているらしく、これが初の長編だとある。私は絵本は好きだけれど、子供向きの小説やファンタジーの類は好まない。
それら「子供向き」の書物に垣間見える、大人が考えた「子供」の虚像に違和感を覚えてしまうからだ。作家のどこかに子供を舐めた緩みを感じてしまう。そういう違和感を免れる作品は稀な気がする。
(話は脱線するけれども、阿部昭が若い頃に子供のことを書いた小説などは、そういう匂いを微塵も感じさせず、子供の自然な姿が活写されていて、私はそのころはまだ子供がなかったけれど、愛読していた。もちろん「子供向き」の本でもなければ、ファンタジーでもない。)
作家の立場に立ってみると、「子供向き」でもファンタジーでもない、初めての小説作品としての長編を書くにあたって、幼い日に既に胸に宿る人生の孤独や悲哀の感情、愛する人との出会いと別れをめぐる哀切な想いをどう表現するかと考える。
そのとき、自分の記憶の中に埋もれている宝石の原石のようなエピソードを掘り出し、磨き、一筋に連ねて、それらを核にした作品を作っていくということは比較的自然な成り行きだろう。
そのときに、ただエッセイや思い出話ではなく、小説を書くというフィクショナルな構築の意志があれば、それらのエピソードをどんな仮構線の上に置くかを考える。
そこで、4歳にして物語を紡ぐ天才という、その孤独や哀切さを強調しうる人物が登場し、また彼が愛する、そして彼を理解し、愛してくれる姉の眼差しが設定される。
見当違いでなければ、そのようなこの作品の成り立ちは理解できる。
ただ、作者が表現したかったであろう、幼い胸にも既に兆す人生の哀感、失われて行くものへの哀切は、このような形でしか表現できなかったか、といえば、やはりフィクショナルな設定の仕方に無理があって、作者は誰がやってもそううまくはいきそうにない方法を選んでしまったように思えてならない。
でも、この一節が一番印象に残る文章で、あとは少々しんどかった。
4歳にして物語を書く「天才」である弟を、三つ年上の姉の目で語る趣向。天才ゆえに幼児にして人生の孤独を味わい、動物たちの言葉を理解してその物語を紡ぐ弟の姿を、姉の目と弟の紡ぐ物語の両方で複眼的に浮かび上がらせる。
ただ、<天才である幼児の物語>を本当に書くことは、どんな作家にとっても困難なことだと思う。読むほうは、どうしてもそこに違和感を覚えてしまう。それがこの作品の半分を支えているから、かなりしんどいな、というのが率直な感想だ。
この作家は巻末を見ると、絵本や子供向きの本も書いているらしく、これが初の長編だとある。私は絵本は好きだけれど、子供向きの小説やファンタジーの類は好まない。
それら「子供向き」の書物に垣間見える、大人が考えた「子供」の虚像に違和感を覚えてしまうからだ。作家のどこかに子供を舐めた緩みを感じてしまう。そういう違和感を免れる作品は稀な気がする。
(話は脱線するけれども、阿部昭が若い頃に子供のことを書いた小説などは、そういう匂いを微塵も感じさせず、子供の自然な姿が活写されていて、私はそのころはまだ子供がなかったけれど、愛読していた。もちろん「子供向き」の本でもなければ、ファンタジーでもない。)
作家の立場に立ってみると、「子供向き」でもファンタジーでもない、初めての小説作品としての長編を書くにあたって、幼い日に既に胸に宿る人生の孤独や悲哀の感情、愛する人との出会いと別れをめぐる哀切な想いをどう表現するかと考える。
そのとき、自分の記憶の中に埋もれている宝石の原石のようなエピソードを掘り出し、磨き、一筋に連ねて、それらを核にした作品を作っていくということは比較的自然な成り行きだろう。
そのときに、ただエッセイや思い出話ではなく、小説を書くというフィクショナルな構築の意志があれば、それらのエピソードをどんな仮構線の上に置くかを考える。
そこで、4歳にして物語を紡ぐ天才という、その孤独や哀切さを強調しうる人物が登場し、また彼が愛する、そして彼を理解し、愛してくれる姉の眼差しが設定される。
見当違いでなければ、そのようなこの作品の成り立ちは理解できる。
ただ、作者が表現したかったであろう、幼い胸にも既に兆す人生の哀感、失われて行くものへの哀切は、このような形でしか表現できなかったか、といえば、やはりフィクショナルな設定の仕方に無理があって、作者は誰がやってもそううまくはいきそうにない方法を選んでしまったように思えてならない。
at 17:18|Permalink│
2007年07月29日
「葉桜の季節に君を想うということ」(歌野晶午)
前々から少し気取っているけれど気になるタイトルとペンネーム、それを印刷した綺麗なカバーの文庫本が書店で平積みになっているのを眺めてはいたけれど、ミステリーと銘打ってあるので、敬遠していた。
けれども、大きな書店で、ますますその平積みの面積を大きく占めるにいたって、そんなに売れているのかな、そんなに面白いのかな、と、とうとう買ってしまった。
「日本推理作家協会賞受賞」、「本格ミステリ大賞受賞」、「これが現代ミステリーのベスト1です」という帯の謳い文句が背中を一押ししたことも否めない。なんのことはない、出版社がその時々売りたい本の宣伝文句に煽られて右へ倣えで少し遅れて流行を追っかける典型的なミーハー消費者だ。
読み出してすぐに、ずいぶん読みづらいな、と思ったけれど、最後までその印象はあまり変わらなかった。いくらミステリーでも文章が下手だと、行く先が楽しみでもオンボロ車に乗って不愉快な振動や騒音や悪臭に悩まされながらドライブするような感じで、目的地へ着いても、ああここですか、景色いいですけどちょっと疲れちゃいましたね、ということになる。
ところが、この作品に関する限り、その文章の「下手」さは、意図的なものであることが、作品の最後のほうのネタバレで、あぁ、そういうことか、と分かるところがある。
語り手の「俺」が騙されているのはいいけれど、作者には企みがあって、その「俺」や相方にはごく当然分かっていることを、書き手がわざと曖昧にして読者に気づかれないようにしていることがあるのだ。
ちょっと注意して読めば平成何年何月何日、とかちゃんと日時が示してあったりするし、勘のいい読者はすでにタイトルで気づくかもしれない(それはないか?・・笑)。
しかし、ミステリーは斜め読みして先へ先へと読み急いで楽しむものだと心得ている、私のような(たぶん)多くの読者は、この作品を普通に読んでいくと、語り手の「俺」が作品の最後のほうになって明記される年齢だとは思わずに読んでいくだろう。
いくら交互に過去へのフラッシュバックがあっても、現在の部分との時間差がそれほどあるとは思わないだろう。そして、それは作者が意図的に、両者の時間的な距離感を短く感じさせるように仕組んでいることは疑うことができない。
例えば、「さくら」が線路に飛び降りる「出会い」の場面でも、普通は、その未知の女が何歳くらいだ、という描写は、小説ならば不可避のはずだ。そこのところは、「俺より若い女だ。キヨシよりは少し上、うちの妹と同い歳くらいか。」という語り手「俺」の抱く感想を充てて回避されている。
その「俺」や「妹」の年齢はほとんど作品のネタバレのところまでいかないと明かされない。これは登場人物たちにはみんな分かっていることだから、読者にだけ伏せられているわけだ。「巧みに伏せられている」と言いたいところだけれど、やっぱりとても不自然だ。
この作品の冒頭がセックスの場面から始まるところにも、作者が「俺」の年齢を隠蔽して、ことさら若く感じさせる意図がある。巻末の「補遺」の「セックス」の項目で80歳代の性生活についてのデータを挙げて、作者みずからその意図を明かしている。
「出会い」の場面など、「さくら」が、まるで初々しい少女のように描かれていることも、語り手「俺」の語り口が、あまり賢くない若い男のような語り口であるのも、作者が「賢くなくて文章が下手」なのでない限り(笑)、きわめて意図的なものと考えるほかはない。
でも、それは、あとで、「そうだったの、作者が伏せて若い男女のように思わせて読ませたかったわけね」とは思うけれど、そのとき読者は「見事に騙されたな」という印象を持たないだろう。「そうだとすれば随分不自然だったな」と感じ、「この歳の男の語り口ではないよね」と違和感を抱くだろう。
つまり、作品世界の人物がなるほどその年齢だと言われれば、そうだと思える、生きた語り口で語っていたと感じることはできず、「神」である作者が作品の外から手を突っ込んで、読者を騙すために、男に年齢不相応な不自然な語り口を強いていたな、という印象を抱かざるを得ないだろう。
読者にだけ伏せるのはルール違反だよ、と言う読者に対しては、ちゃんと日時まで明記してあるでしょうが、という言い訳が用意されているのだが、それでは済まないだろうと思う。
この手の企みは、ミステリーでは常套手段なのかどうか、ファンでない私には分からない。
クリスティの「アクロイド殺人事件」では、語り手には分かっている決定的なことが、わざと省略されて、読者の目に伏せられていた。しかし、アクロイドの場合は、語り手がそうせざるを得ない作品内部の必然性があった。「葉桜の・・」では単に「神」である作者が作品世界の外部から操作して読者の目から隠しているだけだ。
万能の神である作者は、作品世界の内部で生じることを、最後まで全部お見通しだし、幾らでも読者の目からある事実を隠すことができる・・・のだろうか?少なくともミステリー業界では、そういうのはルール違反ではなくて、ごく当たり前のことなのだろうか。
たぶん私があまりミステリーを好きになれないのは、そういうところかもしれない、と今回の作品を読んで、あらためて思った。
もちろん手品のように、手品師だけが種を知っていて、その芸を楽しむような作品があってもいい。途中の芸に不自然さがなく、その手品に騙されることが楽しめるならば。
でも、手品師がトリックを隠すために、私の目をひきつけておこうと他方の手で目くらましの動作をすることに、不器用な作為が感じられすとすれば、あとで種が分かっても分からなくても、私にはあまり楽しめないと思う。
昔、カミュの「異邦人」について、最初から殺しの犯人が分かっているような小説は、先に種を明かした手品みたいで面白くない、というふうなことを書いた日本の高名な作家だか評論家だったかがいたことをどこかで読んだことがあったけれど、そういう人にとっては、すべての小説は「神」である作家が作品世界を自由に(恣意的に)仕切っていて、華麗なるゴールにいたる道筋を、読者を楽しませながら引っ張っていく芸こそが「文芸」だ、ということになるのだろう。
でも、そういう意味では、私などが面白いと思った作品はみんな逆に、「ゴール」から始まっている。
カフカの「変身」は突然「虫」になってしまった男の話だし、ドストエフスキーの「罪と罰」は金貸しの老婆(とその妹)を殺してしまった男の話だ。私が一番好きな「パルムの僧院」のファブリスなどは、もう次から次へと想定外のコトを起こしてしまって、そのつど、そこから話がはじまっていく。
みんな、決定的なことが起きてしまったところから、物語が展開していく。そして登場人物たちは、殺人事件の謎解きをする探偵のように起きてしまったことの謎解きをするのではなく、その起きてしまったことに突き動かされて未知の時間へ踏み出していく。ミステリーとは、ちょうどさかさまだ。
けれども、大きな書店で、ますますその平積みの面積を大きく占めるにいたって、そんなに売れているのかな、そんなに面白いのかな、と、とうとう買ってしまった。
「日本推理作家協会賞受賞」、「本格ミステリ大賞受賞」、「これが現代ミステリーのベスト1です」という帯の謳い文句が背中を一押ししたことも否めない。なんのことはない、出版社がその時々売りたい本の宣伝文句に煽られて右へ倣えで少し遅れて流行を追っかける典型的なミーハー消費者だ。
読み出してすぐに、ずいぶん読みづらいな、と思ったけれど、最後までその印象はあまり変わらなかった。いくらミステリーでも文章が下手だと、行く先が楽しみでもオンボロ車に乗って不愉快な振動や騒音や悪臭に悩まされながらドライブするような感じで、目的地へ着いても、ああここですか、景色いいですけどちょっと疲れちゃいましたね、ということになる。
ところが、この作品に関する限り、その文章の「下手」さは、意図的なものであることが、作品の最後のほうのネタバレで、あぁ、そういうことか、と分かるところがある。
語り手の「俺」が騙されているのはいいけれど、作者には企みがあって、その「俺」や相方にはごく当然分かっていることを、書き手がわざと曖昧にして読者に気づかれないようにしていることがあるのだ。
ちょっと注意して読めば平成何年何月何日、とかちゃんと日時が示してあったりするし、勘のいい読者はすでにタイトルで気づくかもしれない(それはないか?・・笑)。
しかし、ミステリーは斜め読みして先へ先へと読み急いで楽しむものだと心得ている、私のような(たぶん)多くの読者は、この作品を普通に読んでいくと、語り手の「俺」が作品の最後のほうになって明記される年齢だとは思わずに読んでいくだろう。
いくら交互に過去へのフラッシュバックがあっても、現在の部分との時間差がそれほどあるとは思わないだろう。そして、それは作者が意図的に、両者の時間的な距離感を短く感じさせるように仕組んでいることは疑うことができない。
例えば、「さくら」が線路に飛び降りる「出会い」の場面でも、普通は、その未知の女が何歳くらいだ、という描写は、小説ならば不可避のはずだ。そこのところは、「俺より若い女だ。キヨシよりは少し上、うちの妹と同い歳くらいか。」という語り手「俺」の抱く感想を充てて回避されている。
その「俺」や「妹」の年齢はほとんど作品のネタバレのところまでいかないと明かされない。これは登場人物たちにはみんな分かっていることだから、読者にだけ伏せられているわけだ。「巧みに伏せられている」と言いたいところだけれど、やっぱりとても不自然だ。
この作品の冒頭がセックスの場面から始まるところにも、作者が「俺」の年齢を隠蔽して、ことさら若く感じさせる意図がある。巻末の「補遺」の「セックス」の項目で80歳代の性生活についてのデータを挙げて、作者みずからその意図を明かしている。
「出会い」の場面など、「さくら」が、まるで初々しい少女のように描かれていることも、語り手「俺」の語り口が、あまり賢くない若い男のような語り口であるのも、作者が「賢くなくて文章が下手」なのでない限り(笑)、きわめて意図的なものと考えるほかはない。
でも、それは、あとで、「そうだったの、作者が伏せて若い男女のように思わせて読ませたかったわけね」とは思うけれど、そのとき読者は「見事に騙されたな」という印象を持たないだろう。「そうだとすれば随分不自然だったな」と感じ、「この歳の男の語り口ではないよね」と違和感を抱くだろう。
つまり、作品世界の人物がなるほどその年齢だと言われれば、そうだと思える、生きた語り口で語っていたと感じることはできず、「神」である作者が作品の外から手を突っ込んで、読者を騙すために、男に年齢不相応な不自然な語り口を強いていたな、という印象を抱かざるを得ないだろう。
読者にだけ伏せるのはルール違反だよ、と言う読者に対しては、ちゃんと日時まで明記してあるでしょうが、という言い訳が用意されているのだが、それでは済まないだろうと思う。
この手の企みは、ミステリーでは常套手段なのかどうか、ファンでない私には分からない。
クリスティの「アクロイド殺人事件」では、語り手には分かっている決定的なことが、わざと省略されて、読者の目に伏せられていた。しかし、アクロイドの場合は、語り手がそうせざるを得ない作品内部の必然性があった。「葉桜の・・」では単に「神」である作者が作品世界の外部から操作して読者の目から隠しているだけだ。
万能の神である作者は、作品世界の内部で生じることを、最後まで全部お見通しだし、幾らでも読者の目からある事実を隠すことができる・・・のだろうか?少なくともミステリー業界では、そういうのはルール違反ではなくて、ごく当たり前のことなのだろうか。
たぶん私があまりミステリーを好きになれないのは、そういうところかもしれない、と今回の作品を読んで、あらためて思った。
もちろん手品のように、手品師だけが種を知っていて、その芸を楽しむような作品があってもいい。途中の芸に不自然さがなく、その手品に騙されることが楽しめるならば。
でも、手品師がトリックを隠すために、私の目をひきつけておこうと他方の手で目くらましの動作をすることに、不器用な作為が感じられすとすれば、あとで種が分かっても分からなくても、私にはあまり楽しめないと思う。
昔、カミュの「異邦人」について、最初から殺しの犯人が分かっているような小説は、先に種を明かした手品みたいで面白くない、というふうなことを書いた日本の高名な作家だか評論家だったかがいたことをどこかで読んだことがあったけれど、そういう人にとっては、すべての小説は「神」である作家が作品世界を自由に(恣意的に)仕切っていて、華麗なるゴールにいたる道筋を、読者を楽しませながら引っ張っていく芸こそが「文芸」だ、ということになるのだろう。
でも、そういう意味では、私などが面白いと思った作品はみんな逆に、「ゴール」から始まっている。
カフカの「変身」は突然「虫」になってしまった男の話だし、ドストエフスキーの「罪と罰」は金貸しの老婆(とその妹)を殺してしまった男の話だ。私が一番好きな「パルムの僧院」のファブリスなどは、もう次から次へと想定外のコトを起こしてしまって、そのつど、そこから話がはじまっていく。
みんな、決定的なことが起きてしまったところから、物語が展開していく。そして登場人物たちは、殺人事件の謎解きをする探偵のように起きてしまったことの謎解きをするのではなく、その起きてしまったことに突き動かされて未知の時間へ踏み出していく。ミステリーとは、ちょうどさかさまだ。
at 14:46|Permalink│
2007年07月27日
「ラッシュライフ」(伊坂幸太郎)
「ラッシュライフ」も面白かった。5人のもともと関係のない人物を現在進行形で章ごとに交代で追っていく構成は、流れがぷつんぷつん切られて、さすがに始めはうっとうしいが、テンポよく、ユーモアのある語り口、サスペンス、ハードボイルドな描写、巧みな物語展開に引かれて読み進むうちに、場所や人物が交錯し、重なってきて、やがて必然的な糸で結ばれていく手並みがなかなかのものだ。
人物も魅力的で、とくに泥棒インテリの黒澤は面白い。
*
昨日午後、今年卒業したOG2人が研究室へ遊びに来てくれた。3人で紅茶とケーキ、それにおもたせのクッキーなど食べながら歓談。
水曜日が休みだとのこと。2人とも元気そうだ。「どう?私たち変わった?」というから「いや、全然変わったようにはみえないけど」と応じると、がっかりした様子(笑)。
でも職場では色々あって、結構「成長した」とのこと(自称ですが:笑)。
卒業するとまずみんな毎朝早く起きて一日働かなくてはならない、そのこと自体が学生時代ののんびりさ加減とギャップがあってしんどい。
その次にくるのは人間関係。学生時代は気の合う人とだけつきあって、そりのあわない人とは知らん顔していれば済んでいた。教員との関係だって、こっち(学生)のほうが「お客」なんだから、さぼろうと勝手気ままにふるまおうと、規則さえ逸脱しなければ、うるさく言われることもない。結果が自分に降りかかってくるだけだ。
でも社会に一歩出れば違う。上司も同僚も自分で選べないし、どんなにそりがあわなくても、仕事を一緒にしなければならない。人間関係に慣れていないから、自分が相手からみてどう見えているかも分からない。「ほめて育てよ」なんていう馬鹿な教育論者のおかげで、親にも先生にも本気で叱ってもらったことがないから、上司にちょっと叱られても、幼児のようにめげてしまう。
だから最初はストレスが大きい。逃げずに乗り越えていければ、次は3年目くらい。少し仕事に慣れてくると、先の展望がないように思えて、このままでどうなるのだろう?という疑問が頭をもたげてくる。もう辞めようと思うんですけど・・・と、そのころになると言い出す人が結構多い。
そこをさらに乗り越えていくとホンモノ。自分の位置をちゃんとみつけていけそうだ。それまで頑張れ!
*
昨夕の梅田は天神祭の客の出入りでごった返していたが、以前に3?4回生合同ゼミに来てもらって喋ってくれた若い企業家Mさんとその後輩で長年地域活性化のための活動をつづけているYさんと3人で待ち合わせ、西天満の串焼き屋で夕食、楽しいひと時を過ごす。
若いけれど色々経験してきていて、地域の人脈も広いので、これからも学生さんの活動に色々相談にのってもらえるといいな、と思う。
*
今年は庭に蝉の声が聞こえないな、と思っていたが、さすがに祇園祭も過ぎて数日、カッと日差しが暑くなったとたんに一斉に鳴き始めた。これが始まると、早朝決まった時間に一斉に鳴き出すので、朝寝していられない。
それにしても、この蒸し暑さには参る。机の前の壁に首振り扇風機が取り付けてあって顔だけ涼しくなるようにしているのだけれど、そのせいか今日は喉を痛めたらしくて、カッと焼けるような痛み。
授業は終わっても採点やゼミ活動や、長期欠席者への対応や、その他もろもろの用で、のんびりしている暇がないどころか、うかうかすると、しなくてはならないこともできぬまま後期になだれこみかねない。
後期は授業も前期より多くぎっしり詰まっている上、仰せつかっている役目のほうの仕事で土日がどんどん潰れていく宿命にある。ヤレヤレ・・・
学生のみなさま、後期はわたくしめをアテにされませぬよう!(ナニ?はじめからアテにしてない?フム)
人物も魅力的で、とくに泥棒インテリの黒澤は面白い。
*
昨日午後、今年卒業したOG2人が研究室へ遊びに来てくれた。3人で紅茶とケーキ、それにおもたせのクッキーなど食べながら歓談。
水曜日が休みだとのこと。2人とも元気そうだ。「どう?私たち変わった?」というから「いや、全然変わったようにはみえないけど」と応じると、がっかりした様子(笑)。
でも職場では色々あって、結構「成長した」とのこと(自称ですが:笑)。
卒業するとまずみんな毎朝早く起きて一日働かなくてはならない、そのこと自体が学生時代ののんびりさ加減とギャップがあってしんどい。
その次にくるのは人間関係。学生時代は気の合う人とだけつきあって、そりのあわない人とは知らん顔していれば済んでいた。教員との関係だって、こっち(学生)のほうが「お客」なんだから、さぼろうと勝手気ままにふるまおうと、規則さえ逸脱しなければ、うるさく言われることもない。結果が自分に降りかかってくるだけだ。
でも社会に一歩出れば違う。上司も同僚も自分で選べないし、どんなにそりがあわなくても、仕事を一緒にしなければならない。人間関係に慣れていないから、自分が相手からみてどう見えているかも分からない。「ほめて育てよ」なんていう馬鹿な教育論者のおかげで、親にも先生にも本気で叱ってもらったことがないから、上司にちょっと叱られても、幼児のようにめげてしまう。
だから最初はストレスが大きい。逃げずに乗り越えていければ、次は3年目くらい。少し仕事に慣れてくると、先の展望がないように思えて、このままでどうなるのだろう?という疑問が頭をもたげてくる。もう辞めようと思うんですけど・・・と、そのころになると言い出す人が結構多い。
そこをさらに乗り越えていくとホンモノ。自分の位置をちゃんとみつけていけそうだ。それまで頑張れ!
*
昨夕の梅田は天神祭の客の出入りでごった返していたが、以前に3?4回生合同ゼミに来てもらって喋ってくれた若い企業家Mさんとその後輩で長年地域活性化のための活動をつづけているYさんと3人で待ち合わせ、西天満の串焼き屋で夕食、楽しいひと時を過ごす。
若いけれど色々経験してきていて、地域の人脈も広いので、これからも学生さんの活動に色々相談にのってもらえるといいな、と思う。
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今年は庭に蝉の声が聞こえないな、と思っていたが、さすがに祇園祭も過ぎて数日、カッと日差しが暑くなったとたんに一斉に鳴き始めた。これが始まると、早朝決まった時間に一斉に鳴き出すので、朝寝していられない。
それにしても、この蒸し暑さには参る。机の前の壁に首振り扇風機が取り付けてあって顔だけ涼しくなるようにしているのだけれど、そのせいか今日は喉を痛めたらしくて、カッと焼けるような痛み。
授業は終わっても採点やゼミ活動や、長期欠席者への対応や、その他もろもろの用で、のんびりしている暇がないどころか、うかうかすると、しなくてはならないこともできぬまま後期になだれこみかねない。
後期は授業も前期より多くぎっしり詰まっている上、仰せつかっている役目のほうの仕事で土日がどんどん潰れていく宿命にある。ヤレヤレ・・・
学生のみなさま、後期はわたくしめをアテにされませぬよう!(ナニ?はじめからアテにしてない?フム)
at 00:41|Permalink│
2007年07月24日
「UNloved」(万田邦敏)
若い映画制作者たちが、自分たちの前を疾駆する今をときめく先達として、黒沢清や青山真治と並び、憧憬と羨望の響きをこめて語る名前に、万田邦敏という人がいることには気づいていたけれど、新聞や雑誌で好評だったり、若い人たちの口コミでいい、いい、と言われてから、じゃぼちぼち見に行こうか、と重い腰を上げるお気楽な観客に過ぎない私は、まだ彼の映画を見たことがなかった。
ほかのビデオを探すついでに、偶然「Unloved」(2002)を見かけたので、DVDで拝見。楽しいメジャー映画を見慣れた目には、暗く、重く、芸大で映画を作っている人たちの自主制作映画を見るようなしんどさはあるが、奇を衒った「実験」映画や流行に乗っかろうとする「スタイリッシュ」な映画などとは違って、なにかこう不味いけれど実質的な飯を食ったような(笑)印象はある。
主人物の三十女(森口瑤子)の相手役で登場する男たち(中村トオル、松岡俊介)は、存在としていまの世の秩序にうまく乗っかっていようが、落ちこぼれていようが、いずれにせよ自分を見失って秩序の価値観にどっぷり浸り、上昇志向もあらわに、時代の状況に流されている。
ところが女性だけは最初から最後までぶれないで、頑なに自分の位置にとどまり、そこから繰り返し繰り返し飽かずに、男たちにノンを言い続ける。はじめは女の勤め先の上司と同じように、この頑なな女性を、「やりにくい」女性だな、と観客も感じるだろう。
ここにとどまらなくてはならないし、それ以外に自分の場所はあり得ない、という彼女にとって「自然」なありようが、日常生活における些細な事についての「こうでなくてはならない」という頑なさとして露出するとき、つねに愛し愛されたはずの男とぶつかる。
どこにでもありえる男女の諍い、口論。違うのは彼女が穏やかではあるが、決して妥協しないことだ。定点にとどまって、ぶれることがない。普通の会話は互いにしまいまで言わなくてもわかっているでしょ、という暗黙の了解ベースの上に交わされるものだから、他人が聞けばおそろしく断片的な言葉の交わしあいに聞こえるはずだが、彼女の言葉は違う。
まるで北京放送や平壌放送のアナウンサーの「完璧」すぎる日本語のように、語頭から語尾まできっちりと、落ち着きはらって発語され、「そうではなくて・・・」と、堂々たる論理的な物言いで相手に反論し、詰め寄る。
これはかなわねぇな、と私たち観客も思う。いちいち「完璧な」反論をされる男たちのほうに同情さえ感じる。「こうでなくてはいけない」「こうであってはいけない」といちいち指図されたくねぇよ、そんなことどうだっていいじゃん!なんでそう頑ななんだよ?自分は完璧に正しいのかよ?なんで「みんなと一緒」であろうとしないんだよ?自分がそんなに大事かよ?そりゃ、「みんな」もおかしなとこはあるだろうさ。だけど、ちょっとくらい妥協したっていいじゃん?・・・そう言いたくなる。
でも、不思議なものだ。そうして繰り返し繰り返し飽かずに語る女の言葉を聴かされ、それに反撥して苛立ったり、離れていったりする男のありようを見ていると、だんだんと男の姿がみじめにみえ、彼女のぶれないありようが大きく見えてくる。
まぁ、そうは言っても、彼女が決定的に出て行こうとする下川弘(松岡俊介)に、あなたがいなくなっても私はあなたのことを思いつづける、わたしにはあなたしかいないの、と泣き崩れる場面が無かったら、この女性を許せなかったかも(笑)。
そして、ドラマとしても、ラストの2人の手が重なるシーンは無かったはずだ。そこにいたるまでのほとんど映画が終わってしまったかのような長い空白に似た闇の時間が、ラストシーンで思いっきり生きる。
あの2人の重なる手は、まさかして「街のあかり」のカウリスマキさんのほうが万田さんのこれ見て真似っこしたんじゃないでしょうね?(笑)
ほかのビデオを探すついでに、偶然「Unloved」(2002)を見かけたので、DVDで拝見。楽しいメジャー映画を見慣れた目には、暗く、重く、芸大で映画を作っている人たちの自主制作映画を見るようなしんどさはあるが、奇を衒った「実験」映画や流行に乗っかろうとする「スタイリッシュ」な映画などとは違って、なにかこう不味いけれど実質的な飯を食ったような(笑)印象はある。
主人物の三十女(森口瑤子)の相手役で登場する男たち(中村トオル、松岡俊介)は、存在としていまの世の秩序にうまく乗っかっていようが、落ちこぼれていようが、いずれにせよ自分を見失って秩序の価値観にどっぷり浸り、上昇志向もあらわに、時代の状況に流されている。
ところが女性だけは最初から最後までぶれないで、頑なに自分の位置にとどまり、そこから繰り返し繰り返し飽かずに、男たちにノンを言い続ける。はじめは女の勤め先の上司と同じように、この頑なな女性を、「やりにくい」女性だな、と観客も感じるだろう。
ここにとどまらなくてはならないし、それ以外に自分の場所はあり得ない、という彼女にとって「自然」なありようが、日常生活における些細な事についての「こうでなくてはならない」という頑なさとして露出するとき、つねに愛し愛されたはずの男とぶつかる。
どこにでもありえる男女の諍い、口論。違うのは彼女が穏やかではあるが、決して妥協しないことだ。定点にとどまって、ぶれることがない。普通の会話は互いにしまいまで言わなくてもわかっているでしょ、という暗黙の了解ベースの上に交わされるものだから、他人が聞けばおそろしく断片的な言葉の交わしあいに聞こえるはずだが、彼女の言葉は違う。
まるで北京放送や平壌放送のアナウンサーの「完璧」すぎる日本語のように、語頭から語尾まできっちりと、落ち着きはらって発語され、「そうではなくて・・・」と、堂々たる論理的な物言いで相手に反論し、詰め寄る。
これはかなわねぇな、と私たち観客も思う。いちいち「完璧な」反論をされる男たちのほうに同情さえ感じる。「こうでなくてはいけない」「こうであってはいけない」といちいち指図されたくねぇよ、そんなことどうだっていいじゃん!なんでそう頑ななんだよ?自分は完璧に正しいのかよ?なんで「みんなと一緒」であろうとしないんだよ?自分がそんなに大事かよ?そりゃ、「みんな」もおかしなとこはあるだろうさ。だけど、ちょっとくらい妥協したっていいじゃん?・・・そう言いたくなる。
でも、不思議なものだ。そうして繰り返し繰り返し飽かずに語る女の言葉を聴かされ、それに反撥して苛立ったり、離れていったりする男のありようを見ていると、だんだんと男の姿がみじめにみえ、彼女のぶれないありようが大きく見えてくる。
まぁ、そうは言っても、彼女が決定的に出て行こうとする下川弘(松岡俊介)に、あなたがいなくなっても私はあなたのことを思いつづける、わたしにはあなたしかいないの、と泣き崩れる場面が無かったら、この女性を許せなかったかも(笑)。
そして、ドラマとしても、ラストの2人の手が重なるシーンは無かったはずだ。そこにいたるまでのほとんど映画が終わってしまったかのような長い空白に似た闇の時間が、ラストシーンで思いっきり生きる。
あの2人の重なる手は、まさかして「街のあかり」のカウリスマキさんのほうが万田さんのこれ見て真似っこしたんじゃないでしょうね?(笑)
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