2007年06月

2007年06月24日

「憑神」

 この映画は、率直に言って、つまらなかった。浅田次郎の原作は読んで面白かったし、いい俳優が出ているのに、なぜなんだろう?

 なんだか映画のつくりが古臭い。キサラギのような丁々発止のテンポがなくて、なんだがちぐはぐ。理念はキサラギのようなオタクの純愛であっても、「人は志のために死ねる」であっても構わない。でも、せめて語り口は、中身に相応しくぶっ飛んでいてほしい。

 奇想天外な話なのに、そう、きまじめなのだ。ブッキーはもともとオバサマ好みの若者の鏡的キマジメ俳優だし、死神チビマルコちゃんは皆勤賞もらえそうな心身の健康優良児、西田敏之も健全な釣りバカ日誌のキャラのままだし、赤井英和はブッキーの奥さん役や子役たちと同様に、俳優としての最小限の演技もしているようにみえない。

 水を得たように生き生きしているのは佐々木蔵之介だけ。これはもう、今日は尊王明日は佐幕、どんな世になろうとのらりくらり、しぶとく生きていくコズルイC調のキャラが、この俳優の持ち味だと思うしかないほど、嵌っている。

 香川照之や夏木マリ、あるいは鈴木砂羽は巧いけれど、役柄そのものがパターンでできていて、彼らの本領発揮というようなものではない。

 でもキャスティングの問題だけじゃぁないだろう。原作が面白くて、キャストも才能ある俳優たちがやっているのに、映画が面白くないとすれば、脚本が悪いか監督が悪いか、その両方が悪いか三つに一つじゃないだろうか。

 脚本は読んでないから今のところなんともいえないけれど、こういう映画になったところを見ると、どうも原作に「忠実」にやっちまったようだ。でも、浅田次郎の語り口を映像にするには、思い切って脚本を変えないと無理じゃぁないだろうか。

 原作では全然違和感のなかった三神の憑きを外していく展開が、映画では全然説得力がない。人間の宿命を象徴するこの三神が強いる(はずの)ほとんど外しようのない手枷足枷がどう外れていくのかは物語の軸になっているはずなのだけれど、肝心のその点が映画では原作でそういうことになってるの!という以上の必然性が感じられない。

 最初の「振り替え」は、物語内部のルールだからOKだけれど、ここでもネズミやら蝋燭やら登場させるのは余計なことだ。そういうことで映像の説得力だの合理性が増すと考えているとしたら、とんだ誤解だと思う。

 2番目、3番目はルールという論理的な必然ではなく、「情」の必然であるから、これはもうよほどのキャストがよほどの演出家の手腕で生きて演じないと、とてもこの種のぶっ飛んだ世界で、その世界なりの必然を感じさせるなんて芸当はできない。その至難を、この高名な監督さんは舐めているとしか思えない。きっとキマジメな監督さんなのだろう。

 この映画は原作を読む限り、もっともっと面白いぶっ飛んだ映画になるはずだった。貧乏神だって、原作どおり恰幅のいいいかにも大店の旦那然とした風貌でなくて、三木のり平(もう無理だけど・・笑)のような俳優にしてしまえばよかったし、九頭龍だってシコフンジャッタ的な痩せ蛙でもよかった。

 そんな形だけ原作をなぞるよりも、原作の笑いとペーソスをきちんと表現してほしかった。


at 17:12|Permalink

2007年06月22日

「キサラギ」

 京都シネマで「キサラギ」を見た。文句なしに面白かった。これは私の今年の邦画ベスト1になる可能性が大いにある。

 朝日でも日経でも映画欄以外のところで褒めていたとパートナーから聞き(私はどちらも読み損ねた)、行かないかと誘われたが、面白いらしいという脚本が、『ALWAYS 三丁目の夕日』の脚本家だと聞いて、期待して行かなかった。あの映画はヒットしたようだけれど、私自身は少しもいいと思わなかったからだ。

 ただ、役者の取り合わせが、私にはなじみの薄い若い二人も含めて面白く、去年『揺れる』でコワイほどの名演を見せた香川照之が入っていることもあって、この人たちが『十二人の怒れる男』のようなワンシチュエーションで組み合わさったら一体どうなるのだろう?という興味はあった。

 結果は役者については完全に当たり、見終わるとこれがベスト、と思えるような息のあった熱演で、ネットで知り合い、ハンドルネームで呼び合う初対面のアイドルファンらしい、表層をすべりにすべっていく丁々発止の盛り上がり。

 脚本は読んでないけれど、映画のほうは抜群に面白かった。笑えて泣けて、ジーンとくるところまであって、老夫婦価格1000×2を久しぶりに安い!と感じる出来栄えだった。

 平日の朝ということもあって、館内はわずか20人ほどの観客。予告編のつまらない作品群ばかりの映像断片が流れたあと、その延長のように自然に始まった本編は、その滑り出しの映像と音楽から、もうワクワクさせて引き込んでいくものがあった。

 よく「小説は最初の1行でわかる」、というけれど、今回はそれに似て、ほんとうに、「これは面白いぞ!」と直観した。

 その期待は裏切られなかった。引き抜き、ぶっ返り、どんでん返しの七変化、タマネギの皮をむくように、これでもかこれでもかと現れるスピーディーな展開。薄々気づいてもシラケる暇を与えないテンポのよさ。

 アイドルの死が開いた磁場に引き寄せられた五人五様のオタクの愛が交錯するミステリー仕立ての物語。きらめく言葉、間髪入れず応じる言葉、寄り添う言葉、突き刺さる言葉、惜しげもなく投げ込まれる笑いと涙の種、火花を散らす台詞は言葉の殺陣を見るよう。演技の誇張もこの作品に嵌って心地よい。

 唯一の欠点はラストの蛇足。これは制作スタッフの間で、必ずや議論を呼んだはずだが、監督は切らなかった。でも私はぜったいに切るべきだと思った。

 どこで切るか?見ている最中は、順を踏んで見ていて先に何が用意されているか知らないから、星空にアイドルの像が浮かんだあたりかと思った。それでも十分にファンの思い、アイドルとは何か、すべてがそれまでに観客の胸に届いている。

 でも、ビーチで歌い、走る、「歌も踊りもできない」「ズン胴の」アイドルの姿は絶対に必要だ。これが実にいい。それまで巧妙に隠されてきたアイドルの「なま」の顔かたちを見せるかどうかは一つの選択肢だ。でもこれは絶対に見せて良かった。聞かせてよかった。

 そして、彼女(の映像)と一緒に踊る5人。見終わると、これがないと絶対にダメだ!という気になっているから不思議だ!

 でも、宍戸錠は要らない。この嫌いではない大ベテランの老優には悪いけれど、彼が出てくることはなかった。

 思うに、監督(たち)は、ミステリー作品のように唯一の正解をつくりたくなかったのだろう。観客にめでたしめでたしの安心感を与えたくなかったのだろう。

 リーフレットに相田冬二という「ライター」が、この作品は「通り一遍のジャンル映画ではない」と言い、・・・よくある「犯人はこの人でした」とか「真実はこうでした」と観客を安心=納得させるような、ヤワなエンタテインメントとは地平が違う。・・・といったことを書いている。

 こういう発想自体が通ごのみのパターン化した不自由な理念で、偉大なエンターテインメントはむしろ「真実はこうでした」という偉大なマンネリズムの土俵で、謎解き自体を相対化してしまう大きな笑いや涙を誘うことができるものだと思う。

 理屈で「真実はこうでした」というような「よくある」パターンはタブーだ、なんて思っているから、とってつけたような、謎でもなんでもない「謎」なんかが蛇足で付いてしまう。

 創るということは本当に難しいものなんだな、と思わずにいられない。監督をはじめとする作り手は、作品自体が動き出したら、もう手を放さないといけない。すでに人物たちが生き始め、互いにかかわりをもち、観客とも抜き差しならない関係に入っているのだから、作り手の「理念」などで勝手に、その世界の外から手をつっこんでもらっては困るのだ。

 昨年のベスト1はどうみても「フラガール」ではなくて「揺れる」だった。(ほかにもっとすぐれた邦画があれば別だけれど、フラガールがペストだというならば・・・)。
 今年は「キサラギ」であってほしいと思うけれど、この最後の蛇足でその種の審査の評価は割れるに違いない。そのためにこれがベストにならないとすれば残念だ。「揺れる」には、そうした隙はなかった。

at 00:37|Permalink

2007年06月04日

若冲展

 30年ほど前にロスのカウンティミュージアムで、プライスコレクションを見て、趣味じゃないな、と思っていたので、最近になって若冲がえらい人気で、展覧会に100万人も入ったと聞いても、ふーん、とやり過ごしていたのだが、この機会を逃すと次は120年後しか見られない、とかいう脅し文句に、重い腰をあげてパートナーと二人で見に行った。最終日で、展示場へたどりつくまで3時間、観覧に1時間、計4時間の工程だった。

 かつての職場の隣にあって、いつでも行こうと思えば行けたのに、よりによって最終日に行くのも酔狂だが、成り行き上仕方なし。久しぶりにパートナーとゆっくりお喋りし、ここちよい初夏の松風に吹かれ、奇特な数千人の来館者の列を眺め、そう退屈はしなかった。

 肝心の若冲は、たぶんこの展覧会の目玉だろう襖絵、玉座の背景として描かれた葡萄図などが良かった。
 若冲はいまでいえば、画家ではなく、イラストレーターだ。魚介類など描いた図など、小学生向けの動物図鑑のあまり精密でないイラストそのもの。動物ではあるが、生命固有の動きがまったく感じられない。

 初期の書画を見れば、この画家は絵にも書にもあまり才能に恵まれず、エネルギーに乏しいことがわかる。動物たちの目にも書の筆づかいにも力がない。

 動物絵の中では、群鶏図や白凰図のような平面いっぱいに派手な色合いや図柄を置いたものがいい。釈迦三尊も東南アジアの寺院のような派手な色合いで、およそ仏教的な精神の奥行きを感じさせる要素がなく、表層的にあくまで表層的に視覚を楽しませるように平面に配置された図柄としての釈迦三尊がおわすばかりだ。

 若冲の才能は、襖であれ壁であれ、平面的なキャンバスの空間に、その「余白」を最大限に生かしながら要素を配置していく空間構成の才にあるようだ。

 むかし国際シンポジウムのパンフレットや報告書を行く種類もつくったとき、プロのデザイナーが学術的な内容の本文をどうデザイン的に処理するか興味深く見ていたことがある。
 そのときに、えんえんとつづく文字のフォントは、読みやすさを犠牲にしてでも小ぶりのサイズにし、ページの半分が空白になるほど、「余白」をデザイン要素として重視しつつ視覚的に鮮やかなページデザインをつくりだしていった。

 若冲の才能は、そのデザイナーのように、既存の絵柄を巧みに二次元空間に配置し、再構成する能力にあるようだ。目玉の藤の絵はその最も典型的な例だと思う。

 なぜいま若冲が若い人にまでもてはやされて、流行しているかは、この資質と無関係ではなさそうだ。若冲はイラストレーターであり、彼の「絵画」は、イラストであり、「ぬり絵」だと考えれば、もっとも基本的な性格に触れたことになるだろう。それは現代のCGのご先祖さまなのだ。

 あくまで表層的であり、難しい精神は要らない、視覚的に楽しめればよろしい、という若冲がアメリカ人に好まれるというのも、なんとなくわかるような気がする。

at 02:18|Permalink
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